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2021/08/13

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (2)~同条完結

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 (2)

[やぶちゃん注:これ以前は、吉川弘文館随筆大成版を底本としたが、以下の部分は例の国立国会図書館デジタルコレクションの渥美正幹編輯になる「曲亭雜記」第一輯下編の、こちらにある「○ねこま。いたち考 奇病評附」に従う。やはり、吉川弘文館随筆大成版の「兎園小説」のものとは微妙に異同がある。読みは一部に留め、送り仮名として出した部分もある。また、返り点など、一部に明らかな誤植があるので、訂した。それはいちいち断らない。

 

    ○「ねこま」・「いたち」考 奇病評附

猫は「和名鈔」【「毛群部」。】に、『和名(わみやう)、「禰古萬(ねこま)」なり。』。しかるに、中葉(なかごろ)より下略(げりやく)して「禰古」といへり。「枕草紙(まくらざうし)」【「をきな丸」の段。】に、『うへにさふらふおんねこは云云』[やぶちゃん注:「おんねこ」は底本では「おへねこ」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]といひ、又、「源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」【「義仲跋扈」の段。】に、猫間中納言の猫に、「間」の字を添へたり。こは、「猫」一字にては、「ねこ」と讀む故に、「猫間」と書きたる也。これ、ふるくより、「ねこま」といはず、「ねこ」とのみ唱へ來れる證(あかし)なり。しかれども、彼を呼ぶときは、上略して「こまこま」といふ事、「枕草紙」【これも「おきな丸の段」。】に見えて、今も亦、しかなり。いづれまれ、略辭なれば、物には「ねこま」と書くこそ、よけれ。「契冲雜記」に、『猫は「ねこま」、「鼠子待(ねづみこまち)」の略歟。鼠の類に、「つらねこ」といふあれば、「ねこ」といふは、略語の中に、ことわり、背くベし。猫の性(せい)は、鼠にても鳥にても、よくうかゞひて、「必、とり得ん。」と思はねば、とらぬものなり。よりて、待(まつ)とつけたる歟。』といへり。その書の頭書に、『眞淵(まぶち)云、ねこは、たゞ、「睡獸(ねむりけもの)」の略なるべし。「けもの」ゝ「け」の字、反(かへし)、「こ」なり。或る人、『「苗(なへ)」の字につきて、なづけしもの歟。』といへるは、わろし。』といへり。解、按ずるに、兩說共に、ことわり、しかるべくも、おぼえず。「鼠子待」は求め過ぎたる憶說なれば、今さら、論(あげつら)ふべくもあらず。「ねむりけもの」ゝ義といへるも、いかにぞや、おぼゆ。大凡、睡きを好むけものは、猫にのみ限らず、狸・狢(むじな)・鼬の類、みな、よく睡るもの也。わきて、陽睡(そらねむり)を「たぬきねむり」と唱へて、ねむりは、「ねこ」より、「たぬき」・「むじな」のかたに、名高し。是等の和名(わみやう)に、「ねもし」をかけて唱へざりしをもて、「ねこま」の「ね」も、「ねむりけもの」ゝ義にあらざるを知るべし。さばれ、狸・狢の類(たぐひ)は、眞(まこと)の睡りにあらず、「そらねむり」なれば、「ね」といはずといはん歟。猫とても、熟睡(うまい)は稀にて、多くは「そらねむり」なり。かれが、いざときをもて、知るべし。且、『「けもの」ゝの字反、なり』[やぶちゃん注:底本は下線は右の二重傍線。以下同じ。]とのみいひて、下の「マ」の字を解かざるは、いかにぞや。前輩(せんはい)千慮の一失歟。いと信じがたき說(ときこと)なり。按ずるに、猫を「ねこま」と名づけしは、さるよしにあらずかし。猫は「ねうねう」と鳴くけものなれば、「ねこま」と名づけたり【猫の「ねうねう」となくよしは、是も「をきな丸の段」に見えたり。】。「こま」のと、五音、通へり。と、是れも、音、かよへり。こまけもにて、「けもの」ゝを略したり。是れ、『「ねうねう」と鳴く「けもの」』といふ義にて、「ねこま」といヘり【今も小兒は、猫を「にやあにやあ」といふ。その義、自然と、かなへり。】。かゝれば、「ねこ」とのみいへば、ねけ也。「こま」とのみいへば、けもなり【「の」ゝ字を略せり。】。いづれも略語の中に、ことわり、背くと、いふべからず。然れども、「ねこま」といふに、ますこと、なし。又、鼠の類(るゐ)なる「つらねこ」のねこは、「ねこま」のねこと、おなじかるべくも、あらず。こは、よく考へて追つてしるすべし。又、鄙言(ひげん)に、猫の老大なるものを、「ねこまた」といへり。この事、「つれづれ」に見えたり。又、くだりて、貞享中の印本(いんほん)、「猫又づくし」といふ繪草紙あり。又、「今川本領猫股屋敷(いまかはほんれうねこまたやしき)」といふ、ふるき淨瑠理[やぶちゃん注:ママ。]本もあり。此「ねこまた」は、丸太に「こた」などの如く、「ねこま」に「た」を添へて唱ふるにはあらで、「猫岐(ねこまた)」の義なるべし。猫の老大に至りて、變化自在(へんくわじざい)なるときは、尾のさきに、岐(また)、いで來て、ふたつに裂くることあり、といへば、老大にて岐尾(またを)なるものを、「ねこまた」といふ歟。こは、またく、俚言(りげん/サトビゴト[やぶちゃん注:右/左のルビ。]なり。又、按ずるに、に作るを正とす。「埤雅」に、「陸佃云、『鼠ㇾ苗。貓ㇾ鼠。故字從(シタガ)フㇾ苗。』。」[やぶちゃん注:「陸佃が云はく、『鼠は善く苗(なへ)を害す。貓(ねこ)は能く鼠を捕ふ。故、字、「苗」に從(したが)ふ。』。」。]といへり。「ねこま」を「なへけもの」ゝ義といへるは、これより出でたり。すべて、字體によりて、和名をとくものは、附會なり。信ずるに足らず。

 

[やぶちゃん注:『猫は「和名鈔」【「毛群部」。】に、『和名(わみやう)、「禰古萬(ねこま)」なり。』。』「和名類聚抄」の巻十八「毛群部第二十九」の「毛群名第二百三十四」に、

   *

猫 野王、案ずるに、『猫【音「苗」。和名「禰古万(ねこま)」。】は虎に似て、小なり。能く鼠を捕へて粮(らう)と爲す。』と。

   *

この「野王」は中国では既に失われた梁の顧野王「玉篇」の日本に伝わった古写本残巻によるもの。

『「枕草紙(まくらざうし)」【「をきな丸」の段。】』「枕草子」の通称「翁丸(おきなまろ)の段」(「をきな丸」の歴史的仮名遣は誤り)。但し、これは犬の名。一条天皇が寵愛し、あろうことか五位の位まで叙されていた猫「命婦(みやうぶ)のおとど」を襲ったため、蔵人たちに打たれて追放された哀れな犬である(猫の世話係りとされた「乳母(めのと)の馬(むま)の命婦」が、戯れて、寝ていて起きない猫を「食べておしまい!」と翁丸に命じたために飛びつこうとした事件(襲われてはいない)で、「乳母の馬の命婦」も更迭された)。この同書の初めの方にある長い話の主人公は、その犬の「翁丸」であるので注意されたい。されば、引用はしない。「うへにさふらふおんねこは」はその章段の冒頭。

「猫間中納言」藤原光隆(大治二(一一二七)年~建仁元(一二〇一)年)。ウィキの「藤原光隆」によれば、官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された』。「『平家物語」巻第八「木曾猫間の対面」においては、寿永二(一一八三)年に、入洛した『源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲の家で光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸』( 菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus )『の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである』とある。最後の話は、「芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 三 最後」の私の注で原話を引いてあるので読まれたい。壬生は一時期、「猫間」という地名を持っていたのである。馬琴の言はハズレである(大体からして彼の飼っていた猫を猫間にして、それを通称したというのは本末転倒で、凡そおかしなことではないか)。今はあまり聴かないが、古くは「猫」を含んだ地名や川名が、結構、あった。

「いづれまれ」吉川弘文館随筆大成版も同じで、そちらには「まれ」の右に『に脱カ』と編者註がある(「孰れにまれ」)。私は違和感なく読めてしまったが、確かに「いづれまれ」の用法はないようだ。

「契冲雜記」「万葉集」古注で知られる真言宗僧の古典学者で歌人の契沖(寛永一七(一六四〇)年~元禄一四(一七〇一)年の随筆「圓珠庵雜記(ゑんじゆあんざつき)」(元禄一二(一六九九)年成立・文化九(一八一二)年刊。古語の考証や解釈を中心としたもの。円珠庵は契沖の住んでいた庵の名。「古事類苑」の「動物部三」の「獸三」の「猫」の項に引いて、

   *

圓珠庵雜記 猫子コマ鼠子待(ネコマチ)の略か、鼠の類に「つらねこと」いふあれば、「ねこ」とのみいふは、略語の中に、ことわり、背くべし。猫の性は、鼠にても、鳥にても、よくうかゞひて、かならず取り得んと思はねば、とらぬものなり。よりて、「待ち」とつけたるか。

頭註

【眞淵云、「たゞ、睡獸の略なるべし、「けもの」ゝ反となり、或人、「苗」の字につきて、「なへけもの」か、といへるは、わろし。】。

   *

ここにあるように、嘗ては「鼠」(恐らくは大型のドブネズミ)を指して「つらねこ」「こねら」と呼んでいた事実があるようである。「産物帳記載の獣名一覧」というページには、「羽州庄内領産物帳」に載ることが示されてあり、一部表記が「■」であるが、『鼠,はつかねずみ,のらね(のねずみ),■■(つらねこ,こねら),水鼠(みずねずみ)』と前後が鼠である。

「睡獸(ねむりけもの)」吉川弘文館随筆大成版では『ネフリケモノ』とルビする。

『「けもの」ゝ「け」の字、反(かへし)、「こ」なり』よく意味が判らない。反切ならば、二字だから「け」(ke)の「k」と、続く「も」(mo)「の」(no)のそれぞれ共通の「o」を合わせて「ko」=「こ」ということだろうか。馬琴は直後に「も」を解説していないとあるから、ここは「け」と「の」の反切ということらしい。

「陽睡(そらねむり)」深い眠りではなく、意識が有意に覚醒している状態(「陽」)で寝ている、或いは、寝た振りをしているような状態として意味は分かるが、この漢字表記の方が、私は「いづれまれ」よりも躓いた。

「熟睡(うまい)」「熟寢」とも書き、「い」は「寝ること」の意で、ぐっすりと眠ること。熟睡。「うまいね」「うまね」とも。「日本書紀」に出る上代からの古語。

「いざとき」「寢聡き」。目が覚めるのが早い。目が覚めやすい。現代語でもある。

「五音」(ごゐん)は 五十音図の各行の五つのかなを表わす音。

「ますこと、なし」「增す」で、意味がさらに加わることか。

「つれづれ」「徒然草」。「古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀教法印の事」の注で電子化してある。

「貞享」一六八四年~一六八七年。

「猫又づくし」不詳。

「今川本領猫股屋敷(いまかはほんれうねこまたやしき)」「今川本領猫魔館」の誤りか、異名外題であろう。今川家の「お家騒動」に化け猫を搦めた、文耕堂・千前軒・三好松洛らによる合作人形浄瑠璃。元文五(一七四〇)年四月、大坂竹本座初演。

「埤雅」は「ひが」と読む。宋代の文人政治家陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)の著わした訓詁学書。]

 

猫よりも、猶、よく、鼠を捕ふるものは、鼬なり。この字、に從ひに從ふ[やぶちゃん注:下線は底本では一本傍線。以下同じ。]。按ずるに、に從ふよしは、形狀(かたち)をもて、す。に從ふよしは、は、讀みて、「猶豫(いうよ)」の「猶(いう)」の如し。鼬も、その性(せい)、疑ふものにて、人を見れば、走りつゝ、しばしば、見かへるものなり。よりてに從ふなるべし。譬へば、「狐」の字のに從ふが如し。は讀んで、「孤獨」の「狐」の如し。狐は郡居せざるものなり。よりて、その字、に從ふ。【「瓜」は、卽、「孤」なり。】

又、按ずるに、「いたち」は和名鈔【「毛羣部」。】に、「爾雅集註(じがしつちゆう)」を引きて、『鼬鼠(いうそ)【上ノ「由」音。】、狀(かたち)』云々(しかしか)、『今、江東呼(よんで)(なす)ㇾ鼪(せい)ト【音「生」。】和名(わみやう)「以太知(いたち)」。「揚氏漢語抄」云、鼠狼(そらう)也。』といへり。「いたち」の釋名(しやくみやう)は、白石の「東雅」、「契冲雜記」にも見えず。按ずるに、「いたち」の言は、「きたち」なり。又、「火たち」にも、かよふべし。と[やぶちゃん注:この二箇所はまた二十右傍線になっている。なお、吉川弘文館随筆大成版では『イとキとヒと』と「ヒ」も加わっている。]連聲(れんせい)なればなり。さて、鼬(いう)を「いたち」と名づくるよしは、此けもの、夜は樹にのぼり、或(ある)は、むらがりて、氣を吹くときは、火氣、天に冲(のぼ)ること、あり。俗にこれを「火柱(ひばしら)」といふ。この故に「いたち」と名つく。卽ち、「氣立(きたち)」也。又、「火起(ひたち)」也。「鼬(いたち)の火ばしら」の事、「本草綱目」に載せず。李時珍は知らざりしか。漏らせし歟。「大和本草」には、この事あり。鼬の怪は、これらにすぎず。彼が群居せし事は「平家物語」に見えたり。さばれ、させる怪には、あらず。しかるに、近頃、異聞あり。そは、「いたち」には、あらじ、とおもへど、因みに附錄すること、左の如し。

 

[やぶちゃん注:「鼬」ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(日本固有種。本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入によるもの))。博物誌は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。

『「いたち」は和名鈔【「毛羣部」。】に、「爾雅集註(じがしつちゆう)」を引きて、『鼬鼠(いうそ)【上ノ「由」音。】、狀(かたち)』云々(しかしか)、『今、江東呼(よんで)(なす)ㇾ鼪(せい)ト【音「生」。】和名(わみやう)「以太知(いたち)」。「揚氏漢語抄」云、鼠狼(そらう)也。』といへり』「和名類聚鈔」巻十八の「毛群部第二十九」の「毛群名第二百三十四」に、

   *

 鼬鼠(いたち) 「爾雅集注」に云はく、『鼬鼠【上音「酉」。】は、狀(かたち)、鼠のごとし。赤黃にして、大尾。能く鼠を食らふ。今、江東に呼びて「鼪」と爲す【音「性」。和名「以太知(いたち)」。「楊氏漢語抄」に云はく、『鼠狼(そらう)』と。】。

   *

この場合の「江東」は近江から東を指す。所謂、漠然とした広域の東国の意である。

「連聲(れんせい)」同じ「い」段であることを言うか。

なればなり。さて、鼬(いう)を「いたち」と名づくるよしは、此けもの、夜は樹にのぼり、或(ある)は、むらがりて、氣を吹くときは、火氣、天に冲(のぼ)ること、あり。俗にこれを「火柱(ひばしら)」といふ。この故に「いたち」と名つく。卽ち、「氣立(きたち)」也。又、「火起(ひたち)」也。「鼬(いたち)の火ばしら」の事、「本草綱目」に載せず。李時珍は知らざりしか。漏らせし歟。

『「大和本草」には、この事あり』次いでなので、電子化しておく。巻之十六の「獸類」である(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを視認し、私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】』の時と同じ仕儀で推定訓読した)。

   *

鼬(いたち) よく鼠と魚を、とる。家鴨〔(あひろ)〕に付きて、其の血を、すふ。鼠の血をも、すふ。體肉をは、食〔(くら)〕はず。身、軟かにして、竹筩〔(たけづつ)〕の内を、反轉して、出入りす。夜、樹木に上りて、焰氣を起こし、又、地上にも焰氣を發し、柱の形のごとし。俗に「火柱〔(ひばしら)〕」と云ふ。人、以つて「妖」と爲す。朝鮮に獷毛を以つて筆とす。是れ、鼬なり。又、山鼠〔の〕毛を用ゆ。一名は靑鼠。

   *

さても「血を」吸い、「體肉」は「食はず」とは既にしてヴァンパイア的大妖怪としての誤認である。イタチは非常に凶暴な肉食獣で、小型の齧歯類・鳥類のみならず、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する。「竹筩の内を、反轉して、出入りす」確かにイタチは柔軟な体を持ち、非常に狭い所でも体を上手くくねらせて、よく通り抜け通るが、私はこの益軒の謂いは、妖獣・妖怪としての「くだぎつね」(管狐)を連想していると考える。「くだぎつね」はごく小さく、竹筒の中に入ることが出来るとも言われるからである。「くだぎつね」はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは触れない。例えば、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の本文及び私の注を見られたい。

「山鼠」現行では齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus を指す。

『彼が群居せし事は「平家物語」に見えたり』「平家物語」巻第四の知られた「鼬沙汰」。紺雀(こんじゃく)氏の「日本古典文学摘集」のこちらで原文が読め、もある。]

 

文政四年辛巳の夏、江戶牛込袋町(ふくろまち)代地(たいち)なる町人友次郞が妹(いもと)【名は「梅」。】十四歲、奇病あり。このとし五月、神田佐久間町の名主源太郞が、この事を官府へ訴へ奉りし「うたへぶみ」の寫しを見たり。今その實を傳へん爲に、俗文ののまゝ謄錄(とうろく)す。かゝる事は、風聞、聽くとて、その事、實(じつ)なれば、向寄(もよせ)の肝煎・名主より、町奉行所へうたへまうす事なりとぞ。是も、そのひとつなるべし。

           牛込袋町代地金次郞店

                 友次郞妹

                    む め 巳十四歲

右友次郞儀者、當巳十七歲罷成り。時之物商賣致候者ニ而、店借名前ニ御座候得共、内實九歲之節より奉公致シ居、母・祖母・妹むめ、三人暮シにて、平生、洗濯物等致シ、聊之賃錢を取、漸、取續罷在候ものに御座候處、去辰八月中、むめ儀、下谷小島町藥種店に而松屋次助と申者、兼而、懇意ニいたし、無人之由申候間、右之者方へ預置候處、次助儀、同十月新右衞門町へ引越シ、むめ義も連參候處、一體むめ義、持病ニ癪有ㇾ之候處、新右衞門町へ引越シ候後も、何となく氣分惡敷罷成リ、入湯致シ候節、手足其外處々、腫、色付候儀なども有ㇾ之、奇病之樣子ニ而、次助儀、藥種渡世致候事故、藥用も致シ遣シ候得共、同樣ニ候間、去辰十二月中、宿へ引取候處、其砌、腕並ニ足膝等痛候義も兩度有レ之而已ニテ、追日、全快致候に付、先月晦日、神田お玉池御用達町人川村久七ト申者方へ、奉公に指出し候處、両三日過候得ば、亦又、氣分惡敷罷成り、食事も致兼候樣子に付、暇取、當月九日九時過、引取、介抱致候處、身ノ内處、頻ニ痛候旨申シ、甚苦ミ候間、痛ミ候處、捺リ遣シ候得共、乳之下、皮肉之間に針有ㇾ之、皮を貫き、先、出候に付、爪ニテ引拔遣シ候得者、猶又、同樣、襟ヨリ【襟は、猶、頂[やぶちゃん注:「うなぢ」。]をいふか如し。】一本、膝ヨリ二本、小用之節、隂門ヨリ三本、九日・十日兩日ニ出。何レも錆(サビ)無之絹縫針に有ㇾ之、右之趣、外科にも爲ㇾ見候得共塲處惡敷候故、療治致シ兼候段申ㇾ之候間、致方なく其儘差置候得者、同十四日・十五日頃より、段々快方ニ罷成リ此節、全快致候へ共、水落之邊ニ【「水落」は、猶、「鳩尾」といふが如し。】針、四、五本、殘り居候樣子に而、同廿三日朝、同所より長さ二寸餘も有ㇾ之候。木綿仕付針壹本、錆(サビ)候儘に而出候段、むめ、並に、同人母きん、申し候間、右ニ付、何ぞ存當り候も無ㇾ之候哉ト承糺候得者、むめ義、小島町に罷在候節、次助宅座敷、並に、二階等へ小便致シ候樣子に而、疊ヨリ床迄通シ濡有ㇾ之候義、度々、御座候に付、「若もむめニハ無之哉[やぶちゃん注:「もしも、『むめ』には之れ無きや。」であろう。]」と疑心を請候義も有之、且、又、新右衞門町へ引越候後、夜分、むめ、臥居候側を、鼬、驅[やぶちゃん注:「かけ」。]あるき、又ハ、同人蒲團之下へ這入、夥數、小便致候義、每度之樣ニ相成、追々、氣分惡敷罷成候段申ㇾ之候。全く狐狸の所爲にも可ㇾ有ㇾ之哉、專、奇病之趣、此節、近邊取沙汰仕候ニ付、取調此段申上候。

            右最寄組合肝煎

               神田佐久間

              名主  源 太 郞

かくて、おなじ年の六月廿七日、小濱(こはま)の醫官杉田玄白、わが庵(いほり)に來訪して、「鼬の妖怪、狐狸にひとしきなる事ありや。」と問はれしに、予、答へて云、「鼬の怪は「平家物語」に、治承四年五月十二日午の刻ばかりに、鳥羽殿に、いたち、おびたゞしく走りさわぎしかば、法皇、やがて、近江守なかかね【時の藏人。】をもて、安倍泰親(あべのやすちか)にうらなはせたまひしに、泰親、すなはち、「今、三日が中に、御よろこび、並に、御なげき、あらん。」と、うらなひ申しけるに、はたして、その事おはしましゝよし、見えたり。この他、狐狸にひとしき怪談は、和漢に所見なし。」といひしに、玄白、すなはち、前件を擧げて、「先月、既にこれらの事あり。いかゞ思ひ給ふにや。」と、又、問はれしに、予、答へて、「こは、その鼬と思ひしも、鼬にはあらずして、『尾さき狐』の所爲歟。」といひしを、なほこゝろ得ざりけん、「尾さき狐は、いかなるものぞ。」と請ひ問はれしに、ふたゝび答へて、「尾さき狐は、上毛(かみつけ)・下毛(しもつけ)に多かり、戶田川をさかひとして、江戶には、絕えて入らずとなん。その狀(かたち)、鼬に似て、狐より、ちひさし。尾は、きはめて、ふとかるに、尾さき、裂けて、岐(また[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『エダ』とする。])あれば、『尾さき』の名さへ負はせしならん。上毛・下毛のみに限らず、武藏といふとも、北のかたには、此けもの、稀にあり、ともすれば、人の家につくこと、ありといふ。そが、一たび、つきたる家は、貧しかりしも、ゆたかになりぬ。しかれども、多くは、その身(み)一期(いちご)のほど、或は、その子の時に至りて、衰へ果てずといふこと、なし。そが、既に憑(つ)きたる家の、年々、ゆたかになるまゝに、狐の種類も、次第に殖えて、むれつどふこと、限りなし。もし、その家のむすめなるもの、他村へよめりする事あれば、尾さき狐も相わかれて、婿の家につく、といふ。こゝをもて、人、忌み嫌はざるものなく、寇(あだ)を防ぐが如し、となん。近頃、伊豆の三島のほとりにて、「尾さききつね」をつかふもの、あり。この事、江戶に聞えしかば、有司(いうし)うけ給はりて、彼(か)の地に赴き、「狐つかひ」を搦め捕りて、やがて將(ゐ)て參る程に、川崎の泊りまでは、夜每(よごと)に、鼬の、あまた、鳴きしこと、夜もすがら、絕えざりしに、六鄕川(ろくがうがは)を渡りては、さる事も、なかりしとぞ。これらを合(あは)し考ふるに、件(くだん)の少女(むすめ[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『ヲトメ』とする。])梅(むめ)が奇病も、鼬にはあらずして、「尾さき狐」の所爲(わざ)なるべし。しかれども、かの狐は、戶田川を界(さかひ)として、江戶へは絕えてより來ず、といふ。げに、さる事もあるべきにや。彼の三島なる「狐つかひ」も、川崎の宿(しゆく)までは、猶、その狐のつきそひ來(き)けんを、六鄕川を界として、江戶へは、終に入らぬなるべし。いとも、かしこき御膝もとのおほんいきほひにこそ、あんなれ、かゝれば、件のあやしき病を、『「尾さき狐」のわざなり』と、さだかにいふべきよしも、なけれど、又、かの狐をつかへるもの、他鄕より來ぬる事、亦、これ、なしとすべからず。さても、『此「尾さき狐」は、唐山(からくに)にもあるものならん、その漢名をしらまくほし。』とて、年來(としごろ)、ふみども、あさるものから、未だ見る所もあらず。和君(わぎみ)は二世の蘭學者なり。蠻名(ばんみやう)などをも、考へて、しらせ給へ。」と、云ひし事あり。例の蛇足の辯ながら、ありつるまゝに、しるすのみ【乙酉きさらぎ初八草。】

 

[やぶちゃん注:驚くべきことに、この時の実際の取り調べ書きの写しが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」(PDF)にある! 思うに、「梅」のこれは、彼女自身が演じた、かなり危険な詐病と私は思う(針の出現はそれ以外には考えられない)。実家から方々へ奉公に出されたことへの不満から神経症を発症し、実家へ戻り、親に奉公をさせないことを目的として、意識的或いは半意識にやったことのように思われる。但し、その原因の中には、奉公先で何らかの堪え切れない暴行や、性的嫌がらせ等を、主人その他から受けたことによる可能性も排除出来ない。

「文政四年辛巳」一八二一年。

「江戶牛込袋町(ふくろまち)代地(たいち)」「牛込袋町」は現在の新宿区袋町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、個人サイト「江戸町巡り」の「牛込袋町」を見ると、享保一六(一七三一)年の『大火に類焼、町域の大半を火除地として収公され、筋違橋外御用屋敷を代地として給された』とあり、この「筋違橋外御用屋敷」は、同サイトの「神田仲町」の解説の中に、その代地として移転してくる二年前にそこは『「筋違橋外新地」といわれたが、間もなく「御用屋敷」と改められた』とあるから、ここは現在の千代田区外神田一丁目が正しいことになる。

「神田佐久間町」千代田区神田佐久間町。前注の最後に示した外神田の直近である。

「謄錄(とうろく)」写して記録すること。

「向寄(もよせ)」「最寄(もよ)り」に同じ。

「下谷小島町」台東区小島二丁目

「新右衞門町」中央区日本橋二丁目

「腫、色付候儀なども有ㇾ之」自傷行為が疑われる。

「神田お玉池」東京都千代田区岩本町二丁目にあった池。現存しない。リンク先では「繁栄お玉稲荷 (お玉が池跡)」とある。

「小濱(こはま)」杉田玄白は若狭国小浜藩医であった。

「尾さき狐」私は先に示した「くだぎつね」と同義と思う。小学館「日本国語大辞典」にも「おさきぎつね」(御先狐・尾(を)裂狐)として、『人間に憑()くとされる狐。関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。管狐(くだぎつね)。おさき。』とある。

「戶田川」現在の埼玉県戸田市附近での荒川(同市南部の東京都板橋区との境を流れる)の古い呼称かと思う。

「寇(あだ)」「仇」に同じ。特にこの場合は、「恨みに思って仕返しをされること」を意味する。「くだぎつね」を飼っている人間に恨まれると、禍いが起こるというのは、よく言われることである。

「有司(いうし)」役人・官吏に同じ。

「六鄕川(ろくがうがは)」東京都の南境を流れる多摩川の下流部の呼称。多摩川大橋附近から下流を指し、東京都大田区と神奈川県川崎市との境でもある。

「唐山(からくに)にもあるものならん」玄白先生、狭義の「くだぎつね」=「おさきぎつね」(後者の呼称は「山海經」の「南山經」に出る「九尾狐」がルーツではある)は本邦の土俗で発生・発展した日本固有の妖怪と思います。中国の妖狐は多様でありますが、私は一種の平行進化と考えております。

「二世の蘭學者」玄白の父杉田甫仙もオランダ流医学を学んだ若狭国小浜藩藩医であった。

「初八草」不詳。八日を指すものであろう。

 以下は底本では全体が一字下げ。これは本記事に近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)が批評を加えたものだが、一緒に電子化しておく。無論、吉川弘文館随筆大成版には存在しない。]

 

百川云、こゝにいふ「ねうねう」と鳴くことは、「源氏物語」の「若菜」の巻にも見えたり。鳥・獸の名をその聲によりて、つくるとこと。漢土(からくに)にも多くあることなり。烏(からす)は「烏々(あゝ)」となき、鴨(かも)は「鴨々(おふおふ)」とと鳴くをもて、その名とせり。その餘(よ)數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。猫(みやう)もまた、その聲によりて名づけしにや。さらば、「ねこま」は和漢同日の談なるべし。鼬の怪談は、世に有るべうもあらぬ物がたりなり。一種の奇病と、みるべし。「尾さき狐」の所爲(しわざ)などいふは、兒童の見(けん)に近し。これ、智者の一失(いつしつ)歟。

 

[やぶちゃん注:『「ねうねう」と鳴くことは、「源氏物語」の「若菜」の巻にも見えたり』「若菜」の下で、秘かに愛している父光源氏の妻女三宮から愛猫の唐猫(からねこ)を預かり受けることに成功して、自邸に猫を連れて帰り、

   *

 つひに、これを尋ね取りて、夜も、あたり近く臥せたまふ。

 明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人氣遠かりし心も、いとよく馴れて、ともすれば、衣の裾にまつはれ、寄り臥し、睦るるを、

『まめやかにうつくし。』

と思ふ。いといたく眺めて、端近く寄り臥したまへるに、來て、

「ねう、ねう。」

と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、

「うたても、すすむかな。」

と、ほほ笑まる。

「戀ひわぶる人のかたみと手ならせば

     なれよ何とて鳴く音なるらむ

これも昔の契りにや。」

と、顏を見つつ、のたまへば、いよいよ、らうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。御達(ごたち)[やぶちゃん注:柏木を幼少の頃から知っている年配の女房。]などは、

「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの、見入れたまはぬ御心に。」

と、とがめけり。

 宮より、召すにも、参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。

   *

というシークエンスである。因みに、一読お判り頂けるものと思うが、「ねう、ねう。」という猫の鳴き声を聴いて、「寢む、寢む」(共寝しよう)と言う意味に擬えて、「お前は、いやに、積極的じゃあないか。」と興じている性的な隠喩としているのである。]

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