曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第二集) 神靈
曲亭馬琴「兎園小説」(正編)
○神靈 輪 池 堂
いぬる朔日、耽奇會に行かんとせし折から、若狹國の妙玄寺の住持釋義門、訪ひ來ぬ。『折あしくて、遲刻せしは本意なし。』とこゝろせかるゝに、何くれと、かたらふ内に、今日の料になるべきことを聞き得たれば、それにて、思ひ、のどめぬ[やぶちゃん注:落ち着かせた。]。そもそも、淺草報恩寺、もとは下總國飯沼に在り。開基を性信[やぶちゃん注:「しやうしん」。]上人と云ふ。常陸國鹿島郡の產にて、在俗の時は與四郞と云ひ、又、惡四郞といふ。十八歲になりし時、「法然上人に謁して佛敎をきかん」と請ふ。上人、親鸞をして敎化せしめられしかぱ、たちまち、發心して、剃髮染衣の身となり。親鸞左遷の時も、隨身して北國に在り。廿五年が間、かたはらを去らず。歸路に及びて、鸞師の命をうけて、飯沼にゆき、この寺を建立せり。そのとしの冬、老翁來て、聞法隨喜して、「我は是、飯沼の天神なり。師の爲に永く擁護すべし。」とのたまひき。天福元年[やぶちゃん注:一二三三年。]正月十日、天滿宮、禰宜が夢枕にたゝせ給ひ、「師恩の爲に、みたらしの鯉をとりて、報恩寺に贈るべし。」と告げ給ふによりて、鯉二口をとりておくる。性信聖人、これをうけて、鏡もちひ、二を、奉りしより、恆例となれるとは、物にも見え、世人も、しりたる事なり。然るに、飯沼よりこゝにおくること、用途、少からず。禰宜等、評議して、やめむ事をはかり、「二年申しおくりけるは、年ごとに、費用、たやすからず。其寺よりも初穗として、こがねにて備へ給へ。」といふ。寺僧のこたへに、「この費、神託より、おこりぬれば、さらに私の事にあらず。用途給しがたくば、やむるも、心に任せらるべし。」となり。禰宜等、謀りしことなれば、「さらば、やめん。」とて、やめたり。そのとし、祭禮の日に、大木、折れて、あやまちなど有り。池の鯉も絕えにたれば、「是、たゞ事にあらず。神怒のとがめなるべし。」とて、おとゝし【文政七年。】より、又、もとの如く、おくる事になりぬ。神威のいちじるきこと、あふぐにあまりあり。ことし正月十七日に、その鯉を料理せしとて、拙僧もまねかれて、賞味せし時、住持の、「歌、よめ。」と、こはれしかば、よめる、
千代にこそたてまつらめと飯沼の神は契をたがへざりけり
となん有りける。
[やぶちゃん注:「耽奇會」この「兎園会」に先立って、文政七(一八二四)年五月十五日より、山崎美成が中心となって定期的に開催された(文政八年十一月十三日まで二十回を数えた)、珍奇な古書画や古器物を持ち寄って考証を加える会合(文政八年には本会と重なって行われた)。耽奇会の会員は曲亭馬琴・屋代弘賢・谷文晁などで、一部のメンバーは「兎園会」と重なっていた。しかし、出品された「大名慳貪(だいみょうけんどん)」という道具(饂飩箱は、本来は饂飩(うどん)を入れて出したり、それを運ぶのに用いる箱で、これは、その豪華なもの)の「慳貪」という語を巡って、中心メンバーであった美成と馬琴が書簡で激しく論争し、二人は文政八年三月に絶交するに至った。これも「耽奇漫録」として美成の序跋で文政七・八年に纏められたが、上記の経緯から、馬琴の序を持つ別本もある。
「淺草報恩寺」現在の東京都台東区東上野にある真宗大谷派高龍山謝徳院報恩寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「坂東報恩寺」と通称される。
「下總國飯沼」ウィキの「報恩寺」によれば、元は下総国横曾根(現在の茨城県常総市横曽根新田町がここにあるが、新町が気に入らない。以下で最後に跡地のことが出るので、それに従えば、茨城県常総市豊岡町のここである。なお、「飯沼」という名はリンクした地図の東端に流れる川名に残っているから、この一帯の古名であろう)にあった真言宗の荒れ寺であった大楽寺を、性信(後注参照)が念仏道場として再興したのが、浅草報恩寺の濫觴であった。その後、慶長五(一六〇〇)年に兵火によって焼失、寺を江戸に移した。当初は外桜田に移し、後の寛永二〇(一六四三)年に八丁堀へ移したが、明暦三(一六五七)年一月十八日に発生した「明暦の大火」により、浅草本願寺東門内の広沢新田に移転、さらに文化三(一八〇六)年三月四日の「文化の大火」で、浅草本願寺とともに焼失してしまい、文化七(一八一〇)年になって、この現在地に移っている。なお、横曾根の跡地は文化3(一八〇六)年に本堂が再建され、当初は聞光寺と号し、後に坂東報恩寺支坊となって、現在は下総報恩寺と通称されて現存する。さらに、この寺には「坂東本」と称される、元、坂東報恩寺が伝持してきた「顕浄土真実教行証文類」(親鸞著の重要な解釈書「教行信証」の正式な書名)があって、これは現存する唯一の真蹟本で、国宝の指定を受け、真宗大谷派に寄贈され、京都国立博物館に預託されている(「坂東本」という通称は坂東報恩寺が所蔵してきたことに由る)ともあった。
「性信上人」(文治三(一一八七)年~ 建治元(一二七五)年)は俗名を大中臣与四郎と称し、常陸国鹿島郡生まれ。親鸞二十四輩の筆頭の高弟。元久元(一二〇四)年、熊野へ参詣した後、法然に師事して浄土教を学び、後に親鸞の弟子となった。下総国横曾根に報恩寺を建立し、横曾根・飯沼を中心とする横曾根門徒の中心的人物となった。鎌倉時代前期の幕府による念仏弾圧への対応で活躍した人物である。
「天滿宮」現在の下総報恩寺の南東直近にある天満宮であろう。
「みたらし」御手洗。神社の近くに流れていて、参拝者が手を清め、口を漱ぐ川のこと。現在の下総報恩寺や天満宮は東に鬼怒川、西に利根川が流れ、池沼も多い。ここかどうかは判らぬが、天満宮の東直近に池がある。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 百姓幸助身代り如來の事 / 第一集~了 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賢女 »