芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」
大正一四(一九二五)年五月一日(推定)・佐佐木茂索宛(封筒欠)
[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。「初稿」としたのは、二日の下島勳宛(後で掲げる)でも同名のスケッチが載るが、明らかに改稿した絵であるからである。キャプションは、標題は二十枠内で、
修善寺画巻
で、右から左に、中央と、その下(指示線附き)に、
澄江堂先生閑居之図
コノ本 片ヅイタコト ナシ
とあり、その左空中に指示線附きで、
コノ鳥ハ
ミソサザイ
とあり(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい)、その中央の池中に指示線附きで、
コレハ鯉
とある。その中央最下部に指示線附きで、
澄江堂先生散策之図
とあり、その「澄江堂先生」は吹き出しで喋っており、
「オソロロシイモノヂヤ ココマデ評判ヂヤ」
とあって、その視線の先の土塀には、相合傘(仐)に、右に、
もさ
左に
ふさ
と落書きされているのが判る。これは茂索(もさく)と妻のふさ(房子)のことである。二人は、この前月三月末に龍之介の媒酌で結婚しており、新婚ほやほやだったのである。その土壁の角の折れた左方には、
バンガイ
とあって、左に「へのへのもへじ」の落書きもある。左上方には、
鏡花先生同令夫人御幽棲之図
とある。向いが泉鏡花、背を向けて対座しているのが鏡花の妻「すず」である。
左下方には指示線附きで、
蠅ニアラズ
蝶ナリ
と注意書きしている。
なお、以下の標題の「新曲」は、底本では、ポイント落ちで、右から左へ横書き。]
【新曲】修善寺 いでゆもすみえ太夫作
思へば九月一日の、地震に崩れかかりたる、門や土塀を修善寺や、五分すすみし時計ゆゑ、六時五分は午後六時、君をはじめて御幸橋(みゆきばし)、酒のまぬ身のウウロン茶、カフエ、コカコラ、チヨコレエト、ヴィタミンCのありと言ふ綠茶はのめど忘られぬ君を藝者と菊屋にも、電燈ともる夕まぐれ、2×2=4(に にん が し)とは思へども、2×2=5六(に にん が ごろく)、七八度(ななや たび)、橋のたもとへ出て見たる、人の心も白糸の、瀧の英語はカタラクト、ラクトオゲンは滋養劑、自由にならぬ世の中の、波も新井屋わが宿に晝間來てゐる君見れば、ウタヒガタリあらかなしや、雪と見えしはおしろひの、剝げてわびしきエナメルやエナメルや額はビルディング千丈の壁を削り、眼(まなこ)凹(くぼ)める凄(すさま)じさはリフトの穴と申すべし、さりとはよもや賴家の墓もはかなき夕明り、ちらりと見たる祟りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける。
[やぶちゃん注:「御幸橋(みゆきばし)」修善寺温泉の入り口近くの、桂川に架かる橋の名であるが、前から「見ゆ」に掛けてある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。左手中央に現在もある新井旅館(桂川左岸)。
「コカコラ」現在のアメリカのThe Coca-Cola Companyの発売している「コカ・コーラ」(Coca-Cola)は、商品そのものとしては(最初の製造会社は全く別)、一八八六年(明治一九年)五月八日に販売を開始しており、日本では明治屋が大正八(一九一九)年に「コカ・コーラ」として発売を始めたのが、大々的な本格的普及の始まりのようである。但し、知られた高村光太郎の詩集「道程」(大正三(一九一四)年)に収録されている「狂者の詩」(明治四四(一九一一)年十一月二十一日のクレジットがある)に既に『コカコオラ』として銀座のカフェらしきところで飲んでいる場面が出るので、ハイカラな飲み物として明治末期には飲食店では既に供されていたことが判る。「国文学研究資料館電子資料館」の「近代画像データベース」のこちらで、当該詩集原本のその詩が読める。
「カタラクト」cataract 。但し、大きな瀧を指す語である。
「ラクトオゲン」英文綴りは Lactogen。粉ミルクの一種。「北多摩薬剤師会」公式サイト内の「おくすり博物館」の「おき薬紹介シリーズ」のこちらに、本邦の古い新聞広告画像と説明があり、そこには『いわゆる人工栄養、人工乳は大正に入って発売されましたが、そのうち』、『オーストラリア・メルボルンから輸入していた製品にラクトーゲンがあります。その』大正一〇(一九二一)年三月二十日附の『大阪朝日新聞』(芥川龍之介は依然としてここの社友であるから、恐らくはこの広告を見ている)『の新聞広告の裏面を御覧下さい。 広告の描かれた表面は後日ミルク、哺乳瓶等と一緒に解説いたしますが、多分』、『ラクトーゲンを飲んで育った子供達の投稿写真と思われる顔写真であふれています』。『明治維新』『から約半世紀で』、『ずいぶんと子供達を取り巻く医療、衛生、経済』等『の環境が激変したことに驚かされる次第です。それにしても大正時代は戦争の影も少なく、現代と比べても』、『ずいぶんとモダンな子供達も多く大事にされていたことにも驚かされます』とある。
「新井屋」宿泊してい旅館の名に「荒い」を掛けたもの。
「ウタヒガタリあらかなしや」「ウタヒガタリ」の文字は底本では「「あら」のルビのように打たれてあるが、これは浄瑠璃の調子を示すものであるから、前に上付きで示した。
「リフト」エレベーター。
「ちらりと見たる祟りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける」戯歌ながら、最後には、龍之介お得意の「煩悩即菩提」の片山廣子への切ない恋情が匂っている。佐佐木もそれを感じたに違いない。]
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