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2021/08/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 伊香保の額論

 

   ○伊香保の額論   松 蘿 舘 述

[やぶちゃん注:かなり長いので、読み易さを考え、段落を成形して、台詞・心内語なども改行を多く施した。その方が波状的な臨場感も出ると考えたからである。]

 文政六年の事なりき。上毛高崎のほとりを徘徊し、一刀流の劒術者に、千葉周作といふものあり。

「その伎、鬼神にひとし。」

と、いひもてふらして、弟子を集め、威を逞しくする程に、おなじ州なる引間村に、浦八といふものありて、これと交ること、淺からず。そが中には、念流破門の弟子さへあるを、かたらひつゝ、その年の四月八日に、

「伊香保の湯前の藥師堂に、門人等の姓名を悉く識したる額を、掛け奉らん。」

とて、しめしあはすること、ありけり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 この周作は、浪人なれども、實は若州小濱の家臣にて、由緖も正しく、且、劒術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて、諸國修行に出でたれば、此度、額奉納の事なども、

「御内意を受けたり。」

と、僞りけるとぞ。

 この事、同州馬庭の念流に、志、厚かりける若ものども、傳へ聞きて、恐るゝこと、大かたならず。

「こは、またく、念流を侮りたるこゝろより、かxるわざをばするならん。抑、馬庭村なる念流は、天正年中より相續して、師宗に、代々、達人出で、その術を學ぶもの、今もなほ、千人に下らず。他鄕より來つるもの、いかばかりの事やある。われわれが手なみの程を見しらせずば、あるべからず。」

と、竊に示し合はするのみ。師家【樋口十郞左衞門と云ふ。】へは、絕えて、この事をつげしらせず。その中にも、赤堀なる本間仙太郞は、その身のとり立てたる身子[やぶちゃん注:「みのこ」と読むか。弟子のことであろう。]、凡、六、七十人を將て[やぶちゃん注:「ひきいて」。]、伊香保の宿に推し登り、東は平塚・田部井の鄕黨榮八が子【名を忘る。】十五歲、なほ、少年なりけれども、このものを頭として、大竹新兵衞、つきしたがふ。この一むれは、四、五十人、おなじ所へ馳せつどふ。この餘、吾妻の里人等、向寄々々(モヨリモヨリ)に頭を立てゝ、みな、劣らじ、とぞ集りける。

 されば、この伊香保の宿に、湯亭、十二軒あるを、すべて「大屋」と唱へたり。その他、くさぐさの商人等は、彼十二軒の支配を受けて、世わたりをするとなん。その大屋なるものゝ、「小槫(ヲダレ)武太夫」と呼ばるゝは、こたび千葉周作が額奉納の宿なれば、只、この所をのみ、除きて、その餘の湯亭十一軒を、みな借り盡して宿とせり。

 このよし、馬庭に聞えしかば、樋口は、いたく驚きながら、今さらとゞめんよしのなければ、内弟子なんどを引きつれて、車の進退制止のため、伊香保をさしてゆく程に、これを見、これを聞くともがらは、

「すは。馬庭の先生も乘り出だし給ふは。」

とて、なほ、あちこちよりはせ出でゝ、いかほの宿に集まるもの、大凡、七百餘人に及べり。かゝりし程に、七日になりぬ。

 この日、千葉周作は、弟子どもをあまた將て、伊香保をさして來る程に、かの人、この體たらくを、その途にして聞きしかば、さうなくは、すゝみかねて、その夜は野宿したりとぞ。

 五日、六日のころよりも、罵り、さわぎし事なれば、岩鼻の御陣屋へも、大かたならず、聞えにけん、御代官より差紙もて新町宿なる本陣と宿役人を召しよせて、その顚末をたづね給ひ、又、伊香保なる周作が宿のあるじ、武太夫をも召しよせて、これ彼に問糺し給ひ、額奉納をとゞむべき旨を仰せわたされたりければ、事、忽に無異に屬して、鎭まるに似たれども、千葉かたにても、亦、怒りて、

「かくは、こたびの催を妨したる[やぶちゃん注:「さまたげしたる」。]樋口の奴原、捨ておくべきにあらず。」

とて、引間村なる浦八が宿所に、みなみな集りて、談合評議、區々なるよし、伊香保ヘ告ぐるものありければ、樋口も、

「今、この時に至りて、一あしも引くべからず。各、覺悟あるべし。」

とて、なほも伊香保の宿にをり、

「敵、推しよせて亂妨せば、擊ち果たさんこと、勿論なり。しかれども、こなたより、はやりて、手だしすべからず。」

と、いと嚴重に下知しけり。

 はじめは、只、穩便に制せられたるのみなりしに、今、この指圖をうけしより、おのおの、

「得たり。」

「かしこし。」

とて、先、一番に赤堀の仙太郞が、

「ぬば玉の夜の月しるしに。」

とて、白布の鉢卷におなじ色なる襷して、樽を牀几に尻うちかけて、わが弟子どもを左右に從へ、敵や寄する、と待ちたりける。

「その時の面、ほゝひげに一軍の大將めきて、いと物々しく見えたり。」

とて、人々、後にいひ出でゝ、互に笑ひけり、となん。

 かくて樋口を本陣として、各、すみとり紙をもてあひじるしとし、合圖を定め、列を正して、用意、とりどりなしける程に、その日も既にくれしかば、あちこちの山林に、鐵砲をうち響かせ、ほら貝を鳴らしつゝ、推しよせ來つべき勢あり[やぶちゃん注:「すみとり紙」「隅取り紙」。方形の紙の四隅を切り取ったり、折り込んだりしたもの。特に、両端を末広に畳み重ねて、根を串の先端に結び垂れ笠標(かさじるし)や指物(さしもの)としたもの。]。

「事、大變になりもやせん。」

と思はざるもの、なかりけり。

 かゝりける程に、岩鼻なる御代官所より人を出だし、制止を加へて、双方をおし鎭め、和睦させんとし給ふものから、大勢の事にして思ひ込みたる事なれば、速にうけ引かず、互に些もひかずして、八日、九日と過ごす程に、御代官より嚴密に制し給うて、しばしばなれば、双方、やうやく納得して、十日に伊香保を引き退きて、おのおの、家路にかへりきとぞ。

[やぶちゃん注:以下の「廣言を吐きしとぞ。」までは底本では全体が二字下げ。]

 因にいふ、伊香保の宿に、八左衞門といふものあり。「[やぶちゃん注:鍵括弧はママ。これに対応する閉じるはない。]こは、武太夫と同家なり。八左衞門は既に沒して、この時、後家もちの世帶なりしに、いとかひぐしき婦人なれば、手ばやく家財を取りかたづけて、みづから隙なく立ちめぐり、手代・下女等にいひつけて、手ごろの石を多く拾はせ、是を二階につみのぼせ、又、灰を紙に包みて、木鉢などにあまた入れおき、

「かゝる折には、間者などのしのびよることあるものなれば、みな、油斷すべからず。」

とて、庭の木の蔭、雪隱までも、うちめぐりけり、となん。

 又、阿久津村なる左市といふものは、去年十月、江戸四谷にて親の仇安兵衞を擊ちとりたる左市が養父なり。此ものも、樋口の弟子なりければ、かの日、伊香保のむれに、あり。そのとき、先生にむかひていふやう、

「此たびの先陣は、某に仰せ付けられ下さるべし。劒術未熟に候へば、先輩をうち越えて憚あるに似たれども、死にくらべをせん時に至らば、某に及ぶもの、一人も候はじ。」

とて、廣言を吐きしとぞ。

 抑[やぶちゃん注:「そも(そも)」、]、樋口念流の初祖は、應永のころ、相馬四郞義定より傳へ來て、七代、永祿のころ、友松兵庫頭氏宗の門人樋口又四郞定次、皆、傳へて、今の樋口定雄まで、九代、上毛馬庭村に在住して、世々、劒術をもて、家聲を落さず、世に稀なるべき名家なり。定雄は子と同甲子にて、今、玆、六十五歲、なほ矍鑠たり。予、甞て、この門に入りて劍法を學びし故に、件の事の趣は、上毛なる同門人より傳へ聞きたるをしるすのみ。

 今、この昇平[やぶちゃん注:「太平」に同じ。]の世に、輕薄浮靡のともがらの義を捨て、利に走れるも多かる中に、かゝる愉快の事もありきと、おろおろ思ひ出づるにも、老のねざめを慰めたり。

 さても、これらの事の趣は、そのはじめ、はげしかりしに、おもひしよりは、後、いと安く、萬死を出でゝ一生得たる果は、笑ひのたねにぞなりける。

 こは、初春のはなしには、めでたしくといふべからん。

  文政八年の春正月     梭江しるす

 

[やぶちゃん注:「千葉周作」(寛政六(一七九四)年~安政二(一八五六)年)は知られた剣術家。陸奥栗原郡(現在の宮城県内)生まれ。父から北辰夢想流を学び、小野派一刀流の浅利又七郎に師事し、後、江戸の宗家中西忠兵衛の門に入り、免許皆伝となった。北辰一刀流を唱えて、文政五(一八二二)年の秋、道場「玄武館」を江戸日本橋に開き、次いで、神田お玉が池に移した。後、常陸水戸藩主徳川斉昭に仕えた。文政八(一八二五)年当時は数え三十二歳であった。

「念流」(ねんりう(ねんりゅう)は剣術流派の一つ。応仁の頃、もと臨済宗の僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念を込める極意に達して創始したとも、また、僧慈恩(慈音・俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び、創始したともされる。馬庭念流(まにわねんりゅう)は現存で,原初的防具を伝える。ウィキの「馬庭念流」に、樋口家第十七代当主樋口定次が友松氏宗より学んだ念流を元に確立した、剣術を中心に長刀術(薙刀術)・槍術も伝える古武道の流派とあり、『馬庭念流樋口家が行った奉納額は』、寛政九(一七九七)年から安静四(一八五七)年までに、十四件が確認されていて、『地元上州から江戸・鎌倉、金刀比羅宮にまで拡大しており、馬庭念流の盛行を顕著に示している』とし、まさに文政六(一八二三)年四月、『伊香保温泉の鎮守伊香保神社の奉納額掲額をめぐって、北辰一刀流の千葉周作と』、『馬庭念流一門との間にあわや大乱闘という騒動が勃発、西原好和が』「伊香保額論」を『執筆し、これを曲亭馬琴が』、この「兎園小説」に『収録したため、馬庭念流の名前が世に知られることになった』とある。]

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