フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑 好問堂 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (2)~同条完結 »

2021/08/12

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に 「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (1)

 

[やぶちゃん注:かなり長く、つい、やらないと宣言した注に、案の定、ハマってしまったので、分割して示す。以下の底本は吉川弘文館随筆大成版。] 

   ○「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病附錄

              著作堂主人稿

江戶麻布長坂のほとりなる「まみ穴」は、いと名だゝる地名なれば、しらざるものなし。沾凉が「江戶砂子」には、「雌狸穴」と書きたり。「雌狸」を「マミ」と訓ずるは、何に憑れるにや、しらず。こは、記者のあて字なるべければ、論ずべくもあらねど、貝原が「大和本草」には【卷の十六「獸の部」。】、稿を「マミ」とす。篤信が云、『マミ。タヌキとも云ふ。野猪に似て、小なり。形、肥えて、脂、多く、味よくして、野猪の如し。肉、やはらかなり。穴居す。其四足の指五つ、恰如人手指[やぶちゃん注:「恰(あたか)も、人の手の指のごとし。」。]。獵師、穴をふすべて捕ㇾ之。行くこと、おそし。獾は貒の類なり。狗に似たり。並に穴居す』といへり。又「本草綱目」【「卷五十一獸之二」。】、「獾」の下に、稻若水、和名を剿入[やぶちゃん注:「そうにふ」。立ち入れ書きをすること。単に挿入ではなく、独自の判断で敢然とするニュアンスである。]して、「マミ」とす。李時珍云、「貒豬也。獾狗獾也。二種相似而略殊。狗獾似小狗而肥。尖喙矮足。短尾深毛。褐色。皮可ㇾ爲裘領。」[やぶちゃん注:脱字がある(後注のリンク先原本で見られたい)。補って我流で訓読すると、「貒(たん/かん)は豬獾(ちよくわん)なり。獾は狗獾なり。二種は相ひ似るも、略(おほよそ)は殊(ことな)れり。狗獾は小さき狗(いぬ)に似て、肥えたり。尖れる喙(くちはし)、矮足(わいそく)たり。短尾にして、毛、深し。褐色。皮は裘領(きうりやう)[やぶちゃん注:毛の附いた皮革製の襟巻。]に爲すべし。」。]といへり。かゝれども、和名を「マミ」といふけだものは、なし。益軒、岩水の兩老翁、或は、「猯」を「マミ」と訓じ、或は、「獾」を「マミ」と讀ませしは、訛をもて訛を傳ふ、世俗の稱呼に從ふのみ。今、按ずるに、「獾」は「和名鈔」に見えず。「猯」は、和名「ミ」なり。「和名鈔」【卷十八。】「毛群部」、「猯」の下に、「引唐韻云、猯【音「端」。又。音「且」。和名「美」。】、似ㇾ豕而肥者也。「本草」云、一名「獾㹠」【「歡」「屯」二音。】。」と、いへり。只野必大が「本朝食鑑」にのみ、「和名鈔」を引きて、「貒」を「ミ」と讀めり。必大云、「貒頭類ㇾ狸、狀似小㹠。體肥行遲。短足短尾。尖喙褐色。常穴居。時出窃爪菓間食。本邦處々山野有ㇾ之。人多不ㇾ食。憔言能治水病。予昔略見ㇾ狀。然未ㇾ試ㇾ之。則難ㇾ辯爾。」【卷之十一「獸畜部」、「狸」の附錄に見えたり。】と、いへり[やぶちゃん注:正しくは「狸」ではなく「貍」の部のそれ。なお、馬琴の引用にはやはり脱字や誤字がある。補って訓読する。「貒(まみ)は、頭、狸の類にして、狀(かたち)、小さき㹠(ぶた)に似たり。體、肥え、行くこと、遲し。短足・短尾。尖喙(くちさき)、褐色。常に穴居す。時に出でて、瓜菓(くわくわ(かか))を窃(ぬす)み間食す。本邦、處々の山野に、之れ、有り。人、多く、食はず。惟(ただ)、言ふ、『肉の味、甘酸。能く水病を治す。』と。予、昔、略(ほぼ)狀を見る。然れども、未だ、之れを試みず。則ち、辯じ難きのみ。」。]。これらの諸說を合はせ考ふるに、近來、世俗の「マミ」といふけだものは、「ミ」を訛れるに似たり。則、「瑞」なり。又、田舍兒(ヰナカウド)は、是を「ミタヌキ」といふ。その面の、狸に似たればなり。いづれにまれ、「ミ」とのみは唱へがたきにより、或は「マミ」といひ、或は「ミタヌキ」といふにやあらむ。かゝれば、麻布長坂なる「マミ穴」も、むかし、「猯」の棲みたる餘波(ナゴリ)にて、その穴の、ありしにより、「マミ穴」と唱へ來れるなり、といはゞいふべし。しかれども、「猯」を「ミタヌキ」と云は、よりて來るあり。いかに、となれば、「猯」は、その頭、狸に似たり。「ミ」とのみは、唱の不便なるによりて、「ミタヌキ」といふ歟。又、「猯」を「マミ」といへるは、よりどころ、なし。いかにとなれば「猯」に、眞僞のふたつ、なければなり。よりて、再、按ずるに、かの麻布なる「まみ穴」の「マミ」は、元來、「貒」の事にはあらで、「鼯鼠」をいふなるべし。「鼯鼠」は和名「モミ」、一名は「むさゝび」なり。「和名鈔」、「鼯鼠」の下に、「引本草云、『鼺鼠【上音「刀」・「水」反、又「刀」・「追」反。】、一名「鼯鼠」【上音「吾」。和名「毛美」。俗云「無佐々比」。】』。「兼名苑注」云、『狀如ㇾ猨而肉翼似蝙蝠能從ㇾ高而下、不ㇾ能從ㇾ下而上。常食火姻。聲知小兒者也。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。いらんものがついたり、やはり字を誤っている。概ね画像に従って訓読する(一部の読みは推定)。「鼯鼠(モミ/ムサヽヒ) 「本草」に云はく、『鼺鼠(るいそ)【上音「力」・「水」の反、又、「力」・「追」の反。[やぶちゃん注:意味不明。「力」ではなく、カタカナの「カ」か。]】、一名は「鼯鼠(ごそ)」【上音「吾」。和名「毛美(もみ)」。俗に云ふ、「無佐々比(むささび)」。】』と。「兼名苑注」に云はく、『狀、猨(えん)[やぶちゃん注:ここは広義の猿の意。]のごとくして、肉の翼、蝙蝠に似たり。能く高きより下り、下より上ること、能はず。常に火姻を食らふ。聲、小兒のごとくなる者なり』と。」。]。かゝれば、「鼯鼠」の和名は「毛美」なれども、いとふるくより「むさゝび」とのみ、唱へたるにや。歌にも「モミ」とはよまず。「萬葉集」第三に、「むさゝびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも」といふ歌あるを見ても、知るべし。しかれども、古言は、多く田舍に遺るものなれば、むかし、關東にては、「鼯鼠」を、をさをさ、「モミ」とのみ、いひしなるべし。その證は、今も日光山のほとりにては、「鼯鼠」の老大なるものを。「モモンクワァ」といヘり。「モモン」は、「モミ」の訛なり。「クワァ」は、そが、鳴く聲なるべし。又、「高老」の義にても、あらん。物の老大なるを、「高老を歷たり」といふ、是なり。さて、この「もみ」を、下野にては「もんぐわあ」と唱へ、又、武藏にては、「まみ」といへるなるべし。【「モ」と「マ」と、音、通へり。】かくて、昔、麻布長坂のほとりには、人家もあらで、樹立、隙なく、晝も、いと闇かりけるころは、「鼯鼠」などの多く栖むべき所なり。故に「モミ穴」の名は遺れるにや。今も、小兒を㩲(オド)すに、「もんぐわあ」といふ。「鼯鼠」の狀は、いとおそるべきものなればなり。「マミ穴」の名の高かりけるも【今は、この穴、なし。】、これらを、もて、おもふべし。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]その處に、「鼯鼠」の棲みたる事は、あらずとも、いとおそるベき穴なりければ、「モミ穴」といひけんかし【今も、おそるべきものを、「もんくわあ」といふが如し。】。さるを、後の人は、「モ」を「マ」にかよはして、「まみ穴」と唱へしは、是亦、「魔魅」にもかよひて、「おそるべき」の義なり。且、「モミ」を「マミ」といふよしは、今、俗の、「のほきり」を「のこぎり」、「わたゝび」を「またゝび」といふたぐひなるべし。しかるに、本草者流は、その物をこそ、よく辯ずれ、多くは古言に疎く、和名にくはしからねば、「貒」、又、「獾」を「マミ」と訓ぜしのみ。そを、「當れり」と、すべからず。俗にいふ「マミ」は鼯鼠の事なるを、遂にいよいよ訛りて、「貒」の事とす。かゝれば、麻布なる「まみあな」を、眞名には「鼺鼠穴」と書くべし。江戶の地名を誌しゝものに、かばかりの考だもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。

[やぶちゃん注:以下の二段落、「奇病の評等、卽、是なり。」までは、底本では全体が一字下げ。]

附けていふ、安永七年の夏、信濃なる善光寺の阿彌陀如來、囘向院にてをがまれ給ひしとき、兩國橋の東のつめにて、「千年もぐら」といふ物を見せたり。「もぐら」は「ウクコモチ」の訛にて、「鼢鼠」の事なり。おのれ、尙、總角[やぶちゃん注:「あげまき」。]のころなりければ、親しく目擊したりけるに、その形は、小狗[やぶちゃん注:「こいぬ」。]に類して、毛は短く、薄黑に褐色を帶びたり。喙、尖りて、狸の如く、四足は「鼢鼠」に類して、人の手の指に似たり。その物、鐵の條もて、繫がれたるが、いと疲勞(ツカレ)たるやうにて、頭だも得擡げず。築山の如くに積みたりける砂の上に、臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは「鼢鼠」には、あらず、まことは「猪獾」にして、「貒」なること、疑なし。見せ物師などいふものは、只、あやしう珍らかなるを旨とするなるに、「貒」といふとも、「マミ」といふとも、大かたの江戶人は聞きしらぬものなれば、『「鼢鼠」の千載を歷たるなり』とて、欺きたるなり。當時の巷談に、「こは。本鄕なる麹屋の空室(アキムロ)より、夜な夜な、出でゝ、食を窃みしを、生捕りたるなり。」といへり。虛實はさだかならねども、空室の内なればとて、市中に栖むべきものにあらず。おもふに、好事のものゝ、畜ひけん[やぶちゃん注:「かひけん」。]貒の、放たれしより、麹屋の空室のかたに、穴して、久しく捿[やぶちゃん注:「棲」に同じ。]みたるものにやあらん。遙かに過ぎ來しかたをおもへば、こもはや四十八年のむかし語になりけるなり。

再いふ、松蘿館の「つくしだち」も程遠からねば、この小集をなごりとす。こは、いと、あかぬこゝちすなれば、又、一、二條を附錄とす。そは、『「ねこま」・「いたち」の和名考』・「奇病の評」等、卽、是なり。

 

[やぶちゃん注:『江戶麻布長坂のほとりなる「まみ穴」』現在の港区麻布狸穴町と麻布台二丁目の境界をにある長い坂「狸穴坂(まみあなざか)」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『沾凉が「江戶砂子」には、「雌狸穴」と書きたり』菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)。「江戸砂子」は江戸地誌。享保一七(一七三二)年刊。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

   *

○雌狸穴 長坂のひかし[やぶちゃん注:東。]。これも坂なれとも、こゝ、さのみ、穴ゝ斗いでて、坂とはいはす[やぶちゃん注:「言はず」。]。むかし、「此坂に雌狸(まみ)の住し大なる穴あり」とぞ。

   *

とある。

『貝原が「大和本草」には【卷の十六「獸の部」。】、稿を「マミ」とす』馬琴の引用は全文で、ほぼ正しく引用している。確認されたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここである。

「篤信」益軒の本名。

『「本草綱目」【「卷五十一獸之二」。】』「獾」国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年刊の訓点附きのここを見られたい。非常に読み易い。李時珍は別に、この直前で「貉」、次に「貒」を立項している。馬琴は無批判にそれらを引いて、そこに出る「貒豬」「」「」などを、ろくに種も判らぬくせに、ぞろぞろと出してしまっている。これには当時の読者にも甚だ戸惑ったはずである。そのくせ、前巻の終りの方に出る「狸」を指示していないのも致命的に拙い。無論、時珍は「狸」と「貉」と「貒」を主としては全く別のものとして認識しているのである。しかも、時珍自身の誤認もあり、大陸のそれであるからには、本邦にいない生物種である可能性もはなはだ高いのである。それに困ったのは、例えば寺島良安である。

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)」

は食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides であるが、本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である)。大陸産には幾つかの亜種がいるようではあるが、「本草綱目」では他に「貓貍」・「九節貍」・「五面貍」(別名「牛尾貍」)などという怪しげな類種をさえ掲げている。一方、「狢(むじな)」は本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma でよい。

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」

をまず見られたいが、良安は生物部では、明の王圻(おうき)と次男王思義によって編纂された類書「三才圖會」(一六〇九年出版)ではなく、「本草綱目」にメインの記載の殆んどを拠っているため、馬鹿正直に、同定しようがない、

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 (くわん) (同じくアナグマ)」

まで立項してしまっているのである。後二者はリンク先の私の種同定を見て戴きたいが、日本にはいないと判っていても、本邦の本草学者にとってはバイブル的な存在である「本草綱目」に従わざるを得ない状況が、蘭学が抬頭してくる幕末近くまで延々と続いたのである。しかし、馬琴は民間(但し、出は武家)の文人であり、生物種に特に詳しかったとは私には思われない。こういう机上で容易に得た智を中途半端に鬼の首を捕ったように披歴する傾向は、この時期の好古家に共通する悪い癖であり、その痛い部分をつつかれると、前に書いた美成と馬琴のような絶交状態に陥るという不幸がどこにでも頻繁にあったのである。

「稻若水」(とうじやくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は本草学者。元は稲生(いのう)若水と号したが、後に唐名風に姓を変えた。父稲生恒は淀藩(現在の京都市内)藩医。同藩江戸屋敷に生まれた。十一歳の時、大坂へ出て、古林見宜(ふるばやしけんぎ)に医学を、伊藤仁斎に経学を、福山徳潤に本草学を学んだ。延宝八(一六八〇)年、京都に移り、本草学を以って身を立てることとなった。元禄六(一六九三)年には金沢藩主前田綱紀に仕官し(隔年で藩詰)、「物類考」(後に「庶物類纂」と改名)の編纂を始め、中国(一部で朝鮮を含む)の古典籍数百点から、そこに記載された動植物・農作物・金石などに関する記事を書き抜き、これを種類別に纏めて再編集する壮大な企画で、全二十六類一千巻となる予定であった。しかし二十二年後に九類三百六十二巻(前編)まで脱稿したところで病没した。これは未完のまま前田綱紀から将軍吉宗に贈られている。「本草綱目」を始め、多数の漢籍から諸物のデータを集大成した意義は大きく、未完部分(後編六百三十八巻)と増補五十四巻が、後に門人丹羽正伯に編纂が命ぜられ、延享四(一七四七)年に完成した。若水の本草学は薬物・食物に留まらず、動植物全般を研究する博物学へと進み、弟子の松岡恕庵や恕庵の弟子小野蘭山らに受け継がれ、京都本草学の中心的役割を担った(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「岩水」若水の誤記。或いは底本の誤植。

『「和名鈔」【卷十八。】「毛群部」、「猯」の下に、「引唐韻云、猯【音「端」。又。音「且」。和名「美」。】、似ㇾ豕而肥者也。「本草」云、一名「獾㹠」【「歡」「屯」二音。】。」』源順の「和名類聚抄」(「鈔」とも書く)の巻十八の「毛群部第二十九」・毛群名第二百三十四に、

   *

猯 「唐韻」に云はく、『猯【音「端」。又、音「旦」。和名「美(み)」。】は豕(いのこ)[やぶちゃん注:猪。]に似て肥えたる者なり。』と。「本草」に云はく、一名『獾㹠(くわんとん)【「歓」・「屯」二音。】』と。

   *

ここに出る「本草」とは平安中期の医師であった深根輔仁(ふかねのすけひと 生没年不詳:欽明天皇の頃に百済を経由して渡来した呉の孫権の末裔と称する医家の一族の後裔。本邦に来てからは和泉国(現在の大阪府)大鳥郡蜂田郷に住んだので「蜂田」、医を業としたので「薬師」を名乗ったが、仁明天皇の承和元(八三四)年に深根宿禰の姓を賜った家が出て、分家した。輔仁は深根宗継を祖父とし、典薬頭菅原行貞の門徒として右衛門医師・権医博士・大医博士と累進し、名医として知られた)が延喜一八(九一八)年頃に著した、現存するわが国最古の本草書(漢和薬名辞書)「本草和名」。但し、中世以降、永く所在が不明であったが、江戸後期の幕医多紀元簡(たき もとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)が紅葉山文庫で写本を発見し、寛政八(一七九六)年に刊本にされて日の目を見た(原本写本はその後行方不明となった)。

『只野必大が「本朝食鑑」』「只野」は「平野」の誤り。思うに、気になっていた只野真葛の姓と勘違いしたものと私は思う。医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの。私はブログ・カテゴリで『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』を作ったものの、永く六年も放置したままである。やらなくては。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここだが、前には「狢」もあり、これを附録扱いにしている必大は、食用の動植物に限るという限定が作用してはいるが、いもしない動物を書き入れることへの抵抗感は、ある意味、学術的には非常にプラスに影響していると言えると私は思う。

「鼯鼠」『「鼯鼠」は和名「モミ」、一名は「むさゝび」なり』哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、

日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

であるが、また、同一種と誤解している方も多い(寧ろ、江戸時代まで区別されていなかった)と思うのだが、本文でも「モモンクワァ」と一緒くたにしている、別種で形態は似ているが、遙かに小さい、

リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga

も挙げておかねばならない。「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。

『「萬葉集」第三』「むさゝびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも」志貴皇子(?~霊亀二(七一六)年)の一首(二六七番)だが、現在は、

 むささびは

     木末(こぬれ)求むと

   あしひきの

       山の獵夫(さつを)に

           逢ひにけるかも

と訓読されている。

「をさをさ」明確に。きっちりと。

「モモンクワァ」残念ですが、馬琴先生、モモンガは鳴き声由来とする説が強いです。

「高老」は歴史的仮名遣で「コウラウ」で「クワァ」の音通とは言えませんよ、馬琴先生。

『小兒を㩲(オド)すに、「もんぐわあ」といふ。「鼯鼠」の狀は、いとおそるべきものなればなり』「ももんぐゎあ」「ももんがあ」「もんもんが」「ももんじい」「ももんが」等の呼称があり、モモンガ(誤認されたムササビも含む)が由来の幻獣。特に毛深い化け物・妖怪を指すとされた。また、目・口などを指で広げて舌を出し、恐ろしい顔をしたり、或いは、着物を頭から被って、肘を張って広げて実際よりサイズを大きく見せ、ふざけて子供などを脅したりする時に発する語である。夜行性で、実際の姿形が知られておらず、音もさせずに、空中を夜に滑空し、かなり奇体な多様な声で鳴く。夜の山中で知らずに聴けば、かなり薄気味悪い。されば、実態から離れて妖怪に仲間入りするのは、容易かったと思われる。

「のほきり」ウィキの「日本の鋸」によれば、『古代日本では、鋸の和名は「ノホキリ」と読み』、「新撰字鏡」(平安時代の昌泰年間(八九七年~九〇〇年)に僧昌住が編纂したとされる現存する漢和辞典としては最古のもの)には、『「乃保支利(のほきり)」と表記し』、「和名類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)の編纂)でも、『「能保岐利(のほきり)」と記されている』とある。

「わたゝび」小学館「日本国語大辞典」に、『植物「またたび(木天蓼)」の古名』として、出典には先に出した平安前期に成立した「本草和名」を挙げてある。

「しかるに、本草者流は、その物をこそ、よく辯ずれ、多くは古言に疎く、和名にくはしからねば、「貒」、又、「獾」を「マミ」と訓ぜしのみ。そを、「當れり」と、すべからず。」吉川弘文館随筆大成版では、『よく弁ずれ。』となっているのは、編集者が古文に「くはしから」ぬことを露呈している。ここは「こそ……(已然形)、~」の逆接用法だぜ? こんなところを見ると、結構、馬琴の誤字と思っていた部分は、ママ注記もなく、或いは、みんな、翻刻者の判読ミスか、校正の杜撰な結果であるような気がしてきたぜ!

『麻布なる「まみあな」を、眞名には「鼺鼠穴」と書くべし』だめですね、馬琴先生、ホオジロムササビもニホンモモンガも完全な樹上生活者で、巣は樹洞です。前に示した「江戶砂子」を見て下さいよ、「狸穴」坂には樹木に穴が一杯あったなんて書いてありませんよ。これはどう考えても、タヌキかアナグマの土中の巣穴ですよ。私の家の近くでも、昭和三十年代には、よく狸が車に轢かれて死んでいましたし、横浜緑が丘に勤務していた頃には、こんなこともありましたよ(私の怪奇談蒐集「淵藪志異」の「十」)。

   *

 一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室橫入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絶えたらんか。これこそ誠あはれなれ。

江戶の地名を誌しゝものに、かばかりの考だもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。

   *

全くの私の感じに過ぎませんが、麻布には、ホオジロムササビもニホンモモンガよりも、ホンドダヌキやニホンアナグマ の方が似合うし、実際の棲息可能性もそっちの方が高いと思いますがねぇ。

「安永七年」一七七八年。

「夏、信濃なる善光寺の阿彌陀如來、囘向院にてをがまれ給ひし」善光寺の出開帳でも空前の人出を記録した回向院でのもの。「回向院」公式サイトのこちらによれば、六十日に亙って行われ、実に一千六百三万人の参詣があったとも云われているとある。典拠は太田南畝の「半日閑話」とある。所持するので調べてみたところ、確かに「巻十四」に「善光寺如來開帳」の条はあるものの、この数字は記されてはいないので、注意されたい。ネット上には、この数字が南畝によって記されている思い込んで転写している人が複数いる。

『小狗に類して、毛は短く、薄黑に褐色を帶びたり。喙、尖りて、狸の如く、四足は「鼢鼠」に類して、人の手の指に似たり。その物、鐵の條もて、繫がれたるが、いと疲勞(ツカレ)たるやうにて、頭だも得擡げず。築山の如くに積みたりける砂の上に、臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは「鼢鼠」には、あらず、まことは「猪獾」にして、「貒」なること、疑なし』やりました! 馬琴先生! 大当たりです! これは総ての条件が、ニホンアナグマ Meles anakuma に当て嵌ります! 僕は少年の馬琴先生の目になって、その情景が髣髴しました!!!

「こもはや四十八年のむかし語になりけるなり」発表の時制は文政八(一八二五)年の二月八日で、曲亭馬琴は明和四年六月九日(一七六七年七月四日)生まれ(没したのは 嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日))であるから、「四十八年前」は安永六(一七七七)年か翌安永七年である。とすれば、馬琴は満で十或いは九歳の頃の記憶である。

『松蘿館の「つくしだち」』「筑紫立ち」。会員の一人「松蘿館」西原好和は、風聞宜しからずによって幕府から国元筑紫(柳河藩)への国元蟄居の譴責を受け、この年の四月に江戸を退去している。冒頭の大槻氏の序の解説を参照。]

« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑 好問堂 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (2)~同条完結 »