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2021/09/30

気がついたら

ブログが、夕刻、1600000アクセスを超えていた(今回は十一日でやってきた)。ここのところ、一万アクセス越えが異様に早い。「芥川龍之介書簡抄」と「兎園小説」へのアクセスが有意に増えたせいであるが、実は、小生、もう一年許り前から、夕食後の作業は殆んどしていない。というか、早いと八時過ぎには就寝するようになった。突破記念テクストは、準備はしたが、明日に持ち越す。今日も、もう床に就く。悪しからず。 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 平豊小說辨 /第七集~了

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の第一輯上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。発表者は著作堂曲亭馬琴で、標題は「へいほうせうせつべん」と読み、メイン・テーマは平清盛の白河院の落胤説、及び、豊臣秀吉私生児説を追った考証である。私は秀吉が生理的に嫌いであり、時間をかけたくないから、注はごく一部にする。やはりダラダラとしかも異様に長いので、段落を成形した。読みは一部で送りがなとして出し、読みが五月蠅くなるのを避けた。なお、底本は一部で略字が使われており、それに忠実に従っている。例えば平清盛は「淸盛」ではなく「清盛」であり、豊臣も「豐臣」ではなく「豊臣」である。

 

   ○平豊小說辨

 解云、小說・野乘(やじやう)の信じがたき、誰(たれ)か董狐(とうこ)の言を俟つべき。しかるに、猶ほ、世の讀書の人、唯、その舊記に因循して、曉(さと)らざるもの多かるも、むかしは、井澤・谷の両先輩、をさをさ、これを辯じたり。されども言(こと)に當否あり。猶ほ且つ、遣漏も少なからず。抑(そもそも)、中つころよりして、かの平相國入道を「白河帝の御子(おんこ)」といひ、又、豊臣太閤を「後奈良院の落胤なり」といふものあるは、いかにぞや。是等を辯ずるものもあらねば、今、その異同を折衷して、世俗の迷(まよひ)を解かんと欲(ほ)りす。極めて鳥滸(をこ)のわざに似たれど、學は異(い)を得て成るにあらずや。かゝれば、竊かに、この編に、「平」と「豊」との二姓(にせい)を擧げて、もて、題目とするもの、しかなり。

[やぶちゃん注:「小說」市中で口頭によって語られた話を記述した真否が疑わしい創作的文章。本書を「兎園小說」と名付けている馬琴がこうした語を使うのは、頗る鼻白む。

「野乘(やじやう)」「乘」は「孟子」「離婁下」に「晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋一也。」とあるように、春秋時代の晉の史官の筆による歴史の記録。また、歴史書のことであるが、転じて民間で編纂した公的信憑性が低いとされる私撰の野史を指す。

「董狐(とうこ)」春秋時代の晋の史官。霊公が趙穿に攻め殺された際、正卿である趙盾(ちょうとん)が穿を討たなかったことから、董狐は「盾、その君を弑 (しい) す。」と趙盾に罪があるとする記録をした。後世、理非を明らかにしたこの態度を孔子が大いに讃えたことで有名である。

「井澤」江戸前期の神道家・国学者井沢長秀(寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)。肥後熊本藩士の子。宝永三(一七〇六)年刊の当時の神道に係わる俗説を採り上げ、解説した「本朝俗説弁」が著名。号の蟠龍で知られる。彼の出版した「今昔物語集」の抄録本は校訂の杜撰が批難されることで有名だが、同書を民間に広く知らしめた功績は大きい。

「谷」同時期の儒学者・神道家の谷重遠(たに しげとお 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)。号の秦山(じんざん)で知られる。国書を渉猟し、学問を大成、「国体の明徴」を説いて、後代に大きな影響を与えた。

「後奈良院」正親町天皇の父。

 ここまで、底本では実は全体が一字下げ。

 「平家物語」に云、「相國入道清盛公は平人(たゞひと)にあらず。まことは白河院の御子なり。その故は、永久[やぶちゃん注:一一一三年~一一一八年。鳥羽天皇の治世だが、白河法皇が院政を敷いた。]のころほひ、平忠盛、東山祗園の片ほとりにて、あやしの法師を、生けながら、捕へたりける「けんしやう」[やぶちゃん注:「勸賞」。褒美を与えること。]に、白河院、御最愛と聞えし祗園女御を忠盛にこそ下されけれ。此女房、はらみたまへり。

「うめらん子、女子(めのこ)ならば、朕が子にせん。男子(をのこご)ならば、忠盛、とりて、弓とりにしたてよ。」

とぞ仰せける。乃(すなは)ち、男を、うめり。ことにふれては、披露せざりけれども、内々は、もてなしけり。

『この事、いかにもして奏せばや。』

と思はれけれども、しかるベき便宜(びんぎ)もなかりけるが、或時、白河院、熊野へ御幸(ごかう)なる。紀伊國「いとり坂(さか)」[やぶちゃん注:不詳。]といふ所に、御輿(みこし)をかきすゑさせて、しばらく御休息有りけり。其時、忠盛、やぶに、いくらも有りける「ぬかご」を、袖にもり入れ、御前(ごぜん)に參り、かしこまつて、

「いもが子は、はふ程にこそ、なりにけれ。」

と申したりければ、院、やがて、御心(みこゝろ)有りて、

「たゞもり、とつて、やしなひに、せよ。」

とぞ、つけさせましましける。さてこそ、わが子とは、もてなされけれ。此の若君、あまり、よなきをしたまひしかば、院、きこしめして、一首の御詠(ぎよえい)をあそばいて、下されける。

 夜なきすとたゞもりたてよ末の世に清く盛かれることもこそあれ

それよりしてこそ、「清盛」とは、なのられけれ』【已上、「平家物語」。○「源平盛衰記」に載する所、右に同じ。但、その文、小異あるのみ。】。

 又、「成形圖說(せいぎやうづせつ)」[やぶちゃん注:薩摩藩主島津重豪の命によって曾槃(そうはん)らが編纂した農学書。享和年間 (一八〇一年~一八〇四年) より三十年間に亙って、農政経済・本草・博物などを、和・漢・洋の資料を駆使し、百二十巻に及ぶ叢書として作り上げたもの。文化元(一八〇四)年までに三十巻まで刊行されたが、中絶した。]【卷二十二。[やぶちゃん注:原本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。]】・「山津芋糠子(やまついも・ぬかご)」の條下(くだり)に、右の本文を略抄・引用して曰、

『臣、國柱、按ずるに、世に不出非常の人、必、その本生(ほんせい)、父(ふ)の詳(さだか)ならぬぞ、多かる。豊臣秀吉公の平清盛に似たるにや。一書に、太閤秀吉の父、測(しれ)ずといふは、はじめ、馬島明眼院(ましまみやうげんゐん)[やぶちゃん注:愛知県海部郡大治町にある天台宗明眼院(みょうげんいん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は日本最古の眼科専門の医療施設として知られ、後水尾上皇皇女の治療により「明眼院」の名を賜ったとされるが、この同天皇の母は関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院近衛前子であるものの、この事実は時制が合わないから、信におけない。]といへる者あり。天子の御眼病(ごがんびやう)を療治しまゐらせしかば、叡感の餘り、宮女を明眼に賜はりける。此宮女、天子の幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて懷胎なり。是れは、後奈良帝の御宇の時の事にて、明眼てふ名も後に賜はりし名にや。始めより、宮女、有身(みこもり)の事も、しれざりしにぞ。しかるに、明眼は倫戒を(りんかい)保ちて、一向に妻を納(い)れず。この宮女を、尾州愛智郡(あいちこほり)中村の住人筑阿彌(ちくあみ)に與へけり。遂に筑阿彌許(がり)にて、出生(しゆつしやう)せしは、卽ち、秀吉也。一說に、筑阿彌、はじめ、中村彌助昌吉(やすけまさよし)と號す。故に、世には王氏(わうし)[やぶちゃん注:直系皇族。]の樣にいひなせるもあり[やぶちゃん注:この理由、意味不明。]。又、俗說に、筑阿彌が妻、『日輪、懷に入る。』と夢みて孕み、誕生ありし故、童名を「日吉丸(ひよしまる)」と號すなどあるも、天子の御種(おんたね)を宿せしを、いひなせるにや。「太閤記」などいふ草子には、其の母は持萩(もちはぎ)中納言保廉卿(やすかどきやう)[やぶちゃん注:不詳。]の女(むすめ)也。「天文丙申正月元日誕生」と記せり。一說には、信長の足輕木下彌助といふものゝ子也、とあり。然れども、秀吉の信長に仕へし次第を見るに、木下彌助が子ならば、初めより、信長に仕ふべき事なり。又、筑阿彌の秀吉に於ける、我が子のあしらひとも、見えず。僧にもなさんとせし程に、秀吉、父の所を逐電せられし事あり。且つ又、秀吉、一天下を掌握せられての後(のち)、親の廟所とて、中村にもなく、又、墓所(はかしよ)もしれず。秀吉の父、慥(たしか)ならば、きと、位牌なども取り建てらるべきに、其事も、聞えず。何れにも筑阿彌は、本生(ほんせい)の父にあらざるを、己れも、しり給ひしなるべし。』

と、いへり【下略】。

[やぶちゃん注:以下、底本では「學者、よろしく辨ずべし。」まで全体が一字下げ。]

 解云、これらの說は、ふるくより世の人口に膾炙したり。しかれども、平相國・豊太閤を「天子の落胤なり」といふが如きは、疑ふべく、信(う)けがたし。よりて、竊かにこれらの說の出づる所をおもひみるに、かの平相國入道は、老後にこそ、わろくはなりたれ、「保元・平治の擾亂(ぜうらん)」には、功ありて、不義あらず。就ㇾ中(なかんづく)「平治」には信賴・義朝を討ち滅ぼして、兵馬の權(けん)を執りしより、既に天子を挾(さしはさ)みて、己(おの)がまにまにせざる事なく、富(とみ)は三十餘國をたもちて、位は人臣の上を極め、遂に天子の外戚(ぐはいせき)とさへなりにたる。源・平両家の始まりしより、かゝる例(ためし)の有ることなければ、猶、その素生(すじやう)を至尊(しそん)にし、且つ、その人を神(かみ)にせんとて、不經(ふけい)[やぶちゃん注:常道からはずれること。常軌を逸すること。道理に合わないこと。]の言(こと)のいで來たるにや。按ずるに、かの「いもが子の歌」の出處(しゆつじよ)は、只、この一本のみならず、おのれ、往(い)ぬる歲(とし)、考異の編あり。今、錄すること、左の如し。

 阿彌陀寺本「平家物語」【この書は、長門なる阿彌陀寺の什物なり。防間[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『坊間』。「防」なら「周防一帯」、「坊」なら「寺院間」の意で孰れでもおかしくはない。]に寫本にて流布する。長門本「平家物語」と同じからず[やぶちゃん注:この言い方はおかしい。「阿彌陀寺本」は現在は「旧国宝本」或いは「赤間神宮所蔵本」とも呼ぶが、所謂、広義の「長門本」系には七十数本に及ぶ写本が伝わるが、この「阿彌陀寺本」は「長門本」系の代表的写本の筆頭に数えられているからである。但し、「平家物語」の写本の系統研究は進んでいないものの、今の段階ではあたかも伝家の宝刀の如く「阿彌陀寺本」と呼称するものの、この「阿彌陀寺本」が「長門本」の原型という説は退けられており、別な場所で写本・追加創作され、最終的に阿弥陀寺に齎された古い「長門本系写本」となったものと推定されているようである。以上は「花鳥社」公式サイト内の浜畑圭吾氏の「長門本『平家物語』研究小史―その成立をめぐって―」を参照した。]。「群書一覽」を著はしたる尾崎雅嘉も[やぶちゃん注:尾崎 雅嘉(まさよし 宝暦五(一七五五)年~文政一〇(一八二七)年)は江戸中・後期の国学者。この「群書一覽」は享和二(一八〇二)年刊行。国学の代表的な著書であったが、庶民から非常な高評価を得た。古代から江戸時代の国書の刊本千七十七部・写本六百五十二部を収録し、全六巻から成る。]、この書を見ざりけるにや。「平家物語」「梶原が箙の梅のうた」のくだりに疑をしるしたり。學者、よろしく辨ずべし。】に云、

『鳥羽院の御内に、小大進(こだいしん)の局(つぼね)とて候ひけるが、いさゝかなる事によて、御内(みうち)をすみうかれ、かたへんど[やぶちゃん注:「片邊土」。]なる處に、かすかなるすまゐしてぞ候ひける。或る時、小大進の局、太秦(うづまさ)にまゐりて、七日、こもれり。我身のありわびたる事をぞ、いのり申しける。七日にまんじける[やぶちゃん注:満願すること。]曉(あかつき)、「下向せん」とての夜半(よは)ばかりに、「やくし十二せいぐわん」の中(うち)に、「衆病悉除(しゆうびやうしつじよ)」のたのもしきことをおもひ出だして、

 南無やくしあはれみたまへ世の中に住みわびたるもおなじやまひぞ

と、よみてまゐらせ、下向して十二日とまうしゝに、八幡の撿校(けんげう)廣清(ひろきよ)に、ぐそくして、まうけたる子也【「まうけたる子なり」とは、「待宵の侍從」が事をいふなり。これまでは「著聞集」、その他の書どもに見えたるも、相同じ。但、右の歌の下の句、「ありわずらふも病ならずや」[やぶちゃん注:「わずらふ」はママ。]とあり。】[やぶちゃん注:『「待宵の侍從」が事』待宵(まつよい)の小侍従(生没年未詳)のこと。平安後期から鎌倉時代にかけての女流歌人で、石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。当該ウィキに、彼女が『高倉天皇に仕えていた頃は、ひどく貧乏で夏冬の衣更もままならない程だった。これでは宮仕にも差し支えると、広隆寺の薬師如来に七日間参籠して祈ったが御利益がなく、絶望してもう尼になるしかないと思いつつ』、『南無薬師憐給へ世中に有わづらふも病ならずや』(「源平盛衰記」巻第十七)と詠んで、『まどろんでいると』、『仏から』、『白い着物を賜る夢を見た。気を取りなおして参内したところ、八幡の別当』『に想いを寄せられる等、次第に運が向いてきて、高倉天皇の覚えもめでたくなり出世したという』とある。]。

 此の子、二つと申しけるに、父とも[やぶちゃん注:「「兎園小説」では『ともに』。]南おもてに出でゝあそびける。この子、はゝがひざによりをり、ひろえんを、はひありきけり。頃は九月中旬のころ、南面の(みなみおもて)のまがきに、薯預(やまのいも)、はひかゝり、その蘇(むかご)、なりさがりたりけるを、廣清、これを見て、

 いもが子ははやはふ程になりにけり

と、くちすさみたりければ、此の母、この子をいだきとるとて、

 いまはもりもやとるべかるらん』【已上、「德大寺實定卿舊都月見」の段に見えたり。】。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 又、「今物語」にも、この事、見えたり。云、

『小大進と聞えし歌よみ、いとまづしくて、太秦(うづまさ)へ參りて、御前(おまへ)の柱に書きつけゝる歌云云(しかじか)。程なく、八幡の別當光清に相ひ具して、たのしくなりにけり。子など、いできて後、もろともに居たりける處、近きところに、「いも」の「つる」の「は」、ひかゝりて[やぶちゃん注:引っ掛かって。]、「ぬか子」などのなりたりけるを見て、光清、

 はふほどにいもがぬかごはなりにけり

と、いひければ、ほどなく、小大進、

 今はもりもやとるべかるらむ』。

[やぶちゃん注:以下、底本では羅山の「將軍譜」の漢文引用の前まで、全体が一字下げ。]

 この連歌は、「菟玖波問答(つくばもんだう)」にも見えたり。これらは、後のものながら、「平家物語」にすら、異說ある事、右の如し。かゝれば、「ぬか子の連歌」をもて、「清盛公を白河帝の落胤なり」といふ說は、疑ふべく、信ずべからず。

 譬へば、源賴政卿、化鳥(けてう)を射ける勸賞(けんじやう)に、「あやめ」といへる宮嬪(きうひん)を賜はらんとありしとき、

 さみだれに池のまこもの水ましていづれあやめとひきぞわつらふ

と、よみけるよしは、「平家物語」・「源平盛衰記」その他の册子(さうし)にも見えたれど、無住法師が「沙石集」【五卷。】には、故鎌倉の右大將家、「あやめ」といふは、したものゝ美人なりけるを、

「梶原三郞兵衞尉に給はらん。」

と、ありしとき、梶原、すなはち、云々(しかじか)と、よめりしよし、いへり。但し、歌の上の句、「沙石集」には、「菰草(まこもぐさ)あさかの沼に茂りあひて」とあり。

「無住は俗姓、梶原の族なれば、彼(か)の集にいふ所をもて、まさしとすべし。」

と、先輩の、いへるが如し。

[やぶちゃん注:ウィキの「無住」によれば、説話集「沙石集」(弘安二(一二七九)年起筆で同六(一二八三)年に原型が成立したが、その後も絶えず加筆され、それぞれの段階で伝本が流布し、異本が多い。記述量の多い広本系と、少ない略本系に分類される)の作者で鎌倉後期の僧無住(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学』の僧」『として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、歴史学者『大隅和雄は、「無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい」との判断をしている』とある。同書は親しく読んだが、鎌倉の地誌に詳しいことが同書の諸編から窺われ、首肯出来る。]

 只、是のみならず、「清く盛れる」とある御製によりて、「清盛」と名のりしといふことも、信(う)けがたし。平家は貞盛より以來、「盛」をもて、二字名の下に置くこと、珍しからず。さるにより、清盛の「清盛」と名のれるならん、別に意味あることゝしも、おもほへず[やぶちゃん注:ママ。]。もし、その字義によりていはゞ、「清」白(せいはく)をもて、後々(のちのち)まで「盛」りなり、とせらるゝものは、無爲不爭(むゐふさう)の盛德のみ。

「仁者不ㇾ富。富者不ㇾ仁ナラ。」

かの入道の人となり、清白・盛德あることなければ、

「末世(まつせ)に清(きよ)く盛りならん。」

とよませ給ひしよしは、當らず。

「盡セハㇾ書、不ㇾ如(シ)カ[やぶちゃん注:読みを含んでいるので丸括弧を添えた。]ㇾ無キニㇾ書。」

と聞えたる孟子の敎(をしへ)いへば、さらなり。

 是等の類(たぐひ)、世に多かり。

 又、豊太閤の父の事、昔よりして、知るよしなければ、さまざまにいふものあれども、何れも不經(ふけい)をまぬかれず。そが中にも、

「後奈良院の孕みたる宮女をもて、明眼院に給はりしより、その宮女は尾張なる筑阿彌(ちくあみ)に遣嫁(よめら)せられて、うめりし、その子は秀吉なり。」

といへる說こそ、うけられね。

 いかにとならば、明眼院は、はじめより、淨戒を保つによりて、妻を娶(めと)らざるものにしあらば、假令(たと)ひ、至尊の恩賞なりとも、宮女を賜はらんとあるときに、辭し奉るべき事なるべし。さるを、辭(いな)まず、うけ奉りて、一兩月の程なりとも、その身は、醫師(くすし)のことなるに、その懷胎をしらざりしは、いと不審(いぶか)しき事にあらずや。しかのみならず、遙々(はるばる)と遠く貧しき尾張なる筑阿彌に遣嫁せし。

 かう、理(ことわり)に違(たが)ひし事、あるべくもあらずかし。

 又、その母の懷へ、「日輪の入る」と夢みて、秀吉公を生みしといへるを、俗說とのみ、すべからず。はじめ、朝鮮の役(いくさ)を起さんとせられし時、異邦へおくり示させし書翰の中に、彼(か)の日輪の一條あり。かゝれば、實(じつ)に、その事ありし歟。さらずば、「みづから、神にせん。」とて、このとき、猛(にはか)に云云(しかじか)と書き示させしも、知るべからず。寬永の末のころ、羅山林先生、台命(たいめい)によりて書きつめたる「將軍譜」にも、これを載せて云、

秀吉不ㇾ知所生。或曰、「尾張國愛智郡中村鄕、筑阿彌子。其母、夢ミテ日輪入ルト懷中而生ㇾ之。故ツク日吉

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が「その證は、」まで一字下げ。]

 これも、當時の小說を取られたるものながら、これより外の、正文、なし。然(さ)れども、世の人の、秀吉公の實父の名をだに、知りたるものゝあることなきに、まいて、末生(みしやう)に、その母人(はゝひと)の夢ものがたりを、誰か知るべき。

 よりて、思ふに、秀吉公の幼名を「日吉(ひよし)」といひしが實事(じつじ)ならば、「東國太平記」にいへるが如く、天文丙申[やぶちゃん注:天文五(一五三六)年。]の年に生れたまへば、「猿」に因みし名にはあらぬ歟[やぶちゃん注:日吉大社の神使は古くから猿とされる。]。かの記なる略傳には、童名を「猿」といふといへり【本文は下に抄すべし。】。「猿」といひしは、綽號(あだな)にて、「日吉」といひしは、童名歟。そを辨ずるよしなけれども、「日吉」は、卽、「比叡(ひえ)」にして、原(もと)、「山王」の山號(さんごう)なれば、亦、是、「猿」に因(ちな)みあり【いにしへは、「吉」を「エ」とよめり。よりて、「比叡」を「日吉」、「澄江」を「住吉」とも、かけり。後世、この訓讀を失ひしより、「日吉」を「ひよし」とよみ、「住吉」を「すみよし」と唱るは、みな、誤りなり。】。

[やぶちゃん注:日吉大社の祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)は「山王権現」とも称され、また、それは比叡山の地主神でもあり、「山王」と「比叡山」のイメージから「猿」が神使とされたのである。]

 又、俗說に、「秀吉の面貌の猿に似たり」といふもの、あれども、其肖像を今も見るに、「まさしく猿に似たり」とは、おもほへず。稚(をさな)き比(ころ)より、小さかしく、且つ、その本命(ほんめい)「丙申」なれば、里人等(ら)の綽號(あだな)して、「猿」といひしといふ說も、穩(おだやか)なりとすべきにや。されば、信長公の、罵りて、「猿冠者(さるくわんじや)」と呼びたまひしも、世の言ぐさに、よられしならん。かゝれば、「猿」といひしより、「猿」に因みて、「日吉」といふ名さへ、作り設けたる、當時(そのかみ)、好事(かうず)の所爲(わざ)にあらぬ歟。是も亦、知るべからず。そは、とまれ、かくもあれ、「成形圖說」[やぶちゃん注:底本は「成」を「或」と誤植している。訂した。]に、一書を引きて、秀古公の父の名を「木下彌介」と、しるしたる、「彌介」は「彌右衞門」のあやまりなり。その證(あかし)は、

「東國太平記」【卷一】に云、『傳ニ曰、秀吉ハ氏姓不ㇾ詳ナラ。大德ヲ賞セソガ爲ニ、種々ノ奇說ヲ記ストイヘドモ、皆、不ㇾ信ナラ【中略。】。或說ニ曰、「秀吉ノ父ハ、本(モト)織田信秀之鐵炮之者ニ、木下彌右衞門ト云フ人ナルガ、奉公ヲ辭シ、其在所ナル尾州愛智郡中村ニ歸住ス。同母ハ同郡御器所(ゴキソ)村ノ人ナリ。持萩(モチハギ)中納言ノ息女ナリトカヤ。其故ハ、中納言、罪、有テ、尾州持雲(ムラクモ)之里[やぶちゃん注:不詳。]へ配流セラレ、息女一人有リテ、二嵗ノ時、中納言、卒去セラル。依ㇾ之、後室ハ娘(ムスメ)ヲ誘(イザナ)ヒテ京へ上リシガ、年經テ、洛陽、兵亂起リ、在京成ガタク、ヨリテ息女十六歲ノ時、又、尾州へ下リ居タマヒシガ、十八歲ノ時、彌右衞門ニ嫁シテ女子一人ト、其次ニ天文五丙申春正月元日[やぶちゃん注:古くよりの説であるが、後で本文でも出るが、現在は翌六年二月六日誕生説が有力で、そうなると、「猿」干支説は崩れる。]ノ朝、男子ヲ、マウケ給フ。是、則、秀吉也。童名ヲ「猿」卜云ニ付テ、種々ノ異說アリ。皆、不ㇾ實ナラ。唯、申年ニ生レ給フニヨリテ也[やぶちゃん注:「や」。]]、父母、何トナク、其名ヲ「猿」トヨバレシナリ。面𧳖(メンボウ)モ自然ニ猿ニ似テ、又、仕業(シワザ)モ、コサカシク、猿ニ似マタヒケルニヤ。此說、尤、可ナリ。秀古ノ姊(アネ)ハ、成人ノ後、同國乙之(ヲトノ)村ノ民、彌介ニ嫁ス。彌介、後ニ、三好武藏守三位法印一露(イツロ)ト稱ス。是、則、關白秀次ノ實父也【下略。】』。

[やぶちゃん注:「三好武藏守三位法印一露」豊臣秀次・秀勝・秀保らの実父三好吉房(天文三(一五三四)年~慶長一七(一六一二)年)。豊臣家の一門衆で尾張犬山城主、後に清洲城主となった。もとは尾張国海東郡乙子(おとのこ)村の百姓か、馬丁出身ともされる。

 以下、「擇むべし。又、」まで、底本では全体が一字下げ。「兎園小説」では、その後の「眞砂に云、」までが一字下げで、異なる。]

 按ずるに、「豊臣譜」に載するもの、秀吉公の兄弟四人、所謂、第一「秀吉公」、第二「大和大納言秀長」、第三「武藏守一路(いつろ)が妻」、第四「南明院殿(なんみやうゐんでん)」、是也。かゝれば、「東國太平記」にいふ所も、一定(いつてい)しがたし。

 然れども、一書に云、『初生の女子と秀吉公は、前夫(ぜんふ)彌右衞門が子也。又、秀長卿と南明院殿は、後夫(こうふ)筑阿彌が子也。いまだ、孰れか是(よき)を、しらず』。

 さて、「明眼院云云」の一說は、右に抄せし持萩中納言母子の事より、いできたるものにやあらん。實に[やぶちゃん注:「げに」。]、秀吉公の母、稚(をさな)くて父を喪(うしな)ひたまひし時、母と共に都にのぼりて、二八のころまでありし程、大内(おほうち)に仕へまつりて、遂に天子の御胤(おんたね)を宿(やど)せしなど、いはゞいふべし。然かれども、持萩殿の妻といへるは、本妻ならで、配所にて娶(めと)りたる、かりそめの側室(そばめ)なるべし。昔も今も、流罪の人の、その妻を携へて、配所にゆくこと、なければ也。まいて、敕免あらずして、配所にて身まかりし人の息女を、いかにして内裡(だいり)にて召し仕(つか)はるべき。縱令(たとひ)、その身、素生(すじやう)をかくして、仕へまつりし事ありとても、尾張にかへりて生みたる子の、初めなるは、女の子にて、次に生れしが秀吉ならば、亦、かの「天子の落胤也」といひけんことも、齟齬すなり。又、持萩といふ人は、當時、公卿の名號(みやうがう)を書きたるものに、所見、なし。かゝれば、「明眼に賜はりし宮女云云(しかじか)」の一說は、菅公(かんこう)を「文德帝の落胤也」といふものと、平相國人道を「白河院の落胤也」といふものと相似たり[やぶちゃん注:「あひにたり」。]。

 皆、是れ、當時の稗說(はいせつ)にて、鑿空無根(さくくうむこん)[やぶちゃん注:現代仮名遣「さっくうむこん」。根拠がなく、出鱈目なこと。内容が乏しく、真実性が薄く、事実も根拠も全くないこと。]の言(こと)なるべし。人の好事(こうず)に走ること、今も昔もかはらねど、菅丞相は大賢(たいけん)也。平相國は將種(しやうしゆ)也。豊太閤は英雄也。至尊の落胤ならずといふとも、誰(たれ)かこれを賤(いやし)むべき、思はざること、甚し。

 只、是れのみにあらずして、平大臣宗盛公をば、「傘張の子なり」といへり。その人、暗愚なるときは、將相貴介(しやうじやうきかい)[やぶちゃん注:将軍・宰相といった高貴な位。]の公子(こうし)なるも、これを「匹夫の子なり」といひ、その人、賢良英雄なれば、儒官・武士・匹夫の子をも、これを「天子の落胤」とす。世の褒貶は、私議(しぎ)に起こり、是非は成敗(せいばい)に依ること、多かり。陳壽(ちんじゆ)が米(こめ)を甘(あま)なふとも、氏族を飾るは、人によるべし。

[やぶちゃん注:「陳壽」(二三三年~二九七年?)は三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で「三国志」の著者として知られる。よく判らぬが、当該ウィキに、彼には執筆に『際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られると』、『その人物の伝記を書かなかったという話がある』とあり、「米を甘なふ」というのは、「執筆料次第でいかようにも事実を捏造した」ことの意ととれる。

 以下は底本でも改行。]

 唐山(からくに)にも、さるためしあり。秦の始皇を「呂不韋(りよふゐ)が子」といひ[やぶちゃん注:「呂不韋中国」戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護し、後に、その擁立の功によって丞相となり、始皇帝に「仲父」と尊称されたが、密通事件に連座して失脚・自殺した。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂したことで知られる。俗説では「始皇帝の実父」とされる。紀元前二三五年没。]、晋の明帝(めいてい)を「牛金(ぎうきん)が子也」といふ[やぶちゃん注:「牛金」は後漢末期から三国時代の魏に仕えた軍人。曹仁に従って各地を転戦した。「赤壁の戦い」の後に、周瑜率いる孫権軍六千人が江陵に攻め込んで来た時、牛金は僅か三百人でこれを迎撃・奮戦し、守備し通した。後に魏の後将軍に出世した猛将。]。これ、將(はた)、當時の小說なれども、史官、をさをさ、取るものあれば、必ず、よしあることなるべし。又、蜀漢の昭烈(そうれつ)の、自(みづ)から「中山靖王(ちうざんせいわう)の後(のち)なり」と稱したる[やぶちゃん注:「中山靖王」前漢景帝の子。名は劉勝。紀元前一五四年に中山王に封ぜられ、河北省定県一帯を治めた。その墓は「満城漢墓」と称され、玉片を金糸で綴り合わせた死装束などの出土で知られる。紀元前一一三年没。]、劉宋の高祖武帝の、自から「漢の楚元王(そげんわう)の後也」といふが如き[やぶちゃん注:「漢の楚元王」前漢の高祖劉邦の異母弟劉交(?~紀元前一七九年)の諡号。]、世系(せいけい)遥かなるをもて、司馬光は、猶ほ、疑ひぬ[やぶちゃん注:「司馬光」(一〇一九年~一〇八六年)は北宋時代の儒学者・歴史家で政治家。彼の祖先は西晋の高祖宣帝司馬懿(い)の弟司馬孚(ふ)とされている。厳密な大書の歴史書「資治通鑑」の編者として著名。]。譬へば、織田家を「清盛の裔孫也」と云と雖も、世系、まさしからぬをもて、白石は、猶、疑ひて、遂に、その辯あるが如し[やぶちゃん注:以上の太字部分は「兎園小説」版では、後の頭書に出る。]。

 又、この事と似たるものあり。足利の義包(よしかね)を「爲朝の子なり」といひ[やぶちゃん注:「足利の義包」足利義兼(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)の異名表記。足利義康(源義家の孫で義国の子)の子で源義家の曾孫に当たる。源頼朝に属し、平氏討伐・奥州藤原氏討伐に従軍。北条時政の女婿である。]、岩松入道天用(いはまつにふだうてんよう)を「新田少將義宗(よしむね)の子也」といへる、卽、これなり[やぶちゃん注:「岩松入道天用」岩松満純(みつずみ ?~応永二四(一四一七)年)の法名。彼は足利氏(下野源氏)一門の岩松氏(上野源氏)の当主岩松満国と新田義貞の子である義宗の娘との間の子で、妻は犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)の娘である。但し、満純自身、後年、「外曾祖父新田義貞の後継者」と称して「新田岩松家」の祖となっている。因みに「兎園小説」では、この後に、『【頭書、譬へば、織田家を「淸盛の裔孫なり」といふといへども、世系、まさしからぬをもて、白石は、なほ、疑ひて、遂に、その辯あるが如し。』。】として先の内容が入る。]。然かれども、義包の一條は、足利の族なりける今川了俊(りやうしゆん)の說にして、「難太平記(なんたいへいき)」に出でたれば、信ずべく、疑ふべからず。只、是のみならずして、「梅松論」にも粗(ほゞ)そのよし、見えたり。同書、下の卷、足利尊氏卿、西國より攻め上るをり、筥崎(はこざき)なる八幡宮[やぶちゃん注:福岡県東区箱崎にある筥崎宮。]へ參詣の段に、「すなはち、寄附地(ふち)[やぶちゃん注:「きふち」。私は「どうしても寄付をするために寄って行かねばならぬところ」の意と読んだ。]あるべし。」とて、御文章の爲に、社家(しやけ)の古文を召し出だされし中に、昔、鎭西八郞爲朝の寄附の狀、有しを、御覽ぜられて、『當家の祖神、實(ぢつ)に難有(ありがたく)』思(おぼ)し召して、御敬心、淺からず云云(しかじか)」といへり。このとき、尊氏の「當家の祖神」といはれしは、八幡宮に爲朝朝臣をかけたることゝ聞ゆなり。かゝれば、今川氏のみならで、尊氏卿も、素(もと)より又、その身の、爲朝の裔孫なるを知りておはせし也。又、天用の義宗のおん子なるよしは、「岩松系譜」に見えたれば、是等(これら)は、平相國・豊太閤の素生をいふものと、おなじからず。事迹(じせき)に、信と、不信と、あり。論者、よろしく擇(えら)むべし。又、

[やぶちゃん注:「今川了俊」鎌倉末期から南北朝・室町時代の武将で守護大名で、室町幕府の九州探題などを務めた今川貞世(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?)の法名。彼は河内源氏義国流に連なる者であるが、その自著「難太平記」の『中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を』、源『為朝の子であるとし、係累である足利義康』(彼自身が源義家の孫に当たる)『が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない』とウィキの「源為朝」にはあったから、馬琴には私は組み出来ない。

 なお、以下は底本を再現し、続き具合からも、次の行頭の一字下げはしなかった。]

或記に云、『太闇秀吉公の父、しれざるを以て、牽强附會の說、多し。それらは、今さら、論ずるに足らず。傳に云、秀吉は、その母、野合(やがふ)の子也。そのいはけなかりし時、つれ子にして、木下彌右衞門に嫁したるに、彌右衞門、はやく、世を去りければ、その頃、織田家の茶坊主にて、筑阿彌といひしもの、浪人して、近村にあるをもて、卽、これを入夫(にうふ)にしたり。この故に、彌右衞門は、秀吉の繼父(けいふ)にして、筑阿彌は假父(かふ)也。母が野合の子なるをもて、實(まこと)の父の事においては、その名をだにも、いひしらせず、秀吉も亦、これを悟りて、「われに、父なし。」と、いはれしなり。もし、彌右衞門にもせよ。筑阿彌にもあれ、生(う)みの父ならんには、はや、世を去りて年を經るとも、秀吉、武運、比類なく、富み、四海を保つに至りて、父の廟所を建立し、贈位贈官の追福あるべし。然るに、その事なかりしは、野合の子なればなり。』といヘり。

[やぶちゃん注:底本にも改行があり、以下は底本では「眞砂に云、」まで全体が一字下げ。]

 こは、理(ことわ)りあるに似たれども、又、不經をまぬかれず。抑(そもそも)、當時(そのかみ)の小說者流(せうせつしやりう)、豊太閤の、その亡父の爲に廟所を建立し給はざりしと、贈官爵の事なきとを、深く疑ふ心を師(し)として、臆說をなすもの也。今、予が思ふよしは、しからず。

 倩(つらつら)、豊公の情狀を亮察(りやうさつ)[やぶちゃん注:対象者に対して敬意を表して思いやりを持って明らかに察し見ること。]して、よく、その意中を推しはかるに、その恩、すべて現世に過ぎて、過去の事には、絕えて、なし。只、信長のおん爲にのみ、大法事を興行して、廟所を莊嚴(さうごん[やぶちゃん注:私はこの場合、「しやうごん(しょうごん)」と読むのを節としている。])し給ひしは、諸將の心を釣らんが爲なり。その他、丹羽・蒲生・堀[やぶちゃん注:秀吉の有力家臣団。丹羽長秀・蒲生氏郷・堀秀政。]のともがら、百万石を食(しよく)せしも、既に沒後に至りては、その國郡(こくぐん)の三つがひとつも、其子どもには、受けしめたまはず。是等は、「骨肉なるものならねば、恩に増減あり。」ともいふべし。秀長卿は弟也。その世にゐまそかりし日は、数十万石の主(ぬし)として、官職、亞相(あしやう)[やぶちゃん注:大納言の唐名。秀吉の異父弟秀長は最後に従二位権大納言に昇っている。]にのぼせしも、その沒後にいたりては、はやくも忘れたるが如し。こは、異父(いぶ)兄弟なるものなれば、かくてもあらんと、いはゞ、いふべし。彼(か)の「棄君(すてぎみ)」[やぶちゃん注:豊臣鶴松の幼名「棄(すて)」。数え三つで病死した。]は、豊公の老後にうませし愛子(あいし)也。その誕生の初より、天下の富も足らざる如く、めでいつくしみたまひしに、忽ち早逝したまひしかば、哀慕の淚は胸にこそ盈(み)つらめ、その後々(のちのち)まで菩提の爲に大かたならぬ法會などを執り行はれし事は、聞こえず。この情狀を推すときは、幼弱微賤の時にわかれて、その面影だも見しらざる亡父の事には、懸念(けねん)せず、只、現在(げんざい)なる母御前(はゝごぜ)をのみ、「大政所(おほまんどころ)」と尊稱して、孝養を盡くしたまひし也。その母御前も、父の如く、早く世を去り給ひなば、追慕の孝養なきにより、世の人、遂に、豊公の母をすら知らずして、或は「天より降(くだ)りたまひぬ」、「地より涌きにき」といふものあらん。かゝれば、豊公の事實を取りて、筆に載せんと欲するもの、いまだ、織田家に仕へざりし已前(いぜん)の事は、闕如(けつじよ)[やぶちゃん注:「缺(欠)如」に同じ。]して、可、なり。獨(ひとり)、竹中丹後守重門の書きつめたる「豊鑑(とよかゞみ)」巻の一「長濱(ながはま)ノ眞砂(まさご)」に云、

[やぶちゃん注:「竹中丹後守重門」竹中重門 (たけなかしげかど 天正元(一五七三)年~寛永八(一六三一)年)は織豊・江戸前期の武将。美濃出身。戦国期の軍師として知られ、秀吉に仕えた竹中重治半兵衛の嫡子。初め、父に継いで豊臣秀吉に仕えたが、「関ケ原の戦い」では西軍から東軍に転じ、小西行長を捕えている。秀吉の一代記「豊鑑」の著者。

 ここは底本でも改行。]

 羽柴筑前守豊臣秀吉、天文六年丁酉に生れ【解云、天文五年丙申とするものは非歟。】。後に關白になり昇りたまふ。尾張國愛智郡中村[やぶちゃん注:現在の名古屋市中村区及び西区の名古屋駅北東部附近。]とかや、熱田の宮よりは、五十町許り[やぶちゃん注:約四・五キロメートル。]乾(ゐぬゐ[やぶちゃん注:ママ。北西。])にて。萱(かや)ふきの民の屋、わづか、五、六十ばかりやあらん郷(さと)の、あやしの民の子なれば、父母の名も誰か知らむ。一族なども、しかなり【下略。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 予は、この說に、從ふべく、おもほゆ。その事、すべて、實にして、その文、青史(せいし)に耻ぢずといふべし【文政八年乙酉秋七月朔草。】。

[やぶちゃん注:「兎園小説」では、末尾は改行してクレジットのみ(「草」はなし)と、下方に『神田山脚の老逸稿』とある。

「青史」中国で紙のない時代には青竹を冊に割った札を炙って文字を記したところから。「歴史・歴史書・正規の記録」の意。]

2021/09/29

只野真葛 むかしばなし (39)

 

〇父樣、おぢ樣[やぶちゃん注:何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が祟りなす女「〆(しめ)」である。]、得手は、御たがひ被ㇾ成とも、『凡人にては、なし。』とぞ、おもふ心のかたち、こゝろみにいはゞ、此(この)やうなるものならん。「何を以てそれをしる」といはゞ、おてる、おぢ樣のそばに付居(つきをり)し時の、はなし聞く度に、心もしめり、引入(ひきいるる)やうにて有しといひし。

[やぶちゃん注:「おぢ樣」何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が真葛が盛んに祟りなす凶なる女として示す「〆(しめ)」である。

「おてる」既出既注であるが、長女であった真葛の末の妹(五女)照子。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。]

 

Titiodinozu

 

[やぶちゃん注:以上の図は底本のものではなく、「日本庶民生活史料集成」のものを用いた。底本「江戸文庫」版では、キャプションが活字に直されてしまっているからである。キャプションは、右上に、

「凡をぬけたる

 ところ」

右下方に、

「父樣、足本に、何も、なし。

 たゞ、廣く、高くのみ、御才(ナンサイ[やぶちゃん注:ママ。])

 有り。」

左上に、

「おぢ樣は凡人

 の丈(たけ)に上(のぼ)りて

 橫ひろがり也。」

左中央に、

「凡人の

 たけ。」

とある。これは思うに、左右の父と叔父の二本の系統樹風の、下から見て、最初の、それぞぞれ左右に横に出る枝をかく言っているように私には思われる。

左下右に(右や下方にカタカナと漢字含む不全な読みの添えがある)、

「 カマワヌヤウテシワク

 何もかまわぬ樣にて タメル心

 しわく、物をためる 有リ

 心有り。」

最も左端下に、

「かごの物に、

 つき合(あふ)心。」

である。敢えて人の在り様をこうしたチャートで示す辺り、只野真葛、只者ではないぞ!]

 

 「此世の中のはてはどうなるものだか。何でもおれが出入せぬ大名もないが、どこの若殿を見ても、是が成人したらよい馬鹿だろうと思(おもふ)樣な兒ばかり有(ある)。大納言樣はどんな人かと、旗本衆の所へ行て聞てみれば、御幼少の時は豆蟹をつぶすが御すきで、每日每日、『大納言樣御用』とて、おびたゞしくとりにでるを、おそばにまきちらして、御相手の子と、ひとつにおしつぶす事。それが過て、九ツ十(と)ヲくらいのときから、鷄が御好で、いくらも上る。それも棒を持(もつ)ておひ𢌞して、追つめて、ぶちころすが、おすき。おなぐさみにて、お緣の下には、いくらも腰拔に成(なつ)た鳥が、『ひこひこ』して、かゞんでゐるといふことだ。そんな不仁の人が公方樣になられたら、どんな代になるかしれぬ。」

といふやうなおはなしにて有しとぞ。

 父樣は、のめり死するとても、そんな氣のつまる、ふさいだはなしなどは不ㇾ被ㇾ成、おはなしをきけば、心も、のびくのびとなりて有し。

「ゑぞ地【夷地。】[やぶちゃん注:『原頭註』]、ひらけば、おのづから、仙臺は中國となる故、末々、めでたき國とならん。我日本國の都は、暑き所より、寒きところへ、うつるかたち、なり。はじめ、筑紫より、大和、山城と、うつり、後、鎌倉、江戶に、榮(さかえ)、うつり、此後は、さしづめ、仙臺なるべし、是、うたがへなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

「世の中といふものは、つまりたりとても、もの極れば、又、どうか、工夫がつくものなり。世の滅するといふ事、有べからず。代の、末に成(なる)といふことも、有(ある)べからず。爰につきれば、かしこにあらはれ、かしこにたゆれば、こゝにあらはれ、天地の間に、わく、人なれば、智者のたへても、亦、わくなり。世の中をなげくは、たわけなり。」

と被ㇾ仰し。

 何をうかゞひても、行つまらず、のびのびとしたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なりと、御こたひ[やぶちゃん注:ママ。]被ㇾ遊し。夫故《それゆゑ》に、御心のかたち、空のかたへ、はればれと、ぬけいでしとは申なり。

 おぢ樣は、そしらぬ顏にて、人にほめられたい心が一ぱい故、凡人をぬけても、下の方をのぞいてゐる樣な御心ならんと、おもふなり。

 父樣、おぢ樣、得手のちがひしといふは、おぢ樣、ある病家へ、はじめて御見舞被ㇾ成しに、座付といなや、障子の外の緣側にて、鳥の、少し音(ね)をいだせしを聞(きき)て、

「こなたにては、かい鳥を被ㇾ成るや」

「さよふ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、こたふれば、

「それならば、たしかに、今の鳴聲は、餌にしたき物を見て、くわれぬ故、出せし聲なり。明(あけ)て御覽ぜよ。みゝずか、けらの類(たぐゐ)、いでゝ、あらん。」

と被ㇾ仰し故、あけてみしに、みゝずいでゝ、有(あり)しとぞ。

「常に飼いてならせし人だに其心をさとらぬに、はじめて其聲をきゝて、其心をしられしは、神妙なり。」

とて、感じ、信仰せしとぞ。

 是、一向、得手、被ㇾ成(なされ)ぬ所なり。

 父樣、中年のころ、本田樣[やぶちゃん注:不詳。家内に女ばかりというのは、大々名の家老ではあるまい。]御家老、時疫[やぶちゃん注:流行り病い。]にて、御りやうじ被ㇾ成しが、家内は女ばかりにて、たわひなくまどひて有しに、附子(ブシ)を御付被ㇾ成(なされる)やいなや、

「外(ほか)へ轉藥いたす。」

と斷申來(ことわりまうしきた)りしを、其つかひに、御むかい[やぶちゃん注:ママ。]、被ㇾ仰しは、

「素人は何も御ぞんじなきこと故、尤のことながら、醫をかへるは、時の有(ある)ものなり。たゞ今、轉藥せられては、此病人、必死なり。今、少し、またれよ。只今、周庵、御見舞申。」と被ㇾ仰て、すぐに、御出手づから、藥をせんじて御のませ被ㇾ成しに、病人、かくべつ、ひらけて、正氣付し、となり。

「さらば。轉藥、御勝手次第。」

と被ㇾ仰しが、家内も親類も、いきほひにおそれて、轉藥は、せざりし。大病も、本復せしとぞ。

 それより、御一生、本田樣の御出入と成し。

 かやうないきほひよきことは、おぢ樣は、なし。此ことは御じきのはなしにはなく、本田樣の家中小林村仙といふ醫、

「其時、見聞せし。」

とて、折々ごとに、

「手づから藥をせんじられし御いきほひのよさ。」

とて、かたり出(いで)、かたり出せし故、しりたり。村仙は殊の外、父樣をしたひて、師のごとくせし人なり。此一事を、天のごとくおもひ、たうとみて有し愚醫なり。

[やぶちゃん注:「附子(ブシ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。ここは「ぶす」と聴いて狂言辺りの知識のみで、猛毒の毒薬とのみ合点して、ビビッてしまい、「轉藥」=医師変えを通知したのである。]

只野真葛 むかしばなし (38)

 

〇津輕藩は小家故、おしづなどに、御家中の人、むかへては、

「こちの旦那のくらいな、たかの朋輩、其御家には、いくらも有らん。」

といはれて、挨拶にこまりし、といひし。しかし、それは居(をる)にも、よきことなり。

 ワなど、酒井家中へ行しに、おもひよらぬこと有しは、そのむかし、御家騷動の時分、酒井家にて、むつかしきこと有しを、今の世までも、家中一統、仙臺にまけぬ氣が有て、茶のみ、酒のみ、寄合(よりあへ)ば、其代の手がらばなしをして、りきむことなり。仙臺家をわるくいひたがる心いき故、一生、此ような聞たくない事[やぶちゃん注:ママ。]を聞(きく)は、くるしきことゝおもひて有し。

 父樣御懇意にて、ワを酒井家へ世話したる磯田藤助といふ人の家のおこりは、そのかみ、騷動の時分、仙臺の家中「またもの」[やぶちゃん注:「又者」陪臣のこと。上級領主の直臣の臣下のこと。]にても有し。三人にて切こみ來りしを、其頃、藤助は次男にて、むそくもの、若黨と壱つに成(なり)居(ゐ)たりしが、かくと見るより、ぬき合、切むすびしに、數ケ所、きずは、おひしかども、死(しに)きらず、相手をば、切とめし、とぞ。

[やぶちゃん注:以上の酒井家での話は、真葛の最初の結婚に係わる。ウィキの「只野真葛」によれば、仙台藩上屋敷五年、彦根藩上屋敷五年の計十年にも及んだ奥勤めを『辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった』が、『寛政元』(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は』、父平助より、「かねて自分が懇意にしている磯田藤助が、藤助の従兄弟に当たる酒井家家臣と、そなたの縁談を世話する、と言っているので、嫁に行け。」と『言われ、あや子は父に従った』。既にこの時、真葛は二十七の大年増になっていたのだが、『この結婚は惨憺たる結果』となった。逢った『相手は』、『かなりの老人であり、夫としてはじめて口にした』言葉が、「俺は高々、五年ばかりも生きるなるべし。頼むは、あとの事なり」だった『という。これが自分の一生を託す夫であり、自分の』残りの『人生かと思うと』、『情けなく、泣いてばかりいたあや子は』、『結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それも』、『あや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の』「先は老年と聞くが、其方も、年取りしこと」という『言葉も彼女を傷つけた』とある。「伊達騒動」は万治三(一六六〇)年、第三代藩主伊達綱宗が不行跡で幕府から隠居を命ぜられ、二歳の亀千代 (後の綱村) が家督を相続、伊達兵部宗勝が後見役となり、藩内の進歩派であった原田甲斐と結んで、実権を掌握したが、それに対し不満をもっていた保守派の有力者伊達安芸と伊達式部宗倫(むねのり)の所領争いが発生、安芸は藩内の実情を幕府に注進した。寛文一一(一六七一)年、上野厩橋藩第四代藩主にして幕府大老であった酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷で裁決が行われたが、安芸は甲斐に殺害され、甲斐は酒井家の家臣に斬られ、宗勝は処罰されて、伊達家は安泰となった。]

 殿、此よしを聞せられ、殊の外、御悅氣(およろこびげ)にて、

「人の肩にかゝてなりとも、御前へ、參れ。」

と被ㇾ仰て、めしよせられ、二百石の墨付を手づから被ㇾ下しより、いでたる家なり。あちらこちらをきられて、埒(らち)もなき「かたわ」にて有しが、命は、またくして、ながらへし、とぞ。

 子、なし。養子せしが、それも、何か「かたわ」にて有し、となり。其養子、代々、「かたわ」、代々、養子の家なりとぞ。

 ワ、おぽぼへし藤助も、六ッになる時、養子にきわまるといなや、普請假小屋へ上りしに、落(おち)て背の骨、折(おり)しを、療治して、やうやう、たすかりしに、若殿、明地(あきち)に、ほうづき、多(おく[やぶちゃん注:ママ。])有(ある)を、花ばさみにて、きらせられ、子どもにとらせられし時、餘りはやまりて、手をいだし、小ゆび一本、切(きり)おとされし、となり。是も、子もなくて、養子とおぼへし。わるい[やぶちゃん注:ママ。]家なり。

 何かわ[やぶちゃん注:ママ。]しらず、こち[やぶちゃん注:「こちらの」。仙台藩の。]御家中の人を切(きつ)たが手柄とて、新地被ㇾ下しといふを聞て、うれしくもなきものなり。

 世の中のさたには、

「酒井家、あしゝ。」

といふを、むりに、よいに仕つけるとて、今も、りきむことなり。此はなしがでると、みな、肩をはり、肘を、りきませて、ほこるが、家中のふうなり。

只野真葛 むかしばなし (37)

 

 玄良、妹[やぶちゃん注:三女の「つね子」であろう。加瀬家に嫁していた。]をめとりて、十年、子、なし。ある人、すゝめて曰、

「人の子をもらへば、子のできるものなり。其ためし、有事(あること)あり。女子にてももらわれよ。」

とすゝめしを、

「いや、とても。もらはゞ、女は、めんどうなり。男を、もらはん。」

とて、牧野樣御家中より、男子をもらいしに、いまだ引とらざる内、妻、懷姙、男子出生なり、名、庄之助。

「それ。まじないが、きいた。」

と、すゝめし人は、いふべし。

 養子の里方にては、

「男子、出生。」

と聞て、

「此うへは、御入用に有まじ。取もどさん。」

といひしを、きかず、

「一旦、約せしこと故、ぜひ、家督、つがせる。」

と、いひて、もらひ受し人、權市なり。

 是、わるひおもひ付の一番なるべし。

 又、男子出生、友八といひし。庄之助をば、手前より、よほど、高(たか)よろしきかたへ養子にやりしが、心だて、いかつにして、あたり、かたく、おしづ、大きに苦勞せしなり。

「來ては、家の中を、かきまわし、自由自在を、はたらきし。」

となり。湯に行度に、「あかすり切(きれ)」[やぶちゃん注:「垢磨り布」。]をもちひ、一度、つかひて、すてゝくる。

「手ぬぐひを、かせ。」

といふも、夫切《それきり》などゝいふことにて有しとぞ。

「それも、中やすみの不自由の中から、とられる故、めいわくなり。小袖一おもてにては、一年のあかすりきれに、たらぬ。」

とて、なげきたりし。

 弟友八は、おしづが行し頃は、十六にて、源四郞に、一ッ、ましなり。是は世に珍らしき善人なり。

「此人の、陰にたすけられし。」

とのことなり。おしづ、守のさきばゞは、度々、出入して、やうすも見しが、

「誠に感じ入(いり)しこゝろざし。」

とて語りし。

 さきばゞが逗留の内、權市かたへ、客、有て、ながばなし、夕めし時分に成て、

「膳をいだせ。」

といひしに、權八、外より到來の鮒(ふな)有しを、菜にして出したること有しに、權八は留守なりし。夜《よ》に入りて、權八、かへり、

「酒の看に昨日もらつた鮒が有はづだから、持てこい。」

といひしに、

「ござりません。」

といふ。

「どうした。」

「ひる、お客樣へ上(あげ)ました。」

「誰がきた。」

「だれだれ。」

とか、こたへれば、

「それは權市が所へきた客だ。おれがもらつておいた物を、自由に、わが客へだすはづがない。」

とて、とんだむつかしく成そうな時、友八、とんでいで、

「いや、おとゝ樣、兄樣をおしかり被ㇾ成るな。晝膳をだすに、『何で、上(あげ)やう。』と、女どもが申たから、『是が、よからろふ。』と申て、私が、だしてやりました。兄樣の御存知のことは、ござりません。私が、わるふござります。どこから來たか、存じましなんだ。わるいことをいたしました。どうぞ、御めん被ㇾ成て被ㇾ下まし。」

と、袂にすがり、ひたすら、わびて、小言をやめさせし、となり。

 さきは、晝より見て有しが、またく、友八がせしことにては、なかりしを、たゞ其間(あひだ)をとりむすぶためなりし故、感心せしなり。

 おしづ、來りし時、其はなしをしたれば、

「そのやうなことは、日に、二、三度、有ことにて、めづらしからず、父親も友八がわびごとゝしりながら、年もゆかぬものゝ、なかぬばかりにわびごとする故、それにめでゝ小言をこらへていはずに仕舞ことなり、といひし。

 一躰、小男にて、歲よりはちいさきに、色黑く、しなびだらけな若衆、小家の家中故、人がらも、よろしからず。おさなきより、茶の湯好(ずき)にて有しとぞ。濱町居宅の近所に、其師、有しが、千家なり。けいこ日には、かけず、いでたりし。

 又、近所の「野だいこ」に「さりやう」といふ坊主、有し。三十近(ちかく)にて、きいたふうをする人、

「少々、茶をやつて見たし。」

とて、弟子入せしが、末熟なり。けいこ日に、廻座なるべし、だんだん、いでたてるとき、友八出しを、

「この若衆が、何。」

と、見をとしてゐると、手前の見事さ、いひ分、なし。その次が大坊主の番なり。大きに臆して、ふるひふるひ、出てたてると、いかゞしたりけん、茶杓を、

「ぴん」

と、はねかせしが、頭から、茶をかぶり、折ふし、夏にて、汗、たる、故、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、袂から手ぬぐひを出して、一寸、ふいたれば、靑ぼうづに成し。おかしさ、座中一同、ふきいだせし、とて評判なりし。

 庄之助には、世の中を、ざと、心得し人にて、養家親は隱居して、其身のうへ、妻子も有しに、前町[やぶちゃん注:不詳。]の「うり女」に入上(いれあげ)、當番下りに相番の人の刀をぬすみ、緣の下にかくしたりしぞ、淺はかなる心なりし。手ぜまき家中のこと故、ほどなく露顯《ろけん》せしかば、仕方なく、身をかくし、日陰ものと成しを、父樣、世話にて、「曾(そう)松けい」に御賴み、一生、かくまひ、もらひたり。

 此「松けい」という人[やぶちゃん注:ママ。]、壱ッの、「きりやう人」なりし。父は町醫にて、はやり、よほど大株なものなりしが、十ばかりにては、父に、おくれ、とかくする内、母も死、壱人身(ひとりみ)となり、十三の年、ばくちを打(うち)ならひ、家諸道具を打こんで、かけおちせし人なり。あしきことながらも、十三ぐらいで、そふ[やぶちゃん注:「さう」か。]、物がとりまわされるは[やぶちゃん注:ママ。]、器量のうちなり。

 それより、所々をありきて、後、奈須玄□[やぶちゃん注:底本に『(一字欠)』とある。]

樣の弟子と成て有し。其妹子を、つれのきして[やぶちゃん注:意味不明。「連れ合いにして」か。]、かすかに暮して有し時、ばくち、殊の外、御法度きびしく成し。はじめ、公儀衆のうち、ばくち沙汰にてむつかしき事出來し時、一座したる故、牢入(ろういり)となりて有しを、父樣、きやう[やぶちゃん注:「器用」。]をば、おしみ被ㇾ成、其内は、家内を扶持して、いろいろ御手入被ㇾ成、出牢させて被ㇾ遣し。御おん有(ある)故、いのちをすてゝ、庄之肋を、かくまひしなり。其頃は、薩摩へめしかゝへに成て、御國產方(かた)を、もはら、つとめて有し本草家なり。ちいさな、やせ坊主にて有しが、氣のつよきことは、萬人に勝たり。

[やぶちゃん注:「奈須玄□」延宝七(一六七九)年没の医師に「医方聚要」を書いた奈須玄竹がおり、彼か或いはその後裔か。他に幕府医官奈須恒隆の養子で多くの医書を書いた奈須恒徳(通称は玄盅(げんちゅう))がいるが、彼は安永三(一七七四)年生まれで若過ぎるから違う。

「御國產方」以下を見る通り、薩摩藩及び琉球を主特産・主産地とする漢方生剤を扱う江戸での役方の意であろう。]

 薩摩の國產を[やぶちゃん注:底本は「を」にママ注記。「日本庶民生活史料集成」版では、ここの「を」を『の』とする。]藥種、江戶へ船𢌞しなれば、利、有ことなれども、いつも、破船して、とゞかぬ故、役人を、「うわのり」に付られしも、水に入(いり)て死(しぬ)ことにて、誰も「うはのり」仕(つままつる)人なくて、船𢌞しのこと、やみて有しをしらず、「松けい」、ぞんじよりを申上しに、

「船𢌞し、尤、利、有ども、かくかくの次第にて、『うわのり』する人、なし。」

と、いはれし時、

「私、船『うわのり』、いたさん。」

と、いひしこと[やぶちゃん注:感触であるが、この「こと」は以下の続きから「こそ」ではあるまいか?]、破船、名付、いたづらする時、役人ぐるみに、海にいれたものとは、誰も察せらるゝを、やせ坊主の望(のぞみ)し氣のつよさ、たゞ人ならず。舟頭もおそれて、かゞまりて、何事なく、江戶、着せし時、すぐに、數寄屋町へきて、

「きのふ、薩摩から、かへりました。」

「それは。早く御ざつた。」

と被ㇾ仰しに、

「いや。とんだことで。早く參りました。かやうかやう。」

とて、はなしたりし。

 歸りしあとで、

「たぐひなく、氣のつよひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、御ほめ被ㇾ遊し。其時、御はなしに、

「ばくち打といふものは、すてられぬものなり。此うわのりせしは、ばくちにて、下衆をとりひしぐこと、手のうちに有故、のぞみて、せしなり。覺なくては、のぞまれぬわざ。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「うわのり」ママ。「上乘(うはの)り」で、近世に於いて、貨物輸送船に乗り込んで荷主に代わって積み荷の管理・監督を司った役を指す。]

 

只野真葛 むかしばなし (36)

 

 爰にて、ばゞ樣、御不幸。

 此御病、誰も、うらやまぬ人、なかりし。二月廿二日、ワかたへ、御自筆にて御文被ㇾ下、野菜ものなど、夫《それ》々に被ㇾ下しに、廿三日夜五頃[やぶちゃん注:不定時法では午後八時頃か。]、御不淨にて、

「お遊、お遊。」

と、よばせられしが【「おしづ」、是までは「お遊」といひし。[やぶちゃん注:一般に真葛の母は「お遊」となっているが、実際に名は実は不明であるから、この記載は不審ではない。]】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とする。]、御聲、少々、常ならぬ樣にきこえし故、かゝ樣、御いで御覽被ㇾ成しに、

「あしが、なへた。」

と被ㇾ仰し。不淨より御出がけなるべし。

 不淨のかたをあとに被ㇾ成て、橫におしづまりていらせられしが、一向、御熟睡のてい、少しも、くるしげなること、なし。御床など取て、人々、荷《にな》いて、いれ、寢《ね》かし上(あげ)しまゝにて、夜・晝、こゝろよげに、おしづまり、廿六日、御事切(おんこときれ)と成し。

「このやうにて死ぬものなら、うらやまし。」

と、見る人ごとに申たりし。少しも、毒とあくもなき御生(ごしやう)故[やぶちゃん注:「ご一生の間、少しも、ひどく気の毒なところや、生くるに飽きらるるような悪い後悔ごとも取り立てて御座いませんでしたから、」の意であろう。]、御臨終もおだやかなりしならん。有がたき事なりし。ワは、井伊樣に有しほどに、とまりの御いとま、いでず、日々、三日かよひしが、御目あかせられしことは、なかりし。それも、

「親の外は、ならぬ。」

といふことなれども、

「かねてより、大恩うけし祖母に候へば、病氣の時分、御いとまいたゞきたく。」

と、常のはなしに、しておきし故、年寄衆、母の分に、いひたてゝ、さげられしなり。

[やぶちゃん注:「井伊樣に有しほどに」真葛はて安永七(一七七八)年九月十六歳の時に父の関係で仙台藩上屋敷での奉公を始め、第七代藩主伊達重村の夫人近衛年子に仕えていたが、天明三(一七八三)年には忠勤を評価され、選ばれて、重村の三女詮子(あきこ)の嫁ぎ先となった彦根藩の井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、時の権力者田沼意次であったとされる(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]

 御心たしかの時、御そばにてみやづかへ申上ざりしことを、千度、もゝ度[やぶちゃん注:「百度」。]、くひても、かひなし。

 つくづく思ひば、

『あのごとく、御息才にてあらせられし祖母樣さへ、あのごとし。まして、よわよわしき母樣、御かんがく[やぶちゃん注:ママ。漢字不詳。「かん」は「看」で、看護の意かと思うが、「かんがく」では当該する意味の熟語が浮かばぬ。]のため、御いとま戴たし。』

と、おもへたりし。

 其年七月、玄蕃頭樣、御かくれ、父樣、終に、藥指、上られし。守眞院樣、御十八にて御すがた、かわらせらるゝにつけても、末に御藥上られし人の評判、あしく、

「身をひくべき時、來りぬ。」

と覺悟して、病氣、幸、御いとま戴て有しが、下りて見れば、昔にかはること、おほく、ばゞ樣いらせられねば、いとわびしくおもひし。

[やぶちゃん注:「玄蕃頭樣」前に注した井伊直富(宝暦一三(一七六三)年~天明七年七月十二日(一七八七年八月二十四日)のこと。従四位下・玄蕃頭。ウィキの「井伊直富」にも、『最期に手当をおこなったのは仙台藩の藩医』『工藤平助であった』と明記されてある。数え二十四の若さであったから、以上の風評は判らぬではない。]

 母樣は、こゝにいらせられし内が、御一生の御たのしみなりし。子共、のこらず、より合、にぎやかに、花見よ、舟よ、二丁町は近し、兩國は見世物のたいこが聞へして、やかましく、二丁ばかりあゆめば、大川ばたへ、でる。五百羅漢・萩寺などは音にのみ聞て有しも、ひる過から、おもひたちて、ふと、ゆかれるし、龜井戶・妙見・向島、みな、遠からず、遊んで、くらすには江戶一番の所なりし。

 おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]、雨森(あめのもり)へ婚禮なり。父樣には、御上やしき、遠く、御めいわくと被ㇾ仰し。ばゞ樣と同じ時に、四郞左衞門樣、御大病にて御死去なり。父樣、御ちから、おとし、申ばかりなかりし。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森氏の中に元御所御殿医の雨森良意家(京師)で地下人になった一族がいるが、この後裔か。後で舅の名を出し、それは雨森友心であるが、不詳。但し、後で「おしづ」について、結婚後は津軽藩の屋敷内に迎えられたとあるから、この雨森は津軽藩の江戸藩邸附きの江戸詰藩医であったものと私は推定している。

「四郞左衞門樣」先に出た柔術に秀でた平助の長兄。]

 ワ、廿六の三月、下りて、七の五月、すきや町へ行たりし。ワ、廿八のとし、おつね、大田へ行、おしづ、數寄屋町にて死去なり。

[やぶちゃん注:「おつね」三女。加瀬家に嫁した。「大田」は不詳。

妹の「おしづ」は寛政二(一七九〇)年に亡くなっている。以下の叙述から死因は肺結核と思われる。生年は判らぬが、若死にである。

「ワ、廿六」天明八(一七八八)年。

「七の五月」翌年の二十七歳の時の五月の意。次注参照。

「すきや町」寛政元(一七八九)年五月に工藤一家は日本橋数寄屋町(現在の中央区八重洲一丁目及び日本橋二丁目。グーグル・マップ・データ)に転居している。]

 此人、雨の森へ行て、苦勞ばかりして、はてしぞ、いとをしき。しうと母は小山の妹なり。

「むづかしいのてつぺん。」

と、はじめから、いうことなりし。病中に、婚禮、有。終りの時は、おしづ、懷姙にてありし【終りは、「かこ作」[やぶちゃん注:不詳。]、死去の時なり。】[やぶちゃん注:『原頭註』とある。]。おしづも病身のうへ、心づかひせし故にや、乳不足なりしを、中やすみにて、乳母おく、力なく、たらぬなりにそだてし故、榮之助、大病と成しに付、やうやう、乳母おきて、さて、この方《かた》へ引とりて、療治被ㇾ成たりし。四、五日ありて、死たり。一向、よわりはてゝも、氣のはりたるばかりにつゞきて有しを、

「やれ、心やすや。」

と、ゆるみいでゝより、へたへたと、よわり、死に成(なり)しなり。四、五日の内、死にいたるほどの大病人を、舅ちゝ友心、あしらいやうのひどきこと、三度のめし、平人とおなじく、膳にすわることなりし、とぞ。

 痰けつ[やぶちゃん注:血痰。]、いでゝ、吸をせく力もなきに、背をなでゝもらうこともならぬなどゝいふ樣な事にて、保養、成かねし。

 榮之助、乳、ふそくにて、そだてし故、二ッに成ても、知惠付(ちゑづき)なく、頭の鉢、ひろく成て、足、たゝず。此病は、平安樣【せんの隆朝[やぶちゃん注:真葛の母方の祖父仙台藩医桑原隆朝如璋。]。】[やぶちゃん注:『原割註』とある。]、常に父樣におはなし有し病なりと被ㇾ仰し。

「すておけば、鉢ばかり、ひろく成て、大ばかに成ものなり。八味地黃丸、のませ、かたく。はち卷しておけば、よし。」

となり。其通にりやうじ被ㇾ成しが、よく成たり。

[やぶちゃん注:悪い疾患では水頭症だが、このような療治では治らないから、単に乳児の頭頂の顖門(ひよめき)の骨化癒合が遅かっただけかも知れない。「ひよめき」とは、乳児の場合、頭蓋骨の泉門(せんもん)の骨は接合していないため、脈動に合わせてひくひく動く。頭頂のやわらかい部分を指す。]

 友心御隱居、名、はじめは權八といひし。此人も一哥人なり。質素儉約の名人、

「世の中、菜《さい》がわるくて、飯がくわれぬ。」

といふを笑て、

「食は人の命をつなぐ爲のものなり。費《つゐ》をかけて、菜をまうけ、無理にくふに、およばず。菜がなくて、くわれずば、くわずにをれば、よし。空腹になれば、素(す)めしも、くわれるものぞ。」

と、いひしとなり。

 日々の暮しおもひやるべし。此心では金も持(もた)れそうな[やぶちゃん注:ママ。]所、また、持(もつ)心もなし。たゞ素々として、身を、からく、自(おのづから)もとめて、不自由にくらすが、好(このみ)なり。いやなこと、いやなこと。

只野真葛 むかしばなし (35)

 

 父樣、俗にならせられしは、相模樣御家中、梶原平兵衞といふ俗のはやり醫有しを、○徹山樣御若ざかり御ぼしめし付にて、梶原工藤と兩家に俗醫をこしらへ、工藤をはやりにかたせる思召にて有しとぞ。是が御運のかたむきそめなりし。あのかたは元より俗躰なれば、はやりに、かはること、なし。こなたは髮のなき人のたてたること故、人才によりて、おもき御用にても被仰付ため、醫を御やめ被ㇾ成しこゝ、もはら、世の人、おもひて、病用たのむを遠慮したる故、新病家、いひ入ること、とゞまりし故、暇にならせられしも、〆《しめ》がのろひのきゝたるならん。

[やぶちゃん注:以上はウィキの「工藤平助」に、安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩第七代藩主伊達重村(当時数え三十五歲で藩主就任後二十年目であった。戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」である)により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになる、とあるのを指すものと思われる。

「相模樣御家中、梶原平兵衞」不詳。主家は旗本池田家か。]

 とかくするうち、御やしきにては、一年ましに御不如意とならせらるゝ上、御國は不作續、大きゝん、ほどなく、火難に逢、丸やけにて、次第にかげうすく成やうにならせられし。袋小路のあばらやにて、長庵に御わかれ、御力、おとし、築地川むかへへ、地面、御かり、堀本樣の隣なりし。普請とりかゝりしも、立てばなしにて、埒《らち》あかず、どちらむきても、ふさぐことばかり有し。

[やぶちゃん注:平助の長男で真葛より二歳年下であった長庵元保は天明六(一七八六)年に二十二の若さで夭折した。]

 築地にて、類燒の時分までは、田沼世界故、人もうわきにて金𢌞りよかりし故、進物の金ばかりも、二百兩ばかりは、よりしなり。鍋島樣の家老松枝善右衞門といひし人より、五十兩、進物なりし。二十三十ヅヽ、權門、つき合被ㇾ成しかたより、御もらひ被ㇾ成しなり。

[やぶちゃん注:「鍋島樣の家老松枝善右衞門」鍋島藩支藩蓮池藩家老に松枝善右衛門を見出せる。]

 醫學館へ珍らしき大部の書、御納被ㇾ成しに、ほどなく火事にて有し間、其挨拶に、疊おもて百枚、來りし、となり。是等は、

「誠によき事被ㇾ成し。」

と御悅にて有し。父樣、おぼしめしにも、

「火事の節、持(もち)のきがたし。やけては、寶をうしなふ。」

とて、納められしとのことなり。此時、かなりに賣据《うりすゑ》[やぶちゃん注:家屋を造作付きで売ること。居抜き。]にて、もとゝの[やぶちゃん注:「元殿」であろう。旧邸宅。]へ、うつらせられなば、後の難、うすかるべきに、日々の食味におごり、又、河津重兵衞がために、金は、消はてしなり。

 此人の事は、火事の少し前に、ふと御懇意になりしが、いかなる人か、心の奧も、所行もしらず、水の出花の懇意ぶり、うまくばかり、かたる人、

「火事の時などは、壱人にて、大はたらき、やけだされの翌朝、仕かたなくて有し時、大鍋に『あんかう汁』と飯を送りしが、此御恩ばかりも、わすれがたし。」

といふ、はなしなりし。いづかたにやわすれしが、よき町の名主にて若き壱人もの【淺草の方の名主とみへたり。つれてきた小僧百助の、「油をかいに行」といへば、「家にかへる心にて、うれしかりし。」、ということ有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。やたらにつかひちらして、あと、つまらず、千兩にてうりかへのなる株故、それを七百兩ばかり【此金高、おぼへず。おし當なり。[やぶちゃん注:推定に過ぎないの意。]】[やぶちゃん注:『原傍註』とある。]にもうりしや、其金、七十兩、

「築地の普請金に。」

とて、かして、大工の手付やりし、となり。此仕うちにはまりしが、あさはかのことなり。大工へのかけ合、壱人にて取切てせしが、後には、皆、渡した顏ばかりして、引込、つかいつぶしに成しなり。それに家内の夜具、壱ツづゝにても、六、七人まへ、是も、かろからぬもの。下女どもへも、小袖にても、おかれねば、もめん布子と帶一筋とても、六、七人まへ、何事も手びろきだけに、人數もおほく、時の間に、二百兩、御つかひつぶしになり、普請はあとへも先へもいかず、淚ながらにたてたまゝにて、すてうりに拂、とかくするうち、白川樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世と變じて、金𢌞り、あしくなり、せんかたなき折ふし、濱町に木村養春といふ公儀衆、二百俵の醫師有しが、壱人者にて、娘子壱人有しが、

「家、ひろ過て、こまる。」

よし、

「御出被ㇾ下。」

といふこと、いでたり。

「わたりに舟。」

と、うれしくて、濱町へ御引こしなり。それより養春樣は、こなたの食をふるまひて、家に同居、娘は親類うちへ預けて有し。わびわびながらも、所のよければ、心やすく、たのしみはなりし。

[やぶちゃん注:「醫學館」江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。明和二(一七六五)年に幕府奥医師の多紀元孝(安元)が開設した私塾躋寿館(せいじゅかん)が起源であるが、多紀氏の私財だけでは四年しか維持出来ず、中断されていた。松平定信が筆頭老中となった際、医官の多数が、遊惰で無能なものが多いという理由から、躋寿館を改め、官学にする方針が定められた。寛政四(一七九一)年正月二十三日から、幕府直轄の医官養成校となり、医学館と改称している。文化三(一八〇六)年、大火で焼け落ちたが、浅草向柳原に移転・再建されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「河津重兵衞」不詳。所謂、悪知恵の働く仕事師であろう。

「木村養春」不詳。ただ、元禄七(一六九四)年の史料に(サイト「香取研究室」の「江戸幕府医療制度研究室」に、公に認定された市医として木村養運の名を見出せるので、この後裔であろうか。

「濱町」現在の中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川河口近くの右岸。]

2021/09/28

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前大福米

 

[やぶちゃん注:だらだら長いので、段落を成形した。本篇は瀧沢興継の発表であるが、かなり父馬琴の手が加わっていると考えるべきものである。]

 

   ○松前大福米

 いにしへより仁人・義士・貞婦・孝子の天感によりて、或は米穀、或は錢帛[やぶちゃん注:「せんぱく」。金銭と布帛。]の、不慮にその家に涌出せし事、和漢のためし、少からねど、正しく國史に載せられしは、「書紀」「天智紀」云、三年冬十二月[やぶちゃん注:六六三年十二月から六六四年一月にかけて。同年旧暦十二月一日はユリウス暦で十二月十三日(グレゴリオ暦換算で十二月二十三日)。この月は大の月。]、

『淡海(アマミノ)國言、坂田郡(サカタノコホリ)の人、小竹田身(シノダノム)之(ナガ)猪槽(サカヒ)水中、自然稻生。身(ムナ)、取而收日日到ㇾ富。栗太郡人、磐城村主殷(イハキノスクリオホガ)之新婦(ヨメ)床席(トモムシロノ)頭(カシラノ)端(カタニ)、一宿(ヨ)之間、稻生而穗。新婦出ㇾ庭、兩箇鑰匙自ㇾ天落ㇾ前。婦取百與ㇾ殷(オホカニ[やぶちゃん注:清音ママ。])。殷得始富。』

[やぶちゃん注:引用原文に不審があり、読み仮名もかなりおかしい。まず、原文を示す。

   *

是月、淡海國言、「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。」。「栗太郡人磐城村主殷之新婦牀席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」。

   *

訓読するが、以上の「兎園小説」の読みには、基本、全く従わないことにした。また、私は記紀を御大層な敬語満載のいかにもな奇体な訓で読むやり方が生理的に嫌いであるので、判り安く読む自然流である。上古文学・国語学的なインキ臭い学術的読みではないので、注意されたい。

   *

 是の月、淡海國(あふみのくに)、言(まう)さく、

「坂田郡(さかたのこほり)の人、小竹田史身(しのだの ふびと む)の猪槽(ゐかひふね)の水中に、忽然(たちまち)に、稻、生(お)ふ。身(む)、取りて收むに、日々に、富み、致れり。」

と。

「栗太郡(くるもとのこほり)の人、磐城村主殷(いはきのすぐり おほ)の新婦(にひよめ)の床席(とこむしろ)の頭端(かしらはし)に、一宿(ひとよ)の間(ま)に、稻、生ひて、穗(ほい)でたり。其の旦(あした)、頴(ほさき)を垂らして、熟(な)れり。明日(あくるひ)の夜、更に一つの穗、生ふ。新婦、庭に出づ。両箇(ふたつ)の鑰匙(かぎ)[やぶちゃん注:音「ヤクシ」。鍵。]、天より前に落ちたり。婦、取りて、殷(おほ)に與ふ。殷、始めて富むことを得たり。」

と。

   *

「淡海」は近江で、「坂田郡」は琵琶湖東岸で伊吹山の西南(米原市・彦根市及び長浜市の一部)に当たる。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「栗太郡」は琵琶湖南岸東部(草津市・栗東市付近)。猪槽(ゐかひふね)は、恐らくは、飼育している豚のための水や餌を入れる槽のことである。「小竹田史身」不詳。「史(ふびと)」とあるから文書・記録・歴史記載を担当する官吏であろう。「床席の頭端」新妻の寝床の枕上の敷物の隙間であろう。私は以下の「大福米」は胡散臭く、考証する気にならないが(麹菌で増殖したものか。何だか少年の日に舞台上で見たインド魔術団の延々と水差しから水が出て尽きない「インドの水」とか、如何にも怪しさ百二十%のサティヤ・サイ・ババのヴィブーティー(聖灰)を尽きせずに瓶から搔き出すあの阿呆臭いものを感ずるからだが、この「日本書紀」の記載は少し面白い気がする。もし、「猪槽」が豚の飼養のそれで間違いないならば――豚の飼料の残滓や豚の糞が「肥料」となって、稲が恐ろしくよく育った事態――本邦に於ける稲作改良の一場面を記載しているのかも知れないと思ったからである。

 これらは、遠く見ぬ世の事にて、いと疑はしく思ひしに、近ごろ、松前の藩中に、よくこれと似たる事、あり。

 その由來を傳へ聞くに、寬永十七年春二月廿二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦四月十三日。]、松前の家臣蠣崎主殿[やぶちゃん注:「とのも」。]友廣の家に、米、數升、涌き出でけり。是よりして、或は一升、或は二升、日々に涌出せずといふことなし。かくて、この年の夏四月下旬に至りて、その事、やうやく、やみしかば、友廣、あやしみ、且、祝して、「大福米」と名づけつゝ、主君公廣[やぶちゃん注:「きんひろ」。第二代松前藩主松前公広。]朝臣に進上して、ことのよしをまうしゝかば、人みな、驚嘆せざるは、なし。主君、すなはち、その米數斗を受けとらして、一箇の甁[やぶちゃん注:「かめ」。]にこれを納め、又、その事を略記せしめて、倉廩[やぶちゃん注:「さうりん(そうりん)」。米などの穀物を蓄えておく蔵(くら)。]中に藏め給ひ、その餘の米は、皆、ことごとく、友廣に取らせ給ひぬ。

[やぶちゃん注:「蠣崎主殿友廣」(慶長三(一五九八)年~明暦四(一六五八)年)は蝦夷地松前藩家老で、藩主松前家の傍系親族の守広系蠣崎家二代。初代松前藩主松前(蠣崎)慶広の嫡男蠣崎舜広の十一男蠣崎守広の子である。別名主殿助(とのものすけ)。]

 これより後の世に至り、不慮に[やぶちゃん注:たまたま偶然に。後に出る「ゆくりなく」も同義。]その甁をひらかせて、その米を見給ふに、絕えて、蟲ばみ、朽つること、なく、且、遠からず、ゆくりなき吉事ある事もありけり。

 かゝりし程に、當主章廣朝巨【公廣朝臣より八世歟。[やぶちゃん注:松前章広は第九代藩主なので正しい。]】、家督の後、文化四年春三月廿二日、ゆくりなく松前の采地を召しはなされて、奧の伊達郡築川へ移され給ひしとき[やぶちゃん注:幕府は寛政一一(一七九九)年に松前藩領であった東蝦夷地を七年の期限付きで上知していたが、期限が来ても返還されず、文化四(一八〇七)年二月二十二日には残っていた西蝦夷地の没収も決定されてしまい、同年三月十二日には所領を陸奥国伊達郡梁川(やながわ)藩九千石に移されている。現在の福島県伊達市梁川町。]、彼大福米をも簗川へ運送せしめ給ひしに、その米は近きころ迄、もとのまゝにてありけるに、このとき見れば、蟲ばみ、朽ちて、米粉の如くなりしもの、既に、なかばに及びしかば、その朽ちたるを篩(ふる)ひ袪(ステ)て、その、またき[やぶちゃん注:「全き」。]米をのみ、ふたゝび甁に納めさせて、築川におかせ給ひき。

 かくて、文政元年[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬十一月廿一日、松前家の勘定新役の者、倉廩中なる米穀を展檢することあるにより、大福米の甁を見て、未だその事をしらず、則、これを主公[やぶちゃん注:後に出る通り、同じく章広。]に訴ふ。主君、

「云々。」

と說き示させて、封をきらせて見給ふに、曩に篩ひわけしより十ケ年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさへ、いたく殖えまして、甁七、八分目になりにたるを、章廣朝臣、見そなはして、且、驚き、且、悅び、次の年の春のはじめに、その米を幾合か、簗川より齎して、老父君道廣朝臣[やぶちゃん注:章広の父で前第八代藩主松前道広。]へ「云々」と告げ給へば、老侯、怡々[やぶちゃん注:「いい」。喜ぶさま。]、斜[やぶちゃん注:「なのめ」。]ならず。

「昔よりして、大福米の甁の封皮を、ゆくりなく披く事あるときは、吉事ありとか傳へ聞きたり。しかるに、吾家、舊領にはなれしとき、この米、過半、減少せしに、今、又、殖えしは、故こそあらめ。賀すべし、賀すべし。」

と、宣ひし。

 そのよろこびの餘りにや、このごろ、あわたゞしく、使者をもて、己が父に、その米一包を贈り給はり、

「この米は箇樣に。」

と、その來歷を示させて、件の甁に附けおかれし舊記錄、おちもなく寫しとらして給はりければ、家嚴[やぶちゃん注:自身の父。馬琴のこと。]、しきりに嘆賞して、

「かゝれば、今より、遠からず、大吉事、あらせ給はん。いにしへも、さるためしあり。その事どもは云々。」

と、則、上に錄したる「天智紀」をはじめとして、和漢の故事を抄錄しつゝ、をさをさ、ことほぎまゐらせし。

 これよりの後、わづかに三稔[やぶちゃん注:「三年」に同じ。]、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家に、ゆくりなく、こよなき大吉事、あり。

 松前の舊領を、元のごとくに返させ給ふ臺命を蒙り給ひて、おなじき五年四月十五日に、志州章廣朝臣父子【是より先に、嫡男千之助殿、任官あり、主計頭になられたり。】、もろともに、歸國の御暇を給はりて、同月廿八日に江戶の邸を發駕あり、既にして、五月下旬に、松前の城に着き給へば、君臣上下、おしなべて、みな、とし來の愁眉を開きて、笑坪に入らずといふもの、なし。

[やぶちゃん注:文政四年十二月七日(一八二一年十二月三十日)、幕府の政策転換により、蝦夷地一円の支配が旧松前藩に戻されて旧地に松前藩が復藩した。]

 これに依りて、大福米をも、又、松前へ運送せしめて、舊所の倉に藏めらる。この時にして、事每に、公私となく、大小となく、慶祥、すべて、あまりあり。

 かの「大福の米」の名の、むなしからぬも、奇といふべし。

 件の甁に附けられたる寬永以來の記錄に云ふ。

[やぶちゃん注:以下の文書は底本では全体が一字下げ。]

大福米一甁

此米、公廣尊公御在世寬永十七庚辰年春二月廿二日、沸出蠣崎主殿友廣之家。而後至五月朔日友廣奉獻之。則彼ㇾ納御穀藏者也。

寬永十七年五月吉日封之畢【興繼云、「傳に公廣朝臣は、松前家第七世といふ。いまだその詳なるをしらず。】。此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

 明和四年丁亥十一月[やぶちゃん注:一七六一年十二月から翌年一月。]改而納之

       御勘定奉行    靑山園右衞門

                因藤 與惣治

                小林兵左衞門

       御 鍵 取    和田  甚八

                川村品右衞門

安永元年巳十月五日より太福米御鍵取

                川村  左七

                工藤庄左衞門

[やぶちゃん注:「安永元年巳」不審。「安永元年」は壬辰である。安永二年癸巳の孰れかの誤り。「太」はママ。]

此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

 文化十三丙子年六月四日改之。

       御勘定奉行    近藤  兎毛

                和田  文藏

                蠣崎 喜惣治

                工藤 左太郞

                明石 寅次郞

       下   代    鹿能  與七

  右大福米、於簗川御役所。改之。

 大福米

  此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

   文政元戊寅年十一月二十一日改之。

       御勘定奉行    和田  文藏

                蠣崎 喜惣治

                工藤 左太郞

                明石 寅次郞

       下   代    鹿能  與七

                澤田 忠五郞

                安保佐左衞門

                松村銀左衞門

  右大福米、於簗川御役所收之。

   但、入御覽候に付取出之、其後又納置候樣仰に付、御藏へ納置之。

家嚴、既にこの福米の感あり。且、老侯の愛願を蒙り奉るも、はや年ごろになるをもて、文政五年の春たつころ、ことほぎのこゝろをよみて、まゐらせし長歌あれば、ちなみに、こゝにしるす折、

「おこ、な、せそ。」

とて、とめられしを、猶、やみがたくて、ものす、といふ。

[やぶちゃん注:以下、長歌は四段組みで、各段は均等配列。ベタにしようかと思ったが、或いは判じ物の可能性もあるので、一応、似せて示した。]

  こたび舊領にかへらせ給ふことほぎのこゝろを

  よみてたてまつる長歌

                 瀧澤  馬琴

みちのくの えみしの國は  くさのきぬ まゆつらなりし

なめ人の  たけきこゝろに けものなす おのがまにまに

おこなひて 親をおやとし  したはねば 君をきみとし

いやまはず 家しもあらで  をちこちに あさりすなどり

朝なゆふな ふす矢さつ弓  とりほこり そむきまつるを

みかどより いくさのきみを またしつゝ うたしたまへば

したがひつ あとはみだれて としあまた みつぎをたえて

ともすれば 靑人ぐさを   ほふりたる 嘉吉のとしに

わかさなる たけ田のとのゝ しらま弓  はるばるみちを

ふみわきて かゆきかくゆき うちをさめ をしへみちびき

まつりごち しりぞしづめて 常磐なす  松まへの城に

百とせを  よつかさねつゝ いそのかみ ふりにし事の

いやたかき 御代にきこえて いやちこに 遠つみおやの

うるはしき いさをもつひに なまよみの かひなきまでに

まがつひの そこなひけらし もゝのふの やな川へとて

月も日も  うつればかはる しまつ鳥  うかりける世に

よろこびの 時は來にけり  ゆくりなく もとのさかひに

もとのごと かへされ給へば 冬ながら  春かとぞ思ふ

春來れば  あづまのさたを ことさへぐ えぞに傳へて

えぞ人の  うちもあほぎて たのもしく おもはんのみか

おしなべて しるもしらぬも ひな鶴の  千とせの後も

龜の子の  よろづよまでも 松竹の   さかゆるまゝに

かぎりなき 北のまもりは  君ならで  誰やはあると

かくばかり ことほぎまつる ことの葉に よむともつきじ

さきくさの さきくありける ことのみにして

   反歌

みちのくのえぞの高濱あれぬとも立ちかへる浪の花ぞ目出度

曩に老侯より家嚴に賜はりし大福米は、後の「耽奇」に出だすべし。

 文政八年七月期   琴嶺 瀧澤興繼謹誌

[やぶちゃん注:ヨイショの(馬琴が興継の代筆をしたり、松前公にこんなサーヴィスをするのは偏に息子興継の出世のためである。残念なことに、興継は若くして病死してしまうのだが)糞言祝歌に興味はない(アイヌを蛮人として描いているのが、殊更に腹が立つ!)から注もつけたくないのだが、私がどうしても言いたいところと、躓いたところだけは附す。

「まゆつらなりし」「眉連なりし」。

「なめ人」「無禮人(なめひと)」。アイヌに対する差別表現。無礼であったのは他ならぬ我々「和人」であった。

「ふす矢さつ弓」「伏(臥)矢獵弓」。アイヌの民は短弓の射撃に優れた狩人であった。その短刀や弓と矢筒のフォルムは素晴らしい。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ)」のモースの描いた挿絵を見られたい。

「嘉吉のとしに わかさなる たけ田のとのゝ……」ウィキの「蠣崎氏」(先に注した通り、松前氏の先祖は蠣崎姓)によれば、「新羅之記録」(しんらのきろく:歴史資料。別称に「松前国記録」「新羅記」。寛永二〇(一六四三)年、幕命によって編纂された「松前家系図」を初代松前藩主松前慶広の六男景広が、正保三(一六四六)年に、記述を補って作成した系図と史書を兼ねたものを、近江国園城寺(三井寺)境内の新羅神社に奉納したもので、寛永一四(一六三七)年の福山館の火災により焼失した元記録を、記憶によって纏めたものと言われているが、他の一次史料記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている。ここは当該ウィキに拠った)に拠れば、松前氏は若狭武田氏の流れを汲む武田信広を祖とする。若狭武田氏当主信賢の子とされる武田信広が宝徳三(一四五一)年に若狭から下北半島の蠣崎(現在のむつ市川内町(かわうちまち))に移り、その後、北海道に移住し、その地を治める豪族となったとある。嘉吉は一四四一年から一四四四年まで、その後、文安・宝徳を挟んで享徳三年までは、十~七年ほど離れるものの、若狭から蠣崎を経て松前に至るまでの時間としては、腑に落ちなくはない。

「しらま弓」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus の木で作った、白木のままの弓であるが、万葉以来、「弓を張る・引く・射る」ことから、同音の「はる」「ひく」「いる」などに掛かる枕詞である。

「なまよみの」枕詞。「甲斐」にかかる。

「しまつ鳥」「島つ鳥」で「鵜」の古名。転じて「う」の枕詞。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (20) 御伽婢子と雨月物語の内容

 

     御伽婢子と雨月物語の内容

 

 超自然的な怪奇を取り扱つた作品の内容も、その形式と等しく頗る相似通つて居る。御伽婢子と雨月物語の内容の似て居るのは當然であるけれども、ポオの作品にも相似寄つた點があるのは興味ある現象といはねばならない。中にも戀愛を取り扱つたものには類似の題材が多く、例ヘば御伽婢子の「眞紅の打帶」(剪燈新話の「金鳳叙記」を飜案したもの)と、ポオの「リジア」とは頗る似たところがある。

[やぶちゃん注:以下は私のブログの「伽婢子卷之二 眞紅擊帶(しんくのうちをび)」で電子化注済み。なお、以下の「雨月物語」は私は少なくとも五冊以上の注釈版本を所持しているので、わざわざ原文リンクを必要としないのだが、最初の注に従い、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会大正七(一九一八)年刊の「上田秋成全集第一」の「雨月物語」の頭をリンクさせておく。各編はお手数乍ら、ご自身で探されたい。

『ポオの「リジア」』既出既注

 以下の梗概は、底本では全体が一字下げ。]

 越前の敦賀に檜垣平次といふ士《さむらひ》があつた。その一族が織田信長に攻められたゝめに、身をかくして上洛し五年間を暮した。彼には許嫁《いひなづけ》の女があつたが、別離の悲哀のために思ひ死にをしてしまつた。彼女の親は平次が出立の際與ヘて行つた眞紅の帶を、彼女の死骸に結びつけて野邊の送りをすませた後、幾何もなく平次は歸つたが、彼女の死をきいて獨り物思ひに沈み乍ら暮して居ると、ある日彼女の妹が外出するに逢つたが、その時妹が乘り物から落したものを見ると見覺えのある眞紅の帶であつた。不思議に思ひながら家に歸ると、その夜妹が忍んで來てさまざまに搔き口說いたので、彼は妹と駈落して三國《みくに》の湊に行き一年ばかりを夢のうちに暮したけれども、良心の呵責のために、敦賀に歸り、妹を船にとどめて、妹の兩親に詫を入れると、兩親は驚いて、帶はたしかに姉娘の死骸と共に葬つたこと及び妹娘は一年このかた重病で寢て居ることを語つた。こんどは平次が吃驚して船へ人を遣はして見ると、殘して來た筈の妹娘は居なかつた。するとその時病床の妹は枕をあげて、姉そのままの聲を出し、『前世に深い緣があつたから、閣魔大王に暇を貰つて一年あまり樂しく暮しましたが、もう私は歸ります。』といつて平次の手を取り、暇乞をして父母を拜み、更に『平次さんの妻となつても必ず女の道を守つて兩親に孝行をしなさい。』といひ乍らわなわなと顫へて倒れてしまつた。皆が驚いて顏に水を灑ぐと、妹は蘇生し病は忽ち平癒したが、何事も覺えがないといふことであつた。かくて妹は平次の妻となつて共に姉の跡を弔つた。といふのが眞紅の打帶の梗槪である。

 ポオの『リジア』では、ある男が、容貌も知識も古今に稀なといつてよい位の女と灼熱的な戀をする。ところがその女は死なねばならぬ運命に際會した。彼女はジョセフ・グランヴィールの『人間は意志さへ强ければ天使にも死にも決してその身を委ねることはない』といふ言葉を三度迄繰返して絕命する。男は悲歎のあまり、ライン河畔を去つてイギリスの片田舍に渡り、阿片溺愛者となつたが、女の遺產で、東洋風な邸宅に住ふことになり、そこで二度目の妻を迎へた。この女は第一の妻とは比較にならぬほど敎養が低く、男は頻りに先妻に戀ひこがれた。程なくして第二の妻も病氣にかゝつて絕命するが、やがて甦つた姿は先妻リジアであつたといふのである。

[やぶちゃん注:「リジア」「(18) 淺井了意と上田秋成」で既出既注。]

 この二つの物語は、共に强烈な戀は死をも征服することを描いたものであるが、前者では姉の靈が妹の生靈に宿り、後者では遺志の强い女の靈が、血緣關係のない女の死體に宿つたのであつて、凄味は遙かに後者に多いけれど、ポオのような巨匠でないものが、かういふ取扱いひ方をしたならば恐らく失敗するに違いない。

 これ等の物語とその内容は少しちがふが、强烈なる夫婦の戀は雨月物語の『淺茅《あさぢ》が宿《やど》』に美しく描かれてある。零落した男が家運再興のために上洛すると、その留守中に鄕里は戰亂の巷となつた。八年振りに歸つて見ると、最愛の妻は昔のわが家に待ちわびていたので、つもる話に夜を更かし、さて曉の夢がさめて見ると、自分一人が八重葎の中に臥て居て、妻の姿もわが家も見えなかつた。驚いて附近の人にたずねると妻はとくの昔に世を去つて居たといふ筋で、甚だ簡單である。然し、

[やぶちゃん注:同前。]

『たまたま此處彼處《ここかしこ》に殘る家に、人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つゝもあらね、いづれか我住みし家ぞと立惑《たちまど》ふに、こゝ二十步ばかりを去りて、雷《らい》に摧《くだか》れし松の聳えて立《たて》るが、雲間の星のひかりに見えたるを、げに我軒の標《しるし》こそ見えつると、先《まづ》喜《うれ》しきこゝちしてあゆむに、家は故《もと》にかはらであり、人も住むと見えて、古戶の間《すき》より燈火の影もれて輝々《きらきら》とするに、他人や住む、もし其人や在《いま》すかと、心躁《こころさはが》しく、門に立よりて咳《しはぶき》すれば、内にも速く聞《きき》とりて、誰《た》そと咎む。いたうねびたれど正《まさ》しく妻の聲なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ歸りまゐりたれ。かはらで獨自《ひとり》淺茅が原に住みつることの不思議さよ、といふを、聞知りたれば、やがて戶を明《あく》るに、いといたう黑く垢づきて、眼《まみ》はおち入りたるやうに、結げたる髪も背にかゝりて、故《もと》の人とも思はれず、夫を見て、物をもいはでさめざめと泣く。』

 の一節などは、物語の簡單な筋を文章の妙によつて補つて餘りあると謂はねばならない。ことに『雷に摧かれし松』を持つて來た技巧は非凡である。

『淺茅が宿』は主として御伽婢子の『遊女宮木野』の一篇がその題材となつて居るらしいが、この『遊女宮木野』は、剪燈新話の『愛卿傳』[やぶちゃん注:底本は『愛鄕傳』となっているが、誤植と断じ、訂した。]の飜案である。又、雨月物語の中の『夢應の鯉魚』は、古今說海『魚眼記』の逐語譯と言つてよい。かういふ點を考へて見ると、超自然を取り扱つた題材といふものは、殆んど先人によつて搜し盡されたといつてよく、これからの怪奇小說の作者は、表現に新味を求めるより外はないかもしれない。

[やぶちゃん注:「遊女宮木野」私の「伽婢子卷之六 遊女宮木野」を参照されたい。

「古今說海」(ここんせつかい)全百四十二巻。明の陸楫(りくしゅう)撰。明までの小説百三十五種を「説選」・「説淵」・「説略」・「説纂」の四部に分けて収めている。もっぱら小説のみを集めた叢書は、現存するものでがこれが最も古い。特に「説淵」部には「杜子春伝」・「李章武伝」・「崑崙奴伝」・「魚服記」・「人虎伝」などの唐代伝奇の名篇がぞろりと収録されていて、伝奇作品の後世への影響を考察する上で貴重な資料とされる。]

 雨月物語には『白峯』、『菊花の契』、『淺茅が宿』、『夢應の鯉魚』、『佛法僧』、『吉備津の釜』、『蛇性の婬』、『靑頭巾』、『貧福論』の九篇が收められてあるが、このうち『靑頭巾』はその前半には變態性慾という現實の怪奇が取り扱はれて居るし、又、秋成が理窟家であることを知るに都合がよいから、特に紹介して置こうと思ふ。この物語は衆道に墮して鬼と化した庵主が行脚憎によつて得度されるといふ筋であつて、愛する少年の死を悲しんだ庵主は、『懷の璧《たま》を奪はれ、插頭《かざし》の花を嵐に誘はれしおもひ、泣くに淚なく、叫ぶに聲なく、あまりに歎かせ給ふまゝに、火に燒き、土に葬ることをもせで、瞼《かほ》に瞼をもたせ、手に手をとりくみて、日を經給ふが、終に心神《こころ》みだれ、生きてありし日に違《たが》はず、戲れつゝも其肉の腐り爛るゝを吝《をし》みて、肉を吸ひ、骨を嘗めて、はた喫《くら》ひつくしぬ。寺中の人々、院主こそ鬼になり給ひつれと、連忙《あはただ》しく逃去《にげさり》ぬる後《のち》は、夜な夜な里に下りて、人を驚殺《おど》し、或は墓を發《あば》きて、腥々《なまなま》しき屍を喫ふありさま、實《まこと》に鬼といふものは、昔物語には聞きもしつれど、現《うつつ》にかくなり給ふを見て侍れ』といふ狀態になつたのであつた。この狂妄の人に法を說いた行脚僧は、三年の後再び庵を訪れると、その人は、昔のままに葎《むぐら》の中に端座して、敎へられた通りに證道の歌を誦し、影のやうな人の聲ばかりが、生き殘つて居るのである。僧が禪杖を振りまはすと庵主の肉身は立ちどころに消えて靑頭巾と骨ばかりが散ばつて居たといふ結末である。作者は勿論後半の超自然的怪奇の凄味を多からしめんがために、前半に現實の怪奇を述べて居るためでもあらうが、現實の怪奇を述べる筆は、上に示したごとく一こう物凄くも何ともない。して見ると超自然的怪奇を取り扱ふ時と、現實の怪奇を取り扱ふ時とでは、作者はその態度をきつぱり變へてかゝる必要があるかもしれない。

[やぶちゃん注:この「靑頭巾」は私が「雨月物語」中、最も偏愛する一篇で、高校教師時代にオリジナルに授業案を作り、何度も古文の授業で全篇を教授した。私はそれを、雨月物語 青頭巾やぶちゃん訳やぶちゃんのオリジナル授業ノートとしてサイトで公開しているので、是非、読まれたい。

 それは兎に角、この一篇中に眼だつ所は、作者が人間が鬼になつた古今の例證を長々と擧げて居ることである。卽ち、『楚王の宮人は蛇となり、王含が母は夜叉となり、吳生が妻は蛾となる』といつたり、又、『男子にも隋の煬帝《ようだい》の臣家に麻叔謀といふもの、小兒の肉を嗜好《この》みて、潜《ひそか》に民の小兒を偸《ぬす》み[やぶちゃん注:底本は『嗜み』となっているが、これは不木の誤りかと思う。特異的に原作によって訂した。]これを蒸して喫《くら》ひしもあれど』などと書いて居る。これはかのポオの『早過ぎた埋葬』の始めの部分の実例記載や、『かねごと』の中の笑と死とに關する議論と同じやうなものであつて、一方から言へば作品の效果を多からしめるかもしれぬが、うつかりするとペダンチックだといつて笑はれる。秋成も可成りに議論が好きであつたと見え『貧福論』の如きは怪奇小說にはちがひないが、始めから終《しま》ひまで議論で埋つて居て、こゝにもまたポオと秋成との類似が認められるのである。

[やぶちゃん注:「早過ぎた埋葬」知られた短編小説。原題は‘The Premature Burial ’ 。一八四四年。梗概は当該ウィキを見られたい。

「かねごと」「予言・兼言」で「前以って言っておく言葉」の意。 「約束の言葉・未来を予想していう言説」を意味する。ここはポーの「約束事(ごと)」(The Assignation :一八三四年)のこと。中間部で主人が私に彼の館の建築と室内装飾について説明する内容を指す。但し、議論というより、殆んど主人の一方的な主張である。]

 さて、雨月物語にあらはれる幽靈を通覽するに、『吉備津の釜』にあらわれる人妻磯良の生靈が多少主觀的な色彩を帶びて居るだけであつて、あとは皆客觀的な幽靈である。それにも拘はらず、十分なる凄味をあらわし得たのは偏に秋成の非凡なる手腕の然らしめたところであるといはねばならない。

2021/09/27

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (19)  御伽婢子と雨月物語の文章

 

     御伽婢子と雨月物語の文章

 

 如何に幽靈の眞の信者であつても、文章が拙くては、優れた怪奇小說を作ることが出來ない。作者が幽靈の信者であつても、讀者は十人が十人幽靈の信者でないから、讀者を强く戰慄せしめるためには、文章の力に依る外はないのである。御伽婢子や雨月物語の成功して居るのは、その美しい文章の力であつて、このことはポオの作品に就ても同樣である。『アシャー家の沒落』を讀んだものは、何よりも先にその文章の巧さに魅せられる。『雨月物語』の九篇の小說を讀んで、文章の妙味に醉はされぬ人は恐らく少ないであらう。

 特種な妙文を書くには特種の感覺を必要とする。ボードレールは散文詩を創作し、人工美に極端な憧憬をいだいたが、遂に嗅覺に新らしい詩的聯想を發見するに至つた。例へば彼は麝香をもつて緋と金色とを思ひ起させると言つたが、かうした特種の感覺は[やぶちゃん注:共感覚(シナスタジア:synesthesia)と呼ぶ。ある一つの刺激に対し、通常の感覚だけでなく、通常人では反応しない、異なる種類の感覚が自動的に同時に有意な確率で生じる知覚現象を指す。例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに色や形を感じたりするケースを言う。私の教え子の女性に一人いた。日本語以外の文字を見ると色が見えるとのことであった。ある程度馴れた言語ではそれがあまり発生しなくなるとも言っていた。]、やがて彼の文體に影響して、一種言ふにいへぬ絢爛な熱情的な色彩を躍動せしめたのであるが、ポオに就ても、また秋成についても同じことが言へるであらうと思ふ。尤も秋成の文章にはボードレールほどの異常感覺は認められないが、秋成が文體といふことに可なりに鋭敏な感じをもつて居たことは事實であつて、かの本居宣長との論爭にもその一端が覗はれると思ふ。その音韻假名遣の論爭の如きは、語學上の論議ではあるけれど、一面からいへば、彼が文章に對する熱情を認めない譯にはいかぬ。ロンブロソーはポオやボードレールの文章を、狂的發作の影響が然らしめたであらうと論じたが、實際狂的になる位にならねば名文章は書けぬかも知れない。

[やぶちゃん注:「音韻假名遣の論爭」本居宣長「字音仮名用格」(安永五(一七七五)年刊)に対しての秋成が吹っ掛けた古代音韻研究の論争。秋成は後の寛政六(一七九四)年の「霊語通」で時節を述べているが、この論争は輻輳したものがあって、「日の神論争」と呼ばれる。天明六(一七八六)年(年)から翌年にかけて宣長と秋成の間で書簡を通して交わされた国学上の論争で、具体的には「日の神」=「天照大御神」を巡る論争であったが、その前半戦に於ける古代日本語の「ん」の撥音の存在の有無を巡る論争である。因みに、宣長は古代には「ん」の音も半濁音も存在しなかったと立場をとり、現在それらが普通にあるようになったのは音便の結果であると主張したのに対し、秋成はそれらが古代から存在したと主張し、両者一歩も引かない頭突き合いとなった。それぞれの主張は宣長が「呵刈葭」(かかいか:寛政二(一七九〇)年頃成立:この書名は「葭刈(あしかる)」人=誤ったことを主張する「惡しかる人」を「呵(しか)る」という意に掛けた不穏当な書名らしい)で、秋成が「安々言」(やすみごと:寛政四(一七九二)年)という書で纏めている。なお、現在の言語学では「ん」の発音は漢字の伝来以降に形成されたというのが、学問上の定説らしい。しかし、「なめり」を「なんめり」と読めという非道な高等学校古文の常識を不審に思い続けた人間であり、そうであるなら、私は秋成の考えをこそ支持すべきであると考えるものである。則ち、「ん」(「n」「m」)の撥音は本来的に原日本人に備わっていたと考えるものであり、私は思想家としては独善的ファシストである宣長が嫌いであるからでもある。]

 凄味を目的の怪奇小說は通常短いことがその特徵となつて居るやうである。寸鐵人を殺すといふ言葉のあるとほり、人の心をびりつと戰慄せしめるにはなるべく短い方が效果が多いやうに思はれる。然しいふ迄もなく短か過ぎてはやはりいけない。長過ぎず短か過ぎず適當に書くのが作者の腕である。了意の御伽婢子が雨月物語に及ばぬのは、各々の物語が一般に短か過ぎるといふこともその原因の一つであらう。雨月物語に收められた九篇の物語は、四百字詰原稿用紙十枚乃至二十枚のもので一番長番長い『蛇性の婬』も約三十枚のものである、モーリス・ルヴェルの恐怖小說が日本語に飜譯して十枚乃至二十枚であることゝ比較して見ると頗る興味があると思ふ。もとより物語の長短などは、内容によつて定まることであるから、兎や角言ふのは野暮であるかも知れぬが、俳句や川柳が限られたる字數の藝術であるところを見ると、怪奇小說の長さといふことに一考を費すのも、無意義なことではあるまいと思ふ。

 短かい紙數の中に、作者の狙つた氣分を十分に漂はせることは甚だむづかしいことであつて、其處に怪奇小說作者の特別な技倆が必要となつて來る。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用部は全体が一字下げである。言うまでもないが、以下は「伽婢子」の中の名篇中の名篇「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」である。リンク先は私がこの春に行ったブログ版の電子化注である。]

『戌申の歲、五條京極に荻原新之丞と云者あり、近き比妻に後れて、愛執(あいしふ)の淚、袖に餘り、戀慕の焰、胸を焦し、獨淋しき窓の下《もと》に、ありし世の事を思ひ續くるに、いとゞ悲しさかぎりもなし。聖靈祭りの營みも、今年は取わき、此妻さへ無き名の數に入ける事よと、經讀み囘向して、終に出《いで》ても遊ばず、友だちの誘ひ來《く》れども、心、唯、浮立たず、門《かど》に彳立《たたずみたち》て、浮れをるより外はなし。

  いかなれば立《たち》もはれなず面影の

     身にそひながらかなしかるらむ

と打詠《うちなが》め、淚を押拭《をしぬぐ》ふ。十五日の夜いたく更けて、遊び步《あり》く人も稀になり、物音も靜かなりけるに、一人の美人、その年、二十《はたち》許と見ゆるが、十四五許の女《め》の童《わらは》に、美しき牡丹花《ぼたんくわ》の燈籠持たせ、さしも徐やかに打過ぐる。芙蓉の眥《まなじり》あざやかに、楊柳《やうりう》の姿、たをやかなり。桂の黛《まゆずみ》、碧《みどり》の髮、いふ許りなくあてやか也。萩原、月の下《もと》に是を見て、是はそも天津乙女《あまつをとめ》の天降《あまくだ》りて、人間《じんかん》に遊ぶにや、龍の宮の乙姬の渡津海《わたつみ》より出で慰むにや、誠に、人の種《たね》ならずと覺えて、魂《たましひ》、飛び、心、浮かれ、自《みづから》をさへ留むる思ひなく愛で惑ひつゝ後《うしろ》に隨ひ行く。』

 とは、御伽婢子の中の、有名な『牡丹燈籠』の一節である。これを讀むと、この窈窕《えうてう》たる[やぶちゃん注:美しく上品で奥床しいさま。]美人が幽靈であると知れない前に、何となくこの世のものでないやうな氣がする。又『野路忠太が妻の幽靈物語の事』の一節には、同じく妻を失つた男が妻の幽靈に訪ねられる有樣を敍して、

[やぶちゃん注:以下、底本では引用部は全体が一字下げである。なお、以下のそれは「伽婢子卷之四 幽靈逢夫話」。リンク先は同じく私のブログ版電子化注。]

『三日の後、便りにつけて聞けば、妻、風氣《ふうき》をいたはりて死せりと言《いふ》。忠太、悲しさ限りなし。とかくして江州に歸り、其跡を慕ひ、妻が手馴れし調度を見るに、今更のやうに思はれ、淚の落《おつ》る事、隙なし。日比《ひごろ》の心ざし、わりなき中の、其の期《ご》に及びては、さこそ思ひぬらんと思ひやるにも、なにはにつけて歎きの色こそ深く成けれ。寢ても覺めても面影をだに戀しくて、

  思ひ寢の夢のうき橋とだえして

     さむる枕にきゆるおもかげ

と打ち詠じ、若しわが戀悲しむ心を感ぜば、せめて夢の中にだにも見え來りてよかしと、獨言して日をくらす。比《ころ》は秋も半ば、月、朗かに、風、淸し、壁に吟ずるきりぎりす、草村にすだく蟲の聲、折にふれ、事によそへて、露も淚も置き爭ひ、枕を傾《かたぶ》けれども、いも寢《ね》られず、はや更かたに及びて、女の泣く聲かすかに聞えて、漸々に近くなれり、よくよく聞《きけ》ば、我妻が聲に似たり。忠太、心に誓ひけるは、我妻の幽靈ならば、何ぞ一たび我にまみえざる。裟婆と迷途と隔《へだて》ありとは云へ共、其かみのわりなき契り、死すとも忘れめやと。其の時、妻は窓近く來り、我はこれ君が妻なり。君が悲しみ欺く心ざし、黃泉《よみぢ》にあれども堪がたくて、今夜《こよひ》こゝに來り侍べりと。』

と書いたあたり、幽靈の出て來る雰圍氣が、その美しい文章によつて巧みに醗酵させられて居る。

 たゞあまりに文章がなだらかであるために出て來る幽靈が現實のやさしい人間と變りがなく、ために陰森凄愴たる感じを與へることが少ない。一口にいふと美しい刺繡の幽靈を見て居るやうであつて、この點から考へても、了意は眞の幽靈信者ではなかつたかも知れない。これに比べると、秋成の幽靈には一段の凄味がある。

[やぶちゃん注:以下同前。]

『よもすがら、供養したてまつらばやと、御墓《みはか》の前のたひらなる石の上に座をしめて、經文、徐《しづか》に誦《ず》しつゝも、かつ歌よみてたてまつる。

  松山の浪のけしきは變らじを

       かたなく君はなりまさりけり

猶、心怠らず、供養す。露いかばかり袂にふかゝりけん、日は没しほどに、山深き夜のさま、常ならで、石の床《ゆか》、木葉《このは》の衾《ふすま》、いと寒く。神《しん》淸《すみ》骨《ほね》冷えて、物とはなしに凄《すざま》じきここちせらる。月は出しかど、茂きが林は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく、圓位《ゑんゐ》、圓位、とよぶ聲、す。眼をひらきて、すかし見れば、其《その》形《さま》、異《こと》なる人の、背高く、瘦《やせ》おとろへたるが、顏のかたち、著《き》たる衣の色紋《いろあや》も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行、もとより道心の法師なれば、恐《おそろ》しともなくて、こゝに來たるは誰《た》ぞと問ふ。』[やぶちゃん注:最後は原本では「答ふ」である。]

 とは、『白峯』の一節であるが、その凄味に於ては、同じ題材を取り扱つた露伴の『二日物語』に、優るとも劣つては居ないやうな氣がする。『菊花の契《ちぎり》』に於て、赤穴宗右衞門の亡靈が左門を訪ねて來るところなどは、まだ亡靈とはわからないのに、一種の凄味が漂つて居る。

[やぶちゃん注:「露伴の『二日物語』」前半は明治二五(一八九二)年五月『國會』初出で、後半は九年後の明治三四(一九〇一)年一月『文藝倶樂部』である。私は不木に言おう! 並べられては上田秋成の方が可哀そうだ! 露伴の怪談など、全然、話にならない愚作である。彼の怪談で慄然としたことは私は一作もない!

 以下同前。「菊花の約(ちぎり)」は「白峯」に次いで名篇であり、私の偏愛するものである。以下のシークエンスは実際にその場に私が左門になって実際に体験したようなデジャ・ヴュがあるほどである。]

『午時《ひる》もやゝかたふきぬれど、待つる人は來らず。西に沈む日に、宿《やどり》急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方のみまもられて、心、醉へるが如し。老母、左門をよびて、人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきは、けふのみかは。歸り來る信《まこと》だにあらば、空は時雨にうつりゆくとも、何をか怨べき。入りて臥《ふし》もして、又、翌の日を待つべし、とあるに、否みがたく、母をすかして、前《さき》に臥さしめ、もしやと、戶の外に出でて見れば、銀河、影、きえきえに、氷輪《ひやうりん》[やぶちゃん注:月の異名。]、我のみを照して淋しきに、軒守《もきも》る犬の吼《ほ》ゆる聲、すみわたり、浦浪の音ぞ、こゝもとにたちくるやうなり。月の光も山の際《は》に陰《くら》くなれば、今は、とて、戶を閉《た》てて入らんとするに、たゞ看る、おぼろなる黑影《かげろひ》の中に、人ありて、風のまにまに來る《く》を、あやし、と見れば、赤穴宗右衞門なり。』

 簡潔にして要を得て居る所、ポオの文章を思ひ起せる。

 すべて、超自然な事柄を取り扱ふに際し、西洋の作者でも東洋の作者でも、同じやうな背景を選ぶやうである。先づ最も多く選ばれるのは、前揭の諸例に見られるやうに夜分、しかも月を配した夜である。次は人通りなき山中か或は訪ふ人もなき癈墟である。更にその次には暴風雨や霧である。秋成はそれ等のものを自由自在に組み合せて、愈々作品の印象を深からしめることに成功した。

[やぶちゃん注:以下、二つの引用は同前。]

『五更の空明ゆく頃、現《うつつ》なき心にも、すゞろに寒かりければ、衾被《かづき》んと搜《さぐ》る手に何物にや、さやさやと音するに目さめぬ。面に冷々《ひやひや》と物の零《こぼ》るゝを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根はの風に捲くられてあれば、有明の月の白みて殘りたるも見ゆ。家は扉《と》もあるやなし、簀垣、朽頽《くちくずれ》たる間《ひま》より、荻・薄、高く生《を》ひ出《いで》て、朝露、うちこぼるゝに、袖、濕《ひ》ぢて、絞るばかりなり。壁には蔦葛延びかゝり、庭は葎《むぐら》に埋《うづも》れて、秋ならねども、野らなる宿なりけり。』(淺茅が宿)

『松ふく風、物をたふすがごとく、雨さへふりて、常ならぬ夜のさまに、壁を距てて、聲を掛合ひ、既に四更に至る。下屋の窓の紙に、さ、と、赤き光さして、あな憎くや、こゝにも貼《おし》しつるよ、といふ聲、深き夜には、いとゞ凄《すざま》じく、髪も生毛《うぶげ》も、悉く聳立《そばだ》ちて、暫くは死入《しにいり》たり。』(吉備津の釜)

 など、例をあげればまだ幾らもあるが、同じやうな筆をつかひ乍ら、しかも巧みに一々の情緖を描きわけて居るのは、さすがに巨匠の腕かなと驚嘆せざるを得ないのである。

 かやうな筆法はポオによつても採用された。かの『アシャー家の沒落』の中には、廢墟に似た荒びた建物、嵐の夜の音又は月光などが、巧みに按排されて、いふにいへぬ美しい凄味が描き出されて居る。たゞポオの作品にありては、彼自身の内側から發する病的恐怖が中心となつて居るために、一層深刻に描き出されて居るのであつて、超自然的怪奇小說の效果は、どうしても、作者自身の先天的性質の如何によつて定まるものと考へざるを得ない。だから同じ材料を取り扱つても、作者の素質次第でいくらでも、凄味を深からしめることが出來るのであつて、現に雨月物語に收められた作品の題材の中には、後に說くやうに、御伽婢子その他の怪奇小說から取つたものが可なりにある。だから現今に於て、雨月物語の内容をそのまゝ書き直しても、書き手によりては雨月物語よりも遙かに物凄いものが出來るかも知れない。このことは强ち怪異小說に限らず、一般の文藝作品に就ても言ひ得ることであるけれども、同じ凄味を取り扱つたルヴェルの作品の如きは怪奇の發見そのものに價値があるのであつて、もし同じ題材を取り扱つたならば單なる剽窃になつてしまふから、特に注意したまでである。之に反して御伽婢子に收められた物語の約三分の一が、支那の剪燈新話の飜案であり乍ら、それ自身に獨特の凄味をもつて居るのは、超自然的題材の剽窃が所謂換骨奪胎たり得ることを示すものといつてよい。

 然しながら、現代に於ても、超自然的題材を取り扱つた小說が、果して喜ばれるか否かといふことは全くの別問題である。雨月物語やポオの作品からは、いはばたゞ美しい凄味を得るだけであつて、近代人が要求するところの、身震ひするやうな戰慄といふものは得られないから、追々ルヴェルの作品のやうなものが、好まれるだらうと思はれるけれど、それはいまこゝで委しく論ずべき範圍ではないのである。

畔田翠山「水族志」 タバミ (フエフキダイ)

 

(一七)

タバミ【紀州日高郡由良足代浦】一名タモリ【紀州海士郡雜賀崎浦】白頰

大者尺餘形狀黃翅ニ似テ觜細ク眼大也背淡靑色帶ㇾ黃腹白色頰白色

細鱗「ハカタヂヌ」ノ如シ脇翅淡黃色腹下淡黃色ニ乄黑條アリ本ノ刺

太ク二寸許白色帶淡紅縱ニ條アリ腰下鬣淡黃色本淡黑色其本ニ太

キ刺三アリ中ノ刺長ク乄二寸餘白色帶淡紅縱ニ條アリ背ノ上鬣刺

長三寸許陰陽刺アリ淡紅色ニ乄淡黑斑アリ下ナルハ本黑色ニ乄其

下淡黄色尾淡黃色ニ乄淡黑斑アリ端淡黑色漳州府志ニ烏頰全棘鬣

但其頰烏又有白頰ト云ヘハ白頰ハ棘鬣類ノ白頰也閩中海錯疏及閩

書ニ白頰魚ヲ載曰似跳魚而頰白跳魚ハ弾塗ニ乄「トビハゼ」也棘鬣類

ノ白頰ト同名異物也

○やぶちゃんの書き下し文

たばみ【紀州日高郡由良足代浦。】一名「たもり」【紀州海士郡雜賀崎浦。】・白頰

大なる者、尺餘。形狀、黃翅〔はかたぢぬ〕に似て、觜〔はし〕、細く、眼、大なり。背、淡靑色に黃を帶び、腹、白色。頰、白色。細鱗。「はかたぢぬ」のごとし。脇の翅〔ひれ〕、淡黃色。腹の下、淡黃色にして黑條あり。本〔もと〕の刺〔とげ〕、太く、二寸許り。白色に淡紅を帶ぶ。縱に條あり。腰の下の鬣〔ひれ〕、淡黃色、本は淡黑色。其の本に太き刺、三つあり。中の刺、長くして、二寸餘、白色に淡紅を帶ぶ。縱に條あり。背の上の鬣の刺、長さ三寸許り。陰陽の刺あり。淡紅色にして、淡黑の斑あり。下なるは、本、黑色にして、其の下、淡黄色。尾、淡黃色にして、淡黑の斑あり、端〔はし〕、淡黑色。「漳州府志」に、『烏頰〔すみやき〕、棘鬣、全きたり。但し、其の頰、烏〔くろ〕、又、白頰〔はくきやう〕も有り。』と云へば、「白頰」は棘鬣類〔きよくりやうるゐ〕の白き頰のものなり。「閩中海錯疏」及び「閩書」に、「白頰魚」を載せて曰はく、『跳魚に似て、頰、白し。』と。跳魚は「彈塗〔だんと〕」にして「とびはぜ」なり。棘鬣類の「白頰」と同名異物なり。

[やぶちゃん注:宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)ではここで、

スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

の方言の一つとして挙げる。他に「クチビ」「クチビダイ」『(紀州各地)』とし、その名は『口中赤色であるため』とし、「タバミ」は『(田邊・切目・鹽屋)』とし、「タバメ」は『(周參見』(すさみ:現在の和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見。]『・串本』とし、「タマメ」は『串本・三輪崎』』とした後、本「水族志」では「タモリ」『(雜賀崎)』と挙げ、また、別に田辺では「タバミババク」と本書にあるとするが、少なくとも、ここではない。「WEB魚類図鑑」の同種のページによれば、『他の日本産フエフキダイ属魚類とくらべ、体高が著しく高い。胸鰭基部の内側には鱗がないか』、『あっても少ない。背鰭棘中央部下の側線上方横列鱗数(Trac)は』通常は五列。『鰓蓋後端が赤いものと』、『そうでないものがいるが、これについては現在』、『研究がすすめられている。体長』は四十センチメートル程度で、分布は、新潟県)以南、『神奈川県』から『鹿児島県、瀬戸内海、沖縄、小笠原諸島』の他、『済州島、台湾』東『シナ海』で『岩礁域』の『砂泥底にすむ。沿岸からやや沖合に見られ、水深』百メートル『前後まで見られるよう』であるが、『小型個体は浅海に多い』。「食性」は『肉食性』で『甲殻類や小魚などを捕食する』とある。『釣りや沖合底曳網で漁獲され、食用になる。標準和名フエフキダイであるが、日本の太平洋沿岸には』、『あまり多くなく、東シナ海や日本海西部などに比較的多い』とある。

「紀州日高郡由良足代浦」現在の和歌山県日高郡由良町のこの湾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。由良町網代がある。

「紀州海士郡雜賀崎浦」和歌山県和歌山市雑賀崎のこの附近

「白頰」「しろほ」或いは「しらほ」か。「ほお」は漁師は縮約するだろうと踏んだ。

「黃翅〔はかたぢぬ〕」前回の『畔田翠山「水族志」 ハカタヂヌ (キチヌ)』に異名として出る。

「背の上の鬣の刺、長さ三寸許り。陰陽の刺あり」宇井氏の記載によれば、『背鰭は十棘九軟條』とあるので、この「陰陽」とは軟条と硬い棘条を指すものと思われる。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、何度も出ているが、ここのところ、サボっているので再掲する(以下の二書も同じ)。原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「烏頰〔すみやき〕」前回も注したが、「烏頰魚(すみやき/くろだひ)」というのは、前項にも注で出した、スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini を指すとしか思えないのである。畔田は真正の現在のクロダイを想起して書いているとしても、そうした部分をバイアスとしてかけて読む必要がある。

「棘鬣類〔きよくりやうるゐ〕」広義のタイ類。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「中卷」はこちらである。但し、三種を並べて述べているので、以下に引く(後者の画像が不具合で見れないので、恣意的に一部の漢字を正字化した。太字は私が施した)。

   *

 彈塗  白頰  塗蝨

「彈塗」、大如拇指。鬚鬛靑斑色。生泥穴中。夜、則、駢首、朝、北。一名「跳魚」。「海物異名記」云、『登物捷、若猴。然故名「泥猴」。』。「白頰」、似跳魚而頰白。「塗蝨」、生於泥中、如蝨。故名一呼「塗蝨」。有刺彈人。一名「彈瑟」。田塍潭底、往往有之、一名「田瑟」。

   *

これは面白い記述だ。「塗蝨」は特に惹かれる。これは直感だが、跳ねて、人が刺されるとなると(生息域は泥中ではなく、ごく浅い岩場だが)、スズキ目ゲンゲ亜目ニシキギンポ科ニシキギンポ属ギンポ Pholis nebulosa の仲間ではないかと考えた。鰭が結構、硬く、尖っており、中・大型個体(最大三十センチメートル)に不用意に触ると、かなり痛む。但し、現代中国語では「塗蝨」(音「トヒツ」)は調べてみるに、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps を指しているようである。それも確かに指すし、泥田(「田塍」の「塍」(音「ショウ・ジョウ」:現代仮名遣)は「田の畔」の意)の中にいて、刺されると、激しく痛むという点、ナマズの仲間であるが、前の二種のハゼ同様、細長いから、納得出来、違和感はない。因みにこの場合の「塗」は「(泥に)塗(まみ)れる」性質による呼称と読める。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「跳魚」「弾塗〔だんと〕」孰れも広義のハゼ類(条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei)を指す。

「とびはぜ」現行ではハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科 Oxudercinae トビハゼ属 Periophthalmus のことを広義には指すものの、特にその中でも、和名としてはトビハゼ Periophthalmus modestus に限定される。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 靈救水厄の金佛觀世音の事に付 文政二年四月七日 松前家臣佐藤隼治より君公へたてまつりし書狀の寫【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】

 

   ○靈救水厄の金佛觀世音の事に付

    文政二年四月七日

    松前家臣佐藤隼治より

    君公へたてまつりし書狀の寫

    【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】

寬文二年壬寅[やぶちゃん注:一六六二年。]九月廿七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十一月七日。]、松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシと申す村にて、和歷代の内、佐藤木工左衞門[やぶちゃん注:「もくざゑもん」。]と申者、川流れいたし、柳の根に止まり候處、蝦夷共、集まり、引き揚げ候節、兩手に土を握み、上り、其節、手に握り候土の内に、觀音の金佛、有之候處、同所へ祠を建て、右之金佛、松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候。寬文二年より今文政二年迄凡百五十年餘に可相成哉と奉存候。右木工左衞門、其町御奉行相勤、御同所出火之砌、立腹仕候由、松前年々記に有之樣覺え罷在候。

  卯四月七日      佐 藤 隼 治

[やぶちゃん注:標題はブログ・タイトルの通り、ベタ一行で、小五月蠅い読点附きであるが、ブラウザの不具合を考え、本文では改行し、読点も附さなかった。

「寬文二年壬寅九月廿七日」グレゴリオ暦一六六二年十一月七日。

「松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシ」不詳だが、支笏湖の方五十七キロメートルも離れるが、北海道勇払郡むかわがある(グーグル・マップ・データ)。漢字は「鵡川」を当てる。同地区を貫流するも「鵡川である。「キナオシ」は見当たらない。当字は「木直」か(同名の地区が北海道函館市木直町としてある)。

「和歷代の内」「和人としてここに官人(後に「町奉行」とする)として勤めていた歴代の中で」であろう。恐らくは、今も同名の末裔の人物がおり、現にその観音を蔵しているのであろう。

「松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候」「郡」は「歸・皈」の判読の誤りであろう。恐らくは「松前へ持ち歸りて、今も所持仕りて候ふ」であろう。

「文政二年」一八一九年。

「松前年々記」慶長元(一五九六)年から寛保元(一七四一)年までの松前藩の年代記。成立は寛保二(一七四二)年頃。

「佐藤隼治」「北海道大学 北方資料データベース」のこちらに、彼宛の二通の通知状(「松前藩士佐藤家文書」)があり、その「佐藤隼治禄高通知 (二百石)」で彼の名前の読みは「さとうはやじ」であることが判明した。通知状が送られたのは文政六 (一八二三) 年とある。

 以下、「奇といふべし。」まで、底本では全体が二字下げ。]

解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事のくだりに、これをも倂せ記すべきを忘れたれば、別に出だせり。按ずるに、白石先生の「琉球事略」に載せたりし、「林太夫が事」と、佐藤木工左衞門が事と、よく相似たり。林太夫が溺れしとき、とり携へしは、「梅の枝」にて、感得せしは「天滿宮の木像」なり。又、木工左衞門が溺れしとき、堰留めたるは「柳」にて、感得せしは「金の觀音」なり。「木」は東方・春の色、「梅」は菅家の遺愛たり。「金」は西方・秋の色、又、「楊」は觀音に、因み、いちじるし。これ彼共に奇といふべし。

附けていふ、曩に予があらはしたる「ひやうし考及圖說」にも、『松前にて、イタヤといふ樹、未詳。木蓮をイタヰといへば、これにはあらぬか。』としるしゝは、猶、ひがことなりき。再、按ずるに、「北海隨筆」に云、『楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なり。』といへり【「下」の卷「夷言」の條下に見えたり。】。これにより、イタヤは楓なるよしをしるものから、猶、心もとなければ、いぬる日、松前家の醫師牧村右門、訪ひ來りし折、この一條を擧げて質問せしに、牧村が云、「イタヤは、卽、幷楓の事なり。その葉は、よのつねなる楓より、大きし。その樹、松前に多くあり、蝦夷地には、いよいよ多かり。よりて、松前にて薪にするは、皆、イタヤなり。凡、『ひやうし』を造るもの、材竃(マキ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]木などをもてすれば、『ひやうし』は、必、イタヤに造ると思ふものもあらん。その木に拘ることにはあらず。」と、こともなげに答へらる。よりて思ふに、松前にてイタヤといへるは、「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】のたぐひなるべし。又、「ひやうし」の綱に、よる、といふシナの事をたづねしに、牧村が云、「シナといへるも、木の皮なり。その皮をもて、索(ナハ)にすれば、麻よりは、なかなかに、つよし。松前にてシナを文字に「极」と書くものもあり。當否はしらず侍り。」と、いひにき。この兩條は、「ひやうし考」の圖說の末に、つけ紙して、しるしおかれんことを、ねがふかし【今、按ずるに、「正字通」、『「极」、音「桀」。驢背上木以負物[やぶちゃん注:「驢(ろば)の背の上に木を以つて負はす物」か。]』なり。『「㭕」、卽、「极」。「极」、或作「笈」。』と見えたり。かゝれば、シナに「极」と書くこと、その義に、かなはず。當に「栲」に作るべし。】。又いふ、今玆五月のはじめにやありけん、倉卒に書きつめたる拙者の「帶かけ考」にも、遣漏ありけり。「伊豆國海島風土記」【下の卷。】に八丈島なる男女の風俗をしるして云、『女の帶は幅壱尺なり。長さ、四、五尺に紬を織り、蘇方木を以て、赤く染め、その儘、單にて用ひ、老若ともに是を前にて結ぶ。男は眞を入れ、くけたる帶を結びたるもあり。』と、いへり。

[やぶちゃん注:以下最後まで底本では全体が一字下げ。]

解云、これも亦、「帶かけ」の遺風なるべし。今、佐渡にては、女の帶の、幅廣きをもて結ぶ故に、帶ひらをば、竪にたゝみて、その帶に、はさむなり。又、八丈島なる女は、いにしへの帶かけをやりて、帶にせしより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕の人をまじへず。こゝをもて、古風の存すること、多かり。此他、五島・平戶などの風俗をも訪求せば、かゝるたぐひ、猶、あるべし。抑、予が「帶かけ考」は、「兎園」にのせぬ「別錄」なれども、遺忘に備へん爲にして、且、寫しとられたる一兩君に告げんとて、いふのみ。

  文政八年秋七月朔  玄同 瀧澤 解 識

[やぶちゃん注:「解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事」「兎園小説」第六集の「土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音」の後半のそれ。

『白石先生の「琉球事略」』新井白石著「琉球國事畧」。正徳元(一七一一)年。琉球の国情を白石が将軍徳川家宣に報告したもの。原本を確認出来ない。

「ひやうし考及圖說」「第一集」の「ひやうし考に圖說」リンク先のそれは「馬琴雑記」版底本であるため、実はこの附記も既に挿入されてある。しかし、微妙に表記等がことなるので、ここでは吉川弘文館随筆大成版とそれとの違いを示すために、零から電子化した。

「北海隨筆」前記リンク先では注しなかった。幕府江戸金座の後藤庄三郎の手代板倉源次郎なるもの紀行文で、調べた書誌データでは、奥書には「右隨筆者元文二年の春松前より蝦夷へ至り翌年の冬江都へ歸り見聞の事ともを記せし也」とある。「国文学研究資料館」の画像データの一写本(貴重書らしい)のここである。本文ではなく、掉尾の語彙集(「夷言」)の中にある。右丁の七行だが、実は馬琴は致命的に誤読していることが判明した! この行を総て起こす。

   *

桐(タウヘ)【松前にてはイタヤといふ。日本のより、葉、大なり。】・桜(サツフ)・栗(シケ)・木実(イベ)・楓(タフベニ)

   *

御覧の通り、馬琴は「桐」を「楓」と誤読した上、しかも「楓」のアイヌ語「タフベニ」を「タラベニ」と誤っている。これは諸本の誤りでないとすれば、要訂正注レベルのひどい誤りである。しかし、以下の牧村は確かに「イタヤ」は「幷楓」と言っている。とすれば、この写本の筆者者が誤ったものか? しかし、最後に「楓」をもってきておいて、この頭に同じ「楓」逆立ちしても配さない。牧村は知ったかぶりしたのではないか? と私は勘繰りたくなる。

「松前家の醫師牧村右門」こちらの「松前藩家臣名簿:ま行」の史料文書によるリストで、牧村右門は寛政一〇(一七九八)年の時点で「御近習列」、文化四(一八〇七)年で「医師」、後の嘉永六 (一八五三) 年には「中書院格医師」とある。

「幷楓」「ならびかえで」か。不詳。

「材竃(マキ)木」「竃(かまど)で燃やす材にする木」で「薪(マキ)」か。

『「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】』国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここと、ここ(図はこちら)。植物は全電子化する気がないので、ここで訓読しておく(ひらがなの読みは私の推定)。図もトリミング補正して添えた。

   *

楓(ヲガツラ) 「江陰縣志」曰、『白楊に似て、葉、厚く、枝、弱し。善く搖(ゆら)ぐ。故、字、風に從ふ。霜後、色、赤し。「合璧事類」に、「楓葉、圓(まどか)にして、岐(マタ)、分れ、三角なり。」』。今、案ずるに、「和名」に「楓」を「オガツラ」と訓ず。その葉、まことに白楊(ハコヤナギ)に似て、兩々、相ひ對す。賀茂の祭に用る「カツラ」、是なり。又、筑紫にても「カツラギ」と云ふ。葉、「カヘデ」より大きなり。花は「サヽゲ」の花のごとく、三、四月、開く。形狀は似たれども、からの書にいへるやうに、「オカツラ」は紅葉せず、香、なし。是、眞に楓なりや、未だ詳かならず。「朝鮮には楓あり。香、あり。」と云ふ。「桂」を順が「和名」に「メガツラ」と訓ず。「オガツラ」に對す。楓を「カヘデ」と訓ずるは、あやまれり。「カヘデ」は機樹なり。

 

Katuranoha

 

   *

この葉の図によって、「楓」はカエデ(ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer )ではなく、カツラ(ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )であることが判明した。本篇のそれもそうとることで不審の一部が解消出来る。

「シナ」日本特産種のアオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica 。樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く、古くから主に太い綱の材料とされてきた。

「极」誤字。荷車用の馬につけた鞍。荷鞍(にぐら)。シナノキには本邦では「科」「級」「榀」の漢字が当てられ、現代中国では「椴」の字が当てられている。

『當に「栲」に作るべし』誤り。「栲」は「かじのき(梶木)」(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )、又は「こうぞ(楮)」(バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera )の古名である。孰れも和紙の原料としては知られる。

「倉卒」

『拙者の「帶かけ考」』「馬琴雑記」のここから(リンク先は標題の「帶被考」のみ)読める。これは後に電子化予定の「兎園小説別集」のこちらにも載る。

「伊豆國海島風土記」八丈島・八丈小島・青ヶ島・大島・三宅島・新島・式根島・神津島・御蔵島・利島(としま)の風土・歴史・民俗等を記したもので、幕僚の佐藤行信なる人物が天明元 (一七八一)年に、吉川秀道なる者に伊豆諸島を調査させた結果をもとに書き上げたものとされる(以上は「静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介(8)」PDF)の本書についての記載に拠った)。

「文政八年」一八二五年。]

2021/09/26

伽婢子卷之十 妬婦水神となる

 

[やぶちゃん注:今回は状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。]

 

Tohu

 

   〇妬婦(とふ)水神(すいじん)となる

 山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり。

 世に傅へていふ、

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし。この故に、つひに配偶(はいぐ)、なし。橋の南に離宮(りくう)明神あり。昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ。その來り給ふ時は、宇治の川水、白波、たかくあがりて、すさまじき事、いふばかりなし。されば、明神の哥に、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎの

   行あひのまに霜やおくらむ

と、よみ給ひし。」

とかや。

 然るに、宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也。

 このゆゑに、今に到りて、兩郡(《りやう》ぐん)、緣を結ぶには、橋より北の方、「槇(まき)の嶋」より、舟にて川を渡る事也。これは、

「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて、ひとり、やもめなる事を怨み、ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり。」

と、いへり。

 それにはあらず。

 昔、宇治郡に、岡谷式部(をかのやしきぶ)とて、富裕の者あり。

 その妻は、小椋(おぐら)の里の領主村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)といふ人のむすめ也。

 物嫉み、極めて深く、召し使ふ女童(《めの》わらは)まで、少し人がましきをば[やぶちゃん注:少しでも女として相応の器量を持っていたりすれば。]、追出《おひいだ》して、たゞ、五體不具の女ばかりを、家の内には集め、使ひけり。

 餘所(よそ)の事をも、男女《なんによ》のわりなき物語を聞《きき》ては、そのまゝ、腹立ち、怒りて、食、更に、口に入れず。

 まして、わが夫(をつと)の事は、悋氣(りんき)ふかく、せめかこちて、門より外に出《いだ》さず。

 岡谷も、もてあつかふて、

「去(さり)もどさん。」

とすれば、

「我に、いとまをくれて、去(さり)たらんには、鬼になりて、とり殺さん。」

など、すさまじく罵しりけり。

 年をかさぬれども、子も、なし。

 岡谷、つねには、双紙をよむ事を好みて、慰(なぐさみ)とす。

 「『源氏物語』の中に、物嫉み深きためしには、六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり、髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり。これ、皆、『物ねたみ、深きためし。』とて、後の世迄も、名を殘せし。是等は、恐ろしながらも、『眉目(みめ)かたち美しかりし』と、いへり。たとひ、悋氣深くとも、和御前(わごぜ)も、みめよくは、ありなむ。さのみに、たけだけしう、嫉み給ふな。」

といふに、女房、大《おほき》に腹立ち、

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて[やぶちゃん注:死んで転生して。]、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」

とて、髮は、さかさまに立ち、口、廣く、色、あかうなり、まなこ、大《だい》に、血、さし入《いり》たるが、淚を、

「はらはら」

と流し、座を立《たち》て、走り出つゝ、宇治川に飛び入《いり》たり。

 水練を入《いれ》て求むれ共、死骸も、見えず。

 岡谷、驚き、平等院にして、さまざま、佛事、とり行ひけり。

 七日《なぬか》といふ夜《よ》の夢に、妻の女房、來りて、岡谷にいふやう、

「我、死して、此《この》川の神と、なれり。橋を渡りて緣を結ぶものあらば、行末、必ず、遂(とげ)さすまじ。」

とて、夢は、さめたり。

 これより、

「橋を渡りて、緣を結べば、必ず、別離する。」

と、いへり。

「船にて川を渡すにも、眉目(みめ)わろき女には、仔細なし。顏かたち、美しき女の渡れば、必ず、風、あらく、波、たちて、舟、危し。」

といふ。

 此故に、新婦(よめ)を迎へて、川を渡すに、波風なきときは、

「新婦(よめ)のみめ、惡(わろ)からん。」

と、諸人、これを知るとかや。

[やぶちゃん注:全国に見られる橋姫伝説は数多注してきたので、ここで改めて語る気にならない。手っ取り早く、梗概を知りたければ、ウィキの「橋姫」を見られたいし、民俗学的なそれは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫』(十分割)を読まれたい。なお、これも時制を特定していない。しかし、個人的にはここまでの「伽婢子」の中では珍しく読後がいかにも後味悪い作品である。妬心をいやさかに燃え上がらす妻を病的に描くことに執着した了意に、妙なもやもやしたダークな一面(彼の人生の中の女の影)を見るからであろうか。

「山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり」宇治橋周辺は宇治川右岸が旧宇治郡、左岸が旧久世郡宇治郷に当たる。橋姫神社をポイントした(グーグル・マップ・データ)。

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし」不審。「新日本古典文学大系」版脚注でも、直後の『文にも』「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて」『とするが、宇治の橋姫を醜女』(しこめ)『とする伝承は見当たらない。美女を妬むとする原話』(本篇は五朝小説「諾皐記」の「臨清有妬婦津云々」を原話とすると前注にある)『に即した付加か』とある。

「離宮(りくう)明神」先の地図で宇治川の対岸にある末多武利神社(またふりじんじゃ)。祭神は藤原忠文(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)は天慶二(九四〇)年、「平将門の乱」鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ、東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。忠文は大納言藤原実頼の反対により、恩賞の対象から外されたことから、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫に祟ったとされ、この神社は、その忠文の御霊を慰めるために創建されたもの。

「昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ」前掲の岩波文庫の高田氏の注に、『「宇治の橋姫とは姫大明神とて、宇治の橋本に座す神也。其の神の許へ、宇治橋の北に座す離宮の神、夜毎に通ひ給ふとて、暁毎に川波大きに声あり」(『顕注密勘』)』とあり、以下の歌について、『「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行合のまより霜や置くらむ」(『新古今集』巻十九、神祇歌)。「かたそぎ」は、「片削ぎ」で片方を削ぎ落したもの』とある。「片削ぎ」とは神社の神明造りに於いて、破風板の両端が棟でX字型に交差するが(これを「千木(ちぎ)」と呼ぶ)、それが更に上に突き出た部分を指す。その先端部は孰れも片側が削がれてあることに由来する呼称である。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『出来斎京土産七。橋姫宮に「離宮神夜る』夜る『橋姫に通ふあかつきごとに川波大きに声ありといへり。又ある説に住吉明神宇治の橋守の神に通ひ給ふといへり。明神の歌に』として次の「夜や寒き」の歌を引く」とある。

「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行あひのまに霜やおくらむ」「新古今和歌集」(一八五五番)のそれは、「住吉御歌となん」という後書を持ち、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎのゆきあひのまより霜やおくらむ

である。確認した「新日本古典文学大系」(同集・一九九二年刊)で、その赤瀬信吾氏の訳に、『夜が寒いのか、わたしの着ている衣が薄いのか、それとも片そぎの千木のまじわっている隙間から、霜がもれて置いている』からな『のであろうか』とある。

「宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「むかしより橋姫の前を新婦(よめ)入する時通らず。久世と宇治との縁を結ぶには橋の下より舟にて渡る事なり。橋姫のまへを通りぬれば神ねたみ給ひて夫婦の中すゑとをらずとかや」(出来斎京土産七・橋姫宮)』とある。花嫁御寮の行列が特定の橋を禁忌とする習俗は各地に見られ(鎌倉の深沢にもある)、これは霊魂がそこを伝って海へ下る霊的なシステムとしての川、及び、それを自然ではなく橋(同時にそれは「端」であり、非日常に繋がる「辺縁」である)というジョイントで繫いでいる場所は、日常と異界との通路に相当するため、川や橋自体が「晴れ」の儀式の禁忌対象となることは極めて腑に落ちるものである。

「槇(まき)の嶋」現在の宇治川左岸の京都府宇治市槇島町(まきしまちょう)。

「ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり」「緣邊」は縁が結ばれて両者が結びつくこと。特に婚姻による縁続きの間柄を指す語。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(10) /橋姫~了』に、『傳說の解釋は面白いものだが同時に中々むづかしく、一寸自分等の手の屆かぬ色々の學問が入用である。此場合に先づ考へて見ねばならぬのはネタミと云ふ日木語の古い意味である。中世以後の學者には一箇の日本語に一箇の漢語を堅く結び附けて、漢字で日本文を書く便宜を圖つたが、其宛字の不當であつた例は此ばかりでは無い。ネタミも嫉又は妬の字に定めてしまつてから後は、終に男女の情のみを意味するやうに變化したが、最初は憤り嫌ひ又は不承知などをも意味して居たらしいことは、倭訓栞などを見ても凡そ疑が無い。而して何故に此類の氣質ある神を橋の邊に祭つたかと言ふと、敵であれ鬼であれ外から遣つて來る有害な者に對して、十分に其特色を發揮して貰ひたい爲であつた。街道の中でも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に、人間の武士が切處として爰で防戰をしたと同じく、境を守るべき神をも坂又は橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於ては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍の無いやうに、土地の者は平生の崇敬を怠らたかつたので、そこで橋姬と云ふ神が怒れば人の命を取り、悅べば世に稀なる財寶を與へると云ふやうな、兩面所極端の性質を具へて居るやうに考へられるに至つたのである。又二つの山の高さを爭ふと云ふ類の話は、別に相應の原因があるので逢橋と猿橋と互に競ふと云ふなども、男と女と二人列んで居る處は、最も他人を近寄せたくない處である故に、卽ち古い意味に於ける「人ねたき」境である故に、若し其男女が神靈であつたならぱ、必ず偉い力を以て侵入者を突き飛ばすであらうと信じたからである。東山往來と云ふ古い本を見るに、足利時代に於ても此信仰の痕跡が尙存し、夫婦又は親族の者二人竝び立つ中間を通るのは最も忌むべきことで、人が通るを人別れ、犬が通るを犬別れと謂つて共に凶事とするとある。つまり此思想に基づいて、橋にも男女の二神を祭つたのが橋姬の最初で、男女であるが故に同時に安產と小兒の健康とを禱ることにもなつたのである。ゴンムの『英國土俗起原』やフレヱザーの『黃金の枝』などを見ると、外國には近い頃まで、此神靈を製造する爲に橋や境で若い男女を殺戮した例が少なくない。日本では僅かに古い古い世の風俗の名殘を、かの長柄の橋柱系統の傳說の中に留めて居るが、其は此序を以て話し得るほど手輕な問題では無いから略して置く。近世の風習としては、新たに架けた橋の渡初めに、美しい女を盛裝させて、其夫が是に附添ひ橋姬の社に參詣することが、伊勢の宇治橋などにあつたと、皇大神宮參詣順路圖會には見えて居る。橋姬姫の根源を解說するには、尙進んでこの渡初めの問題に立入つて見ねばならぬのである』とある。さすればこそ、ここで妬心深き妻は自ら命を絶つのであるが、それが他ならぬ橋であってみれば、この話柄の淵源は人身御供にまで遡ることが可能である。美麗な婦人でありながら、病的に妬心の炎(ほむら)を立てる彼女は日常的存在でないことによって、宿命的に既にして神に選ばれし者であったのである。

「それにはあらず」否定表現ではなく、「それは、まず、さておいて」という枕の発語。

「岡谷式部(をかのやしきぶ)」不詳。

「小椋(おぐら)の里」既出既注の豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)」不詳。

「六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり」不審。葵の上に憑依して、結局、彼女をとり殺すのは、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊であり、それも六条御息所自身が殆んど意識していない潜在意識内に於ける憑依である。

「髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり」岩文庫の高田氏の注に、『紫の上の姉』(異母姉)『にあたる。夫が玉鬘に夢中なので物の怪の発作を起こして』、雪の日の朝、性懲りもなく玉鬘のもとに向かおうとする夫に『火取の灰をあびせかける』とある。

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」この言い方を見るに、彼女は妬心が病的に亢進し、自分の美貌に対しても、自信と絶望のアンビバレントな感覚を抱いていることが判る。強い関係妄想を伴う重い統合失調症の様相を呈していることが判る。

「水練」泳ぎの達者な者。

「平等院」ここ。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (18) 淺井了意と上田秋成

 

     淺井了意と上田秋成

 

 淺井了意と上田秋成とは江戶時代に於ける怪奇小說の兩巨擘《きよはく》である。前者は伽婢子と狗張子を著はして怪奇小說の元祖の地位を占め、後者は雨月物語を著はして中興の祖となつた。雨月物語一集は、日本古今を通じての怪奇小說の白眉といつてよいから、中興の祖といふ言葉は或は適當でないかも知れない。適當でなければ何とでも改める。兎に角、怪奇小說の作者としての上田秋成は第一人者として奉つてもよいであらう。實に秋成の作品のあるものはポオの作品に比肩すべきであつて、而も秋成にはポオの作品に見られない秋成獨得の味がある。かの歷史的人物の亡靈を引つ張り出して、一層讀者の感興をそゝるあたりは彼獨得の味といつてよいのであらう。否、彼獨得といふよりも、日本の怪奇小說に獨得な點であつて、すでに英草紙あたりにも見られるところであるが、この點はむしろ目本人の好みから出て居るといつてもよく、現代でも所謂髷物が愛好せられるのは興味ある現象といはねばならない。

[やぶちゃん注:「巨擘」(きょはく)の原義は「親指」。転じて「同類中で特に優れた人・指導的立場にある人・巨頭・首魁」の意。

「かの歷史的人物の亡靈を引つ張り出して、一層讀者の感興をそゝるあたり」巻頭巻之一の「白峯」のことであろう。西行と旧主崇徳院の怨霊と対面・論争する展開は、今以って鮮烈である。次いで巻之三の「佛法僧」に豊臣秀次の一行の怨霊が出現するのも挙げてよかろう。]

 超自然的な事件を取扱つて凄味を多く出さうとするには、作者自身が超自然的なことを信ずる程度が深くなくてはならない。從つて怪奇小說を硏究するには、作者の怪奇に對する信仰の如何をたしかめて置く必要がある。で、私は淺井了意と上田秋成の性格の一端を述べて見たいと思ふのである。

 ところがこの二人とも、その傳記があまりはつきりして居ないのである。ことに淺井了意に至つては、シェクスピーアと同じように、不明な點があつて、その性格などはむしろ、その作物から覗はねばならぬくらいである。之に反して上田秋成には自敍傳風な著作があるので、可なりにはつきりその性格が覗はれ、その性格を知れば、雨月物語を生んだのも强ち偶然ではないと思はれる。

 秋成が曾根崎の娼家の妓女の子で、その父が知れぬといふことがたとひ虛傳であつても、幼より身體が弱く時々驚癇を發し、世間的にも隨分苦勞して育つたことは事實であるらしく、又病的に近いほどの癇癖を持つて居て、世に背き人にすねたことも事實である。靑年時代には遊蕩に耽つたが、酒は嫌ひであつて、この點が、ポオやボードレールのやうな怪奇小說作者とちがつた點である。秋成を天才 genius とするには異存のある人も多からうが、少なくとも彼が能才 talent であることは爭はれぬところであつて、天才と能才とを混同したロンブロゾーの天才論式に觀察したならば、秋成が所謂天才型の人物であつたことは認めなければならない。それは、彼の『膽大小心錄』を讀んでも、十分察することが出來るやうに思ふ。ポオは酒精中毒患者であつて、加ふるに阿片を溺愛し種々幻覺に惱んだ。ことにその「動物幻覺」は著しかつたらしく、ビルンバウムは彼の名詩『大鴉』もその幻覺から生れたものであると言つて居る。かような性質をもつた藝術家がアラペスクなまたグロテスクな多くの傑作を生んだのは無理もないが、酒の嫌ひであつた秋成が、雨月物語のやうなすぐれた怪奇小說を殘し得たのは、彼自身に深い靈怪信仰を持つて居たからであらう。まつたく秋成は迷はし神や狐狸が人につくことを信じ切つて居たらしく、さういふ事の決して無いことを主張した中井履軒を口を極めて罵つた。『膽大小心錄』の中には次の一節がある。

[やぶちゃん注:「秋成が曾根崎の娼家の妓女の子で、その父が知れぬ」秋成は享保一九(一七三四)年に大坂曾根崎で大和国樋野村(現在の奈良県御所市)出身の未婚の母松尾ヲサキの私生児として生まれた。父は不明。ヲサキは妓家の娘ともされるが、秋成は実母について殆んど語っていない。亡くなる前年文化五(一八〇八)年に書かれた自伝「自像筥記」(じぞうきょき)にも「父ナシ、ソノ故ヲ知ラズ。四歲、母、マタ、捨ツ。」とあるように、元文二(一七三七)年には堂島永来町(えらまち:現在の大阪市北区堂島一丁目)の紙油商嶋屋上田茂助の養子にされ、仙次郎と呼ばれた。翌元文三年には重い疱瘡を病み、命は取り留めたものの、両手指が奇形を起こし、不自由になった。宝暦一〇(一七六〇)年、京都生まれの植山たまと結婚した(間に子はいない)。翌年茂助が没し、嶋屋を継いでいる。前後と以降の作家デビューは、以上で一部を参考にした当該ウィキを見られたい。

「驚癇」「驚風」とも。漢方で小児の「ひきつけ」を起こす病気の総称。現在の先天性・後天性の癲癇(てんかん)や脳髄膜炎の類いを指す。

「ビルンバウム」ドイツの精神医学者カール・ビルンバウム(Karl Birnbaum 一八七八年~一九五〇年?)。ベルリンのブーフ精神病院長で、ベルリン大学員外教授。主著「精神病の構成」(Der Aufbau der Psychose. Grundzüge der Psychiatrischen Strukturanalyse.  :精神病の構成・精神医学的構造分析の基本的特徴:一九二三年)は、精神病の病像形成の理解に対する新しい見方を示したものとして評価された。そこでは精神病像を構成する因子として、本来の疾病過程に直接関連する病像成因的な要素と、病像の内容に色彩と特別な形姿とを与える体質・年齢・性別・環境・状況・諸体験などのような病像形成的な要素とを概念的に区別し、さらに補助概念として病像成因的準備状態に関連する素因、病像形成的準備状態に関連する病前形質、疾病の誘発と活動化に関連する誘発の三概念を挙げている。一九三六年にアメリカに移住した。

「膽大小心錄」同じく最晩年の心境を文化五年に綴った随筆。百六十三条の短文からなり、自筆本の他、数種の写本が伝えられている。和歌・俳諧に関する意見・考証、国史に対する感想や儒仏の説、或いは、知友についての批評・自伝的回想、世俗の見聞への見解等、内心の関心事が平易な口語で記されており、秋成の人となりを知る上で欠かせない資料とされる。題名は「唐書」の「隠逸」中の孫思邈(しばく)の言葉「膽は大なるを欲し、心は小[やぶちゃん注:「細心」の意。]なるを欲す」に基づく。

 以下の引用は底本では全体か一字下げ。読点の一部を句点に私が変更している。]

『履軒[やぶちゃん注:秋成と同時代の儒者中井履軒(享保一七(一七三二)年~文化一四(一八一七)年)。大坂生まれ。名は積徳(せきとく)。父は懐徳堂(享保九(一七二四)年に大坂に設立された町人出資の学校)の第二代学主中井甃庵(しゅうあん)。兄は竹山。五井蘭洲に師事し、程朱学を主とする道学を学んだが、彼の学風は折衷学的であった。明和三(一七六六)年に大坂和泉町に学塾水哉館(すいさいかん)を開いて教授した。後の享和四(一八〇四)年には兄の死を受けて懐徳堂の学主となったが、兄竹山に比べて交際範囲が少なく、専ら、研究と著述に従事した。また蘭学にも興味を示し、医師で天文学者もあった麻田剛立(ごうりゅう)と交わり、人体解剖所見「越俎弄筆」(安永二(一七七三)年成立)を纏めている。他に多数の著述がある。]曰、狐《きつね》人に近よる事なし、もとより彼等に魅《み》せらるゝといふ事はなき事なりとぞ、細谷半齋[やぶちゃん注:不木或いは植字のミスで「細谷」ではなく「細合(ほそあひ)」が正しい。細合半斎(ほそあいはんさい 享保一二(一七二七)年~享和三(一八〇三)年)は同時代の伊勢出身の儒学者・書家・漢詩人。名は離又は方明。書は松花堂昭乗の流れを汲む滝本流に私淑し、のちにこの流派の中興の祖とされた。詩文結社「混沌詩社」に加わり、多くの文人墨客と交わった。博物学者的町人文人木村蒹葭堂の婚姻の際には媒酌人を務めている。私塾学半塾を主催した。また、彼は江嶋庄六或いは細合八郎衛門の名義で書肆としても活躍し、同じく書肆であった藤屋弥兵衛とも親しかった。]は性慇懃にて禮正しき人也、世人是を却りて疎むは、世人の性亂怠なる者なり、京師に在りて西本願寺へ拜走す、あした三條の油小路を出て、晝過ぐるに到らず、終に日暮れしかば、恍忙[やぶちゃん注:「くわうはう」。「忙」は「茫」或いは「惘」の当て字と思われ、「ぼんやりとして・薄気味悪く感じて」の意であるらしい。]として家に歸りし事あり、是性の靜なるをさへ狐狸道を失はす。翁(秋成)又一日鴨堤《かもづつみ》の庵を出《いで》て、銀閣寺の淨土院[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に行くに、吉田の丘の北をめぐりて、又東に行く順路なり。道尤も狹からず。さるにいかにしてか白川の里に來りぬ。物思ひて感ひしと心得て、やうやう東南の淨土寺村に來りて、和上《わじやう》圖南[やぶちゃん注:「和上」は和尚に同じ。浄土寺の住持と思われるが、不詳。読みは「となん」であろう。]と談話のついでに此事を語る。和上、病なるべしよく愼み給へとぞ。歸路又、吉田の丘の北に來て、大道につきて西に庵に歸らんとす。いかにしてか百萬遍の寺前に至る。こゝに知る、狐《きつね》道を失はせしよと。然れども心忙然[やぶちゃん注:「茫然」に同じ。当時は転用字として用いられた。]たらずして、午後歸り着きぬ。また一日北野の神にまうづ。あしたに出て拜し、東をさすに、春雨蕭々と降り來りて、老の足弱く、眼氣つのりて[やぶちゃん注:私の所持する「日本古典文学大系」版(昭和三四(一九五九)年刊)では『眼又くらきに煩ひ、大賀伊賀をとむらひて、午飯を食しぬ。雨いよゝつのりて、』とあって以下に続く。注に『秋成は六十前から始終眼が悪かった』とある。左眼は寛政二(一七九〇)年五十七の時に失明し、寛政十年には右眼も失明して全盲となったが、眼科医の尽力で左眼の明を得た。]、頭さし出づべからず、今夜はこゝに宿すか、さらずば乘輿をめさんと云程、雨少しやむ。庵には十二三町[やぶちゃん注:千三百~千四百メートル強。]の所也。常に通ひなるゝに勞なく思へば、雨おもしろ[やぶちゃん注:ママ。「雨、をもしろ」であるべきところ。]とて門を出て東をさす。一條堀川に至りて雨又しきり也、傘を雨にかたぶけて行くに、苦しかれども行くに、大道のみにて迷ふべからず。雨に興じて來る程に堀川の椹木町《さわらぎちやう》に至りぬ。こゝに始て心づきて、傘の傾きに東南をたがへし也と思ひ、又東をさすに、圖らずも堀川の西に步む步む。又所を知りたれば、いかにしてとて心をすまして、遂に丸太町をたゞに東をさして庵に歸りぬ。日將に暮れんとす。病尼[やぶちゃん注:養女で尼体で病弱であったという。詳しい養子縁組の経緯などは不明。なお、妻は寛政九年に亡くなっている。]待ちわびて辻立したり。大賀(宗文の家)に在りしとのみ答へて入りたるが、足疲れ眼暗み心いよく暗し。燈下に牀《とこ》のべさせて臥して、曉天に至るまでうまいしたり、是又狐の道失はせしか。半齋も我も精神たがはずして、一日忘る事、狐の術の人にこえたる所也。學校のふところ親父[やぶちゃん注:「世間知らず」の意。本来は「學校の懷ろ子」でその意味となるが、ここは挑戦的に批判した履軒が年嵩であったために戯れたもの。]、たまたまにも門戶を出ずして狐人を魅せずと定む、笑ふべし笑ふべし。」

 この文を讀まれた讀者は、『學校のふところ親父』たる履軒を笑つてよいか、又は秋成その人を笑つてよいかに迷はれるであらう。もし秋成が眞に上記のやうな經驗をしたとするならば、彼に多少の精神異常があつたと認めて差支なく、却つて彼が所謂天才型の人であつたことを裏書きして居ると言つてよいかも知れない。彼はなほこの外に色々の實例を擧げて履軒に喰つてかゝつて居るが、いづれにしても彼が妖怪とか幽靈とかを信じ切つて居たことは明かであつて、信じ切つて居つたればこそ、雨月物語のやうな凄味の多いものが書けたのである。勿論怪奇小說の目的は、凄味をあらわすことばかりではないかも知れぬが、凄味を唯一の目的として怪奇小說を書かうと思つたならば、作者自身が、怪奇を信じ切らなければならない。もし、冷靜な、所謂科學的態度をもつて書いたならば、恐らく十分な凄味は出ないと思ふのである。

[やぶちゃん注:以下の引用前の文章は、後の引用とともに一字下げであるが、これは版組みの誤りと推定される。なお、今まで通り、引用は引き上げてある。]

 例へばかの山岡元隣の『古今百物語評判』は、『御伽婢子』の少し後に公にされた怪奇小說であるが、元隣は學者肌の男であつて、自分の宅で催ほされた百物語の一々に批評解說を加へ、その一斑を擧げるならば、

『哲人は狐にばかされずと言はゞよし、哲人の前に狐化けずと言はゞよからず、是眞人は火に人つても、燒けずと言はゞよし、眞人の前には火燃えずと言はゞ非なるが如し。燃ゆるは火の性、やけぬは眞人の德、化くるは狐の術、ばかされぬは哲人の德なり。』

 といつたやうな書き振りであるから、物語そのものに凄味が頗る少なくなる譯である。言ふ迄もなく、モーリス・ルヴェルの作品のやうに自然的な事件から凄味を發見したものは、書き方が科學的であればある程、却つてその凄味は强くなるのであるが、超自然的な事件によつて凄味を出すためには作者が科學的態度卽ち冷靜な客觀的態度を取ることは危險であらうと思ふ。尤も、前囘に述べたやうに主觀的な幽靈、例へば犯罪者が良心の呵責によつて見るやうな幽靈を取り扱ふ場合は別物であつて、德川時代の怪奇小說のうち、主觀的幽靈を取り扱つたものが、文學的作物として比較的見どころのあるのは、作者が幽靈を眞に信ずると否とに關係しないからであらう。

[やぶちゃん注:「山岡元隣の『古今百物語評判』」江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本。全四巻。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終えている。正直、インキ臭くて、しかも蘊蓄の語り部分が如何にも勿体ぶっていて不快であり、全体に面白くない。引用は「古今百物語評判卷之二 第一 狐の沙汰附百丈禪師の事」である。

「モーリス・ルヴェル」(Maurice Level 一八七五年~一九二六年)は「フランスのポオ」と賞賛された怪奇小説家。]

『御伽婢子』の作者淺井了意が秋成のやうに幽靈や化物の信者であつたかどうかといふことははつきり傳はつていない。晚年には洛陽本性寺の住職となつたといはれて居るが、僧侶であつたことが必ずしも幽靈の信者であつたといふ證明にはならぬのである。彼は怪奇小說ばかりでなく、『堪忍記』や『浮世物語』のやうな敎訓小說に加ふるに『東海道名所記』のやうな旅行文學をも著はして居つて、それ等の作物を通じて作者の心を推察して見るならば、少くとも秋成ほどの幽靈信者ではなかつたと思はれる。それにも拘はらず、彼が、秋成に次での怪奇小說作者であるのは、彼の文章の巧《たくみ》さが然らしめて居ると言ふべきであらう。後に委しく說くやうに、超自然的の事柄を取り扱つて凄味を多く出すためには、作者の主觀狀態と同じく文章の力卽ち文章によつて作られる氣分が非常に大切なものとなつて居るのである。

 なお又、怪奇小說、ことに超自然的な事柄を取り扱つた作品の出來ばえは、作者の年齡が多少の關係を持つて居るやうに思はれる。ポオは四十歲の若さで斃れ、それ迄に約七十種の物語を作つたが『アシャー家の沒落』、『リジア』の如き傑作は三十歲になるかならぬかに作られて居る。秋成の雨月物語が三十五歲の時に出來上つたことを考へると、二十五歲から四十五六歲迄の間が怪奇小說を書くに最も適當でないかと思はれる。これは主として年齡と文章との關係から考察すべきものであつて、老齡になつて、所謂枯淡な文章を書くやうになつては、凄味を出すことが困難となるであらう。同じく淺井了意の作でも、狗張子は、御伽婢子より二十數年後に作られたのであつて、御伽婢子よりも劣つて居るといふ定評のあるのは、主としてやはり文章の枯淡になつた爲ではないかと思はれる。御伽婢子そのものも、よくはわからぬが了意の五十以後の作であるらしく、若し彼が三十代に筆を執つたならば或は、もつともつと凄味の多いものとなつたかも知れない。怪奇小說に志す人は、須らく、年の若いうちに多くの作品を殘すことに心懸くべきであらう。

[やぶちゃん注:「アシャー家の沒落」「アッシャー家の崩壊 」(The Fall of the House of Usher :一八三九年)。

「リジア」「ライジーア 」(Ligeia :一八三八年)。前書の前年の発表である。但し、この作品はポオが偏愛した短編で何度も改稿し、作品集や雑誌に再掲している。後の「御伽婢子と雨月物語の内容」(私の電子化では「20」を予定)の本文でごく簡単な梗概が出るが、ウィキの「ライジーア」の方が詳しい。但し、当該ウィキは完全なネタバレであるから、ポーの偏愛者である私としては、未読の方には、絶対にお薦め出来ない。

2021/09/25

伽婢子卷之十 守宮の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」のものを用いた。「守宮」に「ゐもり」とあるのはママ。近代まで、しばしば誤って用いられ、今でも混同している人もいる。本文内での対象生物はイモリである。種や博物誌は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍盤魚(イモリ)」がダイレクトでよかろう。]

 

Imori1

 

   〇守宮(ゐもり)の妖(ばけもの)

 越前の國湯尾(ゆのを)といふ所のおくに、城郭の跡あり。荊棘(けいきよく)のいばら、生ひ茂り、古松(こまつ)の根、よこたはり、鳥の聲、かすかに、谷の水音、物すごきに、曹洞家(そうとうか)褊衫(へんさん)の僧、塵外首座(じんぐわいしゆそ)とかや、この所に草庵を結びて、座禪學解(がくげ)の風儀を味ひ、春は萠え出る蕨(わらび)を、をりて、飢《うゑ》をたすけ、秋は、嵐に、木の葉をまちて、薪(たきゞ)とす。近きあたりの村里より、檀越(だんをつ)まうで來ては、その日を送る程の糧(かて)をつゝみて惠む事、折々は、これありと雖も、多くは、人影も、まれまれ也。

 されども書典(しよてん)を開きて向ふ時は、古人に對して語るが如く、座禪の床(ゆか)にのぼれば、空裡三昧(くうり《さん》まい)に入て、おのづから、さびしくも、なし。

 ある夜、ともし火をかゝげ、机によりかゝり、「傳灯錄(でんどうのろく)」を讀み居たりければ、身のたけ、僅に、四、五寸ばかりなる人、黑き帽子をかぶり、細き杖をつき、蚋(あぶ)のなくが如く、小さき聲にて、

「我、今、ここに來れども、あるじなきやらん、物いふ人もなく、靜かに、淋しきことかな。」といふに、塵首座(じんしゆそ)、もとより、心法(しんほう)をさまりて、物のために動ぜざるが故に、これを見聞くに、おどろき恐れず。

 かの化物、怒りて、

「我、今、客人(きやくじん)として來りたるを、無禮にして、物だにいはぬ事こそ、やすからね。」

とて、机の上に飛び上がる。

 塵首座、扇をとりて、打ければ、下に落ちて、

「狼籍の所爲(しわざ)、よく心得よ。」

とて、大《おほき》に叫びつゝ、門に出《いで》て、跡かた、なし。

 暫くありて、女房五人、出來たれり。

 その中に、若きもあり、姥(うば)もあり。

 何れも身のたけ、四、五寸許也。

 姥(うば)がいふやう、

「わが君の仰せに、『沙門、たゞ一人、淋しきともし火の下に學行(がくぎやう)をつとめらる。早く行き向かふて、物がたりをも致し、又、佛法の深きことわりをも、問答して、慰めよ。』とあり。此故に、智辯(ちべん)兼備(かねそな)へたる學士(がくじ)、こゝに來りければ、何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、我君、たゞ今、こゝに來りて、子細を尋ね給ふべき也。」

といふに、其長(たけ)、五、六寸ばかりなる人、腕をまくり、臂(ひぢ)を張(はり)、手ごとに杖をもちて、一萬あまり、馳せ來り、蟻の如くに集りて、塵首座を打《うつ》に、首座は、夢の如くに覺えて、痛むこと、いふばかりなし。

 その中に、また一人、あかき裝束(しやうぞく)して烏帽子(ゑぼし)着(き)たるもの、大將かと見えて、うしろに控えて、下知して、

「沙門、はやく、こゝを出て、去(さる)べし。出去らずば、汝が目・鼻・耳を損ずべし。」

といふに、七、八人、首座が肩に飛びのぼり、耳・鼻に、くひつきければ、塵首座、これを拂ひ落として、門の外に逃げ出つゝ、南の方の岡に登りて見れば、一つの門あり。

「これは。そも、見馴れざる所かな。まづ、こゝにたちよりて、今夜をあかさん。」

と思ひ、門外近くさしよりければ、うしろより一萬あまりの人、立かへり、塵首座、捕へて、

「咄(どつ)」

と、つき倒し、門の内に引入たり。

 門の内にも七、八千ばかりの人數、身のたけ、五、六寸ばかりなるが、すきまもなく、立並びたり。

 大將、又、かへりていふやう、

「我、汝を憐みて、伽(とぎ)をつかはし慰めんとすれば、かへつて、損害をなす。その罪、まさに、手足をきりて、償ふべし。」

といふ。

 數(す)百人、手ごとに刀をぬきもちて、立かゝる。

 首座、大に怖れ惑ふて、

「それがし、おろかなるまなこをもつて、その惠みを知らざる事、その誤り、まことに、少なからず、後悔するに、かへらず。たゞ、願はくは、罪を赦したまへ。」

といふに、

「さては。悔む心あり。さのみに、せむべからず。なだめて、追返せ。」

といふ聲、聞えて、門の外へ突き出さるゝと思ふに、寺の小門の前なり。

 堂に立かへりたりければ、灯火(ともしび)は消え殘り、東の山の端(は)、しらみて、あけわたる。

 餘りの不思議さに、門のあたりを尋るに、更に、跡、なし。

 

Imori2

 

 東の方に、少し高き郊(をか)のもとに、穴、有《あり》て、守宮(ゐもり)、多く出入するを怪しみ思ひて、人多く雇ひて、こゝを掘らするに、漸々(ぜんぜん)に、底、廣し。

 一丈ばかり、掘ければ、守宮(ゐもり)、集りて、二萬ばかり、あり。

 中にも大なるもの、その長(たけ)、一尺ばかりにして、色、赤し。これ、すなはち、守宮(ゐもり)の王なるべし。

 村人の中に、一人の翁(おきな)、すゝみ出て、語りけるやう、

「古しへ、瓜生判官(うりふはんぐはん)とて武勇(ぶよう)の人、あり。この所に城を構へて、しばらく、近邊を從へ、新田義治(につたよしはる)に心を傾(かたふ)けたり。その根源は、判官の舍弟に義鑑房(ぎかんばう)とて、出家あり。新田義治を見まゐらせ、極めてたぐひなき美童なりければ、これに愛念を越こし、兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げしかども、遂に本意を遂げずして、討死(うちじに)したり。義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

 

『云越(こゝに)、蟲あり。蛤蚧(かうかい)と名づく。かしらは蝦(ひき)に似て、四つの足あり。鱗、こまかにして、背(そびら)にかさなり、色黑くして、尾、長し。石龍子(とかげ)をもつて部類とし、蝘蜓(やもり)をもつて支族とせり。あるひは泥土水(どろみず)の底にかくれ、あるひは頽井(くづれゐ)の中にむらがる。然るに、今、この土窟(どくつ)に蟄(ちつ)して、ほしいまゝに子孫を育長(いくちやう)し、その巨多(おほき)こと、何ぞ數ふるに百千をもつて盡さむや。月をわたり、年をつみて、たちまちに變化妖邪(へんげえうじや)のわざはひをなし、漫(みだり)に人の神魂(たましひ)を銷(けさ)しむ。これ、何のことぞや。爾而(なんぢ)、生(しやう)を蟲豸(むしち)の間《かん》に托(たく)し、質(かたち)を虵(へび)虬(みつち)の屬(たぐひ)によせて、暫く十二時蟲(《じふに》じちう)の名ありといへども、亦、三十六禽(きん)の員(かず)に外(はづ)れたり。よく蝎蠅(かつよう)を捕(とり)て蝎虎(かつこ)の美名あり。よく一日のうちに身の色變りて折易(せきえき)の佳號ありといへども、守宮(ゐもり)のしるしを張華が筆に貽(のこ)し、戀情(れんじやう)のなかだちを王濟(わうせい)が書にしるす。これ、皆、嫉妬愛執をもつて爾(なんぢ)が性(せい)とす。諒聞(まことにきく)、爾は、そのかみ、釋門(しやく《もん》)の緇徒(しと)、一朝、卒然として男色(なんしよく)に眩(めぐる)めき、つひに行業(ぎやうごふ)をすてゝ武勇をはげまし、欝悶(うつもん)して死して這(この)蟲(むし)となれりといふ。鳴呼(あゝ)、酥(そ)を執(しつ)せし沙彌(しやみ)は酥上(そじやう)の蟲となり、橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる。これ、上古の聆(きく)に傳ふ。爾、色に淫して、また、この蟲となれり。其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり。人の惡(にく)む所、世の戒むる所、何ぞ慚愧(ざんぎ)の心なく、剩(あまつさ)へ、かくの如くの恠異(くわいゐ)をなすや。早く心を改めて正道《しやうだう》に赴き、生《しやう》を轉じて、眞元《しんぐわん》に歸れ。』

 

と、よみければ、是にや、感じけん、數萬の守宮、皆、一同に死(しゝ)たふれたり。

 人皆、不思議の思ひをなし、

「たゞ、此まゝ、捨つべき事、ならず。」

とて、柴を積みて、燒きたて、灰になし、一丘(《いつ》きう)を築きて、しるしとす。

 それより後、二たび、恠異、なし。

[やぶちゃん注:これもまた、作品内時制の規定がない。私は南北朝以降の中世、特に戦国時代は守備範囲外の、さらにその場外で、今までの「伽婢子」の話の大部分がそこに集中しているのが、実は厭だったから(注を記すのにいちいち調べなくてはいけないからである)、これは誠にいい傾向である。

「越前の國湯尾(ゆのを)」福井県南条郡南越前町(みなみえちぜんちょう)湯尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「おくに、城郭の跡あり」杣山城址。湯尾とは日野川を挟んだ対岸の南条郡南越前町阿久和(あくわ)の山上にある山寨。「南越前町」公式サイト内のこちらに解説がある。『杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高』四百九十二『メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています』。『山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します』。『杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部』が『国史跡の指定を受けています』。『杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞』二(一二二八)年八月、『上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました』。『山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父』衡(はかる)『が越後の三島郡瓜生村から』、『この地に移り』、『築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました』。延元元(一三三六)年、『新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました』が、「太平記」によれば、延元二(一三三七)年正月十一日、『金ヶ崎城を救うため』に『出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています』。「得江頼員軍忠状」によれば、暦応元(一三四一)年六月二十五日『夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治』六(一三六七)年七月、『高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明』六(一四七四)年正月、『日野川の合戦に敗れ』、『落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣』『河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元』(一五七三)年、『織田信長の北陸攻めにより』、『廃城となり』、その後の天正二年には、『一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です』とあった。なお、グーグル・マップ・データ航空写真で、ストリービューを起動すると、かなりの箇所の杣山城址周辺ポイント画像が見られる。まあ、確かに好んで人が来そうなところでは、ない。「ブリタニカ国際大百科事典」他によれば、後で本文にも出る瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)は南北朝時代の武将。越前南条の住人。建武二年に、建武政権に背いた名越時兼を加賀大聖寺に攻め、自殺させ、同年、新田義貞の挙兵に応じたが,翌年には足利尊氏方につき、越前金崎城に義貞を攻めた。しかし、弟の義鑑坊(ぎかんぼう:本話のイモリに転生したのが、この人物の亡霊)・照(てらす)・重(しげし)ら三人が、義貞の甥脇屋義治に従って、杣山城で挙兵したことから、保も足利の陣を逃れ、義治の陣営に参じ,足利方の高師泰・斯波高経らを破った。翌年、金崎城の義貞救援に向ったが、途中、高師泰・今川頼貞と戦って戦死した、とある。

「曹洞家(そうとうか)」曹洞宗。

「褊衫(へんさん)」短い衣の上着。これに「裙子(くんす)」という下裳を着ける、僧の服の様式は仏教伝来以来あったが、特に鎌倉時代に主として禅家の間で、この上下を縫い合わせた「直綴(じきとつ)」が着用されるようになった。

「塵外首座(じんぐわいしゆそ)」不詳。了意が創出した架空の人物。「塵外」は一般名詞で「俗世間の煩わしさを離れた所或いはその境地。「浮き世の外・塵界の外・世外」の意。「首座」(しゅそ:現代仮名遣)の「そ」は「座」の唐宋音。仏語で、禅寺に於ける修行僧中で首席にあるものを指し、修行僧中の第一座にして長老(住持)の次位に当たる。僧堂内の一切の事を司る実務トップである。「上座」とも呼ぶ。

「學解(がくげ)」学問上の深い知識や見識。

「空裡三昧(くうり《さん》まい)に入」(いり)「て」「新日本古典文学大系」版脚注に『無念夢想の境地にひたることができて』とある。

「傳灯錄(でんどうのろく)」通常は「でんとうろく」と読む。中国の禅宗史書の一つ。全三十巻。蘇州承天寺の道原の作。宋の景徳元(一〇〇四)年、時の皇帝真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから「景德傳燈錄」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序がある。過去七仏に始まり、インドの二十八代、中国の六代を経て、北宋初期に至るまでの千七百一名の祖師の名と伝灯相承(でんとうそうじよう)の次第を述べたもの。北宋期に於いて禅が隆盛となるとともに、広く士大夫の教養書の一つとなり、禅の本の権威となった。仏祖の機縁問答を一千七百則の公案と呼ぶ名数は、本書に収める仏祖の人数に基づいている。

「蚋(あぶ)」読みはママ。これは、ブヨ・ブユ・ブトと読むのが普通で、一般的にはアブよりも遙かに小型である(但し、吸血されると、痒みが長く続き、しかも痕がなかなか消えない)。種や博物誌は「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)」を、アブは「虻」で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)」を見られたい。

「心法(しんほう)」読みは元禄版のものである。「新日本古典文学大系」版(国立国会図書館本底本)では『しんぼう』と振るが、この場合は厳密には、「しんぼふ」と読むのが歴史的仮名遣としては正しい。仏教用語としての「法」は「ぼふ」と読むのが決まりだからである。作者浅井了意は浄土宗の僧侶でもあるから、こういうところは、正しく守って貰いたかった気がする。

「よく心得よ。」「覚えておれよ!」という罵言。

「何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、」最後を読点にしたのは、憤怒と逆接の雰囲気を出すために私が確信犯で振った。

「咄(どつ)」大勢が殺到してくるオノマトペイア(擬態語)。

「汝が目・鼻・耳を損ずべし」「手足をきりて、償ふべし」本邦らしからぬ、いかにも原拠が漢籍(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、五朝小説の「諾皐記」の「太和末荊南云々」を元とするとある)であることを示す、中国人の大好きな人体部分切断処刑である。最悪無惨なのは、近代まで行われた凌遲(りょうち)刑であろう。

「新田義治(につたよしはる)」新田義貞の弟新田(脇屋)義助(よしすけ)の子で新田義貞の甥であった脇屋義治(元亨三(一三二三)年~?)。当該ウィキによれば、元弘三(一三三三)年、『父義助は義貞の挙兵に参加して活躍した。義治はまだ幼く、父の所領である新田荘脇屋郷に残留したと見られる。その後、上洛したと見られ、建武』二(一三三五)年、『伯父の義貞が建武政権に反旗を翻した足利尊氏への追討令を下されると、父義助と共にその軍に加わった。箱根・竹ノ下の戦いでは父義助の大手軍に属し、足柄峠を目指した。戦闘では大友貞載、塩冶高貞らの寝返りにより、宮方が敗北し、京へ敗退した。その後、父や伯父と共に京をめぐる戦闘や、播磨の赤松円心攻め、湊川の戦いに参加』した。翌建武三年、『後醍醐天皇が足利尊氏と和議を結び、義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下ると、父義助と共に越前金ヶ崎城に入る。義治は瓜生氏の杣山城に入り、諸氏への働きかけを行った』。『まもなく金ヶ崎城は高師泰・斯波高経に包囲される。瓜生保と義治は援軍を組織し救援に向かうが』、『失敗する。義貞、義助兄弟は援軍を組織するために金ヶ崎城から抜け出し、瓜生氏の下に身を寄せる。義貞は援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗し、金ヶ崎城は建武』四年三月六日に『落城した。同年夏頃に義貞は勢いを盛り返し、斯波高経を越前北部に追い詰めた。翌建武』五年閏七月二日、『義貞が不慮の戦死を遂げると、北陸の宮方の総指揮を義助が執ることとなる。義治は義助と共に北陸経営を行うが、徐々に斯波高経が勢いを盛り返し』、興国二(一三四一)年『夏には杣山城が陥落し、越前の宮方は駆逐された。脇屋父子は美濃、尾張と落延び、吉野に入』った。翌興国三年には『義助と共に中国、四国の宮方の指揮を取るために伊予に下向』したが、『下向直後の』五月十一日、『義助は突然の発病により没した』。『義治は里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようにな』った。正平七(一三五二)年、『観応の擾乱と正平の一統で混乱する室町幕府に対し、南朝が一斉に蜂起した。畿内では北畠顕信、千種顕経、楠木正儀が直義派残党も糾合し、足利義詮を破り、京を奪還した。それに呼応して義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。同時に信濃では征夷大将軍宗良親王も挙兵し、一斉に鎌倉目指して進撃する。宮方には北条時行の他、直義派残党の上杉憲顕も加わり、鎌倉を一時的に占拠するが、結局』、『敗れ、宗良親王は信濃に、義宗、義興、義治らは越後へそれぞれ逃れたが、北条時行は捕縛されて処刑された(武蔵野合戦)』。正平二三(一三六八)年、『足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗と義治は再度』、上野・『越後国境周辺で挙兵するが、上野沼田荘で敗れ、義宗は戦死し、義治は出羽に逃走した』。『その後の消息については不明であるが、伊予国温泉郡に逃れたとの伝承や、明徳年間』(一三九〇年~一三九四年)に『丹波に逃れたとの伝承、陸奥の伊達持宗が』応永二一(一四一三)年に『挙兵した際、義治を押し立てて稲村・篠川両御所を襲撃したとの説もある。しかし』、一三七〇年代から『義治の子義則が単独で活動を』していることから、『出羽逃走直後に没したと見られ』ている、とある。

「義鑑房(ぎかんばう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『俗名瓜生儁興』(読み不明。音で「しゅんこう」と仮に読んでおく)『僧籍にあったが、実兄瓜生判官』保『の挙兵を助け、義に殉じた勇者として太平記に描かれる』とある。

「美童」同前で、『「脇や右衛門佐殿ノ子息ニ式部大夫義治トテ、今年十三ニ成給ヒケルヲ、義鑑坊ニゾ預ケラル(太平記十七・瓜生判官心替事義鑑房蔵義治事』とある。

「これに愛念を越こし」同前で、『太平記では、瓜生保の一時の心変りにより、父から義鑑坊に預けられ、杣山城で反撃の機会を待った』とある。

「兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げし」既に注したが、同前で、『足利尊氏に従って城を攻撃する側にいた兄の瓜生判官を説得しての挙兵であった』とある。「義兵」についても、同前で、『後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王を奉じた新田方に呼応したもの』とある。

「討死(うちじに)したり」同前で、『金崎の戦いに兄の瓜生判官とともに討死、その地を敦賀市樫曲(かしまがり)と伝える』とある。ここ。杣山城とは直線で十三キロメートル南西であるが、イモリは種によっては、かなりの距離を移動出来るし、地下水脈で移動することも可能であり、距離感は矛盾しない。言っておくが、私自身、イモリから祟られても仕方がない人間である。高校時代、生物部(演劇部と掛け持ち)でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという、今、考えれば、ひどい実験をしていたからである(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。

義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

「云越(こゝに)」思うに、中国語のサンスクリット語の漢音写等に基づく当て字であろう。

「蛤蚧(かうかい)」寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」で「蛤蚧(あをとかげ)」を立項している。そこで私は、『「蛤蚧」は音で「コウカイ」である』。良安は別に『「ヤマイモリ」とルビを振るが、そのような和名を持つイモリはいない。該当熟語に「オオイモリ」と振る記載を見かけたが、そのような和名のイモリもいない。「大漢和辭典」の「蛤」の項の意味に『⑤蛤蚧(コウカイ)・蛤解はとかげの一種。首は蝦蟇(ガマ)に似、背に細かいうろこがあり、広西に産する。』とある。さても良安先生、「蛤蚧」はイモリではなく、ヤモリですよ! 現在種では中国南部に棲息する(本邦には棲息しないから良安先生も間違えたのかもしれない)ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属トッケイヤモリGekko geckoである。以前は「オオヤモリ」と称せられた。但し、一般にイモリの黒焼きが古くから強壮剤とされることは周知の事実であり、この漢字とルビを用いなければ、私もオオヤモリのようには嚙み付かなかったと思う。どうも、これは日本に伝承する際に、ヤモリからイモリに誤認されたものであるらしい。イモリは皮膚からの分泌物質にフグ毒で知られる猛毒のテトロドトキシンtetrodotoxinTTX)に極めて近似した成分を持っていることは、近年ではよく知られるようになった。とは言え、イモリの黒焼きを食って死んだ人は聞かない。一個体の持つ毒成分の分量が少ないことや、そんなに多量に食えるもんじゃあない(真っ黒に炭化するまでかりかりに焼いているので苦い)からであろう。ちなみに平凡社一九九六年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項にの総排泄腔からの内側の毛様突起から放出されるを誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸』十『個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた。』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じの「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌物の主成分は、額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリン sodefrin だ。でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ』と注した。

「蝦(ひき)」蝦蟇(ひきがえる)。

「蟲豸(むしち)」「爾雅」の「釋蟲」によれば、所謂、広義の「むし」の内で、脚があるものを「蟲」(チュウ)とし、蠕虫や針金状に線虫などのような脚のないものを「豸」(チ)である、と説明している。このため、広義の「むし」を「蟲豸」で総称したのである。

「虬(みつち)」「みづち」。「蛟」。水中に住み、蛇に似ており、角と四足を有し、毒気を吐いて人を害すると言い伝えられる想像上の龍の一種。

「十二時蟲(《じふに》じちう)」「太平廣記」の「昆蟲六」に「南海毒蟲」を載せ、

   *

南海有毒蟲者、若大蜥蜴、眸子尤精朗、土人呼爲十二時蟲。一日一夜、隨十二時變其色、乍赤乍黃。亦呼爲籬頭蟲。傳云、傷人立死、既潛噬人、急走於藩籬之上、望其死者親族之哭。新州西南諸郡。絕不產虵及蚊蠅。余竄南方十年。竟不覩虵。盛夏露臥。無䁮膚之苦。此人謂南方少虵。以爲夷獠所食。別有水虵。形狀稍短、不居陸地、非噴毒齧人者。出「投荒雜錄」。

(南海に毒蟲有り。大なる蜥蜴(とかげ)のごとく、眸子、尤、精朗たり。土人、呼びて「十二時蟲(じふにじちゆう)」と爲す。一日一夜(いちじついちや)、十二時に隨ひて、其の色を變ず。乍(たちま)ち、赤く、乍ち黄たり。亦、呼びて、「籬頭蟲(りとうちゆう)」[やぶちゃん注:「籬(まがき)の上にいる虫」の意。]と爲す。潛(ひそ)かに、人を噬(か)み、急ぎ、藩[やぶちゃん注:土塀。]・籬の上を走りて、その死者の親族の哭するを望むなり。新州の西南の諸郡には、絕えて不產虵(へび)及び蚊・蠅を產せず。余、南方に十年、竄(はなた)らるも、竟(つひ)に虵を覩(み)ず。盛夏、露はに臥すも、膚の苦しみのために䁮(のが)るること、無し。此れ、人の謂ふ、「南方、虵、少なし。以つてて夷獠(いれう)[やぶちゃん注:異民族の名。]の食らふ所と爲ればなり。」と。別に、「水虵(すいじや)」有り。形狀、稍や短く、陸地に居らず、毒を噴き、人を齧む者には、非ず【「投荒雜錄」に出づ。】。)

   *

と、十二刻(二十四時間の二時間刻み)の間、十二の色に体色を変えるために、かく別名がついた、とある。ヤモリかトカゲの一種だな。因みにカメレオンはアジアにはいない。なお、「投荒雜錄」というのは唐の房千里という人物の書いたものであるが、散佚して原本はなく、筆者どんな人物かは判らない。南方の地に流謫されたというから、官人ではあろう。

「三十六禽(きん)」一昼夜十二刻の各時に一獣を配して、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣を附けた計三十六の鳥獣。五行ではそれを占卜に用い、仏家では、それぞれの時刻に、出現しては、坐禅の行者を悩ますとされる。WEB画題百科事典「画題Wiki」の「三十六禽」に全名数が載る。

「蝎蠅(かつよう)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『キクイムシ(カミキリムシの幼虫)とハエ』とする。何故、サソリとしないのかは、判らない。中国にはサソリいるけど?

「蝎虎(かつこ)」ヤモリの異称。「新日本古典文学大系」版脚注は『イモリの別称』としている。だから、それは、そちらの注が頭で注意している現代の誤りの一つを、当人が、やらかしちゃったんだなあ!

「折易(せきえき)」「新日本古典文学大系」版では『析易』とする。確かにそれが正しいだろう。「蜥蜴」の(つくり)だもの。ただ、底本も元禄版も孰れも「折易」なので、修正しなかった。

「守宮(ゐもり)のしるし」意味のしっかり分かっている私は改めて説明する気にならない。私の南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を読まれたい。オリジナル注も附してある。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「貽(のこ)し」「殘し」「遺し」に同じ。

「戀情(れんじやう)のなかだち」前の前の前の注のリンク先を参照。

「王濟(わうせい)が書」「王濟」は明の政治家。「新日本古典文学大系」版脚注に、彼『の著、君子堂日詢手鏡に、蜥蜴・守宮の事を、「其物二者上下相ヒ呼ビ、牝声ハ蛤、牡声ハ蚧、日ヲ累(かさ)ネテ情洽甚シク乃(いま)交(こもごも)両(ふたつながら)相ヒ抱ヘ負ヒ、日(あるひ)地ニ堕ツ」とあり、この虫を捕え、粉にして「房中之薬」にする。「情洽」は愛情が和合すること』とある。

「緇徒(しと)」「緇」は「墨染めの衣」の意で、「僧」の意。

「眩(めぐる)めき」「めくるめき」に同じ。眼が眩(くら)んで。

「酥(そ)」チーズに似た牛乳を発酵・固形化したもの。仏教では、「大般涅槃経」の中で牛の乳から生み出される貴重な宝である「五味」として、順に「乳」→「酪」→「生酥」→「熟酥」→「醍醐」の順に熟成精製されるとある。但し、それぞれの完成物は、現在のチーズと同じであるかどうかは判らない。

「橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる」「新日本古典文学大系」版脚注に『未詳。発心集八ノ八、三国伝記三ノ二十一に類話があるが、両例とも尼僧』であるとある。

「聆(きく)に傳ふ」「きく」は「聽く」。聴き伝えている。

「其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり」イモリに転生する以前から、一度は僧籍にあり乍ら、瞬く間に美少年に懸想して若衆道の深みにはまるという、七変化を成すアプリオリな性的変色変態素質があったことを色を変えるイモリに掛けて言う。

「慚愧(ざんぎ)」今は「ざんき」だが、「ざんぎ」は古い読みとしてあった。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。

「生《しやう》を轉じて」輪廻転生して。

「眞元《しんぐわん》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「真元(しんぐわん)か。「真元」は「真如」に同じ』とある。「真如」サンスクリット語「タタター」の漢訳語で、「ありのままの姿・万物の本体としての永久不変の絶対真理・宇宙万有に遍く存在する根元的実体・法性(ほっしょう)・実相」のこと。]

伽婢子卷之九 人鬼 / 卷之九~了

 

Hitooni

 

[やぶちゃん注:今回も状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。今回は衝撃的雰囲気を出すためにダッシュを用いた。]

 

   〇人鬼(《ひと》をに)

 丹波の國野々口(のゝぐち)といふ所に、與次といふ者の祖母(うば)百六十餘歲になり、髮、甚だ白かりければ、僧を賴みて、尼になしけり。若き時より、放逸無慚なる事、ならびなし。

 與次、已に八十あまりにして、子、あまた有り。孫も多かりしを、かの祖母(うば)は、與次を、

「我が孫なり。」

とて、常に心にかなはむ事あれば、責《せめ》いましむる事、小兒(せうに)ををどし、叱るが如くす。

 され共、與次がため[やぶちゃん注:「与次にとっては」の意。]、祖母(うば)の事なれば、孝行に養ひけり。

 此うば、年、已に極まりながら、目も明きらかにして、針の孔(みゝ)をとほし、耳、さやかにして、私語(さゝやく)事をも、聞付け侍べり。

 年九十ばかりの時、齒は、皆、ぬけ落ちたりしに、百歲の上になりて、元の如く、生(おひ)出たり。

 世の人、ふしぎの事に思ひ、いとけなき子、持(もち)ては[やぶちゃん注:連れてきては。]、

「此祖母にあやかれ。」

とて、名をつけさせ、もてなし、かしづき侍べり。

 畫の内は、家に在りて、麻(を)をうみ紡(つむ)ぎ、夜に入りぬれば、行く先、知れず、家を出る。

 初の程こそ有けれ、後(のち)には、孫も子も怪しみて、出て行く跡をしたへば、此祖母、立ち歸り、大《おほき》に叱りどよみ、杖は突きながら、足、はやく、飛ぶが如くに步む。

 更に其ゆく所、定かならず。

 身の肉(しゝ)は、消え落ちて、骨、太く、あらはれ、兩の目は、白き所、色、變じて、碧(あを)し。

 朝夕の食事は、至りて少なけれ共、氣象(きじやう)は、若き者も、及ばれず。

 或る時より、畫も出《いで》て行くに、孫・曾孫(ひこ)・新婦(よめ)なんどに向ひて、

「我が留守に、部屋の戶、開くな。必ず、窓の内を、さし覗くな。もし、戶を開かば、大に怨むべし。」

といふに、家にある者共、怪しみ、おもふ。

 又、ある日、晝、出て、夜、更くるまで、歸らざりけるに、與次が末子(ばつし)、酒に醉《ゑひ》て、

『何條(なでう)、祖母の『部屋の戶ひらくな』と云はれしこそ、怪しけれ。留主(るす)の紛れに、見ばや。』

と思ひ、密(ひそ)かに戶を明けて見ければ――

――狗(いぬ)のかしら

――庭鳥(にはとり)の羽(はね)

――をさなき子の手首

又は――

――人の髑髏(しやれかうべ)――手足の骨

――數も知らず、簀(すがき)の下に積み重ねて――あり。

 是れを見て、大に驚き、走しり出て、父に、

「かく。」

と、告げたり。

 一族、集りて、

「いかゞすべき。」

と評議する所へ、祖母(うば)、立ち歸り、部屋の戶の明きたるを見て、大に恨み、怒り、兩眼(りやうがん)、まろく、見開き、光り輝き、口、廣く、聲、わなゝき、走り出て、行かたなく失(うせ)にけり。

 恐ろしさ、いふばかりなし。

 後に、近江山のあたりに薪(たきゞ)こる者、行あひたり。

「其さま、地白《ぢしろ》のかたびらを、つぼをり、杖をつきて、山の頂きに登る。其の速き事、飛ぶがごとく、猪(ゐ)のしゝを捕へて、押し伏せたるを見て、おそろしく、身の毛よだちて、逃げかへりぬ。」

と、語りし。

 かの姥なるべし。

 生(いき)ながら鬼になりける事、疑ひなし。

[やぶちゃん注:本篇も前話と同じく、珍しく時制設定がない。

「丹波の國野々口(のゝぐち)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『京都府船井郡園部町埴生近辺』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「氣象(きじやう)」「氣性」に同じ。

「窓の内を、さし覗くな」窓も内側から見えないように板などで塞いであったものであろう。その隙間からも覗くな、という謂いであろう。所詮、暗いから見えはしないのだが。

「髑髏(しやれかうべ)」底本はひらがなであるが、元禄本で漢字にし、おどろおどろしさを出した。

「簀(すがき)の下に積み重ねて――あり」「簀」は「簀の子」のことであろう。あらゆる貪り食った人や鳥獣の遺骸の上に簀の子を敷いて、寝起きしていたものと思われる。シリアル・キラーの典型的猟奇性が窺われる。

「近江山」「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都府加佐郡大江町』(おおえまち)『と与謝郡加悦町』(かやちょう:但し、二〇〇六年に隣接する与謝郡岩滝町・野田川町と新設合併して与謝郡与謝野町となっている。引用書は二〇〇一年刊である)『との境にある山。千丈ケ岳とも。「丹波国 大江山」(歌枕名寄三十)。源頼光の鬼神退治で知られる(酒呑童子)。また、大江山の伝承は西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)『老ノ坂付近の大枝山もあるが、ここは、野々口よりさらに奥まった前者が適しよう』と考証されてある。前者は「千丈ヶ嶽」と地図にあり、ここで、大枝山の方はこちらである。注釈者の見解を支持する。

「地白《ぢしろ》」織物の地の白いこと。また、白地の織物。

「かたびら」「帷子」。裏をつけない布製の衣類の総称で、夏は直衣(のうし)の下に着るものの他に、夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)ものの着物を指すが、当然ここは、仏式で葬る際に名号・経文・題目などを書いて死者に着せる白麻などで作った経帷子(きょうかたびら)を嗅がせてある。鬼(中国語ではもとはフラットな「死者」の意である)となった表象である。

「つぼをり」「壺折る・窄折る」で、手で着物の裾を折って絡み取る、また、着物の褄(つま)の部分を折って前の帯に挟む、の意。丈を短くして山野を走るのに邪魔にならないようにしているのである。「かいどる」とも言う。普通は女のすることではない。挿絵でも確かに膝から下が丸出しで走り抜けている。なお、挿絵では鬼となった老婆は「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『綿帽子を被』っていると解説する。]

伽婢子卷之九 人面瘡

 

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[やぶちゃん注:最も左膝膝蓋骨付近に生じた(但し、本文では「腿の上」とする)人面瘡が最もよく視認出来る岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。人面が判るように、大サイズで示した。]

 

   〇人面瘡(じんめんさう)

 山城の國小椋(をぐら)といふ所の農人(のうにん)、久しく、心地、惱みけり。

 或る時は、惡寒(をかん)・發熱(ほつねつ)して、瘧(おこり)の如く、或る時は、遍身(そうみ)、痛み、疼(ひらゝ)きて、通風(つうふう)[やぶちゃん注:「痛風」。]の如く、さまざま、療治すれ共、しるしなく、半年ばかりの後に、左の股の上に瘡(かさ)出來て、其形、人の貌(かほ)の如く、目・口ありて、鼻・耳は、なし。

 是れより餘(よ)の惱みはなくなりて、只、其の瘡の痛む事、いふばかりなし。

 まづ、試みに、瘡の口に酒を入るれば、其のまま、瘡のおもて、赤くなれり。

 餅(もちひ)・飯(はん)を口に入るれば、人の食ふ如く、口を動かし、呑み、をさむる。

 食をあたふれば、其の間(あひだ)は、痛み、とゞまりて、心安く、食(しよく)せさせざれば、又、はなはだ、痛む。

 病人、此故に瘦せ勞(つか)れて、しゝむら、いたみ、力、落ちて、骨と皮とになり、死すべき事、近きにあり。

 諸方の醫師、聞き傳へ、集まりて、療治を加へ、本道[やぶちゃん注:広義の内科。]・外科、皆、その術を盡くせども、驗(げん)なし。

 こゝに、諸國行脚の道人(だうにん)、此所に來りていふやう、

「此瘡、まことに、世に稀れなり。是れを、うれふる人は、必ず、死せずといふ事、なし。され共、一つの手だてを以て、いゆる事、あるべし。」

といふ。

 農夫、いふやう、

「此の病《やまひ》だに愈(い)えば、たとひ田地を沽却(こきやく)すとも、何か惜しかるべき。」

とて、すなはち、田地をば賣(うり)しろなし、其の價ひを道人に渡す。

 道人、もろもろの藥種を買ひ集め、金(かね)・石(いし)・土(つち)を初めて、草・木に至りて、一種づゝ、瘡の口に入るれば、皆、受けて、是れを呑みにけり。

 「貝母(ばいも)」といふものを、さしよせしに、その瘡、すなはち、眉を、しゞめ、口を、ふさぎて、食(くら)はず。

 やがて、貝母を粉にして、瘡の口を押し開き、葦(あし)の筒(つゝ)を以つて、吹き入るゝに、一七日《ひとなぬか》の内に、其の瘡、すなはち、痂(ふた)、づくりて、愈《いえ》たり。

 世にいふ「人面瘡」とは、此事なり。

[やぶちゃん注:本篇は珍しく時制設定を行っていない。

「人面瘡」妖怪的奇病の一種。体の一部に生じた傷が化膿し、人の顔のようなものが出現し、話をしたり、物を食べたりするとされる架空の病気。江戸の怪奇談や随筆に見られ(私の電子化注では「諸國百物語卷之四 十四 下總の國平六左衞門が親の腫物の事」がある。殺された下女の因果が病根とするものである。また、「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」にも出(十二歳の少年の腹に開口し、人語を話すもの)、私の注で、原拠である「新著聞集」の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」や、「酉陽雜俎」(唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の貝母が特効薬とする原拠らしきものも電子化してあるので見られたい)、三流の近代以降の怪奇小説にもしばしば登場する(私は近代物は概ね濫読したが、谷崎潤一郎の「人面疽」は最も面白くなく、成功しているのは手塚治虫先生の「ブラックジャック」の「人面瘡」ぐらいなものである)。そんな中でも、医師が治療したとする驚くべき詳細な信頼出来る事例記載として、江戸後期の儒者で漢詩人としても知られる菅茶山(かん さざん 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年):諱は晋帥(ときのり)。備後国安那郡川北村(現在の広島県福山市神辺町)の農家の生まれ。当該ウィキによれば、彼が『生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した』。『故郷に帰り』天明元(一七八一)年頃、郷里神辺に『私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした』。『塾は』寛政八(一七九六)年には『福山藩の郷学として認可され』、『廉塾と名が改められた。茶山は』享和元(一八〇一)年から『福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという』詩集「黄葉夕陽村舎詩」が残る。『廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など』の著名人もいる)が晩年に書いた随筆「筆のすさび」の巻之四の「人面瘡の話」に以下のようにある(ともかく臨床例記載として頗る興味深いものである!)ので、挙げておくことにする(「日本古典籍ビューア」のこちらにある原本の当該話を視認して起こした。挿絵は当該画像をトリミング補正した)。頭の「一」は原本では上に飛び抜けているが、代わりに下を一字分空けた。

   *

一 人面瘡の話   仙臺の人、怪病の圖、並に記事、左に載す【本文、漢語を以てすといへども、今、兒童の見やすからんために和解す。覽者、これを察せよ。】

 

Jinmenso2

 

王父月池先生[やぶちゃん注:蘭学者で幕府奥医師でもあった桂川甫賢(かつらがわほけん 寛政九(一七九七)年~天保一五(一八四四)年)の号。医家桂川家六代目で甫周の孫。名は国寧(くにやす)。オランダ名 Johannes Botanicus。大槻玄沢らに学び、オランダ語に堪能でシーボルトらとも交友があった。絵も上手く、「和漢蘭三州必真像自画小幅」がある。主著「酷烈竦弁」。]嘗て余に語(かたり)て曰、「祖考華君[やぶちゃん注:甫賢の五代前の桂川国華(甫筑)。]の曰く、城東材木町に一商あり、年二十五、六、膝下に一腫を生ず、逐(ひをおふて)漸(やうやく)にして、大に、瘡(かさ)、口、泛(ひろ)く開き、膿口(うみくち)三両處、其の位置、略(ほゞ)、人面に像(かたど)る。瘡口(きづくち)、時ありて、澁痛(いまみ)し、滿(みつ)るに、紫糖(したう)[やぶちゃん注:紫蘇糖(しそとう)か。青紫蘇の精油主成分を原料とした甘味料。近代に精製された製品は蔗糖の約二千倍の甘味がある。]を以てすれば、其痛み、暫く退(しりぞ)く。少選(しばらく)あつて、再び痛むこと、初のごとし。夫、「人面(にんめん)の瘡(さう)」は、固(もと)より妄誕に渉る。然るに、かくのごときの症(せう)、「人面瘡」と做(な)すも、亦、可ならん乎。蓋(けだし)、瘍科(やうか)諸編を歴諬(れきけい)するに、瘡名、極めて、繁(しげ)し。究竟(くつきやう)するに、其の症、一因に係(かゝり)て發する所の部分及び瘡の形状(かたち)を以て、其名を別(わか)つに過ぎざるのみ。「人面瘡」のごときも、亦、是なり。今、茲(こゝ)に己卯[やぶちゃん注:これがずっと国華甫筑の台詞であるなら、彼の存命期から推定して宝暦九(一七五九)年である。もし、話者国寧賢の謂いなら、文政二(一八一九)年となる。どこまでが引用なのか判らないのを恨みとする。]中元[やぶちゃん注:陰暦七月十五日。]仙臺の一商客、門人に介(なかだち)して曰、「或人、遠くより來て、治を請く。年三十五を加ふ。始、十四歳のときにありて、左の脛(はぎ)上に腫(はれ)を生ず、潰(つぶれ)て後、膿をながして、不竭(つきず)、終に朽骨(きうこつ)二、三枚を出す。四年を經て、瘡口、漸く収る。只、全腫(ぜんしゆ)不消(しやうせず)、步(ほ)、頗る難(かた)し。故に、温泉に浴し、或は、委中(いちゆう)[やぶちゃん注:膝の後ろの中央にある経絡のツボの名。]の絡を刺(さし)、血を泻(なが)す、咸(みな)、應、せず。醫者を轉換するも、亦、数人、荏苒(じんぜん)として[やぶちゃん注:治療が滞って、そのままで、病態が好転する兆しがないということ。]、幾歲月、其腫(はれ)、却(かへつ)て、自ら増し、膝を圍み、腿(もゝ)を襲せ[やぶちゃん注:読み不詳。「覆(おほ)ふ」の意味ならある。]、然[やぶちゃん注:「しかして」か。]、再び、膿管(のうかん)、數處(すうしよ)を生じ、彼(かれ)[やぶちゃん注:指示語。それが、]、収まれば、此(こゝ)に發(はつし)、前に比するに、甚(はなはだ)同じからず。只。絶えて疼苦(いたみ)なく、今年に至て、瘡口(きつくち)、一處に止(とま)る。即、先に骨を出すの孔旁(こうぼう)なり。瘡口(さうこう)、脹起哆開(ちやうきたかい)し、あたかも口を開くの状(かたち)のごとし。周圍(めぐり)、淡紅(うすあか)く、唇のごとく、微(すこ)しく其口に觸(ふる)れば、則、血を噴(ほとはし)る。亦、疼痛、なし。口上に、二凹(くぼ)あり、瘡痕(かさのあと)相對し、凹内(くぼきうち)に、各(おのおの)、皺(しはん)紋あり、あたかも目を閉ぢ、笑ひを含むの状(かたち)のごとし。眼の下に、二の小孔あり、鼻の穴の、下に向ふが如し。兩旁に、又、各、痕(あと)あり、痕の辺に、各、堆起(つゐき)し、耳朶(みゝたぶ)のごとく、其面(をもて)、楕圓(だゑん)、根(ね)、膝蓋(ひざふた)に基(もとゐ)して、頭顱(づろ/カシラ[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ。]の状をなす。且、患(うれ)ふる處、惻々として、動(うごき)あり、呼吸のごとし。衣を掲(かゝげ)て、一たび、見れば、則、言を欲する者に似たり。復(また)、約略(おほやう)、人面を具するにあらず。強ひて、人面をもつてこれを名づくるの類なり。而(しかして)、脛(はぎ)の内、㢛(けん/ハヾキ)[やぶちゃん注:所持する吉川弘文館随筆大成版では『廉』と翻字するが、採らない。この漢字の意味は判らないが、読みの「はばき」は脛(すね)の意と思うし、以下の文字列からも腑に落ちる。]・腿(たい/モヽ)・股(こ/マタ)に連(つらな)り、腫(はれ)、大にして、斗(と)のごとく、靑筋、縦橫(ちゆうわう)遮絡(さらく)[やぶちゃん注:塞ぎ繋がること。]、これを按ずるに、緊(きん)ならず、寛(くわん)ならず、其の脈(みやく)、数(さゝ)にして、力あり、飮食、減ぜず、二便、自可[やぶちゃん注:「おのづからかなり」と訓じておく。]。斯(この)症、固(もと)より、これを「多骨疽(たこつそ)」[やぶちゃん注:私が幼少時に罹患したカリエス。結核性骨髄炎。]に得たり。「多骨疽」の症、多くは遺毒(いどく)[やぶちゃん注:先天性梅毒。]に出づ。而(して)其(その)瘡勢(さうぜい)、斯のごとくに至るものあり。只、口内、汚腐(をふ)、充塡(ぢゆうてん)、縁なく、餌糖(したう)、即(すなはち)、貝母(ばひも)も、眉(まゆ)をあつめ、口をひらくの功を奏すること、あたはず。文政己卯(きぼう)[やぶちゃん注:文政二(一八一九)年。]中元、桂川甫賢國寧(かつらがはほけんこくねい)、記(きす)。

   *

「山城の國小椋(をぐら)」豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「瘧(おこり)」長期に間歇的に発熱・振戦を伴う病気。熱性マラリア。

「貝母(ばいも)」中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要である(ここはウィキの「アミガサユリ」に拠った)。]

2021/09/24

伽婢子卷之九 金閣寺の幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」のものをトリミング補正して、適切な位置に配した。]

 

    ○金閣寺の幽靈に契る

 中原主水正(なかはらもんどのかみ)は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

 大永乙酉(きのととり)[やぶちゃん注:一五二五年。将軍は足利義晴であるが、最早、戦国時代前期。]彌生ばかりに、思ひ立《たち》て、霞を分つゝ、北東の山路(《やま》ぢ)にさすらひ、暮ゆく春の名殘を慕ふ。

 北白川檜垣(ひがき)の森、櫻井の里氷室(ひむろ)山、岩倉谷(いはくらたに)きつね坂、八鹽岡(やしほのをか)、比叡橫川(よかは)、片岡の森、鬼が城、大原、音無(をとなし)の瀧、志津原、朧淸水(おぼろのしみづ)、市原野邊(《いちはら》のべ)、暗部(くらぶ)山を、打めぐり、鹿苑院(ろくをんいん)に行き至る。

 世に金閣寺と號す。征夷大將軍源義滿公、この地に家づくりして移り住み給ひしも、薨去の後、直(すぐ)に寺となし給へり。

 庭の築山(つきやま)、泉水の立石《たていし》、まことに、古今絕景の勝地として、たぐひなき所なり。

 中原、こゝまで浮かれ來て、日、巳に暮らして、朧月、東のかたに出れば、「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」と、花に移ろふ月の光に、木の本も立ち去りがたくぞ、覺えし。

 里の家に宿は借りけれ共、いも寢られず、砌(みぎり)をめぐり、苔路(こけぢ)を踏んで、金閣のもとに至りぬ。

 去ぬる應永十五年[やぶちゃん注:一四〇八年。]、義滿公の薨じ給ひしより、既に百十八年、そのかみ、さしも、にぎにぎしかりけるも、君おはしまさずなりけるより、すむ人も、やうやう、稀になり、礎(いしずゑ)、傾(かたふ)き、柱、朽ちて、僅かに、金閣のみ、昔の色を殘したり。

 主水は軒に立ち寄り、欄干によりかかりて、昔を思ひ、今を感じて、ふけゆく月に、打うそぶきつゝ、古木(こぼく)の櫻花、少し咲たるを見やりて、

 櫻花いざ言問はん春の夜の

   月はむかしも朧なりきや

 

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[やぶちゃん注:中原主水正の向こうに既にして、二人の女の墓が描かれてある。]

 

 かゝる所に、ひとりの女、其の齡(よはひ)、十七、八と見ゆるが、半者(はしたもの)一人召し具して、閣のもとに來れり。

 桂の眉墨、雲《くも》のびんづら、たをやかなる姿かたち、美しさ心も、詞も及ばれず、いふばかりなくあてやかなるが、

「如何なる事ぞ。」

と、忍びて見ければ、此の女房、いふやう、

「金閣ばかりは故(もと)のごとくにして、庭のおもては、風景、變らず。但、時移り、世變はり、そゞろに昔の戀しきのみ、おもひつゞくるこそ悲しけれ。」

とて、泉水のほとりに休らひて、津守國基(つもりのくにもと)、花山(くわさん)に行きて、僧正遍昭が古跡のさくら、散りけるを見て詠みける古歌を吟詠す。

 あるじなき住みかに殘る櫻ばな

   あはれむかしの春や戀しき

主水正、此の吟聲を聞くに、胸とゞろき、魂(たましひ)きえて、心も、そぞろにまどひつゝ、うつゝなき中より、

 さく花にむかしを思ふ君はたぞ

   今宵は我ぞあるじなるもの

と、よみて、立ち向へば、女房、さらに驚く氣色なく、いとさゝやかななる聲にて、

「初より、和君、此所《ここ》に在(おは)する事を知り侍べりて、みづから、こゝに來りて見え參らする也。」

といふ。

 大にあやしみて、其名を問へば、女、こたへていふやう、

「みづから、人間(にんげん)に捨てられて、已(すで)に年久し。此の事を語り侍べらば、和君、さだめて驚き怖れ給はん。」

といふに、主水正、此言葉を聞きて、

『扨は。是れ、人間にあらず。山近く木玉(こたま)の現れしか、狐のなれる姿か、然らずば、幽靈ならん。』

と思ふに、形の美くしさに、心、解けて、露、おそろしき事、なし。

「如何でか、驚き怖れ侍べらむ、只、有の儘に語り給へ。」

といふ。

 女房いふやう、

「みづから、畠山氏(はたけやまうぢ)の家に生まれ、いにしへ、義滿公、この所に引籠り給ひし時、宮仕へせし者なり。年二十にして、むなしくなり、君の御憐れみ、深くて、この院の傍らに埋(うづ)み給ふ。今宵は追福の御事《おんこと》によりて、從一位(じゆ《いち》ゐ)良子禪尼(よしこぜんに)の御許に參りぬ。是は、義滿公の御母にておはします。その座、久しくて、今、漸く、ここに出來り侍り。」

とて、半者に仰せて、筵(むしろ)・しとねを取り敷かせ、酒・菓(くだもの)をめし寄せ、閣の庇に向ひ坐して、

「今夜の花に今夜の月、如何で空しく送り明さむ。」

とて、酒、のみ、語り、遊ぶ。

 半者、哥、うたひ、盃(さかづき)の數(かず)、重なれり。

 女房、打ちかたぶきて、

 明行かば戀しかるべき名殘りかな

   花のかげもるあたら夜の月

と、詠みて、打ち淚ぐみけるを、主水正、心ありげに思ひて、

 いづれをか花は嬉しと思ふらむ

   さそうあらしとをしむ心と

女房、袖かきをさめて、

「君は、みづからが心を引み給ふと覺ゆる歌ぞかし。世をさり、え久しく埋もれし身の、又、立返り、君に契らば、死すとても、朽果てはせじ。」

と睦まじく語らひける程に、月は、西の嶺にかくれ、星は、北の空に集まる頃、西の庇(ひさし)に移りて、女房、わりなく思ふ色あらはれ、暫し、もろ友に枕を傾けしに、春の夜の習ひ、程なく時の移りて、鳥の聲三たび鳴きつゝ、花より白む橫雲の、嶺に棚びくころになれば、互に淚を拭ひて、起き別れたり。

 晝になりて、そこら、見めぐらせば、院の傍に古(ふり)たる卒都婆(そとば)ありて、苔むしたる塚に、朽ち殘り、塚の左に、小さき塚、並べり。

 是れ、はしたもの、其ころ、悲しみて、打續き焦がれ死せしを、人々、憐れがりて、同じ所の塚の主(ぬし)になしたる、となり。

 主水正、憐れにも悲しくて、家に歸らん事を忘れ、又、其の夕暮れに、閣のほとりに立ちめぐれば、女房も、あらはれ出《いで》て、手を取り組み、淚を流して、語るやう、

「みづから、君が心の情を感じて、只、其夜の契をなし、かづらきの神かけて、晝を厭ふぞ心憂き。」

など言ひければ、男も、

「何かをば厭ふ。」

とて、

「只、うば玉の夜ならで、契をかはす道なしとや。よひよひごとを待《まつ》も苦しきに、誰《たれ》を人目の關守になし、忍ぶなげきを、こりつむべき。」

など、語らひ、是より、夜每に、こゝに出逢ふ。

 二十日ばかりの後は、晝も出て、語り遊ぶ。

 主水も官に仕ふる身なれば、都に歸りて、日每に行きかよふ。

 終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り。

 

Kinakau2

 

[やぶちゃん注:縁にいる下女は主水主の使い女。]

 

 其身持ち、よろづ愼みて、物言ひ・言葉のしな、才知有り、主水が一族に、まじはりを親しく、内外に召使ふ女童(《めの》わらは)まで、恩を與へ、惠みを厚くし、隣家(りんか)の嫗(うば)までも、隨ひ、いつくしみ、此女房に心をとけずと言ふ事、なし。

 衣(きぬ)縫うふわざ・物かき、うとからず、かろがろしく他人にまみえず。

「まことに。主水は淑女のよきたぐひを求めたり。」

と、人皆、羨みけり。

 かくて、三とせの後、七月十五日、女房、いふやう、

「半者(はしたもの)は、我が住みける方(かた)の宿守(やどもり)せさせて、殘しおきぬ。さこそ、待ちわぶらめ。今日は、金閣に行きて、こととひ侍らん。」

とて、酒とゝのへて、主水、女房を打ちつれて行く。

 

Kinakau3

 

 日、已に暮れて、月さやかにして、東の山に出れば、池の蓮(はちす)は南の池に開け、柳は枝垂れて露を含み、竹は風にそよぎけるに、半者(はした)出むかうて、いふやう、

「君、已に人間に返り遊ぶ事、已に三とせにして、たのしみを極めながら、御住みかをば、忘れ給ふか。」

と恨めしげに言ひければ、三人つれて、閣の西の庇に行きて、女房、なくなく、主水に語るやう、

「君が情《なさけ》の深きに引れて、三とせの月日は、隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て、猶、飽くことなき契りの中(なか)らひ、今宵を限りに、永く別れ參らせむ。みづから黃泉(よみぢ)の者ながら、此の世の人に馴るゝ事、宿世(すぐせ)の緣淺からぬ故ぞかし。今は、緣、つき侍べれば、別れをとり參らする也。若《も》し又、是れを悲しみて、强ひてこゝに留まりなば、冥府(みやうふ)の咎めも如何ならん、君をさへ、惱まし侍べらん禍(わざはひ)、必ず、遠かるまじ。」

とて、互いに淚を流しつゝ袂も袖も絞りけり。

 巳に曉の八聲《やこゑ》の鳥も打ち頻り、鐘の音、響き渡りしかば、女房、立ち上がり、蒔晝の箱に、香爐をいれて、

「これは、此程の形見とも、見給へ。」

とて、なくなく別れて、古塚(ふるつか)の方(かた)に行く。

 猶も、名ごり惜しみて、立ち戾り、見かへりて、煙(けふり)の如く、消失せたり。

 主水、胸焦がれ、身悶えて、悲しき事、限りなく、血の淚を流して、慕へ共、かなはず。

 家に歸りて、僧を請じ、「法華經」よみて、吊(とふら)ひ、一紙(《いつ》し)の願文(ぐわん《もん》)を書《かき》て、供養を遂げ侍べり。其詞に、

[やぶちゃん注:以下の詞章部引用は、底本では全体が一字下げ。「*」で挟んでおいた。]

   *

維(これ)、靈(みたま)は、生まれて、よきたぐひ、郡(ともがら)にこえ、妍(かほよき)すがた、仙(やまひと)に似(にれ)り。花の鮮(あざやか)なる玉のうるはしき、みな、この靈(みたま)の形(さま)に、うつせり。住昔(そのかみ)、金(こがね)の扉(とぼそ)に宮仕へ、如今(いま)は荒れたる墳(つか)に埋(うづ)もれり。篠(しの)薄(すゝき)のもとに住み、狐(きつね)兎(うさぎ)のゆくに忍ぶ。花、落ちて、枝に返らず、水、流れて、源に來らず。日かげ傾き、月めぐれ共、精靈(くはしきみたま)は泯(ひた)けず。性(たましひ)、もの識ること、長(とこしなへ)にいます。魂《たましひ》を返す術(たむけ)はなしに、姿をあらはす功(いさをし)あり。玉のさし櫛(くし)、くれなゐの襜(うちぎ)は、色うるはしく、にほひ、殘れり。松の千歲(ちとせ)、常盤(ときは)、かはらず、喜びを、同じく偕(とも)に老なんことを思ひしに、如何に逢(あふ)て、又、別れたる。雲となり雨となりし朝なゆうなのうらみ歎くに、その跡を失へり。しるしの塚(つか)に向へども、聲をだに、まだ、聞かず。後の逢瀨、いつか、繼(つが)ん。雁の聲、わづかに悲しみを助け、螢の光、只、愁へを弔(とふら)ふ。姿、隱れ、なさけ、絕《たえ》て、むなしき空に、霧、ふさがり、星、くらし。心の底は糸のみだれ、淚の色、くれなゐを染めて、悲しみの中に、經、讀み、花を手向く。靈(みたま)、よく、うけ給へ。鳴呼、悲しきかな、痛ましき哉、こひねがはくは、よく、うけ給へ。

 ともす火やたむくる水や香花を

   魂(たま)のありかにうけて知れ君

 主水正、是より、官職を辭退して、獨り淋しき床に起き臥し、只、此人の面影のみ立離れず、歎きに沈み侍べりしが、二たび、妻をも求めず、小原《こはら》[やぶちゃん注:京の「大原」の別称。]の奧に引籠り、終に其終る所をしらず。

[やぶちゃん注:「中原主水正(なかはらもんどのかみ)」不詳。「主水」はウィキの「主水司」によれば、『主水司(しゅすいし/もいとりのつかさ)は、律令制において宮内省に属する機関の一つで』、『主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司(もひとりのつかさ)は水・氷の調達および粥の調理をつかさどった。やがてこれを扱う役人への敬称(殿=おとど)が接尾して転訛し「もんどのつかさ」とも呼ばれる』。『調達のために伴部として水部(もいとりべ)品部として水戸(もいとりこ)が置かれた。また』、『運搬等のために駆使丁が配属された。駆使丁は重労働の現業部門に置かれ、とくに氷は夏場は珍品として貴重だったため』、『運搬に非常に苦労したとみられる。中世以降は明経道清原氏が長官職を世襲し』、『付属の主水司領を相続した』。『氷は冬場に製造するため』、『夏までの間』、『保管しておく場所として氷室が設置された。氷室は畿内周辺に点在し』、『それぞれ預が置かれた』とある。「正」はその長官。

は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

「北白川檜垣(ひがき)の森」「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区。筑紫国白川の遊女檜垣の嫗』(おうな)『の伝承を京都の白川にとりなした地名という』とある。銀閣寺の北の北白川地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のどこか(現在のどこかは特定出来なかった)。「檜垣の嫗」は平安朝の筑前の遊女(あそびめ)で歌人。生没年不詳。「後撰和歌集」に,延喜一一(九一一)年に大宰大弐となった藤原興範(おきのり)が筑前の白川で水を乞うたとき、老いを嘆く「年ふればわが黑髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」の歌を詠みかけたと見えるが。「大和物語」では、興範ではなく、それより三十年後の小野好古(よしふる)とし、家集「檜垣嫗集」では、清原元輔が肥後守となった七十余年後の歌人とする。機智的な即詠を得意とする遊女として伝承され、後人によって家集も編纂されているが、その生涯は明らかではない。

「櫻井の里氷室(ひむろ)山」「桜井の里」は「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区松ケ崎。山州名跡志六・桜井里では古老の言として、岩倉に至る坂の前、山神と号する杜の西にある浅井をその跡と伝える』とし、「氷室山」は『左京区上高野氷室町』(かみたかのひむろちょう)とし、『山腹に禁裏への供御の氷を蓄えた。小野氏の在地で「小野の氷室」とも称される』とある。ここ。主人公の職責と連関する。

「岩倉谷(いはくらたに)同前で、『左京区岩倉。岩倉・長代川』(ちょうだいがわ)『の渓流近辺か』とする。この附近か(特定不能)。

「きつね坂」同前で、『左京区松ケ崎。桜井の西北の坂で岩倉や深泥池』(みどろがいけ)『に至る。木列坂(キツレザカ)、木摺坂とも(山州名跡志六・木列坂)』とある。この中央附近か。ここに出る旧地名が現在の地名と合致しないため、以上と同じく、同定が難しい。

「八鹽岡(やしほのをか)」同前で、『左京区長谷町。岩倉の北、瓢箪崩山』(ここ。西に岩倉長谷町がある)『の西南にある丘で八入(やしお)とも。紅葉の名所』とある。

「比叡橫川(よかは)」滋賀県大津市坂本本町。比叡山横川中堂がある一帯。

「片岡の森」同前で、『京都市北区上賀茂。上賀茂神社本殿東の片岡山(古称賀茂山地)の麓。歌枕』とある。ここ

「鬼が城」同前で、『左京区。八瀬の西北にある石窟。「むかし酒呑童子ひえの山より追出されて此いはやにこもり、此石のうへに起ふしけりといふ。後に丹後大江山にして源の頼光にころされしとかや」(出来斎京土産五・鬼城)』とある。この辺りか。

「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近

「音無(をとなし)の瀧」左京区大原勝林院町にある。歌枕。

「志津原」左京区静市静原町

「朧淸水(おぼろのしみづ)」京都市左京区大原草生町(くさおちょう)の寂光院の東南にある名泉。歌枕。

「市原野邊(《いちはら》のべ)」左京区静市市原町の野辺。

「暗部(くらぶ)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『歌枕。場所に諸説あるが、洛陽名所集八では鞍馬の山続きとし、了意もそれを踏襲』しているとある。この附近ということになる。

「鹿苑院(ろくをんいん)」「いん」はママ。正しくは北山(ほくざん)鹿苑禅寺で、金閣寺の正式名。この地には、鎌倉時代の元仁元(1224)年に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり、以後も、公経の子孫である西園寺家が、代々、領有を続けていた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したため、逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず、荒れていったが、応永四(一三九七)年)に室町幕府第三代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の総てが集約された。応永元(一三九四)年に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、この「北山第」にあって政務を執り続けた(以上は当該ウィキに拠った)。

「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」蘇軾の七言絶句、

   *

   春夜

 春宵一刻値千金

 花有淸香月有陰

 歌管樓臺聲細細

 鞦韆院落夜沈沈

    春夜

  春宵一刻 値(あたひ)千金

  花に淸香有り 月に陰有り

  歌管 樓臺 聲 細細

  鞦韆(しうせん) 院落 夜 沈沈(しんしん)

   *

起句に基づく。「院落」は「屋敷内の中庭」のこと。

「櫻花いざ言問はん春の夜の月はむかしも朧なりきや」特に原拠歌はないようである。

「津守國基(つもりのくにもと)」(治安三(一〇二三)年~康和四(一一〇二)年)は神職にして歌人。摂津住吉神社神主。「後拾遺和歌集」にとられている名歌「薄墨にかく玉章と見ゆるかな霞める空に歸る雁がね」に因んで「薄墨の神主」の異名がある。

「花山(くわさん)」京都市山科区北花山河原町にある天台宗華頂山元慶寺(がんけいじ/古くは「がんぎょうじ」)。貞観一〇(八六八)年に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により定額寺という寺名で建立され、開山は六歌仙の一人僧正遍昭。元慶元(八七七)年に勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。花山法皇の宸影を安置する寺で「花山寺(かさんじ)」とも呼ばれ、大鏡では「花山寺」と記されてある。但し、「応仁の乱」の戦火によって伽藍が消失し、以来、境内が小さくなってしまったと参照した当該ウィキにあるので、この話柄内時制であれば、荒廃していたか。「新日本古典文学大系」版脚注には『あった』と過去形にもなっている。

「あるじなき住みかに殘る櫻ばなあはれむかしの春や戀しき」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原拠は続古今集・哀傷。出来斎京土産三・花山に同歌を引いて、「津守国基花山にまかりたりけるに僧正遍昭が室の跡の桜ちりけるを見て」とある』とある。

「さく花にむかしを思ふ君はたぞ今宵は我ぞあるじなるもの」どうもぎくしゃくした言葉遣いで気に入らない一首である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『類歌』として「平家物語」巻九の平忠度の、

 行きくれて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし

を挙げる。

「みづから」一人称自称代名詞。

「人間(にんげん)に捨てられて」人間道から捨てられて。死者であることをダイレクトに述べた。本邦の怪談では比較的珍しいが、本話の原拠は「剪灯新話」であるが、中国の伝奇・志怪小説では狐であるとか、死者であるとか、初っ端から明かす話は多い。

「畠山氏」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室町幕府で斯波・細川と共に三管領職を勤めた重臣。畠山英国』(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)『は、義満が北山第に移住した応永五年(一三九八)』に『管領となり、以後』、『義満を補佐した』とある。

「良子禪尼(よしこぜんに)」足利義満の生母紀良子(建武三/延文元(一三三六)年~応永二〇(一四一三)年)。室町幕府第二代将軍足利義詮の側室。石清水八幡宮検校善法寺通清(みちきよ)の娘。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は五歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも、幸子の方を重んじていた。幸子が従一位を授けられた永徳元(一三八一)年には、良子は従二位とされており、後に従一位に叙された。春屋妙葩に帰依した。法号は「洪恩院殿月海如光禅定尼」(以上は主文を当該ウィキに拠った)。

「明行かば戀しかるべき名殘りかな花のかげもるあたら夜の月」「夫木和歌抄」の巻四の「春四」にある後京極摂政九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)の一首、

 明けはてば戀しかるべき名殘かな花のかげもるあたら夜の月

の細工品。

「いづれをか花は嬉しと思ふらむさそうあらしとをしむ心と」同じく「夫木和歌抄」同じ「春四」にある法橋顕昭の一首のそのままの転用。

「心を引み給ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『思惑があるのかと考えてなぞをかける』とある。

「わりなく」この上もないまでに。

「かづらきの神」「葛城の神」。「かつらぎ」が一般的。奈良県葛城山の山神。特に「一言主神(ひとことぬしのかみ)」を指す。また、昔、役行者の命によって、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けようとした一言主神が、自身の容貌の醜いのを恥じて、夜間にだけ、仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、「恋愛や物事が成就しないこと」の喩えや、「醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりする」喩えなどにも用いられ、ここは夜ばかりにしか逢わないのを、主水正に済まなく思う気持ちをちゃんと持っていることを、かのいわく因縁のある神に誓ったのである。後日、その制約も投げ捨てて、主水正とともに普通に住むようになることの伏線である。

「忍ぶなげきを、こりつむべき」「なげき」を「嘆き」と薪として火に投げ込んで積む「投げ木」を掛けたもの。「新日本古典文学大系」版脚注に、『嘆きという名の木を伐って積み上げるの意』とされる。

「終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り」この雨のシークエンスには、何らかの民俗学的な意味が隠されているようだが、今のところ、思いつかない。

「人間」個人的には「じんかん」と読みたい。

「隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て」白い馬が走り過ぎるのを、壁の隙間からちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことを言う喩え。「白駒(はっく)の隙(げき)を過るがごとし」。「荘子」の「知北遊篇」が原拠。

「篠(しの)」稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠の小笹(おざさ)。

「泯(ひた)けず」読みは不詳(「新日本古典文学大系」版脚注でも『読み未詳』とする)。但し、「泯」は「尽きる」の意があるから、意味としては判る。

「魂《たましひ》を返す術(たむけ)」反魂術。死者の姿を見せる魔術。洋の東西なく、存在する。ここはその術「なしに」彼女が私のために「姿をあらは」した既成事実としての「功(いさをし)」=優れた超自然の力を示したことを指す。

「襜(うちぎ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「襜(せん)」は。膝掛け、まえだれ』で、これが「袿(うちき)」を指すのならば、『上流婦人の装束で襲(かさね)の上着』とする。

「ともす火やたむくる水や香花を魂(たま)のありかにうけて知れ君」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「夫木和歌抄」の巻十九の「火」にある、

 ともす火も手向る水もまことあらば魂のありかを聞よしもがな

をインスパイアしたものとされておられるようである。]

2021/09/23

譚海 卷之四 同年信州上田領一揆の事

 

[やぶちゃん注:前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」及びさらにその後の「同年信州淺間山火出て燒る事」に引き続いて、同天明三(一七八三)年に発生した事件記事で、珍しい連投関連記事である。非常に長いものなので、読み易くするために改行を施し(書簡なので一字下げは意識的行わなかった)、句読点・記号も変更・追加した。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本ではここから。]

 

○同年十月廿七日、信州上田の家士香山長琳、來書の寫。

「以別紙貴意候。去月廿九日、武州・上州の百姓騷動仕、安中領板鼻より、段々、富家を打崩、當月二日には當國作[やぶちゃん注:佐久。]郡へ亂入、古靑竹、或は、松明を持候て、村々ヘ入込、一味に相成不ㇾ申候へば、燒拂候段申聞、太き靑竹にてたゝき立候故、不ㇾ得止事作郡の大百姓どもを打潰し、或は放火仕候よし。

當月三日の朝、宿々より、注進有レ之。凡、人數は、四、五萬人も可ㇾ有ㇾ之旨、申來候ゆゑ、此方にても、殊の外、驚き、早速、人數追々指出申候處、人數の程、大方、五、六千人は可ㇾ有ㇾ之段、申聞候ゆゑ、領分境迄、人數指出候積り評儀仕候。

同四日の夜に入、小諸牧野遠江守樣御城下へ押寄候處、御小家ゆゑ、防ぎ兼候て、御通し被ㇾ成候ゆゑ、四日の夜、當御領分へ亂入、三箇村にて、三軒、打潰し、それより、根津領へ罷通り、富家二軒へ投火仕、二人燒死申候。

同日夜の内、上田城下へ押し來申候段、風聞有ㇾ之候ゆゑ、加賀川と申所より壹里先迄、數人指出防申候處、四日には參不ㇾ申候。

五日には矢澤領へ罷越、所々打崩し、夜に入、上田領眞田村・槇尾村にて、富家二軒、燒打に仕、六軒類燒仕候。狼藉なる事、中々、難申盡候。

仍て、當家より追手の方へ、用人壹人、武頭[やぶちゃん注:「ぶがしら」弓組・鉄砲組などを統率する組頭。物頭 (ものがしら) 。]壹人、侍分五十人、足輕百人、内、五十人は鐵炮、五十人は弓、目付壹人、醫師壹人、其外、領分の百姓相加り、千五百人の餘、指出し候。大得川原と申所にて、勢揃仕候節は、領分の百姓共、追々、駈加り、夜分の事ゆゑ、挑燈・松明の光にて、十萬人程にも相見え申候。

扨、又、搦手の方、伊勢山口の方へは、武頭二人、侍分三十人、足輕五十人、目付、醫師、其外、領分の百姓、相加り、千人計にて駈向候處、川久保村と中川原にて賊徒に行あひ、爰にて合戰初り申候。

賊徒は「橋をわたらん」と致し、味方は「橋を渡さじ」と、あらそひ、橋中にて、賊徒の方のもの三人、突伏申候處、賊徒、大に怒て、近寄候ゆゑ、鐵炮、壹度に打候へば、是に驚き、みなみな、にげ散申候。

右、人數は、火をともし不ㇾ申候ゆゑ、いかほどと申事、相知れ不ㇾ申候。誠に眞の闇にて、雨、少々、降申候て、一寸先も見不ㇾ申候。追手・搦手にて八方をとり圍、五十壹人、搦取申候。打捨・切捨も、よほど御座候。川原戰故、川へ、多く、ながれ申候よし。

兼て、他領へは罷越申間敷段、申付有ㇾ之候へども、見懸候敵ゆゑ、追付、うちもらし候分は、其儘に仕置候。晝にて御座候へば、壹人もなく打止可ㇾ申候得共、眞の闇故、夥敷、山林へ、にげ隱れ申候。

當領分へ罷越申候人數、「三千人程、可ㇾ有ㇾ之」よしに御座候へ共、二手にわかれ、上田へ押寄、上下、不ㇾ殘、燒拂申候積りに御座候。

今一時、出勢、遲く候へば、甚、あやうき事に御座候所、右川久保の橋にて、防留申候ゆゑ、壹人も城下へ通し不ㇾ申候。

仍て、城下無難に御座候得共、誠に戰場の有樣、目前に見侍る如くに御座候。

若、城下まで亂入候はば、大合戰に可ㇾ有御座[やぶちゃん注:「大合戰に御座有るべきに」。]、能き場所にて、防ぎ止候ゆゑ、味方、壹人も手疵無御座候。

當領分、三箇村にて、三軒、打崩、二箇村にて六軒、類燒仕候。小諸領にては、十箇村、大百姓共を、不ㇾ殘、打崩し燒拂申候。

其外、當國にても、打崩申候、村・人數は、夥敷、御座候ゆゑ、信濃壹箇國の御大名方、御領分境へ、皆、五百人・千人位づつ、出張有ㇾ之候。

此度の騷動、信濃壹箇國の騷に御座候。當領分にて打留不ㇾ申候へば、直に松本領へ押寄候筈のよしに御座候。

左候はば、段段、勢も相加り、いかやうの大事に及可ㇾ申候所、早速、相鎭り[やぶちゃん注:「あひしづまり」。]、先は安堵仕候。

乍ㇾ去、世上の樣子承候處、甚、六箇敷樣子に座候。此末、いかやうの大事も可ㇾ有レ之候や、難ㇾ計奉ㇾ存候。

且、又、此節、米、直段[やぶちゃん注:「ねだん」。値段。]、古米にて六斗、新米にて六斗七升仕候。騷動前には古米にて八斗五升仕候。

騷動にて、所々の米藏等、燒拂申候ゆゑ、急に高直に罷成申候。

扨々、難澁の年にて御座候。右の荒增[やぶちゃん注:「あらまし」。大体の内容。]申上度[やぶちゃん注:「まうしあげたく」。]、如ㇾ此に御座候。」。

[やぶちゃん注:地名・人物は、今、疲弊しているので、全く注する気になれない。悪しからず。

「武州・上州の百姓騷動」上野・信濃国で起きた百姓一揆「天明上信騒動」。群馬県では「安中騒動」、長野県では「天明騒動」「天明佐久騒動」などと呼ぶ。天明三年の浅間山の噴火による被害と「天明の大飢饉」のダブルで、深刻な食糧不足が発生し、米屋の買占めによる、米不足及び米価高騰によって、まず、中山道の馬子・人夫・駕籠舁き等が中心になって米屋を襲撃する事態が発生し、これを引き金として勢多・群馬両郡下の百姓が主となって「打ち毀(こわ)し」が引き起こされ、それが安中藩領全域に広がり、さらに信濃方面へも押し寄せ、最終的には二千人ほどの規模となって、上田領に及んだが、武力により鎮圧された。]

譚海 卷之四 同時中山道安中驛領主再興の事

 

○信州[やぶちゃん注:「上州」の誤り。]安中驛泥土にうづみ破滅せしゆゑ、領主板倉伊勢守殿、重代の什器を沽却(こきやく)し、國中(くにうち)を再興せられぬ。その器あたひ二萬兩餘(あまり)也。その内に油屋片付(あぶらやかたつき)と云(いふ)茶入を、松平出羽守殿千五百兩にもとめられけり。此器は太闇秀吉公祕藏のものにて、東照宮へ贈り給ひしを、又板倉伊勢守殿先祖拜領ありし事にて、天下無双の名器といひ傳ふ。尾花といふ茶入も日本橋檜物町(ひものちやう)大橋忠七といふ町人六百兩にもとめたり。其外常住釜の本歌をば柳澤甲斐守殿百兩にてもとめられたり。そのよは伊勢守殿本家板倉氏へも求められたりとぞ。

[やぶちゃん注:前話との強い連関で立項されている。その「信州安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。」という部分を完全に受けているのであり、こうした構成は「譚海」の中では、思いの外、それほどには多くない。

「板倉伊勢守殿」当時の上野国安中藩主板倉勝嶢(かつとし/かつとき 享保一二(一七二七)年或いは翌年~寛政四(一七九二)年)。官位は従四位下・伊勢守・肥前守。板倉家第四代当主。初代藩主板倉勝清(当時は泉藩主)の長男として陸奥国泉にて生まれた。安永九(一七八〇)年、父の死去により、跡を継ぎ、天明三(一七八三)年九月に奏者番(大名・旗本と将軍との連絡役で、大目付・目付と並ぶ要職。譜代大名はここを振り出しにして寺社奉行を経て、若年寄・大坂城代・京都所司代或いは老中などの重職へと上った)となった。天明四(一七八四)年に長男が早世したため、弟勝意(かつおき)を世子として迎えている。

「沽却」売却。

「油屋片付」鶴田純久氏のサイト内の「油屋肩衝」(あぶらやかたつき)として現物画像と解説が載る。それによると、とんでもない名物である。私は興味がないので、抜粋して引用させて戴くと、古来より『大名物茶入中の首位として尊重されたもので、堺の町人油屋常言(浄言)』(孰れも「じょうごん」と読む)『およびその子常祐(浄祐)が所持していたのでこの名があります』。天正一五(一五八七)年の『北野大茶会の際、豊臣秀吉が常言に命じて献上させ、代わりに銭三百貫および北野茄子』(きたのなす:やはり茶入れの大名物の一つ)『を授けました』。『のちに福島正則が拝領し、さらにその子正利になって徳川幕府に献上しました』。寛永三(一六二六)年に『将軍秀忠はこれを土井利勝に与えましたが、土井家では財政困難のため』、『河村瑞軒に売り渡し、程なく』、『冬木喜平次に移りました』。『そして天明年間』(一七八一年~一七八九年)『に次第に家運の傾いてきた冬木家から』、『松平不昧の手に入りました』。『値一万両といわれたこの茶入も、飢饉で冬木家の家運が衰え』、『わずか一千五百両であったといわれます』。『不昧は天下の茶入を歴観して』、『ますますこの茶入の優秀さを知り』、『特に愛蔵しました』。『不昧所持品中』、『最高位の』『墨蹟』等『と共に一つの笈櫃中に納め』、『この笈櫃は現在もこの肩衝を納めて残っています』。『参勤交代の時は』、『士人がこれを担って不昧の前を行き、本陣到着後も』、『これが床に据えられない前には不昧もまた着座しなかった』といい、『家中の士もまた』、『これを見ることができず、家老ですら』、『一生に』、『ただ一度』、『拝覧の栄を得るだけであったといわれます』。『その秘蔵振りがこれでわかりましょう。かつて薩摩侯が』、『将軍がこれを所望したらどうするかと不昧に冗談でいいますと、将軍の命はもとより否むことができないが』、『隠岐一国ほどは貰いたいと答えたということであります』とある。また、ここに書かれた来歴を年表形式でさらに細かく書いた個人サイト「名刀幻想辞典」の「油屋肩衝」があり、そこで、ここでネックになる時制に持っていた冬木喜平次というのは『江戸の豪商』『上田宗五(冬木伯庵)のこと』とされ、『豪商冬木屋は上野出身の上田直次が興した材木問屋で、東京都江東区冬木の町名は、冬木屋三代目冬木屋弥平次が、一族の上田屋重兵衛とともに材木置場として幕府から買い取ったことに由来する』とある。しかし、冬木から買った人物は前と同じく「松平出羽守」不昧=出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年:従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人として知られ、その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる)としており、板倉勝嶢が冬木から買ったという事実はなく、ここに書かれた不昧が買った金額も「千五百兩」と同額であることから、この津村のこの茶入についての話だけは、ガセネタと考えた方がいいように思われる。

「尾花といふ茶入」不詳。

「日本橋檜物町」現在の八重洲一丁目及び日本橋二・三丁目附近の旧称で、花街としてしられた。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「大橋忠七」茶器サイトで掛かってくる。大名連中から茶道具を高価に買い求めていることが判る。

「常住釜」大徳寺常住釜と呼ばれる茶釜の名品群を言うらしい。グーグル画像検索「大徳寺常住釜」をリンクさせておく。

「本歌」「歌」? しかし、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見るに、確かに「哥」の崩し字であった。調べてみたところ、茶道の世界で、古くから名物とされている茶器や伝来の茶碗に於いては、必ず、基本の形があり、その見所(みどころ)の約束の基準のことを「本歌」(ほんか)と言うのだそうで、茶人はこの「本歌」という基準を以って道具の格付けをしてきたのだそうである。納得(福島美香氏の『茶道の「本歌と写し」とはなにか』という記事を参照した)。

「柳澤甲斐守殿」大和国郡山藩第三代藩主で郡山藩柳沢家第四代柳沢保光(宝暦三(一七五三)年~文化一四(一八一七)年)。かの柳沢吉保の曾孫。

「伊勢守殿本家板倉氏」板倉勝嶢は重形(しげかた)系板倉家で傍流。本家は重形の父板倉重宗及びその長子重郷に始まる板倉家宗家。ウィキの「板倉氏」の系図を参照されたい。]

畔田翠山「水族志」 ハカタヂヌ (キチヌ)

 

(一六)

ハカタヂヌ 一名アサギダヒ 黃翅

形狀チヌニ似テ短濶背淡靑色腹白色腹下翅黃色腰下鬣黃色大者

二尺續修臺灣府志曰黃翅狀如烏頰肉細而味淸以其翅黃故名下淡水

重サ一二斤ナル者

○やぶちゃんの書き下し文

はかたぢぬ 一名「あさぎだひ」。「黃翅」。

形狀、「ちぬ」に似て、短く、濶〔ひろ〕し。背、淡靑色。腹、白色。腹の下の翅〔ひれ〕、黃色。腰の下の鬣〔ひれ〕、黃色。大なる者、二尺。「續修臺彎府志」に曰はく、『黃翅は、狀〔かたち〕、烏頰〔すみやき〕のごとく、肉、細やかにして、味、淸し。其の翅の黃なる故を以つて名づく。下、淡水たり。重さ、一、二斤なる者、有り。

[やぶちゃん注:暫く放置していたので、底本の当該部を示す。ここ宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)ではここで、

タイ科ヘダイ亜科クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus

と同定しつつ、「方言」として、チヌ(紀州各地)・シラタイ(田辺・湯浅・白崎)と、『多く前種と混同してゐる』と注した上で、本「水族志」では「ハカタヂヌ」一名「アサギダヒ」とある、と記す。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「キチヌ」のページよれば、標準体長は四十五センチメートルになり、『クロダイなどと比べ、全身から見て頭部が小さい。目は小さくやや前方にある。腹鰭、尻鰭、尾鰭が黄色い』。『クロダイは茅渟の海(大阪湾)でたくさんとれたので、関西では「茅渟(ちぬ)」。そのクロダイに似て』、『鰭などが黄色いという意味』の和名であるが、『どこの呼び名かは不明』とある。『比較的暖かい内湾、汽水域に生息し、ときどき河川を遡上することもあり』、『「川鯛」とも呼ばれる』。分布は、『茨城県利根川河口、千葉県外房』、『東京湾江東区中央防波堤前』から『九州南岸の太平洋沿岸』、『京都府天橋立内海阿蘇海』、『兵庫県浜坂』から『九州南岸の日本海』及び『東シナ海沿岸、瀬戸内海、小笠原諸島』で、国外では、『朝鮮半島南岸・東岸、台湾、中国東シナ海・南シナ海、トンキン湾、フィリピン諸島北岸、オーストラリア北西岸・北岸、ペルシャ湾』から『インド沿岸』に分布する。「生態」は『最初は総てが雄』で、十五センチメートル『を超える頃に両性期となり、その後、雌になる』とあって、『産卵期は秋』とし、『クロダイよりも内湾、河口域を好む』とする。但し、一九八〇年代の『関東では珍しい魚だった。関東ではほとんど見られなかったといってもいい。これが今、流通や釣り人の間では』、『当たり前の魚になりつつある。ただし、今でも関東に少なく』、『西日本に多い。もともと関東での取扱量は少ない魚種であったが、最近』(二〇一一年現在)『入荷量が増えている』とある。『透明感のある白身でクセがなく、とても味のいい魚』であり、『市場ではクロダイに混ざってくることが多いのであるが、キチヌのほうが主役ということも多い』。『クロダイが寒い時期から初夏までの旬であるのに対して、一月ほど遅れて旬を迎える』。『東シナ海で大正時代には大量に漁獲されていた。急激に漁獲量は減り、現在に至っている』とする。『旬は春から夏』で、『春になると』徐々に『筋肉が締まり、脂がのってくる』。『鱗は硬くなく取りやすい。皮はしっかりしている』。『透明感のある白身』で、『活け締めの血合いは赤くきれいだが、野締めの血合いの色合いは濃く』、『食欲をそそらない』。『熱を通すと適度に締まり、粗などからいい』ダシが『でる。微かに川魚に似た臭みを感じることがある』と評しておられる。

「續修臺灣府志」清の余文儀の撰になる台湾地誌。一七七四年刊。この「臺灣府志」は一六八五から一七六四年まで、何度も再編集が加えられた地方誌である。その書誌データは維基文庫の「臺灣府志」に詳しい。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原本影印の当該箇所が視認出来る(右側の電子化は機械翻刻で話にならないので注意)。

「烏頰〔すみやき〕」畔田はこれに「くろだひ」という読みも与えているのだが、既注の通り、私にはスズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini を指すとしか思えない。畔田は真正の現在の「クロダイ」を想起して書いているとしても、そうした現代の種別として部分的にバイアスかけて読む必要があると考えている。

「下、淡水たり」体幹の下方は白っぽいの意であろう。

「一、二斤」六百グラム~一・二キロゴラム。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (17) 古今奇談英草子

 

[やぶちゃん注:標題が「紙」でなく、「子」となっているのはママ。]

 

     古今奇談英草子

 

 英草紙《はなぶさざうし》は前に述べた如く、雨月物語と共に江戶時代怪異小說の双璧である。作者近路行者《きんろぎやうじや》は本名を都賀庭鐘《つがていしよう》といつて大阪の醫者である。水滸傳最初の譯者たる岡島冠山、小說精言、奇言等の著者たる岡白駒《をかはつく》と共に、同時代の支那小說紹介の三大功勞者と稱せられて居る。彼は英草紙の外に、「古今奇談繁野話《しべしげやわ》」と稱する怪異小說を書いているが、讀本としては前者の方が面白いやうである。

 英草紙は五卷九話から成つて居て、各々の物語がその長さに於ても、御伽婢子などより遙かにまさつて居るから頗る讀みごたへがある。歷史を取り扱つたものと世事を取り扱つたものとの二種類にわかれて居るが、いづれも比較的現實味に富んで居るから、これを怪異小說の中へ數えぬ人さへある。ことに歷史物は世事を取り扱つたものよりも現實味に富んでいて、怪異分子に乏しいから、私は世事を取り扱つたものの中から、その一つを選んで述べて見ようと思ふ。

 英草紙の文章は支那小說の影響を受けて居るだけに、漢文口調であつて、多少ごつごつしたところがある。以下私は、『白水翁が賣卜《まいぼく》直言《ちよくげん》奇を示す話』の一篇によつて、その文章と構想とに就て述ベて見よう。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの寛延二(一七四九)年初版で、ここから読める。読みはそれ及び所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に載るものを参照した(後者をも使用したのは、初版と表記が異なる箇所があったり、初版に歴史的仮名遣の誤りがあるためである)。不木の引用に句読点があったりなかったりするのはママである。

 以下、底本では最後の不木の言い添えまで、ずっと全体が一字下げ。]

『文明の頃、泉州堺に白水翁といへるものあり。よく人の禍福吉凶を決し、成敗興衰を指すこと差《たが》はず、常に大鳥《おほとり》の社《やしろ》の邊《ほとり》に行きてトを賣る。一日《あるひ》一人の士《さむらひ》こゝに來りて其卦《くわ》を問ふ。白水翁其年月日時《じつじ》を聞いて、卦を舖下《しきくだ》し、考を施して言ふ。『此卦占ひがたし、早く歸られよ』といふ。此士心得ぬ體にて、『我《わが》卦何のゆゑに占ひがたき。察するに、卦のいづる所よろしからず、あらはにしめしがたきことあるか。いむことなく示されよ』といふ。翁もとより言葉を飾らず『拙道《せつだう》が卦による時は、貴君まさに死し給ふべし』此士いふ『人死せざる道理なし。我《われ》幾年の後か死すべき。』翁云ふ『今年死し給はん。』『今年の中、幾の月に死すべき』『今年今月に死にたまふべし』『今月幾日に死するや。』『今年今月今日死にたまふべし。』此人心中怒《いかり》を帶びて再び問ふ『時刻は幾時《いくとき》ぞ』『今夜三更子の時死に給はん。』此人おぼえず言葉を勵《はげし》くしていふ『今夜眞《しん》に死せば萬事皆休す。若し死せずんば明日爾をゆるさじ。』翁いふ『貴君明日《みやうにち》恙なくば、來つて翁が頭《くび》とり給へ。』此人彼が詞の强きを聞いていよいよいかり、翁を床《ゆか》より引きおろし、拳《こぶし》をあげて打たんとす。近邊のものはしり集りてなだめ、此士をこしらへかへし[やぶちゃん注:宥めとりなして落ち着かせ。]、翁にむかひ『爾《なんぢ》しらずや、彼人は此所に執りはやす侍なり彼人の氣色《きしよく》を損じては、爰にあつて卦店《くわてん/うらなひみせ[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。]》をひらき難からん。かへすぐも、爾應變《おうへん》なき人かな、人の貧富壽夭《ひんぷじゆえう/ながいきわかじに》は數《すう》の定《さだま》る所ならんに、卦には如何に出づるともすこしは詞をひかへてこそよからん』といふ。翁一口《いつこう》の氣を歎じて言ふ。『人の心に應ぜんとすれば卦の言《こと》にそむく。卦の實《じつ》を告ぐれば人の怒をおこす。此所にとゞまらずとも己自《おのづから》留《とどま》る所あらん」と、卦舖《くわてん/うらなひみせ》を拾收《とりをさ》めて別所に去りゆきぬ』

といつたような文章であつて、その會話など、近代文學的色彩が頗る濃厚に出て居る。

『さて、この白水翁に卜つてもらつた侍は、當所郡代の別官をつとめて居る茅沼官平というものであつたが、白水翁の言葉がひどく癪にさはつたので、ぷんぷんして家に歸ると女房の小瀨《こせ》は心配して、何か上役の御機嫌でも惡かつたのですかとたずねた。そこで彼が白水翁の話をすると、小瀨は眉をひそめて、『そんないい加減なことを言ふものを、何故追つ拂ひになりませんでしたか」といつた。

『隨分腹は立つたが、人がとめたからゆるしてやつたよ。今日死ななかつたら、明日は彼をたずねていたしめてやろう[やぶちゃん注:「痛いしめてやらう」(痛い目にあわせてやる!)であろう。]。』

『ほんとにさうなさいまし、そんなにぴんぴんしていらつしやるのに、今夜死ぬなどとよくも言へたものです。もうもうそんなけがらはしい言葉は、酒を飮んでお忘れなさいませ。』

 官平は女房のすゝめた晚酌に醉つて、まだ日も暮れきらぬにその場で假寢した。小瀨は女中の安《やす》を呼んで二人で官平を運んで、正しく寢させ、それから女中に、易者の話をして、今夜は針仕事しながら寢ずの番をしようと云ひ出した。さて段々夜が更けて行くと、安がくらりくらりと眠り出したので、小瀨は搖り起しては夜の更けるのを待つと、やがて三更[やぶちゃん注:午前零時頃。]の太皷がなつたので、『もう三更が過ぎたから大丈夫、さあ二人がもた人がもたれ合つて寢よう。』と告げた。

 するとその時、奧の間から、官平が白裝束で寢間から飛び出して來て、あつといふまに、戶外へ走り出して行つた。すはとばかり、小瀨は安と共に手燭をともして良人の跡を追ひかけたが、女の足では追ひつくことが出來ず、あれよあれよという間に官平は、ある大川の橋の上まで走つて、まんなかどころから、どぶんと飛び込んでしまつた。

 二人の女は橋の上で、泣き悲しみ乍ら、聲をかけたが、丁度水の多い時分だつたので忽ち良人の姿は見えなくなつてしまつた。かれこれするうち近邊の人たちは物音を聞いて駈け集つて來たが、最早如何ともすることが出來ず、小瀨をなだめて家に送りかへし、白水翁の言葉のあたつたことに皆々舌を捲いた。

 あくる日近邊のものは死骸をさがしに行つたけれども海へ流されたと見えて行方が知れず、官平は狂氣して死んだと取沙汰されて事件は落着した。小瀨は安と共に亡夫の位牌を設けて追善に日を送つたが、百ケ日も過ぎると、小瀨の親里から再緣のことをすゝめて來た。小瀨はどうしてもそれを受けなかつたが、あまりに勸められるので、『この家へ養子を迎へるならば兎に角、他家へ嫁《よめい》ることは、どうしても厭だ』と、その心底を打明けた。そこで父親も尤もに思つて、然るべき養子を物色すると、丁度同じ國守の郡役を承る岸某の弟に權藤太《ごんとうだ》といふのがあつて、官平夫婦をまんざら知らぬ間でもなかつたから、話をすゝめて見ると双方乘氣になり、こゝに緣談は首尾よくまとまつて、權藤太は名を官平と改めて、茅沼の家を相續したが、夫婦の間は至つて圓滿であつた。

 或る夜夫婦は寢酒を飮まうと思つて、女中の安に酒の𤏐を命じた。安は眠たい眼をこすり乍ら、竃のそばへ寄ると驚いたことにその竃がぐらぐらと搖れて、一尺ほども地を離れた。見ると竃の下には人間らしいものがいて、髮を亂し、舌を吐き、眼に血の淚をうかべて、『安、安』と呼んだ。安はびつくりして悲鳴をあげて氣絕したので、夫婦が水をそゝいで甦らせて事情をたずねると、安は『前の旦那樣が竃の下から御呼びになつた』と答へた。これをきいた小瀨は大に怒つて『厭々酒を溫めるものだから、そういう恐ろしい目にあふのだ。』とたしなめ、ぶつぶつ言つて二人は寢室へかへつた。

 そのことがあつてから、小瀨は安をきらい、どこかへ嫁らせようと思つて居ると、幸ひに同じ郡に段介《だんすけ》といふ商人があつたので其處へ仲人して安をかたづけてやつた。ところがこの段介という男は非常な酒好きで博奕を好み、いつも安を官平の家に遣して金を借りさせたが、ある夜、また酒に醉つて、今からすぐ金を借りて來いと言ひ出した。で安は厭々ながら官平の家の門まで來ると、ふと上の方から『お前に金をやらう』といふものがあつた。見ると、屋根の上に一人の男が立つて居て、

『俺は死んだ官平だ。この袋の中に金があるからつかふがよい。それから、この紙に俺の末期の一句が書いてある。』

 といいながら、その袋を投げて、何處ともなく消え去つた。安は恐ろしい思ひをしながらも、取り上げて見ると、先の主人の火打袋であつたので、家に歸つて事の次第を告げたが、段介はその金を消費したので、人には語らずそのまゝ日を送つた。

 話變つて、ある夜、國守は、夢に髮をのばした男が、頭に井戶をいたゞき、眼中血の淚をながして一枚の願狀を奉つたのを見た。その文に、

   要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水

とあつたことを覺めて後も覺えて居たのでそれを紙に書いて市門《しもん》に掛け、懸賞で、この意味を說くものを募集した。これを見た段介は、先夜火打袋にあつた一句がこれと全く同じだつたので、早速訴え出ると、國守はその書附を出させて御覽になつた。ところがその書附は白紙になつて居たので段介は大に恐縮して、事の次第を逐一申述べた。

 國守はそれから安を呼んで一切の事情をきゝとり、官平の家へ數人の人夫を遣して竃を毀《こわ》させると、下には一個の石があり、更にその石を取りのけると井戶があらはれたので、中を探ると官平の絞殺死體が出て來た。そこで國守は官平夫婦を詰問し、その結果夫婦は包み切れずして白狀した。それによると、二人は先の官平の生きて居る頃、不義をして居たが、ある日官平が八卦を見て貰つて歸り、易者の言葉を告げたので、その家にかくれていた權藤太は三更の頃、醉ひふした官平を絞殺して井戶の中へかくし、それから、髮をふりみだし、官平のやうに裝つて、橋まで走り行き、大石を投げて、身を投げたように見せかけ、それから小瀨と計つて、井戶の上に竃をうつし、次で首尾よく養子をして不義の目的を達したのである。』

[やぶちゃん注:「要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水」「三更の事を知らんと要(えう)せば 火下(くわか)の水を開くべし」である。]

 これがこの物語の梗槪であつて、可なりに超自然的な分子が濃厚であるけれども、探偵小說としては上乘のものである。易者の言を巧みに應用して、人々の眼をくらますやうな狂言を書いたところは頗る面白い。現代の探偵小說家ならば後半の超自然的分子を科學的にして相當な探偵小說を作るであろう。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 上野國山田郡吉澤村堀地所見石棺圖 石棺圖別錄

 

[やぶちゃん注:同じ対象物を、まず、輪池が発表、それと同じものを文宝堂が発表しているらしく、ここは並べて電子化した。図は孰れも底本のものをトリミング補正した。キャプションは、石棺の蓋上面に、

「天平三

  己亥

  三月」

と彫られた文字が記されてある。干支が合わないのは、本文で指摘されてある通りで、天平三年は辛未でユリウス暦七三一年、天平宝字三年ならば己亥で七五九年である(但し、字が新しいから、別な意見も本文で示されているが、それだと、誤字だらけでちょっと鼻白む。干支を誤るのは、捏造の場合、初歩的な話にならない誤りだからである)。石棺左下に、台に彫られた文字であろう、

「藏尊人民

 依𠋣意忘

 耕故埋」

とある。埋めた理由を彫ったものらしい。やはり、本文の別判読で、「藏尊人民依歸忘耕故埋」で、「藏尊、人民、依歸(歸依)を忘れ、耕す。故に埋づめり。」か。]

 

Sekikan1

 

   ○上野國山田郡吉澤村堀地所見石棺圖

[やぶちゃん注:以下のデータ指示の「分り兼。」までは、底本では全体が一字下げ。]

唐金不動尊  たけ壱寸五分、臺座より火煙先まで貳寸四分。右一體、錆之中程、金箔の光相見、臺に書物切付有之[やぶちゃん注:「物にて切り付けて書きたる、之れ、有り」と訓じておく。]。但、小像故、不動、不分明。

赤がねの輪一 差渡し壱寸壱分、太さ一寸𢌞り。

       右は、錆懸り、貳分四方程、金、きせ、有之。

脇差身計   長、壱尺弐寸弐分。無銘。錆厚く、しのぎ、分り兼。

[やぶちゃん注:「計」は副詞「ばかり」。鞘がないこと。]

御領分上州山田郡吉澤村[やぶちゃん注:現在の群馬県太田市吉沢町(グーグル・マップ・データ、以下同じ)。]、學音寺[やぶちゃん注:現在の吉沢町直近の太田市丸山町のここに現存する。]住地、「百庚申塚」[やぶちゃん注:「百」は単に多いことを指すものであろう。後の文宝堂の表現に『數十五ケ所の塚』とあるからである。]有之、百姓菊太郞、「心願有之、石集拵度」由にて、當三月七日、庚申塚へおり、石集候處、庚申塚東の方、少々の崕(キリギシ)有之、場所、石、數多く相見候間、掘出候處、四尺計、掘候へば、左右、大石にて積立候石棺體之物出、其中より右之品、出申候。

これ、村役人より領主への屆出なり。五月末の事なりとぞ。

 行智曰、『倚依は歸依なり【「集韻」、『「倚」、同「奇」。】。上州人は「エ」を「イ」といふ。江澤を「イサハ」、蝦を「イビ」といふ類なり。』。

輪池曰、『天平三は辛未なり。天平寶字三は己亥なり。予、その搨本[やぶちゃん注:「すりほん」。音なら「トウホン」。拓本。]を見しに、筆力・書式ともに、その時代のものとは見えず。疑ふべきなり。』。行智曰、『天正三乙亥[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年。]なれば、天平は天正の誤寫、己亥は乙亥の誤字なるベし。』。輪池曰、『搨本につきて見るに、誤字にはあらず。』。

 乙酉六月        輪 池 再 記

  これは乙酉六月の兎園會の附錄なりとぞ。

[やぶちゃん注:「乙酉六月の兎園會の附錄」第六集の最後に輪池屋代弘賢が発表しているが、内容は無関係である。その時に附録として紹介したものを後掲したということらしいが、同日の兎園会では、冒頭で馬琴が「土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音」を発表しているおり、これは埋没した石棺や観音という仏教関連物の発掘という関係性で、多少の親和性が認められ、それを受けて臨時に輪池が会では附言したという感じがしないでもない。]

 

   ○石棺圖別錄

[やぶちゃん注:図は輪池よりも遙かに細かい。キャプションは、右上に、

不動尊一躰。長三寸位。

錆脇差一本。身斗リ。

   金、キセ、

   所々、ハゲテアリ。

マガタマ。一寸四方位。

とあり、上の切れた輪状のものが描かれている。これを勾玉と言っているようである。その左に、損壊した蓋の一部を、ひっくり返した状態で描き、

蓋、欠テ有。

とし、そこには、

「埋此尊依命」

という文字が彫られているようである。これは、「此の尊、命(めい)により、埋づむ。」となるか。その石棺の蓋の欠損部上面に、

アツミ、七寸位。

とキャプションがあり、蓋の長辺の斜めになった箇所に、

蓋、高サ一寸七尺余。但シ、一枚石也。

と記す。手前の短辺の斜めになった箇所に、輪池の示した、

「尊像人民

 依𠋣意忘

 耕故埋

  □」

が彫られている。最後の「□」は、一番、左の棺の外に、縦に、

此所、華押体(てい)ノモノ、見ユル

とあるのが、それらしい。蓋の上面には、輪池に示した、

「天平三

   亥三月」

の彫られた文字がある。石棺長辺下部に、

長七尺余

とし、短篇の下部に

横四尺位

とする。特異点は輪池の図にはなかった溝状のもの(実は石の接合部の隙間)が短辺の手前に左に縦にあり、その溝の下に、

合セ目、一寸位。ハナレ有。

とキャプションする。]

 

Sekikan2

 

右文政八乙酉年春三月、黑田三五郞樣領分上州山田郡吉澤村の内に、數十五ケ所の塚あり。其内、親塚、字は「七日市」[やぶちゃん注:不詳。]と申處を掘候ヘば、圖の如き、石棺、出づ。同月中旬、領主へ訴出候。

三月十九日に、相越、一見いたし候處、石棺、圖の如く、ミカゲ石のやうにて、内の方は至りてカタク、外は水氣を持ち、ボロゴロ致すやうなり。「天平三」の下に、何か文字體のもの見え候。「己亥」の中にも、おなじく、あやあり。隨分、古く相見え申候。塚の大さ、敷[やぶちゃん注:延べ面積の意か。]、凡、十間四方位、高、一丈三、四尺も有るべし。

不動尊、赤銅にて鑄ものと見え候。所々、すりはがし申候。

「マガタマ」、金キセ、殘り見え申候。右二品は、隨分、古く相見え申候。

脇差は、信用しがたし。

[やぶちゃん注:以下は全体が底本では一字下げ。]

右一條は、上州なる從弟の方より、認め來りしまゝを、しるし出だす。輪池翁のしるし給へるに、あはせ見給へかし。

  乙酉初秋初五、蚊にさゝれ、さゝれ、燈下にしるす。 文 寶 堂

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 野狐魅人

 

[やぶちゃん注:だらだら長いので、段落を成形する。標題は「野狐、人を魅(だま)す」と訓じておく。]

   ○野狐魅人

 和泉國日根郡佐野村といふ處に【世にしられたる食野佐太郞といふもの、この村に住す。岸和田にて食野を佐野と稱す。】、浦太夫とて、義太夫節の淨瑠璃をよくせる者有り。五畿内にて、十人のかたりての一なり。常に、此佐野村より、大坂の座へ、かよひて、業とせしが【佐野村は、岸和田城をさる事、五十丁道弐里とぞ。大坂をさる事、おなじ。道法九里許。】、一日、浪華よりの歸途、夜に入りて、同國泉郡布野といふ所を通りしに【布野は浪花より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺の有るところなり。三昧といふは、※1※2所をいふ[やぶちゃん注:「※1」=(上)「𠆢」+(下)「番」。「※2」=「土」+「毘」。通常、「三昧」とは「墓地」の意である。この熟語も、その意であろう。則ち、寺院があるわけではない埋葬場のことであろう。]。高石は、古[やぶちゃん注:「いにしへ」。]、「たかし」といふ。卽、「高しの濱」なり。】、ふと、人と道づれに成りしに、一人のいふ、

「先刻より、說話[やぶちゃん注:「とくはなし」。]を承るに、音に聞きし浦太夫丈のよし。自分は、この布野の下在[やぶちゃん注:「したざい」。]なる【此邊にては、山の在方を「上(ウヘ)」と云ひ、濱の方を「下(シタ)」といふ。】其の村の者なるが、此所にて行き逢ひしは幸のことなり。何卒、今より我方に來りて、一曲を、かたり聞かせ給はるべし。」

といふ。浦太夫、何ごゝろなく、うけあひて、其家に伴ひ行きしに、大なる農家にて、座しきへ通し、休足させ置き、その内に、大勢、あたりの者、寄り來りて、座に滿つ。

 主人、盛に杯盤を持ちて、酒肴を勸む。

 浦太夫、いへるは、

「あまりに多く飮食をなせば、飽滿して淨瑠璃をかたるに迷惑なり。先、語りて、後に給はらん。」

とて、一、二段かたりければ、座中、

「ひつそり」

として、感に堪へし有りさまなり。

 又、暫く飮食して、大に興に入りしに、座客、又、かたらん事を望む。則、其乞に任せて數段を語りしが、席上、實に感服せしにや、息もせず、ひつそりとせしに、心をつけて見過せば[やぶちゃん注:「見𢌞せば」の誤りではないか。]、人、ひとりも、居ず。

 眸を定めて、四方を見るに、夜、少しゝらみて、東の方、明けかゝるに、今迄、

『座敷なり。』

と、おもひし所は、あらぬ布野の三昧なりければ、仰天して、歸らんとせしに、夜は、ほのぼのと明けはなれたり。草ばうばうたる墓所なりけるに、

「ぞつ。」

として、早々、家に歸り、

『狐に魅されし。』

と心付に、

『夢のごとくに飮食せしものは、さだめて、世にいふ、馬勃牛溲にこそ。』

と、おもはれて、何となく、むねあしく、心も心ならず、恍惚として、たゞしからず。

 數日、わづらひて、打ち臥したり。

 其頃、和泉國中にて、

「佐野の浦太夫は、狐に化されしか。狐に淨瑠璃を望まれしか。」

と、一國の評判となる折しも、或人のいひけるは、

「其夜、浦太夫に饗せしものは、あらぬ不潔の物には、あらず。その夜、近村に婚姻の禮有りしに、其用意の酒肴・膳部、のこらず、うせて、あとかた、なし。さだめて、狐狸などの所爲ならん。」

とて、其家には、別に飮食を、とゝのへし、と聞く。

 されば、

「布野の三昧に、魚骨・杯盤、引散らして、さながら、人の飮食せし如く、狼藉たりし。」

とぞ。

 これをきけば、

「浦太夫が食せしは、實の食品にて、野狐、其藝を感じ、酒食をもてなし、淨瑠璃を聞きしならん。」

との取り沙汰にて、浦太夫、追日、平癒せしが、其後は太夫をやめ、外のなりはひして世を送り、程へては、折にふれて、人の望に應じて、かたりしこともあれど、たえて、業とはせざりし。

 實に安永[やぶちゃん注:一七七二年~一七八一年。]年中の事なりとぞ【岸和田藩中茂大夫談。同藩三宅定昭が筆記。】。

[やぶちゃん注:「和泉國日根郡佐野村」大阪府泉佐野市のこの附近の広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。

「食野佐太郞」江戸中期から幕末にかけて、この和泉国佐野村を拠点として栄えた豪商の一族である食野(めしの)家。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。私の「譚海 卷之一  泉州めしからね居宅の事」や、『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』の私の「平賀鳩溪實記」の注も参照されたい。

「岸和田」大阪府岸和田市

「食野を佐野と稱す」人物を地名に変えるのはよくあること。

「浦太夫」不詳。

「佐野村は、岸和田城をさる事、五十丁道弐里」佐野は岸和田城からは道実測で約六キロメートル南西。「五十丁道弐里」というのは、一里を五十町五千四百五十四・五メートルとするものか。としてもちょっと長過ぎる気がするが。

「大坂をさる事、おなじ。道法九里許」同じく道実測で三十五キロメートルほどである。前の換算では、やはり長過ぎる。よく判らぬ。

「泉郡布野」「布野は浪花より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺の有るところなり」大阪府高石市であるが、「布野」は不明。読みも判らない。

「馬勃牛溲」(ばぼつぎうし)の後者は「牛の小便」。「馬勃」の男根か。しかし、「溲」に対応し、狐狸に化かされる一般から言えば、「馬糞」の誤りのように思われる。

「茂大夫」不詳。

「三宅定昭」不詳。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 自然齋和歌

 

   ○自然齋和歌        輪 池

いせのくにあのゝ津にすめる川喜田氏、やまと歌に心をよせ、家業を舍弟と子と從者とにまかせ、壯年にて薙髮し、自然齋と號し、京に出でゝ、洛外、千世の古道にかくれ住みけるが、ある時、

心の花をしをりにて夢にわけ入るみよしのゝ山

といふことの、ふと心にうかびつゝ、初五文字を、數百日、按じけれども、終にうちつかざりければ、武者小路家【實陰卿。】に參りて、「かゝることこそ侍れば、しろおほき事に侍れども、この五文字つけさせ給はんことを、こひ奉る。」と申しければ、受けひかせ給ひぬ。日頃へて、うかゞひければ、「さまざま、おきかへぬれど、心にかなはず。よりて法皇に【靈元院。】うかゞひ奉りぬれば、數日、考へさせ給ひぬれど、おぼしめしにかなはせられず。「かやうのことは、北野が得手なり。」と仰せ有りしなり。「はやく祈り申すべし。」と仰せ含めらるゝにより、「いと、かしこきこと。」ゝて、その席より、すぐに參籠して、七日、こもりて、丹誠をこらし、いのるといへども、滿ずる朝まで、何の託宣もなし。「こは。いかにせん。」と、なげきながら還向して、七本松の邊まで歸りける折から、七十ばかりの齡とみゆる社人三人、朝きよめして有りながら、「この頃のことは、おもひねになりし。」と物がたりし故、「思ひ寢の」と初五文字をおきて、吟じ見しければ、よく相叶ひたり。よりて、「まさしく天滿宮の御告なり。」と思ひとりつゝ、いそぎ、神前に參り、ぬかづきてかへり申し、たゞちに武者小路家に參り、事のよし、申しゝかば、御感有りて、やがて、院、參せさせ給ひつゝ御手奏せさせ給ひければ、叡感のあまり、御製を下し給はりぬ。

賤のをの心をよするいせの海のもくずの中に玉の有りとは

この御製、傳聞・寫の誤も有りや、うたがはし。自然齋其無法師者。勢州阿濃郡。津城下。俗姓菅原。世々豪族。□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]壯年厭塵紛。脫家累。晦跡京洛。志好和歌。後卜地西山法輪寺疆内居之。寶曆五年乙亥初冬。持齋不起。終及十一月廿七日泰然而逝。享齡七十一。孝子潭空著存不忘平心。建碑舊廬之傍。敍銘靈龜山天龍資聖禪寺賜紫沙門堅翠巖撰。銘曰、

 生ㇾ勢長ㇾ京 賦性溫柔 菅原之裔 似統箕裘 厥行不玷 厥言寡ㇾ尤 壓塵界艱

 遁跡緇流 寓情和歌 讀書優游 水兮滔々 雲兮悠々

  銘  權中納言菅爲成卿

  篆  從三位淸原宜條卿

   權中納言兼左衞門督藤原隆前書

[やぶちゃん注:私は短歌嫌いで、興味が全くないので、短歌も調べないし(さしていい歌とも感じない)、漢文の「銘」の一部も意味が判らないし、漢文の銘に出る人物らにも興味がないので注しない。このところ、よんどころない多事の起こり、私個人としては予期せぬ時間的拘束が波状的に続いており、疲弊している。これは十一月半ばまで続く。向後も、注が不全なものが多く出るかも知れぬが、そういうわけで、悪しからず。

「自然齋」「川喜田」は川喜田光盛(かわきたみつもり)で国学者らしい。こちらの「国学関連人物データベース一覧表(50音順)」PDF)に拠る。生没年は後掲する。

「武者小路家【實陰卿。】」江戸時代前期から中期にかけての公卿・歌人で武者小路家二代当主であった武小路実陰(寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)。官位は従一位・准大臣。和歌の師である霊元上皇から古今伝授を受け、また、三条西実教にも師事した。清水谷実業、中院通躬らとともに霊元院歌壇に於ける代表的な歌人(当該ウィキによ拠る)。

「霊元上皇」(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年)は天皇在位は寛文三(一六六三)年~貞享四年三月二十一日までで、以後、上皇であったが、正徳三(一七一三)年八月に落飾して法皇となっている(法名は素浄)。参照した当該ウィキによれば、『これ以降、天皇が法皇になった例は無く、最後の法皇となった』元天皇ということになるそうである。彼は『兄後西天皇より』、『古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である』「新類題和歌集」の『編纂を臣下に命じた』とある。能書家としても知られた。

「北野」北野天満宮。菅原道真を祭り、

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花

       主なしとて春を忘るな

で知られ、和歌と縁が深い。

「七本松」現在の七本松通(しち(ひち)ほんまつどおり)。京都市の南北の通りの一つ。平安京の皇嘉門大路(「平安条坊図」。中央よりやや東)にあたる。

『七十ばかりの齡とみゆる社人三人、朝きよめして有りながら、「この頃のことは、おもひねになりし。」と物がたりし故』北野天神参籠もだめだったので、窮して、古典的な呪術である「辻占」を行ったのである。ただ、それを彼は天神の御教示ととっている。

「西山法輪寺」嵐山のそれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「疆」「境」に同じであるから、広義の寺の境内地内という意か。

「寶曆五年乙亥」一七五五年。

「享齡七十一」逆算すると、貞享二(一六八五)年生まれとなる。

「孝子潭空著存」意味不明。

「靈龜山天龍資聖禪寺」京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山天龍寺の正式寺名。]

2021/09/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 養和帝遺事附雨蛤竹筒

 

[やぶちゃん注:改行はあるが、ガタガタしているので、段落を成形した。話柄が変わる箇所に「*」と、改めて標題も配した。因みに「雨蛤」はこれで「あまがへる」と読む。]

 

   ○養和帝遺事雨蛤竹筒

 文治元年[やぶちゃん注:一一八五年。]、源義経、平宗の一族を壇浦に鏖[やぶちゃん注:「みなごろし」。]にせし時[やぶちゃん注:旧暦三月二十四日。ユリウス暦四月二十五日。グレゴリオ暦換算五月二日。]、安德天皇は二位殿の懷き奉り、神璽・寶劍を身にしたがへ、海底に沈みましましけるよし、史にも記し、人口にも云ひ傳ふれど、或は、阿波に逃れましくけるとも、又は、日向にかくれ住み給ふなど、異說まちまちにて、いづれを是とも定めがたし。

 しかるに、肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり。開山を神子和尙といふ。これ、則、安德天皇にて、わたらせ給ふ、となり。寺傳に云、

「昔、安德天皇、西海にて戰ひ敗れしとき、事を入水に托し、二位尼、及、郞等、五、六輩ともに、此川上に逃れ來り、かくれ住み給へるか。

[やぶちゃん注:『肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり』現在の佐賀県佐賀市大和町大字川上に臨済宗水上山輿聖万寿寺(すいじょうさんこうせいまんじゅじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)として現存する。サイト「さがの歴史・文化お宝帳」の同寺の記載他(後掲する)よれば、仁治元(一二四〇)年、神子和尚(しんしおしょう)が開山した寺で、本尊も神子和尚作と伝えられる不動明王とあり、さらに、『「鎮西要略」並びに「開山行業記」の中に『大治五年』(一一三〇年)に『水上山に善住という異僧がいた。天台宗の僧で、ここで不動の法を修すること多年、天がその仏心に感応して』、『その年の五月二十八日丑の刻(午前二時)に宝剱を下された。天皇のお言葉によって一旦』、『宮中に収められたが、瑞相がしばしば起るので』、『再び水上山に返された』とある。この宝剱といわれるものは』、『現在』、『寺宝として保管されている』とあるのだが、神子和尚=安徳天皇という記事は、ない。しかし、検索してみると、「安徳天皇生存説」の一つとして伝承が存在し、複数の書き込みでそれを確認出来る。ウィキの「安徳天皇」の「伝説」にも、『肥前国山田郷にて出家し』、四十三『歳で死去したとする説』が挙げられ、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』とある。他に、神子和尚は「鹿ケ谷の謀議」で鬼界島に流され赦免された平康頼(久安二(一一四六)年?~承久二(一二二〇)年)と筑後国の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれたとする別伝承もある。実は、いろいろなフレーズ検索をする内、自分のブログが引っ掛かってきた。既に「譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事」で注していたのを忘れていたのであった。さらに調べたところ、「佐賀市」公式サイト内には、驚くべきことに「旧市町村史(誌)」群の多くを全冊PDF化して公開してあり、これを調べたところ、「大和町史」(全一巻・昭和五〇(一九七五)年発行)の「【中世】概観(PDF:312.0KB)」8コマ目末の「⑵ 郷土の神社」の冒頭に「① 水上山万寿寺(お不動さん)」の項で公的な第一次資料が確認出来た。而して、結論を言うと、神子和尚を平康頼の子とする記載は同万寿寺に保存されている「神子禪師年譜」(現物画像有り。書成立や書誌は後の方の引用の最後を参照)は現存している。そのちゃんとした現代語訳がそこに載るので、引用する。

   《引用開始》

 万寿寺の開山神子和尚については二説がある。万寿寺に保存されている「神子禅師年譜」には、

『神子和尚は名を「口光」といい又「栄尊」と呼んだ。平氏の判官康頼の子である。父が硫黄島(いおうじま)に流された時、わけあって筑後国(福岡県)三瀦庄(みずまのしょう)に数年間往んでいた。そこの住人藤原種継に一人の娘がいた。嫁に行く気持は全く無く、ただひたすらに仏法を修めていた。この地に誰が建てたかわからないが、「不空羂索大士(ふくうけんじゃくたいし)」を本尊にした大きな寺があった。彼女はこの寺にはだしで千日参りの祈願を立て、ある日たまたま康頼に出合った。ある晩のこと、朝日を呑んだ夢を見て懐妊した。まだ子供が生まれぬうちに硫黄島に行ってから、やがて産気付いて三十八日目に出産したが、母子共に健全であった。時に建久六年(一一九五)六月二十六日である。しかし祖父はこの子を野原に捨てさせた。永勝寺の住職元琳(げんりん)法師は夢に、野原の草の間に法華経を唱える妙音を聞いた。和尚は翌朝人をやって探させたところ、お経を読んでいる人はいなかったが、ただ赤ん坊が捨てられて泣いていたという報告を受けた。そこで和尚自ら行ってみると赤ん坊の口から光明がさん然と輝いている。やがて生みの母を探して「この子は凡人ではない。必ずや仏種を起すであろう。大事に育てよ」といって、この子に「口光」と名付け母も歓喜して育てた。承元元年(一二〇七)十三才の時髪をおろし、天台の教えを受け、喜禎元年(一二三五)四十一才の時、商船に乗り平戸から十昼夜の後宋に渡った。この地で三年間修業し、歴仁元年(一二三八)日本へ帰り、二年の後肥前河上宮に参り、ついで一沙門(しゃもん)の勧めによって水上山に末て禅寺を建てた。時に仁治元年(一二四〇)、師の年四十六才であった。』

 と記されている。

   《引用終了》

ところが、それに直ちに続けて、全く別の驚くべき神子和尚安徳帝御落胤説が示されるのである。

   《引用開始》

 鳥栖市下野立石清治氏所蔵の記録によれば、

 文治元年(一一八五)四月旭(あさひ)村千年(ちとせ)川(千歳川)畔の立石儀右衛門宅を訪れる一隊があった。それは屋島・壇の浦の戦に敗れた安徳帝以下二位尼、平宗盛、平知時ら数名の一団であった。彼らが儀右衛門に語ることには、』『「去る彼らが儀右衛門

に語ることには、

 『去る二月十九日屋島の合戦で敗退した平氏の本隊は小倉に上陸、その中七十名ほどで安徳帝を奉じ太宰府に行った。その時、御幼帝はにわかに発病され、御看病申し上げるうち早や三月になった。ある日源義経より宗盛へ次のような親書が届いた。

『来る三月二十四日、壇の浦にて最後の決戦を開く事と相成り候。ついては御幼帝の御上を案じ申し上げ候。身替りを立て御無事御遠路にお立ち退(の)き下さるよう願わしゅう存じ候。』

 この時、二位尼の忠臣である古賀春時の妻初音(はつね)とその子喜太夫の申出により、二位尼と帝の御身替りになって、建礼門院以下平氏の兵らと共に出陣した。壇の浦に到着するより早く海戦となったが、たちまち平氏の敗戦となって、初音、喜太夫は海に沈んだ。建礼門院は捕われ京都へ送られた。一方、太宰府では安徳帝の御病もよくなったので、宗盛、二位尼、伊勢女らの一行は筑後浮羽(うきは)のあたりに逃れ、宗盛は自領である田代(鳥栖市)に行き、恩顧の士を集め主上をお迎え申し上げた。

 当時、筑後国藤吉に平家の臣で藤吉種継という富豪がいて、小笹(こざさ)山(久留米篠山(ささやま))に行在所(あんざいしょ)(仮り御所)を造り、奉迎申し上げたが、源氏の兵の襲撃を受けたので、幼帝、宗盛の一行は夜陰にまぎれ川を渡り、立石儀右衛門の家に来た。」ということであった。

 さて、立石儀右衛門は一族と計らい、当屋敷内におかくまい申すことに決し、御一同を百姓風に装わせた。間もなく宗盛は自領対島(つしま)へ安住の地を求めて去り、翌二年帝九才の時から藤吉種継を師として御学問を修業遊ばす事になり、十六才の春にはすべての御学問を修業遊ばされた。ここに千代姫という種継の受娘(まなむすめ)がいた。年は十五才、心素直(すなお)な美しい娘で帝のお目にとまりお通いになるようになった。帝十八才の時千代姫は皇子を御誕生になった。しかし御子の行末を案じ憎籍に入れることになった。帝は二十五才の七月にわかに発病され正治二年(一二〇〇)八月二十五日ついに崩御(ほうぎょ)なされた。千代女は剃髪(ていはつ)し、洗切(あらいぎり)の屋敷内に一宇の観音堂を建てて主上の御冥(ごめい)福を祈り、八十五才の天寿を全うした。御千は栄尊神子となって宋にも渡り、水上山万寿寺を再建した。

 鳥栖市下野(しもの)の老松宮が安徳帝の御陵といわれ、同じく下野の立石清治氏の裏千北方に二位尼の御墓所、更に西方に平知時の墓がある(豊増幸子ふるさと紀行より)[やぶちゃん注:中略。]

 現在の堂宇は明治五年火災後再建され、その後もまた時々修理されている。当寺の墓所正面の五輪塔が神子和尚の墓で、向かって右側の無縫塔(卵塔)が勅願寺第一世天亨和尚の墓である。

[やぶちゃん注:以下、底本では「※」のみが二字目に突き出て全体(二行目以降)は二字下げ。]

※ 万寿寺にある宝剱の由米並びに神千和尚年譜は「建治元年(一二七五)了因、公俊(いずれも塔頭(たっちゅう)これを証す」とあり文永九年(一二七二)十二月八日付神子和尚自筆の置文(おきぶみ)が宝剱箱内にあったのを写し世に顕(あらわす)と称して延宝八年(一六八〇)八月田原仁左衛門の文書の写(うつし)、更に享保十九年(一七三四)三月二十目付塔頭三名(花押あり)になる水上山略記の写、更に元和六年(一六二〇)十一月十日付是琢(ぜたく)和尚遷化(せんげ)の後写す とある文書等いずれも写しとして万寿寺に保管されている。神子和尚の後説は鳥柄市下野の立石光男氏(立石儀右衛門後裔)所蔵の文書による。「海の底にも都の候ぞ」といって八才の安徳帝と共に二位尼は壇の浦に投身したと平家物語にあるがその真偽はともかく、伝説を生むには何らかの背景があるのではないかということである。

   《引用終了》

因みに、少なくとも現在の同寺は、ネットを見る限り、神子和尚安徳天皇或いは落胤説を公的には述べていない(認めていない・参拝者への「売り」とはしていない)模様である。

 以下、底本では「建たるならんと。」まで全体が一字下げ。]

 「閑田耕筆」に、「緖方三郞は無二の平家の方人[やぶちゃん注:「かたうど」。]なりしに、俄に心がはりせしといふは、實は平家の勢ひとてもさゝふべきにあらぬを知りて、帝をはじめ奉り、一門のしかるべき人々を、この五箇山に隱せるが爲の謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]なり。その後、つひに、戰、まけて、入水せるは、みなそのさまを眞似たる人なり。」といへり。この說によるときは、帝をはじめ奉り、この五箇山に來り、後に寺を川上に建たるならんと。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。この引用は巻之一「天地の部」の一節。「閑田耕筆」(初版本)の当該部を「日本古典籍ビューア」のこちらで視認して、活字に起こした。前条と続きで、関連性(祖谷渓は隠田集落村で平家落武者伝説もある)も強力にあるので、併せて電子化した。

   *

○佐野儒士の話。「阿波にて、祖谷(イヤタニ)山の辺、深山幽谷に、村里、多し。『村』といふことを、『名(メウ)』といふ。其所にて然るべき者を『名主(メウシユ)』と、よぶ。下の民を『名子(ナゴ)』といふ。東大寺の古文書に、『村』を『名』といふこと、あるに、かなへり。又、『諸侯』を『大名』といふも、『名主(メウシユ)』の大なる心成べし。」とぞ。

○同話に、「此『名主』の中に、『門脇宰相の子孫』といふもの、山、あまた持たるあり。又、祖谷の並びに『木屋平(コヤダヒラ)』といふ山に『劔(ツルキ)權現』と号る[やぶちゃん注:「なづくる」。]社、有、『安德帝の御懷劔と、御髮を納めし所。』といふ。『實は、御出家にて、ながらへましましける。』と、いへり。凡、此帝の御名殘をまうす所、猶、二所あり。豐前小倉のうち、『かくれ蓑』といふ里に『安德庵』といふは、御落飾の後、かくれ給ふ所にて、四十歲餘まで御生存、と傳ふ。近侍の人の墓もありとぞ。又、肥後、神璽寺[やぶちゃん注:「しんじじ」。]といふが、開基を『神璽和尙』といふ。是、安德帝にてまします歟といふ。此寺、住持あらず、『看主(カンス)』にて相續す。『住僧』と名のれば、死と云。其寺に劔あり。御持物なるべし。請雨に驗(シルシ)あり。又、平氏の墓も有、といふ。畢竟、決しがたき事なれども、異聞に備ふべし。」とぞ。又、或說に、肥後東南、『五ケ山』といふは、平家の族(ヤカラ)、遁隱(ノカレカク)れし所にて、村中、皆、先祖の稱号を傳へたり。其氏神と崇(アカム)る社は、安德帝を祭り、御璽(シルシ)は宝劔なりといへり。因に、一說有、『「緖方三郞は、無二の平家の方人(カタウト)なるに、俄に心変(カハリ)せし。」といふは、實は、平家の勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]、とても、さゝふべからざるを知りて、帝をはじめ奉り、一門の然るべき人々を、此五ケ山に隱せるがための謀なり。其後、つひに、戰、まけて、入水せるは、皆、其さまを眞似たる人なり。』と、いへり。奧州の泰衡が、賴朝卿に從ひて、却て、義經を蝦夷に落せし、といふ話に似たり。是、尤、實否は、今、定がたき事なるべし。

   *

「緖方三郞」尾形(緒方)三郎惟栄(これよし 生没年不詳)は豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。当該ウィキによれば、「平家物語」に『登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄』『の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』が、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後、養和元』(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永』二(一一八三)年『に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした』。『同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって』、『源氏方の九州統治が進んだとされる』。『また』、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には』、『義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき』、『義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り』、『佐伯荘に住んだとも、途中』で『病死したとも伝えられる』とあり、』「平家物語」の巻八では『「恐ろしい者の子孫」として語られている』とある。

「五箇山」後に出る「五家荘・五家庄」(ごかのしょう)のこと。熊本県八代市(旧肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この附近当該ウィキによれば、『平家の落人の伝説で知られ、伝承によれば』、『平清経の曾孫たちが「緒方氏」を称して久連子・椎原・葉木を治め、菅原道真の子孫たちが「左座氏(ぞうざし)」を称して仁田尾・樅木を治めたと伝えられている(『肥後国誌』には葉木を菅原氏系とする異説も載せている)』。五『つの地域の支配者はそれぞれ地頭を称し、江戸時代にはそれぞれの村の大庄屋に任じられていた。更に外部の木地師の集団移住によって成立したとする説もあり、更に双方の伝説の混合もみられる(木地師の祖とされている惟喬親王が、惟仁親王(清和天皇)に皇位継承で敗れたことから、惟喬親王の子孫が「平氏」と称して惟仁親王の子孫である「源氏」の及ばない地に逃れたとする)。五家荘としてのまとまりが成立したのは、緒方・左座両氏が阿蘇氏の勢力に従って砥用方面に進出したとされる戦国時代初頭』(明応~永正期(一四九二年~一五二一年))『と推定されている』とある。]

 帝、御年二十になり給ふ時【建久八年[やぶちゃん注:一一九七年。]。】、出家し給ひ、入宋ましくて、學問なるの後、歸り給ひ、此所に一寺を建て萬壽寺といふ。寺内に寶劍堂といふもあり。こゝに寶劍を安置す。箱の長サ一尺五六寸計もありとぞ。古來より開くことなしといへり【これは三種の神器の一つにや。さらずば、帝の帶び給ふものなるべし。】。

 寺の邊に、二位尼村といふ所もあり。かくて、文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]【月日、詳ならず。】、神子和尙の六百年忌の法會を、萬壽寺にて執行せしに、

[やぶちゃん注:以下、「下にいふべし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 一說に、帝、實は女帝にて、此に隱れ給ひし時、山伏ありて、帝に配して[やぶちゃん注:「つれあひして」と訓じておく。]、子をうみ給ふ。神子和尙、是なりといひ、又、「扶桑僧寶傳」に、「神子禪師、諱、榮尊、號、神子。法嗣、聖一國師。鎭西人判官康賴平公、子なり。」とあれど、いづれもいへる處、いたく謬れり。その由、下にいふべし。

[やぶちゃん注:「扶桑僧寶傳」「扶桑禪林僧寶傳」(ふそうぜんりんそうぼうでん:現代仮名遣)江戸前期の明の渡来僧で臨済宗黄檗派の高泉性潡(こうせんしょうとん 一六三三年~元禄八(一六九五)年:福建省福州府福清県東閣出身。俗姓は林氏。高泉が号で、性潡は法諱。師であった隠元が一六五四年に渡日し、隠元門下で黄檗山の住持を継承した慧門に就いたが、一六六一年(本邦は万治四・寛文元年)に隠元の七十歳の寿を祝うため、慧門に代わって他三名の僧とともに来日し、そのまま日本に残った)が書いた日・明の僧の伝記。]

 肥後國五家の庄より、平家の末裔の人、おのおの、系圖を携へ【この五家の人々の先祖は、帝につき隨ひ奉りし人なり。その先祖の名、かねて聞けるをもて、末に記す。】、且、金子廿五兩を奉納し、

「主人の年忌なれば、備へ奉る。」

とて、來りて、法會の中も、敬ひ愼み、事果て、かへりしとぞ。

 此一條は、浮きたる事にあらず。今玆三月廿日、一友人森某ぬし【柳川侯の藩士。】を訪ひたるに、町野氏【同藩の士。】、來りていへるは、

「去年、かの川上あたりの溫泉に浴したるころ、一夕、萬壽寺に宿りて、住僧と話しゝに、『をとゝしの事にて候。かゝる事、ありし。』とて、上件のことゞも、かたり出でたり。」

と、親しく予にかたられけるを、記したるなり。文政三年。

[やぶちゃん注:底本はここで改行して、以下、「歡ぶべしとぞ」までが全体が一字下げ。]

 六百年忌なれば、承久二年の崩御なり。文治元年、壇浦敗軍[やぶちゃん注:「まけいくさ」。]の時、帝、寶算八歲なれば、崩じ給ふ御年四十三歲にてましませしなり。かゝれば、帝の御子といふ事は、もとより、ひがことなり。《評ニ云》[やぶちゃん注:底本では長方形の囲み字。]、帝、もし、御年十五、六歲にて御子をまうけ給ひ、その子、はやく出家せば、承久二年遷化の時、廿七、八歲なれば、さのみ、年紀のたがひ、あるにしもあらず。且、「神子」といふも、巫女の俗稱、「公主」といふも、秦・漢のとき、帝姬の稱なれば、一說に女帝なりしといふこと、「公主萬壽寺神子和尙」の名號に、據なき[やぶちゃん注:「よんどころなき」。]にあらず。又、神子和尙を、康賴が子なりといふを寺說によれば、謬に似たれども、畢竟、寺說とても、證文なき事なれば、いづれを虛、いづれを實と、定めがたかるべし。譬へば、藤澤寺なる「小栗十士」の墓、佐野の、天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき古跡、多ければ、萬壽寺の事も、うけられぬ說なれ共、異聞なり。かくめづらしきことを聞くも、兎園の一得にて、交遊の忠告とやいはん。歡ぶべしとぞ。

[やぶちゃん注:『藤澤寺なる「小栗十士」の墓』私の家からそう遠くない時宗総本山 遊行寺には、小栗判官と照手姫、及び、その家来十一人の墓がある。公式サイトの解説によれば、『東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺があり』、これは「小栗堂」とも『言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺です』。応永二九(一四二二)年、『常陸小栗の城主』『判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣』十一『人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき』、『妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手姫を妻に迎えました。満重往生の後、助重は遊行寺八徳池の側らに満重主従の墳墓を建立。助重の死後、照手は髪を落とし』、『長生尼と名のり、助重と家臣』十一『人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています』とある。

『佐野の天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき』これは恐らく「いざ鎌倉」の元となった話や謡曲「鉢木」に登場する架空の鎌倉中期の武士佐野源左衛門(諱を常世(つねよ)と称したとする)の神格化されたもので、現在も彼の屋敷跡とされるされる群馬県高崎市上佐野町に常世神社がある。天明の頃に創建されたかどうかは判らなかったが(複数の画像を見るに、如何にも新しい感じはする)、それを指しているものと考えてよかろう。

 以下は底本でも改行。]

 さて肥後國に、當時、五軒ありしをもて、「五家の庄」と呼べり。その人々は、帝に隨ひ奉りて、かくれすみし處にて、しか呼べるなり。その五家の先祖の名代は、從四位下少將平知時【知盛の男。】・左中將淸經【小松の男。】・上總介忠淸【關八州の侍大將。】・越中次郞盛次【平家四士之家。】・菊地次郞高直【外族侍。】瀨尾十郞兼高【兼安の男。】。今、この庄の頭、知盛の男より、廿九代の孫、權少輔平時資といふとぞ。

[やぶちゃん注:以上の人名に注を附す気はない。悪しからず。

以下は底本でも改行。]

 右一條は、あがれる世の事にして、且、もと、かくれましましゝことなれば、その實否は、今より、いかにとも定め難けれども、萬壽寺の僧が口づからの物語とあれば、聊、拙案を參考して異聞に備ふ。

     *

   雨蛤竹筒

[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミング補正した。店の名を附けた唐辛子入れである。] 

Amagaherutougarasiire

 

 去月廿六日、京師なる戶田君の御もとより、祗園祭禮番付三葉を下し給はり、且、鈴木氏の書物[やぶちゃん注:「かきもの」。手紙。]に、

西原氏、先日、當所御通行之節、此方へも御尋被下、久々にて、旦那も拜顏被致大慶奉存侯。其節、貴君、御噂、山々、御座候。しかし御城中故、緩々、拜顏も不被致殘念奉存候。當地御出立の砌は、雨天にて伏見乘船留り居、京地へ兩三日御逗留之内、四條雨蛤てんがく見世へも御立寄被成候よし、右田樂見世に、餘程ふるき「たうがらし入」、ケ樣の形に竹にて作り候もの、殊の外、望の由にて、亭主にいろいろ掛合候へども、餘程むつかしく申、手に入り兼、殘念の趣にて、京地出立被致候。此よし、美濃守致承知、其後、向々へ相賴、此程、漸、手に入申候。西原氏、格別望故、追日、大坂表柳川藏屋敷迄、差出し置、幸便之節、柳川表へ相屆候積りに御座候。此段御慰に申上候。又云、大坂表、蒹葭堂、此程參り候間、耽奇の本爲見候處[やぶちゃん注:「耽奇會」の本を「見の爲めに候ふ處」。]、殊の外、歡、大坂表へ是非とも持參いたし候趣にて、壱本不殘、貨遣し候。耽奇會は殊の外浦山敷樣子にて御座候。此段申上候。

[やぶちゃん注:以上は書信なので、そのまま字下げを行わずにおいた。]

と記されたるを見るにも、千里面談の心地ぞする。かゝれば、この二條及番付ともに、ひとり見過さんも本意なさに、けふのまとゐの諸君と同じくせばやとて、そのよしいさゝか記し出でたるになん。

  文政八年乙酉七月朔    北峯美成識

相月兎園

[やぶちゃん注:「戶田君」や「鈴木氏」「西原氏」及び「美濃守」(これはちょっと気になって調べたが、確定不能)は注する気になれない。悪しからず。

「四條雨蛤てんがく見世」思うに、「四條」通りにある「雨蛤(あまがへる)」という「田樂(でんがく)屋」の意であろう。田楽に唐辛子は合う。

「蒹葭堂」大坂北堀江瓶橋北詰の造酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付)を兼ねた商人で文人にして本草学者でコレクターの木村蒹葭堂孔恭(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)。私は先日、彼の編著になるとされる「日本山海名産図会」の電子化注を完遂している

「相月」は「さうげつ(そうげつ)」「しやうげつ(しょうげつ)」と読み、陰暦七月の異名。]

2021/09/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 腐儒唐樣を好みし事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○腐儒唐樣を好みし事

 或西方の大名に仕へて、三十人扶持を給はりし儒者あり。その名は忘れたり。この儒者、

「何事も孔子のごとくせざれば、儒道にあらず。」

とて、

「沽酒・市晡は食はず。」

[やぶちゃん注:「沽酒」は「こしゆ」。市販されている酒。「市晡」は「しほ」。市販されている広義の干物。本来は「脯」は「ほじし」で、細かく裂いて干した鳥獣の肉を指すが、肉食はそれ自体が賤しいものであったし、以下の叙述からも魚介類のそれと限定してとるべきところであろう。]

とあれば、酒も、わが方にて、かもし、鰹節も、手まへにて、乾させ[やぶちゃん注:「ほさせ」。]、周尺にて諸物を拵へけり。

[やぶちゃん注:「周尺」長さの単位の一つで、周代に用いられたとされる尺で、長さは六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二十三・〇三センチメートル)に当たると言われる。]

 家老の人、意見せしめて、

「いかに唐樣を好めばとて、竊に傳へ聞くに、大小共に、兩刀の劍を用ひらるゝよし。日本の劒術は、この國風に隨ふこそ、よけれ。且、御邊、儒をもつて仕ふとも、又、是、武門の奉公ならずや。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、文・武・周公・孔子の世が周なればとて、一切の事を周の制にて濟さんと欲すとも、官途・品級の次第、職宗の體などは、『周禮』にても考へらるべし。もろこしにてすら、太古の事は、今日の用に當て[やぶちゃん注:「あてて」。]、考へとられざること、あらん。」

といふ。

 彼儒者、答へて、

「好意、寔に忝し[やぶちゃん注:「まことにかたじけなし」。]。しかしながら、周の代の事、考へ得られざれば、漢の世の制を用ふる故、さしつかふること、なし。」

といふ。家老、聞きて、あざ笑ひ、

「『智は非を凌ぐに足る』といへるは、則、御邊の事なるべし。今、五穀を量らんに、周の制は考へがたし。漢の升をもて考ふれば、日本[やぶちゃん注:「ひのもと」。]、今の一合は、卽、漢の一升なり。「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えしも、日本の三石六斗に當れり。御邊の月俸三十口なれば、これまで一ケ月に四石五斗づゝわたしゝは、一ケ年に五十四石の高なれども、周漢の制を好める故、扶持方も漢の升目を以て、壱人扶持は壱升五合なり。これを三十合にすれば四斗五升なり。かくのごとくにしてわたせば、一ケ年に五石四斗の高となる。十二ケ月の内、大小のたがひはあれども、當月より四石五斗を四斗五升にしてわたす樣に、藏方に申し渡すベし。かゝれば、御邊も漢法にて扶持方をうけ取られ、滿足なるべし。」

と、いひければ、儒者、大に驚きて、

「その儀は御免候へかし。誤り入り候。」

とて、漢法をやめしとかや【評に云、「この事は、先輩、既に物にしるしゝもあれば、作り設くることなるべし。」。】[やぶちゃん注:乾斎自身が入れた割注であろう。]。

 すべて、手前勝手にあらぬ事は、日本の古格に任せ、勝手の事は異國の風をまねんとせしは、笑ふべし。

 わが知れる人、親の死せしとき、

「三年の喪を勤むる。」

とて、喪服樣の物を製し、

「唐流は精をなし。」[やぶちゃん注:「なし」の右に『(マヽ)』注記あり。編者によるもの。「生活上必要最小限の精力がつかない」の意であろうか。]

とて、喪中に酒を飮み、肉を食ひ、自如として、平日のごとし。

 殊にしらず、「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり。菜果すら食はざりし喪に、酒を飮み、肉をくらふは、何事ぞ。

 是等の事ども。世に多し。抱腹云々。

  乙酉七月朔      乾  齋  識

[やぶちゃん注:「文・武」周(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)は古代中国の王朝。当初は殷(商)の従属国であったが、「牧野の戦い」(殷周革命戦争)で殷を倒し、周王朝を開いた。紀元前七七一年の洛邑遷都までを「西周」、遷都から春秋戦国時代に秦によって滅ぼされるまでを「東周」と区分する。儒教に於いては、西周は理想的な時代とされ、周の歴史は。孔子の言説を始めとして儒教経典や「史記」などの歴史書に儒教の理想国家として記されてある。一方で、現代では考古学調査による研究も進展しており、中国文明は周代に確立したという学説もある。西周・東周の両方を合わせると、中国史上、最も長く続いた王朝であった。周の伝説上の始祖は后稷(こうしょく)であり、五帝の舜に仕え、農政に功績があったとされる。古公亶父(ここうたんぽ)の御代に周の地に定住したとされる。彼には三人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と称した。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥、父は「わが子孫の内で、最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るために自発的に出奔し、南方の僻地に赴いた太伯は「句呉」と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は、皆、これに従った。なお、この南方の僻地は「日本であった」という伝説もある。季歴の息子姫昌(後の)が王位を継ぐと、祖父の期待通り、周を繁栄させ、遂には宗主国殷から「西伯」(国を東西南北に分けた際に西を管轄する権限を持つ諸侯。宗主たる王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることが許された)の地位を賜るに至った。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君であったため、諸侯は姫昌に革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。姫昌の死後、後を継いだ姫発(後の)は、周公旦・太公望・召公奭(せき)ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、紀元前一〇四六年に「牧野の戦い」を起こし、武王は見事に殷の紂王に打ち克ち、周王朝を創始した(以上は当該ウィキに拠った)。

「職宗」官職の制式や祖先を祀る際の規範の意であろう。

「周禮」呉音で「しゆらい(しゅらい)」と読む習慣がある。周公旦の撰と伝えるが、偽作説もある。元は「周官」と称したが、唐の賈公彦の疏で、初めて「周礼」と称するようになった。天・地・春・夏・秋・冬に象って官制を立て、天命の具現者である王の国家統一による理想国家の行政組織の細目規定を詳説する。「儀礼」「礼記」と共に「三礼」の一つとされる。

「にても考へらるべし、」読点にしたのは、「それらは確かに周公旦の記された「周礼」通りに考え、執行することも出来ようが、」という逆接の雰囲気を出したかったからである。

「智は非を凌ぐに足る」「人知というものは決定的な誤りを避ける程度にしか有効ではない」の意か。細部まで絶対的価値を持つものではないということなら、この話に係わってくる。

「漢の升」例えば、漢代の容積単位を現代に換算してみると。

「今の一合は、卽、漢の一升なり」江戸時代の一合は現代と同じ一・八リットルであるが、漢代の「一合」はその十分の一の〇・一九八リットルでしかなく、漢代の「一升」が現代の「一合」と同じなのである。因みに、周代はそれよりも〇・〇四リットルさらに少ない

『「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えし』「漢書」(後漢の歴史家班固らが著した前漢(劉邦から王莽まで)の紀伝体の正史。百巻。紀元八二年頃成立。「地理誌」に日本(倭)についての初めての記述があることで知られる)に「牛一頭の背に三十六斛(こく)を積む」(そのまま現代のそれで示すと約六・九四三キロリットルという膨大なものになってしまう)とあるが、これは江戸時代に換算すると、同前で「三石六斗」(一斛=一石=十斗=百升=一千合)であるから、五百四十二・九七リットルとなる。

「唐流」似非者だから、音読みせず、「からりう(からりゅう)」或いは「もろこしりう」と読んでおく。

「自如」(じじよ(じじょ)は「言動が平素と少しも変わらないこと・もとのままであること」。「自若」に同じ。

「殊にしらず」「その上に、知らないのか?」という呆れ果てた感嘆表現か。

『「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり』「礼記」の「喪大記」に、

   *

期之喪、三不食。食疏食、水飮、不食菜果。三月既葬、食肉飮酒。期終喪、不食肉、不飮酒、父在爲母、爲妻。九月之喪、食飮猶期之喪也、食肉飮酒、不與人樂之。

(期(ご)の喪には、三つの不食あり。食するに、疏食を食ひ、水を飮み、菜果(さいくわ)を食はず。三月(みつき)にして既に葬ふれば、肉を食ひ、酒を飮む。期の喪を終(を)ふるまでは、肉を食はず、酒を飮まず。父、在(いま)せば、母の爲にし、妻の爲にす。九月の喪には、食飮、猶ほ、期の喪のごときなり。肉を食ひ、酒を飮むも、人と之れを樂まず。)

   *

「菜果」野菜・果物。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 勝敗不由多少之談

 

[やぶちゃん注:乾斎発表。標題は「勝敗は、多少の由、あらざるの談」と訓じておく。段落を成形した。]

 

   ○勝敗不ㇾ由多少之談

 昔、晉の智伯、韓・魏の三家と志を合せ、逍襄子の軍を、晉陽にて、水攻になしゝ時、逍城の侵さるゝもの、纔に三版なりしに、襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば、智伯、大に敗北せり。

 又、西楚の項籍は、精兵若干にて、漢高祖の五十六萬人を敗り、漢の韓信は壱萬餘人の兵を帥ゐ[やぶちゃん注:「ひきゐ」。]、しかも、水を背にして陣をとり、逋の陳除が二萬人を、暫時に打ち敗りぬ。

 我朝にても、判官爲義、十八歲の時、終に十七騎にて、南部法師二千餘人を、栗柄山にて追ひ散らし、楠正成は、百六十人にて、千劒屋に籠城し、關東の廿萬餘騎と、二年の合戰あり。且、落城は、せざりしなり。

 大神君、姊川の御戰、御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ。

 信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ、長篠の役に、奧平九八郞は、至りて、小勢を以て、長篠城に籠城し、勝賴、弐萬を帥ゐて攻めたれ共、終に拔けざりき。

 これをもて、これを觀れば、軍の勝敗は兵の多少にあらずして、人心の誠と不誠とにあるなり。帝軍の勝敗のみにあらず。物、皆、然り。

 大神君、竹千代君と申し奉りし時、「五日菖蒲擊」を御覽ありしに、その打合、双方、東西にわかれ、いまだ、戰、始めざりしとき、竹千代君、仰せられけるは、

「大敵と、小敵と、戰ふ。小數の方、勝つべし。」

と宜ひしに、果たして、小數のかた、勝たれけり。

 近頃、わが主君、下莊の門前に、甚だしき鬪諍あり。大數の方は、長竿を持出で、且、石・瓦を、頻に、礫に、うちけり。小數のかたは、徐々と[やぶちゃん注:「そろそろと」。]並居たりしが、その中、一人、剛勇の男、短刀を拔きて、大敵の中に飛び入り、大に働きければ、大數の者ども、大に驚き、右往左往に馳せ散りけり。是、わが親しく觀る所なり。

 しかれば、則、物の勝敗は、人心の誠と不誠にありて、人數の多少にあらざるなり。

[やぶちゃん注:「晉の智伯」春秋末期の晋の政治家で武将の智瑶(ちよう ?~紀元前四五三年)。当該ウィキによれば、『智氏が属する荀氏の遠祖は一説』には、『殷の王族の末裔だといわれる』。『智氏は晋の中でも荀氏の分家として、中行氏(荀氏の本家)や』、『その婚姻の范氏(士氏の分家)と共に』、『晋の六卿の中でも名門中の名門だったという。だが、智瑶の祖父の智躒』(ちらく)『(智文子)は、勢力拡大のために』、『六卿の魏氏・韓氏・趙氏と結託して本家である中行氏を攻撃。中行氏は滅亡し、続いて范氏も滅亡に追い込まれた。滅ぼされた両氏の所領は智氏・魏氏・韓氏・趙氏の四卿によって分割された』。『孫の智瑶が当主になったころ、当時の晋公であった出公は彼らの専横を憎み』、『これを討伐しようとしたが』、逆に『四卿は反撃』に出、『敗れた出公は逃走中に死亡し、智瑶が擁立した哀公が出公の後を継いだ』(紀元前四五八年)が、『哀公は傀儡に過ぎず、晋の実権は智瑶によって掌握された。これを期に』、『智瑶は晋にとってかわる野望を抱くようにな』った。『しばらくして、かつて范氏と中行氏の家臣であった豫譲が彼に仕官した。智瑶は豫譲の才能を認め』、『彼を国士として優遇した。この待遇に感激した豫譲は智氏の滅亡後、智瑶の仇を討つべく奔走することとなる』。『数年後、智瑶は魏氏・韓氏・趙氏に所領の割譲を要求した。魏氏の当主の魏駒(魏桓子)と韓氏の当主の韓虎(韓康子)は恫喝に屈して所領の一部を割譲したが、趙氏の当主の趙無恤(趙襄子)』(本文の「逍襄子」はこの誤字であろう)『はこれを拒絶』したため、『智瑶は趙氏を滅ぼすために兵を発し、智瑶の要請を受けた魏駒・韓虎も兵を率いて従軍した』。『智氏・魏氏・韓氏の連合軍を率いた智瑶は趙氏の本拠地である晋陽』(現在の山西省の省都である太原市。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を攻めた(晋陽の戦い)。晋陽の守りが堅いことを知った智瑶は水攻めを決行。戦いが始まって一年が経ったころには晋陽の食糧は底をつき、ついには落城寸前となった』(本文の「襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば」というのは、この部分の誤認であろう)。『絶体絶命の窮地に陥った趙無恤は』、『魏駒と韓虎に密使を派遣』し、『「智伯は強欲な男であり、このわたしがやつに滅ぼされた後には今度は貴公らの番である」と離反をそそのかした』。『内心では智瑶を不快に思っていた魏駒・韓虎はこれに応じ、智氏の軍を奇襲。趙襄子も城を出て』、『総攻撃をかけた』結果、『形勢は逆転し』、『智氏の軍は壊滅』、『智瑶は捕虜となり、その後』、『殺害された。智氏は滅亡し、その所領は魏氏・韓氏・趙氏によって三分された』。『趙無恤は酒の席で智瑶に酒を浴びせかけられたことがあり、それ以来』、『彼を深く恨んでいた。智瑶の死後、趙無恤は智瑶の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、さらしものにしたという』。『死後、「襄」を諡され、智襄子とも呼ばれる。なお、戦国時代後期に現れた荀子は、滅びた智氏の一族の末裔だという』とある。

「三版」意味不明。

「西楚の項籍」西楚の覇王項羽。

「漢高祖」劉邦。

「韓信」(?~前一九六年)漢初の武将。当初は項羽に従ったが、後に劉邦 の将に寝返り、華北を平定、斉王次いで楚王に封ぜられたが、後、淮陰侯に左遷され、最後は反逆の疑いで劉邦の后呂后(りょこう)に処刑された。

「水を背にして陣をとり」「彭城の戦い」で敗走した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に、韓信の別働隊が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが、裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と、将軍の曹参とともに討伐に送り出した。魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信は、その対岸に囮の船を並べ、そちらに敵を引き付けておき、その間に、上流に回り込んで、木の桶で作った筏で兵を渡らせ、魏の首都安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを、討って、魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行った(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。二十万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余(?~紀元前二〇五年:秦末から前漢初期にかけての武将で代王。彼は張耳とともに趙王の子孫である趙歇を探し出して趙王にし、信都を都に定めたから、本文にある「逋の陳除」は「趙の陳餘」の誤りである)を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(「井陘の戦い」)。以上はウィキの「陳余」に拠った。

「判官爲義」源義朝の父源為義(永長元(一〇九六)年~保元元(一一五六)年)。但し、これも錯誤があるようだ。複雑な真相を持つ、河内源氏の棟梁であった源義忠の暗殺事件(天仁二(一一〇九)年二月発生)の首謀容疑者として源義綱一族に嫌疑がかかり、これ憤慨した義綱が甲賀山(鹿深山)に立て籠もった。これに対し、白河院は、棟梁を継いだばかりの義忠の甥源為義に義綱父子の追討を命じた。為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると、義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できないとする息子たちが憤激、次々と息子たちが自害していく中、ただ一人残された義綱は、甲賀郡の大岡寺で出家し、為義に投降した(後、佐渡に配流された)事件がある(詳しくはウィキの「源義忠暗殺事件」を見られたいが、これは冤罪で真犯人は義忠の叔父で、義綱の末弟である源義光であった)が、これは為義数え十四歳で「十八歲」に、まあ、近い。しかし、「南部法師二千餘人」云々が合致しない。この内容に合致するかと思われるのは、大治四(一一二九)年十一月の、興福寺衆徒による「仏師長円暴行事件」で、犯人追捕のため、他の検非違使とともに、為義が南都(奈良)に派遣されたが、逆に首謀者の悪僧信実を匿って、鳥羽上皇から勘当されたというのが、まず一件だが、結末が合致せず、しょぼくらしいから違う。翌大治五年五月に、延暦寺の悪僧追捕があるが、これも、郎党が誤って前紀伊守藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えてしまったために、検非違使別当三条実行により勘事に処されてしまっている。源師時はこの時の様子を日記「長秋記」で『爲義の作法、兒戲の如し」と罵倒しているから、これもしょぼい。因みに、大治五年では為義は数え三十五歳であるから、これまた、合わない(以上はウィキの「源為義」を参考にした)。唯一、「栗柄山」(「くりからやま」と読んでおく)がヒントになろうかと思ったが、こんな山は南都にはない。どうも、この記事、誤りや不審が多過ぎる。

「千劒屋」「ちはや」で「千早」の当て字。元弘三/正慶二(一三三三)年の後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将楠木正成と鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦「千早城の戦い」。実際には三ヶ月半ほどの籠城戦であったことが判明している。但し、前年四月に、正成は、一度、幕府軍にとられた赤坂城を奪い返し、その背後の山上に千早城を作ったので、数えで「二年」とはなる。また、幕府軍を本文では「廿萬餘騎」とするが、これは過小で、北条高時が、畿内に於いて反幕府勢力が台頭していることを知って、九月二十日に関東八ヶ国の大名からなる追討軍を派遣しているが、それは三十万余騎である。全部が千早城攻めに加わらなかったであろうが、少なくとも派遣された総数では、十万も少ないことになる。

「姊川の御戰」戦国時代の元亀元年六月二十八日(一五七〇年七月三十日/グレゴリオ暦換算八月九日)に織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉景健(かげたけ)連合軍の間で近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)に於いて行われた「姉川の戦い」。「御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ」とあるが、現在知られている総勢力では、織田・徳川軍は一万三千から四万、浅井・朝倉軍は一万三千から三万名とされ、当該ウィキを見るに、「信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ」というのは、その緖戦に当たる同年四月の、信長の義弟で盟友でもあった浅井長政の裏切りにより、織田信長の撤退戦となってしまった「金ヶ崎の戦い」の誤りと思われる。詳しくはウィキの「金ヶ崎の戦い」の方を見られたい。

「長篠の役」天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)に三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って三万八千人の織田信長・徳川家康連合軍と、一万五千人の武田勝頼の軍勢が戦った「長篠の戦い」。

「奧平九八郞」徳川家康の長女亀姫を正室とし、娘婿として重用された奥平信昌(のぶまさ)の幼名。後に上野小幡藩初代藩主、美濃加納藩初代藩主となった。当該ウィキによれば、『奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は』、一万五千と称した『大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで』、『武田軍の攻勢を凌ぎきった。その結果』、同月の「長篠の戦い」では、結果、『織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた』。『この時の戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。ただし、近年になって、武田信玄こと』、『晴信の偏諱「信」を与えられて信昌と称したものの、後世の奥平氏が』、『この事情を憚って』、『信長からの偏諱の話を創作したとする説』『も出されている』とある。『家康もまた、名刀大般若長光を授けて』、『信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣』十二『名に対して』も『一人一人に』、『労いの言葉をかけた上』、『彼らの知行地に関する約束事など』、『子々孫々に至るまで』、『その待遇を保障するという特異な御墨付きまで与え』ている。『戦後、父』『貞能から正式に家督を譲られ』ているとある。

「五日菖蒲擊」「菖蒲擊」は「あやめうち」「しやうぶうち」「しやうぶたたき」等と読む。五月五日の端午の節句に行った子供の遊びの一つで、ショウブの葉を、三つ打ちに平たく編んで棒のようにし、互いに地上に叩きつけて、その音の大きさを争ったり、また、切れた方を「負け」などとしたもの。ここは武家の男の子の節句祝いとして行われた家中の武士による擬似合戦である。

「わが主君」発表者乾斎中井豊民は、大儒大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年:加賀国大聖寺出身。京の皆川淇園(きえん)や、江戸の山本北山に学ぶが、飽きたらず、独学を重ね、折衷学に清の考証学を取り入れた独自の考証法を編み出した。三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町附近)に仕え、晩年は加賀金沢藩に招かれた)の教えを受け、師と同じく吉田藩に仕え、渡辺華山や鈴木春山らと交流し、経学と文章を以って儒者として名を成した人物らしい。但し、生没年等、具体的な事績は不詳である。この「兎園会」の行われた文政八(一八二五)年七月当時の主君吉田藩藩主は第四代藩主にして幕府寺社奉行を務めていた松平信順(のぶより 寛政五(一七九三)年~天保一五(一八四四)年)である。

「下莊」吉田城の「下方にある村」の意の一般名詞か。]

芥川龍之介書簡抄148 / 岩波旧全集「年月未詳」分より 四通

 

[やぶちゃん注:或いは、新全集では推定年で参入されてあるものもあるかも知れない。]

 

年不明・執筆地不明・八日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

謹啓 小生はかゝる文を御手許に差上ることと相成りしを悲しむものに御坐侯 又大兄の御痛恨の程を慰めまつるには我交のあまりに淺かりしを悔ゆるものに御坐候 小生は伊藤兄を隔てゝまた知人たる伊藤氏を隔てゝ大兄の御家事を伺ひ居り候 而してそは却つて小生をして大兄の御不幸に泣かしめ候ひき

然れども小生は玆に芝居めきたる悼詞に僞りの淚を流すを得ず候 只小生の苦き經驗に比べて大兄の御愁嘆を察し奉るに止め置くべく候

小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき

大兄も今はかくてあらるゝならむと思へばよしなき松長等のうかれ人が名を追悼にかりて尊宅を驚かしまゐらせし事のなかなかに憎くらしく思はれ候

完りに一言申上候 そは申す迄もなく今後の御勵精に御坐候 悲しみは一種の砥石に御坐匹 硬き金はこれによりて光をこそ增せ、軟き金は忽ちに磨り耗り申し侯 小生は平塚兄の如きはこの硬き金の一人にはおはさずやとそゞろ男らしき(敢てこの語を用ひ候)人格の程をゆかしみ居るものに候

大兄も亦願くはその一人たられむ事を庶幾ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]居り候

さまざまの思雲の如く湧きて筆のみ徒に澁り候 亂筆不書

    八日夜 雨聲をきゝつゝ 龍之介

   喜 譽 司 兄 玉案下

 

[やぶちゃん注:府立三中時代からの親友山本の家内の不幸(実母か)に寄せた誠実なものである。「我交のあまりに淺かりし」とあるから、三中在学中(であれば執筆地は本所)か、下限は一高入学後(執筆地の可能性に新宿の実父新原敏三所有の家が加わる)であろう。内容が内容であるだけに、同性愛感情を持っていた山本宛書簡にしては異様にかたぐるしいが、それだけに印象的には早い時期で、前者の可能性の方が高いように私は感じる。この書簡を採り上げた理由は、その親友の不幸への誠実な語りかけに加えて、「小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき」「大兄も今はかくてあらるゝならむと思へば」という一節に惹かれるからである。後に実母の死を文壇には隠し続け、晩年の三十四の大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した「點鬼簿」の「一」で、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。」と、かくもクールに、その事実を告白した彼が、実は、やはり作家としてのポーズに過ぎなったことが、判然とするからである。

「松長」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引にも載らない(落としている)。

「平塚兄」複数回既出既注だが、再掲しておくと、三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。後、岡山の第六高等学校に進学したが、結核のために戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。]

 

 

年月日不明・執筆地不明・宛名不明(書きかけの絵葉書)

海近き靑海苔干場に野萄のむらさきの花をみつゝもの思ふ旅人を思へ あたゝかく光れる海はキヤベツ畠の上に瓏銀をのべ眞珠の如き空よりは雲雀の聲雨よりもしげくふり來らむとすされど旅人の心はたのしまず 海つきて路は山の峽に入り雨後の春泥滑なる處落椿紅くして藪中鶯の聲をきくこと頻なりされど旅人の心はたのしまず

起伏せる靑麥の畑をうがち菜の花の間を南に下れば其處に眠れる如き港町ありて靑き潮のにほひはものさびたる白壁になげきたはれたる唄はとほき三絃と共にかはたれの霜をさらへり海にのぞめる石垣に桃は白く花さき金も褪せたる寺院の軒にはつばくらのかたらひしげけれど家と云ふ家街と云ふ街には云ふ可らざる安息と怠惰と悲哀との影ありて旅人の心はこゝに一味の平安を見出し得たり

とほき世ゆ何をか人にかたるらむ琅玕洞の水の音はも

名越川ほのかに靑き蘆の芽にうす月さすとさみしきものか

 

[やぶちゃん注:短歌(底本では三字下げだが、引き上げた)があり、紀行文としてよく掛けているので採用した。絵葉書のある観光地で、山峡から海浜が近く、港町に「海苔ひび」があり、さらにキャベツ畑というのは、まず東京近辺では三浦半島一円が最もしっくりくるが、ロケーションは不詳である。鎌倉(「名越の切通し」が逗子間にある)・小坪・逗子(「田越川」(手越川とも呼んだ)がある)附近を考えたが、その辺りに、春、龍之介が行った事実は、私の知る限りではない。但し、旅好きの若き日の彼が日帰りで行って帰ってくるに、不自然ではない。私は大学時代、春の一日、廃道の旧原「名越の切通し」を藪漕ぎして踏破し、小坪の「ゲジ穴」も抜け、逗子に下って、中目黒に戻った経験がある。

「瓏銀」鮮やかな銀色。明るい銀色。

「琅玕洞」不詳。「琅玕」は宝石の翡翠のこと。私も入ったことがあるイタリア南部のカプリ島にある海食洞「青の洞窟」(Grotta Azzurra)を、アンデルセンの恋愛小説「即興詩人」では、この洞窟が重要な舞台となっているが、森鷗外の翻訳では「琅玕洞」と訳されているが、短歌との相性はよくない。

「名越川」不詳。但し、冒頭注参照。]

 

 

四月十四日・田端発信(推定)・北原白秋宛(封筒欠)

 冠省

 原稿用紙にて御免蒙り候。咋夜はいろいろ御馳走にあひなり、ありがたく存候。どうか奧樣によろしくおつたヘ下され度候。それから今日室生君參り候所、十五日の俳句の會はパイプの會のよし、パイプをハイクと聞きあやまりし女中、おかしくもかなしく存候 頓首

    四月十四日      芥川龍之介

   北原白秋樣

 

[やぶちゃん注:犀星と龍之介の出会いは大正七(一九一八)年一月十三日であるから、それ以降となる。本書簡は岩波旧全集所収の唯一の白秋宛書簡なので採用した。]

 

 

大正一一(一九二二)年から翌一二(一九二三)年(推定)・田端発信・小杉未醒宛

 

ただに見てすぎむ巖ぞ雲林の弟子とならむは轉生ののち

のみ執るはあなむづかしと麥うるしここだも使ふ指物師われは

ぎらひふるアメリカにわがあらば牛飼ひぬべしジエルシイの牛を

唐くにに生れましかば李義山の家のやつことならんとするらむ

 十六日           龍 之 介

放 庵 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:全文が三字下げであるが、引き上げた。短歌で採用した。推定年は芥川龍之介満三十~三十二歳。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「麥うるし」「麥漆」小麦粉と生漆(きうるし)を混ぜ合わせた接着剤。陶磁器・木地の割れた部分などを接着させるのに用いる。

「天ぎらひふる」「天霧らひ降る」か。上代語の動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」は「雲や霧などで空一面が曇る」の意。或いは「ふる」は「振る」で、「あまぎらひ」は枕詞的で「天」から「降る」を引き出して、「偉そうに振る舞う」の意かもしれない。「アメリカ」は「あめ」で「天」「雨」の縁語になるし、偉そうにな態度に相応しい。

「ジエルシイの牛」ジェルシーは乳牛のJersey(ジャージー種)の古い読み方。

「李義山」晩唐の官僚政治家で詩人として知られる李商隠(八一二年或いは翌年~八五八年)の字(あざな)。]

2021/09/20

芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通

 

[やぶちゃん注:書簡数が少ないが、今まで通り、新全集の宮坂覺氏の年譜を用いて、七月一日から自死・死亡確認・通夜・出棺・火葬までと、九月二十四日に行われた追悼会及び末尾に配された遺骨埋葬・墓石関連記事までも引いておく。

七月一日 『午後、道章の体調が優れず、下島勲が来診する。軽い脳卒中の症状があった』。

七月二日土曜日 『午後、下島勲が道章を来診するが、病状は良好』であった。

七月三日日曜日 『川口松太郎(「映画時代」記者)が来訪するか。映画論議を展開し、自作の映画化の話などをしているところに、室生犀星が来訪した』。『夜、小穴隆一、神崎清らと談笑しているところに、下島勲が来訪して加わる。午後』十一『時頃まで雑談を』する。

七月五日 『午前、下島勲が道章を来診する』。この日、『室生犀星が来訪』した『か。翌日、犀星は軽井沢に出発しており、これが最後の面会となった』。]

 

昭和二(一九二七)年七月八日・田端発信・金九經宛

 

前略、原稿用紙にて御免蒙り候。「書物禮讚」ありがたく存候。訣、譯、ともにあて字たる國に生まれたること我ながら笑止千萬に存じ候。所詮わけと假名にするに若かず。唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候。(「慢性出鱈目」の慢性も言海には慢性とあり、新聞雜誌などには蔓性とあれども、しやれて慢性といふさへしやれと聞え難き世の中に候。)高須氏の著書は拜見不仕、高評によりて大體を窺ひ申し候。右とりあへず御禮まで。頓首

    七月八日       曼   靑

   金 九 經 先 生

 

[やぶちゃん注:「金九經」一般的な本邦での読みとして「きむ きゅうけい」と読んでおく。現代韓国語では「キム クーギョン」か。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、『大谷學報』(第九十四巻第二号・二〇一五年三月十八日発行)PDF・但し、標題・目次他のみで当該論文はない)に載る孫 知慧(Son Ji-Hye)氏の論文『忘れられた近代の知識人「金九経」に関する調査」(ネットで『忘れられた近代の知識人「金九経」』で検索を掛けると、恐らく一番上にPDFでダウン・ロード出来るリンクが現われるはずである)によれば、「金九經」(一八九九年~?)は、『近代における新出敦煌文献の校訂、初期禅宗史の研究に貢猷した学者で』あったが、一九五〇年以降に『行方不明になった』(「北朝鮮に拉致されたか」という趣旨の記載が後に載る)とされる学者である。慶州生まれで、京城第一高等普通学校を卒業後、小学校教師を務めたが、一九二一(大正一〇)年に日本の京都の真宗大谷派の大谷大学に留学し、予科から文学部支那文学科に進学、鈴本大拙・倉石武四郎に師事した。一九二三(大正一二)年一月には「在京都苦学生会」を組織して会長となり、この昭和二年三月に同学科を卒業し、同年中には朝鮮(一九一〇年八月二十九日以降は現地は日本統治時代であった)に帰国している。則ち、卒業から三ヵ月ほど後に、恐らくは金の方から何らかのアプローチがあり、本書簡での龍之介の言葉遣いの印象からは、複数回(但し、金宛書簡はこれ以外にはなく、金の書簡も存在しないようだが)の書簡の遣り取りがあったのではないかと私は推定する。帰国後は高等普通学校教師や京城帝国図書館司書官を務めたりし(一九二七年~一九二八年)、一九二八年下半期に家族を連れて北京に赴き、翌年から一九三一年までは北京大学の朝鮮語及び日本語講師となった。その同時期に、かの周作人や兄の魯迅とも交遊している。一九三〇年には敦煌写本校刊本を発行し、師の鈴木大拙や、北京大学教授であった胡適(こせき)と交わり、初期禅宗史研究と敦煌発見の「校刊本楞伽(りょうが)師資記」の刊行(一九三一年)に協力した。 他にも『満洲滞在期に金九経は、満洲の遣跡調査と歴史研究に尽力し』、「重訂満洲祭神祭天典禮」『なども残している』とあり(引用符を使用していない部分は論文内の年表に拠って私が纏めたためである)、『とりわけ、近代禅宗史学において重要な地位を占める『(敦惶本)楞伽師資記』が、千余年の時間を経て世に知られるようになったのは、金九経という若い韓国人学者を媒介とした日中韓三国学者の協力による産物といえる。金九経自ら「私の願いは日中学者の相互交通であった』『」と述懐したように、近代東アジアの学術交渉に貢献した人物という観点からも考察してみる必要がある』べき重要な人物である、と孫氏は述べておられる。是非、同論文全体に目を通されんことを、強くお薦めする。なお、本書簡もそこに引用されているが、孫氏はその書簡内容については一切触れておられない。

「書物禮讚」芥川龍之介の読書書誌を纏めた学術書誌PDF)では、金九経の著作として載せているが、そうではない。調べたら、あった! 中身は見られないが、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌データで判った! これは雑誌名である! リンク先の詳細レコード表示を表示されたい。すると、その雑誌(杉田大学堂書店発行。一号から十一号とあり、発行は大一四(一九二五)年六月から昭和五(一九三〇)年七月までで、以降「廃刊」とある。国立国会図書館にあるのは同雑誌の合冊本らしい)記事細目の中に、金九經が投稿したものと思われる記事★「慢性出鱈目」★があった!!!

「訣、譯、ともにあて字たる」以下の龍之介の記載から、「訣」を「譯(訳)」の代用字として国字として「わけ」(「ゆえ」・「いわれ」等の軽い意味)と読む場合を指している。本来の漢字としての「訣」には「解釈する」という正統な意味はあっても、我々が今も使う「そういうわけ」といった「わけ」という軽い意味は全くないからである。

「唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候」金九經が龍之介のどの作品を指摘したのかは、確定は不可能だが、例えば、この直近の異色作で、金のような日本語に自在で、深い学識を持った人物が読んだものとなら、「玄鶴山房」かも知れない。リンク先の私のページで検索をかけて貰うと判るが、本文内で七ヶ所も使用されてある。但し、他にも龍之介は「訣(わけ)」をよく用いており、それ以前の「河童」でも十ヶ所ある(「訣別」は除く)。或いは「文藝的な、餘りに文藝的な」の可能性もある。この評論では、実に二十八ヶ所も使用されているからである。評論は或いは中国語も自在な朝鮮人である彼にとっては、小説よりも読み易かった可能性があるからである。

「慢性出鱈目」国立国会図書館デジタルコレクションの上記が見られないので内容は不明であるが、当時(そうして現代まで)の日本人が、世正規の国字でない漢字を、和語として、本来の漢字としては、あり得ない誤った使い方をしている「慢性」的な「出鱈目」の状況を述べたものであろうか。

「慢性も言海には慢性とあり」芥川龍之介! 嘘、こくな!! 俺の持ってる明治三七(一九〇四)年縮刷版(ちくま学芸文庫の覆[やぶちゃん注:ママ。]製本)にはな!(【 】は底本では長方形の囲み字)

 まん-せい(名)【漫性】醫ノ語、病症ノ永引クモノ。

ってあるぜ!!! 但し、芥川龍之介は蔓(つる)みたいに漫(みだ)りにうじゃうじゃ言ってるけど、ネットを調べるに、現在は中国語も朝鮮語(漢字表記の場合)も日本語の「慢性」を同じく「慢性」と表記していることが確認出来た。

「高須氏」不詳。

 以下、年譜より。

七月九日土曜日 『久保田万太郎を訪ね、『湖南の扇』を進呈し、一時間ほど話』した。

七月十日日曜日 『朝』、養母儔(とも)、『文、也寸志の三人が下島勲の楽天堂医院に行く』(まずは、道章の予後の確認であろう。但し、妻文が、直感で龍之介の精神的な異変に気づき、相談もしたものかも知れない)。『夕方、往診帰りの下島が来訪し、四人の来客と一緒に雑談をする。夜、小穴隆一、堀辰雄、下島らが来訪する。堀が帰った後、午前』二『時頃まで小穴、下島と花札を』した。

  「西方の人」を脱稿。

七月十三日 『夜、小穴隆一と六百間』(花札の競技の一種の名)『をしているところに下島勲が来訪して加わる。下島は午前』零『時頃、帰宅し、小穴は泊まっ』た。

七月十四日頃『室賀文武が来訪する。来客を帰して、深夜までキリスト教について話し合』った。

七月十五日 『午後』四『時頃、下島勲が来訪する。文に動坂まで『湖南の扇』を買いに行かせ、署名して進呈した』。『電報で永見徳太郎を自宅に呼び、「河童」の原稿を与え』ている永見は作家の原稿を蒐集する癖があったので、何んとも思わずに喜んで受け取ったのだろうが、明らかな「形見分け」である)。『夜、永見、小穴隆一、沖本常吉と四人で、亀戸に遊』んだ。

七月十六日土曜日 『夜、室賀文武が来訪するが、フキが理由を付けて断る。これを後で聞いた芥川は、会いたかったと漏らした。下島勲が来訪し、帰りがけの室賀に会っている』。

七月十七日日曜日 『午後』六『時頃、文を連れて観劇に出かけ、午後』十一『時頃、帰宅。途中、文に金時計を買い与え』ている(太字は私が施した)。結婚後は、苦労ばかりかけてきた文への、最後の思いやりであったのだろう。

七月十八日 『小穴隆一の下宿を訪ね、座布団の下に五〇円を置く』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』を参照されたい)。『帰途、道章の診察を終えて小穴宅に向かっていた下島勲と会い、書斎で午前』零『時頃まで談笑』した。

七月十九日 『早朝、多加志が発熱し、下島勲が来診する。この日、鵠沼を訪れる予定だったが、中止した』。『午後、小穴隆一が来訪』した。]

 

 

 

昭和二(一九二七)年七月二十日 コウヂマチクウチサイワイチヨウサイワイピルデイングナイ」カイソウシヤ宛(電報)

 

ユク」アクタガ ハ

 

[やぶちゃん注:電報でドキッとするが、同日の年譜に、この翌八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事を』したのがこれである。

 以下、この日の年譜。『フキと諍いを起こし、フキが泣き出したため宥めたが、気持ちはおさまらず』、龍之介は『床の間にあった花瓶を庭石に投げ付け』ている。『内田百間が来訪するが、半醒半睡の状態で、時には』、『来客の前にもかかわらず眠ったり』した。『午後』四『時頃、道章の診察を終えて二階の書斎に顔を出した下島勲を引き留め、内田を送り出した後、二人で六百間をする』。なお、一方で、『この頃、日に一回は卒倒していたのが』、『おさまっている』ともある。

七月二十一日 『睡眠薬を飲んで』、『昼寝をしていたところを』、『雑誌記者の来訪で起こされ、乾嘔して苦しむ』。『午後、内田百間と一緒に自宅を出て、宇野浩二の留守宅に見舞いの品を届ける』。『小穴隆一の下宿に立ち寄り、義足を撫でて帰った』(『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』参照)。『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を中し入れていた佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』(ダブりがあり、詳しくもないが、『小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」』の私の「佐多稻子」の注を参照されたい)。]

 

 

昭和二(一九二七)年七月・田端・自宅にて・葛卷義敏宛(「西方の人」原稿と共に)

 

この原稿の番號を打ち直し、改造社の使に渡して下さい。

               龍 之 介

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:太字「番號を打ち直し」は底本では傍点「◦」。

 年譜より(以下、凡て私が太字とした)。

七月二十二日 『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏約三五度)を示す猛暑』となった。『午後』三『時半頃、下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方、小穴隆一も来訪し、午前』零『時頃まで死について話をした』。『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成しないため、取止め』たとされる。

七月二十三日土曜日 『午前』九『時頃、起床』し、『口調もはっきりしており、朝食で半熟卵四つと』、『牛乳二合をとる。書斎に閉じこもって「続西方の人」を書き続けた。文と三人の息子と一緒に、談笑しながら昼食をとる。午後』一『時頃と午後』三『時頃、来客』、『それぞれ』、『一人。午後』五『時半頃、二人。この二人と夕食を共にした。午後』十『時半頃、来客は帰った。この日は、小穴隆一も下島勲も訪れていない』。『深夜、絶筆「続西方の人」を脱稿』した。

七月二四日日曜日 『午前』一『時頃、フキに、下島勲に宛てた短冊「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」を預ける』。『午前』二『時頃、書斎から階下に降り、文と三人の息子が眠る部屋で』、『床に入』った。『この時、すでに致死量のベロナール、ジャールなどを飲んでいたものと思われる』(私藪野は山崎光夫氏の「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)の説に賛同して、自殺に用いたのは劇毒の青酸カリであったと考えている)。『二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた』。『午前』六『時頃、文が異常に気付き、すぐに下島勲、小穴隆一に知らせたが、午前』七『時過ぎ、死亡が』医師下島勲によって『確認され』た。『小穴はデスマスクを描いた』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から同デスマスクを含む「二つの繪」の表紙カバーを以下に再掲しておく)。午後』九『時、親族の反対もあったが、久米正雄の説得により』、貸席「竹むら」で、「或旧友へ送る手記」が『久米から発表され、自殺が公表され』た。『この時、一八枚の原稿のうち二枚が紛失してい』たが、四日後の『二十七日に何者かの手で返送されて』きた、とあるが、これはちょっと端折り過ぎであって、公表された時は、ちゃんと全原稿があった。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の同作の項によれば、『読み上げた後、報道陣の強い要望で写真に撮るために遺書』(本作のこと)『原稿が全文』(二百字詰原稿用紙で九枚)が『貼り出されたが、回収してみると』、『二枚不足していた。公表を主張した手前、久米は大いに慌てたが、各社に回状を出すなどした結果、出棺直前の二十七日に、女文字の封書で紛失分が返送されてきて、かろうじて落着したという』とある。

 

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七月二十五日 『午後』四『時頃、夫人や親族によって納棺され、客間に移される。夜、家族や友人などによる通夜が執り行われた』。『前日は日曜日で夕刊が休みだったため、各紙は一斉に大きく芥川の死を報じた。読者への遺言とも言うべき「或旧友へ送る手記」』『に自殺の動機として書かれた「将来に対するぼんやりした不安」は、当時の時代を言い当てた字句として社会を震憾させ、人々に大きな衝撃を与えた』とある。「或舊友へ送る手記」はこれ

七月二十六日 『文壇関係者による通夜』となった。

七月二十七日 『午後』二『時頃、自宅から出棺。午後』三『時から』四『時少し前まで(三〇分の予定)、谷中斎楊で葬儀が執り行われ』、『導師は慈眼寺住職の篠原智光師』であった。『泉鏡花(先輩総代)、菊池寛(友人総代)、小島政二郎(後輩代表)、里見弾(文芸家協会代表)によって弔辞が読み上げられ』、『文壇関係者百数十名を含め、千五百名余りの弔問客が参集し』、午後』四『時』半『分頃、町井の火葬場の釜に納められ』た。同じく『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から、「当世文壇番附」の如き芥川龍之介葬儀場の配置図を再掲しておく。

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翌二十八日 『午前、日暮里の火葬場で火葬。午後、家族や親戚、さらに恒藤恭ら若干の友人たちによって骨揚げがなされ』ている。

七月三十日土曜日 『初七日』。

   *

九月二十四日土曜日 『午後』三『時』「竹むら」で『追悼会が行われ、久米正雄、菊池寛ら三十数名が列席する。その席で、改造社『現代日本文学全集』の宜伝用に撮影された、在りし日の芥川が映った活動写真が上映され』ている。YouTube のこれである。

   *

『遺骨は染井の慈眼寺境内に埋葬』され、『遺志により、墓石は、寸法も含め』、『愛用の座布団が形どられた』。『墓碑銘「芥川龍之介墓」は、小穴隆一の筆によるもの』であったが、十『月下旬の時点でも、宇体候補は決まっていな』かったとある。私は大学卒業の三月、墓参し、墓を洗った。

 なお、これで「芥川龍之介書簡抄」を終るつもりは――ない――また――必要となら――幾らでも晒す。芥川龍之介よ、勘弁して呉れよ…………]

芥川龍之介書簡抄146 / 昭和二(一九二七)年六月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年六月十日・田端発信・柳田國男宛

 

冠省、先夜は失禮仕り候。「まひまひつぶろ」のぬき刷り、ありがたく拜受致し候。尙又近頃泉先生より河童の話をいろいろ伺ひ候。

     舊句 金澤にて

   簀(す)むし子や雨にもねまる蝸牛

御一笑下され度候。頓首

    六月十日夜      龍 之 介

   柳 田 國 男 樣

 

[やぶちゃん注:以下、例によって前後を新全集の宮坂覺氏の年譜より引く。上記にある通り、この六月(自死前月)初旬、『泉鏡花に会って河童の話を聞』いている。六月二日、前月末に激しい精神異常を発症した宇野浩二を斎藤茂吉に『診察してもら』い、田端の自宅近くの天然『自笑軒で斎藤と夕食をとり』、その『帰途、午後』十『時頃、下島勲を訪ね、宇野の症状を話した』。六月四日土曜日、『「冬と手紙と」の「一 冬」を脱稿』、同七日、『「冬と手紙と」の「二 手紙」を脱稿』した(「冬と手紙」とは昭和二(一九二七)年七月一日発行の『中央公論』に二パートを合わせて掲載されている。リンク先は私のサイトの電子化)。而して、六月九日の『夜、柳田国男と会って「まひまひつぶろ」の抜き刷りをもら』っており、本書簡はそれへの礼である。また、この日に「三つの窓」を脱稿している。「三つの窓」は昭和二(一九二七)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載されたが、雑誌掲載の作品としては、芥川の意識の中では、「西方の人」「或阿呆の一生」へと直連関してゆく、最晩年の重要な作品の一つである(リンク先は総て私のサイト版電子化。前者は正・続を合わせた完全版で、後者は未定稿(草稿)附き)。また、この龍之介は『編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とあり(これは「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)」に拠る記載である)、厭人癖が見られる。他に、この『上旬』、『斎藤茂吉の紹介で、嫌がる宇野浩二を王子の精神科医院小峰病院に入院させ』てもいる。

「まひまひつぶろ」この三年後に刀江(とうこう)書院から昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を刊行することになる「蝸牛考」の一部(どの部分かは不詳)の抜刷。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同初版を分割でオリジナル注附きで電子化を終わっている。

「簀むし子」(すむしこ)「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照されたいが、前書から、金沢などの旧加賀藩内などの北日本に独特の建築構造物(ここは屋外との仕切りとして装着されたものだが、屋内の部屋と廊下の間に透き障子の代わりとしても使用されることがあるようである)であり、そちらの注で、私は『「簀むし子」については、中田雅敏編著 蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文に拠れば、竹の簀を、道路に面して格子代わりに横に細い桟で打ちつけ、積雪や日差しの直射を避ける日除けとある。一九八六年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」では、『中からは外が見え、外からは中が見えないこの地方独特の仕掛けで、いわゆる格子とは似ているが』、『ちがうものらしい』ともある』とした。茨城県の「益子材木店」公式サイトの富山県『岩瀬大町・新川町通りの「簾虫籠(すむしこ)」』の写真(現地の解説版含む)と解説がある。私はこの写真の通りを、三年前に友人らと歩いた。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月十四日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

原稿用紙で失禮。日本では滅多に吸へぬ煙草をありがたう。不相變たつしやかね。この間大東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した。それから北海道へ行つた。

   雪どけの中にしだるゝ柳かな

これは旭川の吟だ。

    六月十四日      龍 之 介

   齋 藤 貞 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、ごく親しかった友人であった。既出既注

「東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した」「本所兩國」(リンク先は私の注附サイト版)の「綠町、龜澤町」に出てくる「Sと云ふ友だち」と思われる。

 年譜には、六月十二日日曜日、『午後、下島勲と宇野浩二の病状などを話していると、林房雄。神崎清が来訪』し、『プロレタリア文学について議論を交わした』とあり、この書簡の翌六月十五日には、『佐佐木茂索を鎌倉に訪ね』、『偶然』、『遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼に一泊』(東屋旅館か)し、翌十六日に『鵠沼から田端の自宅に戻』ったとある。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十一日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省度たび頂戴ものを致しありがたく存候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十一日     龍 之 介

   小手川金次郞樣

     旭川

   雪どけの中にしだるゝ柳哉

御一笑下され度候

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は作家野上弥生子の弟。既出既注

 年譜より。この前日、遺作となる問題作「或阿呆の一生」を脱稿している。冒頭にある久米正雄宛の当該原稿を託す内容のそれ(傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

 僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き惡夫、惡子、惡親を持つたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。

 ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と云ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

    昭和二年六月二十日  芥川龍之介

   久米正雄君

   *

のクレジットは御覧の通り、その六月二十日である。則ち――芥川龍之介は《作家としての創作としての完成品としての遺書》である「或阿呆の一生」――を三十四日前に――書き終えていた――のである。なお、小穴隆一は「或阿呆の一生」の原稿が最初に託されていた相手は、自分、小穴自身だった、と証言している(『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照)。小穴はエキセントリックなところが多分にあり、その証言は安易に無批判に信用することは危険なのだが(私はブログのこちらで「二つの繪」と「鯨のお詣り」の二作品全文をオリジナル電子化注している)、これは「さもありなん」とは思う。ただ、龍之介が作家としての小説形式の遺書を――芥川龍之介自身が百%公開を確信犯で予知しているそれを――託すに相応しいのは、久米だと――計算して変更した――と私は考えている。そうして、それは正しかったとも考えている。

 なお、この日には、生前最後となる創作集「湖南の扇」が文藝春秋出版部から刊行されてもいる。

 また、翌六月二十一日には、前月分の最後で問題にした「東北・北海道・新潟」(自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載)を脱稿している。]

 

昭和二(一九二七)年六月二十四日・田端発信・大岡龍男宛

 

冠省高著お贈り下されありがたく存候 唯今序文だけ拜見致し候高濱さんの序文は小生などにも藥に相成り候 いづれゆつくり拜見仕る可く候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十四日     芥川龍之介

   大 岡 龍 男 樣

 

[やぶちゃん注:「大岡龍男」(明治二五(一八九二)年~昭和四七(一九七二)年は俳人で小説家。東京市下谷区出身。慶応義塾大学中退。十二歳で童話作家として知られる巌谷小波に師事して俳句を学んだ。後、三省堂・NHK(後に文芸部プロデューサーとして黒柳徹子を見出した人物らしい)に勤務する傍ら、大正初期に高浜虚子の門下となり、後に『ホトトギス』同人となった。この年に小説集「不孝者」(大阪・天青堂刊・序(高濱虛子・德冨蘇峰))を刊行しているから、「高著」はそれである。ネットを見る限り、俳句は殆んど見当たらず、しかもしょぼい(まあ、虚子の門じゃね)が、写生文や小説は、結構、評価している記事が見られる(私は未見)。

 年譜より。この翌日、六月二十五日土曜日、『小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の』待合『「春日」に行き、馴染みの芸者小亀と会う。この日は、小穴が』芥川家に『泊まってい』ったとある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』に基づく。無論、この「小かめ」とのそれは、鷺氏が年譜で仰るように、秘めて別れを告げるためであったに相違ない。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・遠田信太郞宛(封筒に「遠田一路風樣」とあり)

 

冠省さくらんぼありがたく存候まい度御配慮にあづかり忝く右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   遠 田 信 太 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」「遠田一路風」岩波新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、ネット検索で判明した。山形県遊佐町(ゆざまち)の『広報ゆざ』第六百二十八号(平成二五(二〇一三)年六月一日発行)PDF)の「輝ける遊佐(まち)つくりびと㊳」として「遠田信太郎」として最終ページ(裏表紙)に記事が書かれ、それによれば、薬剤師で俳人の遠田信太郎(のぶたろう 明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)である。山形県酒田生まれで、大正二(一九一三)年に『鶴岡の荘内中学を卒業後、金沢医学専門学校に進学して薬学を学び、父の後をついで酒田で薬局を始めます。昭和』二十『年代には遊佐町に薬局が』一『店もなかったことから遊佐町十日町に居を移し、現在の「ユザ薬局」を開業。それまで遊佐町には薬店しかなかったため、調剤は酒田まで求めに行かなければならない状況を改善し、地域医療の発展に貢献しました』。『一方で』、『若い頃から俳句をたしなみ伊藤万寿に入門』し、『俳号を一路風』『とし、庄内で著名だった俳人の竹内唯一郎、伊藤酉水子(ゆうすいし)とともに三羽烏と称されるなど』、『文化人としても名高かった信太郎は』、『俳句仲間とともに町内への俳句の浸透に努めました。また、芥川龍之介と文通する』(☜)『など著名人との幅広い交友関係を持ちました。釣にも没頭し、店を家族にまかせて』、『吹浦や象潟まで出かけることも多く、家には庄内竿が何本もあったといいます』。『明治気質で』、『家庭でも冗談を言うことはほとんどなかったといいますが、孫を叱ることは一度もないなど』、『「やさしいおじいちゃん」であった』とあり、『感性豊かな文化人が築いた健康の一拠点は、今も多くの人の生活を支えています』とあるから、間違いない。岩波新全集の次回の新版では明記されることを望むものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・東宮エルザ宛

 

敬啓 東宮樣御長逝のよし承り候謹みて御悼み申上候 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   東 宮 エ ル ザ 樣

 

[やぶちゃん注:「東宮エルザ」既出既注のエスペランティスト東宮豐達の長女。]

2021/09/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 附錄蛇祟

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 附錄蛇祟

[やぶちゃん注:「附錄」でお判りの通り、海棠庵の発表。段落を成形した。]

   ○附錄 蛇祟

 文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]四月廿七、八日の頃、柳川侯淺草鳥越[やぶちゃん注:現在の東京都台東区鳥越(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の中屋敷に住める火消中間千次郞、程五郞といふもの、田所、庭中、田字亭[やぶちゃん注:どこで切れるのか判らないので、適当に二箇所に読点を打っただけ。]といへる茶屋のほとりにて、蛇の交接せるを見つけて、さんざんに打擲し、終に殺して、門前の溝へ捨てけり【「此時まで、蛇は死しても、猶、繩の如くに、よれて、はなれず。」と云ふ。】。

 かくて、右、千次郞、五月八日、上野御成の節、上屋敷へ詰め、その歸より、病氣づきて、甚、苦みければ、彼程五郞は、

「蛇のたゝりにや。」

と察し、戶田川の邊に、「羽黑山」といへる、あるよし【羽州羽黑の出張などにや。】、右に、いたり、

「堂邊の榎の虛(ウロ)中の水を乞はん。」

とて、既に汲まんとしたるとき、釣甁、きれて、落ちければ、

「いかゞせん。」

と、あわてしをり、寺僧、立出で、

「汝が祈る病人、快氣すべからず。」

と、示しぬれど、

「兎にも、角にも、水をば、乞ひ奉らん。」

とて、やうやくに得てかへり、千次郞に與へけれども、遂に五月十五日に、みまかりぬ【此千次郞は、川越在の產にてありし。その死せる時、兩手の指にて、豆を拵へて、果てしとぞ。】。

 淺草安樂院といへるに葬りし、とぞ。

 扨、程五郞は、その月廿日頃より、

「肩より、腹へかけて、痛む。」

と覺えしが始めにて、日を追うて、熱氣、つよく、蛇の事のみ、口ばしりて、狂ひ𢌞りしが、遂に走り出でゝ、久保田侯の中間部屋に至り、それより、淺草阿部川町龍德院【程五郞が菩提所也。】といへるにゆきて、和尙に願ひけるは、

「おのれ、頭に蛇とりつき、惱苦に得堪へず。あはれ、御弟子となされ、髮を剃り給はれかし。」

と、いひけるを、和尙は

「發狂にやあらむ。」

とて、程五郞が父淺草六軒町「の」組の頭取角十郞といへるもの、これも檀家の事なれば、則呼びよせて、問ひしを告げければ、やがて、角十郞方へ引きとり【程五郞は是まで不行蹟により、家出してありしとぞ。】、さまざま、療用しつゝ、本所邊なる修驗者【名を詳にせず。】をたのみしに、右の修驗、いまだ何とも告げざりしに、修驗は、彼の蛇のたゝりの事、「羽黑山」に走りし事まで、とき示し、

「羽黑は、神體、白蛇におはするに、却りて、あしき事を、せし。」

と、いひけるとぞ。

 かくて、程五郞が病苦、日々に、おもりて、六月朔日に、むなしくなりしかば、すなはち、龍德院に葬りけり。

 初、かの兩人が蛇を殺しけるとき、榮吉といふもの手傳しに、兩人が死せしよしを聞くと、やがて、病氣づきて、これも危かりしを、漸、平癒して、定火消の人足部屋に、をる、といふ。

 此物がたりは、柳川侯の中間部屋頭のものより、親しく聞きし人より、傳へて記したるなり。

 凡、物、みな、暗疑より、病を生ずること、昔の樂廣が、客の盃中の弓影を、「蛇なり」とあやまり見て、病みし如きためし、少からねど、抑、この柳川藩のものども三人まで、鬼邪にをかされしも亦、一奇談なり。

  乙酉秋七月初八      海棠庵 再記

[やぶちゃん注:『戶田川の邊に、「羽黑山」といへる、あるよし』この地名と「羽黑」と木の洞の中の霊水から、これは「江戸名所図会」巻之四に出る「戶田(とた) 羽黑靈泉(はくろれいせん)」と確定してよいだろう。但し、そこでは「榎」ではなく、「椋」とある。メタボン氏のブログの「江戸名所図会 戸田川渡口」を見られたい。場所はブログ主の指示した場所を示した。「戶田川」は荒川の部分名称で、現在の埼玉県戸田市戸田公園附近にあったようである。

『昔の樂廣が、客の盃中の弓影を、「蛇なり」とあやまり見て、病みし』集英社の「イミダス」によれば、「晋書」にある「杯中の蛇影」とする。「疑心暗鬼を生ず」の類語で、『疑いを抱いて物事を憶測すると、なんでもないことにまで脅えることがあることをいう。むかし』、『中国の河南で役人をしていた楽広という人が、無二の親友の足がばったりと途絶えたので、理由をただしてみたところ、かつてごちそうになったおり、杯の酒に蛇』『の影が映り、それがもとで寝ついてしまったという。これを聞いた楽広は、もう一度、その客を招待してごちそうし、同じように酒を注いで蛇影が映るか問うたところ、見えるという。調べると壁に掛けておいた弓が映っていたのだ。以来、その親友の病気は、けろりと治ったという故事による』とあった。「Web漢文大系」のこちらで、同じ話を引く「蒙求」の「広客蛇影」が原文・訓読で読める。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 土中出現黃金佛

 

[やぶちゃん注:海棠庵発表。図は底本からトリミングした。段落を成形した。キャプションは、円龕の最上部に、左を上にして、

「口ノ径(わた)リ五寸余」

下方に右から、

「蓋ヨリ下髙一尺」

 「天女ノ如キモノヲ

    彫(ほり)モノトス」

  「蓋共ニ總(すべて)金ナリ」

か。「總」は自信はない。]

 

Engan

 

   ○土中出現黃金佛

 今茲、文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の春、熊野本宮社、

「川除[やぶちゃん注:「かはよけ」。堤防などの水害防止施設。]の堤を築かん。」

とて、社境内の川上なる大黑島といふ岩山より、大石を引き出だす。

 爰に、あやしき事あり。

 石を出だす雇夫等、砂を穿ち、磐石を割るのいとま、

「暫く、勞を休めん。」

と。側によりて、憩ひ居れば、巖上の土石、おのづから崩れ落ちて、止まず。

 工人、各、その業をなす間は、土石、崩るゝこと、なし。

 憇へば、又、崩る。

 かゝること、數日にして、その春彌生の廿日より、あまたの烏、この處へ飛び來りて、人を、おそれず、譬ば、腐肉に蠅の集ふが如し。

 かくて、この日より次の日まで、銀器の缺けたりと見ゆるものを、數片、掘り出だしけり。

 されば、又、廿二日に至りては、烏の聚まること、いよいよ多く、空中に飛び翔りて、翅をたゝき、背を鳴らし、殆、人の頭上を喙まん[やぶちゃん注:「ついばまん」。]とするの勢なれば、心よはき雇夫等は、迯げ走りて、これを避け、壯々なるもの共は、怪み疑ひながら、そがまゝに、土石を穿つに、その日も既に亭午[やぶちゃん注:正午。]になりしころ、土中より一つの、瓷[やぶちゃん注:「かめ」。甕。]、顯れ出でけり。

 そのさま、今の世に見なれざる器なれば、人みな、うちよりて、これを見るに、その瓷に彫れる文字あり、左の如し。

    熊野山如法經銘文

    大般若一部六百卷

      白瓷箱十二合

      箱 別 五 十 卷

    保安二年歲次辛丑十月日

      願主沙門良勝

      檀越散位秦親任

 この瓷中に、黃金にて造れる圓龕一箇あり。その圖、如下。

[やぶちゃん注:ここは底本も改行。]

 此金龕の蓋をひらき見るに、内に、闇浮檀金の阿彌陀佛の尊像一軀を藏む。御長け七寸。愛愍接取の慈眼、あざやかに、瑞嚴殊勝の妖相、尊くをがまれ、諸人奇異の思をなせり。先に得たる所の白銀[やぶちゃん注:「しろがね」と訓じておく。]の器とおぼしきものは、破れ損じて、形、全からぬも、取り集めて、重さを量るに、八百目[やぶちゃん注:三キログラム。]に餘れり。

 今度、紀藩より、修理の宰[やぶちゃん注:長官。]として、爰に來りし吏石井傳左衞門といふ人、

「是を得て、藩主に奉り、命を請はん。」

と祕襲[やぶちゃん注:「内密に納めて。]して、その月の廿四日に、本宮を發して、府にかへれり。

 右一說は、藩にちなみある一友人に得たり。

  文政乙酉孟秋朔    海棠菴思亮 記

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 解、按ずるに、保安二年[やぶちゃん注:一一二一年。]は鳥羽院の御宇にて、藤原忠通公關白の時の事なり。文政八年乙酉まで七百零七年[やぶちゃん注:「七零五年」の誤り。]をへたり。當時、秦氏の人に、高位のもの、聞えず。散位の事は、さまざまの說あれども、位の高卑に拘らず、「冠位有りて官職なきを散位といふ」と予は思ひをり。猶、職事家[やぶちゃん注:「しきじか」。律令制に於ける特定の官人集団に詳しい方。]にたづぬべし。秦氏は「忌寸」[やぶちゃん注:「いみき」。]の姓[やぶちゃん注:「かばね」。]にて、秦始皇の後なるよし。「姓氏錄」諸蕃の譜に見えたり。「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか。さばれ、慥なる證を得ざれば、何とも、いひがたし。當時、熊野別當は、いきほひあるものゝよし、聞ゆ。熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり。良勝は、いづくの沙門ぞや。これも熊野の別當か。なほ考ふべし【著作堂主人追記。】。

[やぶちゃん注:ここに描かれた円筒形経筒は、「本宮経塚出土陶製外筒」として現存する(東京国立博物館蔵)。「和歌山県立博物館」公式サイト内の「常設展ガイド」の「熊野の経塚」で画像も見られる(図よりも高さがなく、ずんぐりしたものである)。その解説に、『経塚とは、平安時代後期以降、末法思想の広がりを背景に、仏教の衰滅を恐れた貴族や僧侶が、法華経などの経巻を経筒に入れ』、『仏具類とともに地中に埋蔵したもの。経塚の築造には霊地などの特別な土地が選ばれ、熊野にも多くの経塚がつくられた。それは熊野詣の目的のひとつでもあった。今日、その豊富な内容は、我が国の経塚研究のうえで重要な意味をもっている』とし、『本宮経塚出土陶製外筒』として、『文政八(一八二五)年、熊野本宮の付近から経塚が発見された。(『熊野年代記』)。この時出土した経筒の外容器は渥美窯製とされ、現存する経筒類としては最大のものである。側面には銘文七行五一文字』(本記載と完全に一致する)『が刻まれており、保安二(一一二一)年に願主良勝と壇越秦親任とが、大般若経六〇〇巻を五〇巻ずつに分けて、この地に埋納したことがわかる。かつて本宮社地周辺にも新宮や那智と同様に多数の経塚が造営されたであろうことを想像させる』とある。

「大黑島」「み熊野ねっと」の『熊野本宮大社旧社地「大斎原」の石積護岸』によれば、『熊野本宮大社がもともとあった』『大斎原(おおゆのはら)』にある、古い『石積みの割石は、対岸に大黒島という石切り場があるので、そこから船で運ばれて来たものと考えられ』るとある。されば、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の東側の熊野川左岸に、この大黒島(読み不詳。「おほぐろじま」と仮に読んでおく)はあったものと考えられる。

「沙門良勝」不詳。

「散位」(さんみ/さんい)は律令制下で位階を持ちながら、官職に就いていない者の呼称。「散官」とも称する。もとは散位寮、後に式部省所轄とされ、臨時の諸使・諸役のために出勤したりした。但し、三位以上でありながら、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の孰れにも就任していない者を指す場合もあるので注意が必要である。

「秦親任」生没年未詳乍ら、文化庁の「国指定文化財等データベース」のこちらに、彼の関わった重要文化財「松尾社一切経(まつのおしゃいっさいきょう)」(京都府妙蓮寺蔵)としてあることが判った。その解説に、『『松尾社一切経』は、永久三年(一一一五)ころ、松尾神社の神主をつとめた秦親任をはじめとする秦氏の一族が発願し、二三年の歳月を経て、保延四年(一一三八)ころ、その子秦頼親のときに完成した一切経である』。『体裁は一部折本装に改められたものを除き、すべて巻子装で、茶表紙、朱頂軸など原装を存する。本文料紙は黄蘗染あるいは丁字染の楮紙を打紙し、淡墨界を施して用い、本文はおよそ一行一七字で書写される。本経の書写については、筆跡が多様であり、本経が秦氏一族を中心に京都周辺の僧俗を含めた数多の人びとによって書写が行われたことを示している』。『各巻末の書写・校合・読誦等に関する奥書は内容が豊富で、とくに『大方広仏華厳経』など計四七巻の奥書には、秦親任を長とする秦氏一族の名が詳しく記されており、当時の秦氏の族的結合を検討する際の好史料である。また校合は、保延五年(一一三九)から康治二年(一一四三)にかけて延暦寺や三井寺などの僧が奈良朝写経の梵釈寺本等を用いて厳密に行っており、本紙の継目表裏や紙背に平安時代末期の「松尾社/一切経」朱印や花押、あるいは「松尾社」などの墨書がみえることは、本書の書写校合の経過を考えるうえにも注目される』。『これらの経巻は「松尾宮読経所」において読誦等に用いられていたと考えられるが、伝来の過程で欠失した部分は他経をもって補われている。たとえば『大般若経』は、数種類の写経からなるが、うち一九巻には、紺紙の表紙と見返に金銀泥や金箔・彩色などで描かれた経意絵があり、十一世紀にさかのぼる作例としても貴重である。さらに松尾社の西方に接し、秦氏一族の勢力下にあったとみられる妙法寺において僧良慶が願主となり、平治元年(一一五九)から永万元年(一一六五)ころにかけて書写した経巻が少なくとも五二巻を数えるほか、「地蔵院一切経」「南都善光院一切経」の印文のある経巻なども含まれており、平安時代から室町時代にかけて一切経の読誦にともなう経巻の補充が盛んに行われていたことが知られる』。『この松尾社一切経は、嘉永七年(一八五四)三月、松尾社の「読経所」の閉鎖後、その所在が不明となっていたが、平成五年八月、立正大学中尾尭氏の調査により、妙蓮寺の宝蔵でまとまって発見され、本経が安政四年(一八五七)ころ、妙蓮寺の有力信徒によって寄進されたことなども明らかになった』。『このように本経は当初のままの姿を伝えた十二世紀の一切経遺品として、当時の京都周辺で行われた一切経書写事業の実態を併せ伝えて価値が高い』。『なお、附とした経箱は、ヒノキ材を用い、内側に黒漆を塗った被蓋箱三八合で、嘉暦二年(一三二七)の虫払の貼紙墨書や、文安四年(一四四七)の修理銘等から、鎌倉時代後期に製作され、本経巻を納めた経箱と認められるもので、本経の伝来を知るうえでも重要であり、併せてその保存を図ることとしたい』とある。

「圓龕」「龕」は、通常は仏像を納める厨子・仏壇のことを言う。経典は仏像と等価だから、問題ない。

「闇浮檀金」「えんぶだごん」と読み、「閻浮提金」とも書く。サンスクリット語の漢音写。閻浮提(えんぶだい:人間世界・現世のこと。世界の中心である須弥山の四方にある大陸の内、南方にあって、閻浮洲(えんぶしゅう)・南閻浮提・南贍部洲(なんせんぶしゅう)とも呼ぶ。金塊が埋まっている閻浮樹が生えているとされ、もとはインドを指した。ここは、その閻浮樹の林の下、或いは、そこを流れる川の底に産する砂金を指し、また、広く赤黄色を呈した良質の金をも言う語である。

「愛愍接取」(あいみんせつしゆ)。「愛愍」は「目上の者が目下の者を愛おしく不憫に思うこと」の意だが、ここは広大無辺の大慈大悲で洩れなく衆生に接してそれを掬い取る弥陀のそれを言う。

「瑞嚴殊勝」厳かな瑞兆に包まれて特に優れているさま。

「妖相」この場合は、限りなくあでやかな尊貌を言う。

「石井傳左衞門」不詳。

「藩主」当時は紀州藩第十一代藩主徳川斉順(なりゆき)。元清水徳川家第三代当主。江戸幕府第十四代将軍徳川家茂の実父。

『秦氏は「忌寸」の姓』「忌寸(いみき)」は天武天皇一三(六八四)年に制定された「八色の姓」(やくさのかばね:他に「真人(まひと)」・「朝臣(あそみ・あそん)・「宿禰(すくね)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」」で新たに作られた姓(かばね)で、上から四番目。国造系氏族である「大倭氏」・「凡川内氏(おおしこうちうじ)」や、渡来人系の氏族である「東漢氏(やまとのあやうじ)」・「秦氏」など、「元直(あたえの)姓」などの十一の「連」姓氏族が選ばれて、賜姓されている。その後、主として秦氏・漢氏の系譜を引く氏族に授与され、渡来系氏族に多い姓となっていった、と当該ウィキにある。

「秦始皇の後なるよし」ウィキの「秦氏」によれば、「日本書紀」で、応神天皇一四(二八三)年、百済より、『百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君』『を秦氏の祖とする』とするという。馬琴が言うように、平安初期の弘仁六(八一五)年に編纂された「新撰姓氏録」によれば、『「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが』、『その真実性には疑問が呈せられており』、『その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている』。『「弓月」の朝鮮語の音訓が「百済」の和訓である「くだら」と同音であることにより』、『百済の系統とする説などがある』とある。

『「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか』ウィキの「長宗我部氏」によれば、『長宗我部氏は、室町以降、通字に「親」を用いた』。『中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し』、『土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦』したが、『元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し』、『改易され』、『盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は断絶したとされる』。『他家に仕えるか帰農した傍系の子孫が、現在に残っている』とある。

「熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり」湛增(たんぞう ?~正治二(一二〇〇)年?)は平安末期から鎌倉初期の僧。熊野第二十一代別当。第十八代別当湛快の子で紀伊国田辺を本拠地とし、熊野水軍を統率していたと思われる。権別当を経て元暦元(一一八四)年十月に別当となった。父は「平治の乱」(一一五九年)で平清盛を助け、姉妹は平忠度に嫁し、平氏方に味方していた。「平家物語」では治承四(一一八〇)年の以仁王謀反を平氏方に通報したとし、また、田辺の今熊野神社に祈請し、「鶏合(とりあわせ)」まで行って占い、漸く源氏に味方することを決心、水軍を率いて、文治元(一一八五)年二月、屋島の源義経に合流し、平家の士気を喪失させたとするが、実際には、治承四年には弟と戦って謀反を起こし、既にして平家を脅かし始めていたようである。文治元年三月の「壇の浦の戦い」にも参加し、延慶本「平家物語」では、源頼朝の外戚の姨母聟と記されている。建久六(一一九五)年五月には上洛した頼朝と対面をしている。建久九年、別当を辞した。「爲義の婿になりし」というのは、源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」が湛増の妻の母に当たることを混同した誤認である。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 由利郡神靈

 

[やぶちゃん注:海棠庵発表。段落を成形した。]

 

   ○由利郡神靈

 羽州秋田【佐竹侯封内。】に、大平山といふあり。鎭坐の神を「三吉大明神」・「三助大明神」と號す。又、土俗、「三助お村」、あるは、「福の神」など唱へ、月の八日・廿一日を緣日とす。

 しかるに、同州由利郡知島領【生駒家封邑。】下村づゝ大琴村の農民惣十郞といふものあり。

 その性質、朴なるが、年ごろ、かの秋田なる三吉明神を信仰しけるに、いぬる文政七年四月七日の夜、あやしき夢を見たり。

 たとへば、一つの山上に、神人、ゐまし、その側に、人、ありて、神人に向ひて、

「日比、信仰なし奉るものは、是にて候。」

と、まうす。

 その時、神人のいはく、

「われ、汝に、さいはひを與ん。いよいよ、怠ること、なかれ。」

と告げ給ふ、と見て、驚き、さめぬ。

 惣十郞、奇異の思をなし、朝、とく、起きて、その妻に、かくものがたり、

「みやしろを建てゝ、祭りなん。」

といへば、妻、答へて、

「さることは、世間の聞えもいかゞあらん。心にて、仰尊み給へ。」

といふ。

 その夜、又、妻が見し夢、夫に、つゆ、違はざりければ、始めてその靈夢なるを語り、相共に謀りて、神祠を營まんとするに、

「夢中に見し處、惣十郞が本家なる大琴村【本庄龜田矢島の界。】の農民某が家の、後の山に彷彿たり。」

とて、先づ、試に、餠をつきて、供しけるに、しるしありて、牙のあとめきたるもの、付きてあり。されば、

「此處こそ、神慮に叶ひつれ。」

とて、いちはやく、みやしろを作りはじめしに、不思議なるは、その日より、はや、詣來る人、あり。

 全く、秋田なる大平山より、神の移り給ふなるベし。

 かくて、靈驗、日々にいちじるく、響の、物に應ずる如し。

 矢島にて、女を携へ走りしものを、立願せしに、おのれと、かへり來つ。

 或は、腰の立たざるもの、人に扶けられて詣でけるに、歸りには、獨步行く[やぶちゃん注:「ひとりありきゆく」或いは「ひとりありく」と訓じておく。]やうになり、又、某といふもの、

「立願の事ありて、成就せば、餠を備へまゐらせん。」

と、いひながら、その事、成就したれども、得備へざりければ、忽、それが苗代を、一夜に流されて、跡なく、なりし。

 その祟も亦、速なれば、一人として、おそれ尊まぬものも、なし。

 近邊は、さらなり、諸國より、日每に、三、四百人づゝ參詣羣集して、さしもの邊鄙、市をなし、彼惣十郞は、別當して、自[やぶちゃん注:「おのづと」。]、富を得ること、大かたならずなん。

 右一條の話は、當六月中旬、生駒家【矢島領主。】[やぶちゃん注:二行割注。]の臣に、助川龍造に、見も、聞きも、しつるなり。

「浮きたることにはあらず。」

とて、同人のかたりしまゝを、しるすにこそ。

[やぶちゃん注:「大平山」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高千百七十メートル。古くから山岳信仰の対象で、嘗ては女人禁制であったことが知られている。現在、太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)の里宮が麓に、山頂に奥宮がある。祭神は大己貴大神・少彦名大神・三吉霊神(みよしのおおかみ)を祀る。三吉霊神は、太平の城主藤原三吉(鶴寿丸)が神格化されたと社伝にはあるが、基本的には古くからの山岳信仰による神であり、力・勝負・破邪顕正を司る神という。社伝によれば白鳳二(六七三)年に役小角が創建したとされ、その後、延暦二〇(八〇一)年には、征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を建立し、鏑矢を奉納したという。中世を通じて、薬師如来を本地仏とする修験道の霊場として崇敬され、近世には秋田藩主佐竹氏からも社領を寄進され、現在の里宮は第八代曙山佐竹義敦の建立である。現在も東北地方を中心として、全国に三吉神社が祀られ、「太平山講」・「三吉講」も広く分布している(以上はウィキの同神社の記載に拠った)。

「由利郡知島領【生駒家封邑。】下村づゝ大琴村」現在の秋田県由利本荘市東由利宿大琴か。「下村づゝ」は不詳。大平山は、しかし、ここから、ほぼ北へ五十四キロメートルも離れる(別段、それは奇異ではないけれども)。後で「惣十郞が本家なる大琴村【本庄龜田矢島の界。】」とは異なるということになるのだが(松本清張の「砂の器」犯人が偽装手段として使う秋田県由利本荘市岩城亀田亀田町はここであるが、前の大琴とはえらく離れており、「矢島」という地名も周囲には見あたらない)、凡そ繋がりが想像出来ない。「知島領【生駒家封邑。】」「生駒家【矢島領主。】」というのは、ウィキの「矢島藩」によれば、江戸初期に讃岐国高松藩(十七万千八百石)の藩主生駒高俊が家中不取締を理由に領地を没収され、堪忍料として矢島一万石(現在の秋田県由利本荘市矢島町。ここは先の由利宿大琴からは南西に十一キロメートルほどで近い)を与えられたが、さらに高俊の嫡男高清が弟の俊明に二千石を分知したため、以降の生駒氏は八千石の交代寄合(最初は江戸詰交代寄合表御礼衆)となり、以降幕末まで江戸定府であったとあるから、この「知島領」というのは、まずは「知」と「矢」で、「矢島領」の誤記の可能性が高いとは思うのだが、これらの地名の関係性が私にはどうもよく判らない。

「文政七年」一八二四年。

「矢島にて、女を携へ走りしものを、立願せしに、おのれと、かへり來つ」「矢島の者で、ある女と駆落ちした者があったが、その男の帰村を祈願したところが、その男、自分から村へ帰って来た。」という意か。]

芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・恒藤恭宛

 

手紙をありがたう。頭の中はまだ片づかない。從つて未だに病氣だ。唯書かざる可らざる必要があつて書いてゐるのだから、憫み給へ。來月も亦谷崎君に答へることにした。僕等の議論は君などには非論理的だらうが、僕の現在の頭の中を整理する爲には必要なのだ。そのうちに京都へ行くかも知れない。右御返事のみ。奧さんによろしく。誰か君が大醉して下立賣を步いてゐるのを見たとか言つた。大いにわが意を得た。時々は大いに飮み給へ。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   恒 藤 恭 樣

二伸 さう云ふ暇もなからうが、若しあつたら、僕の說を批評した手紙をくれ給へ。ちつとは阿呆以外の說も聞きたい。尤も夫子自身阿呆だが。

 

[やぶちゃん注:現在、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」は執筆時期が不明である。しかし、私は、この書簡の「二伸」中に、その痕跡を発見する。また、この前後は、昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された「晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」を参照されたい。実際の日記ではなく、日記を装ったものであるが、「五月五日」の掉尾の、『夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。』は鬼気迫るものがある。

「下立賣」下立売通(しもたちうりどおり/しもだちうりどおり)。この東西(グーグル・マップ・データ)。

「夫子」ここは「そういうことを言っている私自身」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・眞野友二郞宛

 

冠省、鯛をありがたう存じます。あなたは悠々自適してゐられる容子、健羨に堪へません。右とりあへず御禮まで。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   眞 野 友 二 郞 樣

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端・発信・里見弴宛

 

冠省大道無門ありがたく存じ候。來月の改造にてお禮かたがた妄評仕らんと存じをり候所、大事をとりすぎ、とうとう今日の〆切りに間に合はず、斷念致し候間、この手紙を差し上げ候。御禮相遲れ候段あしからずおゆるし下され度候。頓首

    五月六日       芥川龍之介

   山 内 英 夫 樣

 

[やぶちゃん注:「大道無門」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『昭和二年三月刊。前年(大正十五年)「婦人公論」に連載したもの』とある。

「來月の改造にて」同前で、『連載中の「文芸的な、余りに文芸的な」を指す』とある。実は、書き始めている内に、力が入り過ぎ、締切に間に合わなくなったというのが事実であると私は考えている。実際、「大道無門」という「文藝的な、餘りに文藝的な」の草稿(と私は考えている)が存在するからである。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」で電子化してあるので読まれたい。

「山本英夫」里見弴の本名。彼は明治二一(一八八八)年に有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれたが(有島武郎と有島生馬は実兄)、生まれる直前に母方の叔父山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となって「山内英夫」となった。但し、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端発信・宇野浩二宛

 

冠省 君の本の題を知らせてくれぬか。好意に甘えて序文を作ることにする。但しそれは一度「文藝春秋」にのせる事にしたい。さうすると、僕も大いに助かるから。餘は拜眉の上萬々、頓首

    五月六日夜      芥川龍之介

   宇野浩二樣

 

[やぶちゃん注:「君の本」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年八月』(十日)『新潮社刊の「我が日我が夢」』とある。昭和二年六月一日発行の『文藝春秋』に『「我が日我が夢」の序』として掲載され、上記単行本の「序」として収録された。

「僕も大いに助かる」稿料が貰えるからであるが、自分のためといういうよりも、この時期、夫に自殺されて未亡人となった姉ヒサの一家の経済的援助も龍之介は一身に担っていたから、「たかが/されど」であったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十六日・函館発信・芥川宛(絵葉書)

 

一路平穩函館へ參り候 頓首

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この五月十三日の午後十時三十分に『上野駅で青森行の急行に乗車し、里見弴とともに、改造社『現代日本文学全集』の宣伝講演旅行のため、東北・北海道方面に向けて出発』したとあり、十四日土曜日、午前七時二十分、『仙台に到着』、『小宮豊隆とともに、当時』、『東北大学にいた木下杢太郎』(東北帝国大学医学部教授として皮膚病黴毒学講座を担当していた)『を訪ね、昼食を共にする。この時』、龍之介は木下に『九州』帝国『大学から招聘されていることを漏らした』とある。その後、午後四時半、『仙台公会堂で講演を』し、『この日は』仙台の『針久』(はりきゅう)『別館に宿泊』した。十五日、『仙台を発ち、盛岡に到着。午後』四『時、盛岡劇場で「夏目先生の事」と題して講演を』し、『終了後、岩手日報社の招待で金山踊り』(かなやまおどり:嘗て鉱山で選鉱作業をした女の仕事歌と踊り)『を見物し』、『この日は、六日町の高与旅館に宿泊』した。十六日の午前十一時四十二分『発の急行で盛岡を発ち、午後』十『時、函館に到着』、『この日は、函館駅頭の勝田旅館に宿泊』した。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・志賀直哉宛(絵葉書。里見弴と寄書)

 

   双鳬眠圓

   孤雁夢寒

旅情御想察下され度候。

     五月十七日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版書簡本文によれば(同全集は独自に歴史的仮名遣による推定読みが各所で行われている)、

 双鳬(さうふ) 眠り 圓かにして

 孤雁(こがん) 夢 寒し

と訓じており、脚注で、「双鳬」は『ひとつがいの鴨。里見が女づれであることを暗示する』とし、「孤雁」は『一話の雁。。芥川自身の単身旅行の境涯をいう』とある。但し、私はこれ以外に、この時の里見が女性同伴であったという記事を見たことがない。もし、終始、里見が女性を連れていたとなら、書簡のどこかで、その女性への言及があると私は思うのだが、そんなものは欠片もない。この注の根拠となる事実証左をご存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、里見は大阪の芸妓山中まさと早くに結婚しているが、妻なら(しかも元芸妓となら)、龍之介が書簡で触れないはずがない。それとも、妻でない愛人だったのか? これはまた、問題であろう。第一、芥川と里見の、この改造社提灯持ち情宣講演部隊(事実、「現代日本文学全集」と書いた提灯を持った二人に繩が附けられて、その二本を後ろで操る「改造社」の社長が背後に小さく描かれた昭和二年五月発行の『北海タイムス』に掲載された「悦郎生」の手になる辛みの強烈な戯画が残されている(底本の岩波旧全集「月報8」の「資料紹介」に載る「昭和二年五月二十二日『東奥日報』」に挿入されたもの。そのカリカチャライズに龍之介の談話として、『この度北海タイムスの漫畫程、われ乍ら感心したのはないね、岡本一平のもの』(太字は底本傍点「ヽ」)『したよりは』(岡本の絵も先の絵の上に掲げられてある)『餘程うまく出てますね。』と書かれてある)この行動・講演日程(『九日間で八カ所講演』という『相当な強行軍』と鷺氏の年譜にある。次の書簡も参照)は特に北海道内でのそれは相当にハードなものであったから、講演中は暇でも、それに合わせて移動するのは(しかも次の書簡で判る通り、飯は不味くて汚いのである)、女性にはかなりきついと思うのだが? 但し、次の書簡も参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・相州鎌倉阪の下 佐々木茂索樣 同房子樣(絵葉書、里見弴と寄書)

 

連日强行軍的に講演させられ神身[やぶちゃん注:ママ。]ともに疲勞而も食物はまづく宿は汚い

一體どうしてくれるつもりだ      弴

汽車にのる、しやべる、ねる、又汽車にのる、のべつ幕なしの精進には少からず弱り居り候但し鴛鴦眠暖 孤鶴夢冷

                   龍

 

[やぶちゃん注:里見弴は著作権存続だが、寄書なので、そのまま引用扱いで載せる。特にこの宣伝講演旅行の凄絶なそれのへ怒りは貴重な資料であるからである。

「鴛鴦眠暖 狐鶴夢冷」

 鴛鴦 眠り暖かにして

 孤鶴 夢 冷やかなり

か。前の「但し」といい、やっぱり里見は女連れということか?]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・東京市外田端四三五芥川氣附 小穴隆一樣・五月十七日 蝦夷の國湯の川 芥川龍之介

 

敬啓 仙臺、岩手と巡業し、やつと津輕海峽を渡りて函館へ參り候函館は殺風景を極めた所なり、匆々湯の川溫泉へ避難、ここらは櫻さき蒲公英さき黃水仙さき櫻すずめと云ふ鳥啼き居り候あひ變らず憂鬱夜々卽時に死ねる支度をして休みをり候これより札幌、旭川、小樽をまはり、新潟を經て二十四五日頃にかへる筈、文中さしつかへなき所だけ宅へもお洩らし下され度候

  盛岡

啄木は今はあらずも目なぐもる岩手の山に鳥は啼きつつ

插し画日々大へんなるべし女の子の鞠をつける画より後は見ず不本意この事也 頓首

    五月十七日          澄

   一 游 先 生

 

[やぶちゃん注:「芥川氣附」葛巻義敏辺りが、小穴に届けることを想定したものであろう。

「湯の川溫泉」この附近(グーグル・マップ・データ)。私も一度、友人らと泊まったことがある。

「櫻すずめ」種としてはスズメ目カエデチョウ科 Neochmia 属サクラスズメ Neochmia modesta がオーストラリア北東部の固有種であるので、違う。単に桜の花を花ごと食い千切って、花の附け根に入っている蜜を吸う普通の雀ではあるまいか?

「目なぐもる」「たなぐもる」の誤記か。

「插し画」芥川龍之介晩年の纏まった中編随筆作品の一つである「本所兩國」の挿絵(リンク先は私のサイト版)。昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」の「四六――六〇」として連載したものを指す(芥川龍之介は、結局、未だに大阪毎日新聞社の社員であった)。連載時の挿絵は芥川龍之介の友人であり、画家の小穴隆一(作中のO君)であった。これにはエピソードがある(以下は鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の記述に基づく)。当初の新聞社の指示は、挿絵も芥川龍之介自身が描くという条件で、芥川は相当に悩みながらも、小穴の指導を受けて、第一回・第二回分の絵を描くが、社に帰参した記者が芥川が挿絵を描くことを嫌がっている伝えたところ、小穴が描いてもよいということになり、芥川は快哉を叫んだという。より詳しい経緯は私の『小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」』を読まれたい。ともかくも、そうした経緯からも小穴には借りがあるから、言い添えているのである。なお、この絵は展覧会で、現物全篇を見たことがある。ただ、「女の子の鞠をつける画」というのは、残念なことに、記憶がない。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣(絵葉書)

 

コレハアイヌデス ハコダテニハアイヌハヰマセン シカシアイヌノコシラヘタモノヲウツテヰマス

 

[やぶちゃん注:新全集年譜に、五月十七日の午後四時半、『函館公会堂で「雑感」と題して講演を』し、午後十一時六分『発の急行に乗り、札幌に向かう』とあり、翌十八日の午前七時五十四分、『札幌に到着。札幌では、午後』二『時、北海道大学中央講堂で「ポオの美学について」、午後』四『時、大通小学校で「夏目先生の事ども」と題して、二回』の『講演をする。講演会終了後、北大文芸部と札幌の文学グループによる歓迎会に出席』、『この日は、山形屋に宿泊』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川比呂志 同多加志宛(絵葉書)

 

サツポロヘキマシタココニハキレイナシヨクブツエンガアリマスアシタハアサヒガハトイフ町ヘユキマス

 

[やぶちゃん注:

「シヨクブツエン」北海道帝国大学植物園のことであろう。クラーク博士の学術的要請によって明治一九(一八八六)年に竣工した非常に古いものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川文宛(絵葉書)

 

汽車へ乘つてはしやべりしやべりする爲、すつかりくたびれた。かへりには新潟へまはり、二三日休養するつもり。こんなに烈しい旅とは思はなかつた。北海道では今ボオヂエストをやつてゐる。以上

    札幌

 

[やぶちゃん注:年譜に、この十九日の午前八時『発の急行で札幌を発ち、午前』十一時三十二分、『旭川に到着、午後』四『時半、錦座で「表現」と題して講演を』し、午後六時十五分発の急行で『旭川を発ち』、午後九時四十四分、『再び札幌に到着』、『この日は、札幌に宿泊か』とある。

「二三日休養するつもり」これこそが大切な発言なのである! この時点で、あの《計画》は立てられていたのである! 後述する。

「ボオヂエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste)はイギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)が一九二四年に発表した冒険小説で、本邦では「ボゥ・ジェスト」のタイトルで日本語訳が出版されている。原題は英語で「麗しき行為・上辺だけの雅量」の意。ここはそれを最初に映画化した一九二六年公開のアメリカのモノクロームのサイレント映画(ハーバート・ブレノン(Herbert Brenon 一八八〇年~一九五八年:アイルランド出身)監督/ロナルド・コールマン(Ronald Colman/本名 Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリスの名優でトーキー黎明期を代表する人気スターの一人で、本邦でも人気が高かった)主演)である。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

 

やつと新潟着、これはプライヴェエトだから氣樂だ。尤も大きな部屋にたつた一人坐つてゐるのははかない。

     憶北海道

   冱え返る身にしみじみとほつき貝

このほつき貝と云ふ貝は恐るべきものだ。どこの宿へとまつても大抵膳の上に出現する。

    五月二十四日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日、『札幌を発ち、小樽に到着。午後』五『時、花園小学校で「描かけてること」(あるいは「描ける物」「描かれたもの」)と題して講演を』した。『聴衆の中には、若き日の伊藤整、小林多喜二がいた』。午前十時四十八分『発の寝台急行に乗り、函館に向かう』とあり、翌二十一日土曜日の午前七時、『函館に到着。午前』八『時、青函連絡船に乗り、午後』零『時半、青森に到着。ここで上京する里見弴と別れ、新潟に向かうべく、休息と時間調整のために旅館塩谷支店に部屋をと取った。そこで青森市公会堂での講演のために訪れていた秋田雨雀、片岡鉄兵に会う。「東奥日報」や秋田などの勧めもあって』、『急遽、午後』四『時半、青森市公会堂で行われた講演会に参加し、「漱石先生の話」と題して講演を』した。『熱心な聴衆の一人には、太宰治(当時弘前高校生徒)がいた。この日は、塩谷支店に宿泊』した。翌二十二日日曜日、『朝、北陸回りで新潟に向かう(秋田雨雀らと同乗』)。『夜、新潟に到着』、『新潟では、三中の校長だった八田三喜(はったみき)が旧制新潟高校校長をつとめて』おり、以前に八田から講演の依頼があったのである(それが「これはプライヴェエトだから氣樂だ」の意である)。『この日は、篠田旅館に宿泊』した。翌二十四日の午後三字半、『新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演をし』た(この時の英文講演メモは現在も残っており、全集に収録されてある)。『夕方、篠田旅館で行われた座談会に、八田三喜、式場隆三郎をはじめ、新潟高校の関係者らと出席する』。この時の座談会は、本年年初に、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として、ブログで電子化してあるので、是非、読まれたい。

「ほつき貝」」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。また、私の「眼からホッキ!」も見られたいが、芥川龍之介が「恐るべきものだ」と言っているのは、その剥き身が女性生殖器に似ていることを暗に指しているものと私は信じて疑わないのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信(推定)・東京市外田端四三五芥川氣附小穴隆一樣(絵葉書)

 

  北海道二句

ひつじ田の中にしだるる柳かな

  ほつき貝と云ふ貝ありいづこの膳にものぼる

冴え返る身にしみじみとほつき貝

 五月二十四日

二伸 繁昌記十三、十五囘だけ拜見。長明先生云々の字は下島先生乎。

 

[やぶちゃん注:「ひつじ田」「ひつじ」とは、刈り取った後に再び伸びてくる稲のことを言う。「穭」と書く。秋の季語。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『この句は、東京に戻った六月一四日付西村貞吉宛書簡や「講演軍記」(「文芸時報」六月号)などでは、「雪どけの(雪解けの)中にしだるる栁かな」と改められ、旭川で作った句とある。残された最後の句である』とある。改作形は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」及びやぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世を参照されたい。後者で私も、『これが旧全集の中で日附の判明している書簡に所収する龍之介最後の俳句である』と注した。

「長明先生云々の字」「本所・兩國」の最終回は「方丈記」の見出しが付けられているが、この謂いの詳しい意味は不詳。挿絵を再び見る機会があったら、追記する。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・芥川文宛(絵葉書)

 

おととひの夜新潟到着、八田さんにいろいろ御厄介になる。二十五日か六日にはかへるつもり。くたびれ切つてゐる。東北や北海道を𢌞つて來ると食ひもののうまいだけ難有い。

                 龍

どこへ行つても御馳走ぜめに弱つてゐる。就中北海道の「ホツキ」と云ふ貝はやり切れない。

    五月二十四日  志の田にて

 

[やぶちゃん注:ここでは確かに文に「二十五日か六日にはかへるつもり」と言ってはいる。これをまともに信ずれば、宮坂年譜は正しいことになるが、私は信じない。

「志の田」新潟の旅館名だが、前で引用した通り、「篠田」が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣 同多加志樣(絵葉書)

 

コレハニヒガタノマチデス ムカシノ東京ノヤウナキガシマス ソレデモジドウシヤハ トホツテヰマス

   ヒ ロ シ サ マ

   タ カ シ サ マ

    五月二十四日     ヘ チ マ

 

[やぶちゃん注:「ヘチマ」瘦せた芥川龍之介の自身の卑戯称か、或いは、自分の子らがたまたま「御父さんは糸瓜みたい」と言ったことがあるか。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

鍋茶屋はつひに鍔甚に若かず。金澤にありし日の多幸なりしを思ふ事切なり。

     北海道

   ひつじ田の中にしだるる柳かな

          新潟   龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「鍋茶屋」(なべじやや(なべじゃや))は筑摩全集類聚版脚注に、『新潟の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、創業は弘化三(一八四六)年とする。

「鍔甚」(つばじん)は筑摩全集類聚版脚注に、『金沢の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、『加賀百万石の礎を築いた前田利家に、お抱え鍔師として仕えて四〇〇年の鍔家』の『三代目甚兵衛が宝暦二年(一七五二年)に鍔師の傍ら』、『営んだ小亭・塩梅屋「つば屋」が「つば甚」の始まりとされて』いるとある。

「金澤にありし日」芥川龍之介大正一三(一九二四)年五月十四日、金沢・大坂・京都方面の旅に出、十五日に金沢に到着し、媒酌人をつとめることになっていた岡栄一郎の親族に逢って、彼らの結婚の了承を求めることが旅の一つの目的であった。金沢では室生犀星の世話で、兼六園園内にあった茶屋「三芳庵」の別荘にたった一人で二泊し、その豪奢な造りに非常な感銘を受けている。十九日の夜に大阪に発った。金沢滞在は龍之介にとって忘れられぬ至福の時だったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・里見弴宛(絵葉書)

 

靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り、その上例の茶話會と云ふやつにて往生すること一かたならず、新潟にてやつと人並みの食物にありつきほつと致し候。尤も鍋茶屋も鍔甚に及ばず、美人にも生惜邂逅不仕候

遠藤さまによろしく。魚は東京よりも新しいことを御吹聽下さらば幸甚。

     北海道を憶ふ

   冴え返る身にしみじみとほつき貝

 

[やぶちゃん注:『靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り……』先の五月二十四日附佐佐木茂索宛書簡の注を参照。青森で秋田や片岡と逢ったことで、またまた、予期せぬ講演や歓迎会に引き廻されたことを言っているものと推察される。

「遠藤さま」不詳だが、一つ、里見は元赤坂芸妓であった菊龍(遠藤喜久・お良)を愛人にしていたと当該ウィキにあるので(時期が合うどうかは判らない)、彼女のことかも知れない。

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十八日・田端発信・福島金次宛

 

御手紙拜見しました。何かとムヤミに書いてゐます。「蜃氣樓」をほめて頂いて恐縮です。しかし或友だちは小生の作品中、あれを一番無感激のものに數へてゐます。小生自身は一番無感激とも思つてゐないのですが。

    五月二十八日     芥川龍之介

   福島金次樣

二伸北海道よりかへり、いろいろ手紙ばかり書いて大分くたびれました。これは四本目です。

 

[やぶちゃん注:宛名の「福島金次」は未詳(新全集「人名解説索引」も同じく『未詳』とする)。この書面の謂いからは、少なくとも、この前日には田端へ帰着しているもののように読み取れる。

……さて、前記の新全集の宮坂覺氏の年譜では、新潟での五月二十四日の座談会記事に続いて、さらりと、

『午後』六『時半、帰京の途につく』

と記されてあり、次に、

翌五月二十五日の条が立項されて、『新潟から帰京し、田端の自宅に戻る。下島勲に土産の梨を進呈した』

とある。しかし、この二十五日の龍之介帰京の情報は昭和一一(一九三六)年に下島が公刊した随筆集だけを元にしたものであるのだが、私は、龍之介自死後九年も経ってから発表された、この随筆中の日付を激しく疑っている。

そもそも宮坂氏の年譜のここの記載が確かなのものであるなら、芥川龍之介は十九日の文宛書簡の「二三日休養するつもり」を実行せずに、即刻帰宅した

ことになる

のである。

更に、先行する一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、

ここに大きな相違が見られる

のである。鷺氏は、芥川龍之介の帰京を、

五月『二十七日、田端の自宅にもどる。』

とされておられるのである。

則ち、鷺氏の見解に従うなら、

新潟を発した五月二十四日(鷺氏は実はこの講演日を五月二十三日で立項し、『(あるいは二十四日)』とされて不確定としておられる)から五月二十七日までの――正味二日から約二日半(約三日)の空白――がここに存在することになる

のである。

この空白期間は、まさに、文への――「二三日休養するつもり」――に合致する

のである。宮坂年譜にある通り、講演の終わった後、座談会の後、夕刻に新潟を発車した列車に芥川龍之介が乗ったのは、事実であろう。

しかし……芥川龍之介はそのまま帰京はしていない――

のである。

……何処へ行ったか?……さても……そこで、誰と逢ったか?……

それを解き明かす鑰(かぎ)となる作品が――ある――

芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」

である。これは昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載された。

以上のリンク先は私の電子化であるが、その冒頭注で、私はこの空白への推理を最初に開始しているので、是非、読まれたい。

 

……ズバリ、言おう……

この空白の中で――芥川龍之介は片山廣子と軽井沢で逢っていた――

というのが私の結論である。

 

片山廣子には昭和四(一九二九)年六月号の雑誌『若草』に松村みね子名義(廣子の翻訳作品用のペン・ネーム)で掲載された「五月と六月」があるが、それをまず、読んで貰いたい。そこから、私の本格的な疑問が生じたからである。

次いで、私のブログ記事の『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』へと進まれ、最後に、私のサイト版の、

『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』

を読まれたい。芥川龍之介研究者の中で、この邂逅を仮定している方は今のところ知らないが、しかし、私は絶対に事実としてあったと考えているのである――反論があれば、何時でも受けて立つ。

 なお、宮坂年譜には、この五月の『下旬(あるいは上旬か)』として、『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる。平松麻素子の知らせで文たちがホテルへに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒する。文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せて誤ったことを回想している』とあり、また、この『月末』には、盟友『宇野浩二が発狂し』(既注)、『広津和郎とともに世話をする』とある。――風雲急を告げる刻(とき)が――遂にやって来てしまったのである…………

2021/09/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 金靈幷鰹舟事

 

[やぶちゃん注:この話、「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」に梗概があったので、私が注で既に電子化している。今回はまた、総て零から、やり直してある。そちらと差別化するために、段落を成形した。但し、「金靈」については、そちらの私の注を参照されたい。なお、文中で述べている通り、この日の会合は文宝堂邸で行われた。]

 

   〇金靈 幷 鰹舟事

 今玆、乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]春三月、房州朝夷郡大井村五反目[やぶちゃん注:千葉県南房総市大井のバス停名に「五反目」NAVITIME)が現存する。最大拡大されたい。]の丈助といふ百姓、朝五時比、

「苗代を見ん。」

とて、立ち出でて、こゝかしこ、見過し居たるをり、靑天に、雷のごとくひゞきて、五、六間[やぶちゃん注:約九メートル強から十一メートル弱。]、後の方へ落ちたる樣なれば、丈助、驚きながらも、はやく、その處に至り見れば、穴、あり。

 手拭を出だして、その穴を、ふさぎおさへて、𢌞りを掘りかゝり見れば、五寸程、埋まりて、光明赫奕たる、鷄卵の如き、玉を、得たり。

「これ、所謂、『かね玉』なるべし。」

とて、いそぎ、我家へ持ち歸り、

「けふ、はからずも、かゝる名玉を得たり。」

とて、人々に見せければ、

「是や。まさしく『かね玉』ならん。追々、富貴になられん。」

とて、見る人、これを羨みける。丈助も、よろこびて、いよいよ祕藏しけるとぞ。

「此丈助は、日比、正直なる故、かゝるめぐみも、ありしならん。」

と、きのふ、房州より來て、わが菴を訪ひける堂村の喜兵衞といふ人の物がたりしまゝ、けふの兎園にしるし出だすになん。

[やぶちゃん注:底本では、以下の二文は全体が一字下げ。]

 其かね玉の事につきては、いさゝか考もあれど、けふのまとゐのあるじなれば、ことしげくて、もらしつ。猶、後にしるすべし。

[やぶちゃん注:底本では以下行頭に戻る。]

「ことし乙酉の夏ほど、鰹の獵のありしこと、むかしより多くあらざる事なり。」

とて、右の房州の客の語るをきくに、

東房州 小みなと 内浦 あまつ はま荻 磯村 浪太(ナブト) 天面(アマツラ) 大ま崎 よし浦 江見 和田

西房州 白子 千倉(チクラ) 平舘 忽戶 平磯 千田 川口 大川 白有浦 野島 洲崎 館山 那古 多田羅

右は、獵船の出づる所の地名、あらましを、しらす。

「壱ケ處にて『釣溜』【鰹の獵船を「釣りため」といふ。】十五艘、或は廿艘ばかりづゝも出づる中にも、あまつは、二百艘も出づるよし。凡、一艘にて、鰹千五百本・二千本づゝ、六月六日比より、同十四、五日比は、每日、打續き夥敷[やぶちゃん注:「おびただしく」。]獵のありし事、めづらし。」

とて、かたりしまゝ、筆のついでに、しるしおきぬ。

 文政八乙酉初秋朔     文 寶 堂 誌

[やぶちゃん注:「小みなと」千葉県鴨川市小湊(グーグル・マップ・データ)。以下、東へと海岸を辿る。「見やしねえよ。面倒なことをせんでいいに。」と言う勿れ。私は高校三年間、社会の主選択として地理を選び、所謂、「世界地誌」(「地理B」)までやった、大の地理や地図好きなので、少しも苦じゃないのさ!

「内浦」鴨川市内浦。所謂、「鯛の浦」を含む内浦湾。小学校三年の時に父母と祖母と四人で行った。また、行きたいな。海の底から舞い踊ってくる鯛の鱗の光ったのを、昨日のことのように覚えている。もう四十五年も前のことなのに……

「あまつ」鴨川市天津。天津小湊港があることで知られる。

「はま荻」鴨川市浜荻

「磯村」鴨川市磯村。鴨川漁港がある。

「浪太(ナブト)」恐らく鴨川市太海(ふとみ)附近。

「天面(アマツラ)」鴨川市天面

「大ま崎」思うに、鴨川市江見太夫崎(えみたゆうざき)を指しているものと思われる。

「よし浦」鴨川市江見吉浦

「江見」江見漁港を中心とした広域。

「和田」千葉県南房総市和田町(わだまち)は広域。

「白子」南房総市白子(しらこ)。

「千倉(チクラ)」南房総市千倉町(ちくらちょう)も広域。

「平舘」千倉町平舘(へだて)。現行表記の漢字「舘」を本文でも用いた。

「忽戶」千倉町忽戸(こっと)。

「平磯」千倉町平磯(ひらいそ)。

「千田」千倉町千田(せんだ)。

「川口」千倉町川口(かわぐち)。

「大川」千倉町大川

「白有浦」読み不詳。次の「野島」から、現在の千倉町白間津から東の白浜町地区の広域の浦辺を指すものと推定される。

「野島」南房総市白浜町白浜にある野島崎

「洲崎」館山市洲崎ここから、初めて、現在の内房に移るのである。

「館山」館山市館山。館山港を擁する。

「那古」館山市那古。ああっ! 漱石の「こゝろ」の最も大切なシークエンスを含むあそこだ! リンク先は私の初出復元版であるが、実は、その(八十二)(探すのが面倒な御仁のためにブログ分割版をリンクさせておく)を見て戴きたいのだが、初出には「那古」の地名は、実は、出ていない。当該箇所は、

   *

其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。

   *

であった。漱石は、極めて珍しく、単行本に際して、以下のように、大きくここを書き換えているのである。

   *

私はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]彼を說き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃海水浴場だつたのです。

   *

「多田羅」南房総市富浦町(とみうらちょう)多田良(ただら)

「六月六日比より、同十四、五日比は」グレゴリオ暦で七月二十一日より七月二十九、三十日である。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第七集) 古墳女鬼

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。]

   ○古墳女鬼

 江戶松島町家主古兵衞忰 五郞吉事 幸次郞 酉廿歲

右之者、拾ケ年以前文化元酉年春中、日本橋通り弐丁目善兵衞店忠兵衞方へ、年季奉公に差遣、是迄相勤罷在候。然る處、一昨年春中と覺ゆ、堺町、勘三郞芝居、見物に罷越候處、神田邊、「みよ」と申す、十六、七歲位の女、棧敷に罷在候處、住所も不存者に付、芝居打出候之砌、相別れ申候。其後、同年秋中と覺ゆ、又候、勘三郞芝居へ見物に參候處、右みよ義も致見物罷在候間、猶又、其棧敷へ這入合せ、其節も同樣之義に而、相別れ、後一囘出合も不致相過申候。然處、右幸次郞義、當八月頃より、濕刀瘡相煩、氣分あしく罷在候處、先月廿六日夜八時頃と覺ゆ。右「みよ」義、幸次郞臥居候枕元へ參り、咄致候と夢の樣にも存候處、翌二十七日より同月廿九日夜、又々、右「みよ」參候に付、「宿へ付添可參。」とかねて支度いたし置、宿元を「小用可致」體に而出、往來等は不辨、同道致罷越候處、淺草今戶町、無何心寺之垣を越え、墓場へ參り、石塔へ水手向候處、右「みよ」義、見失ひ候に付、不計心付、「宿元へ可相歸。」と存候處、「右體之義故、證據に可致。」と、同寺垣にいたし有之候塔婆壱本、引拔持歸り候途中、淺草田町に而、夜明け、煮賣酒屋へ立寄り、酒・膾、猶、堺町三味線屋の隣の蒲鉾屋にて、かまぼこ二枚買ひ求め、主人方へ罷歸り申候。尤、途中等に而、幸次郞、『「みよ」と咄抔いたし候へ共、「みよ」義、請答等は不仕候。』由に御座候。

右之通、風聞有之候に付、當人呼寄せ、承糺候處、前書之趣申候に付奉申上候。以上。

 文化十年九月   島町 名主 五郞兵衞

こは、町奉行所へ訴狀の「うつし」なり。

此後、幸次郞事、とかく心氣不定故、親元へ、かへしけるよし、幸次郞主人忠兵衞妻の姊夫、元飯田町醫師本田雄仙の話なり。

[やぶちゃん注:ここで引き抜いた卒塔婆に「俗名 かよ」なる墨書きがあって、没年も記されてあって(しかもずっと昔の)、その現物とともに上申されてあったとなれば、俄然、驚愕の怪奇談として迫真するんだがなぁ……。

「文化元酉年」不審。文化元(一八〇四)年ならば「甲子」である。

「一昨年」最後のクレジットから文化八(一八一一)年。

「日本橋通り弐丁目」現在の東京都中央区日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったことを切絵図で確認した。

「堺町」台東区千束四丁目で中村座があった。

「勘三郞芝居」歌舞伎役者の名跡中村勘三郎。この当時だと、十一代目中村勘三郎(明和三(一七六六)年~文政一二(一八二九)年)か。八代目の娘婿で、父は二代目市川八百藏。

「濕刀瘡」不詳。刀傷がひどく糜爛・化膿したものか。

「淺草今戶町、無何心寺」不詳。「江戸名所図会」も調べたが、そのような名の寺は今戸以外にも、ない。「心光寺」というのが、今戸の切絵図内にはあったが、正式な寺名を忘れてこう書いたものか?]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 北里烈女 / 第六集~了

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。一部の踊り字を正字に代えた。「北里」は「ほくり」で江戸吉原遊廓の異称。元は長安城の妓館の中心を成した北里(東市の東隣りの平康坊内にあった)が由来。]

 

   ○北里烈女

 天明の比、三緣山の所化に「靈瞬」といふ僧あり。したしき友にいざなはれて、よし原にゆき、玉屋の「琴柱」といふ、たはれめにあひぬ。此僧、容顏美麗なりしかば、琴柱、それにめでしにや、

「しばしばとはせ給へ。」

といふ。

 僧、もとより、

『あるまじきこと。』

とは思ひつれど、愛欲の情、おさへがたく、「ぬれぬさきこそ」と、うつゝなくなりて、かよふほどに、琴柱に身の上をとはれて、ありのまゝに、かたりきかせたり。

「さらば、末々は、たかき位にのぼり、よき寺をも、もたせ給ふべきや。」

と、とふ。

「凡、わがともがら、學文をはげみぬれば、こゝかしこに、うつりすゝみて、幸あれば、大僧正にも、いたらるゝなり。しかしながら、こがね、乏しくては、すみやかにすゝみがたし。」

と、いひしを、こまかに聞きゐたりしが、そのゝち、とひし時、琴柱、いふやう、

「えにし(緣)[やぶちゃん注:漢字のルビ。]あればこそ、君がしたしみをうけまゐらせたり。これもすぐせのことなるべし。」

とて、一包のこがねを出だして、あたへ、

「これをもとゝして、かならず、なりのぼらせ給へ。こよひをかぎりとして、こゝにも、來たり給ふな。あだし女にも、近づき給ふな。みづからは、ちかきうちに、身まかり侍りて、君が身を、まもり侍るべし。必、わすれ給ふな。」

といふ。

 僧も、初は、

「おもひよらざること。」

とて、いなみけれども、そのこゝろざしのまめなるに、めでゝ、うけひきぬ。

 かくて、日あらずして、琴柱、みづから、身にきずつけてぞ、まかりぬ。

「心のみだれしにや。」

と聞きて、かつは、おどろき、かつは、かなしみ、法號をつけて、日々に囘向して有りけるが、一とせばかり過ぎにしかば、「去ものはうとき」習にて、又、友にすゝめられて、品川のあそびのもとにゆき、とかくして、雲雨のちぎりを、もよほす比、琴柱が在りし姿、あらはれて、

「いかでちかひしことを忘れ玉ひしか。」

と、いさむるかほばせ、恨、骨にとほりしおもざしなりければ、おそろしく覺えて、にげかへりぬ。

 日ごとに、ゑかうする事は、をこたらざれど、年月をへて又、あそびのもとにゆくこと有りしが、かの幽靈、いでゝ、いさむる事、前のごとくなりしかば、それより、またまた、不犯の身となり、勇猛精進なりしかば、年をおひて、進みて、京の智恩院になりて、聖譽大僧正とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「靈瞬」「聖譽大僧正」酷似した法号名に知恩院第六十二世の体蓮社聖誉霊麟(たいれんしゃしょうよれいりん)がいる。「WEB版新纂 浄土宗大辞典」のこちらに、霊麟は元文四(一七三九)年生まれで、文化三(一八〇六)年四月十三日示寂。体蓮社聖誉心阿具堂。結城弘経寺三十九世・飯沼弘経寺五十五世・小石川伝通院四十五世を歴住し、享和元(一八〇一)年十月十六日に台命を拝して知恩院に昇転、翌年の四月二十七日に大僧正に任ぜられた。文化二(一八〇五)年八月七日には有栖川宮織仁親王の第八皇子であった幼名種宮、後の尊超法親王(同七年に親王宣下)を知恩院門跡六世に迎えた。在住すること、四年余にして入寂したとある。事実かどうかは別として、時制的にも問題がなく、彼がモデルであることは疑いようがない。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「三緣山」浄土宗増上寺塔頭三縁山宝珠院。浄土宗の開祖法然は「七箇条制誡」に於いて僧については肉食妻帯を禁じている。江戸時代、その許諾を開祖親鸞が正規の宗派文書に残している浄土真宗のみが、僧であっても、「女犯(にょぼん)の罪」を免れた。従って、厳密には、廓遊びであろうとなんであろうと、本来は彼のそれは許されないことである(「御定書百箇条」によれば、その女犯僧が江戸の住職出逢った場合は「遠島」、住職ではない僧は、日本橋に三日間晒された上、本寺に引き渡され、寺法に従って「破門」・「追放」となった)が、医者と偽って変装し(当時の医者の多くは、僧侶同様、剃髪しているものも多かった)通う僧は多かった。私の古い電子化注「耳嚢 巻之五 死に增る恥可憐事」の本文及び私の注を参照されたい。

「玉屋」玉屋山三郎(生没年不詳)が営んでいた江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(火焔玉屋)代々の主人の名乗り。山三郎は宝暦六(一七五六)年以後、大見世の大三浦屋の廃絶によって、吉原の惣名主となり、抱えの遊女に多くの名妓を出したことで知られた。天保末年から弘化年間(一八四四年~一八四八年)にかけて、それまで書肆で知られた蔦屋重三郎が独占していた、吉原廓内の案内記ともいうべき「吉原細見」の刊行を巡る紛争が起こったが、嘉永元(一八四八)年秋以降、『「細見」株』(版権)を手に入れて、これを収め、明治五(一八七二)年まで玉屋版として独占的に「吉原細見」を刊行し続けた。

「所化」(しよけ(しょけ))は寺で修行中の僧。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前貞女

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。漢詩は縦に並ぶが、引き上げて、一段組みに変えた。短歌も引き上げた。]

 

   ○松前貞女

 寬政[やぶちゃん注:十三年まで。一七八九年から一八〇一年まで。]の末の比、若狹國の人、

「松前にゆかん。」

とて、敦賀より、船に乘りたり。

 そのふねの内に、さた過ぎたる女[やぶちゃん注:若くないことを言うのであろう。]、一人、あり。

「いづくより、いづくへゆくにか。」

と問ひたれば、

「京より、箱舘のしらとりに歸るなり。」

と、こたふ。

「いかなるゆかりにて、京に在りしか。」

とゝへば、

「ことなるゆかりも、あらず。みづからは、ふるさとに在りし時、人につれそひしかど、ゆゑありて、わかれ、やもめとなりぬ。おやは、『ふたゝび、人にみえよ。』と、いはれしかど、かたくいなみて、のがれたり。みやこの見まくほりせしかば、ひとの、『まうのぼる。』とて、船にて能登國につきぬ。さて、京にいりて、あき人の家より、「つふね」[やぶちゃん注:「奴(つぶね)」。召使い。]となりて、一とせ侍りしかど、おもふほどは、都の手ぶりもしられざりしかば、高倉さま[やぶちゃん注:高倉家か。藤原北家藤原長良の子孫に当たる従二位参議高倉永季を祖とする公家。有職故実・衣文道(えもんどう)の家柄。]に參りて、二とせ、つとめ、さて、故鄕にかへり侍るなり。」

といふ。

「それがつくりし、からうた。」

とて、その人、うつし傳へたり。

 春盡早囘一葉船

 薰風拂浪向胡天

 誰憐去程三千里

 旅恨悠々碧海煙

又、

「その國のことばにて、よめるうた。」、

春くればちようかい心ひるかして霞のうちにちつふみえけり

「ちようかい」は「己」、「ひるかして」は「悅」意、「ちつふ」は小舟をいふ。

あぶらさけやくさけまでもいしやませはひるかてつひもなにゝかはせん

「あふらさけ」[やぶちゃん注:清音はママ。]は「美酒」、「やくさけ」は「えぞのにごりさけ」、「いしやませ」は、「無」といふこと、「ひるか」は「嬉しき」といふこと、「てつひ」は「肴」といふことゝいふ。

[やぶちゃん注:漢詩の訓読を試みる。

   *

 春 盡きて 早や囘(めぐ)る 一葉船(ひとはぶね)

 薰風 浪を拂ひて 胡天に向かふ

 誰(たれ)か憐れみ去らん 程(てい)三千里

 旅恨 悠々 碧海 煙(けぶ)る

   *

「胡天」は「北の空・地方」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 突くといふ沙汰

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。段落を成形した。]

 

   ○「突く」といふ沙汰

 文化三丙寅年[やぶちゃん注:一八〇六年]正月の末より、夜分、往來の盲人、或は、乞食・ゐざりの類を、鎗にて突き殺す事、はやりて、月の中比より、此事、甚しく、三月のはじめ比より、少し此沙汰やみたるに、同四日、芝車町より出火して、淺草たんぼまで、やける。

[やぶちゃん注:「文化の大火」である。文化三(一八〇六)年三月四日、江戸芝の車町(くるまちょう:牛町とも称し、現在の港区)から出火し,大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域と、神田・浅草の大半を類焼した大火。「車町火事」「牛町火事」とも呼ぶ。死者は千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋に収納し、救済金を下付、火災後に「諸色物価高値取締」などの対策も講じた。]

 此大火の後、又々、鎗の沙汰有りて、日暮過よりは、人々、用心して、他出する者、稀なり。夜分は、いよいよ、往來、淋しければ、わる者は、時を得たるにや、猶、所々にて、突く事、多かりけり。されども、大かたは、盲人、或は、至極下賤の者ばかりにて、よき人つかれしといふこと、なし。

 盜賊の所爲かと思へば、さのみ金銀を目がくるにもあらず、いかにもあやしき事にて、おほやけよりも、いと嚴しく仰渡され、町中にても、火事後、猶更、夜番をなして、たゆみなく心をつくすといへども、さらに其わる者、しれざりけるが、四谷天王[やぶちゃん注:現在の東京都新宿区須賀町にある須賀神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の社内地形[やぶちゃん注:「ぢかた」。平面の土地を指す。]の普請場へ、いとあやしき侍、來りて、別當所の座敷に有りし頭巾と衣二品をぬすみて、去らんとす。折しも石工、或は鳶のものなど、あまた居合せたれば、忽、とらへられ、盜みたる品を取りかへされ、からきめにあひて、逃げうせたりしに、そのゝち、「鮫が橋」[やぶちゃん注:この附近の地名。]の「おか」てふものに訴へられて、遂に召し捕れ、きびしく御吟味ありけるに、此者も、夜分、人を突くわるものなりければ、すみやかに、其罪、きはまり、江戶中引廻しの上、品川鈴が森にて、獄門にぞ行はれける。是、四月十八日に召しとられ、同廿三日に、かく行はれたれば、

「この後は、さる事、あらじ。」

と、世上安堵の思をなしたるに、はや、其廿三日の夜、淺草西福寺[やぶちゃん注:「さいふくじ」。ここ。]門前にて、又候、つかれたるもの、あり。

 牛込改代町[やぶちゃん注:「かいたいちやう」。ここ。]麁朶橋にて、十八歲になる盲人、出刄庖丁にて突き殺されたり。これは五月二日の夜の事なり。

 同夜同所、神樂坂上寺町[やぶちゃん注:この中央附近。]にても、つかれたるものあり。

 いかなる事にて、何者のなすわざにや。猶々、おほやけよりも、さまざま觸出だされし事共あれど、とにかくに、しれがたし。

 其後、自然と此沙汰やみたるに、又、八月の末より、春中のごとく、夜分、非人或は盲人を突く事、所々にあり。かへすがへすも、いぶかしき事なり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]

 此頃、甲州にて、あやしき法を行ひて、婦女子の膽[やぶちゃん注:「きも」。]を取りて、藥に用ふるよし、風說あり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]

 水銀蠟、當春以來、賣買いたし候哉、有無之返答書差出候樣、名主より申し渡され、飯田町にても、町内の藥種や一同、賣買不致旨、連印いたし、返答書を差出だしゝ事あり。後に聞くに、水銀蠟を妖術に用ひ、又は鎗にて突く事にも、用ふるよし、依之、右の御尋あり、なんど種々の說々あり。

[やぶちゃん注:「水銀蠟」不詳。水銀に蝋を混ぜたものか。

 以下は底本でも改行。狂歌は四字下げであるが、引き上げた。]

 同年十月の中比より、少し、此沙汰、やむ。一體、春中より月の夜はしづかにて、暗夜に、此事、多くありける故、其比の落頌[やぶちゃん注:「らくしよう(らくしょう)」。この「頌」は単なる「形・様」の意で、落首に同じであろう。]に、

春の夜のやみはあぶなし鎗梅のわきこそみえね人はつかるゝ

月よしといへど月にはつかぬなり闇とはいへどやまぬ鎗沙汰

やみにつき月夜につきの出でざるはやりはなしなるうき世なりけり

[やぶちゃん注:「鎗梅」「やりうめ・やりむめ」は、梅の花と蕾のついた梅の枝を真っ直ぐに立てて並べた文様の呼称。丁度、槍を並べたように見えるので、この名があり、江戸時代の小袖や陶磁器などには、この文様を使った作品が数多くみられ、尾形光琳の絵にもある、とサイト「きものと悉皆 みなぎ」のこちらにある(紋様図有り)。この歌、「わき」はその紋様から着物の「脇」に、「分(わ)き」を掛けて、闇夜に対象の識別も出来ないことを掛けていよう。]

 これは扨おき、當酉五月廿六日の夜、豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋、芝居よりかへるさ、乘物町[やぶちゃん注:現在の中央区日本橋堀留町一丁目。町名は駕籠屋が多かったことに因む。]にて、何者ともしらず、延壽齋の脇腹を、一突、つきて、いづくともなく逃げうせたり。延壽は、

「𠰄。」[やぶちゃん注:叫び声のオノマトペイア。]

といひたるに、挑燈をもちし男、驚き、

「こは、いかに。」

と、立ちよりたれば、

「はやく、駕龍を、雇ひくれよ。」

といひて、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]程あゆみて、駕籠に乘り、本石町鐘撞堂新道[やぶちゃん注:「ほんごくちやうかねつきだうじんみち」。墨田区緑四丁目中央区日本橋本石町との関係は、参照したサイト「江戸町巡り」の「【本所 新道】鐘撞堂新道」の解説を読まれたい。]なる我家へ來りしと聞きて、其まゝ息たえたりし、となん。をしむべし、をしむべし。【このとき、葺屋町[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋人形町三丁目。]市村座狂言「曾我祭」・淨瑠璃名題「嬲三人色地走(まてみたりいろのちはしり)」[やぶちゃん注:「の太夫を勤めた」の意であろう。]。『「地走」は「血走り」にかよひあてゝ見るといふも、名詮自性なり。』と、後に人のいひしとぞ。延壽が菩提所は、日蓮宗深川淨心寺[やぶちゃん注:ここ。墓も現存する。]なり。戒名「妙聲院誓音日延信士」。○是より先、延壽齋、剃髮・改名のすり物に、剃髮の「剃」を「刺」と書きたり。是も前兆なるべし。】[やぶちゃん注:頭書。恐らくは馬琴によるものであろう。狂歌・狂句は一字空けで前文に繋がっているが、改行した。]

  此延壽齋の一條は、前編の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]にしるし出だせり。

 何ものゝよめるにか、

いつきならつかるゝこともあるべきにこは前生の因えん壽齋

又、發句に、

五月やみあといふ聲や聞きをさめ

  文政八乙酉夏六朔   文 寶 亭 記

[やぶちゃん注:「豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋」有名な太夫。江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である清元延寿太夫(現在まで七代続いている)の初代(安永六(一七七七)年~文政八年五月二十六日(一八二五年七月十一日)。通称は岡村屋吉五郎。江戸横山町の茶油商に生まれた。寛政六(一七九四)年に富本節の初代富本斎宮太夫(いつきだゆう:後に剃髪して清水延寿斎)の養子となり、寛政九(一七九七)年に初代の高弟の弟子であった斎宮吉から二代目斎宮太夫を襲名した。文化九(一八一二)年、富本節を離れ、豊後路清海太夫の名で、一派を設立し、文化一一(一八一四)年に清元延寿太夫を名乗り、清元節を創設した。美声に加え、庶民の風俗・世相・時代を取り入れて、清元節の隆盛の基礎を築いた。文政七(一八二四)年に剃髪し、清元延寿斎を号した。しかし、翌年、劇場の帰宅途中に何者かに刺殺された。犯人は延寿太夫の活躍を妬んだ富本の仕業とされたが、今以て、犯人は不明である。当時、あまりにも人気だったため、

都座に過ぎたるものが二つあり延壽太夫に鶴屋南北

という落書が詠まれたほどだったという。「累」・「山姥」・「須磨」などを語り、評価を受けた(以上は当該ウィキに拠った)。

「名詮自性」(みやうせんじしやう)は仏教語で「名がそのものの本質を表しているもの」、又は、「本質に名が相応しいもののこと」を言う。「名詮」は「その名に備わっていること」、「自性」は「そのものの本質のこと」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 新吉原京町壱丁目娼家若松屋の掟

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。なお、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の『博多祇園山笠で歌われる「祝い歌」の歌詞に出てくる「若松さま」とはどこの神社仏閣のことか』という質問への回答として、『博多の祝い唄「祝い目出度の若松様よ…」は、『民謡歴史散歩』九州・沖縄編(河出書房新社 1962 p.19-21)、『九州のうた100』(朝日ソノラマ 1982 p.50-52)によると「伊勢音頭」と同系の歌』で、『この系統で最も新しいのが山形県の「花笠音頭」と出ている』。『博多独自のものではなく、伊勢に参詣した人々が、そこで唄われていた歌詞を記録して帰り、それによって同様の歌詞が全国に広まっているよう』で、『『日本民謡大事典』(雄山閣 1983 p.67410-411)には、「花笠踊」の項目に、「目出度目出度の若松様よ…」という歌詞があ』り、『また、『日本民謡集』(岩波書店 1983 p.98)によると「この部分は、今も祝唄、婚礼唄、木遣唄、餅搗き唄等として殆ど全国共通」とあり、富山県の「布施谷節(ふせたんぶし)」、石川県の「まだら節」も同様の歌詞』であるとし、『インターネットで検索すると、「若松観音(若松寺)」を紹介したサイトに「花笠音頭に唄われ…」とあり。 正式な読みは「じゃくしょうじ」』とあった。また、『『福岡県事典』に全歌詞があり、この歌詞は、博多独特のものではなく、全国共通とあった』。『祇園祭は、奈良時代に春日若宮(春日大社)を興福寺で祝ったとあり、また、八幡神宮にも関係あるのではないかと思われる』という附記がある。一部で二段組を一段にした。]

 

   ○新吉原京町壱丁目娼家若松屋の掟【所謂、「めでた若松」、これなり。】

右若松屋の掟は、每朝、神棚の前へ、新造をはじめ、子供殘らず居並び、神棚に向ひ皆同音に、[やぶちゃん注:「新造」江戸時代の女郎の階梯を示すもの。振袖新造・留袖新造・太鼓新造・番頭新造があるが、通常は振袖新造を指す。若過ぎて、未だ水揚げの済まない見習い女郎のこと。正規の女郎は満十六から十七歳で客をとるが、新造はその前の十三から十四歳の頃に与えられる段階を指す。姉さん女郎の付き人として、身の回りの世話をするのが仕事で、姉さん女郎のところに複数の客が登楼している場合、待たせる方の客の話相手をするのも大事な仕事であった。美人で器量がいいと、引込新造(楼主や女将が将来の花魁候補と見込んだ禿(かむろ:江戸時代、上級の遊女に仕えて見習いをした、現在の六~七歳から十三~十四歳までの少女の呼称)が成れた)になることが出来た。]

  おヲ   エ た う   三べん

  おありがたふ存じ奉ります   これも三べん

此事、言ひ終りて、見せのわき座敷にて、又、三べんづゝいひて、夫より佛壇に向ひ、居ならびて、又、三べん、是をしまひて、内證女房の前に出でゝ、[やぶちゃん注:「内證女房」廓一階の奥にあった、外からは見えない、妓楼の主人と、そのお内儀が過ごす事務所を「内証(ないしょう)」と称した。ここは、その女将。]

  お め て た ふ   こればかり、はじめの如く、三べん

女房、これをきゝて、いへらく、

「めでたいと、おつしやつた、御供(ゴクウ)いたゞけと、おつしやつた。」と、これを三べんいふと、それより、新造・子供、同音に、

 廊下でさわぎますまい つまみぐひいたしますまい ね小べんいたしますまい

 お客人を大切にいたしませう わるいことをいたしますまい

など、その外、此類の箇條をならべ立てゝいふ。これを聞きて、女房、

 一々申しつかつた通り、まちがへるな。旦那さまが、おゆから、おあがんなさつたら、御祝儀に出よ。わるい事をしたらば、友ぎん味[やぶちゃん注:同輩相互による総括。]をして、申し上うぞ。一々申しつかつた通り、まちがへるな。

子供・新造、又、同音に、

 火の用心を大切にいたします  三べん

 お客樣を大切に仕ります    同

これを聞きゝて、女房、

 火の用心、火の用心、大切は、大切は。上々樣方へ御奉公、御奉公。

 御客人樣、大切は、大切は。わいらが親を孝行にして、やつたかはりの奉公だぞ。よろしい。いつて、御供をいたゞけ。

新造・子供、同音に、

 おありがたうぞんじ奉ります。

女房、いふ、

 まちがひると、棒だぞ、○たて。

[やぶちゃん注:「〇たて」意味不明。「まるまる」(皆々)立て]か。「丸太で」ではあるまい。]

是より、みなみな、次へたちて、朝飯を、くふなり。

每夜、引け過ぎ、女房の前へ、又、新造・子供、殘らず、居並ぶ。[やぶちゃん注:「引け」午前零時か。サイト「吉原再見」の「廓の一日」に、「引け四ツ」としてこの時刻とし、『正しい四ツ(鐘四ツ)』(午後十時)『に対して』、『こちらを引け四ツといいます』。『各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りし』、『金棒をならしながら』、『火の番が回ります』とある。]

女房、いふ、

 火の用心、大切は、大切は。上々樣方へ御奉公、御奉公

 お客人さまは、大切、大切。わいらが親を孝行にして、やつたかはりの奉公だぞ。諸神樣、諸佛樣、諸神樣、諸佛樣。上々樣、上々樣。お慈悲、お慈悲、お慈悲ぞ、よろしい、いつて、休息、休息、休息。

子供・新造、一同に、

「おありがたう存じ奉ります。おやすみなされませ。」というて、皆々、臥所にいる、といへり。

此每日の唱事、正月元日は、「おしよく女郞」をはじめ、新造・禿・男女出入の者に至るまで、殘らず。ならび居て、かくの如くいふとぞ。[やぶちゃん注:「おしよく女郞」御職女郎。遊女屋で上位の遊女の総称。初めは江戸吉原遊郭だけでの名であった。]

右女房のことばの中に、「親を孝行にしてやつたかはりの奉公」といふ事、解しがたき故、かの家のものに問ひしに、「それは、銘々、おやの爲に身をしづめし上、折々、其おやども、來りて、『くらし方、難澁のよし』にて、金子借用の願を出だし、少しにても、借りうけて、先、當時々々の困窮をも凌ぐは、是、奉公をして居る故に、親の貧苦をも救へば、自然と、孝行にあたるべし。『その孝行をさせてやるは、誰が、かげぞ、是、おやかたのかげならずや。其かはりの奉公なれば、大切に、つとめずば、なるまい。』といふ、無理に理窟をつけたる、いましめことばなり。」と、かたりき。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) なら茸 乞兒の賢 羅城門の札

 

[やぶちゃん注:乾斎発表。段落を成形した。話の切れる部分に「*」を入れた。二話目の漢詩は四字下げで一行に句明け一字分で書かれているが、句で改行して引き上げて示し

短歌も引き上げた上、句で分離した。]

 

   ○なら茸 乞兒の賢 羅城門の札

 上州眞壁郡野瓜(ノウリ)村[やぶちゃん注:不詳。旧真壁郡では現在の筑西市に野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)という地名なら現存する。]にての事なりし。

 寬政四年辛未【是年、改元、「寶曆」。】[やぶちゃん注:干支と割注から、「寬政四年」は「寬延四年」の誤り。一七五一年。寛延四年十月二十七日(グレゴリオ暦十二月十四日:旧暦では閏六月があった)に宝暦に改元した。]四月中[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では四月二十四日から五月二十四日。]、百姓ども、寄り合ひて、「なら茸」といふきのこ、大さ、三、四寸ばかりなる、いと美事なるを取り來て、四、五人、より合ひ、吸物にこしらへ、酒を吞まんとせし折、同村なる不二澤幸伯といふ醫師、來にければ、五人のもの申しけるは、

「さてさて。よき處ヘ御出候ものかな。今日、「ならたけ」といふきのこを採り候故、吸物にして酒をたべ候なり。幸ひの折なれば、御酒ひとつ、きこしめされよ。」

といふに、此醫師も、

「そは、よき處へ參りあはしゝ。」

などいふ程に、吸物膳をもて出でければ、葢をとりて見るに、特に美なる「なら茸」を四つ割にして、出だしたり。

 幸伯、これを、吸はんと思ひしに、はじめ座につく時、腰にさげたる印籠巾着[やぶちゃん注:底本は「籠」が「竃」だが、誤植と断じて特異的に訂した。]を、膝の脇にや居[やぶちゃん注:「をき」。]しきけん、忽、

「はつし」

と、音、しにけり。

 幸伯、ひそかに驚きて、

『こは、印籠を、ひしぎしならん。』

と思ひつゝ、とりて見るに、させることも、なし。

『こは、いかに。』

と疑ひまどひて、やがて、その巾着の紐をときつゝ、内を見るに、いぬる年、兄道伯がくれたりし、三つ角の銀杏、くだけたり。

 そのとき、幸伯、思ふやう、

『曩に、わが兄の、この銀杏をくれしときに、いへらく、「その理あるにあらねども、『三つ角なる銀杏は毒けしなり』とて、むかしより、人のいひ傳へたり。よしや、醫師なればとて、かゝる事は、俗にしたがひて、文盲見義[やぶちゃん注:「文盲の下々の者に対して発明して真義を示すためのもの」の意か。]に用ふるぞ、よき。其方にも、一つ、懷中せよ。」とくれたるを、この巾着に入れおきしに、今、摧けしは不審の事なり。且、この吸物は、わが好物といふにも、あらず。いかにせまし。』

と思ふ心の、とかく、心にかゝりしかば、

『吸はぬにますこと[やぶちゃん注:「增すこと」で「それ以上によいこと」の意か。]あらじものを。』

と、やうやくに思ひとりて、もろ人にうちむかひ、

「われら、けふは大切なる精進日に候へば、御酒ばかり、たまはらん。」

とて、盃をうけて、少し飮みしが、遂に療用にかこつけて、酒宴なかばに、辭し去りぬ。

 しばらくして、彼吸物をくらひし百姓の家より、幸伯がり、人を走らして、

「只今、見まひ、給はれかし。」

とて、急病用の使、推しつゞきて、來にければ、幸伯、ふたゝびゆきて、彼五人の中、亭主と外、一人の卽死したれば、療治、屆かず。殘る三人は、その腹、いづれも、大皷のごとくにはれたれども、命運や竭きざりけん[やぶちゃん注:「つきざりけん」。]、からくして、順快しけり。

 そのゝち、幸伯は江戶へ出府せし折、

「かゝる事にや、不思議に命を助かりし。」

とて、朋友某に物がたりしなり。

[やぶちゃん注:「ならたけ」食用の菌界担子菌亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica であるが、毒成分は不明ながら、ナラタケ食で体調不良を起こすことはあるものの、死に至るケースはない。似た形のもので致死性が高いのは、ハラタケ目フウセンタケ科ケコガサタケ属コレラタケ Galerina fasciculata だか、同中毒は食後概ね十時間(摂食量によっては六~二十四時間)後にコレラの様な激しい下痢が起こり、一日ほどで、一度、回復するが、その後、二~七日後に肝臓・腎臓などの著しい機能低下による劇症肝炎や腎不全症状を呈し、最悪の場合、死に至るとあるので、即日即死二名の本件には当たらない。彼らが食った「きのこ」の正体はよく判らない。但し、公開直前に、サイト「森林微生物管理研究グループ」の「きのこ中毒の話(二)」を発見、毒キノコに詳しい専門の方が本話を現代語抄訳された上で、『この話の「ならたけ」は別の種類であろう。コレラタケかニガクリタケかもしれない』とされ、さらに『一般の本では、「ナラタケ類は食用になるが、消化が悪く、嘔吐、下痢などの例がある」と記されている。しかし千葉、茨城では、「消化不良」程度ではない「毒きのこ」並の中毒が起きたことがある。しかも一件は私が同定したきのこで、面目を失った苦い経験がある。どうもツバの無いナラタケモドキのなかまに毒性の強いものがあるようだ』と記されてあった。強ち、私の同定も信用ならぬわけではないようである。

   *

 延享五年戊辰【この年、「寬延」と改元。[やぶちゃん注:延享五年七月十二日(グレゴリオ暦一七四八年八月五日)改元。]】春正月十三日の夜の明がたに、大坂四ツ橋にて。そのほとりなる非人、金五拾兩拾ひしに、その包がみに、

「字津屋氏」

と書きつけてありしかば、隈なくたづねて、終に、そのぬしに返しけり。金のぬし、歡びて、謝物として金子少々とらせしかども、つやつや、うけず。

 よりて、又、酒代として鳥目三貫文つかはしゝに、左の詩を相添へて、その鳥目を返しつゝ、非人は、ゆくへしれずとぞ。

  橋上路邊一二錢

  往來終日幾千人

  死生富貴任天命

  昨日錦今日草菰

 たからぞと

     おもへば袖に

   つゝみけり

      ひろへはおもき

     障りなりけり

 又、いづれのとしにかありけん、豐後國【郡、たづぬべし。】地藏寺[やぶちゃん注:大分県大分市佐賀関にある地蔵寺か。]門前に、行き倒れの尼あり。

 その住所をたづねしに、

「乞食のよし。」

なれば、しれず。

 その傍に、辭世あり。

  漸出人間界

  忽今上昊天

  卽捨敞蓑笠

  夢醒寺門前

 予、これらの人の塵埃に埋もるゝを哀み、錄して、もて、人に示して、後に傳へんと欲するのみ。

[やぶちゃん注:二篇の漢詩の訓読を試みる。

  橋上(きやうしやう)路邊 一二錢

  往來終日(ひねもす) 幾千人

  死生(ししやう)富貴(ふうき) 天命に任せ

  昨日(きのふ)の錦 今日(けふ)の草菰(くさこも)

   〇

  漸(やうや)く出づ 人間界

  忽ち今 昊天(かうてん)に上(のぼ)り

  卽ち 敞(たか)きに捨つ 蓑笠(さりふ)

  夢 醒むる 寺門の前

「昊天」(こうてん:現代仮名遣)は「夏の空」或いは「大空」。]

   *

[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミングした。キャプションは、右斜辺に、

「此所、朽、一尺程。」

禁札内には(本文に従い、判読出来なかった可能性の部分に□を置いた)、

「羅生門変□

 為退治蒙□

 

天近 二年二月

   摂津守源頼」

左下辺下に、

「此所、朽。」

とあるが、「天近」(意味不明。「ごく最近の比」の意か)は「天延」(二年は九七四年で、頼光四天王の一人渡辺綱(後述)は数え二十二)のつもりか(但し、それでは後に示される退治の逆算よりも前になってしまう)。「摂津守源頼」は彼が従った源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)を指す。渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は嵯峨源氏であったが、頼光の父源満仲の女婿源敦(あつし)の養子となる。摂津国渡辺に住んだことで「渡辺」を名乗った。坂田公時らとともにに源頼光の四天王に挙げられ、武勇談が多いが、伝説的な要素が強い。京の堀川に架かる一条戻橋で女に化けた鬼に遭遇し、髻を摑まれたので、その鬼の腕を名刀「鬚切」で斬り落とし、こと無きを得た。その後、陰陽師安倍晴明の勧めにより七日の間、閉門して慎んでいたところ、養母に化けた鬼がやって来て、斬られた腕を取り返した、という話が有名であるが、それを室町時代に観世信光が謡曲「羅生門」としてロケーションを変え、そこに巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝として創り変えた。そもそもが、それを事実としていることからして、この話は全くお話にならないのである。

 

Watanabetunanokinsatu

 

 京都安井御門跡、諸寶物、くさぐさの中、うす綠の大刀、羅生門へ、渡邊綱が、もてゆきし、といふ禁札は、わきて、めづらし。番の侍某を賴みて、※寫せし圖[やぶちゃん注:「※」=「菖」-(最下部)+(中間)「大」+(最下部)「手」。フォント無し。意味不明だが、「しゆしや」で傍で手書きで写すことか。]。

  幅弐尺二寸   長壱尺弐寸

  厚三寸

  人王六十四代  圓融院御宇

    寬延二巳年迄七百七十三年

右の板は、榎木にて、文字消えて、多く、よめず、「變」の字の下にも、文字見ゆれど、讀みがたし。撫づれば、手に障るのみ。又、「蒙」の字の下にも、文字あれども、これ又、よめず、「蒙」の下は「者也」とあるやうに見ゆ。手にて、撫づれば、少し障るのみ【右、獲自古記錄中。】。

  文政八年乙酉六月朔

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

著作堂云、「この禁札といふものは、ある人の※[やぶちゃん注:先に同じ。]刻せしを、予、藏弃せり。友人美成にも、所藏にありといふ。「羅城門」を「羅生門」と書きたるなど、すべて、疑はしく、信じがたき者なり。

[やぶちゃん注:「京都安井御門跡」京都府京都市東山区にあった真言宗の門跡寺院蓮華光院。元は仁和寺の院家として太秦安井に建てられ、後、東山に移された(大覚寺が兼帯した時期もある)。明治になって廃絶され、現在は当地に旧鎮守安井金比羅宮が残る。安井門跡とも呼ぶ。

「羅生門」羅城門の後世(中世以降)の当て字。「羅城門」は近代まで「羅生門」と表記されることが多かった。

「圓融院御宇」円融天皇の在位は安和二(九六九)年から永観二(九八四)。

「寬延二巳年」一七四九年。徳川家重の治世。

「寬延二巳年迄七百七十三年」数えとして逆算すると、貞元二(九七七)年で、確かに円融天皇の治世に合致する。この年なら、渡辺綱は数え二十五歳で、如何にも相応しい年齢にはなる。]

2021/09/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐孫右衞門が事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。頭で、かく言っているが、最初の「むじな・たぬき」の発表は、この海棠庵である。]

 

   ○狐孫右衞門が事

 過ぎし「兎園」のまとゐには、きつね・たぬきの事など、諸君のしめし給ふ物から、予も亦、聞きつる一條のものがたりあり。

 こは予が家に、年ごろ、出入なせるもの、元は下谷の長者町に住みし萬屋義兵衞が母「みね」のはなしなり。みねが生國は、下總相馬郡宮和田村[やぶちゃん注:現在の茨城県取手市宮和田(みやわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]のほとりにて、みねが父は同國赤法華村[やぶちゃん注:茨城県守谷市大字赤法花(あかぼっけ)。]の農民孫右衞門といふものなり。

 此孫右衞門より六世ばかりの祖孫右衞門【代々、孫右衞門をもて稱す。】とかいひしもの、江戶に出でゝ歸るさ、何がしとかいふ原【原の名を詳にせず。】をよぎりし時、傍に若き女の、ひとりたゞずみしが、呼びかけて、いへらく、

「われは下總なる云々の村にゆくものなるが、ゆき暮れて、いと、なやみぬ。願ふは、和君も、そのほとりにしおはさば、伴ひ給はれかし。」

と、他事もなく[やぶちゃん注:そのことに念を入れて。]賴まれければ、孫右衞門、止む事を得ず、うけがひて、その夜は、おのが家にとゞめ、とかくして、一兩日をふる程に、彼女のふるまひの、まめくまめしければ、孫右衞門が母なるもの、女に問ひて、いふ。

「我子、いまだ、妻、あらず。わがよめとなりなんや。」

と、いひしに、女、答へて、

「われに、實は、親兄弟もなく、たよるべき方、なし。云々の村は、些のゆかりあれば、尋ねゆかんと思ひしのみ。兎もかくも、御心にしたがひなん。」

と、いひければ、母、悅びて、つひに、めあはしぬ。

 いく程もなく、男子をまうけ、そが五歲といふとき、又、をのこを、うめり。

 冬の事にて、稚子[やぶちゃん注:「をさなご」。]に添乳して、しばし、爐邊にまどろみしに、五歲なりける男子が、あはたゞしく、

「てゝごよ。見給へ。かゝさまの、かほが。『おとうか』【狐の方言なり。】に、よく似たり。」

と、いふに、おどろき、彼女は、忽、身を翻して、かけ出でぬ。

 みなみな、打ち驚き、※(アハテ)まどひて[やぶちゃん注:「※」「目」+「條」。]、そがあたりを、おちもなく、さがし求めしに、向の小高き山に、狐の穴ありて、その穴の口に、小兒のもて遊びの茶釜と、燒ものゝきせると、書きおきやうのもの、一通あり。

「さては。彌、狐にてありけり。」

と、はじめてさとる物から、なほ、哀慕に堪へざりけり。

 かくて、その生れし男子、成長して、また、孫右衞門と稱し、老いて、

「廻國の望あり。」

と、家を出でしが、何地ゆきけん、遂に歸らずなりし。

 そのあたりのもの、後々までも、「狐のおぢい」と呼びしとぞ。

「かの『みね』は、右『きつねのおぢい』が爲には、『ひまご』にや當りぬべし。」

といふ。「みね」媼(ばば)が話に、

「をさなきころ、赤法華村にゆきて、彼[やぶちゃん注:「かの」。]茶がま・きせるなど、見し事、あり。わなみも、狐の血すぢにて、侍り。」

と、こまやかにかたりしを諳記して、こゝにしるしぬ。老媼がむかしがたりなれば、郡村の名さへ詳ならぬもあれば、遣漏、なほ、多かるべし。もし、委しきことをしも得ば、後のまとゐに補ふべし。

  乙酉六月朔      海棠庵主人 識

[やぶちゃん注:元は安倍晴明の古話の変形譚ではあろうが、何か、小泉八雲の「雪女」(リンク先は私の「小泉八雲 雪女  (田部隆次訳)」)を読むような、とても、しみじみとする話ではないか!…………

「わなみ」「我儕・吾儕」。一人称代名詞。対等の者に対して自身を言う語。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代り觀音補遺

 

[やぶちゃん注:これの補遺。冒頭の添書は底本では全体が二字下げ。だらだら続けると面白味が損なわれるので、段落を成形した。]

 

   ○身代り觀音補遺

 四月の「兎圖會」に、翰池翁の錄し給へる「身代觀音」の一條あり。その年月、及、人名等、詳ならざるをもて、

「名どころは、糺すべし。」

と注し給へり。しかるに、「淺草寺志」の中に於て、その記事一篇を得たり。年月旅宿等はしるし給へど、その事、少しく異同あり。參考に補ふべし、といふ。

   「淺草寺志」本文     美成 記

「明石屋甚藏刀難圖之額」

 額に、「文化四年[やぶちゃん注:一八〇七年。]丁卯四月」・「大坂新町住人明石屋甚藏法橋周南 畫」。本堂右の方にあり。

 文化三年、大坂新町の遊女屋明石屋某といふもの、いまだ江戶を一見せざれは、同所のもの二人を打ちつれ關東に下りけるに、いづれも家まづしからねば、

「旅用の財をも、そこばく持ち出でん。」

と欲すれども、長途の事なれば、盜難を恐れ、順禮の姿にやつし、わざと、物などもたぬ體になしけるに、伊勢の桑名のあたりより、あやしきものども、その貯あることを知りつらん、跡になり、先になり、隙をうかゞふ體にて、つひに武州かな川の驛まで來たり。

[やぶちゃん注:現在の横浜駅北直近のこの辺り(グーグル・マップ・データ)。ポイントした「田中屋」は歌川広重の「東海道五十三次」の神奈川宿の台之景に絵に描かれている「さくらや」という茶屋を、幕末の文久三(一八六三)年に田中家初代が買い取って出来た料亭で、坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていたことでも知られる。「田中屋」の公式サイトのこちらをご覧あれ。私は三度ばかり行ったことがある、とても雰囲気のいい老舗である。嘗て、横浜駅のあるところは、この断崖の下の巨大な入り江だったのである。

 明石がとまりたる宿の向に、彼もの共、とまる。

 明石屋は、宿のあるじに向ひて、

「われら、旅中より、あやしきものにつけ𢌞され、千辛萬苦せし。」

かたる時に、むかふのあるじ、周章(アハタヾ)しく、走り來り、

「此うちに順禮のかたちをなしたるもの、とまりつらん。かれらは、大坂より子細有りて出奔せしものなり。わが内にやどせる人、

『これをとらへんが爲、はるばる、これまで下りたり。あすは定めて曉に立つベし。其時に待ちぶせして、からめとらんと思ふなり。その用意あれ。』

と告ぐ。」

 あるじは、すでに明石等が物がたりにて、その盜賊たることをしれるにより、向のあるじにも、委しく是をかたり、

「何れ、穩便に計ふこそ、よけれ。」

とて、明石屋にとはかり[やぶちゃん注:底本に右に『(本ノマヽ)』と傍注する。「に」は衍字か。]、

「幸、三人の知音なれば、深川靈嚴寺中、何某院へ、船にて送りつくべし。」[やぶちゃん注:「つく」は「繼(つ)ぐ」か。]

と相談し、向のあるじは、かの賊をあざむき、

「道にて、捕へ給へ。」

とて、曉に先だち、神奈川をたゝせたり。

 故に、あかし屋はじめ、二人のもの、難なく深川にいたりつきぬ。

 居ること數月にして、江戶をも、略、一見をはりぬれば、すでに深川をうち立たんとするに、明石屋某、常に觀音を信じ、たびたび、淺草寺に詣でけるに、御いとま乞の心にや、

「今一度、參らん。」

と、二人の男をもすゝむるに、彼等は旅の用意にいとまなく、明石屋のみ、詣でけるに、

「いまだ、吉原を見ざれば、一見せん。」

と、立ちより、日本堤を東へかへらんとするに、俄に大雨ふり來て、衣服もしぼる程濡るゝにより、とある人の傘に、しばし雨を凌ぎけるに、かのもの云やう、

「汝も、見しりあらん。我こそ、桑名より跡先になりて來つるものなり。神奈川にてあざむかれたることの口惜しさ、今こそ思ひ知らせんず。」

といふに、明石は、

『めぐりめぐりて、又、かの賊にあふことも、過去の宿業。』

と覺悟して、正に淺草觀音を念じゐけるに、かの賊、腰のものを技きて、一打に切りつける。

 きられて、

「どう」

と倒るゝ迄は、物覺えしが、その後を、知らずなりにけり。

 深川に殘れる二人の男は、明石屋がかへるをまてど、夜半を過ぐるまで、さたなし。

 二人のもの、

「かねて、明石屋がやぶさかなる[やぶちゃん注:吝嗇である。]うへに、遊興などには心なきをとこなれば、よし原ヘいたるとも、今迄かへらぬことやはある、いかさま、變事のいで來たるならん。いで、尋ねばや。」

といふ所に、明石屋、かへり來れり。

「いかに。」

と問ふに、物をもいはで、倒れふしたり。

 人々、打ちより、

「何ゆゑなるか。」

と、立ち騷ぐ程に、夜明けて、あかし屋、起きあがり、茫然たる體にて、

「こゝは。いづくぞ。我こそ、日本堤にて、賊にきられつるものを。」

と、膚を見るに、疵だに、なし。たゞ、懷にしたる金のみ、うばゝれたり。

「まことに、大慈大悲の我身に代りて、刄をうけ給ひしふしぎさよ。」

と、信心、いやまし、三人ともに事故なく歸國し、彼刀難にあひし時のありさまに、覺えたるまゝを畫にしたゝめ、寶前へ、そなへたりとなん。

芥川龍之介書簡抄144 / 昭和二(一九二七)年四月(全) 五通

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・吉田泰司宛

 

冠省、あらゆる「河童」の批評の中にあなたの批評だけ僕を動かしました。あなたは僕を知らないだけにこれは僕には本望です。河童はあらゆるものに對する、――就中僕自身に對するデグウから生まれました。あらゆる「河童」の批評は「明るい機智」を云々してゐます。恰も一層僕自身を不快にさせる爲のやうに。右突然ながら排悶の爲に。(御禮の爲と云ふよりも) 頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   吉田泰司樣

 

[やぶちゃん注:「吉田泰司」(生没年未詳)筑摩全集類聚版脚注に、『白樺系統の批評家。この』「河童」の『批評は倉田百三』が大正一五(一九二六)年に創刊した雑誌『「生活者」に出る』とある(当該雑誌のこの年の四月号所収)。岩波新全集の「人名解説索引」によれば、彼は大正八(一九一九)年に『片山敏彦らと同人誌「青空」を創刊』し、『のち「白樺」「高原」などに寄稿している』とある。

「デグウ」dégout。フランス語で「嫌悪・不快感」。]

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・稻垣足穗宛

 

高著をありがたう、文壇はあなたのやうな fancy の所有主に冷淡です。しかし fancy それ自身に價値のあるのは勿論です。書けるまでどんどんお書きなさい。僕などはもう fancy に見すてられた方です。しかし今牛乳をのんでゐると、第三半球がぼんやり浮かんで來ました。頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   稻垣足穗樣

二伸ゆうべまで鵠沼にゐた爲に御禮が遲れました。

 

[やぶちゃん注:「稻垣足穗」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は小説家。大阪出身で関西学院普通部卒。佐藤春夫の知遇を得て、大正一二(一九二三)年に「一千一秒物語」を発表。器械・天体などを題材に反リアリズムの小宇宙を構成した作品を発表、奇才と称された。戦後、小説「弥勒」やエッセイ「A感覚とV感覚」を発表。昭和四四(一九六九)年に随筆集「少年愛の美学」でタルホ・ブームを起こした。私は「一千一秒物語」・「A感覚とV感覚」・「少年愛の美学」を読んだが、どれも生理的に受けつけられなかった。

「高著」最後の部分から、この年の三月に金星堂から刊行した「第三半球物語」であろう。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月四日・田端発信・芥川文宛(葉書)

 

多加志熱を出したよし、石川さんから聞いた。こちらも義敏熱を出し(インフルエンザ)ねてゐる。

多加志はすつかりなほるまでそちらに置いた方がよいかも知れない。六日或は七日に種やをやる筈。お母さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の四月四日の条に、『鵠沼の塚本家に滞在中の文から、多加志が熱を出したことを知らされ、見舞い状を送る』というのがこれ。

「石川さん」一九九四年岩波書店刊の宮坂覺編著「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」を見るに、石川太一・石川暁星なる人物であるが、人物は不詳。

「種やをやる」意味不明。何かの植物の種を自宅の庭に蒔くということか。或いは、文にのみ判る符牒か? しかし、この四月七日には芥川龍之介は大変な事件を起こしている(時日は未確定ともされる)。新全集宮坂年譜から前後を引く。

   *

四月五日 『夜、ウィスキーを手土産に持って久保田万太郎を訪ね、一緒に飲む。この時、傘の絵と句を書き残した』。現在、絵・俳句ともに自筆の傘の絵というのは、私の知る限りでは、三種が存在する。データが不足しているために、ここに出るのがそれらのどれかであるか、或いは別なものかは判らない。但し、それらに共通する添え句は、

 時雨るゝ堀江の茶屋に客ひとり

の龍之介の句であるから、まず、これもそれと同じようなものと考えて差し支えあるまい。

四月六日 午後二時頃、『下島勲が初めて甥の連(むらじ)(のち養子に迎える)を連れて来訪する。下島には、英語の聖書を読むことを勧めた。夕方、下島とともに室生犀星を訪ねる。この時、犀星の机上にあった書簡箋をとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とある。

四月七日 『「歯車」の最終稿「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻簾素子と心中することを計画していたとされる』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照されたい)。『但し、平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられる』。『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる。この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』した。

四月八日 『文が、比呂志の小学校の始業式に出席した後、帝国ホテルを訪ねる。この日、柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で平松麻素子、柳原と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが』、彼女は行かなかった。

   *

この柳原白蓮との一件は、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「柳原白蓮の回想」に柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」が引かれてあるので、引用部を転載する。歌人柳原白蓮は延長ギリギリ前でパブリック・ドメインである。最後の句点のみ私が打った。

   *

自殺をなさる一寸前の事、私の可愛がつてゐた人で芥川さんと大変親しくしていた人があつたのだが、その人からの突然の連絡で芥川さんが心中を迫つてゐるとの事、私はとるものもとりあえずその時丁度頂いたばかりの印税があつたので、それをそつくりもつてかけつけた。龍之介さんはどうしても死ぬといふ。私は死ぬ事は悪い事だといふ。たうとう議論になつた。そして私はおしまひには、これ程云つてもやはりわかつてもらヘなければ勝手に死ぬがいい。しかしこの人は私にとつて大事な人だから一緒に死んではいやだ、死ぬなら一人で死んでといつて泣き出してしまつた。するとどうでせう。その時まで大変深刻だつた龍之介さんは突然上機嫌になり、あなたのやうな正直な人はみたことないと云ふ。そして一緒に御飯を食べようと云ひ出した。それから星ケ丘茶寮に三人で出掛けた。興奮からさめた私は御飯を頂きながら、又死ぬ事のいけないことを説いた。そして、たとへどのやうな状態であつても、何処であつても、生きている事は死んでしまつたよりいいから、二人が本当に愛し合つてゐるのなら、一緒に支那へお行きなさい、お金は持つて来たし、あなたはとつても支那が気に人つてゐるやうだからといふやうな事を云つた。するとお金なら自分もあるからいいと云ふ。やがてその人と二人きりで話したいと云ふので私は帰つて来た。おもへばそれが龍之介さんにお目にかかつた最後でもあつたのだ。

   *]

 

 

昭和二(一九二七)年四月十日・田端発信・飯田蛇笏宛

 

冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―― niru と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、

   「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」

御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、

   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」

人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首

    四月十日       芥川龍之介

   散田蛇笏樣

 

[やぶちゃん注:この書簡はサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で既に電子化している。内容は大正十五(一九二六)年十二月二十五日新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められた芥川龍之介の発句群への、『雲母』誌上での蛇笏評に対する消息文である。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、この蛇笏の批評は、『飯田蛇笏「虚子、竜之介、幹彦、三氏の俳句近業」(『雲母』一九二七年三月号)』で、『蛇笏は、「俳人以外の人々」の中で、芥川の句境は久保田万太郎以上、「まさに群を抜くもの」と評価した』とある。

 なお、前のリンク先で前記の心中未遂の話を引いて注している私の見解は、現在の私は大きな修正をしている。ここでは、それについて書いた私のブログ記事、『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』をリンクさせるに留める。

「蝶の舌の句」同前の石割氏の注に、『『ホトトギス』「雜詠」欄(一九一八年八月号)では「鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」』となっており、『『梅・馬・鶯』では「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」』としたのを、『蛇笏はこの改作は「却つて失敗」とし、感受性に「緊張」が欠けたとみる』と注されておられる。それぞれの句の正規表現(「鉄条」は私には生理的にダメである)は、後者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を、前者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を「蝶」で検索されたい。私は蛇笏の見解に賛同する。龍之介の決定稿は整序され過ぎて、新傾向俳句の底に沈んでもおかしくない技巧に過ぎたものである。

「かげろふや棟も落ちたる」同前の石割氏の注に、『「近詠」(『驢馬』一九二六年六月号)では「陽炎や棟も落ちたる茅の屋根」。『梅・馬・鶯』では「かげろふや」』とある。同前の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で確認されたい。「鵠沼」の前書を持つ

「久保田君、句集を出す」久保田万太郎の句集「道芝」(昭和二年五月二十日俳書堂號友堂刊)。

「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」同前の句集「道芝」の序の掉尾に置かれた芥川龍之介の発句であるが、この『「道芝」の序』は事前に昭和二年五月一日発行の『文藝春秋』で初出されており、後に同句集に収録されたものである。但し、表記が異なり、

 冴え返る隣の屋根や夜半の雨

が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月二十五日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省藏六刻の印二顆、小生よりけん上せしも應の一寸お貸し下され度、なほ又肉池もお借し下され候はゞ幸甚 頓首

    二十五日       龍 之 介

   犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:「藏六」浜村蔵六。江戸中期から明治時代にかけて五代に亙って篆刻家として活躍した浜村家が名乗った名跡。蔵六とは「亀」の異名とされ、初世が亀鈕(きちゅう:亀の形をした印の持ち手)の銅印を所蔵していたことから号としたとされる。当該ウィキにある、四世浜村蔵六(文政九(一八二六)年~明治二八(一八九五)年:備前岡山の人。正本氏、後に塩見氏を名乗った。名は観侯)か、五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四二(一九〇九)年:津軽の人。三谷氏、名は裕)の孰れかであろうか。

 なお、新全集年譜によれば、この前の四月十六日の条に、『菊池寛に宛てて遺書を書く。小穴隆一宛の遺書を書いたのも、この頃と思われる』とある。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州南部癸卯の荒饑

 

[やぶちゃん注:「癸卯」(みづのとう/きぼう)は後に出る通り、天明三(一七八三)年。「荒饑」は「くわうき(こうき)」で「荒飢」と同じく、作物が実らず、食物の乏しいこと。饑荒・饑饉のことで、所謂、「天明の大飢饉」のことである。私の最近の仕儀である「譚海 卷之四 天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」の詳しい注を見られたいが、これは「享保の飢饉」・「天保の飢饉」と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つで、九年の長きに亙って連年で発生した未曽有のもので、中でもここに語られる天明三(一七八三)年と、後の天明六年の惨状が甚だしかった。しかも東北地方のそれは想像を絶し、陸奥辺境部各地では人肉相い食(は)む凄惨な話が伝えられていることでも知られるが、以下の条にもその実例が記されてある。この井筒屋三郎兵衛の書状は、凄絶にして正確無比な文章で、しかも非常に知的な優れた文章でもある。

 

    ○奧州南部癸卯の荒饑

古にいへらく、「食者天下之本也。黃金萬貫不ㇾ可ㇾ療ㇾ飢。白玉千箱何能救ㇾ命。」。いでや、今のおほ御代は、しも、何事も足らぬことなく、凶年・餓饉などいふことは、嘗てあらず。いにしへより、凶年のためし、少からねど、近き年のうゑたるは、人々も、よくしりてあれば、常に昔語にのみ聞きなしたる、此大江戶のことにこそあれ、遠鄕僻地は、いかばかりなりけん、只、推しはからるゝばかりなるを、この比、友人のもとより、その比、陸奥より、ことのさま、つばらかに、いひおこしたる書狀、壱通を示されき。彼あたりは、ことに甚しきよし、ほの聞えたれど、思ふにましたることのみにて、今のおほ御代に思ひくらべては、いとおそろしく、魂も消ゆるこゝちす。されば、かけまくも、かしこきことながら、國家盛德のおほんめぐみの有りがたきをも、更に思ひしらるゝわざなりけり。かつは、時ならぬ氣候もあらば、此後も、その意、得べきことならんかしと、思ふからに、錄して、後葉に傳へまほしくこそ。

  文政乙酉六月朔      山崎美成識

[やぶちゃん注:「食者天下之本也。黃金萬貫不ㇾ可ㇾ療ㇾ飢。白玉千箱何能救ㇾ命。」訓読してみる。

 食は天下の本(もと)なり。黃金萬貫、飢えを療(いや)すべからず、白玉千箱、何ぞ能く命を救はん。

でよかろうかい。]

天明三年癸卯十一月十一日、奧州三戶郡南部内藏頭殿領分、八戶の惠比須屋善六より、本店江戶田所町かど、井筒屋三郞兵衞へ遺しゝ書狀、左の如し。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。但し、物品項目の頭の「一」群を除いて、条文頭の「一」は一字頭抜けている。それを項目「一」と区別するために「一、」とした。ただ、次の頭は「一筆」で、二字下げ位置から始まるのであって注意されたい。]

一筆啓上仕候。甚寒御座候得共、先以其御地御揃、益御勇健可被成御座珍重奉存候。拙者共無異罷在候。乍慰外御安意可被下候。

一、追々御承知可被遊、當地凶作前代未聞御座候。全體去冬寒中甚暖に而如夏、霜月比より氷候へ共、寒に入、悉く解、平生三四月頃の季候に等しく、夫より年明正月に成、少々寒く候得共、例年よりは格別暖に御座候。二月三日迄不寒、四月頃より卯辰(ヤキ)[やぶちゃん注:東南東。読みは意味不明。]風、北風計に而、寒中如極寒雨降、四月中に雨不降日漸々七日御座候。夫も薄曇東風に而霧多、晴天は一日も無御座候。五月も同斷に而朔日より降初、五月中不降日漸々六日、六月中も五日程も右之如く快晴は無之、七月には四日、八月には六日、右之通不天氣に候得共、當春より麥作之景氣至而宜、近年に不覺作合に相見え候間、諸人甚大悅罷在候處、苅頃に成右之雨續候故熟し兼、存之外日數おくれ苅取候處、一圓實成無御座、諸民大困窮仕候。然共稻作・大豆・小豆・豆・稗等は例年に勝候作合宜相見え申候間、「秋作者十分に可有之」と素人の拙者共は不申及、老農老圃年來の功者共、「當秋は豐作無相違」由申居候故、右之季候も左而已驚不申罷在候處、次第に不順に相成、春一度花咲候藤・山吹之類など、六、七月頃[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では同年の同旧暦月はほぼ七~八月相当。]山々春の如く花咲、九輪草[やぶちゃん注:サクラソウ目サクラソウ科サクラソウ属クリンソウ Primula japonica 。]・唐葵[やぶちゃん注:アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea の古名。]抔は春より霜月まで四度も五度も花咲、夏菊十一月下旬[やぶちゃん注:同前で十一月末日三十日は十二月二十三日。]まで盛り、九月十月中旬に竹の子生じ、九月下旬[やぶちゃん注:同前で十月中旬相当。]に蟬なきやまず、種々の季候違に御座候。稻作は七月下旬に至り候而も出穗無之、たまさか穗出候而も、葉の内へかくれ花もかゝり不申、穗出るは百分一、其外一圓に穗出不申候。右之次第に御座候間、一粒も實入無御座候、大豆・小豆・粟・稗・蕎麥等は、八月十三日之夜大に霜降り、是に當り種なしに罷成、誠に古今未曾有之大凶作、元來三四年以來打續半作に不滿、飢饉に御座候處、當夏麥不作、其上秋作皆無に御座候間、諸穀物一向無之、相場は市每に引上ゲ、當時相場左之通り、

[やぶちゃん注:以下の物品項目は底本では二段組だが、一段に変えた。ズレが生ずるので読みはここのみ半角にした。]

一玄米  壱升に付 弐百五拾文

一こぬか 同    五拾文

一大豆  同    百五拾文

一搗粟  同    弐百三拾文

一蕎麥  同    百廿文

一豆腐粕 同    廿五文

一片春(ツキ)麥 同  二百文

一フスマ 同    六拾文

一粗稗(アラヒエ) 同  百 文

一兩替六貫三百文

右之通何品によらず、食物に相成候類、過分之直段に御座候間、食物在々に無御座、蕨・野花(トコロ)[やぶちゃん注:恐らくは単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属オニドコロ Dioscorea tokoro であろう。苦味が強く、一般には食わないが、古くよりアク抜きして焼いたり茹でたりして食用にしたとされる。]、葛等を掘り食事仕候。夫も幾千百人と申限りなき事に御座候間、さしもの大山も忽に掘盡し申候間、葛・蕨の粕、あもそゝめ[やぶちゃん注:底本には編者によってママ注記がある。後の記載で明らかになるが正しくは「あも」の「ささめ」である。]など申もの計、食事に仕候に付、右之毒に中り、五體腫れ、大小便不出して、忽に相果候者數知れ不申候。當九月頃乞食共、犬・猫・猿等を食事に仕候事承り候間、肝を潰し候處、去月頃より犬・猫は不及申、牛馬を打殺食事に仕候。非人・乞食等は、眼前、犬・猫をとらへ、鹽も付ず喰候體、誠に鬼共可申哉おそろしとも何とも可申樣無御座候。夫に付在々は押込强盜夥敷起り、家出[やぶちゃん注:家人を「家より出だして」か。]不殘しばり置、穀物は不及申家財奪取、其上家を燒、立退候事數多く、如此之事中々書盡しがたく候。依之每日捕手見分之役人衆、隙なく相𢌞り候へども、中々手に合不申候。

一、只今、難澁の者共食事には、

[やぶちゃん注:以下は三段組みだが、一段に変えた。「香煎」とはここでは煎り焦がしたものの意。]

一あも香煎【是は、「わらび」の屑をたゝきさらし、粉を取申候かすを「ササメ」といふ。細成るを「アモ」といふよし。】[やぶちゃん注:美成の割注であろう。]

一松皮香煎

一同餠

一藁採香煎

一豆から香煎

一犬たで香煎

一あざみの葉

右之類、專食物に仕候。扨餓死之者、唯今國中半分餘と相見え申候間、來正月より三四月迄之内、如何樣に成可申哉難計奉存候。乞食・非人往來如市、そのありさま、元來、世並宜敷砌、伊勢・熊野抔へ參詣仕候に、路用澤山所持仕候而も、南部案山子(カヽシ)と出立に御座候。まして況、此節の體、譬可申者無御座候。顏色憔悴(カジケ)、髮、亂れ、眼、星のごとく、色、靑く、つかれ衰へ、頰骨、高く、口、尖り、手足、※如く[やぶちゃん注:「※」=(へん:上「正」+下「ノ」の接合)+(つくり)「片」。底本右に『(本ノマヽ)』とあり、これは原本の傍注か。意味不明。]、からだ、赤裸に菰をまとひし有樣、何と申候而も更に人間とは見え不申候、右故に店々も相しめ、戶・蔀など指堅め居候。戶口開置候へば、非人共無體に押入、食事をあたへ不申内は更に立退不申候故、無據、白晝に門戶を閉申事御座候者、戶口より用事を達し、志に有之旅行抔仕候節は、家内中立わたり世話仕候へ共、我勝に前後を爭ひ泣さけび、老弱の者の貰候食物を奪ひ取、なきさけびし聲、身にしみ胸に答申候、互に食を奪ひ合、溝へ落入半死半生之者數多、叫喚・八寒・紅蓮のくるしみ、食を奪合打合つかみ合、互に疵を得候體、修羅道の有樣目前に御座候。火事は一夜に二ケ處三ケ處より出來、燒死する者數多、焦熱・大焦熱の炎に入、煙にむせび、牛馬鷄犬之燒亡夥敷御座候。世尊滅後二千八百年、彌勒の出生迄は餘程間も有之樣に承り候處、今その期來候哉と心細く、少も安心無御座候。依て御上樣にも、何卒飢渴之者御救ひ被遊度思召候へ共、近年打續不熟損毛[やぶちゃん注:損失を受けること。損亡。]に付、御貯も悉く盡候故、不被任思召御心遣被爲痛候へども[やぶちゃん注:ちょっと読み難い。「思し召しに任されず、御心遣ひ爲され、痛み候へども」か。「普段ならば、お考えになられる必要がないこと(下々の日常生活のこと)であるにも拘わらず、お心遣いを戴き、痛み入る思いにては御座いますが」の謂いか。]、更に其無甲斐殘念に被思召、乞食・非人へ御施行被遊候ても、大海之一滴、中々相屆不申、氣之毒千萬に奉存候。

一、捨牛馬は御割札第一之御法度に御座候へ共、此節悉捨申候。右之牛馬を乞食共引參り、皮をはぎ、鹿と[やぶちゃん注:「しかと」しっかりと。]申候而賣候を、馬と存ながら價の下直に任せ、馬肉を買ひ、能鹿と申候。直段平生のおつとせい抔の如く、目方にて賣買致し、鹿に不限、何品にても食物に相成候品、總て魚等の直段に御座候。

一、御城下端に近在遠在之子共を、悉く、海川へ投込申候者、數不知、右之樣子承り候に、哀、之品は數々御座候へ共、皆凶作之なすわざに御座候。其内、しに樣にも、色々、いさぎよきも、未練なるも有。又は名を惜み候者は、猶又深林の中へゆき候てくびれ、或は淵川へ行き、石をいだき沈み申候は數多難計奉存候。然共、子、被捨候者は、澤山御座候得共、親を捨候ものは于今[やぶちゃん注:「いまだもつて」と訓じておく。]不承候。尤殊勝之事に御座候。

一、去月末より、別て火事多く、每日每夜、五ケ所、六ケ所より出來、燒取に仕候。或は、五十人、七十人、徒黨を結び、在々へ押込、理不盡に働仕、家財穀物奪取候由、所々より每日承り候。扨々、一日片時も安心無御座候。

一、此間も承り候得者、定家卿の御短尺・古筆、目利所[やぶちゃん注:「めききどころ」。]にて極め相添、米五升に取替申候由、大坂御陣に高名仕候「正宗の刀」を、稗壱斗と取替申候よし。箇樣之時節なり。餘は御推量可被下候。

一、仙臺領・津輕領・盛岡御領、共に皆無にて候内、尤盛岡御領には少々も實入有之候哉有之候由[やぶちゃん注:底本に『(本ノマヽ)』とある。やはり原本の傍注であろう。衍文と思われる。]、是迚も、種分も無御座候由、譬、種之分御座候ても、種に相成候樣に實入無御座候。然者生殘り明年仕付申候節、右種物も無御座候て、何を以仕付可申哉千萬無心元候[やぶちゃん注:「こころもとなくさふらふ」。]。

一、古來稀成義は、非人共、犬・猫・牛・馬を喰候は、世に不思議に存候處、死掛り候人之肉を切はなし、格別うまき味なるよし申候。言語道斷かゝる時節にあひ申候事、いか成事に御座候哉と奉存候。乍然箇樣之儀不存候はゝ、生涯佛も御經もうはの空にて、至敬の信心も有間敷奉存候處、六道四生之有樣、凡俗之身にて目前に見申候事こそ難有奉存候。乍去知りぬる佛見ぬる花とも申候。何卒無難に明年をむかへ、豐作を祈り申候外他事無御座候。總體當地之事、中々難盡筆紙、實に九牛が一毛に御座候。猶追使萬々可申上候。恐惶謹言。

 卯十一月十一日     惠比須屋 善 六

    井隨鼠三郞兵衞樣

        平兵衞樣

        傳兵衞樣

2021/09/16

芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・芥川文宛

 

拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首

    三月朔        龍 之 介

   文 子 ど の

二伸 比呂志に西洋象棋を買つてやつた

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜の三月一日の条に、『谷崎潤一郎、佐藤春夫両夫妻とともに弁天座で文楽を観る』。『夜、佐藤夫妻は帰京する』が、『谷崎と二人で南地の茶屋で文学論などをしていると、内儀の紹介で』芥川龍之介のファンであった『根津松子が訪ねてくる。松子は、この時初めて谷崎と会い、二人はのちに結婚することとなった』とある。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム、自死の翌月に出た『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に載った、谷崎潤一郎追悼文「いたましき人」のからの抜粋があるので孫引きさせて貰う(略指示は鷺氏のもの)。『最後に会つたのは此の三月かに改造社の講演で大阪へ来た時であつた。(略)で、講演の夜は久しぶりで佐藤と一緒に私の家へ泊まり、翌々日は君と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で弁天座の人形芝居を見、その夜佐藤が帰つてからも君は大阪の宿に居残つて、『どうです、今夜は僕の宿に泊まつて一と晩話して行かないですか』と、なつかしさうに私を引き止めるのであつた。いつたい此れまで私などに対しては、あたたかい情愛も示さないではなかつたけれど、どちらかと云へば理智的な態度を取つてゐた人で、その晩のやうにひどく感傷的に人なつツこい素振りを見せるのは珍らしいことだつた。然るに君は人生のこと、文学のこと、友達のこと、江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出して、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、『自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ』と云ひ、『僕は此の頃精神上のマゾヒストになつてゐてね、誰か先輩のやうな人からウンと自分の悪い所をコキ卸してもらひたいんですよ』と云ひながら、その眼底には涙をさへ宿してゐた。 (略)君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちやうど根津さんの奥さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと言ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを簸[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「嵌」(は)の誤字或いは誤植。]めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた』とある。鷺氏の年譜では、この三月二日、三人でダンス・ホールへ行ったが、龍之介は『踊らず、二人の踊るのを見ているだけであった』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・葛卷義敏宛

 

冠省一度やつたものをとり上げ、まことにすまぬが、森さんの卽興詩人二册を小包にし谷崎氏へ送つてくれないか。宿所は文藝日記の末にあるべし。右當用のみ。小穴君によろしく。頓首

    三月朔        芥   川

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:「森さんの卽興詩人」デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)が一八三五年に発表した小説(Improvisatoren )を森鷗外が擬古文訳したもの。「原作以上の翻訳」と評され、鴎外は本作のドイツ語訳を読み、「わが座右を離れざる書」として愛惜しており、ドイツ留学から帰国後、軍務の傍ら、丹精を込めて明治二十五年から三十四年(一八九二年から一九〇一年)の凡そ十年かけてドイツ語版から重訳し、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ここに出るのは初刊版「即興詩人」で、明治三五(一九〇二)年に春陽堂(上・下二巻)で刊行されたものであろう。筑摩全集類聚版脚注に、『文藝春秋』昭和二年九月号からとして、谷崎潤一郎が『死ぬと覚悟をきめて見ればさすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを』と述懐している旨の記載がある。後掲の谷崎書簡も参照されたい。

「文藝日記」昭和二年版「文藝自由日記」(文藝春秋社出版部・大正十五年十一月)というのがあり、ここには近年の流行作家の日記や日録が載っていたコラムとしていようである。今では考えられないプライバシー侵害だ。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・齋藤茂吉宛

 

冠省岡さんより御手紙有之小生にも「庭苔」に就いて何か書けと仰せられ候まゝ二三枚相したゝめ御手もとまでさし上げ候なほ又下阪前短尺二三枚お送り申上候も御落手の事と存候右とりあへず當用のみ 頓首

    三月二日       龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「岡さん」「庭苔」前月分で既出既注

「二三枚相したゝめ」『「庭苔」讀後』。昭和二年四月発行の『アララギ』に発表された。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月六日・田端発信・靑野季吉宛

 

原稿用紙で御竟下さい。「新潮」の合評會の記事を讀み、ちよつとこの手紙を書く氣になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦樂」でも善いと言ひました。しかし「苦樂」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ觸れさせたい氣もちを持つてゐました。(最後の一囘以外が悉く山房内に起つてゐるのはその爲です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り、「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑聲を與へることは出來ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶錄」の中にあるマルクスやエングルスと會つた時の記事の中に多少の嘆聲を洩らしてゐます。わたしはわたしの大學生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企圖は失敗だつたかも知れません。少くとも合評會の諸君には尊臺を除き、何の暗示も與へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊臺にはこれだけのことを申上げたい氣を生じましたから、この手紙を認めることにしました。なほ又わたしはブルヂヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歎喜を除けば、多大の苦痛を與へるものと思つてゐます。これは近頃 Nicolas Ségur の書いた「アナトオル・フランスとの對話」を讀み、一層その感を深くしました。ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに驅りやつたものは「輕侮に近い憐憫」だと言つてゐます。右突然手紙をさし上げた失禮を赦して頂ければ幸甚です。頓首

    昭和二年三月六日   芥川龍之介

   靑 野 季 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「靑野季吉」明治二三(一八九〇)年~昭和三六(一九六三)年]は文芸評論家。新潟県佐渡生まれ。佐渡中学時代、幸徳秋水らの著作を通して社会主義思想に傾いた。早稲田大学英文科卒業後、大正一一(一九二二)年に評論「心霊の滅亡」を書き、本格的に評論活動を展開、後、『種蒔く人』・『文芸戦線』の同人となり、プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。ことに『「調べた」芸術』(大正一四(一九二五)年)と「自然生長と目的意識」(大正一五(一九二六)年)の二論文は、プロレタリア文学とマルクス主義運動との相関や創作上の問題などに指標を与え、初期プロレタリア文学に多大な影響を与えた。昭和一三(一九三八)年の「人民戦線事件」による検挙を機に転向した。戦後は「日本ペンクラブ」の再建や、「日本文芸家協会」会長に就任するなど、幅広い進歩的良識派として活躍した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「「新潮」の合評會の記事」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年三月号所掲。芥川の「玄鶴山房」が批評された』とある。私は草稿附きの「玄鶴山房」を公開しているが、ここでは、その最終章「六」の末尾に「リイプクネヒト」を出した意図を龍之介自身が語っている重要な書簡である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の橋浦洋志氏の本作の解説によれば、同合評会で、『「六」における「リープクネヒト」の登場の意味が問われ、中村武羅夫は「芥川氏の一種の心境」をそこに認めつつも「作品全体をそのために書いてゐるとはいえない」としたが、青野季吉は「リープクネヒトを持つて来たのは何かある」と述べた』とあり、この好意的な発言に対して以上の書簡が書かれたのである。

「リイプクネヒト」ドイツ社会民主党の指導者ウィルヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht 一八二六年~一九〇〇年)ギーセン生まれで、同地やベルリンなどの大学で哲学・言語学を学んだが、社会主義やポーランド独立に関心を持ったために放校された。 一八四八年の「三月革命」に参加し、スイスを経て、一八六二年までロンドンに亡命した。その間、マルクスやエンゲルスと交際し、影響を受けた。帰国後、反ビスマルク運動でプロシアを追放され(一八六五年)、ライプチヒに移り住み、社会主義運動に尽力、一八六七年から一八七〇年までプロシア下院議員、一八六九年にはアイゼナハで「社会民主労働党」を創立した。「普仏戦争」では軍事予算採択に棄権、「アルザス=ロレーヌ併合」に反対し、投獄された (一八七二年~一八七四年)。 一八七五年には、ゴータで、マルクスの批判を無視してラサール派と合同し、「ドイツ社会主義労働党」を結成、一八七四年より没するまでドイツ帝国議会議員を務めた。その間、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」に対する反対運動を指導し、同法を無効にさせた。同法廃止(一八九〇年)後、合法政党として改名した「ドイツ社会民主党」の中央機関誌『前進』の主筆を務め、修正主義派と対決した。主著に「カール=マルクス追想録」(一八九六年)などがある。後のドイツの左派社会主義運動の指導者で、ポーランド及びドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 一八七〇年~一九一九年)とともにベルリンで虐殺されたカール・リープクネヒト(Karl Liebknecht 一八七一年~一九一九年)は彼の子である。なお、現在の芥川龍之介研究では、このコーダで重要な登場人物重吉が読んでいるのは、上記「追想録」であるとされている。

「苦樂」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『プラトン社から』大正一三(一九二四)『年一一月に創刊された雑誌。中間小説、随筆を主に掲載した』とあり、龍之介の言う「或人」はプロレタリア文学家・劇作家で、後の日本社会党参議院議員となった金子洋文(ようぶん 明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九八五)年)で、『「「リープクネヒト」でも「苦楽」でも同じ」と評した』(出典不詳。龍之介の言い方からは前記合評会ではなく、別な批評と推定される)とある。

『「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます』アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Анто́н Па́влович Че́хов/ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)晩年の名作戯曲(Вишнёвый сад :一九〇三年秋決定稿・初演一九〇四年一月モスクワ芸術座)の第三幕の中間部で、「永遠の学生」トロフィーモフが無様に階段から転げ落ちるシーンが、舞台外の落ちる音で示される。

『Nicolas Ségurの書いた「アナトオル・フランスとの對話」』ギリシャ生まれでフランスで活動し、アナトール・フランスと親しかった批評家ニコラ・セギュール(一八七四年~一九四四年)の随想録‘Conversations avec Anatole France ou les melancolies de l'intelligence ’(アナトール・フランスとの対話:知性の愁い)前掲書で石割氏は、この前年の『一九二六年、Lewes May による英訳本が刊行され』ていた、とある。ジェームス・ルイス・メイ(James Lewis May  一八七三年~一九六一年)は作家・翻訳者・出版者。

  なお、子の日の翌日三月七日に、秀作「誘惑――或シナリオ――」を脱稿している。リンク先は私の詳細注附きサイト版。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月十一日・田端発信・谷崎潤一郞宛

 

冠省、先日來いろいろ御厄介に相成りありがたく存じます。どうも御迷惑をかけすぎたやうな氣がして恐縮です。本は御氣に入れば幸甚です。實は善いゴヤを見つけ、さし上げようと思つたのですが、金がなくてあきらめました。Los Caprichos の複製です。唯今大いに筋のあるシナリオを製造中 頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   谷 崎 潤 一 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「本」前掲の森鷗外訳の「即興詩人」。

「Los Caprichos」スペインの巨匠フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の版画集で「気まぐれ」。一七九九年に第一版が刊行された。私も非常に好きなダークでグロテスクなブラック・ユーモアの作品群であるが、今でこそゴヤの代表作とされるものの、刊行当時は殆んど注目されなかった。英語版ウィキの「Los caprichos で全八十枚の画像が見られる。

「筋のあるシナリオ」日付から、三月十四日脱稿の私の偏愛する「淺草公園――或シナリオ――」。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に存じ候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故[やぶちゃん注:「餘り」に「傍」(はた)が、「齒痒」(はがゆ)「き故」(ゆゑ)。「余りに先生を取り巻く周囲の人々の反応が鈍くてじれったくてたまらないものですから」の意。何を指して言っているものかは不詳。芥川龍之介が、この直近で直接に茂吉に係わる公開記事を書いた形跡はない。この前に茂吉宛に送られた書簡があったものとすれば、腑には落ちるのだが。]、ペンを及ぼし候次第、高況を得れば[やぶちゃん注:「相応なる御共感をお感じ戴けるものならば」の意。同前。]幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙擊したる和田久太郞君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢ひにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冱え返る枝もふるへて猿すべり

    三月二十八日     龍 之 介

   齋 藤 樣

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では『鵠沼から』とあるが、「今日は午後より鵠沼へ參る筈」という言い方から、田端で書信は認め、藤沢辺りで投函したものかと思われる。されば、標題は以上のようにした。この前後を新全集年譜を参考にして示しておく。

三月十七日 仕事場にしていた帝国ホテルから帰宅した(何時から滞在していたかは不明)。

三月二十日(日曜日) 外出し、そのままこの日は外泊して翌日田端に帰っている(外泊先不詳。怪しい。小町園の可能性は有るだろう)。

三月二十三日 「齒車」(リンク先は私の草稿附きサイト版)の「一 レエン・コオト」脱稿(これのみが昭和二(一九二七)年六月一日発行の雑誌『大調和』に「齒車」の題で「一 レエン・コオト」として掲載された。全章は、芥川龍之介の死後、同年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』にこの「一」も再録して、全六章が改めて「齒車」の題で掲載された)。

三月二十七日(日曜日) 「齒車」の「二 復讐」を脱稿。

三月二十八日(当書簡当日) 借家の整理もあって、鵠沼に出かけ、翌四月二日まで六日まで滞在した。これを以って芥川龍之介は鵠沼を引き上げている。この日、「齒車」の「三 夜」及び「たね子の憂鬱」(こちらは五月一日発行の『新潮』に発表)を脱稿。

三月二十九日 「齒車」の「四 まだ?」を脱稿。

三月三十日 「齒車」の「五 赤光」((しやくくわう(しゃっこう))を脱稿。三月末に宮坂年譜には、『この頃、岡本かの子と』、『偶然』、『列車で同乗になる。近くにいた子供に「オバケ』!」『と言われた』とある。これは、岡本かの子の小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文學界』初出)の最後の方に出現するものだが、私は同小説は相当に創作された部分が多く、一次資料とするには頗る信用性が低いと考えている(青空文庫のこちらで新字新仮名で読める)。但し、確かに、そこに描かれた瘦せ枯れて妖気さえ放っている感じは、この晩年の鵠沼時代の龍之介のそれと酷似しては、いる。

『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』芥川龍之介の書簡の中では、「河童」への強い自信(但し、「この程度のものなら、幾らでも製造出来るぜ!」という芥川龍之介自身がずっと以前に自戒したところの悪しき自動作用的な安易さも大いに私は感じるのである)の見える一つとして、しばしば引かれるものである。しかし、それに反した『みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候』という後の一節が、これまた、真逆の病的なまでの自信喪失の表明とも言える、龍之介の心内のアンビバンンツなものを図らずも表出させてもいるのである。

「一休禪師は朦々三十年と申し候へども」は「一休話」の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の一節を指して言っているものと思われる。

   *

 朦々然而三十年

 淡々然而三十年

 朦々淡々六十年

 末後脫糞捧梵天

  朦々然として三十年

  淡々然として三十年

  朦々淡々 六十年

  末期の脫糞 梵天に捧ぐ

   *

「朦々」とは、この場合、「心がぼんやりとすること」で、「迷いに迷って」の意。「淡々」は悟りの境地を指している。但し、あまりに一休然とした破格の詩句は逆に似非物のようにも感じられる。この部分は、「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)」でも引いている。

「この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり」「又」とあり、齋藤にこの症状を、一度、話していることが判る。この異様な視覚障害が「齒車」という作品名の由来であり、龍之介自身がこの書簡で述べているように、彼自身、それが重篤な精神疾患(龍之介が最も恐れていた実母から遺伝していると誤認していた「発狂」の素質)の初期症状かと怯え、素人の読者もそこに彼の異常を読む方が甚だ多いのだが、これはとっくの昔に、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状であることが解明されている。龍之介と同様にこの「齒車を誤解していたのが、宇野浩二で「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」にそれが出てくる。そこでも注したが、より詳しくは、『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』の私の『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』の注がよいだろう。にしても、それを、眼科医に相談し、何ら気にすることはないと助言してやるべきであったのは齋藤茂吉であり、精神科医としては当然やるべきことをしていない、という気が私はするのである。脳の中枢神経との関連性や視覚異常の機序は判っていなかったとしても、非常に古くからあったから、知らなかったとは言わせない。寧ろ、重篤な精神疾患の初期症状としてあり得ると思い、茂吉は逆に黙っていたのかも知れない。

「福田大將」福田雅太郎(慶応二(一八六六)年~昭和七(一九三二)年))は日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。大村藩士の二男として現在の長崎県大村市に生まれ、大村中学校・有斐学舎を経て、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉に任官し、歩兵第三連隊付となり明治三一(一八九三)年陸軍大学校を卒業した。「日清戦争」では第一師団副官として出征し、後にドイツに留学、「日露戦争」には第一軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前より田中義一らとともに対露早期開戦派であった。後、歩兵第五十三連隊長などを歴任し、明治四四(一九一一)年、陸軍少将に進級、大正五(一九一六)年、陸軍中将。欧州出張や第五師団長・参謀本部次長・台湾軍司令官などを歴任して陸軍大将に進級した。軍事参議官となり、大正一二(一九二三)年九月の「関東大震災」には、関東戒厳司令官を兼務したが、在職中の「甘粕事件」で、対処不手際を問われ、司令官を更迭された。大正一二(一九二四)年の第二次山本内閣退陣に伴う清浦内閣組閣に際しては、上原勇作から陸軍大臣に推挙されたが、田中義一らの工作により、就任は叶わなかった。同年九月一日、「甘粕事件」での大杉栄殺害を怨んだ無政府主義者和田久太郎(明治二五(一八九三)年昭和三(一九二八)年二月二十日自死:彼については次に注する)によって『狙撃されたが、無事であった。大正一四(一九二五)年五月にも福岡市』でも『再び狙撃されたが、無傷であった。同月、予備役編入(当該ウィキに拠った)。

「和田久太郞」当該ウィキによれば、『温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称』した。『兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず』、十一『歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら』、『実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また』、十五『歳のころから俳句をたしなんだ』。『売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスム』(フランス語:Syndicalisme:労働組合主義)『を熱心に研究し、久板卯之助』(ひさいたうのすけ)とともに、「日蔭茶屋事件」(複数の女性達から常に経済的援助を受けていた社会運動家大杉栄が、野枝とその子どもに愛情を移したのを嫉妬した、神近市子によって刺された事件)で『人望を失った大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった』。『社会の底辺の人々を愛し』、「無政府主義伝道」と称して、『全国を流浪して体を壊したため』、大正一二(一九二三)年二月頃から五月まで、『栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた』、大正十二年九月一日に起こった『関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では』、『大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤』し、「彼の仇を討つ」『という名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社』(大正十一年に結成されたテロリスト組織)『の古田大次郎や村木ら』四『名と計画。和田らは』、『福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた』。『初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発』であったため、『ピストルでの襲撃に切り替え』、翌年の『震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店』『燕楽軒』『で福田大将を待ち伏せした。しかし』、『初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田』が『知らず、至近距離からの発砲であったが』、『失敗』し、『大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ』、殆んど無傷で『逮捕された』。大正一四(一九二五)年、『上記罪状の併合罪』で『無期懲役判決』を受けた。『余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」』『と憤慨した』。但し、『翌年の大正天皇の崩御により』、『恩赦があり、懲役』二十『年に減刑された』。『最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作』「獄窓から」は昭和二(一九二七)年三月に労働者運動社から『出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた』とある。芥川龍之介は『獄中の俳人 「獄窓から」を讀んで』を昭和二(一九二七)年四月四日附『東京日日新聞』に掲載しており、これは、それを指す。ちょっとびっくりしたが、幸いにして、サイト「釜ヶ崎資料センター」内の「趣味のA研資料室」の「獄窓から-増補決定版 和田久太郎著 近藤憲二編 黒色戦線社補 197191日 黒色戦線社」とあるページでPDFで当該書籍のほぼ全てが視認出来、しかも、ここの9コマ目に芥川龍之介の当該書評の切抜が全文載るので読まれたい(但し、新字旧仮名である)。ダウン・ロード必須! 『しかし』、『和田は長く肺病を患っており、古田の刑死』(彼は『福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺してい』たので量刑が重かった)、『村木の病死を知って悲観し』、昭和三(一九二八)年二月二十日午後七時頃、『看守の目を盗んで自殺した』。

 もろもろの惱みも消ゆる雪の風

が秋田刑務所での『 和田久太郎の辞世の句』とされる。『和田の遺骸は、労働社の近藤憲二』『らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた』とあるものの、注で、『現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明』とある。――草の葉の蔭に消えたり久太郎――

「しんかんとしたりや蚤のはねる音」大正一四(一九二五)年八月の句。前掲のリンク先の句集「鐵窓三昧」PDF)の7コマ目上段「八月」の四句目であるが、

   日影の匂ひ

 しんかんとしたりやな蚤のはねる音

で、前書があり、中七も字余りの破調である。破調の方が俄然いい。暑熱の陽の匂いも、より、むんむんしてくるではないか!

「のどの中に藥塗るなり雲の峯」同年六月の句。6コマ目下段四句目。

「麥飯の虫ふえにけり土用雲」同年八月の句。7コマ目下段冒頭であるが、表記は、

 麥飯の蟲殖えにけり土用雲

で断然、「蟲」「殖」の方がいい。この「蟲」はコクゾウであろう。蒸された中に一緒に彼奴らが死んで入っているのだ! 芥川龍之介は「蟲」の字が生理的に嫌いだった可能性が頗る高いので、書き換えたのは腑に落ちる。

「あの霜が刺つてゐるか痔の病」同年一月の句。3コマ目下段五句目。

「何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)」前掲書の石割氏の注に、『菊池寛・芥川龍之介編集『小学生全集』全八八巻(一九二七年五月―一九二九年一〇月、興文社刊)』を指すとある。筑摩全集類聚版脚注も同じ、「全集」ではあるが、小学生の広義の「讀本」の形式であるから、おかしくはない。石割氏は、続けて、『同時にアルスから『日本児童文庫』全七六巻も刊行された』と注してあるが、これは研究者自明の端折り過ぎで、所謂、全く同時に(同日に並んで広告が出た)同様の叢書が別々に刊行され、円本ブームに乗った熾烈な販売合戦が展開された、出版界でも知られた騒動を言っているのである。芥川龍之介も見事に巻き込まれることになってしまう。新全集年譜の四月中旬の箇所に、『アルス『日本児童文庫』(七〇巻)と興文社『小学生全集』(八〇巻)の間で誹謗中傷合戦が起こ』り、『芥川は前者からは執筆を、後者からは編集を依頼されており、大いに神経を痛めた』とあり、龍之介にとっては、やっと終息させた「近代日本文藝讀本」の悪夢が再来する思いがあったに違いないこの告訴にまで発展してしまう事件に興味のある方は、中西靖忠氏の論文菊池寛と児童文学」PDF・『高松短期大学研究紀要』第十二号(昭和五七(一九八二)年三月発行所収)のを読まれるとよい。また、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 アリス物語」という驚きの「不思議の国のアリス」の邦訳を電子化(分割・全十二回)しているが、何を隠そう、これはまさに、その「小学生全集」の一冊(第二十八巻・リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)なのである。発行は芥川龍之介の自死後の昭和二年十一月であるが、研究者によって、前半の一部は間違いなく芥川龍之介が訳しているものと推定されているものなのである。 

「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。」これも、しばしば引かれる芥川龍之介の書簡の一節である。私はこれを眺めていると、私は「河童」の「六」の冒頭、

   *

 實際又河童の戀愛は我々人間の戀愛とは餘程趣を異(こと)にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は氣違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見(み)じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床(とこ)についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を讀んでゐました。するとそこへ駈けこんで來たのはあのラツプと云ふ學生です。ラツプは僕の家へ轉げこむと、床(ゆか)の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。

 「大變だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」

 僕は咄嗟に詩集を投げ出し、戶口の錠(ぢやう)をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戶口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床(とこ)の上に寢てゐました。のみならずいつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしまひました。

   *

というシークエンスを思い出すのを常としている。寧ろ――龍之介よ……君はこれ以前に動物的エネルギイを過剰に使い過ぎたのではなかったか?……

2021/09/15

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 双頭蛇

 

[やぶちゃん注:発表者は本文で判る通り、前の同類系奇談「蛇化して爲ㇾ蛸」に続いて、同じく滝沢興継琴嶺舎。画像は底本の吉川弘文館随筆大成版からトリミング補正した。]

 

Soutouda

 

   ○双頭蛇

文化十二年乙亥秋九月上旬[やぶちゃん注:一八一五年十月上旬(三日以降)相当。]、越後魚沼郡六日町の近村餘川(ヨカハ)村[やぶちゃん注:現在の新潟県南魚沼市余川。グーグル・マップ・データ。南魚沼市六日町の北に接する。]の民金藏、雙頭蛇をとらへ得たり。この金藏が隣人を太左衞門といふ。この日、金藏、所要ありて門邊にをり。その時、件の蛇、地上より走りて、隣堺なる垣に跂登るを[やぶちゃん注:「つまだちのぼるを」と訓じておく。伸び上がるように立ち登ったのを。]、金藏、はやく、見だして、箒をもて、拂ひ落としつゝ、やがて、とらへしなり。この蛇、長さ纔に六寸あまり、全身、黑く、只、その中央は薄黑にして、腹は、靑かり。則、桶に入れて養(カヒ)おきけり。近鄕、傳へ聞きて、老弱、日每に來たりて、觀るもの、甚、多し。はじめ、この蛇の跂出でんとするとき、双頭をふりわけ、左の頭は、左にゆかんと、するごとく、右の頭は、右にゆかんと、するがごとし。既にして、双頭、一心に定むる時は、眞直に走る、といふ。又、桶に入れて屈蹯(ワタカマ)るときは、双頭、かさなりて、よのつねの小蛇の如し。時に近鄕の香具師[やぶちゃん注:「やし」。]、これを數金に買ひとりて、もて、見せものにせんと、はかる。その事、いまだ熟談せざりし程に、忽、猫に銜み去られて[やぶちゃん注:「ふくみさられて」、口に銜(くわ)え去られて。]、これを追へども、終に及ばず。主客、望を失ひし、といふ。當時、同郡鹽澤の質屋義惣治、その略圖をつくりて、家嚴[やぶちゃん注:他人に自分の父を言う語。馬琴のこと。]におくりぬ。かの金藏は、義惣治が亡息の乳母の子なり。これにより、その蛇を、とりよして[やぶちゃん注:「取り寄して」。持ってこさせて。]、よく見て、圖したり。こは、傳聞にまかせたるそゞろごとにはあらず、とぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

按ずるに、小蛇は、その色、皆、黑し。初生兩三年のゝち、きぬを脫(ヌキ)て、色の定まるものなり。件の双頭蛇も、その黑きが、本色にはあらぬなるべし。

 文政乙酉林鍾月氷室開かるゝ日  琴嶺しるす

[やぶちゃん注:時に発見される双頭奇形の蛇。「耳嚢 巻之二 兩頭蟲の事」私の注の方を見られたい。

グーグル画像検索「双頭蛇」をリンクさせておく。平気な方は、どうぞ。多数の事例の写真が見られる。剥製になったものは見たことがあるが、流石に実物を自然界で見たことは私はない。

「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「林鍾月」(りんしようげつ)は六月の異名。林鐘月とも書く。語源は不詳。

「氷室開かるゝ日」石川県金沢市湯涌町の「湯涌温泉観光協会」公式サイト内の「氷室」に、加賀藩では、『旧六月朔日を「氷室の朔日」と呼んでおり、毎年冬の間(大寒の雪)に白山山系に降った雪を氷室に貯蔵し、六月朔日になると』、『この雪を「白山氷」と名付け、桐の二重長持ちに入れて江戸の徳川将軍へ献上していた』とあるので、六月一日かとも思われる。]

2021/09/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蛇化して爲ㇾ蛸

 

[やぶちゃん注:底本は所持する吉川弘文館随筆大成版に戻り、恣意的に正字化をした(図も同書からトリミング補正した)。例によって段落を成形、読点・記号を追加した。本文内で判る通り、瀧澤興継琴嶺舎の発表。 【二〇二三年九月三十日底本変更】国立国会図書館デジタルコレクションの正規表現の「隨筆三十種」第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂青山堂明三〇(一八九七)年刊)の当該篇を視認して本文を再校訂した。

      ○蛇化して爲ㇾ蛸

 越後の刈羽郡[やぶちゃん注:「かりはのこほり」。]なる海濱は、古歌にも、「八百日ゆく越の長濱」とよみたる當國一の荒磯なり。この所、出雲崎に相つゞきて、東南は嵯峨たる海巖のつらなりたる、さながら刀もて削れるがごとく、西北は渺茫たる大洋にして、見るめも、はるかに、限り、しられず。うち寄するしら波の、摧けてかへる、すさましかるべし。

 かねて聞く、この邊、すべて沙濱(スナハラ[やぶちゃん注:ママ。])にて、石地といふ漁村あり。

[やぶちゃん注:「八百日ゆく越の長濱」「万葉集」巻四の笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った二十四首の相聞歌内の一首(五九六番)、

 八百日(やほか)行く

   濱(はま)の沙(まさご)も

  わが戀に

       あに益(まさ)らじか

    沖(おき)つ島守(しまもり)

であるが、特に、この海岸を詠んだものではない。

「石地」現在の新潟県柏崎市西山町石地(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 抑、この町は、海を面にし、山を背にす。こゝには、松、多し、といふ。この山に相つゞきて、又、松山あり、この山の根がたには、石の六地藏、建たせ給へり。よりて里俗、この邊を「賽の河原」と唱へたり。これより、松の林あり、この林のうしろよりして、柏谷・宮川と唱ふるかたは、みな、これ、峨々たる岩山なり。

[やぶちゃん注:前の地図をもっと拡大すると、後に出る絵図と合致することが判る。北に石地町の街区があり、南の沖には独特の形をした、岩礁帯(グーグル・マップ・データ航空写真)を現認出来る。ここが「賽の河原」だ。だから、閻魔や地蔵が出るわけである。

「柏谷・宮川」種々の地図や古いものも見たが、見当たらない。]

 この岩山の前にあたりて、閻魔堂あり。そのうしろの岩を穿ちて、閻王の木像を安置せり。これより。海邊、又、數町にして、岩山の半腹に辨天堂あり。この天女堂の前なる磯の浪打際に、男根石あり。土俗は、これを「裸石」といふ。三、四尺なる天然石にして飴色なり。遠近の石等(ウマヅメラ)、この石に禱[やぶちゃん注:「いの」。]りて、子を求むることあり、といふ。されば、石地町なる童子等は、年々の夏每に、この濱に出でゝ、水に戲れ、終日、游びくらすこと、絕えて虛日なし、となん。

[やぶちゃん注:「閻魔堂」先の地図の「羅石尊」とあるものの、サイド・パネルの写真を開くと、閻魔(かなりキッチュ)と地蔵の像がある(地獄の閻魔王の本地仏は地蔵菩薩である。なお、子を守る地蔵だから、石地の子等は安心してこの前の海で夏中、浜で遊び暮らしても、子も親も心配しないのである)。さらに、同じパネルを下へと見てゆくと、ここに所謂、本邦で広く知られる陽物崇拝である「金精様」と呼ばれる男根を模したものを複数祀ってある「羅石尊」が見られ、さらに少しバックして撮られた写真で、その小祠の左手に木製の巨大なファルスも屹立しているのが判る。これはグーグル・ストリートビューでは非常に見難いのであるが、このショットで巨大なそれの頭の部分が現認出来る。「羅」は男根を意味する「まら」の「ら」であり、「羅」+「裸石」「尊」で実は「まらいし」となるのであろう。

 しかるに、いぬる文化九年夏六月十六日[やぶちゃん注:一八一二年七月二十四日。]、石地町なる民の子、文四郞といふもの【時に十五歲。】、その友たち兩三人とゝもに、「賽の河原」の海邊(ウミべ)に出でて、水をあみん、としたる折、石の六地藏のほとりより、長さ、四、五尺なる蛇、はしり出でけり。文四郞等、これを見て、

「彼、打ちころしてん。」

と、いひもあへず、手に手に、棒をとりて、打たんとせしに、蛇は、たゞちに、海に入りつゝ、波を凌ぎて、泳ぐほどに、文四郞等は、衣、脫ぎ捨て、逃ぐるを追ふて、水中のところどころにあらはれ出でたる、岩角づたひに、飛び越え、飛び越え、「飛石」・「老曾」[やぶちゃん注:「おいそ」。直後に出る。]など呼びなしたる海岩を、つたひゆきしかば、「おいそ岩」のほとりに到りぬ。そのとき、蛇は、岩角に、しはじば[やぶちゃん注:踊り字「〲」に従ったが、これは「しばしば」の誤りであろう。]、その身をうちつけしを、

「いとあやし。」

と見る程に、蛇の尾は、忽に、いくすぢにか、裂けたるが、そのほとりの海水は、たちまち、黃色になりしとぞ。

 さりけれども、驚きおそれず、猶しも、

「取りな逃がしそ。」

とて、終に、うち殺してけり。

 扨、引きあげてよく見るに、その蛇、既に蛸に變じ、裂けたる處は、足になりて、肬(イボ)さヘ、はやく、いで來たるに、頭も、はじめの蛇に似ず。

 俄に、

「まろまろ」

ふくだみて、さながら、蛸に異ならず。

 只、その色は白はげて、聊も、赤み、なし。

 日を經れば、あかみさす、といふ。

 只、そのかたちの異なるよしは、八足ならで、七足なるのみ。

 さればにや、凡、この地の漁父共の、七足の蛸を獲ることあれば、

「こは、蛇の化したるなり。」

とて、うち捨てゝ、是をくらはず。

 しかれども、

「まのあたりに蛇の蛸になりぬるを見つるは、いとも、めづらし。」

とて、事、をちこちに聞えたり。

 こゝをもて、當年、かの地の一友人、ゆきて、その蛸を見つ。且、文四郞に、その折の有さまをよく聞きて、地理さへ、圖して、家嚴[やぶちゃん注:自身の父を指す語。発表者滝沢興継の父滝沢解曲亭馬琴のこと。]におくれり。

 

Hebitako

 

[やぶちゃん注:キャプションは、まず、左右下方に方位が記されてある。

「北」            「西」

右下方から見る。最も陸から離れたように見える小さな岩礁が、

「沖ノ石」

で、有意に長く伸びた岩礁が、

「ヲイソ岩」(「ヲ」はママ)

とある。本文では最初に「老曾」岩の字を当てているが、「古くからある岩礁」の意か。但し、このカタカナ表記と岩礁の形状からは、私は「尾磯岩」がもとではないかとも考えた。さて、その陸側の渚の部分に、三つに分離した小さな岩場があって、

「飛石」

とあって、その「飛石」から指示線が伸びて、

「此トビ石ヨリ」「『ヲイソ岩』エ行」

とある。そして、その解説の上方の波打ち際の砂浜に、囲み字で、

「裸石」

とあって(石は横たえてあって半ば砂に埋まっているようである)、その右に、

「飴色」

左には、

「長三尺」「ホド」

とある。そこから少し左の崖の脇に、

「岩ナリ」

とあり、この砂浜海岸一帯の背後が、峨々たる岩山であることを示している。而して、その右手を見ると、岩山の上に堂宇らしきが描かれてある。これは現在の地図では、諏訪神社が相当するか。さらに浜伝いに北東方向に進むと、浜の中央奥に、囲み字で、

「ヱンマ堂」

とあり、その左前に、

「ウシロノ岩ヲ」、「ウガチ、ヱンマ」、「有之」

と記し、堂の背後に閻魔の画像があるから、この時代の閻魔像は、堂の背後の岸壁に、直(じか)に閻魔像が彫り込まれてあったことが判る。更に北東に進むと、渚の部分に、

「砂地往還」

とあるので、当時はこの水際を以って、北国越路の正規の往還道としていたことが判る。而して、その先の陸側に、囲み字で、

「六地蔵」

とあって、頭が見にくいが、

「此所」、「サイノ河原」

とある。また、背後の山の上に堂宇があり、

「クワン音」

と記す。その「六地蔵」の左から、点線で蛇を子らが追尾したコースが提示されて、その海上の点線中央上下に、

「蛇ノ道」、「海上ヲ」、「ヲツタル所」

とある。

左手の陸に囲み字で、

「石地町」

とあり、その前浜に、

「海道砂ハマ」

とし、その下方の海上に、

「前後、浪、髙ク」、「惣」(すべ)「て、此辺、越ノ荒海」

とある。

 これらから、現在の「羅石尊」は、恐らく明治期に「裸石」と「閻魔堂」を集めて無理矢理に合祀したものと思われる(排斥されなかっただけでも幸運であった)。また、六地蔵は、この位置には見出すことが出来なかった。それだけでなく、この「クワン音」というのも、特定し得なかった。この石地街区のこの附近には、現在も複数(国土地理院図で六ヶ寺)の寺があるが、特定するには至らなかった。位置的には大聖寺というのがそれらしいのだがが、本尊が観音菩薩でなくてはならないが、同寺の本尊は不動明王であるから、違う。本尊が観音であるのは、位置的には、ずっと北になるが、グーグル・マップでは寺が示されていないが、こちらのデータで確認した円融寺で、本尊は聖観音菩薩坐像である。ここか。

 

 よりて、今、その地圖を乞ひ得て、ちなみにこゝに載するのみ。予、甞て、越後の總地圖によりて、しりぬ。この「老曾岩」のほとりには、「蛇崩」[やぶちゃん注:「じやくずれ」。]と唱ふる處あり。且、その邊に、ふかき淵、あり。

「この淵のぬしは、大なる蛸なり。」

又、

「大なる龜なり。」

なども、いへり。

 近ごろ、漁者のむすめ、

「海苔をとる。」

とて、こゝに來て、そのぬしなるものに、引き込まれたり。

 死骸は、終に、出でざりし、といふ。

 按ずるに、龜も、その性、蛇と近し。

 いづれにまれ、蛸の八足ならぬものをば、くらふまじきことぞかし。

[やぶちゃん注:ここでも「蛇」と言い、「龜」と言い、若い娘が餌食となるという、「陽物」のメタファーが横溢している。

「蛇崩」私の「北越奇談 巻之三 玉石 其六(蛇崩れ海中の怪光石)」を参照されたい。

 なお、この、「蛇が蛸に化生する」という話は、フレーザーの言う類感呪術的で、実は本邦では枚挙に遑がないほどある。私の宿直草卷五 第六 蛸も恐ろしき物なる事」の本文、及び私の注で目ぼしいものを纏めてあるので、参照されたい

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第六集) 土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音

 

[やぶちゃん注:本篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」巻第五上のここから。やはりだらだら長いので、段落を成形した。]

 

   ○土定の行者不ㇾ死

 信濃國(しなのゝくに)伊奈郡(いなこほり)[やぶちゃん注:「伊奈」はママ。]平井手(ひらゐで)[やぶちゃん注:現在の長野県上伊那郡辰野町平出(ひらいで:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]といふ村に、いと大きなる槻(けやき)ありけり【平井手村は、下の諏訪を距ること、三里許に在り。内藤家の封内也。】。

 文化十四年丁丑[やぶちゃん注:一八一七年。]の秋のころ、させる風雨もなかりし日に、此木、おのづから倒れけり。かくて、その墳(うごも)ち[やぶちゃん注:土が高く盛り上がってること。]あばけし坎(あな)の中に、ひとつの石櫃(せきひつ)、あらはれたり。

 里人等(ら)、いぶかりて、みな、立ちよりて見る程に、この石櫃のうちよりして、鈴鐸(すゞ)の音(おと)、讀經の聲の、洩れて、かすかに聞えしかば、人々、驚き、あやしみて、彼に告げ、これにしらせ、つどひて、評議したりける。

 そのとき、里の翁のいはく、

「むかし、天龍海喜法印といふ山伏あり。當時(そのとき)、この人の所願によりて、生きながら、土定(どぢやう)したりと、傳へ聞きたることもぞ、ある。おもふに彼(か)の法印は、今なほ、土中に死なずや、あるらん。是なるべし。」

と、いひしかば、里人等、うべなひて、櫃の上に殘りたる土を搔き拂ひつゝ、よく見るに、果して、歲月・名字などの彫りつけてあるにより、感嘆・敬信せざるものなく、俄かに注連(しめなは)を引き遶(めぐ)らし、蘆垣(あしがき)をさへ結びなどして、妄(みだり)に人を近かづけず。

 かゝりし程に、近鄕の老弱男女(ろうにやくなんによ)、傳へ聞きて、參詣・群集したりしかば、更に又、假屋(かりや)やうのものを修理(しつら)ひて、線香・洗米などを備へ、なほ、日にまして、繁昌しけり。

 しかれども、石櫃をば、そがまゝにして、戶をひらかず。

 鈴鐸の音、讀經の聲は、月を經(ふ)れども、絕ゆることなし。

 その石櫃の上のかたに、息ぬきの穴、三つ、四つ、あり。

 その入り口は二重戶にて、第一の戶はひらけども、二の戶は内より鎖(とざ)したるが、はじめ、ひらかんとしたれども、得(え)披(ひら)かれざりければ、その後は、里人等も、おそれて、いよいよ、開くこと、なし。

 この年、冬のころまでも、參詣、日每に、たえず、とぞ。

 抑(そもそも)この一條は、同年の霜月より、予が家に來て仕へたる、初太郞といふ僕(をとこ)の、云々(しかじか)と、かたりしなり。渠(かれ)は信濃國高島郡下(しも)の諏訪(すは)眞字野村[やぶちゃん注:現在の下諏訪町はここだが、「真字野」は見当たらない。]のものなり。その故鄕にありし日より、件(くだん)の事を傳へ聞きつゝ、

「こたみ、江戶へ來つる折、同行(どうぎやう)のもの、もろともに、平井手村へ立ちよりて、かの石櫃を見き。」

と、いへり。しからば、

「その年號は、何とかありし。」

と、たづねしに、

「年號は、おぼへ候はず。大約(おほよそ)今より百五十餘年に及ぶと聞きつ。」

といふ。

「さらば、明曆・萬治の中か、寬文にはあらずや。」[やぶちゃん注:この年号は連続であるので、一六五五年から一六七三年までに相当する。]

と、一、二を推して問ひ質(たゞ)せども、いふがひもなく、

「知らず。」

と答ふ。

 かゝるあやしき物語には、そら言も多かれば、疑はしくは、思ふものから、二十(はたち)に足らぬ田舍兒(ゐなかふさ[やぶちゃん注:「ふさ」は意味不明。「さ」ではないかも知れない。ここの左ページの四行目。])の、「正しく見き」といふなれば、作り設けし事には、あらじ。彼地の人に逢ふ事あらば、ふたゝび、問はんと思ひつゝ、「雜記」中に記しおきぬ。扨、その後は、いかにしけん。問ふよしもなくて過ぎにき。

[やぶちゃん注:底本でもここで改行している。]

 按ずるに、「見聞集」に云、

『慶長二年[やぶちゃん注:一五九七年。秀吉の晩年。翌年死去。]の比及(ころほひ)、行人(ぎやうにん)、江戶へ來り、いふやう、

「神田の原大塚のもとにて、來る六月十五日、火定(くわぢやう)せん。」[やぶちゃん注:「神田の原大塚」「神田の原」は解せないが、まだ幕府が出来ないころは、広域を神田の原と呼んだのかも知れない。ここは「大塚」で現在の東京都文京区大塚でよかろうか。]

と、ふれて、町を巡(めぐ)る。是を、

「おがまん。」

と、貴賤、群集し、廣き野も、所せき、立ところ、なかりけり。

 塚中(つかちう)に棚を結びて、その下に薪をつみ、火を付け、燒き立つる處に、行人、火中に飛びいりたりとも、弟子の行人ども、傍らより、突き落としたり、ともいふ。我、たしかには、見ざりけり。次の日、朋友とうちつれ、とぶらひゆき、大塚のあたりを見るに、人氣(ひとけ)は、ひとりもなく、跡には、骨まじりの灰ばかり、のこりたり。』

と、しるしつけたる事もあれば、およそは、慶長・元和[やぶちゃん注:一五九六年から一六二四年まで。以下の年号までには寛永・正保・慶安・承応・が挟まる。]より明曆・萬治の頃までも、さる名聞(みやうもん)の爲(ため)などに、命を失(うしな)ふ似非行者(ゑせぎやうじや)の、江戶の外にも、ありしならん。火定は、弟子に突き落されても、立どころに死にたらめ。土定して百五、六十年、さすがに死も果てざりしは、猶、この火宅に愛借(あいじやく)したる慾念の凝(こ)れるにこそ。迷ひのうへの迷ひなるをも、よに、理に(り)にあきらかならで、只、竒に走り、信を起こすは、なべての人のこゝろなりけり。今も又、さる人あらば、智識の杖もて、破却せしめて、成佛させたきものにあらずや。

[やぶちゃん注:「見聞集」(けんもんしゅう:現代仮名遣)は仮名草子作家三浦浄心(永禄八(一五六五)年~正保元(一六四四)年)によって著された江戸初期の世相や出来事を主な話題としたもの。全十巻。浄心の子孫の家に秘書として伝えられ、化政期の三浦義和の頃から伝写により流布し、明治以降に翻刻が、多数、刊行された。作中に作品当時が慶長一九(一六一四)年とする記載があるため、「慶長見聞集」とも称され、近年に至るまで、作品内時制の基準を無批判に慶長十九年に置いて解釈したことに起因する混乱が江戸時代研究関係の書物の各所に見受けられるが、これは幕政批判に対する干渉を避けるための擬態であって、実際の作品成立時期は寛永(一六二四年~一六四五年だが、三浦は正保元年三月十二日(一六四四年四月十八日)に没しているから、そこまで。寛永二十一年十二月十六日(一六四五年一月十三日)に正保に改元されている)後期と考えられている(以上は当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」十二巻の「卷の貳」(大正六(千九百十七)年江戸叢書刊行会編刊)のここで当該話「神田大塚にて行人火定の事」が読める。但し、もっと細部がリアルに読めるかと期待しない方がよい。長いが、事件は最初の五分の一だけで、ほぼここにある通り(近くに蟻が異様に群がっていたというものぐらいしか、落ちている部分はない)で、後は辛気臭いペダントリーに過ぎない。

 以下は「兎園小説」にはない、底本編者の渥美正幹(馬琴の外孫)の評言。底本では全体が一字下げ。]

 正幹云、この土定の行者が得死なずして、鈴鐸(れいたく)・讀經の聲の幽(かす)かに聞えしというは、疑ふべし。こは石櫃の現はれ出たるによりて、例の山師などの言ひふらして、賽錢・施物(せもつ)を貪る計策に出て[やぶちゃん注:ママ。]たるなり。只、翁が奇談珍說、何くれとなく抄錄して、そが小說の材料に用ひしは、今更いふまでもなし。この見聞集に見えたる、慶長の比、江戸大坂の原[やぶちゃん注:ママ。「大塚」の誤り。]にて、火定の行者の事は、「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせしは全くこれより轉化したり。翁の思想の自在なる物として、其小說に入ざるものなし。但し、この似非行者が、猶、火宅に愛惜(あいじやく)せる、煩悩の迷ひを醒ませし評論は、見識、卓(たか)し。予、甞て、「髑髏(どくろう)の圖」に題せる一絶あり。

 脫シテ人間五慾

 荒凉長九原

 世人欲セハㇾ識ント情味

 看取セヨ南華至樂

拙劣、まことに愧(は)づべしといへども、因みに、こゝに錄(しる)しぬ。

[やぶちゃん注:『「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせし』「南総里見八犬伝」第三輯巻之四の「第廿七回」の後半の「寂寞道人(じやくまくだうじん)見(げん)に圓塚(まるつか)に火定(くわじやう)す」を指す。明四二(一九〇九)年金港堂刊の同書の当該二十七回の冒頭をリンクさせておく。後半部の始まりはここの後ろから五行目で、火定幻術の挿絵もここにある。

「脫シテ人間五慾……」訓読しておく。

 人間(にんげん) 五慾の煩(わづらひ)を脫却して

 荒凉 長く委(まか)す 九原の天

 世人(せじん) 他の情味を識らんと欲せば

 看取せよ 南華至樂の篇

「南華至樂の篇」というのは、書の「荘子」(そうじ)のこと。「荘子」の完全なテキストとしては最も古い宋本は「南華真経」という異名を持ち、 南宋の刊本は外篇の「至楽篇第十八」までで構成されている。

 最後に。私はこの手の入定したはずの僧が、妄執故に生き続けてしまうという話柄が大好きで、枚挙に遑がないほど、電子化注している。その中でも最も古い一つであるサイト版の三坂春編(みさかはるよし)の「入定の執念」をリンクさせておく。そこの冒頭注に私のめぼしいそれらをリンクさせてもある。

 

   〇土中出現の觀音

文化十三年戊子[やぶちゃん注:一八一六年。]の春、正月廿五日の夜、巢鴨の町醫師大舘微庵(おほたてびあん)[やぶちゃん注:不詳。]が弟松之助といふもの、王子權現[やぶちゃん注:現在の東京都北区王子本町にある王子神社(王子権現)。]の社(やしろ)のほとりにて、黃金佛(わうこんぶつ)なる觀音の小像を掘り出だせしこと、ありけり。かくて、同年の秋閏八月中旬、肝煎・名主等(ら)、市(いち)の尹(かみ)の旨(むね)を得て、事の由(よし)を書きしるしつゝ、町々へ、ふれ傳へしかば、しりたる人も多かめれど、本文のまゝ、抄錄す。其書にいはく、

 拾四番組名主政右衞門支配巢鴨町勘兵衞店町醫師

     大館微庵弟    松之助

               子二十六歳

右松之助義、去亥年中より、王子村金輪寺雇而罷越居候處、當正月二十六日夜、主人用事にて罷出立歸候節、夜四ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午後十時頃。]餘、王子權現と稻荷社[やぶちゃん注:王子稲荷神社。王子権現とは二百六十メートルほどしか離れていない。]之間、十條村方へ、拾二、三間[やぶちゃん注:二十二~二十三メートル半強。]も參り候往還端にて、光り候品、見え候間、立寄見候得ば、土中より、光り、出候ニ付、少し、土中を掘候ば、小サキ佛像、出、光り居候間、持歸り洗見候得ば、金佛之觀音に付、能々、改見候處、黃金佛にて、長壹寸八分[やぶちゃん注:五センチメートル半弱。]程有ㇾ之間、卽刻、兄微庵方へ持參り、同二月五日、御用番永田備後守樣御番所へ御訴申上候處、御糺之上、上置候樣被仰渡、當八月廿六日、微庵・町役人・組合・肝煎・名主一同、右御番所へ被、月數相立候ニ付、右之品ハ松之助へ被ㇾ下旨、右ニ付、不審成異說等、不義は勿論、猥りに、人々に爲ㇾ見候事不相成候間、其旨存候樣、於御白洲、右佛像、御渡被ㇾ成候。下略子閏八月十八日

かゝる事を、江戸町々なる借屋(しやくや)・店借(たながり)の者迄に、ふれ繼がれしは、いとめづらし。おもふに、黃金佛なれば、後日に、ぬしの出るとも、異論あらせじ、との爲歟。且、靈驗などをさへ、唱へさせじ、との爲なるべし。

[やぶちゃん注:底本でもここで改行。]

按ずるに、「本草」セテ地鏡圖、「黃金之氣赤。夜有火光及白氣。」。かゝれば、件の佛像の、夜、その光りをはなちしは、黃金ゆゑ歟。靈ある故歟。この事、極めていひ難し。且、その土中に入りしこと、深からざりしは、雨後などに、人の遺(おと)せしことありしを、知らで、踏み込みたるもの歟。これも亦、しるべからず。是より先にも、夜な夜なに、光をはなちしものならば、見出だす人も有るべかりしを、松之助が目にのみかゝりて、掘り出だされしも亦、竒なり。思ふに、昔時(むかし)、佛像の、水中に光りを放ちて、或は漁者(ぎよしや)の綱[やぶちゃん注:「兎園小説」版では「網」。]にかけられ、或は木の杪(うら)、井の底より出現したもふ故(こと)ゝいへば、靈驗あらぬものもなく、堂塔・伽藍、美を盡くして、今も衆生にをがまれたまふに、いかなれば、この觀音のみ、さるよしもなく、世の人にしられも得せず、をがまるゝことすら許されたまはぬは、佛にも、幸不幸や、ある。もし、猶、時の早し、とて、そこに知識をまたせたまふか、さらずは、國の寶をもて、その軀形(みかたち)としたまふを、耻させ給ふこともやあらむ。此等の靈のある故に、凡夫のめづる靈驗を現はしたまはぬものならば、寵辱利害(ちやうぢよくりがい)を解脫(げだつ)したまふ、それこそ、眞(まこと)の靈佛ならんとまうさんも、猶、かしこかるベし。

[やぶちゃん注:「兎園小説」にはこの最後に『文政八年六月小暑後之朔、識於著作堂南窓合歡花蔭』として、その下方に馬琴の号の一つである『簑笠漁隱』(さりつぎょいん:現代仮名遣)の署名が載る。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子 / 第五集~了

 

   ○奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子

ちなみにいふ、みちのくの「田うゑ歌」は、古風なるものなればこそ、芭蕉の發句にも、「風流のはじめや奧の田うゑ歌」といへれ。この「田うゑ歌」の事は、本居氏の「玉勝間」に載せたれば、世の人のしる所なり。しかるに、奧州平泉に、中尊寺・毛越寺といふ寺ありて、各十八箇の子院あり。今、毛越寺は廢して、唯、子院十八箇をのみ殘したり。この毛越寺に、むかしより傳へて「唐拍子」といふ歌あり。「路錄歌」ともいへるよし。今も每年、毛越寺廢墟の阿彌陀堂に、子院の法師、集りて、この「錄樂」を行ふとぞ。そのうた、左のごとし。

    唐拍子歌

○ソヨヤミイユ。ソヨヤミユ。ゼイゼレゼイガ。サンザラ。クンズルロヲヤ

○シモゾロヤア。ヤラズハ。ソンゾロロニ。ソンゾロメニ。コウコロナンズリシニ。ワヨヤミイユ

○ラウゾラユク。ラウゾラユク。カリノハネヲトヲヤ

○シツライ。デイガ。サイドノトノ。サアラサラメニ。ユクヨナ。ザレヲ。ノウトメ(の)[やぶちゃん注:「の」は「メ」の右にルビのように小さくある。]。コソノ。タマメハ。ミヤノウマイ

○ハアチジウ。ヨヨノ。ミヤワカアイ。ハチジウヨヨノ。ミヤワカイ。チヨノタマメハ。ミヤノマイ

○ワラワロニ。タマワロウトサユワイ。クサヲハ。アユノ。チヨインニ。サワケタマイ

○トウリノ。ミヤコニハ。トウリノミヤコニハ。ホトケノ。ミナヲバ。シラヌナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

○ゴダイ。サンニハ。モンジユコソ。ロクジニ。ハナヲバ。チラスナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

この一條は、懸川候の儒生松崎慊堂、文化中、ある夏、東游の日、件の舞踏を目擊し、且、その幾曲を寫し來つるよし、同藩の留守居役長鹽氏【平六。】は、家巖[やぶちゃん注:父。馬琴のこと。]と、いさゝか、由緖あり。予も相識れるものなり。文化の末、長鹽氏、家嚴に消息のおくに、この事を、告げおこせたり。さきの日、「反故を、えりわくるとて、これをも、たづね出でたるを、こゝにしるせ。」と、いはれしによりてなむ。

 文政八年五月朔書於神田若壺庵 琴嶺 瀧澤興繼

[やぶちゃん注:「唐拍子歌」の意味はどれも私には殆んど意味が分からない。悪しからず。ただ、橋本裕之氏の論文「論舞考―研究史的素描を通して―」PDF)に、この「唐拍子」についての詳しい論考があり、その中に「路錄歌」ではないが、『毛越寺延年資料「路舞(唐拍子)」に収められた唐拍子歌には四つに分かれている』とされて、ここに記された歌詞と酷似するものが並んで採録されてあるので、読まれたい。さすれば、「路錄歌」は「路舞歌(ろまひうた)」の誤りではないかと私には思われた。

「風流のはじめや奧の田うゑ歌」「奥の細道」で、元禄二年四月二十二日(一六八九年六月九日)に、矢吹を立って、須賀川本町(すかがわもとまち)の相楽(さがら)伊佐衛門等躬(とうきゅう)宅に着き、この日の夜、芭蕉・等躬・曽良の三吟にてこの句を発句とする歌仙が巻かれている。「奥の細道」では、

 風流の初(はじめ)やおくの田植うた

の表記である。「猿蓑」所収のそれには「しら川の關こえて」と前書を持つ。詳しくは、私が二〇一四年に行った「奥の細道」のシンクロ追跡の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅17 風流の初(はじめ)やおくの田植うた』を参照されたい。

「懸川候」遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)にあった掛川藩藩主。

「松崎慊堂」(こうどう 明和八(一七七一)年~天保一五(一八四四)年)。諱は密、又は、復。慊堂は号。「慊」は「飽き足りない・満足しない」の意。肥後国益城(ましき)郡木倉村(現在の熊本県上益城(かみましき)郡御船町(みふねまち))生まれ。実家は農家。十一歳頃、浄土真宗の寺へ、小僧として預けられたが、生まれつき、読書好きで、学問で身を立てるため、十三歳の頃、国元から江戸へ出奔、浅草称念寺の寺主玄門に養われ、寛政二(一七九〇)年には昌平黌に入った。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び、寛政六年には塾生領袖となった。述斎が務めていた朝鮮通信使の応接は、慊堂が代行した。享和二(一八〇二)年、掛川藩の藩校の教授となり、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行、文化十二年に致仕した。文政五(一八二二)年から江戸目黒の羽沢に隠退し、塾生の指導と諸侯への講説を行った。「蛮社の獄」により捕らえられていた門人渡辺崋山(興継や馬琴と親しかった)の身を案じて、天保一〇(一八四〇)年には、病いをおして、建白書を草し、老中水野忠邦に提出した。慊堂は、その建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の「慎機論」が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来、政治誹謗の罪などは聖賢の世に、あるべき道理がない、ということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし、公にしていない反古書きを証拠に罪を問うならば、誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力で、まず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから、慊堂と同等の名声を維持することが出来たに過ぎないとさえ言われた大儒であった。狩谷棭斎らの町人学者らとも交遊し、初めは朱子学に親しんだが、後、その空理性を嫌って、考証学を構築した(以上は当該ウィキに拠った)。

「同藩の留守居役長鹽氏【平六。】」詳細事績は不詳だが、信頼出来る論文等を見るに、文芸その他の考証家であったようである。

【追記】公開した途端にFacebookの知人から、以下のリンクを紹介された。

tenti氏のブログ「因縁果子」の「毛越寺延年の舞」(写真主体の構成)

サイト「文化デジタルライブラリー」の「中世芸能公演」のリスト(第二部に「唐拍子」の一番表紙から六番拍子までの略標題が載る)

併せて見られたい。]

2021/09/13

私の考える今あるべき報道

私は思う――コビッド19の罹患者や死亡者数を時報するなら、福島原発によって放射線障害に罹患した人々の推定発症数と死亡者を報知することの方が、遙かに日本人の「脅威」として戦慄的意味があると考える――

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松五郞遺愛馬の考異

 

[やぶちゃん注:これは馬琴の息子で松前藩医員であった琴嶺舎宗伯滝沢興継の発表であるが、彼の発表物は大概が馬琴の代筆であったことが判っている。これもそれが判るように、例の「曲亭雑記」の巻第二の下に「琴嶺興繼」名義乍ら、載っているので、そちらを底本にする。但し、挿絵は極端にタッチが異なるので、「兎園小説」も載せた。明らかに「兎園小説」版の方が手馴れていて上手い。文章は父に代筆して貰ったものの、絵については興継は渡邊崋山の兄弟子である(崋山の方が五歲年上だが、同じ絵師金子金陵に入門したのが興継の方が早かった。因みに、その息子の縁で馬琴は崋山と親しくなったのである)からして、「兎園小説」版の方は興継の書き直したもので、こちらの絵は、松前藩家臣と思われる櫻井耽齋なる人物から土屋翁平(不詳)へ送った最後の方の書簡に出る現地の主要な配置図と思われる。なお、やはり、だらだら長いので段落を成形した。]

 

   ○松五郞遺愛馬(いあいば)の考異   琴 嶺 興 繼

 今玆(ことし)暮春朔日の兎園會に、家嚴[やぶちゃん注:「かげん」は他者に対して自分の父を言う時に用いる語。]の書きつめて披講したりし「五馬之一」、陸奧の伊達郡箱崎村農民傳兵衛が子の松五郞か遺愛の馬の事[やぶちゃん注:これ。]、當時松前老侯、その近習に命じ給ひて、圖說をつまびらかに錄(しる)し玉はりしもの、嚮(さき)に家嚴ふかく藏め失ひて、たづね求めたるに、かいくれ、見えざりければ、暗記をもて書(かゝ)れしなり。

 しかるに、いぬる日、ゆくりなく、その圖說を、たづね出でたり。

 扨、披閱(ひえつ)せられしに、曩(さき)に誌されしと、大かたは違(たが)はねど、暗記の失(あやま)りなきにあらず。家嚴、則、その書畫を興繼にしめしていへらく、

「かゝる實錄に、いさゝかたりとも、錯誤あらんは、遺憾の事なり。そのたがへるところどころを、なほ、書きあらためて、後のまとゐに披露せばやと思へども、おなじすぢなることどもを、ふたゝびせんは、わづらはしく、且、ことふりにて、勞(らう)にしも、得(え)[やぶちゃん注:不可能を示す呼応の副詞「え」の漢字表記。]湛へず。汝、われに代りて、これかれを、よく比較して、足らざるを補ひ、違へるを正せかし。」

と、いはれたり。

 おのれ、不似(ふじ)にして、文辭のうへには、その才、露ばかりもあること、なし。

『何と書べきや。』

と、思ひ煩ふものから[やぶちゃん注:中古以前の正しい逆接の接続助詞の用法。]、

『もし、かゝる事なかりせば、いかでか不文(ふふん)の筆ずさみを、晴(はれ)なるむしろにおし出だして、諸先生の、玉をつらね、錦をひるがへせる文場に加はることを得べけんや。いなむも、事によるべきものを。』

と、思ふばかりを心あてに、おちおち、たがへるところどころを、さらに誌(しる)すこと、左のごとし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 奧州伊達郡箱﨑村は、御領にて、桑折御代官所の支配たり。同村の百姓傳兵衛は、高橋氏にして、文政二己卯[やぶちゃん注:一八一九年。「己」を「巳」に書いてあるのは訂した。]には、年四十七になりぬ。渠(かれ)は元祿年間[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]より、代々、當地に住居して、相應の百姓なりしに、近年、いよいよ、ゆたかになりぬ。男女の子ども、三、四人あり。彼松五郞は家子なり。又、この家に老母あり、傳兵衛、素より、孝心ふかく、よく老母に仕へしかば、松五郞も、その心、親に劣らず。これにより、その二親の志にたがふことなく、祖母に、よく仕へたり。且、その性(さが)、馬を好みしこと、曩編(なうへん)にしるされし如し。かくて、松五郞は、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年]の夏の比より、勞瘵(らうさい)[やぶちゃん注:「勞咳」に同じ。肺結核のこと。]の症にて、病みわづらふこと、二とせに及びつゝ、文政元年戊寅冬十月廿七日[やぶちゃん注:一八一三年十一月二十五日。]に、享年二十歲にて身まかりけり。曩編に文政二年十二月十二日に病死せしよしをしるされしは、暗記の失(あやま)りなるべし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 かくて、次の日、松五郞が亡骸(なきがら)を棺(ひつぎ)に斂(をさ)めんとせしとき、祖母幷に二親、哀傷に得たへず、松五郞が手道具やうのものを、おちもなく、とりあつめて、棺に納めんとしたりしを、親類たるもの、ひそかに諫めて、

「其事、甚、しかるべからず。當今は、六道錢すら、嚴しく停止(ちやうじ)せられしに、まいて、かゝるしなじなを、むなしく土中に埋めんは、物體(もつたい)なきことどもなり。ゆめゆめ、思ひとゞまり給へ。」

と、まめやかにいさめしかば、祖母・ふた親も、その儀に任(まか)して、さる事は、せず、なりぬ。

 しかるに、この宵、同村の貧民、四、五人[やぶちゃん注:「昼の葬儀の折りに」というような言葉が抜けている。]、

「手傳ひの爲に。」

とて、來てをりしに、はじめ、

「松五郞が棺の内へ、手道具やうのものを納めて、つかはさん。」

と、いひし趣を、もれ聞きて、そのゝち、親類なるものゝ諫めによりて、さる事はせずなりしことをしらず、こゝをもて、件(くだん)の四、五人、竊(ひそ)かに示し合しつゝ、同月廿九日の薄暮(はくぼ)より、打ちつどひて、酒、四、五升を求め來つ。これを、飮むと、のむほどに、酒氣(しゆき)に乘じて、松五郞が墓所に赳き、既に、その新墓(にいばか)を發(あば)きし折り、松五郞が遺愛の馬は、厩(むまや)の橫木を推し破り、驀地(まつしぐら)に走り來つ。件の惡者(わるもの)、四、五人を踶仆(けたふ)せし事の趣は、曩編にしるされしがごとし。これを、

「隣村の百姓なりし。」

と、いへりしは、傳兵衛が、聊か、遠慮もていひし事にて、實(まこと)は同村の百姓なりけるよし也。すべてこの箱﨑わたりは、人氣(じんき)よろしからぬ所にやありけん、かゝるまさな事をするもの、折々ありとぞ聞えたる。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 さて。件の馬は靑毛(あをげ)なり。曩編に「栗毛」としるされしは、是、又、暗記の失りなり。この馬は、「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧より出でたるを、二歲のとき、傳兵術が從弟(いとこ)龜次郞といふ者、馬市(むまいち)にて買取來たり、松五郞は馬を好むに、傳兵衛も又、馬を愛する心ある者なりければ、すなはち、

「乘馬にせん。」

とて、乘り立てしかど、

「地道(ぢみち)、よろしからず。」

とて、遂に小荷駄(こにだ)にしたりける。されども、松五郞は、はじめにかはらず、この馬を鍾愛して、みづから、抹(まくさ)を飼ひ、又、ある時は、餅菓子などをも食はせ、田畑(たはた)へ牽きもてゆくときも、決して、家僕・雇人などにあづけずして、みづから牽きて、ゆきかへりせしとぞ。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。

『「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧』伊達藩内であろうが、不詳。但し、ちょっと厭な名前だ。雅楽で使われる打楽器で鼓の一種で中型の桴で叩く羯鼓(鞨鼓)(かっこ)の鼓面は馬の皮で出来ているからである。

 又、傳兵衛が菩提所は、眞言宗にて、普賢山福嚴寺[やぶちゃん注:今も同じ福島県伊達市箱崎山岸に現存する(グーグル・マップ・データ)。]といふ。住持は覺應法印とて、文政元年、その齡(とし)六十七歲なりとそ聞えし。又、この寺は傳兵衛が居宅よりは三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル強。]許(ばか)り北のかたにあり。又、その墓所は、寺を距(さ)ること、東南のかた、五町許り[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]にあり。傳兵衛が宅より、墓所は、東南の隅にあたりて、相い去ること、二町程[やぶちゃん注:二百十八メートル。]なり、といふ。

[やぶちゃん注:以上の詳細な距離と方向記載から、現在の箱崎地区内として限定出来る、僅か十九歳にして亡くなった、この馬を愛し、孝行者であった高橋松五郎の墓はこの中央附近にあったものと私は推定する。高橋家はその東のこの中央附近か(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真を用いた)。

 底本でもここは改行がある。]

 松五郞が戒名は「寂光院貞心自了信士」【文政元年戊寅十月廿七日二十歲。】

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 松前家より、件の趣を、よく質(たゝ)し問ひて、家嚴(ちゝ)に示し給ひしは、文政二年六月十三日のことなり。後(のち)の考への爲めに、その筒牘(かんとく/テカミ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を寫し書する事、左のことし。

松前藩長尾氏手簡

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げであるが、活字本として版組みした際、次のページの一行目分を下げるのを忘れている。]

昨夕は罷出御目通、殊に寬々御物語仕、大慶至極奉ㇾ存候。其節申上置候箱﨑馬之巨細書指上候樣被申付、則爲ㇾ持指上候間、御落手願上候。早々頓首。

    六月十三日                        長 尾 友 藏

   瀧澤樣尊下         長 尾 友 藏

[やぶちゃん注:既に注したが、来信の相手は松前藩家臣長尾友蔵(所左衛門)である。]

同藩櫻井氏手簡

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。但し、手簡(書簡)の柱のみ行頭から。]

一筆啓上仕候。甚暑之砌御座候得共、上々樣益御機嫌能被ㇾ爲ㇾ遊御座、御同意奉恐悅候。隨而貴公樣、彌御安泰被ㇾ成御勤仕目出度御義奉ㇾ存候。然者蒙ㇾ仰候箱﨑名馬實說巨細書奉候。宜敷御披露奉ㇾ願候。且又右馬之義茂[やぶちゃん注:助詞の「も」。]、箱﨑傳兵衛從弟龜次郞と申、當時瀨之上(セノカミ)驛[やぶちゃん注:箱崎と阿武隈川を挟んだ南西対岸に福島県福島市瀨上町が現存する。]ニ別宅仕、馬喰商賣仕居候間、同人へ懇意仕候出入園吉と申者へ中含承合候得は、龜次郞心易受合候間、伯父傳兵衛へ申含承合候得者、龜次郞心易受合候而伯父傳兵衛へ申込候處【興繼云、伯父傳兵衛といへは、龜次郞は、則、傳兵衛が爲には甥にはべきを傳兵衛が從弟としるせしは、こゝろえがたし從弟は甥の誤りか。猶、たづぬべし。】[やぶちゃん注:「兎園小説」版ではこの附近がゴッソり存在しない。]中々放候樣子無之旨、態々以飛脚申參り候。右紙面貴公樣迄指上候間、可ㇾ然御取繕御沙汰奉ㇾ願上候。乍ㇾ倂此上是非々々被ㇾ爲ㇾ有思召候者、又々一手段仕見可ㇾ申候得共、先此段奉申上候。猶又、箱﨑傳兵衛居宅・寺・墓所等踈繪圖認奉指上候。彼是可ㇾ然樣御取合奉願上候。殊更此間家内ニ病人有ㇾ之、延引仕候段奉恐入候。何分宜敷御執成奉ㇾ願候。右之趣可ㇾ得貴意、如ㇾ此御座候。恐惶謹言。

    六月二日       櫻 井 耽 齋

   土屋翁平樣

 

Hakosaki2

[やぶちゃん注:上掲のものが、底本のもの。キャプションは、時計回りに、「松五郞墓」、「亀次郞宅」、「セノ上路」、右幅に「ホハラ路」、右幅中央に「ハコサキ村傳兵衞宅」。これだと、亀次郎の家は阿武隈川対岸にはないことになる。不審。]
 

Hakosaki1
 

[やぶちゃん注:後者が「兎園小説」版。キャプションは右から左に、「愛宕山」、「松五郞墓」、「ハコサキ村」。]

 


別紙奉申上候合紙面入御覽候。瀨之上(セノカミ)後藤龜次郞者、箱﨑傳兵衞方ヨリ別家仕者之子ニ而傳兵衛ト者從弟ニ御座候。此段御含ミ被ㇾ置御披露可ㇾ被ㇾ下候以上

  翁平樣              耽 齋

傳兵衛從弟龜次郞手簡

飛脚ヲ以テ申上候。暑氣甚敷候得共、彌御勇健ニ可ㇾ被ㇾ成御渡ト奉ㇾ賀候。然者、先日者御目懸大慶奉ㇾ存候。其節御咄被ㇾ成候箱﨑傳兵衞方へ馬之義申聞候處、實[やぶちゃん注:「まことに」、]忠義ニ相當リ候馬之殼ニ御座候得者、傳兵衛方ニテ飼ころしに仕度よしに御座候。尤前々ヨリ忰松五郞氣ニ入、一人ニ而、飼立候馬ニ御座候ば、猶更右樣之義有之候義而ハ、相はなし兼候趣ニ御座候。右之段何分御斷り申上候。早々此御座候以上

    五月廿七日

             瀨之上

              後藤屋龜次郞

   新田屋園吉樣 要用

長尾友藏は松前家の臣なり【後、改所左衞門。】又、櫻井耽齋も同家臣にて、當時在梁川なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、高橋傳兵衞が從弟なり。櫻井耽齋(さくらゐいうさい)も、同家臣にて、當時、在(ざい)梁川(やなかは)なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、高橋傳兵兵衛が從弟(いとこ)なり。櫻井耽齋、かねて、園吉が龜次郞と識(しれ)る人なるをもて、則、園吉をもて、彼(か)の馬の事をはからはせしに、傳兵衞、かたく辭して、售(う)らざりし事、筒牘(かんとく)に見えたるが如し。抑(そもそも)この竒談は、

「浮きたることにあらず、忠孝の端(はし)にも、かゝつらへるよしあれば、いさゝかも、違(たが)ふことなく、ありつるまゝに、識(しる)しおくべし。」

と、家嚴(ちゝ)のいはれしによりて、この事に及べるのみ。文政八年五月朔 琴嶺興繼

[やぶちゃん注:以下一字下げで依田百川(既注)の評言がある。昨日は、カットする旨を言い、電子化しなかったが、考えを改め、電子化する。

 百川云、凡そ考證の文字は、古事を引證し、彼を較べ、此を比し、無用の事を爭ひ、不急の話を多くするのみ、益ある事、少し。されば、余は考證の文字を好まず。されども、此琴嶺の考證は、よく近時の事を訂正し、その事を實(じつ)にするの功ある。かゝる考證こそ、大に世には益あれ。曲亭の文章,小說には飾(かざり)多く、もとより作りものにはあれども、さもあらぬ道理と思ふもの、少なからず。獨り事實を記するに至りては、一小事(いつせうじ)といへども、苟(いやしく)もせず。琴嶺もまた、その志(こゝろざし)を繼ぎて、この訂正あり。父子、心を用ゐるの老實(ろうじつ)[やぶちゃん注:物事に慣れていて誠実であること。 ]なるは多く得がたし。

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)

 

[やぶちゃん注:本篇は、遠い昔、ネットを始めたばかりの二〇〇六年九月三日に平凡社「南方熊楠選集」を底本としてサイト版で電子化しているのだが、今回は全くの零から始めて、しかも詳注附きで改めて電子化に入る。長いので、幾つかの段落部分で分けて電子化注する。途中からだが、どうも読点がなくて読み難い箇所に、読点を特異的に打った。]

 

        牛王の名義と烏の俗信

 

         

 鄕土硏究に出た「守札考」の中に、淸原君は、牛王(ごわう)の名の起原を論じて「要するに牛王の符は、牛黃なる靈藥を密敎で其儀軌に收用し一種の加持を作成した事から起つた者であらう」と言はれた。乃ち舊說に牛王は牛玉で有て又牛黃牛寶とも稱し、牛膽の中から得る所の最も貴き藥である、之を印色として符の上に印するより牛王寶印と稱すと云ふに據つたものだ(鄕土硏究三卷四號一九七、一九九頁)。和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末と有り、田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケと云ふ部落の大將、予と年來相識の者の話に、牛の腹より極めて貴き黃色の物稀(まれ)に出で芬香比類無しゴーインと名くと云ふたのは牛王印の訛りだらう。東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す。格別上品で大きい牛黃だつた物か。又牛膽中より得る極て香しき牛黃の外に、韋皮(なめしがは)の樣な臭有る牛の毛玉(けだま)てふ物を膓から出す事有り。和漢三才圖會に俗間有牛寶、形如玉石、外面有毛、蓋此如狗寶鮓荅之類、牛之病塊、與牛黃一類二種也、庸愚賣僧輩、爲靈物、或以重價索之、其惑甚哉と云へるは是だ。此邊で之を懷中すれば勝負事に運强いと云ふ。實朝が布施したのは此毛玉かとも思ふ。

[やぶちゃん注:『鄕土硏究に出た「守札考」』『郷土研究』に清原貞雄著「守札考(上)」(大正四(一九一五)年六月発行)及び同翌月号「守札考(下)」が載ることが国立国会図書館「レファレンス協同データベース」のこちらで確認出来た。「鄕土硏究三卷四號」とあるのは前者。

「牛王」清原氏の論文名から、ここは熊野神社・手向山八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などの諸社寺で出す厄難除けの護符「牛王(玉)宝印」(中世のものが「玉」が多い)のこと。図柄はそれぞれに異なるが、七十五羽の鴉を図案化した「熊野牛王」は有名(私は熊野三社総てのそれを書斎に配してある。私のブログのマイ・フォトの「SCULPTING IN TIME 写真帖とコレクションから」を見られたい。上段の一番左が熊野速玉大社(新宮)のもの、中央が一番のお気に入りの熊野那智大社、一番右が熊野本宮大社のものである)。その裏は誓紙や起請文を書く際に神かけたものとするために用いた。

「和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末」(うしのたま)「と有り」私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)」の原文・訓読及びオリジナル注を参照されたい。

「田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケ」現在の和歌山県田辺市芳養町(はやちょう)のこの旧崖地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す」建保五(一二一七)年五月大の二十五日の条に、

   *

廿五日壬丑 於御持佛堂。被供養文殊像。導師壽福寺長老。而將軍以年來御所持牛玉爲御布施。廣元朝臣不可然之由。雖傾申。不能御許容云々。

(廿五日壬丑 御持佛堂に於いて、文殊像を供養せらる。導師は壽福寺長老[やぶちゃん注:退耕行勇。]。而うして、將軍、年來の御所持の牛玉(ぎうぎよく)を以つて御布施と爲すに、廣元朝臣、「然るべからざる」の由、傾(かたぶ)け申すと雖も、御許容に能はずと云々。)

   *

大江広元は畜生の体内から得た物を梵珠菩薩に供儀することを宜しくないと進言したのである。

「香しき」「かぐはしき」。

「和漢三才圖會俗間有牛寶……」先の私のリンク先を見られたいが、

   *

△按ずるに、俗間、牛寳(うしのたま)有り、形、玉石のごとく、外靣に毛あり。蓋し、此れ、狗寳(いぬのたま)[やぶちゃん注:「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」を参照。]のごとくにして、「鮓荅(さとう)」の類ひなり。牛の病塊(びやうかい)たる牛黃とは、一類にして二種なり[やぶちゃん注:「別種のものである」の意。「牛黃」を特別視する習慣によるもの。]。傭愚(おろかもの)・賣僧(まいす)[やぶちゃん注:「まい」「す」ともに唐音。仏法を種に金品を不当に得る僧。禅宗から起こった語で、後に単に人を騙す者の意にも転じた。]の輩(やから)、靈物(れいもつ)と爲(な)し、或いは重き價(あたひ)を以つて之れを索(もと)む。其れ、惑(まどひ)の甚しきかな。

   *

で、寺島良安は効能を全く認めていないことが判る。なお、こうした「鮓荅(さとう)」(各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称したもの)については、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。]

 曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時、その弟子證空これに代り死なんとて晴明を請うて請じて祀り替へしむるところに、「晴明禮拜恭敬(らいはいくぎやう)して、云々、既に祭文に及びければ、牛王の渡(わた)ると見えて、種々のさんせん幣帛或は空に舞上がりて舞遊び、或は壇上を跳り廻る、繪像の大聖不動明王は利劒を振り給ひければ、其時晴明座を立て珠數を以て證空の頭を撫で、平等大慧一乘妙典と言ひければ、則ち上人の苦惱さめて證空に移りけり」と出づ。爰に牛王と云へるは牛黃では分らず、假令牛黃又牛王寶印とするも、文の前後より推すと牛黃又牛王寶印其物を指さずして其物の精靈乃ち牛黃神又牛王寶印神とも稱すべき者を意味し、修法成就の際右樣の神が渡り降る[やぶちゃん注:「くだる」。]と同時に供物が自ら動き出すこと、恰も今日の稻荷下げに彌よ神が降る時幣帛搖(ゆれ)廻る如くだつたのであらう。例せば、唐譯不空羂索神變眞言經に見えた藥精味神が、狀如天形、衆寶衣服備莊嚴、身手便執持俱延枝果、無垢藥精大毒威云々、力能人吸奪精氣。それを畏れずに、持眞言者が咒を誦し打ち伏せると藥精の身から甘露を出す。それを採つて眼と身に塗れば金色仙と成り得、又藥精の髮を取つて繩として腰に繫(かく)れば何處に行くも障礙無しと有り。芳賀博士も予も出處を見出だし得ぬが、今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり(鄕硏究一卷六號三六四頁及九號五五二頁參照)。徒然草に大根が人と現じて人の急難を救ふ譚出で、歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)(A. de Gubernatis, “La Mythologie des Plantes,” 1882, tom. ii, p. 213 seqq.)、印度のツラシ草(同書同卷三六五頁)、チエロキー印甸人[やぶちゃん注:「インジアン」。インディアン。]の人參(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)等、何れも植物ながら人體に象れる根又全體を具し、靈妙の精神を有すと信ぜられ、それ程には無いが、熊野で疝氣等の妙藥と傳へらるゝ「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)も、之を見出だした卽時採らずに歸宅して復往くと隱れ去つて見えぬと言ふ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時……」国立国会図書館デジタルコレクションの武笠三校訂「義経記・曽我物語」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊。貞享四(一六八七)年刊本が底本)で示すと、当該条は「八 泣不動(なきふどう)の事」であるが、前の「七 三井寺の智興大師の事」から読まないと判らない。軍記物によくある、ある事態やケースに対して同様の例を示すに、ずっと過去に遡った事例を引き合いに出して語るところの一種の「語りの脱線」的部分で、蘇我兄弟の仇討ちとは無関係である。この話は、「宝物集」(巻三)、「発心集」(巻六)、「義経記」(巻五)などにも見え、陰陽師のチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~ 寛弘二(一〇〇五)年)が登場するからか、かなりメジャーな話である。読んで戴ければ判るが、智興大師が重病に陥り、晴明を呼ぶが、助けるためには、身代わりとなる死者が必要と述べ、智興の弟子證空が名乗り出て、病いが證空に移るに(熊楠はここまでしか書いていない)、證空が持仏の不動尊に祈ったところ、絵像が血の涙を流して、「我、汝の身に代わらん。」と言い、智興も證空も無事であったという話である。

「智興大師」阿闍梨智興内供奉(ないぐぶ ?~安和三(九七〇)年)。平安初期の僧。「内供」は宮中の道場で天皇に奉仕して御斎会の読師や修法を勤めた僧職。

「さんせん」「散錢」であろう。私の所持する王堂本「曾我物語」では「きんせんさんぐ」で「金錢」(「さんぐ」は「散供」であろう)であるが、「散錢」でも問題ない。

「稻荷下げ」稲荷信仰の内でも民間の巫者は、稲荷神を守護神として祀り、「稲荷下げ」「稲荷降(おろ)し」と称される託宣を行うことが多い。

「不空羂索神變眞言經」不空羂索観音を説く経典。大小約六十種ほどの色々な儀軌から構成されており、「大日経」以前に成立したと推定されている初期密教経典で、七〇九年頃に菩提流志によって漢訳されたもの(こちらの木村秀明氏の論文「『不空羂索神変真言経』「護摩安穏品」所説の護摩儀軌」PDF・『印度學佛教學研究』平成一六(二〇〇四)年十二月)に拠った)。

「藥精味神」不詳。古代インドの薬を司る荒神か。

「狀如天形……」平凡社選集の訓読を参考(無批判には従わない)に読み下す。

   *

狀(かたち)、天の形のごとく、衆寶の衣服、備(つぶ)さに莊嚴にして、身・手には便(すなは)ち、俱延枝果(ぐえんしくわ)を執り持ち、無垢なる藥精は大毒威ありて云々、力は能く人の精氣を吸ひ奪ふ。

   *

「金色仙」「こんしきせん」と読んでおく。道教の最上級の仙薬金丹を含んで不老不死の一切の傷を身に受けることのないフル・メタル・ジャケットみたような神仙となることか。

「芳賀博士」国文学者芳賀矢一(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)。越前国福井生まれ。父芳賀真咲も国学者であった。第一高等中学校から帝国大学文科大学を卒業。明治三一(一八九八)年に東京帝国大学助教授、翌年からドイツに留学し、文献学を学び、明治三四(一九〇一)年に帰国して東京帝国大学教授となった。二年後には文学博士を取得している。南方熊楠とは東京帝大予備門での同級生であり(熊楠は明治一八(一八八五)年十二月二九日に期末試験で代数一課目だけが合格点に達しなかったため、落第し、予備門を中退した)、「今昔物語集」の研究などで交流があった。

「今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり」「今昔物語集」巻第四の「震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二」(震旦(しんだん)の國王の前に阿竭陀藥(あかだやく)來たれる語(こと)第三十二)である(「新日本古典文学大系」版(第一巻・今野達校注・一九九九年)を参考に用い、漢字は正字化した。□は欠字)。「震旦」は古代インドで中国を指した呼称「チーナスターナ」(「シナの土地」の意)と呼んだものの音写漢訳。「阿竭陀藥」は今野氏によれば、『単一特定の薬名ではなく、ある種の解毒薬の汎称だったらしい』とある。

   *

 今は昔、震旦の□□代に國王、在(まし)ましけり。一人の皇子(わうじ)有り。形、端正にして、心□□也。然れば、□□□□父の王、此の皇子を悲しみ愛し給ふ事、限り無し。

 而るに、皇子、身に重き病ひを受けて、月來(つきごろ)經たるに、國王、此れを歎きて、天に仰ぎて、祈請し、藥を以つて療治すと云へども、煩ふ事、彌(いよい)よ增さりて、𡀍(い)ゆる事、無し。

 其の時に、大臣として、止む事無き醫師有り。而るに、國王、此の大臣と極めて、中、惡しくして、敵(かたき)の如し。然れば、此の皇子の病ひをも、此の大臣には、問はれず。

 然りと云へども、此の大臣、醫道に極めたるに依りて、國王、皇子の病ひ、問はむが爲に、年來(としごろ)の怨(あた)を思ひ、弱り給ひて、忽ちに大臣を召す。

 大臣、喜びを成して參りぬ。

 國王、大臣に出で會ひて、語りて宣はく、

「年來、互ひに怨を成して、親しまずと云へども、皇子、身に病ひを受けて煩ふに、諸(もろもろ)の醫師を召して、療治せしむるに、𡀍ゆる事、無し。然(さ)れば、年來の怨を忘れて、汝を呼ぶ。速かに、此の皇子の病ひを療治して𡀍(い)えしめよ。」

と。

 大臣、答へて云はく、

「實(まこと)に、年來、敕命を蒙(かうぶ)らず、暗夜(やみのよ)に向へるが如し。今、此の仰せを奉(うけたま)はる、夜の曉(あ)けたるが如し。然(さ)れば、速かに御子(みこ)の御病ひを見るべし。」

と云ふに隨ひて、大臣を呼び入れて、皇子の病ひを見しむ。

 大臣、皇子を見て云はく、

「速かに藥を以て療すべし。」

と云ひて、出でぬ。卽ち、藥を以つて、大臣、參りて云はく、

「此れを服(ぶく)せしめ給はば、御病ひ、卽ち、𡀍ゆべし。」

と。

 國王、此れを聞きて、喜び乍ら、此の藥を取りて、見て、宣はく、

「此の藥の名をば、何とか云ふ。」

と。早う、大臣の構へける樣(やう)[やぶちゃん注:事前に医師大臣が内心で企んで思ったことによれば。]、

『此れは、藥には非ずして、人、此れを服しつれば、忽ちに死ぬる毒を、「藥ぞ」と云ひて、此の次(つい)でに、年來の怨を酬いて、皇子を殺さむ。』

と思ひて、毒を持(も)て來たれるを、國王の、藥の名を問ひ給ふ時に、大臣、思ひ繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:どきっとして、あれこれと思案に迷って。]、

『何が云はまし。』

と思ふに、只、何ともなく、

「此れなむ、『阿竭陀藥(あかだやく)』と申す。」

と。

 國王、「阿竭陀藥」と聞き給ひて、

「其の藥は、服する人、死ぬる事、無かんなり[やぶちゃん注:死ぬことはないそうだ。]。『皷に塗りて打つに、其の音を聞く人、皆、病ひを失ふ[やぶちゃん注:病が癒える。]事、疑ひ無し。』と聞く。況や、服せらむ人、何(な)どか病ひを𡀍ざらむ。」

と深く信じて、皇子に服せしめつ。

 其の後、皇子の病ひ、立ち所に𡀍ぬ。大臣は既に家に還りて、

『御子は、卽ち、死ぬらむ。』

と思ひ居たる間に、

「卽ち、𡀍ぬ。」

と聞きて、怪しび思ふ事、限り無し。

 國王は、大臣の德に依りて、皇子の病ひ𡀍ぬる事を、喜び思ひ給ふ。

 而る程に、日、晚(く)れぬ。夜に入りて、國王の居給へる傍らを、叩く者、有り。

 國王、怪しびで、

「何ぞの者の、かくは、叩くぞ。」

と問ひ給へば、

「阿竭陀藥の參れる也。」

と云ふ。

 國王、

『奇異也。』

と思ひ給ひ乍ら、叩く所を開(あ)けたれば、端正なる、若き男女(なんによ)、來たれり。

 國王の御前に居て、語りて云はく、

「我れは、此れ、阿竭陀藥也。今日、大臣の持て參りて服せしめつる藥は、極めたる毒也。服する人、忽ちに命を失ふ者也。大臣、御子を殺さむが爲に、毒を『藥ぞ。』と名付て、服せしめつるに、王の、『此の藥の名をば、何(いか)が云ふ。』と問はせ給つるに、大臣、申すべき方(はう)無きに依りて、只、心に非ず、『此れ、阿竭陀藥也。』と申しつるを、王、深く信じて、服せしめ給はむと爲(す)る程に、『阿竭陀藥ぞ。』と云ふ音(こゑ)の、髴(ほのか)に聞えつるに依りて、『然らば、阿竭陀藥を服する人は、忽ちに死ぬる也けりと知らしめされじ。』と思ふに依りて、我が、忽ちに來り、代はりて、服せられ奉る也。然れば、御病は立所に𡀍え給ひぬる也。此の事を申さむが爲に、我れ、來れる也。」

と云て、卽ち、失ぬ。

 國王、此の事を聞き給て、肝・心を碎くが如し。

 先づを大后(おほきさき)召して、此の由を問はるるに、隱し得ずして顯れぬ。[やぶちゃん注:「大后」は王子の母(后)となるが、唐突にでてきて違和感がある。今野氏もそう注された上で、『「后」は「臣」の誤写であろう』と述べておられる。]

 然(さ)れば、大臣の首を、斬られぬ。

 其の後(のち)、御子、身に病ひ無くして、久しく持(たも)ちけり。此れ、阿竭陀藥を服せるに依りて也。

 然れば、諸の事は、只、深く、信を成すべき也けり。信を成せるに依りて、病を𡀍やす事、此くの如くとなむ、語り傳へたるとや。

   *

「徒然草に大根が人と現じて人の急難を救ふ譚出で」同書第六十八段の大根好きの男の不思議な話。「怪談老の杖卷之一 杖の靈異」の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)」ナス目ナス科マンドラゴラ属 Mandragora の植物。マンドレイク(Mandrake)とも呼ぶ。別名その根は時に人形(ひとがた)を呈し、西洋の妖しげな呪術書によく出てくる。当該ウィキによれば、『古くから薬草として用いられたが、魔術や錬金術の原料として登場する。根茎が幾枝にも分かれ、個体によっては人型に似る。幻覚、幻聴を伴い』、『時には死に至る神経毒が根に含まれる』。『人のように動き、引き抜くと悲鳴を上げて』、その声を『まともに聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説がある。根茎の奇怪な形状と劇的な効能から、中世ヨーロッパを中心に、上記の伝説がつけ加えられ、魔術や錬金術を元にした作品中に、悲鳴を上げる植物としてしばしば登場する。絞首刑になった受刑者の男性が激痛から射精した精液から生まれたという伝承もあり』、『形状が男性器を彷彿とさせる』とも言う。『また』、『この植物のヘブライ語「ドゥダイーム」は、「女性からの愛」を指すヘブライ語「ドード」と関連すると考えられ』、『多産の象徴と見られた』。『南方熊楠は、周密などの書いた中国の文献に登場する「押不蘆」なる植物が、麻酔の効果らしき描写、犬によって抜くなどマンドレイクと類似している点、ペルシャ語ではマンドレイクを指して「ヤブルー」と言っている、また、パレスチナ辺で「ヤブローチャク」と言っている点から、これは恐らく宋代末期から漢代初期にかけての期間に、アラビア半島から伝播したマンドラゴラに関する記述であると指摘し』、『雑誌『ネイチャー』に、その自生地がメディナであると想定した文を発表し』ている。一方、『古代ギリシャでは「愛のリンゴ」と呼ばれ、ウェヌスへ捧げられ』、『また、ウェヌス神話における「黄金のリンゴ」がマンドレイクであるとする説もある』ともある。『マンドレイクは地中海地域から中国西部にかけてに自生する』『薬用としては』Mandragora officinarumMandragora autumnalis Mandragora caulescens の『三種が知られている。ともに根にヒヨスキアミン』(hyoscyamine)・『トロパンアルカロイド』(Tropane alkaloids)・『クスコヒグリン』(Cuscohygrine)『など数種のアルカロイドを含』み、『麻薬効果を持ち、古くは鎮痛薬、鎮静剤、瀉下薬(下剤・便秘薬)として使用されたが、毒性が強く、幻覚、幻聴、嘔吐、瞳孔拡大を伴い、場合によっては死に至るため』、『現在』じゃ『薬用にされることはほとんどない。複雑な根からは人型のようになるのもあり、非常に多く細かい根を張る事から』、『強引に抜く際には大変に力が必要で、根をちぎりながら抜くと』、実際に『かなりの音がする』とある。私はさんざん種々の本で読んできたので頗る既知である。より詳しくは、リンク先にまだ書かれているので読まれたい。

「A. de Gubernatis, “La Mythologie des Plantes,” 1882, tom. ii, p. 213 seqq.」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「植物の神話」。Internet archive」こちらで当該原文箇所が見られる。右ページ下方である。

「印度のツラシ草(同書同卷三六五頁)」同前のここ。右ページの中央附近に‘tulasi’という単語が盛んに見出される。これは「tulsi」とも綴り、そもそもがヒンディー語で「トゥルシー」、和名はカミメボウキ(神目箒)で、キク亜綱シソ目シソ科メボウキ属カミメボウキ Ocimum tenuiflorum 。アジア・オーストラリアの熱帯を原産とし、栽培品種や帰化植物として世界各地に広がった植物で、芳香を有する。英語では「ホーリーバジル」(holy basil:聖なるバジル)と呼ばれるようにバジルの一種。ヒンドゥー教では最も神聖な植物とされ、アーユルベーダの中心となる薬草で、古代から栽培されてきた。

「チエロキー印甸人の人參(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)」掲載誌はアメリカ合衆国スミソニアン研究所の『アメリカ民族学局紀要』のことと思われる。「Cherokee carrot」で検索してみたが、特殊な種なのかどうか、よく判らない。まあ、本邦産の人参も人形を呈することはままあることであり、ニンジンのそうしたものをチェロキー族が神聖なもの或いは呪的なものとして使用した可能性は大いにあろう。

「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科ツチアケビ属ツチアケビ Cyrtosia septentrionalis 。土木通。かなり強烈な赤い実(茎ともに)を熟す(私は見たことがない。人気のない山中でこれを見たら、ちょっと慄っとすると思う)。当該ウィキによれば、『森林内に生育するラン科』Orchidaceae『植物である』が、同科の植物としても、『腐生植物(菌従属栄養植物)としても』、『非常に草たけが高く、大きく赤い果実がつくことから』、『人目を引く。日本固有種。別名はヤマシャクジョウ(山錫杖)等』。なお、双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata とは何の関係もない植物である。『地上部には葉などは無く、地面から鮮やかな黄色の花茎が伸び、高さは』一『メートルに達する。秋になると』、『花茎の上部に果実がつき、熟すると長さが』十『センチメートルにもなり、茎を含めて全体が真っ赤になる』。纏まって『発生することがよくある』。『和名は地面から生えるアケビの意であると考えられるが、果実は熟しても裂開せず、形状以外は』、『さほど似ない。果実には糖分が含まれ』、『人間にも微かな甘味は感じられるが、タンニンが多量に含まれ、化学薬品のような強烈な異臭と苦味もあり、食用にはならない。民間では「土通草(どつうそう)」と呼ばれ、強壮・強精薬とされる。薬用酒の材料に用いられるが、薬用効果についての正式な報告はほとんどない。採集すると』、『時間の経過とともに黒変する。種子はラン科としては比較的大きく、肉眼で形状がわかる』。『光合成を行う葉を持たず、養分のすべてを共生菌に依存している』。茸のナラタケ(楢茸:菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ 亜種ナラタケ Armillaria mellea subsp. Nipponica )『とラン菌根を形成し、栄養的に寄生している。地下には太い地下茎があって、長く横に這う。地下茎には鱗片状の葉(鱗片葉)がついている』。『初夏に花茎を地上に伸ばす。花茎は高さが』五十センチメートルから一メートルに『達し、全体が黄色または濃いピンク色で、鱗片葉はほとんどみられない。あちこちに枝を出して複総状花序となり、枝の先端に花を咲かせる。花は』三『センチメートル近くになり、全体にクリーム色で肉厚である』。『果実は秋に成熟する。果実は楕円形、多肉質で、熟するにつれて重く垂れ下がり、多数のウインナーソーセージをぶら下げたような姿になる。果実は肉質の液果である。その点でバニラ』(ラン科バニラ属バニラ Vanilla planifolia )『などと共通しており、これらはやや近縁とも言われる』。『腐生ラン類は非常に生育環境が限定されるものが多いが、ツチアケビは森林内であれば比較的どこにでも出現し、スギやヒノキの人工林等でも見かけることがある』。『通常、ラン科植物は埃種子と呼ばれる非常に微小な種子を大量に風に乗せる種子散布を行っているが』、二〇一五『年の京都大学の研究により』、『ヒヨドリなどの鳥によるツチアケビの種子散布が明らかになった。これは世界で初めてのラン科植物における動物による種子散布の報告である』とある。]

只野真葛 むかしばなし (34)

 

 また、金右衞門といふ者、長崎より來りしが、人の名「のぼり」と、中あしき故、桂川へ世話成(な)て、つかはされし。長崎ことばにて喧嘩するは、一向、わからず、ただ、おかしきものなりし。

 其内、むねのわるいことをいうと、

「公所を、おれが前で食たいの、わることを、きりぬかしをる。」

と、いひしが、おかしくて、おぼへたり。

[やぶちゃん注:二段落目は全く意味が分からない。識者の御教授を乞う。

「32」に出た「樋口司馬」の初名「のぼり」(これは或いは田舎者を軽蔑して言う「おのぼりさん」の「のぼり」という綽名のような気がしてきた)と同じで「人の名」であることを示しためのもので、『人の名。「のぼり」』という注意書きと読んだ。

「桂川」桂川甫周。既出既注。]

 書(かき)おとしたり。元丹は、のぼりよりも、二、三年、早く來りし人なり。松前そだちの大荒男、あと先のわきまへもなく、お名を聞(きき)およびて、一筋に、「つて」も、もとめず、來(こ)しを、

「うけ人なくては、さしおきがたし。」

とて、かへさるゝ所なりしを、ばゞ樣、被ㇾ仰には、

「それは御尤のことながら、遠路わざわざ來りしものを、二、三日もやすませてから、かへされよ。」

と被ㇾ仰し故、御とゞめ被ㇾ成しが、其なりにて、居(をり)し人なり。後々までも、

「御袋樣のおかげで、『こぢき』に成らずに仕舞ました。」

とて、有がたがりて有し。

 元丹十九の年にて有し、となり。鹽引・筋子《すじこ[やぶちゃん注:ママ。]》などつみし舟にのりてこしが、筋子のかげんよかりしを、

「いくらでも食へ。」

と船頭いひし故、廿五本一息に食(くひ)し時、

「くわしやるはよいが、あたりでもしては世話だから、やめよ。」

と、いはれて、やめしとぞ。

 蜜柑などは、

「めづらし。」

とて、二、三年の間は、たね袋は申におよばず、皮まゝ、

「ふつふつ」

と、くひたりしが、四、五年も、居(ゐ)なじみては、扨《さて》、人は「おごり」の付(つく)ものなり、今では

「皮が、くわれぬ。」

といひて、人笑し。

 此折が桑原をぢさまの、大ふさぎの時なり。をぢ樣は父樣に十おとりなれば、母樣婚禮の時分は、十五、六なるべし。

 父樣は世話好故、萬事、へだてなく、療治の仕樣(しざま)も、こゝろざしのたかきことも、うちこんで御せわ被ㇾ成しなり。

 をぢ樣は、殊の外、病身にて、

「長命、こゝろもとなし。」

と、いはれたる御人なりし。

 それを、父樣、たんせいにて、色々、御療治、時疫も御わづらひ、のがれがたかりしをも、晝夜、つきそひ、御世話にて、本復、此十年ばかりの間は、かろからぬ御恩をうけられしに、後にいたり、さ樣の事ははなしにもださず、結句《けく》、人中(ひとなか)にては、弟子をとりあつかう樣に、にくて口被ㇾ成し故、父樣、御立腹被ㇾ成しこと、元をしりては、尤の事なり。それ故、他所(よそ)にて同座を御きらい被ㇾ成しなり。

[やぶちゃん注:「にくて口被ㇾ成し故」「憎手口(に)成られし故」で「生意気な言い方をするようになったので」の意であろう。]

 桑原ぢゞ樣御かくれ後、くらしかたもむつかしくなり、父樣は、だんだんいきおひよかりし故、内證の世話も、かれ是被ㇾ成しを、一向沙汰なしに、棒判をして、借金被ㇾ成てもめたる事、有し。其時も、

「世話がひなく、堪忍なりがたし。」

と、おぼしめされしかども、

「ちかしき御中、金の出入にて義絕被ㇾ成も、いかゞし。」

とて、やうやう御かんにんは被ㇾ成しが、あひそは、つきて仕舞しなり。

[やぶちゃん注:「棒判」「謀判」であろう。他人の書判・印判を偽造・盗用すること。恐らくは保証人に真葛の父工藤周庵の書判を偽造したものであろう。]

その後、少々、はやり出してから、病家々々へ、父樣をざんげん專(もつぱら)に被ㇾ成しこと、あらはれ、

「此度は、かんにんならぬ、弟に付(つく)といはゞ、母樣をも、離緣被ㇾ成(なされ)。」とて、【此さわぎは、そなた樣三ツ四ツの時なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。大きに御腹たゝれしこと有しを、善助樣中へたゝれ、

「かさねがさね、隆朝仕方、あしゝ。立腹、尤のことなり。さりながら、子供もあまた有、夫婦中、あしきこともなきに、里方と、とかくいふは、隆朝を人だとは、おもはぬがよい。大惡黨のわるものだ、とおもつて、緣につながる不肖と、心ひろく、かんにん、せられよ。世間に、いくらも有こと。」

と被ㇾ仰しにつきて、御かんにん被ㇾ成しより、ワなども、

「うまき心は、なき人。」

と覺悟して、うわべばかりの、うやまひにて有しなり。其末代となりては、眞の敵役(かたきやく)に成きわまりしものなり。

2021/09/12

小酒井不木「犯罪文學硏究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (16) ラフカヂオ・ハーンの飜譯

 

      ラフカヂオ・ハーンの飜譯

 德川時代の怪異小說は、前にも述べたごとくそれ自身さほどの文藝價値を持たないのに、一たびラフカヂオ・ハーン(小泉八雲)の手に飜譯されて、英米に紹介されると、世界的の名聲を博することが出來た。それはいふまでもなくハーンの天才によつて、飜譯とはいふものの一種獨得の詩味を持たされ、到底原作からは得られないやうな夢幻的な美感を與へられるからである。私は英米の怪異小說を愛好さるゝ讀者に、是非、ハーンの作物を御勸めしたいと思ふので、特にこゝに紹介して置くのである。

 怪異小說を取り入れたハーンの物語集にはKwaidan, Kotto, A Japanese Misellany,  Shadowing, ln Ghostly Japan などがあるが、この中 Kwaidan が最もポピュラーになつて居る。この中には臥遊奇談から取つた『耳なし保(ほ)一の話』夜窗鬼談から取つた『お貞の話』『鏡と鐘』怪物輿論から取つた『ろくろ首』百物語から取つた『貉』新選百物語から取つた『極祕』玉すだれから取つた『靑柳の話』の外に、ハーンが直接、地方の農夫などから聞いた話が收められている。中にも『貉』は極めて短いけれども、珠玉のような作品である。

[やぶちゃん注:『耳なし保(ほ)一の話』ママ。

 以下、底本では引用部は全体が二字下げ。但し、版組みの誤りと思われるが、エンディングに近い、長い一文「かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。」のみ、二行目が行頭から書かれてある。]

『京橋の某商人が、ある夜遲く紀伊國坂をとほりかゝると御堀のそばに一人の女が、頻りに泣いて居た。彼はそれを哀れに思つて、近づいてよく見ると、立派な服裝をした良家の若い娘であつた。

『お女中、どうしたのですか。』と、彼は聲をかけたが、彼女は袖に顏を埋めて、泣き續けた。

『お女中、どうしましたか。お話なさい。』

 彼女は立ち上つたけれども、相も變らず彼に背を向け、袖に顏を埋めて泣いた。やがて彼は彼女の肩に手をかけて『お女中、お女中』と頻りに呼ぶと、彼女ははじめて振り向いて袖をおとし、手をもつてその顏をつるりと撫でた。見ると眼も鼻も口もないのつぺら棒の顏であつた。

『ヒヤツ!』と言つて彼は夢中になつて駈け出した。紀伊國坂にはそのとき人一人とほつて居なかつたが、彼は驀地《まつしぐら》に走り走つた。と、前方に提燈の灯が見えたので、ほつと思つてかけつけて見ると、それは蕎麥賣りの灯であつた。

『あゝ、あゝ、あゝ』と彼は叫んだ。

『これ、もし、どうしたんです?』と蕎麥賣りの男はたづねた。

『あゝ、あゝ』

『强盜にでも逢つたのですか。』

『いや、いや、お堀のそばで、若い女に、あゝ、その顏が……』

『えゝ? ではその顏は、こんなでしたか?』

 かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。

 はつと思ふと提燈の燈が消えた。』

 これはもとより逐字譯ではないが、全篇がみな、かうした鹽梅に引きしめて書かれてある上に、ハーン獨特の詩的な而もわかり易い文章を以て物されてあるから、思はず釣りこまれて讀んでしまふのである。

[やぶちゃん注:私はまず、古くに『柴田宵曲 續妖異博物館 ノツペラポウ 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を電子化注しており、英語原文もそこに載せてある。後に、別底本を用いた電子化「小泉八雲 貉 (戶川明三譯) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」では、小泉八雲が原拠としたものも電子化して示してある。

 というより、私は、

私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」に於いて、小泉八雲が来日して以来、亡くなるまでに書かれた全公刊作品を、「小泉八雲全集」を元にして、それを総て、電子化注として既に、昨年の二〇二〇年一月十五日に完遂している

のである。更に言えば、もっと古くには、サイト版で、

OF A PROMISE BROKEN(英文原文)

「破られし約束」 藪野直史現代語訳

及び

JIKININKI(英文原文)

「食人鬼」 藪野直史現代語訳

も公開している。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (15) 主觀的怪異を取扱つた物語

 

      主觀的怪異を取扱つた物語

 順序としては當然、淺井了意の伽婢子を紹介すべきであるが、江戶時代の怪異小說の元祖とその大成者たる上田秋成を對照せしめて述べた方が面白いと思ふから、後に雨月物語を紹介するときに一しよに述べ、こゝでは先づ、櫻陰比事の作者たる西鶴の諸國咄から二三の物語を讀んで見ようと思ふ。

[やぶちゃん注:「諸國咄」「西鶴諸國ばなし」とも。浮世草子で井原西鶴作画。貞享二(一六八五)年に大坂池田屋三郎右衛門刊。大本五巻五冊。各巻七話で全三十五話から成る。上質な創作怪奇談集として私の好きなものである。これについては、読みは、リンク先ではなく、所持する平成四(一九九二)年明治書院刊「決定版 対訳 西鶴全集」第五巻を使用した。]

 諸國咄は一一名大下馬《おふげば》とも呼び、怪異小說と稱することの出來ぬ物語も澤山はひつて居る。又、怪異を取扱つたものでも曩に櫻陰比事を紹介したときに述べたやうな、西鶴一流の冷やかかな筆づかひがしであるので、怪異小說の要素たる凄味があまり出て居ないのである。例へば『鯉にちらし紋』と第する一篇を見ても、よくその全般を知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:「鯉にちらし紋」昭和一五(一九四〇)年日本古典全集刊行会刊の「西鶴全集第三」の「諸國咄」の巻四のここから。挿絵もある。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

『川魚は淀を名物といへども、河内ノ國の内助《ないすけ》が淵《ぶち》の雜魚までしすぐれて見えける。この池昔よりに今に水かはく事なし。此堤に一つ家をつくりて内助といふ獵師、妻子も持たず只ひとり世を暮しける。つねづね取溜《とりため》めし鯉の中に、女魚《めす》なれども凛々しく、慥に目見じるし[やぶちゃん注:個体識別出来る目印。]あつて、そればかりを賣殘して置くに、いつのまかは鱗《いろこ》に一つ巴《どもへ》出來《でき》て、名をともゑと呼べば、人の如くに聞さわけて、自然となづき後には水を離れて一夜《ひとよ》も家《や》のうちに寢させ、後にはめしをも食ひ習ひ、また手池《ていけ》[やぶちゃん注:自家内に設けた生簀。]に放ち置く。はや年月を重ね、十八年になれば、尾頭《をかしら》[やぶちゃん注:全長。]かけて十四五なる娘のせい程になりぬ。或時、内助にあはせ[やぶちゃん注:縁組み。]の事ありて、同じ里より年がまへなる[やぶちゃん注:年配の。]女房を持ちしに、内助は獵船《りやうせん》に出しに、その夜の留守にうるはしき女の、水色の著物に立浪《たつなみ》のつきしを上に掛け、裏の口よりかけ込み、我は内助殿とは久々の馴染にして、かく腹には子もある中なるに、またぞろや此方を迎へたまふ。この恨やむ事なし、いそいて親里へ歸へりたまへ、さもなくば三日のうちに大浪をうたせ、此家をそのまゝ池に沈めんと申し捨てゝ行方しれず。妻は内助を待ちかね、恐しきはじめを語れば、さらさら身に覺えのない事なり、大かた其方も合點して見よ、この淺ましき内助に、さやうな美人靡き申すべきや、もし在鄕まはりの紅や針賣りかゝには思ひ當る事もあり、それも當座々々に濟ましければ別の事なし、何かまぼろしに見えつらんと、又夕暮より舟さして出るに、俄かにさゞなみ立つてすさまじく、浮藻の中より大鯉舟に飛び乘り、口より子の形なる物を吐き出し失せける。やうやうに遁げに歸りて、生簀を見るに彼の鯉はなし、惣じて生類を深く手馴れる事なかれと、その里人の語りぬ。』

[やぶちゃん注:脅したような大津波によるカタストロフは起らないのは、人の子として生まれた子を託す女型妖怪の不憫というべきか。]

 すなはち、一種の敎訓小說であつて、凄味などは眼中に置かれて居ないかの觀がある。なほ又、この外に、怪異を取扱つた物語でも現實味が頗る多い。『傘の御託宣』では、慶安二年[やぶちゃん注:一六四九年。]の暮、紀州掛作《かけづくり》の觀音の貸傘を、藤代の里人が借りて和歌吹上にかゝると、玉津島の方から、神風がどつと吹いて來て、それがためその傘が吹きとばされ、肥後の國の奥山、穴里《あなざと》といふ所へ落ちた話が書かれてある。さて穴里の人々は、傘を見たことがないので、何だらうかと色々評議をするとその中に小賢しい男があつて、この竹の數は四十本、紙も常のとはちがつて居るから、名に聞いた日の神内宮の御神體だらうというたので、皆々大に怖れ鹽水を打つて、荒笊の上に据ゑ奉り、宮を作つて御まつり申上げた。するとこの傘に性根が入つたと見え、五月雨の頃になつて社壇が頻りに鳴き出したので、御託宣をきいて見ると近頃里人は竃《かまど》の前を汚なくして油蟲をわかしたからいけない、早く一疋も居もいないやうにせよ、なほ、里の美しい娘を二人神宮に奉仕させよ、さもなくば七日が中に車軸を流して人種《ひとだね》のなくなる迄降り殺すぞとの事に、人々は怖氣をふるつて、娘どもを集めて相談すると、誰一人進んで出るものがなかつた。するとその里に一人の美しい後家があつたが、これをきいて、神樣の事だから、私が若い娘の身代りになると申出て、宮所《みやどころ》に夜もすがら待つて居た、ところが一向神樣の御情けがなかつたので、件の後家は大に腹を立て、御殿の中へ驅け入つて、彼の傘を握り上げ、『この身體《からだ》たふし奴《め》が!』と叫んで、引き破つて捨てた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの同前掲書の巻一の「傘(からかさ)の御託宣」でここから。

「紀州掛作の觀音」現在の和歌山県和歌山市嘉家作丁(かけづくりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった真言宗不二山一乗院観音寺であるが、太平洋戦争の戦災で焼け、現在は南直近の和歌山市元寺町東ノ丁に移転している。

「藤代」和歌山県海南市藤白

「和歌吹上」和歌の浦から紀ノ川左岸にあった吹上の浜にかけて。

「玉津島」玉津島神社。古来、玉津島明神と称され、和歌の神として知られる。

「神風」ここは単に玉津島神社への敬意を添えた春一番の風のこと。

「肥後の國の奥山」「穴里」後半の意は所謂「隠れ里」の意か。とすれば、「肥後」からは、隠田集落村で平家落ち武者伝説で知られる五家荘地区が想起される。因みに、ここから和歌山市嘉家作丁までは、直線で四百三十六キロメートル超である。

「日の神内宮」伊勢神宮内宮。原本では「内宮」を「ないく」と読んでいる。

「荒笊」不木の「荒菰(あらこも)」の誤字。初出に従ったとする国書刊行会刊本でも誤ったままであり、ご丁寧に『あらざる』とルビが振られてある。

「この身體たふし奴が!」原本は「おもへば、からだだをし目」で、「お前さんは、よくよく! 見掛け倒しな奴だねえ!!」という罵詈雑言である。これは太くがたいの大きな唐傘をファルスに見立てて、かく痛罵しているのである。明治書院の解説に、『傘を陽物とするのは、広く一般的なもので、道祖神・賽の神などの土俗信仰に関連があり、一部は形の類似から傘地蔵・傘権現などと名付けられている』。『なお、宗政五十緒氏によると、紀州「和歌吹上」付近の雑賀庄は室町時代一向宗門徒の根拠地であり、一方肥後の奥山は相良領で、同領では一向宗門徒が禁教下に』(南九州の薩摩藩や人吉藩では、三百年に亙って浄土真宗が禁教とされた。ウィキの「隠れ念仏」を参照されたいが、それによれば、戦国時代の「加賀一向一揆」や「石山合戦」の実情が伝えられるに従い、一向宗徒が各地の大名によって恐れられたことや、島津忠良などの儒仏に篤い武将にとっては、忠を軽んじ、妻帯肉食する一向宗が嫌悪の対象となっていたことなどが原因と考えられるとある)、『傘仏という、傘の形をした木の内に、名号「南無阿弥陀仏」などを書き、周囲に光背四十八条の線を描いた懸け仏を籠め、この本尊を隠れて信仰していたという。本話の背景として参照すべきあろう』という興味深い附記がある。]

 この短かい物語にも西鶴の人生觀が浮み出て居るやうに思はれる。ちやうど『好色五人女』[やぶちゃん注:貞享三(一六八六)年刊。]の三の卷で、おさんと茂右衞門の駈落ちを叙し、『やうやう日數ふりて丹後路に入て、切戶《きりど》の文殊堂に通夜《つや》してまどろみしに、夜半とおもふ時、あらたに靈夢あり、汝等世になきいたづらして、何國《いづこ》までか其難をのがれ難し、されどもかへらぬ昔なり、向後《きやうこう》浮世の姿をやめて、惜しきと思ふ黑髮を切り、出家となり、二人別々に住みて惡心去つて菩提の道に入らば、人も命を助くべしと、ありがたき心に、すゑずゑは何にならうともかまはしやるな。こちや是れがすきにて身に替へでの脇心《わきごころ》、文殊さまは衆道ばかりの御合點《ごがてん》、女道《によだう》は曾てしろしめさるまじと言ふかと思へばいやな夢覺めて、橋立の松の風ふけば塵の世ぢや物と、なほなほやむ事のなかりし』と同じ筆法である。夢の中で文殊さまにまで盾つかせて居るなどは、隨分徹底して居ると思ふ。

[やぶちゃん注:以上の原文は、巻の三の「小判しらぬ休み茶屋」の掉尾の部分で、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年国民図書刊の「近代日本文學大系」第三巻のここの右ページ後ろから三行目から。]

 いや、思はずも話が橫道にそれたが、西鶴の怪異を取り扱ふ態度は、怪異を種に人生を揶揄して居ると認めても差支ないであろう。從つて、怪異小說の本來の目的からは少々遠《よほざ》かつて居ると言つてよい。これに反して御伽婢子の流れを汲んだ『玉箒木』の如きは、少くともそのか體裁に於て、怪異小說の目的にかなつて居る。卽ち、その文章の一例をあげるならば、『果心幻術』と稱する物語に、

[やぶちゃん注:「玉箒木」浮世草子作家で書肆も兼ねていた林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:京都で両替商をしていた貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門し、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業したらしい)が、元禄八(一六九五)年に出した怪談集「玉櫛笥」に続いて翌九年に出した怪談集。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

 『居士(果心居士)つと座をたち出、廣緣《ひろえん》をあゆみ、前栽《せんざい》の方へ行くとぞ見へし、俄かに月くらく雨そぼふりて風さらに蕭々たり。蓬窓《ほうさう》[やぶちゃん注:貧しい家。]の裡にして瀟湘《せうしやう》にたゞよひ、荻花の下にして潯陽《じんやう》に彷徨ふらんも、かくやと思ふばかり、物悲しくあぢきなき事云ふばかりなし。さしも强力武勇の彈正も氣弱く心細うして堪へ難く、如何にしてかくはなりぬるやらんと、遙かに外を見やりたれば。廣緣に佇む人あり、雲透きに誰《たれ》やらんと見出しぬれば、細く瘦せたる女の髮長くゆり下げたるが、よろよろと步み寄り、彈正に向ひ坐しけり。何人《なんぴと》ぞと問へば、女、大息つき、苦しげなる聲して、今夜はいとさびしくやおはすらん、御前に人さえなくてといふを聞けば、疑ふべくもあらぬ、五年以前病死して飽かぬ別れを悲しみぬる妻女なりけり。彈正、餘りに凄まじく堪へ難きに、果心居士、いづくにあるぞや。もはや、止めよ、やめよ、とよばはるに、件の女、たちまち、居士が聲となり、これに侍るなり、といふをみれば、居士なりけり。もとより雨もふらず、月も晴れ渡りて曇らざりけり。』とあつて、きびきびした漢文口調をまじへ、凄味もかなりに出て居ると思ふ。この玉箒木の中には史實を取り入れた物語が甚だ多く、このことは後に說く英草紙にも影響して居るやうである。題材は多く支那小說から取つたものらしく、離魂、幻術、孤妖、因果の理など、別に目新らしいものはないが、中に現實味の豐かなものが數篇加はつて居るので、それを特に紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上は、私は「柴田宵曲 妖異博物館 果心居士」の注で全文を電子化してある。果心居士はこの手の話ではかなりメジャーに有名が幻術師である。

 以下は前と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」の第十三巻の活字本の画像でここから読める。目録では以下の標題だが、本文では「觀音身を現ず」となっている。

 以下、二つの段落の梗概紹介は、底本では全体が一字下げとなっている。]

『東叡山觀音出現利益の事』では、ある老人が孫娘の行末を祈らうとして淸水堂[やぶちゃん注:東叡山寛永寺清水堂。]に參籠すると、ある夜觀音樣から夢の御告げがあつた。それによると、汝の誠心に感じたから來月十七日の拂曉に姿をあらはさう、不忍池のほとりを、靑い衣を着て白い馬に跨つてとほるものがあつたら、わが身だと思へといふことであつた。で、愈よその日になつて近隣の人に語りあひ、百人あまりの者が不忍池に行くと果して、御告げのとほりの若武者が通りかゝつたので、一同はその場に、ひざまづき手を合せて禮拜した。すると伴の武士は大に驚いて、走り過ぎようとすると、一同は彼を幾重にも取り圍んだので、詮方なく刀を拔いて、圍みを切り拔け、一目散に逃げて行つた。群集もびつくりして散々になつて歸つたが實はその武士は比類のない惡人で、その朝偶然そこを通りかゝつたに過ぎないのである[やぶちゃん注:底本は「取りかゝつた」。国書刊行会本で訂した。]。その後彼は不審が晴れずいろいろと聞き探つて見たところ、上記の事情がわかり、扨は觀音さまが自分を救ふための方便にあのやうな方法を御取りになつたにちがひないと、それからは大に改心して別人の如き正直な人間になり、後にはかの老人の孫娘を妻として榮えた。

 次に『山中妖物實驗《ばけものじつけん》の事』では、ある武士が、讃州金比羅山は怖ろしい魔所で登ることが出來ぬときいて、冒險を試みるために、ひとりで出かけてその絕頂に一夜を明さうとした。すると別に、何の怪しいこともなかつたが、明け方になつて歸らうとすると、怪しい物音がして、誰かゞ步み寄つて來るやうであるから、いち早く物蔭にかくれて樣子を覗ふと、何者とも知れず息使ひ荒く登つて來て、不にもつて居たものをポトン[やぶちゃん注:底本「ポント」。国書刊行会本で訂した。]と草蔭に投げすてゝ、また慌しく引き返して行つた。手搜りに拾ひ上げて見ると生々しい人の首だつたので、傍の堂の緣の下に投げこんでそのまゝ山を下つた。それから四十年の歲月が經て、彼は藝州に仕へて居たが、ある日詰所て奇談を話しあふ序に、この話をすると、その座に默つて聞いて居た七十ばかりの侍が、その首を捨てたのは自分だと言ひ出した。事情をきいて見ると、その一時父の仇を打つたのであるが、一旦山に逃れて首を棄て、一里ばかり歸つてから、人に發見されては不利益だと思つて引き返して見ると、首がない。定めし[やぶちゃん注:底本「定めして」。国書刊行会本で訂した。]天狗でもさらつて行つたのだらうと思つたが、今御話で四十年來の疑念が晴れたといふのであつた。

[やぶちゃん注:同前で原拠は第一巻のここから。]

 この後者の物語は現代の探偵小說の構想としても立派に通用するのである。ことに『禪僧船中橫死附(つけたり)白晝幽靈の事』となると、犯罪學の立場から見ても頑る興味がある。

[やぶちゃん注:この原拠は第六巻のここから。本文では「白晝の幽靈」とのみある。

 以下、同前で一段落は底本では全体が一字下げ。]

 篠塚某という武士が、ある禪憎と同道して京に上る途上琵琶湖を渡る船中で、僧の所持金に目がくらみ、闇を利用して金を奪って海に突き落した。その後、彼は仕官して榮えたが殺した僧の怨念に附き纏はれて遂に大病に罹り、露命が旦夕に迫つた。そこで彼の息子は心配して、江州多賀神社[やぶちゃん注:ここ。]に參籠して父の命に代らうと祈つた。するとある日一人の旅僧が瓢然として篠塚の邸をたずねて來たので、取次のものが重病だといつて斷ると、僧は、その病氣のことで逢ひに來たのだと告げて押し通つて病室へはいつた。これを見た篠塚は、あれこそ殺した僧の亡靈だといつていよいよ苦悶し展轉したので、旅僧はにつこり笑つて、實はあの時自分は死ななかつたのだと語り始めた。水練が達者であつたために命が助かり、それから東國を行脚することに決し、貴殿が都に時めいておられることは噂にきいていたけれど何も因緣とあきらめて、少しも怨まず御たずねもしなかつた。ところが先日多賀の神から御告げがあつて委細を知つたので、今日御訪ねした譯であるが、貴殿の病は貴殿の心のために起つたのであるから本心に立ち歸りなさいと忠告するのであつた。それを聞いた篠塚は大に前非を侮い、先年奪つた金に利息をつけて僧に返し、僧は初願のごとくそれで觀音像を作つた。

 この物語の興味は、白晝の幽靈だと思つたものが、實在の人間に過ぎなかつたという點にある。良心の呵責に惱んで居るものが、まのあたりに殺したものを見たときの驚きは如何ばかりであつたであらう。其處がこの物語の中心となつているのである。孝行の志を語り、利慾を誡める敎訓小說である外に探偵小說としても見どころのある作品である。

 御伽婢子の流れを汲むもの、諸國物語の流れを汲むもの、百物語の流れを汲むもののうちこの外には取りたてていうべきものはないやうである。たゞ百物語の形式について一言述べて置くならば、御伽婢子に、『百物語には法式があり、月暗き夜、行燈の火を點じ、その行燈は靑き紙にて張りたて、百筋の燈火を點じ、一つの物語に燈心一筋づつ引取りぬれば、座中、漸々暗くなり、それを語り續くれば、必ず怪しき事、恐ろしき事、現はるゝとかや』とあつて、ビーストンの小說に出て來る『何々クラブ』の談話の模樣と頗る似寄つて居る。探偵小說の形式にも昔も今も變らぬところのあることは頗る興味が深い。

[やぶちゃん注:「ビーストン」イギリスの小説家・放送作家レオナルド・ジョン・ビーストン(Leonard John Beeston 一八七四年~一九六三年)。ロンドン出身。本邦の探偵推理小説雑誌『新靑年』で、創刊された翌年の大正一〇(一九二一)年に発行された増刊号に於いて、邦訳「マイナスの夜光珠」が掲載された(恐らく訳者は西田政治)のを始めとして、『新靑年』に邦訳が多数掲載され、人気を博したという(当該ウィキに拠る)。サイト「翻訳作品集成」(Google提供)の彼のページを見るに、邦訳作品に「決闘家クラブ」「興奮クラブ」というのが見られる。]

芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通

 

昭和二(一九二七)年二月二日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。御藥並びに御短尺ありがたく存じ奉り候。唯今夜も仕事を致しをり候爲、朝ねを致し、山口樣にはお目にかかる機會を失ひ、殘念にも恐縮にも存じ居り候。お次手の節よろしく御鳳聲願上げ候。先夜來、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea  の數が乏しと仰せらるる筈と存候。(勿論これは小生をも憂ウツならしむるに足るものに候)小生の短尺はどうも氣まり惡き故御免蒙り度候へども、一二枚お送り申上ぐ可く候。(句⅓人前、字⅓人前、短尺⅓人前の割にて御らん下され度候。)唯今「海の秋」と云ふ小品を製造中、同時に又「河童」と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、その間に年三割と云ふ借金(姊の家の)のことも考へなければならず、困憊この事に存じ居り候。餘いづれ拜眉の上。右とりあへず御禮まで。頓首

    二月二日夜      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

二伸唯今でも時々錯覺(?)あり。今夜はヌマアルを用ふべく候。

 

[やぶちゃん注:分数は、例えば「⅓」としたものは、縦に「1」(上)+(横線の分数記号)+「3」(下)である。ユニコードでは表記不能なので、かく、した。本書簡は前月の昭和二(一九二七)年一月二十八日附齋藤茂吉宛書簡を参照のこと。

「山口樣」歌人山口茂吉(明治二九(一九〇二)年~昭和三三(一九五八)年)。兵庫県多可郡杉原谷村清水(現在の同郡多可町)に生まれる。大正一三(一九二四)年に中央大学商学部を卒業、明治生命東京本社に入社した。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったといい、同年に『アララギ』に入会し、島木赤彦に学び、赤彦の没後は斎藤茂吉に師事した。斎藤茂吉・土屋文明の助手として『アララギ』の編輯・校正に携わった。昭和一九(一九四四)年には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社した。昭和二一(一九四六)年には東京歌話会を結成し、昭和二十三年には『アザミ』を創刊して主宰した。師の斎藤茂吉と同名であることから「小茂吉」と呼ばれることがあり、茂吉が没した四年後の昭和三十二年以降は岩波書店の「斎藤茂吉全集」の編集校訂に携わった。歌人では岡麓や中村憲吉と親しかった(以上は当該ウィキに拠る)。この日の午前中に龍之介を訪ねたものらしい。後に当人宛の書簡が出る。

「海の秋」決定稿の標題は「蜃氣樓」(正確には『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』。リンク先は私の古い電子化)。脱稿は二月四日。三月一日『婦人公論』発表。

「河童」三月一日『改造』発表。当方には、

河童(旧全集正字正仮名版)

芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈(同前に基づく)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 ・同縦書版同ブログ版(国立国会図書館デジタルコレクションの画像による)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)同縦書版(同前)

おまけで、

マツグ著「阿呆の言葉」(抄)(最上部の電子化からの抽出版)

等、多く品揃えしてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月三日・田端発信・河西信三宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。あの詩は唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓と申す仙人の作に有之候。年少の生徒には字義などを御說明に及ばざる乎。なほ又拙作「杜子春」は唐の小說杜子春傳の主人公を用ひをり候へども、話は⅔以上創作に有之候。なほなほ又あの中の鐵冠子と申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號に有之候。三國時代には候へども、何しろ長生不死の仙人故、唐代に出沒致すも差支へなかるべく候。呂洞賓や左玆の事はいろいろの本に有之候へども、現代の本にては東海林辰三郞氏著の支那仙人列傳を御らんになればよろしく候。右御返事まで 頓首

    二月三日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:分数表記は前と同じ。

「河西信三」未詳。芥川龍之介の愛読者で、小学校の教員か。

「あの詩」芥川龍之介が「杜子春」(大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』初出)の「三」の末尾に仙人「鐵冠子」(後注参照)の詠む詩として出した、

 朝(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧。

 袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ)、膽氣(たんき)粗なり。

 三たび嶽陽に入れども、人識らず。

 朗吟して、飛過(ひくわ)す洞庭湖。

を指す。

「唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓」代表的な仙人である八仙の一人呂洞賓(りょどうひん 七九六年~?)名は嵒であるが、巖。岩とも書き、本来のの名は煜(いく)で、洞賓は字(あざな)。詳しくは当該ウィキを参照されたい。元曲の馬致遠の「呂洞賓三醉岳陽樓」(呂洞賓、三たび、岳陽樓に醉ふ)に出るもので、原詩は、

 朝游北海暮蒼梧

 袖裏靑蛇膽氣粗

 三醉岳陽人不識

 朗吟飛過洞庭湖

  朝(あした)に北海に遊び 暮れには蒼梧

  袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ) 膽氣(たんき) 粗なり

  三たび嶽陽に入れども 人 識らず

  朗吟して 飛過(ひくわ)す 洞庭湖

であるが、一書では起句は「朝遊蓬島暮蒼梧」(朝に蓬島(ほうたう)に遊び 暮れには蒼梧)ともある。因みに、原拠の杜子春 李復言(原典)訓読語註現代語訳)には、当然のこと乍ら、存在しない。龍之介が挿入したもの。以上のリンク先は総て私の電子化物である。

「鐵冠子申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號」「左玆」(さじ)は「左慈」(さじ)が正しい。左慈は後漢(紀元後二五年 ~二二〇年)は、末期の知られた方士で仙人。字は元放で、揚州廬江郡の人。正史では「後漢書」の第八十二巻の「方術列傳下」に伝記が載り、他にも「搜神記」(四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集)や「神仙傳」(東晋の葛洪の著したとされる神仙伝記。但し、相応の原著作を後代に追記増加したものである可能性が高い)にも詳しく出る仙人である。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介の言う「三國時代」(蜀・魏・呉の三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年まで)は微妙に外れており、誤りである。

「東海林辰三郞」ジャーナリストで東洋学者で衆議院議員(立憲国民党)となった白河鯉洋(しらかわりよう 明治七(一八七四)年~大正八(一九一九)年:本名は次郎)のペン・ネームの一つ。彼は福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身。明治三〇(一八九七)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業後、神戸新聞・九州日報の主筆を務めた。明治三六(一九〇三)年に、清に渡って、南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は早稲田大学講師・『関西日報』客員を務め、大正六(一九一七)年の第十三回衆議院議員総選挙に出馬、当選している。大正デモクラシーを牽引した人物であるが、「孔子」・「支那學術史綱」(共著)・「支那文明史」(共著)・「王陽明」・「諸葛孔明」等の中国文化関連の著作も多い。

「支那仙人列傳」国立国会図書館デジタルコレクションにある、これ著者名義「東海林辰三郞」(奥付)。明四四(一九一一)年聚精堂刊。「新體詩抄」で知られる哲学者井上哲次郎が「序を書いている。「呂嚴」がここで、「左慈」はここ。二百十五名を挙げているが、読み易く且つ面白い(私は全コマをダウン・ロードした)。有名どころは網羅しつつ、私の知らぬ仙人もちらほら見える中に、詩仙「李白」や道教所縁の書を多く残している「顏眞卿」、白玉楼中の人となった鬼才「李賀」といった人物も配されてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月四日・田端発信・山口茂吉宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。先達はわざわざお使ひにお出で候にも關らず、朝寢坊にてお目にかかる機を失し、申訣無之候。右お禮かたがたおわびまで 頓首

    二月四日       芥川龍之介

   山 口 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭の二月二日附齋藤茂吉宛書簡参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・小松芳喬宛

 

冠省お手紙ならびに六神丸ありがたく存じます。いろいろお心にかけられ、恐縮に存じます。多用中親戚に不幸有之、御禮が遲れ申訣ありません。北京はよかつたでせう。僕は東京以外の都會では一番北京へ住みたいと思つてゐるものです。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   小 松 芳 喬 樣

 

[やぶちゃん注:「小松芳喬」(よしたか 明治三九(一九〇六)年~平成一二(二〇〇〇)年)は経済学者・社会経済史学者。東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、昭和三(一九二八)年、早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学院に進学した。昭和八(一九三三)年に早稲田大学助手となり、後に講師。その後、東京外国語学校での語学習得やロンドン大学留学を経て、昭和一四(一九三九)年、早稲田大学助教授、後に同大学教授となった。昭和三五(一九六〇)年、経済学博士となり、同年に「社会経済史学会」代表理事となっている。当時はまだ早稲田大学学生であった。愛読者で、誰かの伝手で知り合ったか。当時、学生で北京に行っているというのは、裕福な家庭であったか。

「六神丸」ここは北京で手に入れた中国の漢方薬のそれと思われる。本邦でよく知られるそれとは処方生剤も対応疾患も異なり、これは腹痛に効能があるとされるものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

お父さんの長逝を悼み奉る。今春匆々親戚に不幸あり。多病又多憂、この手紙おくれて何ともすまぬ。蒲原君によろしく。まだ多忙で弱つてゐる。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

  二伸けふは手紙を七本書いた。これは八本目。

 

 

昭和二(一九二七)年二月七日・田端発信・蒲原春夫宛

 

支那餅をありがたう。比呂志からも禮狀を出す筈。小說は捗どれりや。僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる。庫公によろしく。

     卽興

   春返る支那餅食へやいざ子ども

    御大喪の夜      芥川龍之介

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「婦人公論十二枚」既注の「蜃氣樓」。三月号。

「改造六十枚」既注の「河童」。三月号。

「文藝春秋三枚」三月号所収の『軽井澤で――「追憶」の代はりに――』。芥川龍之介の片山廣子への文芸上の秘かな傷心の追想アフォリズムである。リンク先は無論、私のもの。

「演劇新潮五」三月号所収の「芝居漫談」。

「庫公」渡邊庫輔。

「御大喪の夜」前年末の十二月二十五日、肺炎の悪化から心臓麻痺により崩御した天皇嘉仁は、この年の一月二十九日に大正天皇を追号され、御大喪(ごたいそう)の儀は二月七日からこの八日にかけて、新宿御苑を中心に行われた。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計六千人、その列の全長は六キロメートルにも及んだ。沿道には百五十万乃至三百万人の市民が集まったとされ、葬列はラジオで実況放送された。葬場殿の儀は午後九時から午後十一時までで行われ、内外の高官約七千人が参列、その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時に設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、同じく臨時駅の東浅川仮駅まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた(以上はウィキの「大正天皇」に拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十一日・田端発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二十 佐佐木茂索樣・東京田端 芥川龍之介

 

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ[やぶちゃん注:ママ。]。「河童」は僕のライネッケフックスだ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品、或は御一讀に堪ふるならん。内田百間曰芥川は病的のある氣違ひ、自分は病的のない氣違ひだから自分が芥川を訪問してわざと氣違ひじみた行動をして歸る。芥川は自分を氣違だと思ふ。自分は得意になつて歸つて來るうちにいつか氣違ひになつてゐる。同時に又芥川も氣違ひになつてゐる。――と云ふ話を書く爲に近々芥川を訪問するつもりだ。しかしどうも自分ながらコハイ」コハイのは寧ろこつちぢやないか。僕は姊の亭主の債務などの事を小說を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出來ないものだよ。十五日頃にはそちらへかへれるつもり。夫人によろしく。以上

    二月十一日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 東京に用向きなきや。今度こちらから栗位送る堀の小說は一度僕や室生が讀んで二度目にフラグマンにしたもの。よろしくお引立てを乞ふ。

 

[やぶちゃん注:「六十枚位」現行の完成稿(国立国会図書館藏。私はそれをサイトで『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』として一括してある)は半ペラ百十枚=五十五枚である。則ち、この日までに、結果としては、最終稿の三十枚(約八十%強)まで書いていたということになる。

「ライネッケフックス」“Reineke Fuchs ”。かの巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で、「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに、封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』とある。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡のこの強力な自信に満ちた言葉は只物ではないという気が私はしている。この現実社会や「生」そのものへの渾身の気迫は、しかし、遂に続かなかった。なお、この辺りのことは、場違いに見えるかも知れぬが、私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の注を参照されたい。芥川龍之介の小澤碧童の彫琢になる「河郞之舍」の印影も掲げてある。

「婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品」既注の「蜃氣樓」。

「堀の小說」『山繭』三月号に発表された堀辰雄の小説「ルウベンスの僞畫」の初稿の断片。新全集年譜によれば、龍之介が『堀の作品に目を通すのは』、結局、『これが最後となった』とある。

「フラグマン」fragment。フランス語で「破片・断章・断片・一節」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十二日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの四号 小穴隆一樣

 

長く留守にして實にすまない。その後姊の家の生計のことや原稿の爲にごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐる上、家は燒けてゐるし、主人はない爲、どうにも始末がつかないのだ。(僕でももつとしつかりしてゐれば善いのだが)「河童」はだんだん長くなる。しかし明日中には脫稿のつもり。その校正を見次第、東京を脫出する。君が近所へ來てくれれば三月後[やぶちゃん注:「以後」の意。]は東京にゐても差支へない。今日は「サンデイ每日」と「婦人公論」と「改造」とへ書いた。婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房も登場させてゐる 以上

    二月十二日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 兎屋さんにも逢ふ間がない。佐藤(春)にはちよつと會つた。齋藤さんにも。僕はヴェロナアル〇・四だが齋藤さんは〇・七乃至八のよし 上には上のあるものだ。

 

 

昭和二(一九二七)年二月十五日・消印十六日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。やつとけふ校了。これから親族會議をすまさなければならん。君には氣の毒で弱る。しかし二十日にはかへる。僕だけでも。河童を106[やぶちゃん注:横書。]枚書いた。それから「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた。每日多忙。ます子女史健在。頓首

    二月十五日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:「二十日にはかへる」結局、龍之介は、この月末、鵠沼へ戻るのを断念する。前書簡で「君が近所へ來てくれれば三月」以「後は東京にゐても差支へない」とおいうのは、自分が小穴を鵠沼に誘っておいて、ここにきて、小穴を一人残し、彼が半ば、留守番のようになっていることを気に掛けたものを、龍之介流のプライドで述べたもの。結局、小穴は三月月初めには東京へ転居する。

「僕だけでも」妻子を連れずに龍之介一人でも鵠沼へ戻るの意。

『「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた』昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、離れて八月一日発行の雑誌『改造』第四・五・六・八号に連載された「文藝的な、餘りに文藝的な」の前半部であろう。私は続編もカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」をサイトで一括電子化している。

「ます子女史」平松麻素子。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日(消印)・田端発信(推定)・相州鎌倉坂の下二〇 佐佐木茂索樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。河童百六枚脫稿。聊か鬱懷を消した。改造牡の招待の芝居へ來ないか。君の顏が見たい。火災保險、生命保險 親族會議、――何や彼やゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ。ヴェロナアル〇・七常用。アロナアルよりもヌマアルの方が眠るのに善い。やはりロツシュ會社製。

               芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛

 

原稿用紙にて失禮。

Legenda Aureaは黃金傳說の意、Jocobus de voragineは十三世紀の初期の人だ。(檢べるのは面倒故これでまけてくれ給へ)本の内容は僕の「きりしとほろ上人傳」の如き話ばかり。但しもつと簡古素朴だよ。英吉利では William Caxton の譯が有名だ。今度獨逸で出た本は近代語に譯されてゐるかどうか。Caxton は十五世紀頃の人だから、この英語は大分古い。のみならず原本にない話――たとへばヨブの話などを加へてゐる。僕は黃金傅說を全部讀んでゐない。(第一全部は浩翰だらう)が、Caxton のセレクションは一册持つてゐる筈だ。御入用の節は探がすべし。しかし黃金傅說は兎に角名高いものだから、ゲスタ・ロマノルムと一しよに買つて置いても善い本だよ。右當用のみ。

    二月十六日      芥川龍之介

   秦 豐 吉 樣

二伸日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑

 

[やぶちゃん注:「Legenda Aureaは黃金傳說の意」ラテン語の「レゲンダ・オウレア」は、当初は同じくラテン語で「レゲンダ・サンクトルム」(Legenda sanctorum :「聖者の物語」の意)とも称し、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第八代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年?~一二九八年)が著したキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成した。但し、タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによって名づつけられたもの。中世ヨーロッパに於いて、聖書に次いで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。イエス・マリア・天使ミカエルのほか、百名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読むことも可能である。各章の冒頭では、聖人の名前の語義を解釈し、それをその聖人の徳や行いと結びつけることがよく行われている。十五世紀頃から「黄金の」(aurea)の美称をつけて呼ばれるようになった。本来は、この「レゲンダ」は「伝説」の意ではなく、ミサの際に「朗読されるべきもの」の意である。従って Legenda aurea を日本語で「黄金伝説」と訳すのは誤訳となるが、前田敬作らによる完訳本(一九七九年から一九八七年人文書院初刊)などでも、この題名が用いられている。他に「黄金聖人伝」と呼ばれることもある(以上は当該ウィキに拠った)。芥川龍之介は同書所収の第七十九章「聖女マリナの物語」の、近代のフランスの神父で来日して布教したミッシェル・A・シュタイシェン(Michael A. Steichen 一八五七年~一九二九年:「パリ外国宣教会」所属。姓は「スタイシエン」「ステシエン」とも書かれる。盛岡・築地・静岡・麻布・横浜で布教活動を行う傍ら、雑誌編集長をも務め、さらにキリシタン研究者として著作を発表した。邦訳文は私の『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」を参照)をもとに「奉教人の死」を書いた。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。

「簡古」簡素で古めかしいこと。

「William Caxton」ウィリアム・キャクストン(William Caxton 一四一五年から一四二二年頃~一四九二年三月頃)はイングランドの商人・外交官・著作家・翻訳家・印刷業者。「カクストン」とも表記する。イングランドで初めて印刷機を導入して印刷業を始めた人物とされ、イングランド人として初めて本を出版して小売りした人物でもある。一四七六年にウェストミンスターで印刷会社を設立し、最初に印刷した本はイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 一三四三年頃~一四〇〇年:当時の教会用語であったラテン語や、当時、イングランドの支配者であったノルマン人貴族の公用語であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中世英語を使って物語を執筆した最初の作家として知られる)の代表作「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales  :一三八七年~一四〇〇年:未完。であるが、一万七千行以上に及ぶ韻文と散文から成る大作)であった(当該ウィキ他に拠る)。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、彼自身の訳になる『「黄金伝説」は、ウィリアム・モリス』(芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった)『が印刷工房ケルムスコット・ブレスで企画した最初の書物で、一八九二年に刊行された』とある。

 「今度獨逸で出た本」不詳。

「ヨブ」「旧約聖書」の私の偏愛する「ヨブ記」の主人公。

「ゲスタ・ロマノルム」前掲書の石割氏の注に、『Gesta Romanorum 一四世紀前半にラテン語で書かれた物語集』とある。作者不詳。

『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑』大正七(一九一八)年九月一日発行の雑誌『三田文学』初出の、芥川龍之介の「奉教人の死」の最後に作者が挙げた架空の切支丹本のそれ。この龍之介の「騙し」については、さんざん注した。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十七日・田端発信・大熊信行宛

 

原稿用紙で御免下さい。御手紙並びに高著、鵠沼へ參りし爲、遲れて落手、高著は唯今拜讀致し了り候。小生はラスキンには全然手をつけし事無之候へども、モリスに關するものは少々ばかり讀みをり候爲、高著に對し、多少の感慨を催し候。(モリスに關する在來の日本人の著書は出たらめ少からず、それも聊か讀みをり候へば、愈感慨多き次第に有之候)ラスキンよりモリスヘ傳へたる法燈はモリスより更にシヨウに傳はりたる觀あり、その中間に詩人、兼小說家兼畫家兼工藝美衞家兼社會主義者として立てるモリスは前世紀後半の一大橋梁と存候。但し老年のモリスの社會主義運動に加はり、いろいろ不快な目に遇ひし事は如何にも人生落莫の感有之候。(そは勿論高著の問題外に屬し候へども。)小生は詩人モリス、――殊に Love is Enough の詩人モリスの心事を忖度し、同情する所少からず、モリスは便宜上の國家社會主義者たるのみならず、便宜上の共產主義者たりしを思ふこと屢てに御座候。以上

    二月十七日      芥川龍之介

   大 熊 信 行 樣

 

[やぶちゃん注:「大熊信行」(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)は経済学者・評論家・歌人。山形県米沢市生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を経て、大正五(一九一六)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒。中学時代、浜田広介らと同人誌を作っていた。同年、日清製粉に入社。後、米沢商業学校で教鞭をとり、大正八年、東京高等商業学校専攻部に進学し、大正十年に卒業後、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)講師、翌年、同校教授となるが、大正一二(一九二三)年、病気で退職し、南湖院で闘病した(結核か)。昭和六(一九四一)年、東京商科大学にて経済学博士を取得し、当該論文は「經濟理論における配分原理の所在並に適用に關する基礎的研究」であった。この書簡の年の昭和二(一九二七)年には、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)教授となっている。昭和四(一九二九)年から昭和六年まで文部省在外研究員として、イギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、昭和七年、高岡高商を退職し、海軍省大臣官房調査課嘱託となり、昭和十八年には「大日本言論報国会」理事となた。小樽高商では、小林多喜二・伊藤整を教えている。戦後の昭和二一(一九四六)年には山形県地方労働委員会初代会長となったが、戦中の履歴が災いしたのであろう、翌年、公職追放を受けている。公職追放解除後は神奈川大学教授・富山大学経済学部長・神奈川大第二経済学部長・創価大学教授を歴任し、論壇でも活躍した(以上は当該ウィキに拠った)。

「ラスキン」ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)はイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家。同時に芸術家のパトロンでもあり、自らも設計製図や水彩画をよくし、社会思想家にして篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(Modern painters :一八四三年~一八六〇年 )を著している。

「Love is Enough」「愛は十全にある」か。ウィリアム・モリスの詩。月子綴主氏のブログ「月子綴の一日一言」の「時を語る建築3 モリスの詩Love Is Enoughより」に原詩とブログ主による和訳が載る。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十八日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣(書留印)

 

この間は手紙が行きちがひになつた。僕は二十日前後にかへる事前記の通り。その後寄り合ひばかりしてゐる。君もいろいろ入用と思ひ、同封のものを送る。雜用に供してくれ給へ。以上

    二月十八日      芥川龍之介

   小 穴 隆 一 樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月二十三日・田端発信・赤井三郞宛

 

原稿用紙で失禮します。玉稿は拜見しました。ああ云ふ有り合せの文句で書いては駄目です。もつとぶつ切ら棒でも善いから、ヂカに迫るやうに書かなければ。玉稿は佐佐木君に讀んで貰つた方が善いと存じます。右當用のみ。

    二月二十三日     芥川龍之介

   赤 井 三 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「赤井三郞」不詳。作家志望の人物らしい。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月二六日・田端発信・赤井三郞宛(葉書)

 

南京新唱をありがたう右お禮まで 頓首

   二月二十六日夜     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「南京新唱」歌人会津八一の第一歌集。大正一三(一九二四)年刊行。「南京」は奈良の別称。]

 

 

昭和二(一九二七)年・二月二十七日消印・奈良市上高畑 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。「玄鶴山房」は力作なれども自ら脚力盡くる所廬山を見るの感あり。河童は近年にない速力で書いた。蜃氣樓は一番自信を持つてゐる。僕は來月の改造に谷崎君に答へ、幷せて志賀さんを四五枚論じた。これから大阪へ立つ所。頓首

 

[やぶちゃん注:「志賀さんを四五枚論じた」「文藝的な、餘りに文藝的な」の「五 志賀直哉氏」をメインとした前後。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」の冒頭には、草稿「志賀直哉氏に就いて(覺え書)」も配してある。

「これから大阪へ立つ所」新全集年譜に、この二月二十七日、『改造社の円本全集宣伝講演会のため、佐藤春夫らと大阪に向けて出発』。『義兄一家の経済的窮地を救うため、身体の無理をおして参加したものと思われる』とあり、翌二十八日の条には、午後一時、『大阪中之島公会堂で「舌頭小説」と題して講演をする。約六千人の聴衆が詰めかけ』、他に『佐藤春夫、久米正雄、里見弴らが講演をした』。『夜、谷崎潤一郎、佐藤春夫と遊』び、『深夜、富田砕花と偶然会い、芦屋まで同行』し、『芦屋から車で岡本』(武庫郡本山村岡本好文園(現在の神戸市東灘区岡本))にあった『谷崎宅を訪れ、夜を徹して文学論を戦わせた』とある。なお、この日に、探していた小穴隆一の田端近くの転居先として、『田端の下宿(新昌閣)が見付かり、数日後、小穴は鵠沼を引き上げて転居』したとある。因みに同年の二月は、この二十八日が月末日である。]

2021/09/11

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 花

 

[やぶちゃん注:前と同じく「著作堂客篇 京 靑李庵」の発表。前と合わせて、後に発表者「桃窠」についての著作堂馬琴の識語が載る。]

 

   ○花

京師の俗に、小兒生れて初の正月、母かたの親里などより、男子に「ふりふりぎてう」を贈る事は、今も、まれまれにあり。女子に花をおくりしは、漸く、たえたるに似たり。浪華あたりにては、「はま弓」てふものを贈るとか聞きしが、其事は、よくもしらず。花といふは、もと、端午のものにて、童の袖にかけたる藥玉の遺裂なるベし。「かざり花」といふべきを、後には、只、「花」とのみ言ひしよしは、「四民往來」・「年中故事要覽」・「枕草紙春曙抄」などに見えたり。享保の印本、「女用花鳥文章」の「さつきまもり」の圖は、かの、紙に貼したる花に、よく似たれば、其比は、さも、言ひしにや。「かざり花」を、年始または「うぶ子」の方へ贈りて祝儀とせしは、めで度もの故、さは、せしなるべし。藥玉を「うぶ子」のかたへおくりしも、よしなきにあらず。「赤染衞門家集」に、『いかの程なる兒に、藥玉をやるとて、「おひたらんおともゆかしきあやめ草ふた葉よりこそたまと見えけれ」。』。是は五月の事ながら、うぶ子に藥玉をおくりし事ありし、といはゞ、いふべし。「ふりくぎてう」の事は、酲齋老人の「骨董集」に、くはしくしるし、餘が考をも、のせつれば、爰には、いはず。

[やぶちゃん注:「ふりふりぎてう」小学館「日本国語大辞典」を引いてみたら、「振振毬杖」の字を当ててあり、「振振(ぶるぶり)」と同じとあった。そちらには、『江戸時代の子どもの玩具の一種。八角形の槌(つち)に似た形で、鶴と龜、尉(じょう)と姥(うば)などを描き、小さな車をつけたもので子どもが引きずって遊ぶ。また、正月、魔よけとして室内に飾ったりした。ぶりぶりぎっちょ。ぶりぶりぎちょう』とあって、図が載る。幸い、ネットの「精選版 日本国語大辞典」に図が載るので、リンクさせておく(言っておくが、私は同辞典を初版本で所持している(元は独身時代の妻のものだが)。「龜」の字が正字なのはママである)。

「はま弓」「破魔弓」。魔障を払い除くという神事用の弓のこと。元来は「はま」とよぶ神占(かみうら)に起源のあるもので、破魔矢とともに正月の年占(としうら))を行う競技具であった。現在でも、神事として残っている所もあるが、遊戯として分布している地域は広い。直径二十センチメートル、厚さ二~三センチメートルの板、竹や蔓草を輪にしたもの、藁を円座のように円く編んだものなどを、空中に投げ上げ、また、地上を転がしたりして、そこを矢で以って射たり、突いたりするので、その成否が卜占(ぼくせん)ともなり、また、遊戯となった場合には、勝負となるのである。男児の初正月に、細長い板に弓矢を飾り付け、その下に押し絵を貼ったものを祝い品として贈り物とする「はまゆみ」や、初詣でに、開運の縁起を祝って、神社から授けられる「はまや」、また新築の際の上棟式に鬼門の方角に向けて棟の上に立てる弓矢も「はまゆみ」「はまや」と呼ぶようになったことは、もともと当て字であった「破魔」の字が、この傾向を助長したものと考えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「藥玉」「くすだま」。

「遺裂」「のこりぎれ」か。案外、「遺例」の誤字・誤植だったりして。

「かざり花」昔、「端午の節供」に邪気を払うために、衣服などに付けた薬玉の後世の名称。後には新生児が最初に迎えた正月の祝い物ともなった。

「四民往來」往来物(平安後期から明治初頭までの永い間、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用教科書の総称)の一つで、「万海宝藏 四民往來」ならば、中村三近子作書画になる京都での板行になる享保一四(一七二九)年初版本である。

「年中故事要覽」蔀遊燕(しとみゆうえん)編集の大坂での板行なら、享保三(一七一八)年があり、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの第一巻PDF)の24コマ目に「破魔弓(ハマユミ)」と「球杖(キツチヤウ)」が並んで読める。字が綺麗で読み易い。

「枕草紙春曙抄」北村季吟著になる「枕草子」の注釈書「枕草子春曙抄」(まくらのそうししゅんしょしょう)。全十二巻。跋文のクレジットから、延宝二(一六七四)年以後の出版と考えられる。

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「女用花鳥文章」寺田与右衛門(大津屋与右衛門/正晴)作。享保一四(一七二九)年大坂板行の、花鳥風月の趣を綴った四季の文章を集めた女性用の手紙文模範例文集。「デジタルアーカイブ福井」のこちらで全画像が見られるが、『「さつきまもり」の圖』はこれ。左丁の後ろから五行目に「五月(さつき)まもり」と書かれてある。

「おひたらんおともゆかしきあやめ草ふた葉よりこそたまと見えけれ」「日文研」の「和歌データベース」で「赤染衞門集」のデータを確認したところ、419で、

 おひたらむ ほとそゆかしき あやめくさ ふたはよりこそ たまとみえけれ

と確認出来た。

「酲齋老人」(ていさいらうじん)は浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の号の一つか、或いは彼の号では「醒齋老人」(せいさい)が知られるので、その誤字か誤植であろう。

「骨董集」京伝の文化一二(一八一五)年の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(板行年不詳)の上編の「下之卷」の「毬杖(ぎつちやう)」に楽しい挿絵とともに、かなり詳しく書かれてある(読み易い)。その途中のここの左丁の後ろから二行目のところに、「〇京なる青李庵主人云。京師の……」とあるのが、まさに、それだ!

 以下の識語は底本では全体が一字下げ。]

右客篇二通

桃窠は京師の人、角鹿淸藏といふ。名は比豆流、桃窠は、その號、又、號、靑李庵。家は一條通千本東に入る町にあり。持明院家の書法を學びて、筆學の蒙師たり。その性、好事にして尙古の癖あり。予、二十年來、文通の遠友にして、老實溫順の人なるを、しれり。よりて、この春つかはしゝ狀に、『予は神田に移住のゝち、をりをり、閉居の慮を推しひらきて、月每に五、六名家とまとゐするをたのしみとすなり。そのあそびはしかじかなり。』とて、「耽奇」・「兎園」の事どもを、いさゝか、ほのめかして聞えしらせしに、きのふ、その囘報、東着したり。披き見るに、「あはれ、ちかきわたりならば、さる、かぐはしきむしろの末にも、おして、つらなるべかめるに、東西山河のはるかなるをいかゞはせん。せめてものこゝろやりに、恥ぢかゞやかしき筆すさびを、ふたひら、三ひら、まゐらする。これ、いとはしく思はれずは、さ月の會におしいだして、披露して、たびねかし。さても貴所のわたりには、輪池翁など、聞え給ふ名家のおはしますよしは、年ごろ、耳なれて侍り。かの翁は、持明院家の筆法を傳へさせ給ふとなん。おのれも、かの御門人をけがし奉れば、仰山景慕のこゝちす。」と、ねもごろに、しめしこしたり。その志の、いと淺からぬを、おしつゝみてをらんには、朋友のみちにあらじと、思ふばかりを、よすがにて、かれが稿本の餘紙になも、ことの趣をしるしつけて、愚稿とゝもに、これをしも、披講せんことを、ねがふのみ。

  乙酉仲夏朔    江戶  著 作 堂 識

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賀茂甲斐筆法の辯

 

[やぶちゃん注:目録では「著作堂客篇 京 靑李庵」で、書信物(次に示す「花」の後の著作堂の識語を参照)。]

 

乙酉五月隨筆會       平安 角 鹿 桃

雨森東五郞のかける「戲草」といふものに、『この國の筆法といへるは、「壬辰の亂」後、とりことなりて、此國にすめる、「から人」の敎へしを、「賀茂の甲斐」、つたへたるなり。されど、今から、人のものかくを見るに、筆の意、はなはだ違へり。「から人」の筆の意も、「もろこし」とは同じからず。』と【以上「戲草」。】。按ずるに、賀茂甲斐敦敦直は、天文年間、飯河治部少輔秋藝、老後、一雨齋妙佐と號せし人に、上代の書法を傳へうけたるなり。其事實、書博士家の系圖に見えて、いとあきらかなり。かの「から人」に筆法をうけしとは、さらに、意、得がたし。されども、芳洲老人は博雅のひとなり。其頃、かゝる傳へも、ありしにや。

  文政八年乙酉隨筆會 平安  角 鹿 桃 窠

[やぶちゃん注:「雨森東五郞」は江戸中期の儒者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう 寛文八(一六六八)年~宝暦五(一七五五)年)の通称。諱は俊良、後、誠清(のぶきよ)。漢名を雨森東と名乗った。中国語・朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて、李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣ともに朱子学者・木下順庵門下の「五先生」や「十哲」の一人に数えられた、かなり知られた人物である。

「戲草」「たはれぐさ」。「多波礼草」とも書く。雨森の随筆。三巻三冊。著者没後三十五年目の寛政元(一七八九)年の刊。平明な雅俗折衷文で、和漢古今の故事や話柄をとりあげ、時にそれらに対する感想・感慨を述べたもの。近世随筆の佳編の一つに数えられる。

「壬辰の亂」「壬辰倭亂」で豊臣秀吉の「朝鮮出兵」に対する朝鮮での呼称。文禄元年から慶長三(一五九二~一五九八)年の間に二度行われた「文禄・慶長の役」。

「賀茂の甲斐」江戸初期の京都賀茂神社神官で書家であった藤木甲斐敦直(あつなお 天正一〇(一五八二)年~慶安二(一六四九)年)。十九になるまで、文字が読めなかったが、発憤して、大師流や三蹟の書を学び、江戸初期に藤木流(賀茂流・甲斐流とも呼ぶ)を創始した。後水尾天皇から書博士に任ぜられた。甲斐は通称。同流は後に廃絶したが、明治期に再興されている。

「天文年間」一五三二年から一五五五年まで。

「飯河治部少輔秋藝、老後、一雨齋妙佐と號せし人」これは底本の誤判読か誤植で、戦国時代の書家飯河秋共(いいかわあきとも 生没年未詳)のことである。永禄(一五五八年~一五七〇年)頃の大坂の人で、前記の賀茂流の書に優れ、中興の祖と称された。豊臣秀吉に仕え、三百石をさずかる。本姓は舟橋。号は一両(或いは「雨」)斎妙佐。以上は講談社「日本人名大辞典」の記載だが、さる学術資料では、飯河秋共は、足利義輝に仕え、後には細川幽斎に仕えて、長岡姓を許され、一両斎とも称したともあった。]

ブログ1,590,000アクセス突破記念 梅崎春生 仮面

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年五月号『進路』に初出。後に単行本『ルネタの市民兵』(昭和二十四年十月・月曜書房刊)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 文中に注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,590,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年9月11日 藪野直史】]

 

   仮  面

 

 あの男はいつもあの椅子にすわっている。いちばん奥まった卓の、あの棕櫚(しゅろ)の葉がくれだ。珈琲を何杯もかえてすすりながら、ぼんやりした表情で店中を眺め廻している。なにを考えているのか判らない。ときどき暗い皮肉なわらいをふと頰にきざむところを見れば、なにか考えているには違いないのだ。あの笑いかたを見ると、おれは突然被を打殺したい気持になってしまうのである。しかしその笑いは直ぐ頰から消えて、あの男はもとのぽんやりした顔つきにもどってしまう。両掌で珈琲茶碗をあたためるようにはさみながら、卓にひじをついたまま、またゆっくりそれをすすり始める。あの珈琲は白いふわふわしたミルクを浮べた特別製のものである。長いことかかってそれをすすり終えると、長い指を立ててまた新しいやつを注文する。

 天気の日でも、雨の日でも、あの男は青い雨外套(レインコート)を着ている。うすい絹のやつだ。それはぴかぴか光ってあいつの身体に貼りついている。その反射のせいか、彼の顔いろはいつも灰白色に沈んでいる。鼻がおそろしく長い。長くて曲っている。その鼻を鳴らしながら、雨外套のポケットから細巻きの莨(たばこ)をとりだす。じゃらじゃらした鎖のついた古いライターを出して火を点ける。煙をはきだしながら、舌で唇を砥(な)め廻す。あれでは半分も喫わないうちに、莨の端を唾でぐちゃぐちゃに濡らしてしまうだろう。灰白色の顔のなかで、唇だけが妙にあかい。青絹の雨外套におおわれて、女みたいなやさしい撫で肩だ。あの男の名は花巻というのだ。花巻精肉店の主人である。もっとも店は雇人にやらしていて、昼間はたいていこんなところでぼんやり珈琲などを飲んでいるのである。

 おれが何故あの男を知っているのか。それはおれがあの男の店の顧客だからである。店といっても昼間の肉屋のことではない。あんな店で牛肉なんか買うものか。おれが行くのは、夜のあの男のところだ。店の横の露地を入って行き、裏口の扉をこっそりたたく。たたきかたにも秘訣がある。始めコツコツと二度、ちょっと間をおいてまた三度、それからまた二度。暫(しばら)くすると扉の内側で跫音(あしおと)がして、かけがねを外す音がする。ぎいと厚い木扉があくとその隙間から手がでて何かが手渡される。それが仮面なのだ。博多仁輪加(にわか)の面のように、鼻から上を全部おおう形になっている。そいつを手早く顔につける。これをつけなければ、この店には入れないのだ。扉を入るとまたかけがねをかけてしまう。

 仮面などをかぶって、ここでは何をするのかと思うだろう。大したことはありはしないのだ。ただ酒をのむだけに過ぎない。あたりまえの裏口営業に過ぎないのである。大きな卓をかこんで、仁輪加面をつけたお客たちが何人か、莨をすったりしゃべったりしながら強い酒をのんでいる。電燈の光をさけて、わざと洋燈(ランプ)にしてあるから、非常にうすぐらく、秘密結社じみたものものしい雰囲気がないでもない。この効果を出す為だけに、仮面とは大袈裟(おおげさ)すぎる。これが花巻の趣味からだけと言えるのか。酒はいいのを揃えてある。酒を出したり料理をはこんだりするのは女である。女は二人いる。一人はマダムと呼ばれている三十恰好の女だ。も一人は澄ちゃんと呼ばれるわかい女だ。二人ともやはり仮面をつけている。真赤ないろに塗ってあるから、それから食(は)み出た顔の部分は妖(あや)しく白い。この女たちが酒を注いだりそんなことをするのだ。しかしマダムは大てい奥に引きこんでいることが多い。

 この部屋の壁は黄色く塗られていて、床には厚いマットがしいてある。通気がわるいから、莨の煙がこもっている。この部屋で仮面をつけていないのは、主人の花巻だけだ。部屋のすみに据(す)えた小卓に、彼だけ顔をむきだして腰をかけている。卓の上にはいつも酒瓶がのっている。そのときでも彼は青い雨外套を着ているのだ。黄色い壁を背にして、じっさい彼は大きな雨蛙のように見える。昼間喫茶店の奥まった卓で珈琲をすする時と同じように、グラスに強い酒を注いでそれをゆっくり飲みながら、ぼんやりした表情で一座を見廻している。ときどき短い言葉で女たちに洋酒を与えたりする他は、ただ黙って部屋の内を見廻しているだけだ。その彼の眼が、洋燈のひかりの加減か、急にするどく光るように見えることもある。

 ここでは良い酒をのませると言った。そのかわり値段は高い。高いけれどもおれが此処にかようのは、酒が良いということと(それはある事情でおれがよく知っている)客を常連に限っているから手入れの心配がないということなどの理由だが、こいつは花巻の思うつぼにはまるのかも知れないけれども、皆が仮面をかぶっているという情況が、へんにおれの気に入っているせいもあるのだ。実際お面をかぶっているということは、どんなにか気楽なことだろう。そして前にすわって酒を飲んでいる連中も、そろってお面をかぶっていて、みんな人間の表情を失っているのである。フアンシー・ボール(仮面舞踏会)じみた愉快さがそこにはある。[やぶちゃん注:「仮面舞踏会」は丸括弧内で二行割注。fancy ballfancy dress ball。客が仮装し、仮面をつける舞踏会。「fancy」は「装飾的な・派手な・意匠を凝らした」、「ball」は「盛大な舞踏会」の意。]

 おれたちは酒を飲み莨をすいながら、いろんな会話や冗談をとりかわす。むろん相手がどこの馬の骨ともわからない。仮面をぬげば案外顔みしりの男かも知れないのだ。そのときどきで相手が変っていることももちろんである。そのお面は猿に似せてあったり、犬や猫に似せてあったりする。昨夜猫の面をかぶっていたやつが、今夜は魚の面をかぶっていることもあり得るのだ。じっさい仮面というものの不思議さは、それをかぶった入間の属性をすっかりそぎおとしてしまうことだ。そこでおれたちはほっと肩を落しているのである。おれたちのかわす会話や冗談はいよいよ快適で、それも個人的な事情や感懐にけっして立ち入らないからである。おれたちは酔っぱらって世相や人間を語りながら、まるでそこらの批評家や月評家のような口を利いていることに気什くのだ。おれたちはその瞬間、あらゆる責任を肩からとりおろしているのである。そんな自分を嫌悪する気持が、ふとおれに起らないではない。しかし流れるような酔いが、おれのそんな気持を直ぐおおいかくしてしまうのだ。おれはますます饒舌(じょうぜつ)になる。部屋のすみの小卓では、花巻が灰白の表情をぼんやりあげて酔っぱらったおれたちの方をしきりに眺め廻しているのである。

 花巻はいくら飲んでも乱れないし、顔色も変らない。ただ声がいくぶん甘ったるくなってくるだけだ。舌が酒のためにもつれるせいだろう。長い鼻を幽(かす)かに鳴らしながら、ぼんやり椅子にかけている。おれたちがよっぱらってどんなに笑ったりしても、彼はほとんどわらうことをしない。騒ぎが烈しくなると掌をひらひらと上げて、表に聞えるといけないから静かにしてくれ、と言うだけである。そんな時にみんなはふと花巻の存在に気がつくのである。それでちょっと部屋の中は静かになるが、しばらくすると濁(だ)み声や笑い声があちこちから高まってくる。みんな酔っているから仕方がないのだ。酔っているといえば、看板ちかくの時刻になると女ふたりも大ていは酔っているようだ。お客たちがダラスや盃をさすからである。酔ってきたとしても、何ということはない。ふざけたり、客の相手をしたりするわけではない。ただ酒をはこぶだけである。

 そんなところは此の酒場は上品な部類に属するのだ。女たちは真赤な仮面をかぶっている。マダムはいつも和服を着ているし、澄子は平凡な洋装だ。ふつうの娘が着ているようなありふれた洋服だ。ただお面をかぶっていることが、それにへんな逆効果をあたえるようである。澄子はきれいな脚をしている。唇には口紅もつけていない。ごく平凡な恰好だが、それだけに赤い面が奇妙なアクセントになっているのである。こんな仮面をつけることも、もともと花巻の命令にちがいないのだから、澄子にしてはあるいはこんなものは取り外したいと、常々考えているのかもしれない。おれたちは言わばしょっちゅう面をかぶっていたいたちなのだが仮面などを必要としない人間も今の世にも間間いる筈だから、あの夜澄子がなにげなく面を顔から取り外(はず)したというのも、あながち酔いに放心したからだけとは言えないだろう。もっとも時刻はかんばん直前で、お客はおれひとりしか居なかった。そしておれもひどく酌っていた。隅の小卓から突然ぱしりと烈しい音がして、まっしろい顔をした花巻が立ち上った。革手袋で卓をひっぱたいたものらしく、掌で顎(あご)を支えてうつらうつらしていたおれもぎょっと眼がさめるほどその音はするどかった。

「なぜ面を外すんだね」

 立ちあがった勢にも似ず、その声はひどく静かで、すこし舌の根がもつれたような口調であった。そう言いながら花巻は床をするような歩きかたで澄子の方に近よってきた。澄子はびっくりしたような表情で花巻の方をふりかえっていたが、酔っているせいか瞳が定まらないらしく、大きな眼をたしかめるようになんどもまたたいた。この夜澄子はおれが見ただけでも、さされたジンのグラスを四五杯のんでいたのだから、何時になく深く酔っていたに違いなかった。おれはこの時始めて澄子の素顔を見たわけだが、きわだった特徴もないが、大柄なわりに良く整った感じの顔であった。その顔を一眼みたとき、ふしぎなようだが、おれは非常に心がなごんで安心したような気分になったことを覚えている。澄子は片手を卓にもたせ、これもごく静かな声でこたえた。

「だって暑くて、息ぐるしいんですもの」

 部屋のすみにはストーヴが燃えていたげれども、暑いというほどではなかった。しかし澄子はそう言いながら暑くるしそうに肩を動かした。

「暑いからといって、面を外していいと言ったかね?」

 花巻はそしておれの方にちらと顔をむけた。その顔は怒っているようではなくて、むしろ憫(あわ)れむようなうすわらいを浮べていたようである。

「まだお客様がいらっしゃるのに、そんなよごれた顔をみせることはないだろう」

「だって、暑くるしいのよ。マスター」

「面をつけるんだ!」

 突然たち切るような甲(かん)高い声で花巻がどなった。

 おれは頰杖をついた姿勢のまま、このやりとりを聞いていたわけだ。澄子は何か言おうとしたが、思いなおしたように手にもっていた仮面を顔にもって行った。もちろんおれはひどく酔っていたから、そして薄暗い部屋のなかのことだから、はっきりとは覚えていないけれども、澄子の顔はその時ほのぼのと紅潮して、大きな眼がきらきらと光ったようだ。そんな澄子の顔が面のしたにかくれてしまうのをおれはひどく惜しいような気がしたことを覚えている。惜しいというより、もっと切ない気持であったかも知れない。この瞬間におれは澄子にある感じをもっていたのだろうとおもう。グラスや酒瓶を下げに行っていたマダムが、次の部屋から姿をあらわしたときは、花巻はもとの卓にもどって無表情な顔でグラスを傾けていたし、おれはもう帰ろうかと立ち上りかげていたところであった。

 此のマダムという女は肉付きのいい女で、おれは素顔は見たことはないが、なかなか美しい顔をしているという話だ。マダムといってもこの女は花巻の妾みたいな地位にある女で、この酒場はおおむね彼女が切りもりしているのである。そんなことを何故おれが知っているかというと、そんな一部始終を澄子がおれに聞かせたからで、澄子がなぜおれにそんな話をする概会があったかというと、これは話せば少し長くなる。

 おれの職行というのは戦後流行のブローカーというやつで、もちろん店舗も事務所ももたないささやかな自宅営業だが、品物だけは相当にうごかしている。どんな品物でもあつかうまでには目が利いていないので、自然取引の範囲も限定されているわけだが、だいたいおれが取扱う品物のひとつに酒類があって、どんな伝手(つて)をもとめてやってきたのか知らないけれども、ある日この澄子がおれのうちを訪ねてきたときは少しおどろいた。玄関にたっている澄子を見た瞬間、おれは思わず、澄ちやん、と叫びかけてあわてて口を押えたくらいである。あの酒場ではお互に仮面をかぶっているわけだし、澄子がおれを知っている筈はないのだ。またあの夜のことがないならば、おれとしても澄子の顔を知っているわけはないのである。だからおれが澄子の名を叫んだりしたら、それこそ不自然な話にきまっている。あわてて口を押えたおれの態度には気がっかなかったらしく、澄子はちょっと頭をさげてあいさつした。

「始めまして」

 いいえ、こちらこそ、などと口ごもりながら、おれは澄子が酒の仕入れにやってきたんだなということにそのとき気がついた。そうすると幾分気がらくになった。そしてヘんになつかしさがこみあげてきた。

「お宅にはいい酒があるそうね。すこし廻してもらいたいと思って参りましたのよ」

 それから上にあがってもらって、いろいろ商談をした。澄子の取引ぶりはまことに大ざっぱであったけれども、仲仲[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]慣れていて場数をふんでいる感じであった。勿論おれも商人だから、元値を切ったりして取引を結んだりはしなかった。ただ仲間うちの相場よりもぐんと安く澄子に約束した傾きはあったかも知れない。そうするとおれの予期した通り澄子は満足そうにうなずいて言った。

「お宅のは安いわね。これからお宅にきめてしまおうかしら」

「そう願えればありがたいな。で、今まではどちらです」

 澄子はためらうことなくある人名をこたえた。それはおれも知っている酒専門のブローカーの名前であった。あいつの酒をあの酒場でおれが飲んでいたのかと思うと、おれは少しおかしく、またにがにがしい気持にもなってきた。

「じや次々入れて貰うかも知れないわね。あら、なぜそんなににやにやしてるの」

「いや。あなたみたいなお嬢さんが、何故そんなに酒が必要なのかと思って」

「あたしが飲むんじゃないわよ」

 そして澄子は怒ったようにちょっと口をつぐんだが、[やぶちゃん注:ここには読点がないが、誤植と断じて挿入した。]

「――うちは酒場なのよ。だからこんなに酒が要るのよ」

「へえ。おれも行きたいな」

「駄目なの。うちは変屈なんだから、ふりの人は入れないのよ」

 それから何か話しそうにしたが、ふと言葉を切って眼を外らした。暗い影がその眼を流れたようで、おれはふと澄子があの酒場では不幸なのではないか、ということを考えた。

 それからも澄子はおれのうちにしばしばやってきた。もちろん酒の仕入れのためである。現物を先方にとどけるのは、本米ならばこちらの仕事なのだが、この場合はいつも澄子の側から取りに来た。酒場のありかを知られたくないせいもあっただろうし、またおれがアゲられた場合に累(るい)が及ばないように、用心をしているせいもあったのだろう。そんな点の周到さは澄子のものではなかった。やはり背後にいる花巻のやりかたに違いなかった。澄子は性格的にそんなに気の廻る女ではないので、むしろ素直で純な女であった。だから少し親しくなるとおれにいろんなことを打明けたりしたのである。もちろん澄子は酒場のありかや花巻の名前などは言わなくて、某地区にある某酒場として、つまりおれにとって架空の酒場として話しているわけなんだが、おれとしては一々現実のものと引合せて聞いていたのだ。ときどきその酒場に通っていることを、おれはおくびにも出さなかった。なぜかというと、酒場にかよってくるお客たちを、澄子は軽蔑すべき対象としておれに話したからである。

「――マスターからいい加減馬鹿にされているのよ。面をかぶって安心したつもりで飲んでるのを、マスターは馬鹿にしながら眺めてるのよ」

 マスターはどんなものでも馬鹿にしているのだ、と澄子はその時ひとりごとのようにつけ加えた。こんな話をしているときの澄子の顔は、ごくありふれた女の感じで、とくべつおれの気持を牽くところもなくなっている。それがおれには不思議なんだ。あの夜澄子の素顔をはじめて見たときの、心が和(なご)むような、また切ないような気分が、白日のもとの澄子には、全然失われているのである。へんに年増くさい生活的な感じすらあるのだ。澄子はそしてあんな仮面をかぶって酒席に出ることを、大へん厭がっているような口ぶりなのだが、なおあそこに踏みとどまっているというのも、収入という点で、あそこはずげ抜けているという理由もあるらしかった。それはおれにも判る。おれが売りつける酒の単価とあの酒場でのませるグラスの単価を引き合せても、毎夜花巻の手におちる金額は相当なものであるにちがいないのだ。だから澄子にも応分の給料がはらえるのだろう。しかし澄子があそこにとどまっていることが、それだけの理由だとはおれには思えないのである。

 澄子は花巻のことを話すとき、いつも何か憎しみの調子を幽かにふくめている。毎夜入ってくる金で、花巻はぜいたくな暮しをしていると言うのである。食事にしても、戦前の一流料亭の食事のようなのを三度三度つくらせる。料理はもっぱらマダムがつくるのだが、マダムは以前どこかの板前の経験があるらしい。その食膳を花巻は無表情なかおで食べる。酒場の切りもりはマダムがやっているものの、実権のすぺては花巻がもっていて、マダムはしんのところでは花巻をこわがっているらしい。夜は別々の部屋に寝る。妾じみた関係だというのも、ただ漠然と澄子が感じているだけで、ほんとの処はどうだか判らないのである。しかし澄子にマダムがときどき口を辷(すべ)らせることを綜合すれば、花巻とマダムと知り合ったのは大陸で、そこで花巻は軍の特務機関の手先みたいなことをやっていたらしい。それを聞いたときおれはすぐ胸に、あの青い雨外套を着た花巻の姿をまざまざとうかべていた。どんなことにも反応をしめさないような花巻のあの灰色の顔も、あるいはそんな暗い過去からの影を引いているにちがいないとおもった。それはなにか嘔(は)きたいような不快なものとして花巻の姿体ぜんたいに何時もただよっているのである。

 あの酒場のやりかたも、きわめて悪趣味であることぱ、おれが始めから感じていることであった。子供だましみたいなチャチなやりかたで、そしてそのくせおそろしく悪どいとも言えるのだ。それが花巻が考えだしたやりかたであることは、澄子の口裏でも想像できるのだが、しかしこんな風な酒場を、以前おれは大陸で体験したことがある。花巻も大陸にいたという話だから、あるいはそんな処からヒントを得たのかも知れない。特務機関の手先などというものは、あちらこちらにもぐり込むような仕事なのだろうから、花巻がそんな種類の酒場を知らない訳はないのだ。あんな仮面をかぶることを、澄子が喜んでいないことは、大体の彼女の口調で判るが、何時か澄子がおれの問いに答えてふと口を辷らしたことがある。

「でも面をつけると、かえって気楽なのよ。わずらわしいことが全部消えてしまうような気がして」

 そのとき澄子の眼に、酔ったような光がちらりと流れたのを、おれははっきり覚えている。それはなにかむしばまれたような脆(もろ)い暗さを聯想(れんそう)させた。澄子がおれのうちでいろいろしゃべっても自分のことについては何も語らないのを、おれは突然その時気がついていた。

 澄子の過去がどういうものか、花巻とはどんな関孫にあるのか、おれはそれまではっきり知りたいとは思っていなかったのである。ただ単純に、澄子はあの酒場の雇人にすぎないのだと、心の底でかんがえていた。しかしこの言葉を聞いたとき、ふと澄子の生活に強力に投影しているらしい花巻をおれはかんじた。おれはあの酒場の黄暗く沈んだ壁を、そしてそれによりかかっている青い雨外套の花巻をその瞬間鮮明に瞼に画いていたのである。あの男の表情は動きがないから、ちょっと見るとぼんやりしているような感じだ。しかし気を付けていると、花巻の瞳はときどき小魚のような早さで左右にうごくのだ。何かを見ようとして動かすのではない。ほとんど無目的なするどい動き方をするのである。こんな眼の動かしかたをする男を二三人、おれは大陸で知っていた。その男たちは皆ある特別の仕事に従事していて、それからの類推でおれは、花巻がスパイのようなことをやっていたということをそのまま信じることが出来るのだ。このような連中はいわば生命を賭けたところに常住するわけで、そのせいか性格の中に、おそろしく冷情でつっぱねたようなところがあって、そのくせ他人を自分の強力な支配下におきたがるようなところがあった。ことに自分より弱い者に対してはそうであった。澄子が花巻のそんな呪縛(じゅばく)の下にあるとは、もちろんおれははっきり考えたわけではない。ただその時影のようにおれの胸をそんな気分がかすめただけである。それがどんな意味があるのか、おれは判っていない。

 さて、おれは澄子がおれの家に出入りするようになってからも、あの酒場には時折でかけて行った。つまりおれが安く売渡した酒を、高い金をはらって買いもどしているような具合であった。無論それを知っているのはおれだけで、澄子はおれが客のひとりであるとは知りはしない。壁際に吊った洋燈(ランプ)がわずか二個だから、卓のあたりはぼんやり闇がしずんでいて、たとえばお互のネククイの柄もさだかでないほどなので、澄子が服装や動作からおれを見抜くわけがないのだ。第一みんなここの常連だから、いくら仮面をつけていても見覚えのある相客ができそうな気もするが、それが仲々できないというのも、ここが極度に薄暗く、莨(たばこ)の煙でいつもいっぱいだからだ。ただ花巻のいつもいる小卓は吊洋燈のすぐそばなので、彼の顔だけは灰白色にぼんやり浮き上って見えるのである。

 いま見覚えのある相客がなかなか出来ないとおれは言ったが、ただ一人だげ、仮面がどんなに変っていようとも、おれが見分けられる常連の男がいる。なぜ見分けることが出来るかと言えば、ひとつには顔の仮面から食(は)み出た部分に、つまり唇のあたりにきわ立った特徴があって、それがおれの記億にとどまる原因になっているのだ。それは少しむくれたような形の唇で、色は赤黒く濡れている。歯科医が歯型をつくるとき用うモデリグコンパウンドみたいな色だ。不快な気味悪さがその唇にはある。おれが此の男を印象にとどめているも一つの理由は、この男は酒もなかなか飲むけれども、あきらかに澄子にたいしてある種の興味をもっているらしく、それを動作や態度ではっきりと示すからである。しかしそれはおれだけに判ることかも知れない。ほんとうに此の部屋の暗さは、相客の動作ですらうっかり見のがす程なので、おれが此の男の動作や態度に注意しはじめたというのも、澄子にたいしておれがある関心を持ってきだしたせいなのかも知れないのである。[やぶちゃん注:「モデリグコンパウンド」modelling compound。カリウム樹脂・硬質ワックスを主成分とする非弾性印象材。天然性の熱可塑性樹脂で、筋形成(概形印象)に適している。歯科で「インショウ」(印象)という言葉をよく耳にするのが、それである。ピンク色のあれである。]

 先にも言ったように、おれは昼間ときどきおれの家にやってくる澄子にたいしては、ほとんど気持が牽(ひ)かれないにもかかわらず此の酒場のなかで見る仮面の澄子には、なにか胸がときめくような牽引を感じてしまうのだ。昼聞会うときのあの平几な、いくぶん事務的な澄子にくらぺて、比処のうすくらがりの酒場では、澄子は俄(にわか)に深海魚のような妖しい魅力をたたえてくるのだ。その時おれはあの赤い仮面の下に、昼間の澄子の顔を想像していない。もっと別の、もっと強烈で切ない、もちろん目鼻立ちとしてはあの澄子の顔と同じだけれど、全然違った印象を与える澄子を想像しているのである。そんな澄子があの仮面の下にいることを予想するだけで、おれは背筋に粟立つような強い刺戟をうけてしまう。澄子はただ奥から酒や料理をはこんでくるだけである。あとはだまって卓の側に立っていたり、壁によりかかっている。客が呼びかけグラスをさせば、簡単に礼を言ってためらわず飲むのである。おれはふと、澄子が自分のそんな挙動が客にあたえる印象をすべて計算しつくしてそしてあんな風(ふう)にやっているのではないかと考えることもあるのだ。しかしそれは昼間見る澄子からは想像できないことだ。そのことがおれに一種の倒錯的な刺戟にすらなっている。おれは酔ってくると仮面の小さな眼穴から、ぼんやりと澄子の動きを追っている。頭のなかでさまざまの想念や嗜慾(しよく)のわき立つのを幽(かす)かに意識しながら。――[やぶちゃん注:底本では行末でダッシュは一字分だが、これは組版上の勝手な節約と断じて、二字分で示した。]

 その男の澄子に対する興味は、しかしおれのとは逆になっているのだろう。何故かというと、その男は澄子の素顔を知らないからだ。ただ澄子の仮面や身体つきに、中年男の興味を湧き立たせているにすぎなくて、そのせいで澄子の仮面の下をいちどのぞぎたくて仕方がないのである。彼は濁ったいやしい口調で、澄子に酒の代りを注文する。酒が注がれる間、面を斜めにむけて澄子の横顔をながめている。何気ない風をよそおって、手を澄子の身体にふれたりする。澄子はそれを別に拒否する風情もみせないが特別の反応も示さないのである。つまり全然の無関心の態度なので、その男はだんだんいらだってくるらしい。そのような隠微な経緯(いきさつ)を、おれはのがさずある感じをもって眺めているのである。他の客は誰も知らない。ただも一人その経緯をするどく注意している男がいるのだ。それは吊洋燈の下でゆっくりゆっくりグラスを傾けている花巻だ。花巻は長い鼻をかすかに鳴らしながら、ぼんやりした表情のなかから眼だけするどくその男の挙動に走らせている。

 その男はよく飲む。強烈なやつを他人の倍ほども飲む。酔ってくるとしだいに饒舌(じょうぜつ)になってきて、あたりかまわず話しかける。もっとも此処ではみんな面をかぶってしるので、特定の個人というものはない。誰に話しかけても同じなのである。答えるにしてもそうである。酔った会話の雰囲気が、そんな具合に進行してゆく。この男を中心にしてちょっとした事件がおこったあの夜も、なんだかそんな自然な具合に進んで行ったようだ。その夜は、誰かの会話で、こんな奇妙な酒場は東京にもあまりないだろう、というところから始まって行ったのだが、それからみんなががやがやと発言したり笑声を立てたりして、おれはその玲の各人の口調から、皆がここの常連であることを誇りにしているらしいことを何となく感じて、なにか変な感じにうたれたことを記憶している。なぜこんなところに出入りするのが誇りとなるのか。その気持をたどってゆけば、興ざめするようなものにつきあたるような気がしたけれども、考えてみるとこのおれにしても、此の酒場の特殊な魅力に引かれて来るのだとはいうものの、ある言い知れぬ秘密のなかに自分がいることを、ひそやかに高ぶる気持がないとはいえないのだ。もちろんその気持が仮面の澄子に牽かれる気持に通じていて、いわばおれは設定されたものの中に自らをひたして意識的に酔っているに過ぎなくて、なにかに甘えたところで安心しているわけのようである。大陸でみた阿片窟や賭場にくらべると、ここにあるのはごく安手な擬似の頽廃だ。そのことがおれにはつねにうしろめたい気持がするのだけれども、またそのせいで酔いの廻りは追っかけられるように早いのだ。その唇の赤黒い男は、濁った声でその会話に参加していたが、よどんだ笑声で会話の進行が乱れかかったとき、ふとグラスをあげて冗談めいた大声で言った。

「こんな酒場をつくった主人のために、乾杯!」

 しかしこの男は、花巻のためにより、澄子のために乾杯したかったのかも知れない。彼はグラスをむしろ壁に立った澄子の方にむかって支えていたのである。声に応じてグラスを上げたものは周囲の二三人にすぎなくて、あとはそれぞれ外の話題にうつっていたり、グラスを傾けたりしていた。おれもグラスをあげなかった一人である。別に理由はない。その男の音頭に合せてグラスを上げることがめんどうだったからにすぎない。その男の声は、しかしかなり大きな声であったので、部屋のなかのものに聞えなかった筈はない。ところがもうもうと立ちこめた莨の煙のむこうで黄色い壁を背にして浮き出るように洋澄(ランプ)に照らされた花巻の顔はまるでその声が聞えなかったかのように、微動すらしないようであった。細巻の莨を口にくわえたまま、れいのぼんやりした表情でなにかを眺めているのである。客たちがつけた仮面の方にかえって表情があって、花巷の灰色に沈んだ顔にはほとんど血の気が通っていないようにおれには見えた。莨は唇の端で垂れていて、火はすでに消えてしまっているらしかった。男はそれを見て、もちあげたグラスをちょっとやり場のないように動かしたが、すこしひるんだような弱い声で再びことばを重ねた。

「この主人のために。万歳!」

 それでも花巻の表情は、いささかの動きも見せなかったのである。ただぼんやりと眼を動かしているだけであった。黙殺というほど、意識的な態度ではなく、ほとんどよそごとを眺めているようなつめたい動作であった。男はそれでぐっといらだったようである。ひっこみがつかなくなったように身体をゆるがせて、急にグラスを唇にもって行って一気にそれをあおった。もはや澄子の姿は眼にないらしく、椅子ごと身体をうごかして花巻の方にむきなおった。

「御主人」気持を押えて、あざけるようなひびきをこめた調子で男は口をきった。「おれのいうことは聞えなかったのかね」

 花巻は雨外套のポケットから、古風なライターを取出してカチリと火を点けた。莨を指にもって、はじめて静かな声で言った。

「あまり大きな声を立てないで下さい。表に聞えるとまずいから」

 舌がもつれるように聞えるのは、やはり花巻も酔っていたのであろう。そう言いながら花巻は、自分の卓の空のグラスを酒瓶からトクトクと注いで満たした。しかしその言葉は静かだったけれども、一座の笑い声や話し声は急におさまってしんとなった。

「君はここの主人だろ?」と男が押しつけるような声で言った。

「私はここの主ですよ。もちろん」

「今おれが君のため乾杯したのが見えたかね?」

「見えましたよ」と花巻は静かな声でこたえた。

「それじや、なんとか――」男はいらだったように頭をふった。「なんとかあいさつがあってもいいだろう」

「まあいいじやないか」と誰かが口をはさんだ。「酒のむとき位はたのしく飲めよ」

「まあ、言わせておきなさい」

 突然おそろしく冷たい口調になって花巻がそれをさえぎった。男はその言葉でふいに怒りがこみ上げてきたらしかった。しかし辛うじて気持を押えたらしく、手を卓の上の方にのばした。彼のグラスは空であった。男の指はぶるぶるふるえていた。

「で、では言わして貰おう」咽喉(のど)から押しだすような声で彼はどもった。

「この酒場はインチキだ。悪趣味だ」

「それで?」

「こんなところは不潔だ。お、おれが、ひとこと警察に言いさえすれば、君などは即座にひっくくられるよ」

 男の声はひどく苦しそうで、むしろあえいでいるようであった。花巻はそれに答えないで、莨を唇にはさみながら、頰にふと暗い皮肉そうな笑いを瞬間うかべた。煙を唇の間からゆらゆらとはきだしながら、暫くして低く呟くように口を開いた。

「――あんたは酔っているんだよ。なにも怒ることはないだろう。悪趣味だと思えば、来なきゃいい。私のところは、まっとうな酒場なんだ」

 そして卓の上のグラスに手を伸ばすと、それにちょっと唇をつけた。つけただけで口に含まず、またグラスを卓に戻した。

「まっとうな酒場であるもんか」

 なにか吹き抜けるような声で男は言いかえしたが、顔を斜めにあげてぐるりと部屋を見廻すような仕草をした。そして強いて気持をあおったような声で、一言一言区切りながら発音した。

「まっとうだって。わらわせやがら。こんな変ちきりんな面なぞかぶせあがって[やぶちゃん注:ママ。]。おれたちはいいさ。いいがだ。こんな娘さんにも厭らしい面をかぶせたりして――」

「だからあんたは来なけりゃいいんだよ」と花巻はじっと男を見据(す)えながら言った。その頰にはかすかにさげすむよな笑いを浮べているようであった。「面がいやだったら、外したらいいだろう。そして出て行ってくれ」

「おれはいいんだ。おれがいってるのはこの娘さんだよ」

 壁によりかかって、ふたつの吊洋燈の光のあいだの谷に、澄子は影のように立っていたのである。男が顎(あご)でしゃくったのはその澄子の姿であった。澄子の姿はそのときかすかにたじろぐらしかった。奥に通じる半扉が音なく開いて、やはり面をつけたマダムの半身がおれの視野の端をかすめた。花巻がその時しずかにたちあがった。莨の煙が洋燈の光茫のなかで、流れるようにうごいた。花巻は足を床のマットにするような歩きかたで、卓のすぐそばに歩みよってきた。そして青絹の雨外套を開いて、上衣の内かくしから何かを取りだした。

「お前さんは、この女が好きらしいな。好きなら好きでいいんだ」

 花巻の声は急にするどく畳みかけるような調子を帯びてきた。

「――そんなに好きならば、賭けで決めよう。丁が出たら、この女をお前さんに呉れてやる。半がでたら、お前さんの生命はわたしがもらう。それでいいか」花巻の掌から卓の上にころがりおちたものを見て、男はふと身体をかたくしたらしかった。椅子がぎいときしんで、男は指をあげてカラーのあたりをしきりに押えた。それは真白な骰子(さいころ)であった。暗い卓のうえで乏しい光を吸って、それは白い点のようにひかった。

「やめて下さい」

 半扉のところから、そんなマダムの烈しい声が飛んだ。声はふいにそこで千切れて、またあたりはしんとした。部屋のすみで燃えおちるストーヴの石炭の音がはっきり聞えた。

「――ひとりの女を、そんな骰子できめるのか?」

 呻(うめ)くようなその男のつぶやきにかぶせて、花巻はそれを断ち切るようにはげしくさえぎった。

「これはおれの女だ!」

 花巻はそして大きく眼を見開いて、男の方に上半身をのりだすような形になった。

「おれの女をどうしようと、おれの勝手だ。だから丁と出たら、黙ってお前さんに呉れてやる。お前さんにそれだけの勇気はないのかね」語尾が急にあざけりの調子を帯びて、花巻の瞳は見開かれたままきらきらと光った。

 おれは卓のいちばんすみっこの椅子にかけていて、黄黒い壁によりかかっている澄子の姿をじっと見詰めていたのである。澄子は花巻の言葉がいわれたとき、ほとんど一歩踏みだしそうに身体を動かしたが、思いかえしたように腕をかるく組むと、そのまま全身を凝らしたらしかった。緊張した沈黙のなかを、暫(しばら)くして男は打ちのめされたように立ち上った。酔いもすっかり醒め果てたらしく、立ち上った瞬間にかすかに身ぶるいした。そして危く床をふみながら扉の方に後すざりをした。扉に背をつきあてると、ゆっくりと重い木扉を開いた。その瞬間男の姿は扉の陰から逃げるように外に消えた。僅かひらいた隙間から、なにかひらひらと舞いおちた。それは男がいままでつけていた犬の仮面であった。壁のところに立っていた澄子が軽く走りよって、それを拾いあげた。そして扉を閉じながら、くるりとこちらに身体ごとふりかえった。

「あの人、密告するわ。きっと」

 澄子のその声はかすれていて、何か呼吸をはずませているような口調であった。誰もそれに答えなかった。さっき木扉がひらいたとき流れ入った冷たい夜気が、部屋の空気の中でうすい層をなして、そのときおれの顔にひやりと触れてきた。

 マツトを踏みながら、背をまっすぐに立てた花巻が跫音(あしおと)もなく吊洋燈のしたの小卓にもどって行った。

 椅子にゆっくりと腰をおろすと、卓上の先刻注(つ)ぎのこしたグラスに手をのぱしながら、もとのぼんやりした灰白色の表情にもどって一座を見廻した。見廻しながら、ふと暗い皮肉なうすわらいを頰に浮べると、あかい唇をひらいて抑揚のない調子で言った。

「どうです。さっきの条件で、わたしと賭けをする人はいませんか」

 おれはこの時、何放だか知らないが、自分が面をつけていることに対して、言いようもない惨(みじ)めさを感じて、思わず卓の下で掌をにぎりしめていた。おれはそして、いましがた露地をかけ抜け出たにちがいないあの赤黒い唇の男より、憎しみの比重がぐっと花巻の方にかかって行くのを、まざまざと胸の中でかんじていたのである。透明なグラスの液体が花巻の濡れたように赤い唇にもってゆかれるのを眺めながら、おれは自分の気持に耐えきれなくなって眼を外らした。

 厚い木扉を背にして、澄子が立っていた。澄子の肩があえぐように大きく動いたのを、おれはその時に見た。あきらかに何か言おうとしたのである。しかしそれは言葉にまでならなかったようであった。そして部屋はもとの沈黙に落ちた。

 この夜の出来ごとは、妙におれの印象にのこっている。もちろん酒場のことだから、客同志の喧嘩や言いあらそいはしばしばあったが、そんなことはあまりおれの記憶にのこっていない。ただ花巻が登場したということだけで、此の夜のことがおれの頭にひっかかってくるのも、おれが花巻に対して、たんに主人と客という関係でなく、もっと深いところで感情をもちはじめたからだろう。そしてそれは、澄子という女がその間にいるからには違いないが、しかし此の頃のおれには、いろんなことが何も判っていなかった。

 自分の気持の屈折すら、はっきり手探りかねていたのである。

芥川龍之介書簡抄141 / 昭和二(一九二七)年一月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年一月八日・田端発信・野間義雄宛(葉書)

 

冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の發音を御注意下され愈ありがたく存じます。本にでも入れる時は改めさせたいと存じます。右とりあへず御禮迄

二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候

    一月八日

 

[やぶちゃん注:「野間義雄」未詳(以下、宛名人の「未詳」は新全集の「人名解説索引」で確認したもの。以下では略す)。新全集の宮坂年譜より、この前後を引く。同年一月三日、『嘔吐してところに下島勲が来訪し、診察を受ける』、翌四日、『西川豊(義兄。弁護士)』(実姉ヒサの再婚相手)『宅が全焼する。直前に多額の保険がかけられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』。『午後、前月』昭和元年十二月三十日『に死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。午後』八『時頃、小穴、下島が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、午後』十『時半頃までカルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』を参照)。一月五日、教えていた『何条勝代が来訪し』、この十一『日に再び洋行することを告げてゆく』。同月六日の午後六時五十分頃、『西川豊が千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この中央附近にあった。グーグル・マップ・データ。外房線は路線変更されているため、旧土気トンネルは現存しない)『で飛び込み自殺する。以後』、三『月頃まで、義兄の家族や、遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険などの問題で、東奔西走を余儀なくされた』とあり、書簡中の「親戚にとりこみ有之」はそれを指す。以下、『この頃、編集者や来客から避難するため、平松麻素子の世話で帝国ホテルに部屋をとり』(平松麻素子の『父の福三が支配人の犬丸徹三と懇意だった)、原稿執筆をすることもあ』った。『帝国ホテルからは、しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた』、小さな頃から世話になった『室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論をした』とある。一月八日、『「新潮合評会」に、徳田秋声、近松秋江、久保田万太郎、広津和郎、宇野浩二、堀木克三、藤森淳三、中村武羅夫らと出席する』。この書簡の翌九日、『夜、漱石忌』(月命日)『に出席するため、夏目家を訪れ』ている。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月九日・田端発信・宇野浩二宛(葉書)

 

冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、每日忙殺されてゐる。はがきで失禮 頓首

    一月九日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十日・田端発信・藤澤淸造宛(葉書)

 

冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は燒けて主人はゐないと來てゐるから弱る。右御禮まで。

 

    一月十日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「藤澤淸造」(明治二二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は小説家・劇作家・演劇評論家。石川県鹿島郡藤橋村(現在の石川県七尾市)生まれ。明治三三(一九〇〇)年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第四学年を卒業後、七尾町内の活版印刷所で働いた。仕事は、印刷所が新聞取次を兼業していたため、新聞配達であったが、右足が骨髄炎に罹り、手術を受け、自宅療養した(生涯、この骨髄炎の後遺症に苦しめられた)。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで鋲屋や代書屋に勤めた。明治三九(一九〇六)年、十八歳の時に上京、中里介山らの面識を得る。弁護士野村此平の玄関番や、製綿所・沖仲仕といった職に就いた後、明治四十三年には、当時、弁護士だった斎藤隆夫(後にリベラル派の政治家となった)の書生となる。この頃、同郷の文学青年安野助多郎らと親しく交友、その安野に紹介された徳田秋声の縁で、三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤めることとなった。明治四五・大正元(一九一二)年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野が縊死した。安野は清造の代表作となった長篇小説「根津現裏」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年聚芳閣文芸部刊版)に登場する岡田のモデルであるとされる。なお、茂吉の歌集「赤光」収録の連作「狂人守」(きょうじんもり)(大正元年の作)に登場する患者も、安野がモデルとみられている。大正九(一九二〇)年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌年、経費削減を理由に馘首された。後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆した。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、大正一一(一九二二)年には、やはり小山内の世話で、プラトン社の非常勤編集者の職を得た。同年四月、友人の三上於菟吉の世話で「根津権現裏」を日本図書出版株式会社から刊行した。しかし、後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、昭和七(一九三二)年一月二十九日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の行旅死亡人として火葬されたが、その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印から、久保田万太郎によって、清造の遺体と確認された(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・佐藤春夫宛(葉書)

 

冠省君の所へ裝幀の禮に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出來、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。錄近作一首

   ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

 

[やぶちゃん注:「裝幀」前年十二月二十五日に新潮社から刊行した随筆集「梅・馬・鶯」の装幀は佐藤春夫に依頼した。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

はがきにて失禮。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。髪經衰弱癒るの時なし。每日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首

    一月十二日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛

 

冠省御手紙ありがたく存じます。大騷ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神經衰弱なほるの時なし。とりあへず御禮まで。頓首

    一月十五日       芥川龍之介

   伊 藤 貴 麿 樣

 

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和三二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。兵庫県神戸市生まれ。大正九(一九二〇)年、早稲田大学英文科卒。大正十三年、新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、後、文芸春秋系の作家となり、その後、児童文学界の重鎮となって、「西遊記」の再話などで知られた。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・橫尾捷三宛

 

冠省、創作月刊の件は菊池へでも直接おかけあひ下さい。原稿は同封御返送します。この頃親戚に不幸有之、多用の爲これにて御免下さい。頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   橫 尾 捷 三 樣

 

[やぶちゃん注:「橫尾捷三」未詳。

「創作月刊」文芸春秋社が、この翌年の昭和三年に創刊することとなる雑誌。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・福島金次宛

 

拜復、度々御手紙ありがたう。拙作を讀んでゐて頂いて恐縮です。「鴉片」や何かは「梅・馬・鶯」を本にまとめた後に書いたのです。茂吉さんの事はあの文章にては不十分にてすまぬ故、削ることにしました。舊臘來多病の上多忙の爲、手紙も書けず、今夜あなたへもやつと義務をはたす事が出來ました。唯今犬養、瀧井兩君と夕飯を食つて歸つて來た所です 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   福 島 金 次 樣

 

[やぶちゃん注:「福島金次」不詳。

「鴉片」は岩波書店の新書版全集には大正一五(一九二六)年十一月発行の『世界』初出とするが、確認はなされていない。同元版全集では本文文末に『(大正十五年十一月)』の、普及版全集では『(大正十五年十月)』のクレジットがそれぞれ打たれてある(以上の書誌は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「茂吉さん」斎藤茂吉。現在の「鴉片」には茂吉は登場しない。この「福島金次」なる人物はその初出(削除されて全集収録される前のもの)を読んだ感想を送ってきたものか。「犬養、瀧井兩君」犬養健と瀧井孝作。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・海老原義三郞宛

 

朶雲奉誦、夏目先生の書は小生の鑑定にては目がとどかず、何とぞ小宮豐隆氏か野上豐一郞氏にお願ひ下され度、右とりあへず當用のみ。

    一月十五日      芥川龍之介

   海老原義三郞樣

二伸御封入の爲替及切手は同封御返送申上候間左様御承知下され度候。

 

[やぶちゃん注:何やらん、ゴタゴタ続きの中に、龍之介を苛立たせる問い合わせが殺到していることが判る。

「海老原義三郞」不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十六日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ありがたく存じます。それから「文藝春秋」のお歌も。尊堂へは是非上らねばならぬ所、又親戚中に不幸起り、東奔西走致しをる次第、惡しからず御無沙汰をおゆるし下さい。唯今新年號の小說の續きを書きをり候へども心落着かず、難澁この事に存じてゐます。來世には小生も砂に生まれたし。然らずば、

   來ム世ニハ水ニアレ來ン軒ノヘノ垂氷トナルモココロ足ラフラン

    一月十六日夜     龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「新年號の小說の續き」既に述べた「玄鶴山房」のこと。

「來世には小生も砂に生まれたし」「も」という添加の係助詞から、茂吉の「文藝春秋」に載せた(推定)歌と関係するように思われるが、不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

頭くたびれをり、如何にしてもこれより出來ず。なほ又前の最後の半ピラ中、「お鈴は夫が銀行へ行き」云々の一節はとりすて、今度のをお用ひ下され度候

               芥川龍之介

   高 野 敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」の二月号の原稿についての内容。次の同人宛書簡から、一部を先に送ってお茶を濁していたように見える。

「半ピラ」二百字詰原稿用紙のこと。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十九日(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

これでおしまひです。「五」は出來損ひかもしれません。しかしもう時間がありませんから、あきらめることにしました。又實感の乏しい爲、手を入れてもだめかと思ひます。

    十九日午前五時    龍   之

   敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」は私は好きな作品である。芥川龍之介最晩年の小説らしい小説として、である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・野村治輔宛

 

原稿用紙で御免下さい。飜譯の件は勿論よろしい。序文も同封してお送りします。どうかよろしく。「じゆりあの吉助」は御らんになるほどのものではありません。僕もモスクワ大學の日本文學科の先生か何かになりたい。原稿に追はれて暮らしてゐるよりもその方が遙かによささうです。右當用のみ。頓首

    一月二十一日     芥川龍之介

   野 村 治 輔 樣

 

[やぶちゃん注:「野村治輔」新全集の「人名解説索引」には、『大阪毎日新聞社社員』としつつ、『詳細未詳』とある。ネット・データでは、芥川龍之介もよく発表の場としている雑誌『新小説』の大正時代の編集者の名前に出る。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・岩野英枝宛

 

原稿用紙にて御免下さい。雲林、藍瑛どちらも持ち合せません。のみならず畫帖を見た位では中々御鑑定の出來るものではありません。小生は唯今親戚に不幸有之、その上その方の衣食の計立たざる爲、東奔西走中。どうかこれにて御勘辨下さい。いつか越後へでも遊んだ折はあなたの御紹介を得、御藏幅を拜見したいと存じてゐます。以上。

    一月廿一日夜     芥川龍之介

   岩 野 英 枝 樣

 

[やぶちゃん注:「岩野英枝」(ふさえ)は新全集の「人名解説索引」によれば、作家岩野泡鳴の三番目の妻とし、最初、『泡鳴の口述記者として雇われ』、『のち同居』、大正七(一九一八)年五月に『入籍』したとあり、『泡鳴の主宰した十日会』(かの秀しげ子も会員で、龍之介もそこでしげ子に出逢った)『の女性側の主要メンバーの一人』で、『芥川は英枝に久米正雄の結婚相手を捜してくれるよう依頼する一方で』、『英枝の原稿を新聞に載るよう』、『骨』を『折ったこともある』とあった。この時は既に未亡人(泡鳴は大正九年没)であった。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年(生没年は異説あり))は明の後期を代表する画家。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓今夜は失禮仕り候うつかり「月の光は八谷を照らす」を書いて頂く事を忘れ殘念なり二三日中に使のものをさし上げ短尺をおとどけ申上げ候間、おひまの節お書き下さらば幸甚に存候ソレカラ Velonal Neuronal ともおとり置き下さるまじく候やこちらのお醫者に賴む事は阿片丸を頂きをり候ことも申居らず候爲ちと具合惡く候へばよろしくお取り計らひ下さらば幸甚に存候 頓首

    昭和改元一月廿八日   龍 之 介

   齋 藤 樣

二伸 なほ又お藥は使のものにお渡し下さらば幸甚に存候唯今この手紙に似合ふ封筒なしこれも御免蒙り度候

     卽興

   尿する茶壺も寒し枕上(ガミ)

 

[やぶちゃん注:「月の光は八谷を照らす」筑摩全集類聚版脚注に、『茂吉の作』とあり、

 しづかな峠をのぼり來(こ)しときに月の光は八谷(やたに)をてらす

と載せ、二年前の『大正十四年夏、箱根にての吟』とある。歌集「ともしび」の「箱根漫吟の中」の一首である。

「Neuronal」筑摩全集類聚版脚注は『神経安定剤』とするが、この綴りは一般名詞で「神経細胞の・ニューロンの・神経型の」の意味であり、市販薬物名として「ヌロナール」というのは、英名でもネット検索に全く掛かってこない。Numal」の誤りである。小泉博明氏の論文「斎藤茂吉と青山脳病院院長(1)昭和 2 年から昭和 3 年まで(PDF・『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第十一号(二〇一〇年)所収)の、「5.芥川龍之介と茂吉」に、この書簡への往信と思われる二 月一日附芥川宛書簡を引き(引用文を恣意的に正字化した)

   *

拜啓先日は御馳走に相成り何とも感謝奉り候。今日獨逸バイエル會社の「ウエロナール」屆き候ゆゑ一オンス(廿五グラム)使もて御とヾけ申候。舶載品は邦製のものと成分全く等しと申し候ひども舶載のものヽ[やぶちゃん注:ママ。]方がやはり品よき心地いたし申候。御比較願上候。次にヌマール(Numal)といふロッシュ(Roche)會社の錠劑をも御屆け申し候。これは一錠頓服にて十分と存候が、これも御試めし願上げ候。ウエロナールとヌマールと相互に御使用の方が、慣習にならずによろしく御座候(略)

追伸。藥價の事御氣にかけられ候事かと存じ候ゆゑ内實を申上候邦製ウエロナールは一オンス八十五錢に有之、舶載のバイエル會社のものは二圓五十錢、ヌマールは一圓六十錢にて、先夜の自働車[やぶちゃん注:引用元にママ注記有り。]にも相成り不申候ゆゑ、進上仕りたく右惡しからず御承引願上候。但し、藥は高きものと思召にならざれば利かぬものに候ゆゑ、その御つもりにて御服用願上候 敬具

   *

小泉氏はこれについて、『茂吉は、馳走になった御礼として芥川に「ウエロナール」だけではなく、「ヌマール」という薬剤と短冊を送った。2 種類の薬剤を相互に服用し、慣習化しないように指示している』とされ、但し、『茂吉の 1 月 30 日付、日記には「芥川氏に、Verona l25 gr. ヲトドケル」』『とあり、日記と書簡の日付に異同がある』とある。この茂吉書簡への返礼が、二月二日夜とする二月分で掲げる書簡である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・西川英次郞宛

 

冠省久しぶりに君の手紙を貰ひ愉快だつた短尺は小包みにするのが厄介故詩箋で御免蒙る元來君のやうに字のうまい兄貴を持ちながら俺の書いたものなど欲しがる必要はないのだだから發句三分の一人前字三分の一人前、紙三分の一人前と思つて貰つてくれ給へこの頃多事多難多憂弱つてゐる

 

    昭和改元一月廿八日  龍 之 介

   英 次 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「西川英次郞」龍之介の親友。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・田端発信・宇野浩二宛

 

拜復。まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預つて難有い。あの話は「春の夜」と一しよに或看護婦に聞いた話だ。まだ姊の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の爲に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは氣の毒だね。餘は拜眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

    一月三十日      芥川龍之介

   宇 野 浩 二 樣

 

[やぶちゃん注:「あの話」「玄鶴山房」。

「春の夜」大正一五(一九二六)年九月『文藝春秋』発表。「青空文庫」のそれをリンクさせておくが、新字新仮名である。

「高野さんがやめたのは氣の毒だね」前にも書いたが、『中央公論』編集長であったが、先の高野宛書簡から、この一月十九日以降に、恐らくは解任されたものと推察する。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・消印三十一日・田端発信・相州鎌倉坂の下二十一 佐佐木茂索樣・一月三十日 武州田端 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、唯今姊の家の後始末の爲、多用で弱つてゐる。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保險、生命保險、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神經衰弱癒るの時なし。六七日頃までは東京を離れられまい。拜眉の上萬々。姊の夫の死んだ話は殆どストリントベルグ的だ。匆々。

    一月三十日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「ストリントベルク」ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。私は恐らく海外の劇作家で最も多く戯曲を読んだ作家の一人である。]

2021/09/10

最近とても嬉しかったことどもについて


つい先日、私が十年前に暴虎馮河で拙訳した小泉八雲の“ Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn ”の「破られし約束」を、YouTube で朗読したいという若い方からの懇請を受けた。彼女は田部隆次氏の訳(リンク先は私の電子化注)と私の訳を比較され、朗読するに際し、私の訳を選ばれたのであった。

無論、ユビキタスをモットーとする私は、許諾した。

これは、私には、とても嬉しいことだった。

    ♡

そうして、今日は、私が、ネット上に電子化物がないことから、「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、先だって電子化した、放浪の俳人「乞食」井上井月の句集に添えた、

(正確には「井月の句集」で、芥川龍之介及び芥川家の主治医であり、芥川龍之介の検死の当事者でもあった下島勲の編になるものへの芥川龍之介の跋文である)に対して、井月の研究家の方から、私が上の電子化をしたことへの感謝のメールを頂戴した。

これもまた、偏愛する芥川龍之介に絡んで、私には、とても嬉しいことであった。

   ♡

私の自慰と思われるかも知れない、他者から見れば、たいしたことのないものと失笑を買っているかも知れない数多の私の電子化物が、僅か乍らも、ある人の琴線に、確かに触れていることを感じ、内心――「少しばかりは、生きていてよかったな」――と思うたのであった。

伽婢子卷之九 下界の仙境

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング補正(一部で雲形の汚損の激しい部分を恣意的に有意に白く抜いた)して、適切な位置に配した。本文では、「物尽くし」のシークエンスで特異的に「――」を用いた。]

 

   〇下界の仙境

 昔、太田道灌、武州江戶の城を築きて、居住せらる。

 此地に、水、乏しき事を、苦しみけり。

 其比、舟木甚七とて富裕の町人あり。

「掘拔(ほりぬき)の井戶を作らん。」

とて、金掘(かねほり)を雇ひ、人步(にんふ)を入れて掘らするに、凡そ、半町四方[やぶちゃん注:五十四・五五メートル四方。]、深さ百丈[やぶちゃん注:三百三メートル。]ばかりに及べども、水、なし。

 金掘、底に坐(ざ)し、休みつゝ、靜かに聞けば、地の中に、犬のほゆる聲、庭鳥《にはとり》のなく音《ね》、かすかに、響きて、聞ゆ。

 怪しく思ひて、又、四、五尺、掘りければ、傍らに、切通しの石の門、あり。

 門の內に入て見れば、兩方、壁の如く、甚だ、くらくして、見え分かず。

 猶、道を、認(とめ)さぐりて、一町ばかり行ければ、俄に、明かになり、切とほしの奧の出口より、空を見上ぐれば、靑天、白日、輝き、下を見おろせば、大なる山の峯に續きたり。

 金掘、其の峯におり立《たち》て、四方を見めぐらせば、別(べち)に、天地・日月、明らけき一世界可(《いち》せかい)なり。

 其山に續きて、谷に下り、峯に登り、一里ばかりゆきて見れば、石の色は、皆、瑠璃の如く、山間(《やま》あひ)には宮殿樓閣(くうでんろうかく)あり。

 玉を飾り、金を鏤(ちりは)め、瑠璃の瓦(かはら)、瑪瑙(めなう)の柱、心も言葉も、及ばれず。

 大木、多く生(おひ)ならびて、木の形は竹の如く、色靑くして、節(ふし)あり、葉は芭蕉に似て、紫の花あり、大《おほい》さ、車の輪の如し。

 五色の蝶、その翼、大さ、團扇(だんせん)の如くなるが、花に戲れ、又、五色の鳥、その大さ、鴈(かり)[やぶちゃん注:底本は「がん」であるが、私の趣味で元禄本のルビを採った。]の如く、梢に飛び翔けり、その外、もろもろの草木《くさき》、何れも、見なれぬ花、咲き、實(み)のり、岩のはざまより、二道(ふたすぢ)の瀧、ながれ出《いづ》る。

 一つの水は、色淸き事、磨(と)ぎ立《たて》たる鏡の如く、一つの水は、色白き事、乳(ち)の如し。

 

Ssenkai1

 

 金掘、やうやう、山を下り、麓より、一町ばかりにして、一つの樓門に至る。

 上に、

「天桂山宮(てんけいさんきう)」

と云ふ額を懸けたり。

 門の兩脇に、番の者、二人あり。

 金掘を見て、驚き出たり。

 身の長(たけ)、五尺餘り、容(かほ)の美はしき事、玉の如く、唇、赤く、齒、白く、髮は紺靑(こんじやう)の絲の如し。みどりの色なる布衣(ほい)、黑き鳥帽子、着たるが、走り出て、咎めけるは、

「汝、何者なれば、こゝに來れる。」

と。

 金掘、ありの儘に語る。

 その間に、門の內より、裝束きらびやかに、容(かほ)うつしく、艷(つや)やかなる事、酸漿子(ほゝづき)のやうなる者、二十人ばかり出て、

「けしからず、臭く、穢(けが)らはしき匂いあり。如何なる事ぞ。」

とて、番の者をせむるに、番の者、恐れたる氣色(けしき)にて、

「人間世界の金掘、思ひの外なる事によりて、迷ひ來れり。」

と、いうて、子細を、つぶさに語る。

 其時、奧より照り輝くばかり、緋(あか)き裝束に、金(こがね)の冠(かふり)を着たる人、出て、いふやう、

「大仙玉眞君の敕定(ちよくぢやう)には、『其の金掘をつれて遊覽せしめよ』とあり。」

 先の廿人の輩(ともがら)、うやまうて、うけ給はり、番の者に仰付たり。

 まづ、金掘をつれて、淸き水の瀧に行きて、身を洗はせ、色白き水の瀧に行て、口を嗽(すゝ)がせたるに、其の水、甘き事、蜜の如し。思ふさまに飮みければ、酒に醉(ゑ)ひたるが如くにして、暫くありて、心、すゞやかに覺ゆ。

 番の者、引きつれて、山間(あひ)をめぐるに、宮殿樓閣、皆、谷ごとに、立つらなれり。

 只、門外より見いれて、內に入《いる》事、かなはず。

 斯(か)くて、半日ばかりにして、山の麓に、又、一つの城に至る。

 

Senkai2

 

 樓門の上には、黃金(わうごん)を以て、

「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」

といふ額を懸けたり。

――水精輪(すゐしやうりん)の所成(しよじやう)[やぶちゃん注:城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。]

――金銀の壁

――玳瑁(たいまい)の垣

――琥珀(こはく)の欄干

――白玉(はくぎよく)の鐺(こじり)[やぶちゃん注:思うに、欄干の上部を保護して飾るそれであろう。]

――𤥭璖(しやこ)の簾(すだれ)[やぶちゃん注:シャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾。]

――眞珠の瓔珞(やうらく)

五色の玉を、庭の「いさご」とし、いろいろの草木、名も知らぬ鳥、まことに、奇麗嚴淨(ごんじやう)なること、いふばかりなし。

 され共、門の內には入られず。

『さこそ、內には、善(ぜん)、つくし、美(び)、つくして、言語(ごんご)たえたる[やぶちゃん注:ママ。]事の有らん。』

と思ひ、

「扨。こゝは、何處ぞ。」

と問ふ。

 番の者の、いふやう、

「是れ、皆、もろもろの仙人、初めて仙術を得ては、まづ、此所に來りて、七十萬日の間、修行を勤め、其後、天上にのぼり、或は蓬萊宮(ほうらいきう)、或は藐姑射(はこやの)山、或は玉景(ぎよくけい)・崑閬(こんらう)なんどに行て、仙人の職にあづかり、官位を進み、符籙《ふろく》・印咒(いんじゆ)・藥術を究め、飛行自在の通力(つうりき)を悟り侍べる事也。」

といふ。

 金掘、問ふやう、

「已に、是れ、仙人の國ならば、人間世界の上にはなくて、下にあるは、如何なる故ぞや。」

 番の者、答へけるは、

「こゝは、下界仙人《げかいせんにん》の國也。人間世界の上には、猶、上界仙人の國あり。」

とて。見めぐらせ、

「汝、早く、人間世界に歸れ。」

とて、白き水の瀧につれて來り、又、其の水を飽くまで飮ませ、元の山の頂きに登りて、初めの大門の前にして、奧に奏(さう)し入りければ、玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)を、出されたり。

 是を取りて、金掘を打つれ、もとの岩穴の口に出るに、門々、皆、開けたり。

 送りける番の者、いふやう、

「汝、こゝに來りては、暫し半日の程と覺ゆるとも、人間《じんかん》にては、數(す)十年を經たり。」

とて、元の穴に入りければ、又、闇(くら)くして、道も見えず、只、風の音のみ聞えて、駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)より出て、大に驚き怪しみ、江戶に歸りて、太田道灌の事を尋ぬれば、

「それは。はや、百年以前也。井を掘らせられし事は、聞傳へたる人もなく、又、其跡も、なし。」

 人、改まり、家、立かはりて、本城には、大に榮えたり。

 我が家を尋るに、いづくとも知れず、一族の末も聞えず。

 つらつら思ふに、長祿元年、江戶の城、始りて、今、弘治二年丙辰《ひのえたつ/ヘイシン》まで、一百年に及べり。

 金掘、更に人間《じんかん》を願はず、五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み、足に任せて、修行す。

 數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人、行逢(《ゆき》あ)ひたり。

 後に、其の住所を、知らず。

[やぶちゃん注:「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)は武蔵守護代で扇谷上杉家家宰。江戸城を築城したことで知られる。彼の事蹟は「三州奇談卷之五 北條の舊地」の私の注を参照されたいが、「享徳の乱」(室町幕府第八代将軍足利義政の時に起こり、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)に際して、道灌が指揮して康正三(一四五七)年に江戸城を築城し、江戸幕府の公文書「德川實紀」でも、これが江戸城の始めとされている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、築城は前年の更正二年から長禄元(一四五七)年四月八日にかけて行われているとある。最後に金掘りが「長祿元年、江戶の城、始りて」と思うシーンは、齟齬しない。康正三年九月二十八日(ユリウス暦一四五七年十月十六日)に長禄に改元されているからである。従って、この最初のシークエンスは改元以後の九月二十八日から年末までの九十二日間の閉区間設定ということになる。因みに同年の大晦日十二月三十日は既にユリウス暦では一四五八年一月十五日である。

 先にラスト・シークエンスの時制を説明しておくと、「弘治二年丙辰」はユリウス暦一五五六年で、室町幕府将軍は足利義輝。前年の弘治元年十月には、毛利元就が陶晴賢を安芸厳島で破っている(「厳島の戦い」。但し、この時点では改元前で、元号は天文二十四年である)。この弘治二年四月には、美濃国の大名斎藤義龍が「長良川の戦い」で父斎藤道三を討ち取っており、翌弘治三年には、信濃国川中島に於いて、かの甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突している(「上野原の戦い」=「第三次川中島の戦い」知られた二人の対面対決は第四次)。九十九年後であるが、数えで数えるから、「一百年」は正しい。

「舟木甚七」不詳。

「掘拔(ほりぬき)の井戶」鑽井 (さんせい) とも呼び、被圧地下水を地表に汲上げるために掘られた深井戸。不透水層の間にある透水層が傾斜していると、地下水は地質構造に従って傾斜の方向に流れ、水圧のために水頭が高く上昇するので、組み上げ機(ポンプ)を使用せずに、有意に水が湧出する井戸のこと。地層が盆地構造を成す場合でよく見られる。

「金掘(かねほり)」山師。広義の鉱山師。

「人步(にんふ)」「人夫」に同じ。

「庭鳥《にはとり》」「鷄」。前掲書の高田氏の注に、『犬の声、鶏』『鳴、石』の『門は、中国のいわゆる「桃源境」の入口の象徴』とされる。

「認(とめ)さぐりて」「新日本古典文学大系」版脚注に、『探し求め』て、とある。

「瑠璃」仏教でインド古代の七宝の一つ。サンスクリット語の「バイドゥールヤ」(或いはその派生語)の漢音写である「毘瑠璃」(びるり)・「吠瑠璃」(べいるり)の略語で、青や青紫色の美しい宝石を指す。実在する金緑石(chrysoberyl:クリソベリル)或いはラピス・ラズリ(lapis lazuli)であるともされる。

「天桂山宮(てんけいさんきう)」「桂」は実際のカツラやゲッケイジュ(月桂樹:ローリエ/フランス語:Laurier)ではなく、中国の伝説に於いて、月世界にあるとされる想像上の神木のことを匂わせていよう。

「布衣(ほい)」本邦では、六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣を指す。

「けしからず」「常識を外れていて」或いは「普通でなく、ひどく」、また、「異様で怪しいまでに」の意で、これは「けし」自体が持っている意味で、それを副詞的に甚だよくない状態を形容するのに用いていると見てもよい。

「大仙玉眞君」前掲の高田氏の注に、『道教風の呼称で仙界の主宰者を暗示する名』とある。後に出る「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」も如何にもそれらしい。

「水精輪(すゐしやうりん)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『水晶でできた輪。転じて美しい城の意か。また、大地を支える地底の金輪際から姿を現わした、天女の住む水晶の山を「水精輪の山」とも称する(平家物語七・竹生島詣)』とする。私は単なる美称としたのでは、仙界の宮殿の荘厳さが出ないと思うので、実際に城の見た目が壮麗な水晶を素材としているという途方もない意味でダイレクトに採った。

「所成(しよじやう)」高田氏は前掲書の脚注で、『ここでは、宮殿の敷地』とのみされて、「水精輪」に注されていない。しかし、漠然とした敷地では、どうもしょっぱなのガツンとくる映像が浮かばないし、後の細かな「壁」・「垣」・「欄干」・「鐺」・簾・「瓔珞」に加えられる『五色の玉を、庭の「いさご」』(撒き敷いた砂の代わり)『とし』という決定打を読んでしまうと、画像の中にゴタゴタと邪魔なモザイクが挟まってきて、矛盾を感じる。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏教語。或るものより成る、の意』とある。これは、ごく腑に落ちる。但し、この漢語では、小学館「日本国語大辞典」には出ない。ほぼ同様の意味として「所生」(しよしやう)があり、「日蓮遺文」などを使用例に出す。これを「しじやう」と濁ったとしても違和感は全くない。調べたところ、「WEB版新纂浄土宗大辞典」に「願力所成」(がんりきしょじょう)という語が見出しとしてあり、これは『本願の成就によって正報(しょうぼう)(仏身)と依報(えほう)(浄土)とが実現されたことをいう。法然が』「逆修說法」に『おいて』「かくの如きの依報、皆、彼の佛の願力所成の功德なり」(引用元はここに省略を示す三点リーダがある)「國の中にあらゆる依・正二報は、倂せて法藏菩薩の願力に答へて成就し給へるなり。これはこれ阿彌陀佛の功德と粗意得べきや」』『(昭法全二六二~三)と説かれているのに依る』とあった。この場合、その弥陀の本願の――『実現された』ところのもの――の意が「所成」とすれば、「新日本古典文学大系」の注はしっくりくる。されば、私は本文注で、前の注の太字下線と以上を結合して「城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。」と注したのである。

「玳瑁(たいまい)」タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata(玳瑁・瑇瑁。鼈甲細工の原料とされる。因みに「鼈甲」という語については、一説に、寛文八(一六六八)年に幕府が出した、奢侈を禁ずる倹約令で、輸入物の玳瑁の甲羅が禁制となり、しかし、密輸入が行われ、糺された際に、玳瑁のそれではなく、「鼈」(スッポン)の「甲」羅と誤魔化したことに由来するという話もある)。

「瓔珞(やうらく)」(現代仮名遣「ようらく」)仏具の一種で、「纓珞」「纓絡」とも書く。サンスクリット語の「ムクタハーラ」「ハーラ」「ケユーラ」漢音訳。元は古代インドの貴族の装身具として用いられ、特に首や胸を中心として真珠・玉・金属などを紐に通したり、繋いだりして飾ったもの。仏教では仏像、特に菩薩像など荘厳具(しょうごんぐ)として用いられ、また、浄土では、木の上からこれらが垂れ下がっているとされたため、本邦の寺院では、宝華形を繋いで垂下させたそれを本堂の内陣の装飾に用い、これも瓔珞と呼ぶ(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「嚴淨(ごんじやう)」厳(おごそ)かで汚れのない状態であること。また、荘厳(そうごん)で清浄なさま。

「蓬萊宮(ほうらいきう)」「蓬萊山」に同じ。中国で東海の海上の空中に浮かんだ、不老不死の神仙や仙女が住むとされた想像上の島の一つ。

「藐姑射(はこやの)山」本来は、「藐(はるか=「遙」)なる『姑射(こや)の山』」の意であったが、「荘子」の「逍遙遊篇」の用例により、一つの山名のように用いられるようになった。中国で、仙人が住んでいるとされた想像上の山。姑射山(こやさん)。

「玉景(ぎよくけい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道家で天帝の居所』とする。

「崑閬(こんらう)」同前で、『中国の西方に存すると考えられた崑崙山の広々とした』場所の地名で、『仙人が住むとされ』たとある。

「符籙《ふろく》」道教の修行者が身につけていた秘密の文書・咒文・咒言を記した咒符の総称。「符」は、元来は身分を証明する「割り札」を指すが、道教ではそれに呪文を記して霊的な「守り札」とした。「籙」は、本来は天官・冥官・神仙らの名簿であり、それは総て白絹に書かれてあったとする。古くは「隋書」の「經籍志」に「符」・「籙」の重要性が説かれており、天子が即位する度にこれらを授かることを秘儀とした王朝もあった。現在でも「符」や「籙」を身につけていれば、邪気を払って治病の効験があるとされる。

「印咒(いんじゆ)」道家の仙術を施す際の手の印と、口で唱える咒文のこと。

「藥術」「金丹」「金丹術」のこと。金石を砕き、練って調製したものに、咒法によって種々の効果を付与することで完成するとされた仙人になる、則ち、不老不死の薬及びその製法過程を指す。晋の葛洪の「抱朴子」の「金丹篇」、不老長生を得るには金丹を服用することが最も肝要であるとする。金丹の金は、火で焼いても土に埋めても不朽である点が重んじられ、丹の最高のものは「九転の丹」で、略して「九丹」と呼び、焼けば焼くほど、霊妙に変化するとされ、この九丹を服用すると、三日で仙人になれる、とされる。この大薬である金丹をつくる際には、人里離れた名山で斎戒沐浴し、身辺を清潔にしなければならないとされ、丹砂・水銀などを原料にした多くの錬丹法が説かれた。後世では、この金丹を服用する「外丹」法とは別に、「内丹」説も説かれた。その代表的なものが、北宋の張伯端の「悟真眞篇(ごしんへん)で、そこでは、「人間には生来的に丹砂・水銀に代わるものが体内に備わっており、それが『竜虎真陰陽(りゅうこしんいんよう)』という気であって、これを適切に用いることで、体内に『金丹』を作り上げることが出来、そうすれば、危険で高価な『外丹』を用いずに仙人になれる。」と説かれてある。この「内丹」説は南宋の白玉蟾などに継承された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)」「大仙玉眞君」は、金堀りが、地上の人間世界に戻っても、今浦島となることが判っていたから、仙道へのガイドとしての、玉製の守り札としての「簡」=「符籙」及び、真正の地下仙界を訪問した証たる金印(或いは最終的な仙道への通行証ともなるのかも知れない)を与えたと考えるべきであろう。

「駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)」知られた「富士の人穴」である。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の本文と私の注を参照されたい。

「人間《じんかん》」どうも「人間界」を言うのに、私は「にんげん」では尻の座りが悪いので、確信犯で「じんかん」と読んでいる。

「五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み」伯夷・叔斉を想起するも、金掘りは餓えて死んでなんかいない。いや、それどころか、「數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人」が、元気に登山し、修行している彼に「行逢(《ゆき》あ)」うたが、それを最後として、「其の住」む「所を、知らず」なのだ。――私は、永遠に、めでたく、この無常な人間世界におさらばして――羽化登仙したのだ――と確信するのである。

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (14) 犯罪文學と怪異小說 / 江戶時代怪異小說

 

      犯罪文學と怪異小說

 

 所謂探偵小說と稱せらるゝ文學の中で『怪異』を取り扱つたものが『謎の解決』を取扱つたものと並んで、數多くあるのは、更めて言ふ迄もないことである。謎の解決を取扱つたものは主として人の好奇心を滿足せしめ、怪異を取り扱つたものは主として人の恐怖心を滿足せしむるために愛好せられるのであつた。恐怖心を滿足せしむるといふ言葉は少しく妥當でないかも知れぬが、人が平靜なる生活を營みつゝあるときには、恐怖によつて非常なる愉快を覺えるものであるから、强ち意味が通じないでもなからうと思ふ。恐怖を感じて滿足する性質は、原始時代から人間にこびりついて離れないものであつて、例へば嬰兒に向つて、突然『バアー』と叫んで之ををどすと、嬰兒は身體を搖ぶり乍ら嬉しがる。而もこの性質はどんなに世の中が進んでも、人間の存する間は決して消えるものではないらしく、從つて怪異小說はその起原が古いと同樣に、將來益々流行するものと見なして差支ないであらう。

 怪異小說のうち最も重要な部分を占めて居るものは幽靈小說である。强ち怪異小說に限らず一般文學にも幽靈の出て來るものは甚だ多い。中にもシェークスピヤ、ヂッケンスの作物にあらはれる幽靈は世界的に有名である。而してこの幽靈には、特定の人にのみ見える幽靈と、誰にでも見える幽靈との二種類があつて、例へば沙翁の『ハムレット』の中に出るのは、幾人かの眼に觸れるけれども『マクベス』の中に出るのは、マクベスにしか見えないのである。前者は卽ち客觀的[やぶちゃん注:底本は「觀客的」。誤植と断じて訂した。]に存在する幽靈であつて、後者は卽ち主觀的に存在する幽靈であるが、むかしの文學には、多くの場合、客觀的に存在する幽靈が取扱はれ、主觀的な幽靈を取扱ふ場合にも、作者はやはり幽靈なるものが獨立に存するものと信じて居たらしい。

 ところが主觀的に存在する幽靈と客觀的に存在する幽靈とは、心理學的には大きな差異がある。卽ち、主觀的の方は幻覺又は錯覺によつて說明することを得るけれども、客觀的の方は、心靈科學ならば、いざ知らず、心理學的には頗る說明の困難なるものである。卽ち前者は埋知に背かないけれども、後者は理知を超越して居る。理知を超越して居るからといつて、强ちその存在を否定することは出來ず、又文學の内容たり得ないといふ譯はないけれども、理知に背かね幽靈であるならば、その點だけても、それを取扱つた文學に餘計の藝術的價値があるやうに思はれる。

 錯覺又は幻覺による幽靈は、通常良心の苛責、思念の迷執の際に見られるものであつて、人を殺した者が、殺された者の亡靈を見て、それに惱まされる例は、文學の上でも、實際の上でも、夥だしい數である。從つて、かやうな幽靈を取扱つた文學は犯罪文學として論ずる價値がある。で、私はこれから、日本の過去の怪異小說のうち、犯罪と關係あるものについて紹介しようと思ふのである。

 

    江戶時代怪異小說

 

 怪異を扱つたに日本文學として、古くは今昔物諧、宇治拾遺などを擧げることが出來るが、怪異小說の最も流行したのは江戶時代である。曩《さき》に私は、樓陰、鎌倉、藤陰の三比事を紹介したとき、これ等の犯罪文學は、支那の棠陰比事が日本に輸入され、棠陰比事物語として飜譯されて大に世に行はれて後、それにならつて作られたことを述べたが、江戶時代の怪異小說も、支那の『剪燈新話』が天文の頃に我國に渡來し、淺井了意によつて飜案され『御伽婢子(おとぎぼうこ)』の中に取り入れて出版され、大に世に歡迎されたのが、その流行の魁《さきがけ》となつて居る。御伽婢子の出版された寬文六年は棠陰比事物語よりも僅かに十五年の後であつて、この點に於て怪異小說は三比事と甚だ緣が深いといつてよい。

[やぶちゃん注:「剪燈新話」明の瞿佑(くゆう)の撰になる伝奇小説集。全四巻。一三七八年頃の成立。華麗な文語体で書かれ、唐代伝奇の流れを汲む夢幻的な物語が多い。後代の通俗小説・戯曲及び本邦の江戸文学に与えた影響が大きく、浅井了意の怪奇小説集「御伽婢子(おとぎぼうこ)」の一部や、三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」はその中の話の一部を翻案したものである。

「天文」一五三二年から一五五五年。

「御伽婢子(おとぎぼうこ)」は「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)。かく「御伽婢子」とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集。全十三巻。現在、ブログでオリジナルな全電子化注を進行中。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(晩年になって書き継いだ「伽婢子」の続編。後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。

「寬文六年」一六六六年。]

 さて御伽婢子が出てから、怪異を取り扱つた物語に、棠陰比事物語が出てから三比事が出たごときではなく、實に、雨後の筍といつてよい程澤山あらはれたのである。實に天和以後享和に至るまで約百二十年の間に約四十種の怪異小說があらはれて居る。今そのうち數種の名をあげるならば、洛下寓居の新伽婢子(天和二年)井原西鶴の諸國咄(貞享二年)山岡元隣の古今物語評判(貞享三年)淺井了意(御伽婢子の作者)の狗張子(元祿四年)林文會堂《はやしぶんくわいだう》の玉箒木《たまははき》(元祿九年)靑木鷺水の御伽百物語(寶永三年)北條團水(晝夜用心記の著者)の一夜船《いちやぶね》(正德二年)近路行者《きんろぎやうじや》の古今奇談英草紙《ここんきだんはなぶささうし》(寬延二年)鳥有庵《ういうあん》の當世百物語(寶曆元年)上田秋成の雨月物語(安永五年)速水春曉齋の怪談藻鹽草(享和元年)などであつて、御伽婢子の流れを汲むものと百物語の流れを汲むものとの二大系統にわかつことが出來る。このうち最も人口に膾炙して居るものは、御婢伽子と、英草紙と兩月物語の三つであつて、就中、英草祇と兩月物語とは江戶讀本の父として激賞する人さヘある。

[やぶちゃん注:私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で以下の怪奇談作品をオリジナル電子化注している(作成順。太字は小酒井が挙げたもの)。「佐渡怪談藻鹽草」・「谷の響」・「想山著聞奇集」・「宿直草」・「北越奇談」・「老媼茶話」・「御伽百物語」・「諸國里人談」・「反古のうらがき」・「古今百物語評判」・「太平百物語」・「諸國因果物語」・「三州奇談」・「萬世百物語」・「金玉ねぢぶくさ」・「席上奇觀 垣根草」・「信濃奇談」・「御伽比丘尼」・「怪談登志男」・「怪談老の杖」である。他に、古い仕儀で、根岸鎮衛の「耳囊」の全電子化注・オリジナル現代語訳附きをものしてあり、別に独立カテゴリでオリジナル注附きの「宗祇諸國物語」も終わっている。また、サイト版では、小幡宗左衞門の「定より出てふたゝび世に交はりし事」オリジナル訳注や、上田秋成の「雨月物語」の青頭巾オリジナル訳オリジナル高等学校古典用授業ノート、さらに春雨物語 二世の縁 オリジナル訳注も公開している。序でに言っておくと、芥川龍之介の怪奇談蒐集稿「椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の完全版も古くに公開しており、自身が怪奇談蒐集フリークであることから、龍之介のそれに倣って、オリジナル擬古文怪談集「淵藪志異」もある。因みに、その中の第「二」番目の話は、雑誌『ダ・ヴィンチ』の一九九九年十一月号の「怪談之怪」に投稿し、京極夏彦・東雅夫・木原浩勝・中山市朗各氏の好評を頂戴し、自動的に「怪談之怪」の会員となった(現在は発展的に解消されているようである)。それは、メディアファクトリー 二〇〇六年刊の単行本「怪談の学校」にも収録されてある。

[やぶちゃん注:「天和以後享和」天和元(一六八一)年から貞享(小酒井は「貞亨」と誤っているが、訂した)・元禄・宝永・正徳・享保・元文・寛保・延享・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和四(一八〇四)年まで。

「貞享二年」一六八五年。

「元祿四年」一六九一年。

「林文會堂」林義端。

「寶永三年」一七〇七年。

「正德二年」一七一二年。

「近路行者」都賀庭鐘の筆名。

「寬延二年」一七四九。

「寶曆元年」一七五一年。

「安永五年」一七七六年。

「享和元年」一八〇一年。])などてあつて、御伽婢子の流れを汲むものと百物語の流れを汲むものとの二大系統にわかつことが出來る。このうち最も人口に膾炙して居るものは、御婢伽子と、英草紙と兩月物語の三つであつて、就中、英草祇と兩月物語とは江戶讀本の父として激賞する人さヘある。]

 御伽婢子は剪燈新話全部二十篇の文章中から、十八篇を拔いて、地名人名悉く日本式に改め、わが國風に向くやうに飜案され少しも譯文らしい臭味がない。それは恰も、明治時代に黑岩淚香が西洋の探偵小說をその獨特の名文によつて飜譯したのに比すべきであつて、淺井了意と黑岩淚香とは、日本の探偵小說界に同じ位置を占めて居るといつても差支ないのである。御伽婢子は、前記の十八篇の外になほ四十九篇の物語が收められて、全部で十三卷となつて居り、雨月物語なども、二三題材をこゝに仰いで居る。(序ながら、剪燈新話の部分的な紹介飜案は御伽婢子以前に奇異雜談集のあることを申添へて置く。)

 いづれにしても御伽婢子は江戶時代怪異小說の源泉であつて、その他の小說に收められた物語の題材はこれに似たりよつたりのものである。而してこれ等の怪異小說の描くところの内容は、どれも皆奇怪な、不可思議な幽幻境の中に、空靈[やぶちゃん注:「うつたま」と訓じておく。物質化しない神霊の魂か。]を活躍せしめ、或は因果應報の理を說き、或は訓誡の意を寓せしめて居るから、見やうによつでは一種の宗敎小說であり又敎訓小說であつて、前に紹介した三比事、兩用心記がやはり一種の敎訓小說であると同じやうに、現今私たちの求める探偵小說とは多少その趣を異にして居るのである。然し怪異小說は裁判小說詐欺小說とちがつて、人の恐怖心を刺戟することが主眼となつて居るのであるから、その點に於いて、現今の所謂探偵小說的色彩が、より濃厚であるといふことが出來よう。

 然し乍ら、これ等の怪異小說は、幽靈や化物を取り扱ふについても、殆んど皆客觀的實在を是認して、主觀的の怪異を描いたものは曉天の星の如く寥々《れうれう》たる[やぶちゃん注: 数が非常に少ないさま。]ものである。從つて客觀的の化物を家常《かじやう》[やぶちゃん注:日常に同じ。普段、行われているありふれたこと。]茶飯事と心得て居るやうに思はせ、文學として甚だ價値の少ない、比較的低劣な藝術たらしめて居るのである。時として凄味たつぷりな叙述に身の毛をよだたしめても、やがて却つて滑稽な感を抱かしめ、折角の凄味を打ち壞してしまふ場合が少くない。この點に於て比較的多くの效果を收めて居るのは、古今奇談英草紙と雨月物語であつて、ことに雨月物語のうちには、エドガア・アラン・ポオの作品を思ひ起させるものがある。

 これから私はこれ等の怪異小說から、主觀的怪異を取り扱つた物語、ことに、犯罪と關係ある物語を選んで、その内容を記術し、特に、英草紙と雨月物語とに就ては比較的委しい紹介を試みたいと思ふのである。

2021/09/09

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13ー2) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 二

 

         

『茂曾七殺害事件』とちがつて、これから述べようとする『鍾馗申介《しようきしんすけ》の事件』には、女性の犯罪性が可なり正しく描かれてゐると思ふ。[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションのここから。幾つかの読みはそれに従った。]

 肥後の菊池家の浪人に庶木《しよき》申介[やぶちゃん注:「鍾馗」に掛けた姓。本話では彼の名も犯罪のトリックに関わってくる。]といふものがあつた。文武の道に通達して居たが、若い時から畫を好み、唐宋諸名家の筆意を寫して、自然にその妙要を會得し、中にも黃筌《くわうせん》[やぶちゃん注:五代十国時代の前蜀・後蜀の画家。生年不詳で 九六五年没。]の鍾旭の圖を珍重して、年來《としごろ》模寫すること、數千幅に及び、遂にその皮骨《ひこつ》[やぶちゃん注:「皮肉骨」。諸文芸道に於いて、それぞれの作品等の構造や表現の仕方を、三種に分けて比喩的にいう語。「皮の体(てい)」・「肉(にく)の体」・「骨の体」。]を得たので、人々は彼を鍾旭申介と呼ぶに至つた。ところが、當代の菊池武房は武道一ペんの人で繪畫の賞翫などをしなかつたゝめ、申介は華洛に赴いて繪を以て一家をなさうと、主君に暇を乞つて、女房の年靑(おもこ)、娘の小匙《こさじ》を連れて上洛した。が、申介の畫のかきざまが、あまりに風韻が高いため、却つて賞翫されず、たうとう仕方なしに心あたりの人をたづねて平城《なら》へ來たが、生憎その人も死んで居ないので、根深由八《ねぶかよりはち》といふ客店《はたごや》の二階をかりて親子三人が一時落つくことになつたのである。

 ところが、惡い事は續くもので、七歲になる娘の小匙は突然、妙な熱病に罹つた。この子は五六歲の頃から、敎へぬのに畫かくほどの怜悧な性質なので、申介夫婦は一生懸命に看護し、少しばかりの所持金も大かたつかひ果して藥を飮ませたが、少しも治らなかつたので、申介は、かねて、鍾旭の繪が鬼邪を治すといふことうぃきいて居たので、精進潔齋して小匙の衣服の裏に、朱を以て鍾旭を書き、それを着せると、不思議にも奇病は日ならずなほつてしまつた。

 娘の病氣は治つても、生活の方法は一かう見つからず、宿錢《やどせん》を拂ふことさへ困難になつて來たので、ある日、夫婦は宿の女房機白(はたしろ)を招いて、何かよい方法はあるまいかと相談した。すると女房は、年靑の容色が美はしいから、いつそ給事でもなさつてはどうだと勸めたが年靑はどうしても氣がすゝまなかつたので、それではといつて、新羅琴を知つて居るのを幸に、琴の師匠を始めることにさせた。で、翌日から、彼女は二階の一室で、宿の女房の借りて來てくれた琴を彈じ、先づ娘小匙に組歌を敎へたが、顏が美しい上に聲も美しいので、聞く人が耳を欹《そばだ》てた。[やぶちゃん注:「新羅琴」(しらぎごと)新羅の音楽の主要楽器として伝来した十二弦の箏(そう)で、長さ約五尺(約一・五メートル)。今日の朝鮮の伽倻琴(かやきん)に相当する。正倉院に奈良時代のものが伝存する。]

 ある日宿の主人由八は外からにつこりして歸つて來た。そして女房に言ふには、むかひの客店に逗留して居る、攝津國天王寺の富豪柴米鬼九郞《しこめきくらう》といふ人が、今日自分を招いて言ふには、お前の家で琴を彈いて居る女は一目見てから忘れられず、何とかして手に入れたいと思ふが盡力をしてくれないか、成功の曉は金を山に積んで御禮をするといつて、紬一疋と碎銀《こまがね》一掬《ひとすくひ》を吳れたから、自分は、あの女は人の妻だけれども日數さへ相當に待つてゝくれゝば、計策がないではありませんと答へて來たと告げると、機白は大に喜んで良人に贊成し、それから二人は、その計略について色々談合するのであった。

 それから幾日かを經て、由八は申介に向つて、近ごろ興福寺の客殿が修覆されたが、襖や天井に繪をかく適當な人がないから困つて居られる樣子だ、あの寺には私の知つた人がないから手引きも出來ぬが、いつそ直接先方へ當つて見られたらどうでせうと告げた。申介は大に喜んで翌日寺へ行つたが、いひよる術《すべ》がなかつたので、その次の日は辨當持ちて出かけ、食堂《じきだう》へ行つて湯飮所《ゆのみどころ》をのぞくと、無地の屛風が一雙あつたので、法師等のとめるをもきかず、懷から筆を出し、傍の硯の墨をつけて畫うとすると、皆々よつてたかつて引き放したので、詮方なく、左の袖をのばして筆の墨を拭つて懷へ收めた。これを見た殿司《でんす》[やぶちゃん注:仏殿の清掃及び荘厳(しょうごん)・香華・供物などのことを受け持つ役僧。但し、普通は禅宗での呼称である。]の老僧は申介を常人ではないと認め、皆、に話して兎に角屛風にかゝせて見ると、果してみごとな春日野の鹿を畫いた。殿司は愈よ感心して申介の身の上をきゝ、それでは明日までに相談して、天井、襖の繪一切を畫いてもらふやうに取計らはうと言つた。

 申介が宿に歸つてこの幸運を物語ると年靑は更なり由八夫婦も別の意味で喜んだ。翌日になつて申介が寺へ出かけようとすると、娘の小匙がついて行き度いと言ひ出したので、まだ平城の名所も見せてないから、序に見せてやらうと思つて興福寺へ行くと、殿司は快く迎へて、相談の結果貴殿に畫いてもらふことになつたから、これからすぐ取りかゝつてくれと言つた。申介は驚いて、まさか今日からとは思はなかつたつて、娘を連れて來ましたといふと、殿司は十歲未滿の女ならば寺に止宿しても差支ない。ことに繪心があるならば、繪具を摺らせなどしではどうだとの事に二人はそのまゝ寺で厄介になることにした。

 申介の妻年靑は、その日から良人の歸らぬのを心もとなく思ひ、由八にそのことを話すと、由八はいまに澤山の御金を持つて歸つて來られるから待つて居なさいと慰めたが二三日の後、年靑に向つて言ふには、今日、興福寺へ立寄りましたら、御二人とも恙なく畫くべきものが澤山あるから、この月中は歸れないとのことでしたと告げた。

 それから二十日ばかり過ぎても、良人は歸つて來なかつたので年靑は由八に向つて、見て來よがしに謎をかけたが、由八はたゞ冷笑するだけで取り合はぬので、これには何か理由があるかも知れぬと、女房の機白にたづねると、機白は嘆息して、

『いふまいと思ひましたけれど、あまりに御氣の毒ですから御話し致しませう。御主人は寺で畫料を澤山御貰ひになつたゝめ、惡友に誘はれて、きつぢの廓《くるわ》へ足をふみ入れ、何とかといふ遊女と深い仲になられたさうてす。そのため寺から貰つた金もすつかりつかひ果し、娘さんまて人買ひの手に渡されたといふ噂さへ立ちました。私たちも宿錢の貸があるので、内々心配して居たところてす。』[やぶちゃん注:「きつぢの廓」原文ではここの左ページの九行目で、「木衚衕(きつじ)の妓院(くるわ)」とある。「木辻遊廓」で奈良県奈良市の東木辻町(ひがしきつじちょう)・鳴川町・瓦堂町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)一帯に存在した。元々は田園や竹林であったが、慶長・寛永の頃に茶店が二、三軒出来て、遊女を置いたのが始まりで、万治・寛文年間の禁止令で、一度、衰退したが、天和以降、再び栄えたと当該ウィキにある。興福寺の南南西一キロ弱で近いロケーションではあるが、だいたいからして作品内時制の鎌倉時代にはあろうはずはない。]

 と、まことしやかに告げるのであつた。これをきいた年靑は、良人に限つて、そんなことをする人ではあるまいと思つても、何となく嫉妬の心も起り、娘の身の上も心配になるので、由八と相談して、あくる日機白と共に興福寺をたづねることにした。

 案内役の機白はもとより興福寺へ行かず、年靑の知らぬを幸に元興寺《げんこうじ》へ行つて、鍾旭申介といふ畫師は見えぬかときくと誰も知らぬと答えへたので、機白は、それでは大方、きつぢの廓へ行つて居られるにちがひないといつて、更に二人で廓の方へさがしに行くのであつた。

 話變つて申介は、好きな仕事に心奪はれ思はずも二十日ばかりも過《すご》し、もはや大方畫き果てたので、もう一二日過ぎたら久し振りに宿に歸らうと樂しんで居ると、由八の許から使が來て、急用があるから歸つてくれとの事に、小匙を殘して宿へ來ると、由八は右の腕を布で包んで柱にもたれて居がが、年靑も機白も出て來ないのに不審をいだきながら、事の次第をたづねると、由八は仔細があつて妻機白を離別した旨を告げ、それもあなたの奥さんから起つたことだと言つた『……實は奧さんがゆうべ宿を出られたまゝ御歸りになりませんので、興福寺へ御行きになつたかと思つたら、さうでもないので、私の女房が密夫の媒約《なかだち》をしたにちがひないと思つて、奴めを鞭ちましたが、その際右の腕をくぢいて、このとほりの始末です。所詮奧さんの行方がわからぬので、女房を追ひ出して、私も淸白を立てることにして、機白を去りましたが、腕をくぢいたので離緣狀が書けませんですから、私に代つて書いて下さいませんか。』と、言ぴも終らず硯筥《すづりばこ》を引き寄せて賴んだので、申介も、妻はそんな人間でないと思ひ乍ら、由八の言葉をいなみ兼ね、離緣狀を書いて渡し、一先づ、興福寺へ引き返した。

 由八は申介が歸るのを見送り乍ら舌を出し、離緣狀を開いて由八の由の一字を申に、八の字を介になほし、宛名を切り取つて、年靑殿と書き、女房たちの歸るのを待つて居ると、二人は廓でも申介を見つけることが出來ず大に落膽して歸つて來た。由八は卽ちかの離緣狀を出して年靑に渡すと、年靑は良人の筆趾を見て、大にうらみ、その場に泣き伏した。

 由八夫婦は傍から年靑をいたはると同時に男心の變り易いことを罵り、なほ由八は申介の言ひ置いて行つたことだと言つて、金のなくなつた苦しまぎれに娘を賣つたが、なほそれでも金が出來ぬので、年靑をある人の側室に賣つたから、竹輿《かご》が來たら渡してやつてくれとの事であると告げた。年靑はこれを聞いて、愈よあきれて歎き悲しみ、いつそ殺してくれと泣きわめいたので、由八夫歸が色々なだめすかして居ると、折しも其處へ紫米鬼九郞が一挺の竹輿をつらねて迎ひに來た。年靑が見ると、年の頃四十あまりで色が黑く丈の低い賤しげな男であつたから、まるで鬼にでもとられるやうな心地がしたが、なまじ反抗しては恥の上塗になるから、暫らく心を許させて、又なすべきこともあらうと覺悟を定め、たうとうその竹輿に打乘つたのである。この鬼九郞といふ男は津國荒墓《あれはか》のほとりに住む惡漢で勾引《かどわかし》しや人買《ひとかひ》を業として居たが、ふと年靑の容色を見て、由八を慾で誘ひ、計策を行はせてまんまと手に入れたのである。然し、天は惡漢に與《くみ》せず、平城を出て暗明嶺《くらがりたうげ》にさしかゝると、暗の中から狼が二疋飛び出して、駕籠舁にかみつき、次で他の一疋が鬼九郞をも殺し、年靑だけが、竹輿の中に殘されて生命拾ひすることが出來た。[やぶちゃん注:「荒墓」「あらばか」と読みたかったが、原本に拠った。「荒墓」は大阪市東区元天王寺附近の古い呼称らしい。「暗明嶺」現在の暗峠(くらがりとうげ)で、ここ。]

 一方、申介は年靑が密夫と駈落したとばかり思ひ込み、大に悲しんで興福寺へ歸り、母を慕ふ小匙をなだめ、その夜殿司に向つて暇を告げると、殿司は、四天王寺の僧もあなたの畫を見て書いて貰ひたいと言つたから、近いうちにたづねておいでなさいと、紹介狀をくれた。翌日、申介は小匙をつれて寺を辭し、一旦由八の許に身を寄せ、次の日四天王寺をたづねることにした。

 由八はその夜、妻に向つて、若し申介が四天王寺へ行つたなら、そのそばの荒墓山に居る年靑に逢ふかもしれない。さうすればこちらの罪がばれるが、どうしたらよからうと相談した。すると女房は、明朝薄ぐらいうちに出立させて、途で殺してしまひなさいと告げた。

 かくて由八は申介父娘を暗いうちに出立させ、自分は先𢌞りをして般若坂に待ち受け、首尾よく申介をだまし打にしたが、小匙を殺さうと思ふと、忽ち小匙の背から、一道の赤氣がたちのぼり、身長一丈餘の鍾旭の像が俄然としてあらはれ、小匙をかゝへて逃げる由八を引つかんで大地へどさりと投げつけた。[やぶちゃん注:「近畿地方の坂 (坂プロフィール)」の地図指定の般若坂はここ。]

 時に建治元年秋八月二十六日、靑砥藤綱は、大和へ巡歷せんために、きのふ六波羅を發足し棹山《さをやま》に一泊して、朝早く般若坂にさしかゝると、小匙が父の屍に取りついて歎き、傍に由八が氣絕して居たので、從者たちに言ひつけて息を吹きかへさせると、由八は逃げようとしたので引き捕へきぴしく問ひつめると、遂に今迄の惡事を殘らず白狀した。よつて、藤綱は人を走らせて機白を逮捕させ、更に紫米鬼九郞を召捕らせにやると、程なく鬼九郞の死骸と年靑を伴つて歸つて來たので、別に面倒な詮議もいらず、由八と機白を般若坂で死刑に處し、鬼九郞の首と共に斬梟《きりか》けさせ、年靑と小匙は首尾よく對面して、この一件はつひに落着したのである。[やぶちゃん注:「棹山」は「佐保山(さほやま)」のこと。奈良市北部の佐保川の北側にある丘陵で、京都府との境をなす。西部の佐紀 山(さきやま) と合わせて古くは奈良山と呼んだ。この附近。]

 さて、この事件に於て、中心となつて居る犯罪は、年靑を鬼九郞に取り持つことである。そしてこの『取り持ち』は性的ではなくて、利慾的である。性的の『取り持ち』はドイツ語で Kuppelei と呼ばれ、中年の女性ことに身體の不具な女性によつて屢ば試みられる所である。本篇に於て、由八の妻機白は、別に醜婦とも不具者とも書かれてはないが、はじめに年靑の美貌を見て、給事を勸めたところなどを見ると、この『取り持ち』には多少性的色彩を認めてもよいであろう。[やぶちゃん注:「Kuppelei」売春斡旋。音写は「クッペライ」。]

 女子と男子が共謀して犯罪を行ふとき、男子が發起人であり、女子がその計畫者であることは、實世界に於ても多數の例證があるが、文學にあらはれた最も著しい例はシエークスピアの『マクベス』である。發起人たる男子は計畫を遂行する途中に於て、屢ばその決心がにぶり、動《やや》もすれば、中止しようとするものであるが、かやうな時、女子は、あく迄男の心を鼓舞して、男子を深みへ引きずり込み、計畫を遂げさせるのである。マクベスが國王殺しを幾度か躊躇すると、その都度’マクベス夫人は或は罵り或はすかして、遂に非望を果させたが、本事件に於ても、機白が計畫者であつて、遂に由八にすゝめて申介を殺させるに至つた。

 女子が犯罪を計畫する場合、その方法は常に小說的であつて、時には奇を極めることがあり、且つ頗る複雜である。本篇に於ても、讀者は、由八夫歸の計畫、否、主として機白によつて企てられた犯罪の一々の階段が甚だ巧妙で全體として極めて複雜して居ることを知られたであろう。この點に於て馬琴は、前の物語よりも、女性犯罪の描寫に成功したといふことが出來るが、機白や由八の性格がはつきり出て居ないことは前の物語と同樣である。

 鬼九郞が狼に嚙み殺されたり、小匙の背より鍾旭があらはれたりするのは、多少不自然な構想といへぱいひ得られるけれど、例の勸善懲惡主義から見れば、讀む人をして痛快がらしめるに十分である。この物語の終りに、作者馬琴は次のやうに書いて居る。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。原文はここから。]

『玄同陳人[やぶちゃん注:曲亭馬琴の号の一つ。]批して道《いへ》らく、人おのおの嗜慾あり、しかしてその嗜慾同じからず、もしそ の嗜むこと酷《はなはだ》しければ、必ず敗れを取るに至る、庶木申介が如き、絕て惡なし、その嗜む所、中庸ならず、祿を辭し漂泊し、身を殺してはじめて休む、況《まし》て由八、鬼九郞等がごとき、利を嗜みて人を虐げ、遂にその身を戮《りく》せらる。善惡邪正その差あり、輪𢌞應報一定《いちぢやう》ならず、しかれども嗜慾の蔽《やぶ》れ、おのおの亦脫《のが》れがたし、且申介が畫に妙ある、鍾旭を圖して子を救ヘど、わが身を救ふことかなはず、譬《たとへ》ば人一藝ある、妻子を養ふに足るといへども、智を肥すに足らざるが如し、彼《かの》由八等《ら》は虛粍《きよまう》[やぶちゃん注:「ごく潰し」の意か。]の鬼歟、人をたふしておのが家を倒す、庶木は終南憤死の人歟、生涯志《こころざし》を得ずして、名を後に聞ゆ、これを愼めよ、これを愼みて、只ねがはくは道により、さて德により、さて藝に遊ばん。』[やぶちゃん注:「終南憤死」当初、「意味不明。地の涯にて憤死する人」の意かとしたが、何時も情報を下さるT氏より、以下の主旨のメールを頂戴した。――これは、鍾馗をさしています。ウィキの「鍾馗」によれば、鍾馗は道教系の神で、『一説に、唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布して』おり、それには、かの玄宗皇帝が絡んでおり、『ある時』、『玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり』、『床に伏せた』が、『玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう』。『玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間』(六一八年~六二六年)『に官吏になるため』、『科挙を受験したが』、『落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが』、『高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は』、『著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』。事実、『玄宗の時代から』、『臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録がある』とあります。則ち、ここは「庶木=鍾馗」を馬琴一流の言い回しで、念押ししている様です。――いつも乍ら、お読み下さり、御教授、有難く、御礼申し上げる次第である。]

 馬琴の物語を作る態度はこの中に十分あらはれて居ると思ふ。『只ねがはくば道により、德により、さて藝に遊ん。』といふ言葉は申介を批評したものであるが、一方から言ヘば、馬琴の藝術觀と見られるでもなく、從つて馬琴は、犯罪を描くに當つても、犯人の罰せらるところに重きを置いたのであるから、馬琴の作物を犯罪學的に論ずるのは或は當を得て居ないかもしれない。とはいへ、馬琴が、可なりに深く人性を硏究して居た人であることは、この『摸稜案』を逍じてもたしかにうかゞふことが出來る。

芥川龍之介書簡抄140 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十二月(全) 十五通+年次推定日付不明二通

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛(葉書)

 

拜啓又君の手紙と入ちがひになつた。どうもへんだよ。小穴君曰、「それは呼吸困難などにさせるからさ。」鴉片エキス、ホミカ、下劑、ヴエロナアル、――藥を食つて生きてゐるやうだ。頓首

    十二月二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この書簡、「藥を食つて生きてゐるやうだ」という龍之介の晩年の言葉としてよく引かれる。

「それは呼吸困難などにさせるからさ」薬物の多用によるそれを指すか。

「ホミカ」興奮剤ストリキニーネ(strychnine:植物のマチン属 Strychnos の中に含まれる中枢神経興奮作用持つアルカロイド。有毒)を含む睡眠剤。

「ヴエロナアル」「バルビタール」(Barbital)又は「バルビトン」(barbitone)は明治三六(一九〇三)年から一九三〇年代中頃まで使われていた睡眠薬で、最初のバルビツール酸系(Barbiturate:バルビツレート)薬剤の商品名「ベロナール」(Veronal)のこと。化合物としての名称は「ジエチルマロニル尿素」或いは「ジエチル・バルビツール酸」。副作用はほとんどなかった。当該ウィキによれば、『治療用量は中毒量よりも低かったが、長期にわたる使用によって耐性がつき、薬効を得るために必要な量が増加した。遅効性であるため致命的となる過剰摂取が珍しくなかった』。『各種医薬品が劇的に進歩した現在では、治療に用いられることはない』とあり、そこでも書かれているが、芥川龍之介が既出既注の「ジャール」とともに自殺に用いたとされているもの。但し、既に述べた通り、私はそれを信じていない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼・柳田國男宛(葉書)

 

君ガ文ヲ鐡箒ニ見テ思ヘラクアモマタ「ケチナ惡人」ナルラシ

シカハアレ「山ノ人生」ハモトメ來ツイマモヨミ居リ電燈ノモトニ

足ビキノ山ヲ愛シト世ノ中ヲ憂シト住ミケン山男アハレ

    十二月二日夜半    龍 之 介

  歌トハオ思ヒ下サルマジク候

 

[やぶちゃん注:短歌様のそれは、三字下げであるが、引き上げた。

「鐵箒」(てつさう(てっそう))は『朝日新聞』の投書欄。現在の「声」の前身。

「「山ノ人生」「山の人生」は、大正十四年一月から八月にかけて『アサヒグラフ』に連載され、この大正十五年十一月に大幅な増補を加えて郷土研究社から『第二叢書』の一冊として刊行されたもの。柳田國男の「山人」研究の集大成であり、「山の怪異」を民俗学的に考察した柳田民俗学の『方法的転回の過渡期的』(「ちくま文庫」版「柳田國男全集」解説より引用)な作品として優れたものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で全篇が読める。私がいつか正字正仮名で電子化注したい一冊である。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・鵠沼発信・眞野友二郞宛(葉書)

 

冠省なるとづけありがたう存じます。唯今新年號と云ふものを控へ居り、多忙の爲これで失禮します。右御禮まで

    十二月三日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「なるとづけ」「鳴門漬」。「米原市商工会」公式サイト内の創業六十余年の老舗「醒井楼(さめがいろう)」のそれによれば、「虹鱒の南蛮漬け」で、炭火で『焼いた虹鱒を油で揚げ、独自の配合で調合した秘伝のレモン酢に』一『週間から』十『日ほど、じっくり漬け込』んだものとある。非常に特殊なものであるからして、或いは、この芥川龍之介の読者で多数の書簡のやり取りがある人物(私は医師ではないかとも思っている)は、宛先も底本旧全集には載らないが、或いは滋賀県に住んでいたのかも知れない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・消印五日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目里九九〇佐佐木茂索樣(葉書)

 

又々手紙が入れちがひになつた。これはテレパシイだよ。僕は暗タンたる小說を書いてゐる。中々出來ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。冬眠、冬眠、その外のことは殆ど考へない。花札をいぢるのにもあきた。

    十二月三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「テレパシイ」telepathy。超能力を意味する「超感覚的知覚」(ESP:Extra Sensory Perception) の一種。「精神感応」と訳される。

「暗タン」(澹)「たる小說」「玄鶴山房」。昭和二(一九二七)年新年号『中央公論』に「一」と「二」が、翌二月一日号で、それらも再掲して、全篇が発表された(同作は全六章から成る)。龍之介晩年の陰鬱にして絶望的な臭気に満ちた力作である。私はサイトの古い電子化で草稿附きのものを公開している。但し、ここで同作の執筆は停滞してしまうことになる。後掲の複数の書簡を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月四日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

冠省 原稿用紙にて御免下さい。每度御配慮を賜り、ありがたく存じます。オピアム每日服用致し居り、更に便祕すれば下劑をも用ひ居り、なほ又その爲に痔が起れば座藥を用ひ居ります。中々樂ではありません。しかし每日何か書いて居ります。小穴君曰この頃神經衰弱が傅染して仕事が出來ない。僕曰僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは碌なものは出來さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事實であります。おん歌每度ありがたく存じます。僕の仕事は殘らずとも、その歌だけ殘ればとも思ふことあり。かかる事はお世辭にも云へぬ僕なりしを思へば、自ら心弱れるを憐まざる能はず。どうかこの參りさ加減を御笑ひ下さい。

文書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ

小夜フカク厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミヲル我ハ

夜ゴモリニ白湯(サユ)ヲヌルシト思ヒツツ眠リ藥ヲノマントス我ハ

タマユラニ消ユル煙草ノ煙ニモ vita brevis ヲ思(モ)ヒヲル我ハ

枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀨戶ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ

これは近狀御報告まで。勿論この紙に臨んでこしらへたものです。歌と思つて讀んではいけません。なほ又岡さんに庭苔を頂き、あらまし邦讀。あの歌集は東京人の所產と云ふ氣がします。どうかお次手の節によろしく。土屋君にもよろしく。頓首

    十二月四日      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

二伸なほ又重々失禮は承知しながら、お藥のお金だけはとつて頂けますまいか。氣が痛んで弱りますゆゑ。

三伸點鬼簿評には風馬牛です。他人評よりも當人評が一番大敵です。或は當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵です。

 

[やぶちゃん注:短歌は三字下げであるが、引き上げた。確信犯であるが、歌全体にやはり神経症的なものを感じさせる。

「おん歌每度ありがたく存じます」筑摩全集類聚版脚注に、異様に細かな注が附されてあるので、全文を引用する。俳句・短歌は改行し、短歌末にある字空けや句点は除去した。

   《引用開始》

茂吉の歌。五月五日、澄江堂のあるじより、

「かげろふや棟も落ちたる茅の屋根」

といふ消息をたまはりたれば、

湯の中に青く浮かししあやめぐさ身に沁むときに春くれむとす

ふけわたる夜といへども目をあきて瘦せ居る君し我は会ひたし

九月二十五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。(略)

相見つつうれしけれどもこの浜に心ほそりて君はありとふ

こもごもにものいひながら松原の空家のなかにわれら入りゆく

ひんがしの相模の海に流れ入る小さき川を渡りけるかも

煉乳の鑵のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる

うつそみの世はさびしけれ心足りて浜に遊ばむ我ならなくに

   《引用終了》

この茂吉の歌には、龍之介を労わる優しい視線に満ちているが、最後から二つ目の句などには、精神科医として患者として龍之介を見ている視線(神経症の関連妄想の診断)も感じられて、非常に興味深い。

「夜ゴモリ」深夜。

「vita brevis」「ウィータ・ブレウィス」。「人生は短し」。一般に、‘Ars longa vita brevis.’(アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス)で知られるフレーズ。元はヒポクラテスの言ったギリシア語表現で、「アルス」(ギリシア語で「テクネー」)は「医術」のことであり、全体は、「医術を習得するには、人生はあまりに短か過ぎる」という趣旨の言葉であった。私の『「こゝろ」初版 見開き 「あの」ラテン語』を見られたい。

「岡さん」岡麓(おか ふもと 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)は歌人・書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名は三郎。書号は三谷(さんこく)、俳号は傘谷(さんこく)。当該ウィキによれば、『徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで』、『宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく』、十七『歳のとき』、芥川龍之介の田端の隣人で、彫金師として知られた『香取秀真に』、『一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのは』、『これまで』、『自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。また、津田青楓には「岡さんは財産を蕩尽して成った芸」と評されている』。『伊藤左千夫と知り合ったことを』契機として、明治三二(一八九九)年に『正岡子規に入門し、根岸短歌会の創設に参加』し、明治三十六年には『馬酔木』の『編集同人となる。長塚節、斎藤茂吉、島木赤彦らと知り合い』、大正五(一九一六)年から『アララギ』に歌を発表し、この大正十五年十月に古今書院から処女歌集「庭苔」を刊行しており、ここで龍之介の言っているのは、その歌集である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が読める。昭和二〇(一九四五)年に『『アララギ』の歌友を頼って長野県安曇野に疎開』した。戦後の昭和二三(一九四八)年には『日本芸術院会員となるが、故郷に帰ることなく死去した。

「土屋君」土屋文明。

「點鬼簿評には風馬牛です」逆に徳田秋声の痛罵を引きずっていることが見てとれる。

「當人評」芥川龍之介の自己評価。

「當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵」強迫神経症に加えて、離人症的な症状も感じられる謂いである。芥川龍之介が自身のドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を見たことは、死の年の談話で龍之介自身が述べている。私の今年一月に公開した『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日消印・鵠沼発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣

 

御手紙ありがたう存じます。こちらは新年號と云ふものにて弱つてをります。小穴君からもよろしく。

   かひもなき眠り藥や夜半の冬

  二伸 每度お藥をありがたう存じます

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

用箋を咎むる勿れ。梅馬鶯未だ出來ず。出來次第送らせる。山茶花の句前の句に感心。僕今新年號に煩はさる。「近代風景」君よりも賴むと云ふ事故、萩原朔太郞論を五六枚書いた。日々怏々

文書カン心モ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テ居ル我ハ

小夜フケテ厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミ居ル我ハ

門ノベノウス暗ガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

僕ハ陰鬱極マル力作ヲ書イテヰル。出來上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ讀ンダ、實ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小說ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ拔ク事數等ナラン。

    十二月五日      芥川龍之介

   室 生 犀 星 樣

二伸この間のよせ書は「行秋やくらやみになる庭の内」碧童、魚を描いたのは隆一、梅花を描いたのは龍之介

 

[やぶちゃん注:短歌には同前の仕儀をとった。

「梅馬鶯」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」。実際の発行日は十二月二十五日であった。

「近代風景」雑誌名。以下の萩原朔太郞論を書き、昭和二年新年号に「萩原朔太郞君」として発表された。

「怏々」(あうあう(おうおう))は「心が満ち足りないさま・晴れ晴れしないさま」を言う。

「美小童」室生犀星の小説。『近代風景』大正十五年十二月号に発表。

「中野君」小説家・詩人・評論家にして政治家でもあった中野重治(明治三五(一九〇二)年~昭和五四(一九七九)年)。福井県坂井市生まれ。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになり、東大入学後、窪川・堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成、この間に多くの作品を発表した。昭和六(一九三一)年に日本共産党に入ったが、検挙され、昭和九年に転向、戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わった。平野謙・荒正人らと「政治と文学論争」を起こし、戦後文学の確立に寄与した。後に参議院議員を務めたが、昭和三九(一九六四)年、日本共産党と政治理論で対立をし、除名され、神山茂夫とともに「日本共産党批判」を出版している。芥川龍之介とは室生犀星・堀辰雄らとの関係で晩年に知り合っている。文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正に、この前後に鹿地亘らとともに「社会文芸研究会」(一九二五年)や「マルクス主義芸術研究会」(一九二六年)を結成、この年に「日本プロレタリア芸術連盟」へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月九日・消印十日・鵠沼発信・東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣・十二月九日 鵠沼 芥川龍之介

 

 原稿用紙で失禮します。

 お手紙拜見。こちらは唯新年号に追はれてゐるだけ。家へは新年は勿論、新年号の一部を書く爲にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリイをお鎭め下さい。今度は力作を一つ書くつもりです。右當用のみ。

    十二月九日      龍 之 介

   下 島 先 生

二伸 この手紙は小穴君にたのみ、東京から投函して貰ひます。小穴君は妹さんが危篤の爲にかへるのです。

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十二日・消印十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十二日 くげぬま 龍之介(葉書)

 

小說かけたりや、僕は今二つ片づけ三つめを書いてゐる。捗どらず。痔猛烈に再發、咋夜呻吟して眠られず。小穴の妹危篤。多事、々々、々々。

 

[やぶちゃん注:「二つ片づけ三つめを書いてゐる」片づけた二篇とは、恐らく、私の偏愛する「彼 第二」(九日脱稿。この日は夏目漱石の祥月命日であり、小穴には、この日を自殺決行日として告白していたとされる。『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい)と、「或社會主義者」(十日脱稿)であろう。自ら「力作」と言っていた「玄鶴山房」は少し停滞気味であったようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日・鵠沼発信(推定)・齋藤茂吉宛

 

冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠る事も出來かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上。

    十二月十三日     芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、龍之介はこの日の夕刻に田端へ帰っている。或いは、本書簡の投函はその帰宅途中であったのかも知れない。

「鴉片丸」既出既注のアヘンチンキ(エキス)。

「中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候」「玄鶴山房」の執筆状況だが、実際には停滞していた。後の高野敬録宛書簡及び注を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日消印・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(葉書)

 

あの手紙を書き了るや君の手紙來る、いつも斯くの如し

ヨロシ一五〇 四光六〇〇 一シマ五〇 大三光一〇〇 犬鹿蝶三〇〇 二杯三〇〇 一杯一〇〇 二ゾロ○○ 七短六〇〇 松桐坊主一〇〇 草(萩藤菖蒲の短)一〇〇 也、但しこれは僕の敎はつたもの、他にも數へ方あるべし

 

[やぶちゃん注:同前の可能性あり。

以上の呼称と数字は、筑摩全集類聚版脚注に、『花札遊びの役』と、『その出来役に対してあたえられる得点』とある。私は興味がないので、ウィキの「花札を見られたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十六日・田端発信・高野敬錄宛

 

拜啓昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之候へども二月號におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月號ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。齋藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候。頓首

    十六日         芥川龍之介

   高野敬錄樣

 

[やぶちゃん注:「高野敬錄」『中央公論』編集長。

「齋藤さんにも相すまざる事になり」「齋藤」は齋藤茂吉。次の書簡も参照。或いは、この時は茂吉から高野に龍之介の新年号への執筆仲介があったのかも知れない。

「二月號におまはし下さるまじくや」恐らくは、高野からは、それでも良いが、中途までで、分割でもよいからと、新年号への掲載で頑張れないだろうか言われたものと思われ、既に述べた通り、実際に新年号『中央公論』には「一」と「二」が載り、翌二月一日号で、改めて全篇の発表となっている。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・齋藤茂吉宛(葉書)

 

お藥お送り下され、ありがたく存候。中央公論は前後だけ出來て中間出來ず、とうとう二月に出すことに相成り、尊臺にも申訣無之心地あり、怏々として暮らし居候

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:ここでは「玄鶴山房」の二月号送りが決まっているように書かれてある。高野から、改めて、出来上がっている分だけでよいから、新年号に載せたい、という申し出がこの月のぎりぎり後に改めてあったものかも知れない。尻切れトンボでも流行作家の書き下ろしなら、続きも買うはずで、会社や編集者としても、その方が、寧ろ、いい、と考える気もするからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・東京市外下目黑九九〇 佐佐木茂索樣 (葉書)

 

君はもう逗子へ移つたか、僕は原稿の爲こちらへ歸り、いろいろ書いた。が、中央公論はとうとう出來上らなかつた。二十日は明日也。赤倉行は如何なりしか。僕は到底だめならん。

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「凍死の計画」では、『小穴隆一によれば』、『芥川から自殺の決意を告げられたのは大正一五年四月一五日というが』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』参照)、『彼の自殺は一時的・衝動的な発作によるものではなく、入念な準備とさまざまな計画ののちに選びとられたものであることが判明する』として、この「赤倉行」の話が挙げられており、龍之介はそうした自殺方法の『一つに凍死も考えられていたことを次の佐佐木茂索の「心覚えなど」は伝えてくれる』とあり、以下の引用がなされてある。

   《引用開始》

「昨年の冬、気を変へて貰はうと僕が赤倉のスキーに誘つたら、非常に乗気になつた。そのあげく、こんなことを云つた。

『凍死のことも調べてみたがね、赤倉あたりででも凍死出来るかね、凍死はうまく行けば非常に楽な死に様だよ。それに、過失だか自殺だか分らん得があるからね。――夕方、君が練習を終つて宿に帰つたあとに残るんだね、さうしてどんどん遠くへ独りで走るんだ』

『そんなつもりなら一緒に宿に帰るから駄目だ』

『そんなら晩、一服眠り薬りを君にもつておいてから出るよ。月の晩なんか、月の下で走つてみたいのだと云つて出たら宿でも怪むまい』

『そんなら宿屋の亭主に、この人は少し気が変だから、僕と一緒のほか外へ出してくれるなと頼んでおくからいいや』

『莫迦にしてやがら』

   《引用終了》

鷺氏の年譜でも、『一九日、佐佐木茂索から赤倉ヘスキーに誘われるが、原稿がはかどらず参加をことわる(佐佐木も結局は行かなかった)。』とある。]

 

 

昭和元(一九二六)年十二月二十五日・鵠沼発信・奈良市上高畑町 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。新年號の君の力作をたのしみにしてゐる。頓首

 

 十二月二十五日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この手紙の「僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。」という一節は、芥川龍之介書簡の中でもかなり知られた一節である。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかなく、旧全集の昭和元年の書簡は厳密には、この瀧井孝作宛の一通のみである。

   *

 さて。この大晦日から新年の一月二日までは、ちょっとした事件を龍之介が起こしている。新全集の宮坂年譜から少し前の日常記事から引く。十二月二十二日、『東京駅で夕食をとった後、午後』八『時頃、下島勲を伴って鵠沼に帰る。近所に住む小穴隆一を交え、深夜、午前』〇『時頃までカルタに興じた』。翌二十三日は午前十一時頃に起床し、『食事を済ませた後、塚本八洲の診察に行く下島勲とともに塚本家を訪ねる』。『帰途、也寸志を連れた文と小穴隆一に会い、皆で散歩をする。芥川、小穴と三人で夕食をとった後、下島は帰京した』。二十五日に、田端で、滝井孝作宛の以上の書簡を書き送っている。因みに、この同日に芥川龍之介の随筆集「梅・馬・鶯」(初刊本・新潮社)が刊行されている。二十七日、『正月の準備のため、文が』鵠沼から『田端の自宅に戻』り、『代わりに』龍之介の身の回りの世話のために、『葛巻義敏が鵠沼に訪れる』。三十一日、小穴隆一の妹尚子(十三歳)が逝去したため、小穴が上京し、龍之介の監視役が葛巻だけになった。すると、大晦日であるにも拘わらず、龍之介は、『「体の具合が悪くなって」』(文夫人の回想より)鵠沼を発って、『鎌倉の小町園へ静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』(同前)。『田端の自宅から』、『早く帰るよう』、『電話で催促を受けたが、結局、翌年正月の二日まで滞在し』(葛巻義敏の話)一月二日日曜日に『小町園から鵠沼に立ち寄った後、田端の自宅に戻』った(文夫人の回想及び下島勲の随筆に拠る)。なお、『鵠沼の借家は、翌年』三『月まで借りていたものの、以後、ほとんど滞在することはな』かった、とある。ところが、以前に何度か言及した高宮檀『芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』(彩流社二〇〇六年刊)には、義敏の妹葛巻左登子(さとこ)氏の未発表原稿「M子さんへの手紙」によれば(仮名遣いの不統一はママ)、『例年、元旦は必ず自宅で迎える習慣になっていた叔父』(芥川龍之介のこと)『がこの年は滞在していた鵠沼の借家』『から二十八日に、口実をもうけて妻文と也寸志を田端に帰しました。そして代りに東京から留守番に来た義敏に向って、自分の心情をいろいろと話し「僕は小町園の御内儀さんと逃避行をする。居所がきまったらお前には知らせるから薬(睡眠薬)だけは送って呉れ」と云残して三十一日に自動車で出掛けたそうです。』とあり、この後の展開がかなり異なり、『叔父は元日の深夜』、鵠沼に『悄然として帰宅しました。義敏は』『大分責めたそうですが、小町園の御内儀さんに〝若しかすると私は殺されるかも知れないけれど、貴方についてゆきます〟と云はれた叔父は、急に「この人をそんな目に会わせ資格があるだろうか?」と思ったようです。(中略)』。『そして、叔父は翌二日の早朝田端に帰宅しました。妻文さんから叔父宛に「此度は御奥様からお優しき御手紙を頂き云々」と達筆の御礼状が届きました。』とあるのである。この葛巻左登子氏のそれは義敏からの聞き書きであるから、やや信憑性に疑問な部分はあるものの、年譜の小町園行の仕儀の不透明さに比べて、そこは、よりクリアーで、さらに、野々口豊の慄っとする台詞は、この時、芥川龍之介が豊に心中を持ち掛けたとする説に符合する内容とも言える。

   *

 以下、大正一五(一九二六)年(推定を含む)の月不明の二通。最後の葛巻への置手紙が昭和元年である可能性は、私は頗る低いと考えている。]

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・月不明(四月二十二日以降)・鵠沼発信・葛卷義敏宛

 

バスケツトの中の原稿、

風呂敷に包んだ原稿、

鼠色の舊小說、金元明の部(コレハ義チヤンニ見テ貰ヒタシ)

 

[やぶちゃん注:「金元明」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とする。ただ、これは「金・元・明」代の中国の古い小説集のことを指しているとは読める。]

 

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・田端・自宅にて・葛卷義敏宛

 

封筒を一束買はせにやつてくれ。

 

  註 五十束でもいいよ

             龍 殿 さ ま

   義 べ い 殿

 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木

 

   ○兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木

[やぶちゃん注:発表者は著作堂馬琴。これは前段に続いて、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記第三輯上編」のここから載るので、それを底本とした。一部の読みは送り仮名で出した。例の通り、だらだらと長いので、段落を成形した。

 

 右の風(かぜ)の物語にて、思ひ出せしことあるを、更に又、こゝに書きつく。

 文化十三年丙子の秋、閏八月四日[やぶちゃん注:一八一六年九月二十六日。]の大風雨は、予が日記中にしるし置きたり。

 その前日より、雨、ふりつ。天明(よあ)けて、雨は歇(や)みたりしに、又、巳のころ[やぶちゃん注:午前十時前後。]より、大風雨にて、樹(き)を拔き、屋(や)を破りつゝ、申の比[やぶちゃん注:午後四時前後。]に、雨、霽(は)れて、その夜(よ)、子の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午前零時前後。]に、やうやくに凪(なぎ)てけり。この時、本所・深川は、水出でゝ、床(とこ)の上、一、二尺に及びし、といふ。しかるに、その風は、南よりして、特(こと)に潮氣(しほけ)を含みたり。さればにや、南を受けたる草木(さうもく)は、すべて、その葉を吹き凋(しぼ)まされて、枯れ果つるに至るも、ありけり。

 この年の冬十月[やぶちゃん注:前の通り、閏八月があったため、グレゴリオ暦ではこの年の旧暦十月(小の月)は一八一六年十一月十九日から十一月三十日に当たる。]、予は、榎(ゑ)の島[やぶちゃん注:ママ。]・鎌倉に遊びしに、海邊(うみべ)の松(まつ)每(こと)に、凋落(ちやうらく)せぬは、なかりけり。かゝれば、南表なる漁村[やぶちゃん注:当時の漁村となると、鎌倉ならば「由比ヶ濱」の東の「材木座」、同西の「坂之下」、「江の島」ならば「腰越」であろう。]は、彌(いや)烈しかりけん、風に潮をまぜて吹きしは、こも、めづらしき事になん。

 是よりも、猶ほ、竒(く)しき事あり。この大風烈前(たいふうれつぜん)二ケ月、七月十日[やぶちゃん注:一八一六年八月三日。]の事なりき。侍醫山本宗英法眼(ほふげん)、其の通家(つうか)官醫野間氏の本所なる宿所に赴きての、かへるさに、夜は、はや亥中(ゐなか)[やぶちゃん注:午後十時。]とおぼしき比、兩國橋を渡(わた)す程に、河上(かはか)みに、一團の火焰(くわゑん)、あり。吾妻橋のかたよりして、大橋の方(かた)に邁(ゆ)きけり。おもはず、これを仰ぎ望(み)つるに、その光の、靑く引きたる、青衣(せいい)の官人、騎馬にして、前うしろに從ひつゝ、火焰を守護するものに、似たり。その容(かたち)は、おぼろげなれども、すべては衣冠束帶の如くにぞ、見えてける。橋の上を相い距(さ)ること、凡、一丈ばかりにして、徐々(しづしづ)と、ねりゆくを、立ちとゞまりて、猶、見る程に、漸々(ぜんぜん)に滅(き)えうせし、とぞ。予は、次の月の下旬まで、さる事ありともしらざりしに、風聞、他所(たしよ)より聞えしかば、八月廿四日に、興繼(おきつぐ)[やぶちゃん注:馬琴の息子で松前藩医員。]を遣はして、法眼に問はせしに、

「聊(いさゝ)かも、たがひ、あらず。見し趣は云々(しかじか)なり。」

とて、詳かに語(ご)せられけり。扨も、件(くだん)の法眼は、予と、三十餘年ばかり、交遊の義を辱(かたじけ)なうせられたる、少年よりの友にして、齡(よはひ)は五つの弟[やぶちゃん注:「おとと」と訓じておく。]にておはせし。よりて、そのこゝろざまも、大かたならず、しりたるに、絶えて浮きたる性(さが)ならねば、『實說なりき』と思ひしのみ。何の故とは曉(さと)らざりしに、後(のち)の葉月[やぶちゃん注:長月の誤りであろう。]の四日に至りて、

『法眼の「見き」といはれし兩國河の怪物は、かゝる烈風・洪水の、ありぬべき前象(せんしやう)なりき。』

と、初めて、思ひあはしけり。かゝれば、橘南豁(たちばななんけい)が、「東遊記」に載せたりし「名立崩(なだちくづ)れ」の前月に、「神佛(しんぶつ)の空中を飛び去り給ひし」などいふ事も、一槪には誣(し)ひがたかり。これより、僅か、三とせにして、文政元年五月下旬に、彼の法眼は、身まかり給ひぬ。享年四十八歳なりき。いと、をしかりける齡(よはひ)にこそ【文政庚未[やぶちゃん注:文政六(一八二三)年。]八月十七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦九月二十日。]の夜の大風雨のときは、その大きさ、醬油樽ばかりなる陰火の飛行せしを、まさしく見たる人あり。非常の暴風雨のときには、かならず、そのしるし、あることなるべし。】。

[やぶちゃん注:「橘南豁」ママ。「谿」が正しい。「東遊記」とともに前段で既出既注。

「名立崩(なだちくづ)れ」前段に示した国立国会図書館デジタルコレクションで巻之二の「名立崩(なだちくづれ)」で原文が読める。古文がやや苦手な方は、私の「柴田宵曲 妖異博物館 赤氣」に柴田の抄訳が載り、私が電子化した気持ちの悪い「東洋文庫版」(掟破りも甚だしい新仮名化した原文。買った途端に失望した)もあり、「名立崩れ」の詳細な注も附してある。えぇい! この際だ! 国立国会図書館デジタルコレクションで正字正仮名で示すことにするわい! だって、馬琴は誤って書いてるんだもの!!(読みは一部に限った。一部で記号や読点を打ち、段落を成形した。和歌は句読点を除去し、読点部は一字空けとした。「名立崩れ」はここ。グーグル・マップ・データ航空写真)

    *

      ○名立崩れ

 越後國糸魚川と直江津との間に、「名立」といふ驛あり。「上名立」・「下名立」と二ツに分(わか)れ、家數(いへかず)も多く、家建(やだち)も大(おほい)にして、此邊(このへん)にて繁昌の所なり。「上」・「下」ともに、南に山を負ひて、北海(ほくかい)に臨(のぞみ)たる地なり。

 然るに、今年(こんねん)より三十七年以前に、上名立のうしろの山、二ツにわかれて、海中に崩れ入り、一驛の人馬鷄犬(にんばけいけん)、ことごとく海底に沒入す。其われたる山の跡、今にも草木(そうもく)無く、眞白にして、壁のごとく立(たて)り。

 余も、此度(こんど)、下名立に一宿して、所の人に其(その)有りし事どもを尋(たづぬ)るに、皆々、舌をふるはしていえるは、

「名立の驛は海邊(かいへん)の事なれば、惣じて漁獵(ぎよれふ)を家業とするに、其夜は、風、靜(しづか)にして、天氣、殊によろしくありしかば、一驛の者ども、夕暮より、船を催(もよほ)して、鱈・鰈(かれひ)の類(るゐ)を釣(つり)に出でたり。鰈の類は、沖、遠くて、釣ることなれば、名立を離るゝ事、八里も、十里も、出でて、皆々、釣り居たるに、ふと、地方(ぢかた)[やぶちゃん注:陸の方向。]の空を顧(みかへ)れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷(おびたゞしく)火事と見ゆ。皆々、大に驚き、

『すわや、我家(わがや)の燒(やけ)うせぬらん。一刻も早く、歸るべし。』

と、いふより、各(おのおの)

「我(われ)一(いち)。」

と、舟を早めて、家に歸りたるに、陸(くが)には何のかはりたることも、なし。

『此(この)近きあたりに、火事ありしや。』

と問えど、さらに、

『其事、なし。』

といふ。みなみな、あやしみながら、

『まづまづ、目出たし。』

など、いひつつ、圍爐裏(ゐろり)の側(かたはら)に、茶など、のみて、居たりしに、時刻は、やうやう、夜半過(よはんすぐ)る頃なりしが、いづくともなく、只、一ツ、大なる鐵砲を打ちたるごとく、音、聞こえしに、其跡は、いかなりしや、しるもの、なし。其時、うしろの山、二つにわれて、海に沈みし、とぞ、おもはる。上名立の家は、一軒も殘らず、老少男女(なんにょ)、牛馬鷄犬までも、海中のみくづとなりしに、其中に唯一人、ある家の女房、木の枝にかゝりながら、波の上に浮みて、命、たすかりぬ。ありしこと共、皆、此女の物語にて、鐵砲のごとき音せしまでは覺え居(をり)しが、其跡は、唯、夢中のごとくにて、海に沈(しづみ)し事も、しらざりし、とぞ。誠に不思議なるは、初(はじめ)の火事のごとく赤くみえしことなり。それゆゑに、一驛の者ども、殘らず、歸り集りて、死失(しにう)せし也。もし、此事、無くば、男子たる者は、大かた、釣に出(いで)たりしことなれば、活(いき)殘るべきに、一ツ所に集めて後(のち)、崩れたりしは、誠に、因果とや、いうべき。あわれなること也。」

と、語れり。

 余、其後、人に聞くに、

「大地震すべき地は、遠方より見れば、赤(あかき)氣(き)立(たち)のぼりて、火事のごとくなるもの也。」

と云へり。

 松前の津波の時、雲中に、佛神(ぶつしん)、飛行(ひぎやう)し給ひし、なんどといふことも、此たぐいなるべしや。[やぶちゃん注:馬琴が、全然関係のない記事を、「名立崩れ」の前月に発生した予兆と誤っていることは明白である。而して、恐らく、この「松前の津波」とは寛保元(一七四一)年七月に発生した渡島大島の噴火と、それによって引き起こされた松前へ達した大津波のことであろう。檜山医師会 江差保健所・道立江差高等看護学院の伊東則彦氏の論文「渡島大島噴火・寛保津波」PDF・『北海道医報』第千二百二十三号・二〇二〇年八月発行)によれば、この時の死者は千四百六十七名(その内、江差では死者百二十名)・家屋流出七百二十九戸・家屋損壊三十三戸・船流出及び損壊千五百二十一隻とある。但し、江差での死者数の記録は越前永平寺に残されている文書「松前津波之事」によれば、松前の曹洞宗檀家だけで約二千八百の死者を記し、しかも、それは他の宗派の者はおろか、檀家でも行方不明者を含まず、当然、現地のアイヌの人々も含まないので、松前での死者数は膨大な数に登るものと考えねばならない。]

 此名立の驛は、古人、佐渡へ渡り給ひし時、一宿し給ひし所なりとぞ。神主(しんしゆ)竹内太夫といふ者の家に、古き短册を所持せりといふ。其歌に、

 都をばさすらへ出でて 今宵しもうきに名立の月を見る哉

是は、菊亭大納言爲兼卿、佐渡配流の時、此驛にてよめる和歌なり、といふ。或說に、順德院の御製とも云(いふ)。余は、其短册、みざりしかば、いづれとも、しらず。されど、歌の體(てい)、臣下たる人の作にもや、と思はる。

 又、名立の次に、長濱といふ濱、有り。

 黃昏(たそがれ)に往來(ゆきき)の人の跡絕えて 道はかどらぬ越の長濱

などいえる古歌もありと、聞けり。誠に、此あたりは、都、遠く、よろづ、心細き土地なりき。

   *

「菊亭大納言爲兼卿」京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)。権大納言。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、永仁六(一二九八)年に佐渡国に配流となった。但し、五年後の嘉元元(一三〇三)年に帰京が許されている。

「順德院」順徳天皇。後鳥羽天皇第三皇子。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月発生)後の 七月二十一日に当時上皇であった彼は北条義時によって佐渡へ配流となり、在島二十一年の後、仁治三(一二四二)年九月、佐渡で崩御した。享年四十六。]

 かくて、又、文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋、九月八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十月十四日。]の大風烈に、駒込不動坂[やぶちゃん注:後に略して「動坂」となった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]のほとりなる名主内海(うちみ)權十郞主從二人、巨樹(おほき)に撲(うた)れて身まかりけり。そを、相(あい)識れる商人(あきうど)の、次の日に來て、告ぐるを聞きしに、

「權十郞が宿所のほとりは、昔、春目局の別莊にて、素(もと)より、由緒あることなれば、年々の秋每に、園(その)に生じたる栗を採(とり)て、つぼねの廟(びやう)に備(そなへ)るを、恒例とするもの也。しかれば、この日も採(とり)たる栗を、ひとりの從者(づさ)に齎(もたら)しつゝ、湯島なる天澤山(てんたくざん)に赴きて、役僧にわたしてけり。さて、辭し去(さら)んとする程に、風は、いよいよ烈しくなりぬ。

「猶、しばらく。」

と、留められしを、

「おほやけざまの所務あれば。」

とて、いそがはしくまかる程に、寺門(じもん)を出でゝ、いく程もなく、門内(もんない)なる樅(もみ)の木の十圍(じうゐ)にもあまりつべく見えたるが、只、推揉(おしねじ)りたるやふに、樹(き)は、眞中(まんなか)より、吹折(ふきを)られて、大地を撲(うち)て落(おち)しかば、從者は、大枝(おほえだ)に肚(ひはら)を撲(うた)して、矢庭(やには)に卽死したりける。年、十六になりしもの也とぞ【その名をしらず。】。權十郞も打仆(うちたを)されて、半死半生なりけるを、寺より、駕籠に、たすけ乘して、宿所(しゆくしよ)へ送り遣(つかは)せしに、家路にかへり着く程に、忽(たちまち)に、息絶(いきたえ)にけり。享年四十二歲。」

と、いへり。「大風烈の折などには、鬼魅蛇蝎(きみじやかつ)の、風に乘じて、飛行(ひぎやう)することあり。」としも、いへば、已むことを得ぬ急用ならぬに、犯して出づるは愚に似たり。

[やぶちゃん注:「天澤山」臨済宗妙心寺派の天沢山麟祥院(りんしょういん)。徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺。墓はここ。]

 しかれども、又、風の吹ぬに[やぶちゃん注:「ふかぬに」。]、物の倒(たふ)るゝことも有りけり。近くは文政六年癸未[やぶちゃん注:一八二三年。]の夏六月廿三日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦七月三十日。]の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時。]ばかりに、淺草寺の地内(ちない)なる三社權現[やぶちゃん注:現在の浅草神社の古くからの通称。]の石の鳥居の、忽然と折(をれ)たり。人みな、驚き、怪みて、さまざまにいひしかど、笠木(かさぎ)の三つに折碎(をれくだ)けしは、その續目(つぎめ)の甘(くつろ)ぎ延(のび)、落(おつ)る勢ひにて、折たるならん。折て落ぬるものならずは、さまで、怪しとするに足らず。

[やぶちゃん注:「御城内焰硝庫」は実際には早い時期に、江戸城内から、現在の新国立競技場附近に移っていた。明暦三(一六五七)年一月に発生した「明暦の大火」の際に、城内にあった鉄炮火薬が相次いで爆発したため、危険な焔硝蔵は場外へ移すことと決し、川沿いの水際である千駄ヶ谷に移されたのである。「古地図 with MapFan」を見られたい。従って、この「城内」というのは管轄だけを指すものである。]

 これよりも、いと竒なりと思ひしは、文化四年丁卯[やぶちゃん注:一八〇七年。]の秋八月廿三日の未の時ばかりに、御城内御焰硝庫(ごえんせうくら)のほとりなるふりたる、松の二株まで、自然と、折れしこと、ありけり。その樹(き)は十圍(じうゐ)にもあまりつべし。この日は、しかも、美日(びじつ)にて、そよふく凪もなかりしに、只、是のみにあらず、上野護國寺の巨樹(きよじゆ)、河越侯邸中(ていちう)の大銀杏(おほいてう)など、おなじ時刻に折れたり、といふ。これも亦、一竒事(いつきじ)なり。

 しかれども、この月の十九日に、深川八幡宮の祭見んとて、永代橋を踏落(ふみおと)しつゝ、凡は二、三千人[やぶちゃん注:「兎園小說」の本文では「およそは四百八十餘人」と確認された死者実数に近い過小数を記している。後注参照。]も、水に沒して死(しに)たりける。このことの噂にのみ、世の人、耳を側(そば)だつる最中(もなか)にてありければ、件(くだん)の巨樹(おほき)の折たるを、いふものもなく、知るもの、稀なり。

[やぶちゃん注:「永代橋を踏落(ふみおと)し」隅田川に架かる永代橋の崩落による大惨事は文化四年八月十九日(一八〇七年九月二十日)午前十時頃に発生した。当該ウィキによれば、以下の通り(下線太字は私が附した)。同日、『深川富岡八幡宮』(ここ。左手上に永代橋)で十二『年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた』。『久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。また、一橋家の船が永代橋を通過する間、橋を通行止めにしたのも混乱に拍車をかけたと伝わる。ところが、詰め掛けた群衆の重みに』、致命的に老朽化していた『橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが』、『後ろからの群衆は』、その『崩落に気が付かず』、『続々と押し寄せ』てしまったため、『崩落部分から』、『雪崩をうつように転落し』てしまった。『御船手組や佃島の漁師までが救援に駆けつけ』、『必死に救出作業を行ったが、数日前の雨の影響で』、『水質が良くなかった事もあって』、『救助は難航、溺れた者の中には』、『そのまま』下流に流されて、『行方知れずになった者もいた。事故の翌日の記録として、救助された者』七百八十『名でうち』、四百四十『名が亡くなっていたとされている』。『また、遺体の確認も混乱を極め、家族が誤った遺体を引き取ってしまう例も発生した』。『更に永代橋が渡れなくなったことで上流の両国橋や新大橋にも人が殺到し、急遽』、『通行規制を行った』。『死傷者・行方不明者を合わせると』、『実に』一千四百『人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と』されている。『この事故について大田南畝が下記の狂歌や』「夢の憂橋」を記している。

 永代とかけたる橋は落ちにけりけふは祭禮あすは葬禮

『また、町中に貼られた落書の中に以下の句が記されていたと伝えられている』。

 御祭へ行のの道は近けれどまだだしも見ず橋の落たて

『南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残って』おり、曲亭馬琴の「兎園小說餘錄」(国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種 第四」のここから六ページほどに渡って記されてある。フライング電子化はしない。そこではここで(左下段二行目)、やはり、馬琴は、行方不明者を含めて死者数を「二、三千人」と推定している)の、「○深川八幡宮祭禮の日永代橋を踏落して人多く死せし事」のここ(右ページ下段四行目)に、

「前に進みしものゝ、『橋、おちたり。』と叫ぶをも聞かで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔きて、さしあげつゝ、うち振りしかば、是には、人みな、驚怕(おどろきおそ)れて、やうやく、後へ戾りしとぞ。

『と書いている』。『また、当時の逸話として様々な話が伝えられているが』、『その一つとして、本郷の麹屋の主人が祭礼を見ようと』、『永代橋に向かう途中で』掏摸(すり)に二両二分『入った袋を盗られたのに気づき、「金が無いのに祭りを見ても仕方がない」と思って帰宅したため』、『事故に巻き込まれずに済んだ。ところが』、『翌日』、『奉行所から主人の遺体が上ったので』、『確認に来るように』との『命令があり、主人自らが、奉行所に出向き、『自分は無事に帰宅した旨を申告すると』、『役人は主人の名前が記された』二両二朱が『入った袋を証拠として見せた。主人』が、『その袋を盗られて見物を諦めて帰宅したという話を聞いた役人は「恐らく』は掏摸が『盗みの後に』、『見物に行こうとして永代橋から落ちて溺死したのだろう」と述べて、主人に袋を返』し、『そのまま帰宅させたという』とある。

 なお、この大事件の記載としては、如何にも簡略に過ぎ、不満な御仁も多いと思うが(私もそう思った)、実は後の「兎園小説余禄」の第一巻の中で、馬琴は「深川八幡宮祭禮の日、永代橋踏落衆人溺死 紀事」として、優れたドキュメントを書いている。そこまで行くのには、大分かかると思うが、お待ちあれ。我慢が出来ない方は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから当該部を視認出来るし、例の「曲亭雑記」のここでも、当該話の自身の抜き書きが読めるので、どうぞ。]

 又、去々年癸未[やぶちゃん注:文政六年。一八二三年。]の秋八月十七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦九月二十一日。]の夜の大風烈は、近來(ちかごろ)、未曾有(みそうう)の暴(あれ)なりければ、奇譚・怪說、多かれども、まことしからぬことも、まじれり。これらは童蒙(わらべ)も耳に熟して、今しも、折々、いふことなるを、又、さらにこゝに識さば、冬の透間(すきま)の風に似て、さこそは人に厭(いとは)れもせめ。世の諺に、「大風の吹(ふき)たる跡」といふ如く、「風のはなし」は、是までにして、默して、後(のち)のまとゐを待(まつ)のみ【文政八年皐月朔。】。

[やぶちゃん注:以下は底本の編者依田百川の評註。底本では全体が一字下げ。]

 百川云、余は佐倉の舊藩士なれば、かの地には出生せざれども、久しく住居したれば、かの印波沼[やぶちゃん注:ママ。]をよく知れり。こゝにいふ浮田圃(うきたんぼ)の如きもの、無きにあらね、そは蘆・葦(あし・よし)の根、交錯して、年久しく、その上に、土、自らつきて、草木(さうもく)を生長したるなり。然れども、松の大樹(たいぼく)など、生せしものを見たること、なし。まして、田圃とせしを見ず。大かた、この沼の畔(くろ)は、年々に、水の爲に、沒せらるれば、貢税(こうぜい)、甚た[やぶちゃん注:ママ。]、低く、又、全く税無き所もあり。さるがゆゑに、その害を知れども、萬が一を僥倖(ぎやうかう)[やぶちゃん注:思いがけない幸運への期待。]して、種蒔(しゆじ)するもの、多し。もし、水害なきときは、秋獲(しうくわく)[やぶちゃん注:ママ。]豊(ゆたか)にして、大利あり。されば、これを「浮寶(うきたから)」といふべし。「浮寶」、「浮田」、殆んど似たり。所謂、名詮自稱(みやうせんじしやう)[やぶちゃん注:仏語。名が、その物の性質を表わすということ。名実の相応すること。]なるも、また、知るべからず。

[やぶちゃん注:私も百川の単に田の呼称による誤解或いは虚言で、馬琴の綴ったような田圃がそのままごっそり、何らの損壊も受けずに浮き上がるというような奇体な現象が起こるとは思われないし、未だ実際にそんなことがあったという話も聴いたことがない。]

 又、云、大風雨の時、怪物空中を走るなどといふは、妄誕、いふにしも足らず。されども、空氣、凝結(ぎやうけつ)して、人物・山川を、そのうへに寫す出すことは、また、あることにて、海邊(かいへん)の「蜃氣樓」、また、「山市(さんし)」などといふ類も、少なからねば、兩國の怪物も、それらにや。

[やぶちゃん注:これも同感。この手の話は、私の「怪奇談集」にも枚挙に遑がないが、空中の逆転層による遠くの光や景物の空中発光や投映像、及び、蜃気楼やブロッケン現象で説明出来るものも甚だ多く、そうでなければ、作り物の嘘話である。]

 樅の木の風雨の爲に折られて、人の死せしは、さる大風雨には、必、なしといふべからず。「妖魔のゆゑ」とするは、是、亦、怪を信ずるの過(あやまち)にあらずや。松の大木、風、なくして、折(をる)ることは、常にあることにして、他木(たぼく)には、絶てなし[やぶちゃん注:これは賛同出来ない。他の樹種でも起こり得る。]。こは木の性質にや、又、虫などの入りて、その中、虛になりてあれども、表面には、それと見難(みがた)くて、俄(にはか)に折るゝに至れるなるべし。余が佐倉に在りし時、城の本丸の堀(ほり)きはなる松の大木、三抱(みかゝへ)もありしが、一日、風なくして、俄に「ゆらゆら」と動き出したり。見るもの、これを怪(あやし)みしが、しばらくして、中程より、「ほつき」と折る。その響(ひゞき)、おびたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、數町(すてう)[やぶちゃん注:六掛けで六百五十五メートル前後。]の外(ほか)まで聞えけり。これをみて、「いかなる異變起(おこ)るらん」など、一時は、いと喧(かまびす)かりしが、物識(ものし)るものは、敢て疑はず、「かゝることは、松の木にのみ、限りて、他木には、なし。」とて、例を擧(あげ)ていひしかば、その噂、やみて、その後(のち)、絶(たえ)て、異(こと)なる事も、あらざりき。焰硝庫(えんせうぐら)の松も、その類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:なお、吉川弘文館随筆大成版では、この条の後に、先の著作堂(馬琴)による「五馬 三馬 二馬の竒談」への書き忘れを追加した附記が載るが、「五馬 三馬 二馬の竒談」の最後に追加しておくことにした。但し、そちらでも既に同じ内容の附記がなされてある。]

2021/09/08

芥川龍之介書簡抄139 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十一月(全) 五通

 

大正一五(一九二六)年十一月一日・鵠沼発信・小澤忠兵衞宛(小穴隆一と寄書。「十一月一日鵠沼隆龍」と署名有り)

 

先達は失禮致しましたその節尊臺の下駄を間違へてかへりました早速小包みにてお送り致します右どうかおゆるし下さい

     戲れに

   ふりわけて片荷は酒の小春かな

[やぶちゃん注:底本では、ここに『小穴隆一の繪あり』と編者注する。但し、絵はない。]

               龍 之 介

   忠じるし樣[やぶちゃん注:底本では、ここに以上の宛名は『小穴隆一の筆』と編者注する。]

 

[やぶちゃん注:俳句の最年長の友で小穴とも親しい小澤碧童が前月末の二十六日に来訪し、三十日頃まで滞在していたが、小澤が帰った後、芥川龍之介は、自分が小澤の下駄を自分の物と間違えて履いてしまっていたことに漸く気づき、この詫び状とともに下谷の小澤邸に小包で送ったのであった。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月十日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣

 

 原稿用紙で失禮。御手紙拜見。僕も新年號で手こずつてゐる。實に海邊の憂ウツだ。秋聲は岡の叔父だけある。O君は餘り幸福ぢやないよ。この頃の寒氣に痔が再發。催眠藥の量は增すばかり。ちと東家へでもやつて來ないか? 僕の家でもお宿位はする。兎に角君の顏が見たい。この頃君のことを考へてゐると、必ず君から手紙が來る。この前の手紙などは行き違ひだつた。それも少からず氣味が惡い。

    十一月十日      龍 之 介

   佐 茂 樣

 

[やぶちゃん注:「僕も新年號で手こずつてゐる」翌年の元旦発行の新年号のライン・ナップは「悠々莊」(『サンデー毎日』)・「彼」(『女性』)・「彼・第二」(『新潮』)・「玄鶴山房」の「一・二」のみ(『中央公論』。全篇は二月一日号)・「貝殼」(『文藝春秋』)・「文藝雜談」(『文藝春秋』)「萩原朔太郞君」(『近代風景』)である(リンク先は私の電子テクスト。特に「彼」と「彼 第二」(後に中黒は削除された)は私の偏愛する作品である。

「秋聲は岡の叔父だけある」岡栄一郎は金沢市上新町に生まれで明治四五(一九一二)年に第三高等学校を卒業し、東京帝国大学英文科に入学したが、徳田秋声と遠縁に当たり、上京後は秩声の家の裏の下宿に住んで、徳田家に親しく出入りしていた。但し、「徳田秋聲全集」に載る岡栄一郎の家系略図を見ると(私のツイッターをフォローして下さっている徳田秋声研究者であられる亀井麻美氏のツイッターに載せられた当該画像を視認した)、叔父ではない。栄一郎の母ヒデの兄弟がヤヘという女性と結婚しているが、そのヤヘの再婚相手の徳田直松の父徳田雲平の三度目の結婚相手タケとの間に出来た末雄(雲平の三男)が徳田秋声であり、血縁関係は全くなく、文字通りの遠縁である。この龍之介の謂いは、既に注で述べた通り、岡が、龍之介が媒酌をした女性と一年ほどで姑の岡の母と不仲になって離婚した結果、その鬱憤を見当違いの龍之介にぶつけたことと、『近代日本文芸読本』事件で秋声が執拗に抗議し、さらに龍之介の「點鬼簿」を痛罵したことを、重ねて、かく恨みごとの皮肉として述べたものである。

「O君は餘り幸福ぢやない」「O君」は小穴隆一。例の縁談相手の、哲学者西田幾多郎の姪の同じく哲学者であった高橋文子との関係が全く進展していないことによるもの。結局、この結婚は成立しなかった。

「東家」鵠沼の龍之介の借家の直近にある東屋旅館。既に述べた通り、佐佐木の御用達の旅館だった。

「この頃君のことを考へてゐると、必ず君から手紙が來る。この前の手紙などは行き違ひだつた。それも少からず氣味が惡い」事実なのかも知れぬが、強迫神経症の典型的関係妄想のように私は読む。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十一日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

敬啓 原稿用紙にて御免下され度候。唯今新年號の仕事中、相かはらず頭が變にて弱り居り候間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。御多用中お手數を相かけ申訣無之候へども、右當用のみ願上げ候。なほ又失禮ながらアヘンエキスのお代金はその節お敎へ下され候はば、幸甚に御座候。頓首。

    十一月二十一日    芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:「アヘンエキス」アヘンチンキ(laudanum/opium tincture/阿片丁幾)のこと。麻薬アヘン(キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum の種子の未熟果に傷をつけ浸出する乳液から採る。それから劇薬の鎮痛剤モルヒネ(morphine)や、化学的に変化させた麻薬ヘロイン(Heroin)が知られる)末を、エタノールに浸出させたもの。アヘンのアルカロイドのほぼ総てが含まれている。特にモルヒネが高い濃度で含まれているため、アヘンチンキは歴史的に様々な病気の治療に使われてきたが、主な用法は鎮痛と咳止めであった。二十世紀初頭までは、アヘンチンキは処方箋なしで買える場合もあり、多くの売薬の構成物質であったが、常習性が強いため、現在では世界の多くの地域で厳しく制限され、管理されている。現在では、一般的に、下痢の治療やヘロイン等の常習癖がある母親から生まれた子供の「新生児薬物離脱症候群」(neonatal abstinence syndrome)を和らげるために用いられる。嘗て一部のヨーロッパの文化人もこれを愛用したが、中国を始めとするアジアでの喫煙によるアヘン摂取とは異なり、アヘンチンキは腸を経由するため、常習性はあったものの、廃人となるようなことは、そう多くはなかった(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十八日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ならびにオピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略舊に復し候へども神經は中々さうは參らず先夜も往來にて死にし母に出合ひ、(實は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未だに行手を塞がれしやうな氣のすること少からず、世にかかる苦しみ有之べきやなど思ひをり候。小說はやつと一つ書き上げ唯今もう一つにとりかかり居り、それを終らばもう一つと存じ候へども如何なる事やらこの不安も亦少からず候。なほ又お金の儀お知らせ下され候やう無躾ながら願上げ候。數日前小澤碧童、遠藤古原艸など參り候その節碧童老人の句にかう云ふ作有之候。頓首

   行秋やくらやみになる庭の内

    十一月二十八日    芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:明白な病的な関係妄想が記されてある。

「オピアム」アヘンのこと。前注英文表記参照。カタカナ音写は「オピエム」に近い。

「つれ」小穴隆一と思われる。]

 

 

大正一五(一九二六)年十一月二十九日・消印三十日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十一月二十九日 くげぬま 芥川龍之介

 

羊羹をありがたう(羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生へてゐる氣がしてならぬ)お手紙もありがたう。君が餘り氣を使つてくれると、それが反射して苦しくなる事もある。(手紙ばかりならば助かるだけだが)何しろふと出合つた婆さんの顏が死んだお袋の顏に見えたりするので困る。今はどんな苦痛でも神經的苦痛ほど苦しいものは一つもあるまいと云ふ氣もちだ。敷日前に伯母が來てヒステリイを起した時に君に敎へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では參るものではない。しかし過去無數の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神經衰弱だと云へばそれまでだが)實にやり切れない氣のするものだよ。その中で兎に角小說を書いてゐる。我ながら妙なものだと思ふ。昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上

    十一月二十八日    芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

  二伸 小穴曰「よろしく」と

 

[やぶちゃん注:「羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生へてゐる氣がしてならぬ」これはお道化ているのではないと思う。漢字に対するゲシュタルト崩壊で、夏目漱石にも認められれ、確かそれを漱石自身が話した相手は、まさに芥川龍之介だっとように記憶する。所謂、強迫神経症の一症状とも言えると、私は考えている。これらの愁訴は、まさに運命的に師漱石から彼に伝染(うつ)っていると言ってよいとさえ私は思っているのである。

「宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた」盟友宇野浩二は、一般には、この翌年の五月末に発狂したとされるが、既にこの頃から、変調をきたしていたものと思われる。なお、発症後は龍之介が親身になって世話をし、齋藤茂吉のところに連れて行き、診察して貰ったり、嫌がる宇野を精神病院に入院させたりしている。病因は諸説あるが、私は脳梅毒による脳障害説を支持する。数年で作家としてカン・バックしたが、明らかに文体が変質していた。私はブログ分割版とサイト版(上巻下巻)で彼の「芥川龍之介」(昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月まで『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された)を電子化注しているが、表現や拘りに異様な偏執性が見てとれるものである。]

2021/09/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佐倉の浮田 安永以來の「はやり風」

 

   ○佐倉の浮田 安永以來の「はやり風」

[やぶちゃん注:発表者は著作堂馬琴。これは国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記第三輯上編」に載るので、それを底本とした。一部の読みは送り仮名で出した。例の通り、だらだらと長いので、段落を成形した。]

 

 文化五年戊辰[やぶちゃん注:一八〇八年。]の秋八月[やぶちゃん注:この年は閏六月があったため、グレゴリオ暦では当月は九月二十日から十月十九日に相当する。]、下總(しもふさ)佐倉[やぶちゃん注:千葉県佐倉市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後に出る佐倉藩藩庁が置かれた佐倉城の城址をポイントした。印旛沼の南岸一帯に当たる。]の洪水は、風聞、こゝにも聞えしころ、その月、十三日の事なりき。予は、たまたま、

「著述の勞(つか)れを保養せん。」

とて、獨(ひとり)、そゞろに立ち出でゝ、あちこちとなく逍遙しつゝ、「眞菰が淵」[やぶちゃん注:恐らくは北の丸公園の北方にあった堀と思われる。「古地図 with MapFan」で堀が確認出来る。「江戸名所図会」に「菰(まこも)が淵」として「元飯田町の東の堀を、しか號く」とある。現在のこの中央附近であろう。国道五号の下に神田川から分岐した流れが見える。]と呼びなせる、おほん塹端(ホリハタ)[やぶちゃん注:江戸城の堀の分岐であるから「御(おほん)」と添えた。]の出茶屋なる牀几(しやうぎ)に尻をうちかけて、しばし、やすらひたりし折、下總の旅人等(ら)に【その日の同行三人なり。その内に老人、あり、その名を問へば、「與五右衞門」といへり。】、かり初に、ものいはれにけり。よりて、かの水の虛實をとひしに、その人、答へて、聞かせたまふが如く、

「こたみ[やぶちゃん注:「此度」。「こたび」の音変化。]、佐倉の事は、近來(ちかごろ)、稀なる大水なり。つやつや、そら言[やぶちゃん注:「そらごと」。]には候はず。しかるに、かの城下(きのもと)なる田地どもの、或は、十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ばかり、或は、二十間四方づゝに、皆、きれて、水の上に浮(うか)みたり。それを又、並木の松の大きなる、伐らば、臼(うす)にもしつべき幹に、藁(わら)の繩もて、繋(つな)ぎ置きたり。何ものゝ所爲(しわざ)といふことを知らず。天明(よあ)けて、人皆、これを見て、驚き、あやしまぬもの、なし、となん、聞て候ひし。」

と、かたりき。その時、同行(どうぎやう)の老人與五(よご)右衞門とかいふものゝ云、

「田地の水に浮きたるとしを、つらつらと、おもひみるに、むかし、佐倉の城地(じやうち)を築かれしとき、今の城下の邊(ほとり)には、沼・溝(みぞ)の多かりしを、竹木(ちくぼく)・芥坌(あくたもくた)の類ひをのみ、夥しく投げ入れて、やうやくに埋(うづ)めつゝ、さて、田地には、なせしよし、故老の、いひもて傳へたり。大凡(おほよそ)、洪水は、降る雨よりも、土中より涌き出る水の、多きもの也。されば、下樋(したひ)より涌き登る水の勢ひもて、田地のきれて、浮きたるを、『流さじ。』とおぼしめしゝ、神々の『神(かん)わざ』にて、夜の中に、並木の松に繫ぎ留めさせたまひしならん。その浮田(うきた)の體(てい)たらく、畔(くろ)に竹のしばりたる、杉・榛(はに)[やぶちゃん注:ハシバミのこと。]の樹の並び立ちたる、そがまゝに、浮きたるを、尋常(よのつね)なる藁索(わらなは)もて、あちこちに繫がれし。その田地は、少しも動かで、水の上に渺々たり。やつがれ等は、他領の民にて、佐倉より七里ばかり上なる在のものに侍れど、きのふ、目前(まのあたり)に、さる不思議を見て、かくは、いふ也。かの地には、領主より、船四十艘ばかり出ださせて、人を渡し給ふなり【「百姓わたし」。但し、無錢。】。されば、佐倉の人々には、

『田地を流されざりし事、こは、またく、堀田(ほつた)侯の德の致せるものなり。』[やぶちゃん注:当時は佐倉藩四代藩主堀田正愛(ほったまさちか 寛政一一(一七九九)年~文政七(一八二五)年)。但し、彼は生来の病弱で、享年二十六の若さで亡くなっている。]

とて、感嘆、大かたならざりけり。けふ、行德(ぎやうとく)[やぶちゃん注:千葉県市川市の行徳地区。]まで來て、聞きしに、

『この地の水は、きのふより、一尺あまり、退きたり。』

と、いへり。佐倉の水も、さぞ、あらん。和君よ、ゆたかにおはしませ。いざ、まからん。」

と、いひかけて、皆、つと、立ち出でゝゆきけり。

 この事、いとめづらかに覺えしかば、「雜記」中にしるしおきしを、今、又、こゝに抄(せう)し、出だしつ。おもふに、出羽(では)なる「大沼」の「島あそび」は、先輩、既にものにも誌(しる)し、又、同國秋田の「からす沼」、及(また)、龜田(かめだ)の山中「瀧(たき)の股(また)」なる「峰形(みねがた)」といふ沼にも、亦、「島遊び」の奇異あるよしは、拙著「放言」中に收めたれども、「佐倉の浮田」は、これと異なり、亦、一奇談(いつきだん)といふべきのみ【文化五年春より秋まで、霖雨、しばしば、せり。この年、三月より八月上旬に至て、雨天一百零七日なり。九日まで快晴は、なほ、稀なりき。】

[やぶちゃん注:『出羽(では)なる「大沼」の「島あそび」』山形県西村山郡朝日町の浮島で知られる「大沼」。記載に不審な箇所があるが、「諸國里人談卷之四 浮嶋」の本文及び私の注を参照されたい。今回はYouTubeのLocal Topics Japanの『Mysterious moving islands, "Ukishima of Onuma" 不思議な動く島「大沼の浮島」の動画をリンクさせておく。因みに、この現象はどのような機序で動くのかは、科学的には解明されていないそうである。

「からす沼」秋田県秋田市寺内高野にある「空素沼」(からすぬま)であろう。但し、少なくとも現在は浮島現象は起こっていない模様である。

『龜田(かめだ)の山中「瀧(たき)の股(また)」なる「峰形(みねがた)」といふ沼』秋田県由利本荘市岩城亀田大町(亀田は松本清張の「砂の器」犯人が偽装手段として使うあそこである)の衣川上流に由利本荘市岩城滝俣があり、そこに「鷺沼」というのがあるが、そこか。浮島現象はないようである。但し、浮島現象を起こす池沼は、思いの外、各地にあるようである。

『拙著「放言」』瀧澤瑣吉(さきち:曲亭馬琴の別名)名義の考証随筆「玄同放言」(げんどうはうげん(げんどうほうげん))。息子の興継及び渡辺崋山が挿絵を描いている。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三年刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。巻頭に引用書物として二百九十八部を掲げる。表題の「玄同」は「無差別」の意である。私は吉川弘文館随筆大成版で所持しているが、調べたところ、「卷ノ下」にある「秋田嶋沼」であるが、浮島現象を深く掘り下げたものではなく、記載内容の風呂敷を広げ過ぎていて、私は失望したので、国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇三)年博文館編輯局編校訂になる「名家漫筆集」の当該部をリンクさせるに留める。寧ろ、その冒頭で掲げている、医師で旅行好きで紀行家としても知られた橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行「東遊記」の巻之五にある山形の大沼の「浮島」の記載の方が遙かに興味深い。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で大正二(一九一三)年有朋堂文庫刊の「東西遊記」のここから読める。こちらは甚だお薦めである。

 以下、別件なので、一行開けた。]

 

 附けていふ、右の前年【文化四年。】の冬より、五年の春・夏の頃まで、里巷(りこう)の小唄本、「ねんねんころころ節」とかいふものゝ、いたく流行(はや)りしこと、ありけり。そのうたを聞くに、

「わしがわかいときや、おかめといふたが、のん、ころ、今は庄屋どのゝ子守する、ねんねんころころ、ねんころり。」

と、うたへり【此うた、もとは歌舞伎狂言に始まりしを、つひに江戶中に推[やぶちゃん注:「おし」。]うつりて、いたく流行したるなり。又、「みめより」と名づけたる、下品のあん餅を、市中の辻々にて、うりはじめしも、この時のことなり。こは、右のうたの中に、「人はみめより、たゞ、こゝろ」といふことのあればなるべし】。識者、或ひは、いへることあり。

「今玆(ことし)は、秋のころに至りて感冒、必ず、流行せん歟。細人(さいじん)・小兒(こども)、おしなベて、「寢々轉々(ねんねんころころ)」と謠(うた)ふこと、是れ、病臥の兆(てう)ならん。」

と、いへり。果して、八、九月の頃に至りて、風邪(ふうじや)感冒、流行して、良賤(りやうせん)、病臥せざるはなく、輕きは、兩三日にして、おこたる[やぶちゃん注:癒える。]もありしかど、重きは、その症、疫熱(えきねつ)に變じたる。三、四十日に至るもあり。或は庸醫(ようい)[やぶちゃん注:藪医者。]に愆(あやま)られて[やぶちゃん注:処置を間違えられて。]、よみぢに赴くものも、ありけり。このときの「ゑせ狂歌」に、

 はやり風無常の風もまじりけりねんねんころり用心をせよ

かくて、病むとやむ程に、關の八州、いへば、さらなり、京・攝の間まで、脫(のが)るゝもの、なかりし、とぞ。童謠は、いにしへより、和漢の歷史に載せられて、應驗(おうげん)あらずといふもの、稀なり。又、流行病(はやりやまひ)は、なべてみな、年の氣運の順(じゅん)、逆(ぎゃく)にて、せんかたもなきことながら、それよりも、猶ほ、疎(うと)ましきは、市井の風俗の、くだれるなり。この水上(みなかみ)を尋ぬれば、劇場(しばゐ)より、いでぬは、なし。風(ふう)を移し、俗を易(か)ゆるも、三絃(さんげん)にこそ、よるべけれ。その三絃といふものも、雜劇(ざつげき)を師とするのみ。知らず、ひがごとならんかも。

 予が東西をおぼえしころより、大約(およそ)五十年このかた、時々の感冒に、世俗の名を負はせしもの、少からず。まづ安永[やぶちゃん注:一七七二年から一七八一年まで。]の中葉(なかごろ)に、はやりし風邪(ふうじや)を、「お駒風(こまかぜ)」と名づけたり。こは、城木屋(しろきや)お駒とかいふ淫婦(たをやめ)の事を㫖(むね)として、作り設けたる浄瑠理[やぶちゃん注:ママ。]の、いたく行はれたればなり。又、安永の末にはやりし風邪を、「お世話風」と名づけたり。こは、「大きにお世話、お茶でもあがれ。」といふ戯語(たはこと)の流行(はや)りしによりてなり。又、天明[やぶちゃん注:一七八一年から一七八九年まで。]中にはやりし風邪を、「谷風」と名づけたり。こは谷風梶之助は、當時(そのとき)、無雙の最手(ほて)[やぶちゃん注:天皇に召し出された相撲人(すまいびと)中の最高位或いはその人を指す語。]なりければ、これに勝つものあること稀也。谷風、甞て傲言(がうげん)して、

「とてもかくても、土俵の上にて、われを倒さん事は難かり。わが附したるを見まくほりせば、風をひきたる時に來て見よかし。」

と、いひしとぞ。この言(こと)、世上に傳へ聞きて、人々、話柄としたる折、件(くだん)の風邪を、

「谷風が、いちはやく、ひき初めし。」

とて、遂に其名を負せしなり。されば、この時、四方山人(よもさんじん)[やぶちゃん注:四方赤良(よものあから)。文人官僚(勘定所支配勘定)太田南畝の狂名。馬琴と親しかった。]、送風神狂詩あり。錄して、もてこゝに證とす。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。返り点のみを示し、後で訓点に従って訓読した。]

引道此風號谷風。関々啖咳響二西東一。惡寒發熱人無ㇾ色。煎樣如ㇾ常藪有ㇾ功。一片生姜和ㇾ酒飮。半丁豆腐入ㇾ湯空。送ㇾ君四里四方外。千住品川問屋中。

[やぶちゃん訓読:《 》は私の推定読み。

引道(ひくな)らく 此の風 谷風と號す

関々《くわんくわん》たる啖咳《たんがい》 西東《にしひがし》に響く

惡寒《おかん》 發熱 人 色《いろ》無く

煎し樣(やう) 常のごとし 藪に 功 有り

一片の生姜 酒に和して 飮み

半丁の豆腐 湯に入れて 空《むな》し

君を送る 四里四方の外《そと》

千住 品川 問屋(とひや)の中《うち》]

 又、文化元年[やぶちゃん注:一八〇四年。]にはやりし風邪を、「お七風」と名づけたり。こは、「八百屋お七」といふ「ゑせ小うた」の流行せしによりてなり。又、文化五年の秋はやりし風邪を、「ねんころ風」と名づけたり。そのよしは、上にいへるが如し。又、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]の春二月の比、いたく流行せし風邪を、「たんほう風」と名づけたり。こは、このときの「はやり小うた」に、「たんほうさんや、たんほうさんや」と謠ひしことのあればなり。かくて、去年甲申[やぶちゃん注:文政七(一八二四)年]の春、二、三月頃はやりし風邪を、「薩摩風」と名づけたり。こは、西國よりはやり初めて、こゝまで、うつり來つればならん。此うち、「谷風」・「お七風」・「ねんころ風」・「たんほう風」は、はげしかりき。家々每に、五人、三人、枕をならべて、うち臥さぬはなかりけり。西は京・攝に至り、東は安房・上總、西南は甲斐・伊豆の海邊(かいへん)、北は信濃・越後まで、なべて脫(のが)るゝもの、なかりしよし、その折々に友人の郵書(いうしよ)にも聞えたり。「たんほう風」のはやりしとき、何ものか、よみたりけん、

 みやこから乘せてくるまのたんほ風ひくものもありおすものもあり

[やぶちゃん注:この「おす」は車を「押す」に、「隅々にまで行き渡らせる」の意の「壓す」を掛けたものであろう。]

いと、おかしきや。例(れい)の人の癖なるべし。かゝれば、此風は、京よりはやり來つるにこそ。この他、寬政・享和[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇四年まで。]中にも有りけんを、さる名を負せざりける歟。いふがひもなく、忘れたり。抑(そもそも)、この一條は、曩(さき)に北峰子(ほくほうし)[やぶちゃん注:山崎美成の号の一つで、好問堂北峰と名乗った。]のしるしつけたる、「風の神の圖說」[やぶちゃん注:先の「風神圖說」。]の後(のち)につけても、いわ[やぶちゃん注:ママ。]まほしかるまゝに、「伊豆の千わき」の、わけなし言(こと)もて、「科戶(しなと)の風の神やらひ」、しつ。「鋭鎌(とかま)・八重鐮・刈りはらふ」ごと、禿(おひ)たる筆を走らせし。みそぎのやゝの、やく體(たい)もなき、只、是れ、嗚呼(をこ)のすさみになん。

[やぶちゃん注:『「伊豆の千わき」の、わけなし言(こと)』神道の「大祓詞(おほはらへのことば)」の第一章の中に、

   *

天(あめ)の磐座(いはくら)放(はな)ち 天の八重雲(やへぐも)を 伊頭(いづ)の千別(ちわき)に千別(ちわ)きて 天降(あまくだ)し依(よ)さし奉まつりき

   *

という、「何だか、わけのわからない、意味もありそうもない、妖しげな言」葉が出るが、それを掛けた戯言であろう。

『「科戶(しなと)の風の神やらひ」、しつ。「鋭鎌(とかま)・八重鐮・刈りはらふ」ごと』これも同じく「大祓詞」の第三章の一節に、

   *

科戶(しなど)の風(かぜ)の 天(あめ)の八重雲を 吹き放つ事の如く 朝(あした)の御霧(みぎり) 夕(ゆふべ)の御霧を 朝風(あさかぜ)夕風の吹き拂ふ事の如く

大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おおふね)を 舳(へ)解き放ち 艪(とも)解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く

彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を燒鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く 遺(のこ)る罪は在らじと

   *

という部分の太字箇所をパロったものである。「大祓詞」については、静岡県周智郡森町一宮にある小國神社の公式サイト内のこちらに載るものを参考にして、正字正仮名に直して示した。「やらひ」は追儺(ついな)のこと。

「みそぎのやゝの、やく體(たい)もなき」「禊(みそぎ)の稚兒(やや)の、益體(やくたい)も無き」か。前で「大祓詞」を茶化したのに続いて、私の下らないこの雑文は、「稚兒」(ややこ)の「益體も無」い(役に立たず、無益で、つまらぬ、でたらめとして)の「禊」のようなもんさ、と過剰に頑固に卑称化して言っている、一種のアイロニーである。ここまで重ねると、却って厭味である。こういうところが、パラノイア(偏執質)的な馬琴の嫌な一面とも言える。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 町火消人足和睦の話

 

   ○町火消人足和睦の話

いぬる文政元年[やぶちゃん注:一八一八年。]の秋八月、町火消人足を組、「ち」組喧嘩の和談のありさまを書けるものを見しに、いとおごそかなる事にて、いにしへ戰國の講和もかくやありけんと、自笑してしるす事、左の如し。

  文政元寅八月廿二日、向、兩國三河屋喜右衞門貸座敷において、

一膳部、相濟候後、座敷を掃除、

[やぶちゃん注:以下、底本は二段組であるが、一段で示し、長い説明はブラウザの不具合を考え、改行した。]

 壱 番  進物の札を張り、

 弐 番  總中座に着き、

 三 番  座敷の襖をはづし、

 四 番  座敷の眞中に花莞莚を敷き、

[やぶちゃん注:「花莞莚」「くわくわんえん」。花莚(はなむしろ)。]

 五 番  熨斗三方を持出づ。

 六 番  甁子を持出づ。

 七 番  三方喰摘を持出づ。

[やぶちゃん注:「三方喰摘」「さんばうくひつみ」。「三方」は角形の折敷(おしき)に前と左右との三方に「刳形(くりかた)」もしくは「眼象(げんしょう)」と呼ばれる透かし穴のあいた台のついたもの。多くは檜の白木で作られ、古くは食事をする台に用いたが、後には神仏や貴人へ物を供したり、儀式の時に物を載せるのに用いる具。衝重(ついがさね)の一種。「三宝」とも書く。「喰摘」は本来は年賀の客を供応するための重詰料理のこと。]

 八 番  三方土器を持出づ。

 九 番  銚子を持出づ。

      平次郞

      淸吉

 十 番  巳之助、座に着く。

      長藏

      長次郞

 十一番  巳之助、上座に進み、

      和睦之口上を述ぶる。

      その等、一統、一禮畢りて、

      巳之助、元の座に直る。

 十二番  熨斗三方、上座に進み、

 十三番  甁子・喰摘・土器、上座に進み、

 十四番  巳之助、上座に進み、一禮有之、

      懐中より、書付を出だし、

      「を」組の千松樣、

      「ち」組の藤兵衞樣、

      と呼び出だし、座に着く。

      一禮有之、巳之助、座に直る。

 十五番  三方役の者、土器を持ち出だし、

      「を」組の頭取平次郞、

      淸吉方へ持ち出づる。

      三方役之者、土器を持ち出だし、

      「ち」組の頭取長次郞、

      長藏方へ、持ち出づる。

      何れも一所なり。

 十六番  銚子を持ち出だし、

      「を」組の平次郞方へ參り、

      同人、一獻給、

      「ち」組の纒持藤兵衞へ持ち出づる。

     同人、一獻給候節、肴役の者、

     喰摘を持ち出で、肴を遣す。

     又、「ち」組の長次郞給候盃は、

     「を」組の纏持千松へ遣す。

     同人給候節、肴役の者、

     喰摘を持ち出だし、肴を遣す。

     三獻給候て、銚子・土器・喰摘、

     何れも、元の座に直る。

     夫より、藤兵衞、千松、元の座へ直る。

[やぶちゃん注:「纏持」「まとひもち」。火消しのシンボルを振り上げる名誉な役である。]

十七番  巳之助、上座に出で、

     懷中より、書付を出だし、

     『「を」組の吉五郞樣、

     「ち」組の幸次郞樣。』

     と、呼び出だし、

     兩人、圖の如く、座に着き、

     一禮畢りて、巳之助、元の座に直る。

十八番  三方役之者、土器を持ち出だし、

     「を」組の平次方へ持ち參る。

     同人、一獻給候盃は、

     「ち」組の幸次方へ遣す。

     同人、一獻給候節、肴役之者、

     喰摘を持ち出だし、肴を遣す。

     又、「ち」組の長次郞給候盃は、

     「を」組の吉五郞へ遣す。

     同人、一獻給候節、肴役之者、

     喰摘を持ち出だし、肴を遣す。

     三獻給候て、銚子・土器・喰摘、

     何れも、元の座に直る。

     夫より、兩人、一禮畢りて、元座に着く。

十九番  巳之助、上座に罷出で、

     懷中より、書付を出だし、

     『「を」組の榮五郞樣、

     「ち」組の長藏樣。』と、呼び出だし、

     兩人、圖の如く、座に着き、

     一禮畢りて、巳之助、元座に直る。

二十番  三方役之者、土器を持ち出だし、

     「を」組の平次郞方へ持ち參る。

     同人、一獻給候盃は、

     「ち」組の長藏方へ遣す。

     同人、一獻給候節、看役之者、

     喰摘を持ち出だし、肴、遣す。

     又、「ち」組の長次郞一獻給候盃は、

     「を」組の榮五郞へ遣す。

     同人、一獻給候節、喰摘致候者、

     喰摘を持ち出だし、肴を遣す。

     右、三獻相濟候て、

     銚子・土器・喰摘、引き取り、

     夫より、兩人一禮畢りて、元座に直る。

 廿一番 巳之助、上座に進み、

     懷中より、書付を出だし、口上にて、

     「御銘々御盃事仕候筈に御座候得共、

     御大勢之事故、時刻も移り候間、

     餘は、いかゞ仕哉。」

     と、挨拶に及候處、

     一統、「思召に隨ひ候。」と、

     返答に及び、夫より、一禮畢りて、

     已之助、元座に直り、

     長次郞・平次郞と申談候て、

     又候、上座に進み、

     「何れも樣、吉日に付、

     御和談も、盃も、首尾能相濟候に付、

     御總中樣へ、御手打を願候。」

     と、及挨拶候所、

     一統、「承知。」にて、一禮致し、

     夫より、已之助、元座に直り候而、

     三々九之手打、目出度相濟申候。

[やぶちゃん注:「又候」「またぞろ」。]

 廿二番 巳之助、上座に罷出、

     「何れも樣、遠路之所、御來罵被成下、

     御苦勞千萬に奉存候。依之、御座も和

     き、ゆるゆる、御酒宴可被下。」

     と及挨拶、巳之助、元座に直る。

 廿三番 熨斗三方・甁子・土器・銚子・喰摘、

     兩方、一所に引き取る。

 廿四番 花莞菰を引き取り、

     「を」組・「ち」組と書候張札を取り、

     夫より、巳之劫・淸吉・平次郞・

     長次郞・長藏、何れも、

     下座へ引き取り候。

 廿五番 是より、又候、座敷を掃除致し、

     肴・銚子・盃、出でゝ、酒宴、初まる。

     此節、巳之助・淸吉・長藏・

     長次郞・平次郞、其外、

     仲人に罷出候人々の内より、

     四、五人も座敷へ罷出、

     「何れも樣、今日は吉日に付、

     御和談・手打も無滯相濟、依之、

     ゆるゆる、御酒宴可被下候。」

     と、及挨拶候而、

     何れも、下座敷へ引取候。

[やぶちゃん注:以下、底本では「一」のみが行頭で、他は総て一字下げ。「一」の後は字空けをした。]

此節、阿部川町文吉といふ者、「和談・手打にも、首尾能相濟候に付、私共拾人計、南御番所へ罷出候間、此跡は酒宴計にて別に相替殼無之に付、拙者共歸り可申。」旨、及挨拶候。

一 其節、「を」組世話人與三郞・十番組頭取萬五郞・仙之助・淸五郞・八番組頭取孫市・九番組頭取吉五郞、右、六人之者、咄申候は、「此度之和談は、近年、覺無之、大場所にて、江戸中にもれ候所は、深川八幡前・芝・麻布堺ばかり相殘り、其外、江戶中、千住・品川・染井。巢鴨邊之組合にて、誠に心遣成る和談に御座候。其譯は、今日、三獻盃之内に、盃之取樣、肴の請樣、亦は看役、銚子役之者、酌み取樣、肴之摘樣、不限何事、前後有之歟。又は、世話人・中人・巳之助、盃之口上に、少しも前後間違等有之候節は、其場所にて和睦破談に相成大變之基故、銘々迄、三獻之盃事、相濟不申内者、誠に、ひや汗を流し、心配、此上もなき事に御座候。先年も和談之節、盃取遣りに、少々、麁略、有之に付、其和談之場にて直樣、破談・喧嘩に相成事も有之、其節は組合も不足之事故、格別之事も無之候へ共、此度は、和談、近年覺無之大揚所にて、誠に仲人初、頭取之銘々迄、心配之段、申盡しがたく候。三獻盃之内は、敵・味方、列座の面々、目を皿の如く致し、麁略・間違等計、氣を付居候事に候。誠に恐しき事に御座候。今日の人數も、帳場に祝儀を差出し、帳面へ相記候人數、千六百四十八人程、有之、然共、雨天に付、遠方之者は祝儀一通りにて、仲間へ相賴罷歸候者も、五、六百人、有之、手打相濟候迄相詰居候者は、二階座敷に六百人餘、下座敷に弐百人餘、奧の間に老人共、七、八十人、詰居候。都合、九百人餘之人數に御座候。誠に近年不承和談に御座候。駕も、四、五十挺も、三河屋之前に有之、右之趣、具に十番組頭取萬五郞に、六人之者はなしに御座候。」。

一 先達、右喧嘩の節、手負之者、有之に付、根津・音羽兩所之遊所より、金拾三兩、幷、堂前より、金七兩貳分、「あたけ」より金五兩、右「見舞」として進上致度趣、内々、聞合申入候に付、此方、頭取・世話人共より。存つき之處、至極尤之段、忝趣を、申遣候之處、早速、樽・肴に、金子差添、世話人方迄、致持參候に付、受取申候。都て、火消組之内に、喧嘩に不限、混雜之事、有之候節は、江戸中之遊所より、「見舞」として、樽・肴・金子等、差越事、今日之和談とても、右同樣、此方より、頭取・世話人方へ、内々、申入、江戶中之遊所より、樽・肴・金子等、祝儀、差越候へ共、是等之事は、今日、張札に不相成候事に候。右之趣、八番組頭取孫市・九番同吉五郞・十番組同仙之助・阿部川町同與三郞、右、四人のはなしに御座候。

一 今日、和談に打寄候年寄・仲人・世話人・頭取共之衣裳は、八丈之「せいひつ縞」[やぶちゃん注:「靜謐縞」か。落ち着いた縞模様に織ったものか。]などの袷、或は單物、又は龍紋袷、羽織は絽の紋付など、「なゝこ」[やぶちゃん注:「斜子織」(ななこおり)。経緯(たてよこ)に七本の撚糸を使ったことから出た名で、「七子織」とも称した。また布面が魚卵のように見えることから「魚子織」、糸が並んで組み織りされので「並子織」とも称すとされる。本来は絹織物の一種で、古くは京斜子・武州斜子(川越斜子・飯能斜子)・桐生斜子・信州更級・越後五泉や、岐阜川島産のもの有名であった。主に羽織・着尺地(きしゃくじ:大人用の着物一枚を作るのに要する布地。布幅約三十六センチメートルの並幅で、長さは約十二メートルを一反として市販される)に使われたが、現在は見られない。以上は平凡社「世界大百科事典」他に拠った。]・龍紋抔にて、帶は「縞はかた」・薩摩琥珀。厚板[やぶちゃん注:厚い地の織物。経(たていと)は練糸、緯(よこいと)は生糸を用いて、地紋を織り出した絹織物。]類に御座候。纒持は紫縮緬、「黃ちりめん」の單物、せなかに「纒」と云ふ字をぬひ付け、帶は、何れも、天鵞絨[やぶちゃん注:「びろうど」。]に御座候。其外、「紫ちりめん」・「黃縮緬」・「びろうど」の帶を致候もの、弐、三百人も相見え候。其外、所持之「きせる」・烟草粉入[やぶちゃん注:「たばこいれ」。]・紙入等は、何れも、金五、六兩共、相見え候品計に御座候。尤側に居候を見請候人の咄に、阿部川町與三郞、「り」組の長治など、所持之多葉粉入は、「くさり」計にても。五、六兩も可致品と相見え申候。

一 十番組の頭取萬五郞・仙之前・淸五郞・八番組頭取孫市・九番組頭取古五郞、右、いづれもはなし候は、「右、喧嘩之相手方「ち」組の怪我人、廿人、内、二人は卽死にも可相成と申もの、纏持藤兵衞・幸次、「を」組の怪我人、十三人、内、纏持卯之助、幸吉と申。右、幸吉、『「ち」組の藤兵衞、快方無之、死去致候節者、不得已事、此方、纏持幸吉、解死人[やぶちゃん注:「げしにん」。殺人犯。]に可相成。』段、幸吉、是を申居候。然處、怪我は、少々、疵も宜候得共、餘病之發り候處、先役之卯之助十人を、組總中へ願出候は、『此度之解死人、幸吉儀は、當り前之處に御座候得共、同人義は御存知之通り若年者之事、殊に此節、餘病差發り候事故、只今、解死人之取沙汰、格別之心勞致させ候も、私、先役にて外組へ對し、『相濟不申候間、何分、解死人には私に相究り候樣に。』と、卯之助、達而、申入候得共、解死人之事故、容易ならず、組中一統、卯之助へ申聞候は、『願之趣、尤に候得共、此度之義は、幸吉、解死人と相極り候間、此段、左樣可相心得候』と申候處、又候、卯之助申出候者、『被仰候處御尤には候得共、幸吉儀も餘病も有之、萬一病死等什候節は、跡にて解死人之取沙汰、江戸中へ對し、外聞不宜候。名前にも相拘り候間、何分、解死人は拙者に御極め被下候樣。』、達て之願に付、又候、一統仲間申談、卯之助、心底に任せ、「ち」組之方へ、卯之助、解死人之趣、相屆置候。然處、手負人も快方に相成、今日、和談之場所へ相詰合候得共、座敷之式へ列座に出し候ては、盃事、何か手事も相懸候間、其内には麁略・間違等も有之節は、又候、破談喧嘩之元と相成候故、元之場所へ取出だし不申候。總代として、圖の如く、「を」組より、榮五郞、「ち」組より、長藏、兩人、差出だし手打相濟候。尤壱番盃に相出でし「ち」組の纏持藤兵衞と申者は、喧嘩の節に、「を」組之纏持幸吉に、鳶口を、左之鬢先へ刺し倒され、弐間[やぶちゃん注:三メートル半強。]程、引かれし由、誠に疵も大造にて、既に卽死に可成程之事に候處、快方いたし、今日、手打に相成り、誠に安心致し候。右、萬五郞・千之助・淸五郞・與三郞、咄に御座候。段々、喧嘩の樣子・手負之者、左之咄、承り候へば、身の毛も動き候樣なるこゝち恐ろしき事に御座候。

[やぶちゃん注:鍵括弧はあまり自信がない。]

一 向兩國、三河屋喜右衞門二階座敷和談之場所、長さ十二間[やぶちゃん注:二十二メートル弱。]、幅五間[やぶちゃん注:約九メートル。]、片々、壱間之長通り、有之、八疊敷十二間に仕切り・中仕切、有之、何れも襖なり。

一 八月二十二日朝五時[やぶちゃん注:不定時法で凡そ午前八時頃。]より、段々、三河屋へ打寄、手打、相濟み、刻限者、夕七時[やぶちゃん注:同前で午後七時頃。]頃に御座候。

  右、座敷繪圖面、左の如し。

 

Hikesiteutinozu

 

[やぶちゃん注:底本からトリミング補正した。上部のキャプションは、

文政元年八月廿二日

向両國三河屋

㐂右エ門儀へ坐成、以

有之「を」組・「ち」組

喧嘩和談席

上の図

 會合人数

 千六百四十八人

である。図中のキャプションは煩瑣なので、電子化しない。悪しからず。]

 

前條に載する所の、「を」組の纏持卯之助が、幸吉とかいふものに代りて、解死人にならんと請ひし事、匹夫の勇には似たれども、取るべきところなきにあらず。難にのぞみて、死を惜まざる勇氣は、をさをさ、武夫といふとも、及ばざるもの、多かり。もし、よく、この志をもて、義を求め、道を聽き、君父の大事に出でしめば、名を竹帛に書すに足るべし。わづかの爭鬪に生命をあやまらんとす、獄をしからずや。

  文政乙酉五月朔      海棠庵再識

[やぶちゃん注:これ、私にはなかなか面白い「手打ち」の記録であった。]

2021/09/06

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 葺屋町なる歌舞伎座の梁の折れし事

 

   ○葺屋町なる歌舞伎座の梁の折れし事

文化十三丙子年[やぶちゃん注:一八一六年。]五月三日、葺屋町[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋人形町三丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]桐長桐座梁折候に付、御役所言上帳之内、書拔。[やぶちゃん注:「生年:「桐長桐座」女歌舞伎の女役者にして座元であった名跡桐長桐(きり ちょうきり 生没年不詳)。もともとは江戸前期の女歌舞伎の桐座の座元で、先祖は越前国幸若小八郎の門弟幸若与太夫(「よだいゆう」か)の子孫で、通説では寛文元(一六六一)年に初めて江戸木挽町で興行したとするが、詳かでない。後、名跡は、代々、女性が相続し、市村座の控櫓(ひかえやぐら:興行の代行者。興行権を持っていた江戸三座(中村座・市村座・森田座)が、何かの事情で興行が出来なかった場合に、願い出て、三座の劇場を使って興行権を借りて興行することが許された一座を言う。「仮櫓」とも呼ぶ)として、天明四(一七八四)年から四年間、寛政五(一七九三)年から五年間,文化一三(一八一六)年から翌年まで、葺屋町で興行した(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文とした)。]

[やぶちゃん注:以下、頭の「一」を除いて「怪我者無之候。」までは、底本では一字下げ。「一」の下を一字空けた。]

一 去る酉年[やぶちゃん注:文化十年癸酉。]、葺屋町類燒之砌、元羽左衞門芝居普請之節、東海道程ケ谷宿裏通り古町[やぶちゃん注:]と申所、日蓮宗寺院【焉馬云、「星川村法性寺。」といふ。】「杉山大明神」と申社有之際にて、松、伐り出だし、芝居梁に致置候處、「神木」のよし、右「たゝり故、不繁昌。」之趣、風說に付、町家別に百文宛、取集、當時、桐長芝居より、下谷龍泉寺地中、本淨院へ祈禱を賴、出家、五、六人、舞臺にて祈禱致かゝり候處、梁表、方三側、内に有之、中が折候。怪我者無之候。

[やぶちゃん注:「旧古町」はこの附近(神奈川県横浜市保土ケ谷区神戸町(ごうどちょう)内)に旧称が残る。

「焉馬」既出既注だが、再掲しておくと、鳥亭焉馬(寛保三(一七四三)年~文政五年六月二日(一八二二年七月十九日))は戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖ともされる。本名は中村英祝。本所相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務め、大工と小間物屋を営んだ。大田南畝宅を手がけた他、足袋・煙管・仙女香(白粉(おしろい)の商品名。江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋で売り出した。歌舞伎役者三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」に因んで名づけられたもので「美艷仙女香」とも称した)も扱った。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自らも浄瑠璃を書いた。四代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」・「太平樂卷物」・「碁太平記白石噺」などがある。

「星川村法性寺」保土ケ谷区星川にある日蓮宗光榮山法性寺(元和二(一六一六)年創建)である。

「杉山大明神」上記法性寺の南西百九十メートル位置に杉山神社がある。

 以下は、全体が底本では「といふべし。」までが二字下げ。]

 

 同日七時過頃、新吉原町京町壱丁目より出火、遊女屋共不殘燒失、龍泉寺町まで燒け拔けて鎭まる。此龍泉寺は、右、ふきや町芝居、祈禱に來たりし、龍泉寺なり。その龍泉寺町まで燒け出でゝ、火のしづまりしも、奇といふべし。

[やぶちゃん注:「新吉原町京町壱丁目」新吉原の一番奥の町。現在の台東区千束三丁目。新吉原の大きさが判らない方は、「古地図 with MapFan」を見られんことをお薦めする。浅草寺を探して、「区立台東病院」を捜し、それを中央線下に降ろせば、そこに長方形の新吉原が出現する。この火事で焼けた範囲は、この地図の国道四号のこちら側の殆んどと考えてよい。

「龍泉寺」ここ。真言宗智山派東光山等印院龍泉寺。

 以下一行は底本では一字下げ。]

 

 この日、所々にさまざまの珍事あり。

[やぶちゃん注:以下、「錐のぬけざりし事」まで、底本では二字下げ。二段に書かれてあるところがあるが、一時下げ一段とした。]

 

 永代橋邊にて、伊豆船、帆柱、折れし事。

 赤坂にて、鳶のもの、登天せしといふ事。

 兩國廣小路の「かるわざ」、綱より落ちて、怪我ありし事。

 有馬殿の火の見櫓の屋根、紛失の事。

 「新し橋」にて、車力、釜を落とし、釜數四つ、割れし事。

 四谷にて、掘りぬき井戶を掘りかゝり、錐のぬけざりし事。

[やぶちゃん注:「永代橋」ここ

「兩國廣小路」ここ

「有馬殿」久留米藩有馬家上屋敷であろうか。ここ

「新し橋」「江戸名所図会」巻之一の「筋違橋」(すじかいばし)の条には、昌平橋について叙述し、昌平橋は、この筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平鄕(しやうへいきやう)に比して號(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも號したるよし、いへり。太田姬稻荷の祠(ほこら)は、この地、淡路坂にあり。舊名を「一口(いもあらひ)稻荷」と稱す』とあるが、この昌平橋に同定するの誤り。ずっと「新シ橋」と呼ばれ、表記された橋が別にある。江戸切絵図を見て発見、現在の「美倉橋」がそれである。

「錐」といっても、非常に先の太い金属製の穿孔器であろう。硬質の岩盤に食い込んで、地下水か何かの横からの圧力が加わって抜けなくなったものであろう。

 以下、「まかりしとぞ。」まで底本では全体が一字下げ。]

この外にも、種々、聞きたれど、忘れたりけるは、あやしき惡日なるべし。

芝居の「梁をれ」より、三、四年前、【文化酉年比。】するが臺伊藤金之丞殿【御兩番。】のやしきに、十四、五歲の比よりつとめ居りし、こし元【名は「きは」。】、俄に發熱し、狂亂、狐のつきたるごとくにて、口ばしりける中に、「我住居した宮を損じさせ、『跡にて修覆せん』と僞りて、今に其沙汰もなく、打ち捨て置きたる事、甚、腹だゝしく、芝居繁昌を守ることは、扨おき、このうらみには不繁昌させ、永く芝居に祟るべし。」と、いひつゝ狂ひまはりける故、やしきにて、請人方へ引き渡し、『宿にて能く療治すべし』とて遣しける。五日目に、此女は身まかりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下、「まかりしとぞ。」まで底本では最後まで全体二字下げ。]

 

 傳に云、「此女の父母、ともに、はやう、なくなりけるゆゑ、祖父母方へ引き取りて親類方へ賴み、右、伊藤氏へ奉行[やぶちゃん注:ママ。「奉公」の誤字。]に出だしけるよし。此祖父といふ者は、ふきや町羽左衞門の座がゝりの者にて、その、三、四年以前、程ケ谷の法性寺にて、芝居の梁の木を、買ひ出だしにゆきたるものなり。當時、宮居大破に及びたれば、住僧、修覆の事を賴みける故、芝居懸りの者、『茶や一同にて、一日に一錢づゝの日掛をして、其積金を以て、宮破損の修覆致すべし。貴僧には、猶も「芝居繁昌」の祈禱を賴み入る。』と約諾いたしたるまゝにて、其後、修覆の事にも及ばず、打ち捨て置きたるよし。さるゆゑに、此度、『神のたゝり』にて、梁もをれたることなるべし。三、四年以前、女の死したるころは、親類がたへ任せ置きたる故、さのみ、氣もつくまじけれど、今、かゝる變事の出來たるにより、『さは。おもひあたるべし。』と、かの屋敷にても語られし、と、牧村氏【御兩番五百石。】隱居一甫君の、かたり給ひしなり。

此梁の落ちたる後、取りかへたる梁は、出所上州新田郡岩松村鎭守八幡宮の境内にありし松を伐り出だしたり。此代金拾六兩、岩松村より堀口村といふ川岸迄、八町の間、此入用金廿五兩なり。子五月五日の朝、右之川岸を出だして同七月にふき屋町へ引き付けたりといへり。此時の金主は、上州太田宿ふぢや新五兵衞といふ者なり。

此上州の一條は、太田宿左衞門といふ人よりの文通をしるし出だす。

   文政乙酉中夏朔   文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:悪いね、もう、注を附すエネルギを失った。悪いね――というより――勝手に読めや! 糞野郎ども!]

芥川龍之介書簡抄138 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十月(全) 七通

 

大正一五(一九二六)年十月三日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)

 

冠省御申し越しの件、開化の殺人にてよろしく候なほ寫眞は現代小說全集のをお用ひ下され度候。それから集末の年譜中、處女作「芋粥」は「鼻」の誤りにつき左樣御承知下され度候 頓首

   十月三日        芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:例によってエスペラント語訳の話。

「開化の殺人」初出は大正七年七月発行の『中央公論』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の解説では、表紙(か?)では「臨時增刊」とするが、目次は「定期增刊」とあるそうである)。後の新潮社大正八年一月刊の作品集「傀儡師」に収録されたが、その際、冒頭に主人公「予」の記した前書きが新たに添えられた。私の「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」「開化の殺人」を見られたい。別ページ立てで私の注もある。なお、この前書きが、所謂、芥川龍之介の開化物の一部を、確信犯で一種の開化シリーズ物の小説の皮切りとさせる目的が仕込まれていると言える。前掲書の篠崎美生子氏の解説に、『数ある「開化期物」の中で、この「開化の殺人」と「開化の良人」』(大正八年二月『中外』初出)『と「舞踏会」』(大正九年一月『新潮』初出)『には共通して本多子爵夫妻(「舞踏会」では「H老夫人」とある)が登場し、夫妻から某青年が開化期の話を聞くというパターンが一致していることから、中村光夫は「連環小説としての開化物」』(太字は底本では傍点「ヽ」)『(『名著復刻芥川龍之介文学館』日本文学館一九七七・七・一)で、これを一つの「連環小説」として読む可能性を論じている』とあり、この中村氏の見解には、嘗て私が大学時代に底本の旧「芥川龍之介全集」を全通読した際の感じと一致し、非常に賛同出来るものである。

「現代小說全集」この前年の大正十四年四月に新潮社から刊行された当該全集の「芥川龍之介集」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全部見られる。芥川龍之介の写真はここ(劣化もあろうが、補正をかけても非常に暗く、不吉な感じがする肖像である)。誤りを指摘している同年譜は、ここだが、龍之介の指摘するような間違いはない。『處女作の短篇「老年」を發表す』は正しく、そもそもが「鼻」は華々しい文壇デビュー作ではあるが、処女作ではない。旧「芥川龍之介全集」第十二巻にこの年譜が載るが、その「後記」によって、芥川龍之介の言っている意味が分かった。右「二」ページの九行目を見ると、『九月當時「新小說」主観鈴木三重吉の好意により、短篇「鼻」を同誌上に發表す」というのが「芋粥」の誤りなのである。龍之介の『處女作「芋粥」は「鼻」の誤り』自体が誤りで、当該部の――「鼻」は「芋粥」の誤り――と書かねばならなかったのである。東宮も意味が解らず、きっと、困っただろうな。

 なお、この月の朔日には、名品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行『改造』)が発表されており、その「一」で「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」という書き出しで、母フクの精神疾患や養子となったことを含め、自らの出生の秘密を公にしている。

 

 

大正一五(一九二六)年十月六日・田端発信・大木雄三宛

 

冠省 藤澤衞彥氏の使に立ちしは尊臺なりしよし蒲原君より聞きて大に恐縮致し候失禮の段まつぴら御免下さる可く候 頓首

               芥川龍之介

   大 木 雄 三 樣

 

[やぶちゃん注:「大木雄三」(明治二八(一八九五)年~昭和三八(一九六三)年)は雑誌記者で歌人・児童文学者。これより後のペン・ネームは雄二。群馬県出身。昭和七(一九三二)年から雄二を名乗った。小学校教員を経て、上京し、大正八(一九一九)年に『こども雑誌』の編集者となった。同時に童話を書き始め、『金の星』などに作品を発表した。昭和三(一九二八)年、「新興童話作家連盟」の結成に参加し、「可愛い敵め」を発表、昭和七年には、右翼的な「日本文化連盟」を結成し、戦時中はファシズム作家であった。戦後も童話作家として活動した。筑摩全集類聚版脚注では、数雑誌の編集者をしたが、雑誌『国粋』を最後として、そちらは辞めている旨の記載がある。

「藤澤衞彥」(もりひこ 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は小説家・民俗学者・児童文学研究者。福島県生まれ。当該ウィキによれば、東京・埼玉生まれともする旨の記載がある。明治四〇(一九〇七)年、明治大学卒業。「藤沢紫浪」の名で通俗小説などを刊行した。大正三(一九一四)年に「日本伝説学会」を設立し、大正六年から『日本伝説叢書』(全十三巻)を、大正十年から『日本歌謡叢書』を編纂、十一年には「日本童話学会」を、この大正十五年には「童話作家協会」と「日本風俗史研究会」を設立している。また、この大正一五(一九二六)年から翌昭和二(一九二七)年まで雑誌『伝説』も発行している。昭和七(一九三二)年からは、明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。戦後の昭和二一(一九四六)年には社会科・新聞科の専任となり、昭和三三(一九五八)年に定年退職した。また、昭和二十一年の「日本児童文学者協会」の創立にも参画し、五年ほど会長を務めた。著書・編纂書は多く、江戸時代の絵入り童話本や風俗資料の蒐集家としても著名である。彼の名代として大木雄三が芥川龍之介の家を訪問したが、生憎、彼は留守であったらしい。原稿或いは講演依頼か。よく判らない。以降の芥川龍之介の発表作を見ても、特にそれらしいもの(藤澤と大木に共通する童話や少年少女向けのものを調べてみたが)は見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月八日(年次推定)・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

 

寫樂論わざわざお送りに預り御禮申上げます

おひまの節に御遠慮なくお出で下さい私もその内上ります

御禮かたがた御返事まで

 

[やぶちゃん注:「寫樂論」不詳。岡が書いた東洲斎写楽論か。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月十七日・田端発信・廣津和郞宛

 

冠省。けふ或男が報知新聞を持つて來て君の月評を見せてくれた。近來意氣が振はないだけに感謝した。僕自身もあの作品はそんなに惡くはないと思つてゐる。明日又鵠沼へかへる筈。この手紙は簡單だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが)書かずにゐられぬ氣で書いたものだ。頓首

    十月十七日      芥川龍之介

   廣津和郞樣

 

[やぶちゃん注:「あの作品」この一日発表の「點鬼簿」。前掲の「芥川龍之介全作品事典」の解説によれば、『徳田秋声は読後の感想を「作者が果してどれほどの芸術的興味をもつて筆を執つたものであるか疑はざるを得ない」「大いに飽き足りない作品である」』(『時事新報』[やぶちゃん注:引用本にはそのクレジットを『一九二六・一・九』とするが、この「一」は「一〇」の誤りであろう。])という悪罵に近い酷評を吐いているが(「近代日本文藝讀本」のトラブルの鬱憤が醒めない彼にして当然か)、『それに対して広瀬和郎』は『「文芸雑感」(『報知新聞』一九二六・一〇・一八~二〇)』で、『「小品の底に流れてゐる陰うつさは、芥川君のものとして珍しいもの」とし、「自分はその陰うつさに、ある感動を受けずにゐなかつた」と述べた』とある。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注では、『広津は「点鬼簿」について、「底にひそんでいる作者のさびしさはには、十分な真実が感ぜられ」、「それはわれわれと全然関係のないものではない」と好意的な批評を寄せた』とある(因みに石割氏は記事名を『文芸雑観』とされている。現物が見れないので何とも言えないが、「雑感」の方が正しいのではなかろうか?)。この手紙はその共感的好評への謝辞である。因みに、宇野浩二は「芥川龍之介」の一節(リンク先は私のブログ分割版の当該部分)で、『一と口に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。』という龍之介が生きていたら、涙を流すであろう最高の讃辞をしている。無論、私も宇野の言う通りだと感ずる。私が大学時代、この旧「芥川龍之介全集」を全巻読破した際、深夜、人知れず、涙を流したのは、何を隠そう、この「點鬼簿」だったのだ! 因みに、私が落涙したのは、「三」の龍之介の姉で夭折した「初ちやん」の話と、擱筆の「四」の二箇所であった。

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十日・田端発信・阿部章藏宛

 

冠省高著を頂き難有く存じます。大抵女性にて拜見してをりますが、小閑を得次第改めて拜見したいと思ひます。頓首

    十月二十日      芥川龍之介

   水上瀧太郞樣

 

[やぶちゃん注:「阿部章藏」は作家「水上瀧太郞」(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)の本名。彼は評論家・劇作家であると同時に、実業家でもあった。慶應義塾大学卒。在学中の明治四四(一九一一)年に永井荷風が主宰していた『三田文学』に発表した短編「山の手の子」で小説家としてスタートした。明治生命保険会社専務や大阪毎日新聞社取締役として、永く実業と文学を両立させた人物である。強い道義性と文明批評に特色がある。この大正十五年に、休刊が続いていた第二次『三田文学』復刊後は、同誌の精神的主幹とも呼ばれた。

「高著」この年に出た水上の単行本を調べてみたが、見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十二日・鵠沼発信・中根駒十郞宛

 

拜啓 校正遲れて申訣がありません 再校は見ても見なくつてもよろしいもう小說を書き上げたから見るなら今度は早く見ます都合でよろしく取計つて下さい 日記の件勿論承知それもよろしく願ひます

    十月廿二日      芥川龍之介

   中根駒十郞樣

 

[やぶちゃん注:「校正」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」(実際の発行日は十二月二十五日)の初校と思われる。この日に社へ送付したものであろう。

「小說」直近のものでは、O君の新秋」(十月十一日脱稿。リンク先は私の古い電子化)である。「梅・馬・鶯」の「小序」は十月十五日に脱稿しているので、十七日以降のそう遠くない時期に初刷のゲラが届いているはずである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十九日・消印三十日・鵠沼・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十月二十九日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

冠省、きのふはじめて中央公論の散步を拜見、何かと君の心づかひを感じ、ありがたく思つてゐる。僕の頭はどうも變だ。朝起きて十分か十五分は當り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が氣がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂欝になつてしまふ。新年號をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない氣がする。ちよつと上京した次手に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の祟りもあるのだらう。この三四日碧童老人が泊りがけに來てゐる。小穴君もあひかはらず。僕は小穴君のフィアンセ(になるかどうかゴタゴタしてゐるが)に讀ませるつもりで「O君の新秋」を書いた。しかし原稿料も必要だつたから、小穴君の俳句を貰つて六枚合計三十圓にした。當分はこちらにゐるつもり。お次手の節はお立ち寄りを乞ふ。德田秋聲がまだ僕に祟つてゐるのには閉口した。以上

    十一月二十九日    芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:末尾のクレジットの「十一月」はママ。「散步」筑摩全集類聚版脚注に、佐佐木茂索の小説で『中央公論』十一月号に発表した旨の記載がある。

「精神鑑定」 俗に「精神の状態を検査すること」の意で用いられることがあるが、これは全くの誤用で、この語は元来、裁判の審理過程に於いて被告の責任能力・行為能力などの有無を判断するために、法廷から依嘱をうけた精神科医が行なう精神状態の診察・検査をのみ指すものである。

「小穴君のフィアンセ」さんざん注してきた哲学者西田幾多郎の姪の同じく哲学者であった高橋文子のこと。

「小穴君の俳句を貰つて六枚」O君の新秋」の末尾には、「O君」=小穴一游亭隆一の俳句七句が載る。この作品、最後のアスタリクスの後の部分は丁度、四百字詰原稿用紙で半枚分程となる。しばしば知られる通り、流行作家は字数ではなく、原稿用紙単位で稿料が決まった。最終原稿が有意に白紙が多いと、稿料に加算されなかったろうから、枚数を稼ぐために手抜きの裏技で原稿を増やしたというわけであった。

「德田秋聲がまだ僕に祟つてゐるのには閉口した」自身作であった「點鬼簿」への九日の徳田の痛罵が、龍之介に精神的にかなり深刻なダメージを与えていることが窺われる(このぼやきは翌月の書簡でも続いている)。但し、この「まだ僕に祟つてゐる」というのは、先に述べた「近代日本文藝讀本」の最強トラブルを受けて「まだ」と言っているのである。考えてみると、具体的に注していなかったので、ここで記しておくと、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「『近代日本文芸読本』事件」の項(関口安義氏執筆)によれば、同読本刊行後、穏やかならぬ風評が龍之介を悩ますこととなった。それは例えば、『「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説』であったり、『「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん」と不平をこぼす作家まで』生んだというのである。そして、『芥川攻撃の急先鋒は、徳田秋声であった。秋声は自然主義系の地味な作家であり、人気作家ではなかった。たまたまどういうわけか、秋声には』同読本の第五集に収録された「感傷的な事」の収録『許諾を求める手紙が届いていなかった。それ』に加えて、『同じ作家でも、日頃』、『陽の当たらない地位に甘んじなければならない不満もあって、発行所の興文社に強く抗議したのである。後年秋声はこの事件を振り返り、「あれは私にわたりがつてゐなかつたので私は抗議を申込んだ」』(『時事新報』昭和二(一九二七)年七月二十七日)『と書いている。芥川は秋声を自分の側にいる文壇人として認めていた。それだけに受けた打撃は大きかった』。龍之介の『人を見る目がやや甘かったと言われても仕方あるまい』とある。なお、金銭に細かく、しかも、潔癖であった龍之介は、最終的に、この秋声を始めとしたトラブルに対し、『興文社に借金までして』、同「讀本」に収録した百十九人の作家或いは著作権継承をした遺族全員に『〈薄謝〉を呈するという形で』、事後『処理』を施したのであった。その最たるボヤキが、先に出した大正一五(一九二六)年五月九日附の鵠沼発信の山本有三宛書簡であったのである。『あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり』。睡眠薬が日増しに増えるその一因としては、この「讀本」事件を除外することは出来ないのである。

伽婢子卷之九 狐僞て人に契る

 

伽婢子卷之九

 

   ○狐(きつね)(いつはり)て人に契(ちぎ)

 

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[やぶちゃん注:今回の挿絵は、状態の良い「新日本古典文学大系」版のものをトリミング補正して用いた。]

 

 安達喜平次は、江州坂本に、すみけり。

 たまたま、公方に參候(さんこう)して歸る。僕(ぼく)二人に馬の口、取らせ、中間二人を召しつれ、白河より、山中越に、さしかゝる。

 日、巳に暮れ方になる。

 道より南のかた、神樂岡(かぐらをか)の西にして、年の比、十七、八と見ゆる女性(によしやう)、顏かたち、美くしきが、櫻花に小鳥のいろいろ縫いたる紅梅裏(こうはいうら)の小袖のすそ、かいとり、草むらを、あなたこなたして、荊(いばら)の上を打ち越え、道に踏み迷ひたるが如し。

 安達、これを見て、

「如何なる高家(かうけ)の娘なるらん。」

と、怪しみつゝ、近く步ませ寄りたれば、此女性、袖を以て、顏をおほひ、足元は、石に蹉(つまづ)き、しばしば、ころびまろばんとす。

 安達、人を遣はして、

「是は如何なる御方なれば、此日の暮方、めしつるゝ者もなく、かゝる所に立めぐり給ふ。」と、いはせけれ共、物云はず。

 又、重ねて、人を遣はし、我が乘りたる馬を引《ひか》せ、

「道、行なずみ給ふも、見奉るに、痛はしくこそ覺え侍べれ。此馬に召されて、いづく迄も御すみかに歸り給へ。送りて奉らむ。」

と云はせければ、女性、嬉しげに顧みて、馬にのる。

 安達、抱きのせしに、その輕き事、うすものゝ如し。

 近く見れば、世にたぐひなく、光り出るばかり麗はしきが、まみ、氣高く、かたち、たをやかに、袖の薰りの香(かう)ばしさ、なにはにつけても、なべてならず。

『白玉(しらたま)か、何ぞ。』

と、あやしまれ、

『此人の爲ならば、露と消ゆるとも、恨みは、あらじ。』

とぞ覺えける。

 安達は馬の尻に付き、靜かに步ませ、もとの道を京の方に歸りしに、一町ばかりにして、忽ちに、女(め)の童(わらは)、五、六人、田中《たなか》のかたより、走り出《いで》て、

「あな、淺まし、此暮かた、とりうしなひ參らせしかと、きも、つぶれ、胸、とゞろき、かなたこなた、尋ね參らせしぞや。」

とて、馬に添うて、南をさしてゆく事、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ばかりにして、年ごろ、六十ばかりの男、息もつぎあへず、

「先より、尋ね奉りし。まづ、御心安く侍べり。扨、此御馬かし給ふは、思ひ寄らざる御情けかな。」

といふ。

 安達、いふやう、

「此御方、道に踏迷ひ給ふ故に、御いたはしく思ひ奉り、某(それがし)、乘りたる馬、奉り、是迄送り參らせたり。是より又、坂本に下り侍べる也。」

と云へば、かの男、いふやう、

「姬君、今日は田中といふ所に遊び給ふを、座中、酒もり、久しくて、興に乘じて、獨り立いで、道に迷ひ給へり。はや、日も暮たり。坂本までは、中中に、かへりつき給はじ。よき便りなれば、こなたに入て、一夜を明し給へ。」

といふ。

 安達、

「それは。誠に御芳志たるべし。」

とて、南のかた、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]ばかり、行ければ、茂りたる一構(かまへ)あり、其内には、家居《いへゐ》、つぎつぎしく奇麗に立て、梅・櫻・桃季(すもゝ)の花、咲きつゞき、藤の棚・山吹の垣、池には、あやめ・かきつばた、もえ出て、庭のおもて、泉水のかゝり、世にある人の住(すみ)かと見えたり。

 襖・障子、幾間(いくま)も立切(《たて》きり)たる、書院・廊下を傳うて、小座敷に行至たる。

 その奧には、唐(から)の日本(やまと)の花鳥、つくして書きたる繪(ゑ)の間、あり。

 安達、すでに玄館(げんくわん)より上りければ、あるじの女房、其の年、四十ばかり、世に、けだかく、見ゆ。召し使ふ女のわらは、七、八人を隨へ、立出て、

「思ひも寄らず、まれ人の客を受け侍べり。姬、たまたま、出《いで》て遊びし侍べり、酒に醉たる事を痛み、座を逃げて、道に迷ひ、君に行逢ひ奉らずば、若(も)しは、狼(おほかみ)・きつねのたぶろかし、若しは、盜人(ぬす《びと》)に脅(をびや)かされなん。よくこそ、送りてたびたまへ。それ、如何にも、もてなし奉れ。」

とて、親しく、もてかしづく。

 しばしありて、酒肴(さけさかな)、取りしたゝめて出《いだ》す。

 あるじの女房、盃(さかづき)を取り、安達にまゐらせ、

「とても、今宵は遊びあかして、浮世の思ひ出とせむ。姬が姨(おば)も、是れにおはす。出て、酒、すゝめたまへ。」

といふに、廿四、五ばかりの女房、はなやかに出立て、打ち笑ひ、立出《たちいで》しを見るに、又、世に稀なる美人也。

 安達、

『是は。そも、仙境に來れるか、天上にのぼれるか、如何なる雲の上といふとも、今宵に勝る時はあらじ。』

と、嬉しくも、ふしぎ也。

 酒、已に酣(たけな)はにして、安達は數盃(すはい)を傾けたり。

 主の女房、いふやう、

「姨(おば)と、双六《すごろく》うち、賭(かけもの)、定めて、遊び給へ。」

とて、黑檀(こくたん)に紫檀・檳榔(びんらう)まじへ、ちりばめたる、盤のめぐりには、「源氏」の繪、書き、水牛・象牙・黑白の石、蒔繪(まきゑ)の筒(どう)に、賽(さい)とり添へて、出したり。

 安達と、姨と、さし向うて打けるに、賽の目を爭ひ、時々、姨の手をとらへ、無理をいふも心ありや。

 「遊仙窟(いうせんくつ)」に張文潛(ちやうぶんせん)と十郞娘(《じふらう》じやう)が、双六うちて、かけものせし事を書(しろし)ける筆の跡も、なつかしくて、安達、勝ちければ、沈香(ぢんかう)五兩を出《いだ》し與(あた)ふ。

 姨、又、勝ければ、安達、出すべき物なく、かうがいを拔きて、出したり。

 已に夜明方になり、東の山のは、しらみ明けて、人の音なふ聲、聞ゆるころ、家の内、俄はに、驚き、あはて、ふためき、

「盜人の入來るぞや。」

といふに、主(あるじ)の女房、安達を、うしろの門より、推し出せば、

『姨も、ゆきかたなく、立隱れたり。』

と、覺ゆるに、安達一人、かたくづれなる、山際(やまぎは)の穴の内より、這ひ出たり。

 茅(つばな)、亂れ、菫(すみれ)、咲きて、松の風、高く吹《ふき》、谷の水、遠く聞えたり。

 かけものに渡したる笄(かうがい)はなく、取りたる沈香は、さしもなき木の片(きれ)なり。

 初め、女性の道を踏み迷ひしを、安達、馬より下りて、後(しり)につきて行《ゆく》かと見えて、影もなく失せにしかば、中間・小者ばら、たづねめぐり、

「只、こゝもとにて見失ひぬ。」

とて、あまりに尋《たづね》わびて、大《だい》なる穴のあるを見つけて、鋤鍬(すきくわ)をかりよせ、掘り崩しけるを、

「盜人、入來る。」

と、驚きける也。

「こゝは、いづくぞ。」

と、人に問へば、

「神樂岡のうしろ也。」

といふ。

 狐の、たぶろかしけるにこそ。

 

[やぶちゃん注:「安達喜平次」不詳。

「江州坂本」現在の滋賀県大津市坂本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「公方」室町時代の足利将軍。珍しく時制が特定されていない。

「白河」京都市左京区のこの中央附近

「山中越」現在の下鴨大津線。比叡山の南の山越え道で、古くから利用された。

「神樂岡(かぐらをか)の西」現在の京都市左京区吉田神楽岡町の西。今の京都大学キャンパスを貫通する辺り。

「紅梅裏(こうはいうら)」(こうばいうら)は紅梅色(紫がかった紅色)で仕立てた裏地。

「高家(かうけ)」大名に準ずる高い身分の家柄。

「なにはにつけても」「何はに付けても」。あれにつけ、これにつけ。何ごとにも。何かにつけても。

「なべてならず」「並べてならず」。並一通りでない。なみなみでない。特に「立派である・すぐれている」などと評価して言う場合に用いる。

「白玉(しらたま)」宝石の白玉(はくぎょく)。真珠を指す場合もある。

「田中《たなか》」左京区西部の高野川下流の東岸(左岸)一帯。地図を見れば、現在も「田中」を含んだ町名が多数見られる。喜平次は帰途を逆行して送っている。

「つぎつぎしく」推定される身分と家居に極めて「似つかわしい・相応しい・調和がとれている・しっくりしている」の意。

「世にある人」相応に世間に知られた高家にして富裕な御仁。

の住かと見えたり。

「玄館(げんくわん)」玄関の意であるが、この漢字表記にしたのは、それが優れて大きいことを指すか。「新日本古典文学大系」版脚注では、『客人』を迎えるために豪華に仕立てた「まれ人」「まれびと」客人の意があるが、ここは「特に大切なお客人」の意。

「とても」「新日本古典文学大系」版脚注には、『またとない機会なので』と意訳されてある。

「天上」六道の三善道の我々のいる人間道の上にある天上道のこと。

「双六《すごろく》」「新日本古典文学大系」版は国立国会図書館本底本であるが、『すぐろく』とルビし、脚注で、『「すごろく」の古称』とする。

「心ありや」この姨に惹かれて、下心があるからか、で筆者が登場してナレーションしているのである。

「遊仙窟(いうせんくつ)」初唐に官人で名文家の張鷟(ちょうさく 六五八年~七三〇年:字(あざな)は文成)によって書かれたとされる本邦では非常に古くからよく知られ、よ人気の高い伝奇小説である。当該ウィキによれば、『作者と同名の「張文成」なる主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の崔十娘(さいじゅうじょう)、その兄嫁の五嫂(ごそう)らと情を交わし、一夜の歓を尽くすが、明け方』、『外のカラスが騒がしくなり』、『情事が中途半端に終わらせられる、というストーリーである』。『唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚存書となり、存在したという記録すら残っていない』。『後に魯迅によって日本から中国に再紹介され』るという、逆輸入型の珍本である。『文章は当時流行した駢文(四六文)によって書かれている』。『日本では』、『遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが』甚だ『流行した。例えば、奈良時代の山上憶良は』、「万葉集」に、「遊仙窟に曰く、『九泉下の人は一錢にだに直(あたひ)せず』と『記して』おり、また、「万葉集」巻第四の大伴家持による国歌大観番号七四一・七四二・七四四番の相聞歌でも「遊仙窟」の『中の句を踏まえて』詠んでいる。『また、松尾芭蕉の』発句「つね憎き烏も雪の朝哉」や、『高杉晋作の都々逸』の「三千世界の烏を殺し 主(ぬし)と朝寢がしてみたい」、『更にそれを踏まえた落語「三枚起請」も』、本書で『情事を邪魔したカラスを踏まえたものである』とある。

「張文潛」上記の通り、張文成の誤り。

「十郞娘」同前で、正しくは崔十娘。但し、中国では男女を問わず、生まれ順に「郞」を用いるので、決定的な誤りとは言えない。

「なつかしくて」心惹かれて。

「沈香(ぢんかう)」「伽婢子卷之八 長鬚國」の私の同注を参照されたい。

「五兩」百八十七・五グラム。

「かうがい」「笄」。ここは結髪に刺す「髪搔き」のそれではなく、「三所物(みところもの)」と呼ばれた日本刀(大刀)の付属品の一つで、鍔のところを支えとして鞘の両側に挿し込んでおき、手投げの小刀(実際の髪搔きにも用いた)等として用いたものを指す。持ち手のところを螺鈿などで装飾したものもあり、相応に高価な美品物もあった。

「かたくづれなる」「片崩れなる」山の一方が崩れて土がむき出しになっている。

「茅(つばな)」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の異名。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ(当該ウィキに拠る)。

「さしもなき」何というものでもないただの。

『初め、女性の道を踏み迷ひしを、安達、馬より下りて、後(しり)につきて行《ゆく》かと見えて、影もなく失せにしかば、中間・小者ばら、たづねめぐり、「只、こゝもとにて見失ひぬ。」とて、あまりに尋《たづね》わびて』喜平次が、中間や小者が見えなくなったことに全く気づいていないところから、既に完膚なきまでに狐の化かしに遭っていたことが、ここで明白になる。

「神樂岡のうしろ」吉田神楽岡町内にある吉田山(グーグル・マップ・データ航空写真)の麓と思われる。]

高島光司「撒水」

 

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高島光司「撒水」 
昭和12(1937)年6月23日 午後2時 撮影

安藤健二氏の『「打ち水する女性」勢いあふれる白黒写真、撮影者不明とされていたが、実は...』に詳しい。撮影者の漢字表記や撮影データは、ROYCE 氏のブログ「羅馬チェロ」の「バケツで水を撒く写真をよく見ると・・・」の本写真(下)の左キャプションに詳しい。

この写真は、外国の方々(上のものもそうした中のサイズの大きい鮮明度の高い一枚)によって「撮影者不明」とし、さらに撮影年も敗戦後の誤ったクレジットで蔓延しているので、ここで、正しいデータで示すこととした。

2021/09/05

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 神童石河爲藏詠歌の事

 

[やぶちゃん注:段落を成形し、和歌も句で切った。発表者は文宝堂。]

 

   ○神童石河爲藏詠歌の事

 遠江國佐野郡山口莊伊達方村[やぶちゃん注:現在の静岡県掛川市伊達方(だてがた:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]鄕士、石河惣太夫、伜、爲藏、寬政三亥年[やぶちゃん注:一七九一年。]の出生にて、六歲になりける、とら[やぶちゃん注:おかしい。数え六歳なら、寛政八年で丙辰である。寛政六年甲寅と誤ったものだろう。]の九月比、同所掛川連雀町[やぶちゃん注:静岡県掛川市連雀。]溫飩[やぶちゃん注:ママ。「饂飩」の誤字か誤植。]屋金八方へ、父惣太夫同道して行きける時、あるじ金八、かねて聞き及びたる事故、爲藏に歌を望みけるに、折しも、庭の菊、さかりなりければ、

 秋ふかき

   庭のまがきに

        色そへて

     咲きそむるらん

         露の白菊

かく詠じけるを、遠近の人々、聞き傳へ、

「六才の童子の詠歌なり。」

とて、扇などにしるし、もてあそびける。

 掛川城内にきこえて、其冬、父惣太夫に、

「伜、爲藏、召し巡れ罷り出づべし。」

と仰せ下されければ、卽刻、兩人共、罷り出でける時、御城代太田外記殿、河野十郞左衞門殿、その外、家老衆、列座にて、子細御聞糺しの後、題を出だされける。其題、

「霜夜月」

  やまのはの

    柏あらはに

      おく霜の

     影もさえゆく

         冬の夜の月

「浦千鳥」

  ゆきかへりしは

    島つれて

      友ちとり

     聲も高けれ

         すまのうら波

「野 雪」

  空さむみ

    ふりまさるらん

      しら雪の

     つもりうつれる

         冬の夕くれ

「友千鳥」

  風さそふ

    音ぞさみしき

      夕くれに

     友よびつれて

         千鳥なくなり

右の四首を卽詠しければ、則、書寫して、太田備中守資愛殿へ差し上げたるよし。

 其比、家老衆より、戀の歌を望み申されければ、

「戀の歌は、よめ申さず。」

と、爲藏、申し上げたるよし。

 その夜、父に負はれて歸るさ、月の出づるを見て、

 玉ぼこの

   道のひかりを

    さしそへて

      霜にさえゆく

         冬の夜の月

右、「田舍にはめづらしく存候間、寫、御目にかけ申候。」

と、遠州掛川宿匂坂屋彥兵衞といふ者よりの文通に、いひこしたるを、こゝにしるす。

[やぶちゃん注:以下、和歌までは、底本では、全体が一字下げで、「かく詠じければ、速に消滅したり、となん。」は行頭からだが、これは底本編者の字下げ忘れであろう。]

 書名をわすれたり。何やらの中に、南殿の庭中に、夜のまに、「すまひ草」の生ひ出でければ、

「公卿達、いづれも、詠歌有るべし。」

と、ありし時、紫式部、六歲の時、

 けふばかり

   まけてもくれよ

    すまひ草

      とる手もしらぬ

          むつ子なりけり

かく詠じければ、速に消滅したり、となん。

[やぶちゃん注:「すまひ草」辞書にはスミレ・オグルマ・オヒシバなどと出るが、私はこれ、実際に草相撲がとれるシソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica のこととりたい。でなくては、この歌の面白さが生きてこないからである。但し、「紫式部、六歲の時」の詠歌というのは、後で馬琴も言っているが、如何にも語句が近世っぽく、後代の真っ赤な偽物であろう。

 以下は底本では、「天才奇童といふべし。」まで全体が一字下げ。]

 これは雲の上にそだちて、後は、かの物語をもつくれる程の才女といひ、ことに和歌などは、常に耳ばさみがちなれば、かくもあらん。爲藏は、鄙に生れて、誰、敎ふる者もあるまじく、實に天才奇童といふべし。

[やぶちゃん注:以下、馬琴の附記だが、底本では全体が二字下げ。]

 著作堂云、この爲藏が事は、予も、はやく聞きしなり。この兒、人となりては、石川方救と名のりて、和學をせるものながら、其幼かりし時に比ぶれば、才の、やうやく、劣りやしけん、其よめる歌は、さらなり、その名も、都下には聞えずなりぬ。

[やぶちゃん注:「石川方救」石川依平(よりへい 寛政三(一七九一)年~安政六(一八五九)年)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここに、和歌短冊があるぜ! 馬琴よ、彼は決して捨てたもんじゃ、なかったってことよ!

 淸水濱臣が旅の打聞にいはく、「小時了々大未必佳」と、いひおきけんやふに[やぶちゃん注:ママ。]、をさなき程のかしこさは、おとなになりて、さばかり、ならぬものにて、「大かた、幼なき程のかしこさは、痾症のわざなり。」と、あるはかせのいはれしは、さる事なるべし。

[やぶちゃん注:「淸水濱臣(しみずはまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)は江戸後期の医師・歌人・国学者。本姓は藤原。当該ウィキによれば、『武蔵国江戸飯田町の医者清水道円の子として生まれる。早くに父を亡くす。その後』、十七『歳にして江戸の和歌の大家である村田春海の門下生となり、歌を学ぶ。上野に居を構えて』、『家業を継ぎ』、『医者となるも、古学の研究も続けた。多くの著作を手がけ、国学者として著名となる。多くの門人を持ち、幅広く交流を持ったため、人脈も広かった』。四十九『歳で没した』とある。

「小時了々大未二必佳一」「小時(しやうじ)、了々たるも、大きになりては、未だ必ずしも佳(か)ならず。」か。]

 おのれがしれる人にも、荻野某は、八つになりけるとし、つごもりの夜に、月のかたちの、空に見えけるを、人々、あやしがりしに、

「是は、水氣なり。」

といひしが、げに、雨となりしより、人々、

「奇童。」

と、たゝへて、

「おひさき、世のすぐれ人となりなまし。」

と、かたりあひしも、今、猶、「かいなで」の物しりなり。

[やぶちゃん注:「かいなで」「搔い撫で」の「かきなで」の音変化で、「表面を撫でただけで、物の奥深いところを知らないこと」を言う。「通り一遍」に同じ。]

 こたび、東路をのぼるとて、遠江國新坂[やぶちゃん注:恐らく静岡県掛川市日坂(にっさか)の誤記である。伊達方の東北直近である。]の、すく[やぶちゃん注:「すぐ」か。]、つゞき、伊達方村なる石川方救に、はじめて、たいめんしたるに、是は、

「いつゝのよはひより、冷泉中納言爲泰卿の御弟子となりて、歌、よむ。」

とて、「東路の奇童」といへりしも、物がたりして、こゝろむれば、

「栗田土滿にまなび、今は夏目甕滿に、とひきゝて、なべての古書まなびする人なり云々。」

と、いへり。これらみな、經驗の言ぞかし。

[やぶちゃん注:「冷泉中納言爲泰」(享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年) は公卿で歌人。上冷泉家。宝暦一〇(一七六〇)年、従三位となり、後正二位・権大納言兼民部卿。門人に「兎園会」会員の屋代弘賢がいる。

「栗田土滿」(くりたひじまろ 元文二(一七三七)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。遠江国城飼郡平尾村(現在の静岡県菊川市中内田)にて広幡八幡宮(現在の平尾八幡宮)の神主の子として生まれた。明和四(一七六七)年、江戸で賀茂真淵の門下となり、国学を本格的に学び始めた。真淵の死後は、伊勢国を経て、本居宣長の薫陶を受けた。また、寛政二(一七九〇)年、故郷である平尾村に学舎を創設し、「岡廼舎」「岡の屋」と呼称された。ここを拠点に研究を行うとともに、国学や和歌を講じ、ここから多くの優れた歌人を輩出した。栗田は「日本書紀」の解説本など、多くの著書がある。

「夏目甕滿」国学者で歌人の夏目甕麿(みかまろ 安永二(一七七三)年~文政五(一八二二)年)の誤字。遠江国浜名郡白須賀(現在の静岡県湖西(こさい)市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。名は英積。本居宣長の門人。著書に「国懸社考」、家集に「志乃夫集」などがある。司馬江漢とも交友があったという。

「經驗の言」(げん)「ぞかし」「ただ、嘗て、ちょっと教わったことがあるというだけのことなのであるよ。」の意であろう。]

 又、奇童も、あまりにほめ過ぐれば、後にかたはらいたき事、多かり。この條にしるされし紫式部は、小式部内侍を、覺え、ひがめたるにはあらぬか。小式部の、いと、はやくより、奇才ありしよしは、ふるくものにも見えたり。そは、とまれ、かくまれ、「すまひ草」の歌などは、當吟の歌の、くちさきをよくもしらぬものゝ、つくりまうけし小說なるべし。

[やぶちゃん注:冒頭、馬琴は必ずや、若い山崎美成を念頭に置いて嫌味を言っているという気がする。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 定吉稻荷 稻荷正一位

 

[やぶちゃん注:だらだらと長いので、段落を成形し、標題提示のある前は一行空けた。以下の話は「国立公文書館デジタルアーカイブ」で、「定吉稻荷」の発表者である輪池こと屋代弘賢の「弘賢随筆」の当該話が写本で読める。

 

   ○定吉稻荷

 ことし【文政八[やぶちゃん注:一八二五年。]。】四月四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦五月二十五日。]、神田明神境内、隨身門[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の外、東の方に小祠を建て、「定吉稻荷大明神」[やぶちゃん注:最後まで読むと判るが、この当時に破却されてしまい、存在しない。]と題せし幟、あまたゝてたり。

 其緣起をとへば、

「いと不思議なる事どもなり。

『神主柴崎の家事を、講中の者、より合ひて、經濟せん。』

とて、境内の『伊勢嘉』といふ茶屋に集まる事有りしに、永富町[やぶちゃん注:現在の千代田区内神田二丁目・三丁目附近。]釘屋淸左衞門方に會せり。其つれ來りし年季もの、定吉、年十四歲なるに、供待[やぶちゃん注:「ともまち」。供人が主人の訪問した家の門口などで、その帰りを待つこと。]の内に居眠りしける間に、狐付きて、座敷に出で、主人に向ひ、

『淸左衞門。』

と、よびかく。

『こは、何ごとぞ。』

といへば、

『われは明神の門を守る野狐なり。其方共に云ひきかすべき事ありて、定吉につきたり。其故は其方共、神主の家事を親切に世話いたす段、奇特なり。然るに、その筋の還合[やぶちゃん注:「まはしあひ」か。「仕回し」の意か。]、某[やぶちゃん注:「それがし」。]には、不正なるものなれば、事、行ふまじ。某は正しきものなれば、向後は、その人に應對すべし。此事、「とくより、云ひきかさん。」とおもひしかども、折を得ず、今日に至れり。講中にとりても、淸左衞門は、わけて正直なるゆゑ、かく、告ぐる所なり。』

といふ。事はてゝ、家につれ歸りても、狐、放れず、さまざまの事を、いひける。就中、尤奇たりしは、

『野島屋敷の某は、十年ばかりさきつころ、水に溺れし事、あり。いと危かりしが、明神の仰にて、我、行きて、助けたり。その者、不動尊をも信ずるにより、「不動の加護にて助かりし」と覺えをるなり。さ、おぼえ居たりとて、御咎もなし。神さまは、おほやうなるものなり。』[やぶちゃん注:「野島屋敷」材木御用達蔦屋新左衛門の拝領屋敷。所持する切絵図で確認出来た。現在のJR神田駅附近にあった。]

と、いひしとぞ。この水に溺れしことは、當人、深く祕して、家族にも語らざりし事なり。この類のこと、あまた有りし故、人信ずること、たぐひなし。さて、

『明神の境内に祠を建てくれよ。さあれば、われ位を得るなり。』

と云ふ。

『さらば、門内に建つべし。』

といへば、

『いな。我は外を守る故なり。門外に建てくれよ。』

と云ふによりて、今の地を占めし。」

と、いへり。七日の夜、

『われは、こよひ歸るべし。』

と云ふ。その比、稻葉丹後守醫者河原林春塘、來りて[やぶちゃん注:「慶應義塾大學醫學部富士川文庫122」の「江戸今世医家人名録 初編」(櫟涯・得齋輯/文政二年十二月(一八二〇年)兩塾蔵版・PDF)の18コマ目に内科・産科医として『淀。神田蝋燭丁 河原林春塘』の名を確認出来た。ネットを調べると、結構、文人との交流がある医師である。]、

『わが思ひたつ事、有り。此事、心の如く成就すべしや、問ひ決せん。』

といふ。諸人尊敬する事、神佛のごとし。然るに春塘は、禽獸のあひしらひゆゑ、それをあかぬ事に思ひしにや、答にも及ばず。春塘云、

『其方は神通を得たりときけば、わが心中のことは、いはずともしるべし。さつして成否を、ことわれ。「いな」、いふまじ。その方は、「我身のことにも、あらぬ人のことに勞する馬鹿者なり。」といふ。曰く、人の道に義といふこと、有り。その人の爲に、身をわするゝ事も、有り。しかるに、その一の否を、ことわることも得せざるは、さすがは、禽獸なり。』

と、なじる。狐いふ、

『わがしる人にもあらず。いかでか敎ふる事の有るべき。』

塘云、

『いかさま、犬や猫には、しりたるもあれど、狐には、見しりたるも、なし。たとひ神通を得たりとも、祠をたつるも、人にたのまねばならず、正一位をさづかればとても、人がねがはねば、給はらず。されば、人ほど尊きものはなきに、いかで、人のとふことを、ひとことだにも、こたへざるや。』

など、あらがふほどに、講中、きのどくに思ひて、

『はや、かへり給へ。こよひは、稻荷も、かへらせ給ふ約あり。夜の、更に、ふけゆくは。』

とて、稻荷にも、さまざま、わぶれば、

『さらば、春塘は木村定次郞が方へ行くべし。跡より、告やるべし。』

といふにぞ、定次郞が家に至りて、まつに、時うつれども、何の音信も、なし。

『定次郞に問ひてたべ。』

といふ。下男を遣して問ふに、定次郞自身、來りて、

『願もせよ、下男を遣すこと、無禮なり。』

とて、ますます、いかる。講中、とかくこしらへつゝ、やうやうなだめて、

『さらば、此書を春塘につかはせ。』

とて、判紙をさきて、五言四句を書す。

『是を見ば、自ら會得すべし。』

と云ふ。

「盤中黑白子 一著要先機 天龍降井澤 洗出舊根碁」

すなはち、講中、とりて傳へたり。

『さらば、歸るなり。』

といへば、定吉は臥して、得もしらず、寢たり。翌日、夕七時頃[やぶちゃん注:「ゆふななつどき」。不定時法で午後四時半頃。]、出でゝ、例のごとく、みせに出、釘を直しをるを見れば、何とやらん、疲れたる體なり。

『いかゞせしか。』

とゝヘば、

『かはることもなし。』

と、こたふ。

『ひもじくは、あらずや。』

といへば、

『ひもじくさふらふ。』

といふ。

『さらば。』

とて、食事させければ、

『殊の外に、ねぶたし。』

といふ。

『わが心のまゝに、ねよ。』

とて、ねさせしに、夜中おき出でゝ、

『我は、一たん、歸りたれども、又、來りたり。野島屋敷の某を、よべ。』

といふ。むかへきたれば、

『さきに、言ひもらしゝ事、有り。』

とて、何ごとならん、さゝやきてのち、

『又、かへるなり。』

と、いひけるにぞ。定吉は常の樣になりぬ。このこと、十五日の夜、春塘にしたしく聞きて、その書をも換せしなり。さらに、うきたる事にあらず。かの詩は、觀音籤の「第四十四籤」なり。」。

[やぶちゃん注:「盤中黑白子 一著要先機 天龍降井澤 洗出舊根碁」「おみくじ」の文句。但し、「井」は「甘」の、「碁」は「基」の誤字或いは誤植である。読みたくもないが(私は「おみくじ」なるものを引いたのは、記憶では、小学生の時に、二、三度あるばかりである)、「盤中(はんちゆう)黑白子(こくびやくし)/一著(いつちよ) 機を先んずるを要す/天龍 甘澤(せいたく)を降らし/舊根(きうこん)の基(もとゐ)を洗出(せんしゆつ)せん」(別な読み方もあるようだ)。サイト「おみくじガイド」のこちらには、『碁盤の上の黒石と白石。勝負は一手ごとに先手を打って、相手を制していかなければならない。そうすれば天は恵みの雨を降らせ、草木の古い根を洗い出すように今までの汚れが一掃されて運が開けるだろう。』とあった。「吉」だそうだ。リンク先には現代の本物の当該籖の画像もある。

「觀音籤」番号の書かれた百本乃至は百三十本の籤を、観音の前で引いて吉凶を占うもの。元は中国発祥で、本邦の各所で用いられているものは、元三(がんさん)大師良源が作ったとされる。「観音占い」とも呼ぶ。

 以下は底本でも改行されてある。]

 美成日、

「予が抱屋敷、小船町[やぶちゃん注:東京都中央区日本橋小舟町。現在の同町内には旧天王社(牛頭天王(古代インドの祇園精舎の守護神。本邦では主に悪疫を防ぐ神とされる)及び素戔嗚命を祭神とする祇園信仰の神社)らしきものは見当たらない。]に在り。その所の家守、勘七、來りて、いひけらく、

『町内にて崇奉する天王の寶物に、去年、戶帳[やぶちゃん注:「とちやう」。神仏の厨子の上などに垂らす小さな帳(とばり)。]を納めしに、日あらずして、

「ぬすまれたり。」

とて、告げ來る。

「ふたゝび、調はすべし。」

など、いひあへるほどに、

「失せぬる戶帳、出でたり。」

といふ。

「いかゞしたるさまにか。」

とゝへば、

「紛失せし後、深夜に本社のほとりを見めぐりければ、隨身門の内に、白き物をまとひて、臥し居る人、有り。あやしさに立ちよりたれば、その人、おどろきて、逃げ出でたり。かのしろきものは、戶帳をうらがへして在りし。」

なり。そのかたはらに、『かな網』もあり。是も、ともに、ぬすみしものなり。」

と、こたへき。

 さて、この比、定吉につきし狐の、

「われは、明神の社地に來りて、七十年を、へたり。子、八疋有り。もとは末廣稻荷[やぶちゃん注:神田明神裏にある末広稲荷神社か。]の社の下に住みけり。正一位になられしより、そこを出でゝ、小船町の天王の、みこし藏の下に、うつりたり。されば、かの戶帳・「かなあみ」も、わがてだてにて、もどせしなり。」

といふ。又、曰、

「天王のみこしに、おほひをして、うすくらき内に置く、よからぬことなり。みこしは人の乘物のゝごとし。常に鎭座有るべきやうなし。それゆゑ、常は、こゝには、おはせず。されど、町々をわたらせ給ふ時は御出あるなり。よりて、常に鎭座ある樣に、社を建てよかし。」

又、曰、

「『御膳講』といひて、年中、とり集むる物は、社家の德分のみ。さらに本社のためにならねば、今より後、止めよ。』[やぶちゃん注:「御膳講」不詳。神饌や玉串の供儀のことか。]

といふにより、この月より、廢せしとぞ。

 或人、十四日に、かの稻荷に詣でければ、あまたたてならべしのぼり、數、すくなくなりぬ。

「こは、いかに。」

と、かたへの人にとひければ、社家のいはく、

「きのふ、或人、來りて白刄にて、きりさきたり。『富[やぶちゃん注:富籤。]の願をかけしに、あたらざりければなり。恨をはらすなり。』と言ひける。さての夜[やぶちゃん注:底本に編者注で『そ脱カ』とある。]、「俄に、心ち、そこなひて、くるしむこと、たとヘんかた、なし。これ、いなりの罰ならん。わびして給へ。」とて、今日、たのみ來りたり。』

とぞ。

 乙酉五朔            翰 池

 

   ○定吉稻荷 尾

 神田明神の神は、柴崎大隅[やぶちゃん注:前に出た神田明神の神主。大隅守であったのであろう。]、寺社奉行松平伯耆守へ呼び出だされ【乙酉五月三日の事とぞ。】[やぶちゃん注:「松平伯耆守」文政八(一八二五)年当時の寺社奉行で松平姓を名乗る伯耆守は、松平(本庄)宗発(むねあきら 天明二(一七八二)年~天保一一(一八四〇)年))である。丹後国宮津藩第五代藩主で本庄松平家第八代。後に老中となった。]、

「新規勸請の稻荷祠、すみやかに、こぼち候へ。」

と申し渡されたり。柴崎大隅、かしこまり申して、

「さて、かのいなり、はじめは町家にて、家の内に祭りおきしを、『俗家にては、崇敬もとゞかざれば、境内に移したき。』志願にまかせ、建てし所の祠なれば、新規勸請被申にも、あらず、されば、許容を仰ぐ所なり。」

と、こふ。

「いな。その陳狀、うけがたし。すみやかに、こぼつべし。」

と、なり。大隅、又、申さく、

「私の建立にあらず、願主有之、建てし所なれば、せめて、境内に元よりあがめつるいなりにあはせまつらんことは、いかゞ候はん。」

と、こふ。

「それも、許されがたし。大社の神主に似合はざる申事。」

とて、いよいよ、しからせられしうへに、

「今日の内に毀つべし。あすの四時[やぶちゃん注:午前十時頃。]には檢使をつかはす。」

と有りければ、五月四日に、俄に、こぼちけるとぞ。

 その日、黃昏に、その跡を見しに、社の所を、土をほりて、こぼちし材を燒きすてけるさまなり。

 

   ○稻荷正一位

「定吉稻荷、正一位を願ひ、吉田家の許狀、五月中には下るべし。」

と、いへり。[やぶちゃん注:「吉田家」室町時代の京都吉田神社の神職吉田兼倶(かねとも)によって大成された神道の一流派「吉田神道」は、徳川幕府が寛文五(一六六五)年に制定した「諸社禰宜神主法度」によって「神道本所」に指定され、全国の神社・神職を、その支配下に置いていた。]

 それにつきて、思ひ出でしこと、有り。

 京師梅宮神主、橋本肥後守橘經亮曰、

「いなりに正一位といふ事、更に跡なき事なり。櫻町院御宇[やぶちゃん注:(在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年まで。]、吉田家ヘ御尋ね有りけるは、

『稻荷山にだに、正一位、授け給ひし事は、あらず。いかなれば、その他の小社に、正一位をゆるすや。』

と。この御こたへに、つまりて、

『其ゆゑよし、俄にしれがたし。搜索の間、日延[やぶちゃん注:「ひのべ」。]をねがふ所なり。』

と申して、今に御こたへ申さず。」

と、いへり。

 安永・天明の頃にて有りし。吉田家、參向ありて傳奏屋敷にあられし時、傳奏留守居羽田氏の人、夜每に昵近せしが、ある時、問申しゝは、

「稻荷の正一位、本社になき事を、人の言にまかせて、こゝら、授け給ふは、いかなることにや。」

と申しゝかば、

「左やうのことを、とはれては、迷惑せしむる事なり。何事も、てゝのたねじや。」[やぶちゃん注:「てゝのたね」「父の種」? 意味不明。]

によつて、平田大角曰、

「『稻荷山に、正一位を授けさせ給ふ事、なし。』といふは、こゝろえぬことなり。その故は、いにしへ、三位を授け給ひし後、日本國中の神社、おしなべて、一階を昇せ給ひし事、宇多天皇御時[やぶちゃん注:在位は仁和三(八八七)年から寛平九(八九七)年まで。]より、すべて、四ケ度、有り。されば、とくに正一位にておはすことなり。さるゆゑをば、いかで御答申されざりけん。」。

                  輪 池

[やぶちゃん注:最後の部分の直接話法の分離は自信がない。

「京師梅宮」、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある梅宮大社(うめのみやたいしゃ)。四姓(源・平・藤・橘)の一つである「橘氏」の氏神として知られる。

「橋本肥後守橘經亮」橋本経亮(はしもとつねすけ/つねあきら 宝暦五(一七五五)年月~文化二(一八〇五)年(生没年には異説あり))は有職故実家。本姓は橘。肥後守。父の後を継いで梅宮大社の神官を勤め、また、宮中に出仕して非蔵人となった。本居宣長の友人で、上田秋成や伴蒿蹊とも親交があった。

「平田大角」(だいかく)は国学者・神道家平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の号。]

 

 文政八年五月四日、定吉稻荷の禿倉[やぶちゃん注:「ほこら」。]を破却せらる。此日、寺社奉行より、役人、來て云々に、はからはせし、といふ。つまびらかなる事は、猶、よく聞きたらん日に、しるすべし。但し、この事、前條に追書せられたれど、なほ、具はらず[やぶちゃん注:「そなはらず」。納得出来るような内容を持っておらず。]、風聞は、さまざまなれども、みな、たしかならぬ事のみにこそ。

             著 作 堂 識

2021/09/04

芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり やつと小說らしいものを一つ書いた 今日は植木屋がはひつて刈りこみをしてゐる 體力稍恢復したれども腎氣乏し 奧さんお大事に

   秋の日や疊干したる町のうら

    九月二日           龍

   犀   君

二伸 唯今也寸志鵠沼にて寢冷發熱中、田端にては多加志腹をこわし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし。

 

[やぶちゃん注:「やつと小說らしいものを一つ書いた」果してこの表現がしっくりくるかどうかは別として、最も可能性があるのは、新全集の宮坂年譜でこの七日後の九日に『一応脱稿』とし、しかし、後の十五日頃に『再び推敲』したとある、翌十月一日発行の『改造』に載った私の偏愛する自伝的小品「點鬼簿」である(リンク先は私の古層の電子化)。彼が、この作品には推敲に推敲を重ねたことは、その出来上がりの素晴らしさからも確かなことで、日を挟みつつ、半月以上を要したことは腑に落ちるのである(後の書簡を参照)。筑摩全集類聚版脚注も、同作としている。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・中根駒十郞宛

 

冠省。まだ佐藤君の所へ行かないならば、裝幀をたのむことは見合せて頂きます。どうも餘り勝手がましいし、もう一つは小穴君も今は多少の金でも必要ではないかと思ひますから。どうか佐藤君には西洋封筒の手紙だけ渡して下さい。それから又お次手によろしく言つて下さい。

    九月二日        芥川龍之介

   中根駒十郞樣

二伸 隨筆集の題は「梅・馬・鶯」とすることにしました。

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、「佐藤」は佐藤春夫で、当初、次回発刊予定の随筆集(ここで書名を「梅・馬・鶯」に決めたことを新潮社の支配人である中根に知らせた。発行はこの年の十二月二十五日)の装幀は当初、作家仲間の佐藤春夫に依頼して呉れるように中根に頼んでいたものらしい。しかし、この頃、『生活費に窮していた小穴隆一に』援助のため、ここで佐藤のところに依頼に行っていないのであれば、『変更してもらえるよう依頼した』ものである。

「西洋封筒の手紙」内容不詳。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・土屋文明宛

 

朶雲奉誦。あの大家の婆さんは僕の所へ來て三十分も辯じて行つたよし、君もなやまされたらうと思つて大いに同情した。近々にぜひ來ないか。君が來ると、近々隨筆集を出すにつき、その中に入れる歌の甄別をして貰ふ。僕はあひかはらず元氣なく不愉快に暮らしてゐる。頓首

    九月十日       芥川龍之介

   土 屋 文 明 樣

 

[やぶちゃん注:「大家の婆さん」不詳なので、この一文は意味がよく判らない。

「甄別」「けんべつ」と読む。「甄」は「見分けたり、明らかにしたりすること」の意で、「明確に見分けること・よく調べて区別すること」を指す。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

冠省、東京へちよつとかへつてゐた爲、返事が遲れて相すまない。桂井さんに御願ひしたのは七もと櫻にあらず、黑猫と云ふのだつた。こちらはまだ中々暑し。この頃は弟の一家も來てゐる。小穴君も來てゐる。避暑客はもう大がい引き上げた。この間の句は二句とも捨てた(松風に、花はちす) 頓首

    九月十日       芥川龍之介

   室 生 照 道 樣

 

[やぶちゃん注:「桂井さん」桂井未翁(慶応四・明治元(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)は俳人。これは俳号で、本名は健之助。金沢生まれ。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年五月に金沢に室生犀星を訪ねた際に兼六園に滞在したが、それは桂井の世話によるものであった、と新全集の「人名解説索引」にある。

「七もと櫻」筑摩全集類聚版脚注に、『泉鏡花の小説。明治三十』(一八九七)『年新著月刊所収』とある。怪奇趣向を入れ込んだ変わった世話物である。

「黑猫」筑摩全集類聚版脚注に、『明治二十八年』の七月から八月の『北国新聞』に連載した『鏡花の小説、何れも「鏡花全集」編纂の用事』とある。怪談物歌舞伎のような作品であるが、現在の「鏡花全集」(私は所持している)でも、一部に欠落があり、完本は存在しない。大正十四年から、鏡花存命中の全集となる春陽堂版「鏡花全集」の刊行が始まっており、鏡花を敬愛した芥川龍之介は、その編集委員を務めた。その「鏡花全集」の最終配本は、まさに昭和二年七月で、それを見届けるように、龍之介は自らの命を絶ったのであった。

「弟」異母弟新原得二。母フユとともにこの月の上旬に移住してきた。それでなくても周囲が物理的に騒々しいところに、我儘な得二(この頃は日蓮宗に入れ込んでいた)が来て、またしても龍之介は煩わされることとがさらに加わることとなってしまったのである。

「室生照道」(てるみち)は犀星の本名。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月十六日・消印十七日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月十六日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

尊翰度々ありがたう。その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。點鬼簿に數枚つけ加へて改造に出したれど、その數枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり。目下小穴君例の件もあり、ヴアイオリンの家へ住んでゐる。これは感謝すれど、弟も亦あとから一家をあげて鵠沼へ來た。そこで鎌倉か逗子かへ移らんと思へど、家内ここを離れたがらず、移つては小穴君も困るだらうと思ひ逡巡決せず。多事、多難、多憂、蛇のやうに冬眠したい。御閑暇の節御光來を待つ。さもないと小生も東家へ義理が惡い。

     この頃一句

   据ゑ風呂に頸(くび)骨さする夜寒かな

    九月十六日          澄

   芸 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「小穴君例の件もあり」縁談話が進展しないために、ちょっとよく判らないが、東京にいて、龍之介とも逢えず、悶々とするのがいやだから、ということか。

「ヴアイオリンの家」芥川龍之介が借りている貸別荘の前の家。先行する書簡でその家から聴こえるヴァイオリンに閉口しているとあった。その借主が帰って、代わりに、小穴が入ったのである。『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』に、小穴の描いた面白い周辺図が載るので、是非、見られたい。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「鵠沼の芥川」に、『佐佐木茂索は芥川の死後「僕の澄江堂」の中で』、『このころのことを次のように記している』として、『「湯河原から一且帰京して又鵠沼へ赴いた。此時はまだ家を借りず、東家旅館に滞在してゐた。僕は東家[やぶちゃん注:引用原本にママ注記がある。「東屋旅館」が正しい。以下同じ。]へは以前から時々行つたので気易く、滞在中にはよく仕事かた』がた『訪ねて行つた。朝起きるのは別々だが、昼と夜とはどちらかの部屋で一緒に食事をし、病気の話と仕事の話を半分半分にして暮した。この頃『点鬼簿』の原稿を見せて『どうだらう、これを発表してもいいかしら』といふ風な事を訊ねた。身近かの者が取扱つてあるので、さういふ事が酷く気に病める様であつた。ずつと以前構想して其儘になつてゐる黒ん坊と織田信長が出て来る戯曲に再び手をつけたのも此処でである。少し書けると僕の部屋へ見せに来て、どうだいと訊いた。どの一枚を見ても、恐ろしく簡潔を極めたものだつたから、僕はもつと贅肉を入れた方がよくはないかと云ふ様な事を答へた。すると次には必ず書き直して来てこれでどうだと云つた。これは到頭仕上がらなかつた。未完成のまゝ『全集別巻』に収まることになつてゐるが」』とある。当時の芥川龍之介、及び名篇「點鬼簿」の逸話として、ここに引用させて貰った。「東家へ義理が惡い」というのも、本館から出て、しかも、普段は、本館へは出向かないから、佐佐木に来てもらって、せいぜい東屋旅館の方に泊まってもらえれば、旅館にとっても好都合ということであろう。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)

 

冠省御申越しの旨承知しました但「きりしとほろ」上人傳などはエスペラントになつてもなさり榮えがあるまいと存じますが 頓首

  九月二十二日 鵠沼にて 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「東宮豐達」既出既注

『「きりしとほろ」上人傳』既出既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・土屋文明宛(葉書)

 

拜復、當日お待ち仕る故遊びに來てくれ給へ。この頃大正十年頃の「アララギ」を見たら、「傾ける麓の原」の歌の原作が出てゐた。大分手を入れたね。匆々。

    九月二十二日夜    芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:『「傾ける麓の原」の歌』私は土屋文明の歌集を所持しないので不詳。私は、基本、短歌嫌いである。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十二日・消印二十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月二十二日夜 くげぬま 芥川龍之介

 

冠省、二三日前堀の辰ちやんが來て一晚とまつて行つた。その時君の御光來あるよし承つたが、僕は二十六日か七日かにちよつと上京するつもり。行きちがひになるといけない故、この手紙を差し上げることにした。けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる。屁の話のあとにて失禮だが

讀脣難は「亡びる」よりも感服。「女性」中の傑作かも知れない。頓首

 

    九月二十二日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「讀脣難」「どくしんなん」か。筑摩全集類聚版脚注に、『佐佐木茂索の小説。「女性」十月号に発表』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。

「亡びる」筑摩全集類聚版脚注に、『同右。「中央公論」九月号に発表』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年九月二十三日・鵠沼発信・麻生恒太郞宛(葉書)

 

冠省、高著頂戴いたしたよし、まだ東京から送つて來ませんが、落手し次第拜見したいと存じます、右とりあへず御禮まで 頓首

        鵠沼イの四號  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「麻生恒太郞」(明治三六(一九〇三)年~?)は詩人・小説家。詩集「風の中」( 昭和六(一九三一)年七月十日詩と人生社発行)や(ネット情報)、新全集の「人名解説索引」には、昭和二九(一九五四)年に、『麻生鋭の名前で』、『「世界メシヤ教」の物語である小説「光は大地に」を刊行している』とある。

 また、この下旬頃には、「イの四号」から、裏手にある二階家の貸家に転居している。

 なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、この九月下旬に鵠沼の芥川龍之介を訪ねた折りの「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)で、龍之介は「肉体の衰へは正視するのもいたはしい」ようだったとし、以下の引用を載せる(恒藤はパブリック・ドメイン)。『芥川の自殺した時から数へて十一ケ月ばかり前の大正十五年九月二十六日に私はサン・フランシスコで乗り組んだ郵船大洋丸から下船して、横浜に上陸した。それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川をたづねたが、三年振りに会つた彼の容貌は、三年まへの其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月がそのあひだに経過したやうな気がした(略)』(「略」は鷺氏によるもの)『元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのもいたはしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向おとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつたやうな調子で文壇のありさまなどを話して呉れた。しかしまた、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた』。『ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣をただよはしてゐて、昼食を共にしたりしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁(とど)め得なかつた』。『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』とある。鷺氏は最後に、『これが恒藤の芥川に会った最後であるが、のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという』と添えられてある。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 家相談 小野小町の辯 間違草の事

 

[やぶちゃん注:標題は「家相談」しかない。当該箇所に目録にある以上を、私が仮に《 》で標題して挟み、前を一行空けた。]

 

   ○家相談

近年我邦も亦、家相の學、行はれて、病難を救ひ、火難を免かれ、其術に心服する者、少からず、衆人の歸する所、其功、驗なきにも非ず。余、是を、ある人に聞けるに、日、「甞て、松永宗因、藥硏堀にて家宅を買ひ求めて移らんとす。其日、濱町會田七郞宅にて金蘭に邂逅して、家相の談に及び、其言に服し、其判斷を請ふ。金蘭、一見して、「家に死骨有り。此に住む者、必ず、病死。」之由、申す。宗因、畏愼て、其家に移らず、直に人に讓りけり。女隱居の、其家を買ひて移りたる者、一月餘にして、病死せり。其後、醫生有り、其家を買ひて此に住みけり。程なく、是も亦、病死せり。金蘭、又、久松町河岸へ行きて、其長屋の「病氣長屋」之由を申し、「聞直すべき」由、申す。然處、其言にも從はずして、後、果して如之。

[やぶちゃん注:「松永宗因」不詳。

「藥硏堀」既出既注であるが、再掲しておくと、両国の薬研堀(やげんぼり)。小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋二丁目の両国橋西詰の付近にあった堀。日本橋付近の米・竹・材木などの蔵に物資を運送する水路として利用されたが、御米蔵の築地移転後に一部を残して埋め立てられ、その一帯の地名として残った。踊子と呼ばれた女芸者が多く住んでいた。また、付近には堕胎専門の中条流の女医者も多かった』とある。切絵図を見ると、現在の中央区立日本橋中学校敷地内の同地区と接する部分に「薬研堀」の名残が認められるから、この中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北から南西にかけての位置が狭義の薬研堀のように思われる。

「金蘭」名前ではないだろう。「易経」の「繋辞上」に基づき、「非常に親密な交わり・非常に厚い友情」の意の一般名詞があるから、原拠からも、家相占いに縁があり、松永宗因の「盟友」の家相見の人物を指して言っているようである。

「聞直すべき」「その長屋に住むことを考えなおさねばならない」の意か。

 以下は、底本では「其餘略之」まで、全体が二字下げ。]

遠州屋久三郞家内、死絕して、奉公人を養子とす。今の久三郞、是也。妻、勞咳にて、老母、中風に相成、腰拔なり。手代、兩人有り。一人は病死し、一人は脚氣病に苦しむ。

大黑屋彌右衞門老母、手足之指、抅屈して不伸[やぶちゃん注:典型的なリューマチの症状である。]、二十年來、腰拔なり。俗呼、「達摩婆々」と云ふ。五年來之内、妻二人、不幸す。

大黑屋次郞右衞門祖父、二、三年前病死、其孫二人、傴疾[やぶちゃん注:「くしつ」。せむし。]なり。其父、亦、「脊むし」なり。

松阪屋某、其妻、向島にて變死し、手代一人、「かたり刑囚」[やぶちゃん注:詐欺の罪人。]と爲りて、死にけり。其餘略之。

[やぶちゃん注:以下、行頭に戻る。]

余、亦、米山[やぶちゃん注:家相見らしいが、不詳。]の遺書を受け、數々、其術を試みたるに、數々、しるしあり。近き頃、池之端仲町へ行き、南側書物屋某の家相を見、其家の、子なきを辯じ、日々、試に、家並、子なきを、相す。書物家某、曰く、「誠に御敎の如く、俗、呼[やぶちゃん注:「よんで」。]、此長屋を『子なし長屋』と申傳由、是、亦、奇中奇、暫く論じて、後の君子を待つ。」といふ。

 

  《○小野小町の事》

或云、「小野小町の事、『牛馬問』に委しく辯じ置けり。却て、小町を一人と思ふより、紛れたる說、多し。實方朝臣、陸奧へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でゝ、『秋風の吹くにつきてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけり』と有りし歌の小町は、小野の正澄の娘の小野の小町なり。康秀の三河椽[やぶちゃん注:「掾」の誤字か誤植。]と成りて下向の時、『佗びぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ』と詠みしは、髙雄國分の娘の小町なり。『思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを』の歌、又、出羽郡司小野良實が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸國玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異說ある而已。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたれば、ひとり名高く、凡て一人の樣、傳へ來るのみ。かゝる類、萬事に多し。暫く記して疑を存し、亦、以て、博雅君子に問ふ。

[やぶちゃん注:「牛馬問」(ぎうばもん(ぎゅうばもん))は江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年:名は祐登。白蛾は号)が、人からしばしば尋ねられる物事について、時にその問答形式でも記した(本条がそれ)考証随筆。宝暦五(一七七五)年刊。全四巻百十六条。「日本古典籍ビューア」のこちらで画像で当該部が見られる。それを見られると、この条は、それを種本としただけの杜撰な話であることが判る。それほど読み難くはないが、崩し字が苦手な方は、前の記事で紹介したサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学」のこちらで、現代語訳されてあるので、対照して読まれるのがよかろう。但し、高野大師のパートの「衰る日然歎猶深し」とあるのは、「衰(ヲトロウ)る日愁歎(シウタン)猶(ナヲ)深(フカ)し」の誤りである。

「實方朝臣」貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹(もろただ)の孫で、歌人として知られ、中古三十六歌仙の一人。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。なお、ここに出る話は、鴨長明の歌論書「無明抄」では、実方ではなく、在原業平(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)の体験として出る。私の「老媼茶話 事文類聚【後集二十】(小町伝説逍遙)」の本文と私の注を参照されたい。

「小野の正澄」私は不詳。

「康秀」文屋康秀(ふんやのやすひで ?~仁和元(八八五)年?)は、平安前期の官人・歌人。六歌仙の一人。「小倉百人一首」の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」が人口に膾炙する。当該ウィキによれば、『小野小町と親密だったといい、三河掾』(☜:みかわのじょう:国司の第三等官)『として同国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し』、『小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという』。後に「古今著聞集」や「十訓抄」といった『説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった』とある。

「髙雄國分」私は不詳。「たかをのくにわけ」と読むか。

「思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを」「古今和歌集」の巻第十二の「戀歌二」の巻頭に置かれた、知られた正真正銘の小野小町の一首(五五二番)、

    題しらず

 思ひつつ寢ればや人の見えつらむ

    夢と知りせば覺めざらましを

である。

「出羽郡司小野良實」名は「良眞」(読みは同じ「よしざね」)とも書くようである(以下の引用の(☜)参照)。生没年不詳で、平安時代の公卿ともされ、また、小野篁(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)の子ともされ、正真正銘の小野小町は彼の実子とする説もある。しかし、「尊卑分脈」に名前が載るものの、小野篁の孫にしては、小町の存命期と時代が合わず(小野小町の存命期は資料及び諸説を総合すると、生没年は概ね天長二(八二五)年から昌泰三(九〇〇)年頃と想定されている)、実は小野小町は小野篁自身の子であるという説もあるという。参照したウィキの「小野良真」には、『小野篁の息子である小野良真が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町である』とある。強力な個人サイト「小野小町」の「桐の木田城跡」(きりのきだじょうせき:秋田県湯沢市小野小町のここ。近くに史跡小町塚や寺院マークの小町堂もある。「小町堂」のサイド・パネルの写真群をリンクさせておく)に、『案内板によると』、『「ここは、出羽郡司小野良実』(☜)『の館のあったところで、福富の荘と言われていました。当時としては珍しい桐の木があったことから、桐の木田とも:云われるようになりました。この井戸は、小町が産湯を使った井戸とつたえられ保存されてきました。館跡に残ったこの井戸は、真上から見ると自然石が」五『角形に組まれており、こうした工法はこの地方では全く用いいれてておらず、このようなつくりは小町の年代に、都を中心に多く見られる形をしているとのことから』(昭和四七(一九七二)年に行われた大阪学院大学教授山本博氏の『鑑定によると』、『平安初期に創掘されたと認む)貴重な遺跡となっている』」(湯沢市の記名有り)『とあります』とあり、続けてサイト主により、『桐の木田城跡は井戸跡以外は遺構らしきものが周囲では見当たりませんでした。秋田県内で古代の城と言えば』、『秋田城や払田』(ほった)『の柵などが有名ですが、この地も多賀城(宮城県多賀城市)などの連絡路として街道が整備され、重要視されていたと考えられます。井戸が平安初期に創掘されたと鑑定されているので、ここに何らか』の『施設があった事は間違いないようです。城として分類するならば』、『平城ということになりますが』、『城のような掘りや土塁などを防衛装備した大規模なものではなく、政を司る施設といった規模のような気がします。雄勝郡には雄勝城が羽後町西馬音内(推定地)にある為、その出先機関といった処ではないでしょうか?』と述べられてある。

「高野大師」弘法大師空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)。本当の小野小町と逢ったとしたら、没したその年でも、小町は上記の上限値で見ても、数え十一の少女である。まあ、弘法大師は今も生きているとされるからね、逢っていてもおかしくはないけんどね。次注も必ず読まれたい。

「常陸國玉造義景」後の室町時代に成立した、老いさらばえた小野小町を主人公とした謡曲の老女物「関寺小町」と「卒塔婆小町」は、平安中期から後期に成立した「玉造小町壮衰書」(弘法大師筆とされるが、大師の高弟で師の文章を集めた「性霊集」(しょうりょうしゅう)を編した真済が原「玉造小町壮衰書」を作った可能性はある)に基づいたものであるが、実は「玉造小町壮衰書」の本文には「玉造小町」の名は出現せず、現存最古の奥書を持つ写本である鎌倉時代の承久元(一二一九)年本が標題を「玉造小町壯衰書」と称し、九条家旧蔵の東京大学国文研究室本は「玉造小町形衰記」となっていて、少なくともそれ以降、本書の主人公は「玉造小町」で、それが、ずっと、かの「小野小町」と誤認されて、読み換えられ、別の小野小町の盛衰流謫伝承と絡み合い、他の派生作品に正真正銘の有名な「小野小町」の哀れなる物語として、肥大・増殖されてきた経緯がある(同書の情報は所持する一九九四年岩波文庫刊の杤尾(とちお)武氏校注本の同書の解説を参照した)。しかし、昭和四四(一九六九)年七月発行の雑誌『あきた』の「小野小町物語」(電子化ページ。原雑誌のPDFも有る)によれば、実は、玉造小町は小野小町とは全く別人の常陸国行方郡(なめかたのこおり)のここに出る「玉造義景」(詳細事績不詳)の娘、或いは、青森外ケ浜の娼姉(姓ではなく遊女のことであろう)玉造の娘で、全くの別人であったものが、いつか、混同視されるようになったとある。

が娘の小町なり。かく一人ならざる異說ある而已。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたれば、ひとり名高く、凡て一人の樣、傳へ來るのみ。かゝる類、萬事に多し、暫く記して疑を存し、亦以て博雅君子に問ふ。]

 

  《○間違草の事》

奧州吉野の邊に、「まちがひ草」とて、草、有り。深き山谷に生じて、誤りて食すれば、當時、死を免るとも、一年の内、必ず、死す。此草、本草等にも不見。其味、甘して、根は「かな」の「よ」の字に似て、和草なり。根も實も、甚、似たり。□□□□なり。葉の形、定まらず、種々にて、四角も有り、丸きも有り、尖りたるもあり、三角もあり。細き、廣き花々、今年は、殊の外、美事に咲くといへども、來春は、みにくし。年々歲々不定草なり。可謂異性草。

 乙酉五月朔         中井乾齋誌

[やぶちゃん注:「間違草」全く不詳。この名を聴いたことも、古記録中に見たこともない。次の地名とともに識者の御教授を乞うものである。

「奧州吉野」特定不能。現在の町名では、青森県弘前市吉野町と、宮城県石巻市吉野町があり、旧村名では、山形県東置賜(ひがしおきたまぐん)郡吉野村(現在の南陽市の北端の吉野川上流域に相当する)があった。他にも字地名にもあろう。

「□□□□」ママ。底本の判読不能字である。

「年々歲々不定草なり。」「年々歲々、定まざる草なり。」。

「可謂異性草。」「異なる性(しやう)の草と謂ふべし。」。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 老狸の書畫譚餘

 

[やぶちゃん注:これは著作堂(馬琴)による好問堂山崎美成の前条「古狸の筆蹟」への附記。ベタでだらだら長いので、段落を成形した。]

 

   ○老狸の書畫譚餘

 下總香取の大貫村藤堂家の陣屋隷たる某甲の家に棲めりしといふ、ふる狸の一くだりは、予も、はやく聞きたることあり。當時、「その狸のありさまを見き。」といふ人のかたりしは、

「件の狸は、彼家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて、『しかじか』とこひねがへば、あるじ、そのこゝろを得て、紙筆に火を鑽りかけ[やぶちゃん注:「きりかけ」。時代劇のドラマでよく見る火打石で火花を起こすお祓い代わりの「切り火(び)」のこと。]、墨を筆にふくませて席上におくときは、しばらくしてその紙筆、おのづからに、閃き飛びて、天井の上に至り、又、しばらくして、のぼりて見れば、必、文字あり。或は鶴龜、或は松竹、一、二字づゝを大書して、『田ぬき百八歲』としるしゝが、その翌年に至りては『百九歲』と、かきてけり。是によりて、前年、『百八歲』は、そらごとならず。」

と、人みな、思ひける、となん。

 されば、狸は、天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと、常なり。又、同藩の人は、さらなり、近きわたりの里人の、日ごろ、親みて來るものどもは、そのかたちを見るも、ありけり。

 ある時、あるじ、戲れに、かの狸にうちむかひて、

「なんぢ、既に神通あり。この月の何日には、わが家に客をつどへん。その日に至らば、何事にまれ、おもしろからんわざをして見せよかし。」

といひにけり。かくて、其日になりしかば、あるじ、まらうどらに告げていはく、

「某、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]、戲れに、狸に云々と、いひしことあり。されば、けふのもてなしぐさには、只これのみと思へども、渠よくせんや、今さらに心もとなくこそ。」

といふ。人々、これをうち聞きて、

「そは、めづらしき事になん。とくせよかし。」

と、のゝしりて、盃をめぐらしながら、賓主[やぶちゃん注:「ひんしゆ」。来賓と主人。]、かたらひくらす程に、その日も、中の頃になりぬ。かゝりし程に、座敷の庭、忽、廣き堤になりて、その院のほとりには、くさぐさの商人あり。或は葭簀張[やぶちゃん注:「よしずばり」。]なる店をしつらひ、或は、むしろのうヘなどに、物、あまたならべたる、そを買はんとて、あちこちより、來る人、あり、かへる[やぶちゃん注:「歸る」。]もあり。賣り物のさはなる中に、ゆでだこ(湯蛸[やぶちゃん注:漢字のルビ。])を、いくらともなく簷にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり。人々、おどろき、怪みて、猶、つらつらとながむるに、こは、この時の近きわたりにて、六才にたつ[やぶちゃん注:六年に一度開かれるの意か。]、市にぞありける。珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの[やぶちゃん注:庭の背後が。]、かの市にしも見えたるを、人みな、興じて、のゝしる程に、漸々にきえうせしとぞ。

 是よりして狸の事、をちこちに聞えしかば、その書を求むるものはさらなり、病難利慾、何くれとなく、祈れば、應驗ありけるにや。緣を求めて詣づるものゝ、おびたゞ敷なりしかば、遂に、江戶にも、そのよし聞えて、官府の御沙汰に及びけん、

「有司[やぶちゃん注:役人。]、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]彼地に赴き、をさをさ、あなぐり[やぶちゃん注:「探り」。]糺しゝかども、素より、世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且、大諸候の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよし、なかりけん、いたづらに[やぶちゃん注:成果なく、無駄に。]かへりまゐりき。」

といふものありしが、虛實はしらず。

 是よりして、彼家にては紹介なきものを許さず、まいて狸にあはする事は、いよいよ、せず、と聞えたり。

 これらのよしを傳聞せしは、文化二、三年[やぶちゃん注:一八〇五~一八〇七年。]のころなりしに、このゝちは、いかにかしけん、七十五日と世にいふ如く、噂もきかずなりにけり。【此ころ、「兩國廣巷路にて、狸の見せ物を出だしゝ。」とありしに、彼大貫村なる狸の風聞高きにより、官より、禁ぜられしなり。】

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 抑、北峯子[やぶちゃん注:山崎美成の号の一つ。]の爲に、この一條を追書すること、聊、緣故なきにあらず。本月朔日の小集は、わが庵にてあるじせん[やぶちゃん注:馬琴の家を会場としよう。]とて、かねてより契りしかば、北峯子・乾齋子[やぶちゃん注:兎園会会員中山豊民(事績不詳)の号。]、いちはやく來りつる折、北峯子、予にいふやう、

「さてしも、例の事ながら、けふ、わがかきしるして、もて來つるは、めづらしげなき事なれども、『狸の書きたりき』といふ文字を影寫して來つるのみ。ありしふでもあるものぞ[やぶちゃん注:「こんな奇妙な筆記物もあるものだねえ」。]。披講の折に見給へ。」

と、いはれたり。

 予、これをうち聞きて、

「さればとよ、文化のはじめ、江戸近鄕なる人の家にすめりしといふ狸の、をちこち、人の需[やぶちゃん注:「もとめ」。]に應じて、字を書きて與へしこと、あり。その故は云々なり。」

とて、上にしるせし趣を、詞[やぶちゃん注:「ことば」。]せはしくかたりいづるに、北峯、頻に頷きて、

「わが、けふ影寫して來つといひしも、その狸の筆述なり。さばれ[やぶちゃん注:しかし。]、その事は、わが總角[やぶちゃん注:「あげまき」。少年。伸ばした髪を左右二つに分けて耳の上で両髻(もとどり)を小さく角のように結んだ少年の髪型。]の時なりければ、さるつばらかなる事は得聞かず。ねがふは、わが書篇の末に書きしるしてたびねかし。わが物せんは、かたくもあらねど[やぶちゃん注:確かな事実と断定は出来ぬものの。]、傳聞[やぶちゃん注:ここは怪しげな風聞の意。]にはあらずもあらん。よう、し給へ。」

と、そゝのかされて、まづ北峯子の披講を聞きつ、又、その狸の書を見るに、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]予が聞きたるも、これ彼、暗合したるにより、

「さては。予が聞きたりしも、まことにてありけり。」

と、又、さらにおもひなりて、これらのよしを、しるすのみ。

「世にいふ餘計の仕事に似たれど、心ざまのあへるどちを、『ひとつ穴なるむじな』といへば、狸の事にも、かばかりの事しもあらん。」

と自笑して、諸君の書寫の紙かずをかさぬるは、をこならんかし[やぶちゃん注:「をこ」「烏滸」。「痴」「尾籠」なども当てる。愚かなこと。ばかげていること。なお、以下は底本でも改行がされてある。]。

 因にいふ、北峯子の末篇にしるされし狸庵には、予も、一兩度、たいめんせしなり。渠が當時の本宅は中橋なりしか。よくもしらねど、年來、芝新橋[やぶちゃん注:現在の銀座八丁目に架かっていた。単に新橋とも呼び、現在の新橋の由来。好問堂の中橋とは異なる。転居したか。]つめにさゝやかなる紙店を出だして、賣卜をもて活業にせしものなり。寬政中[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇一年まで。文化の前の前。]、予は伊東蘭洲[やぶちゃん注:馬琴の友人で漢学者・戯作者。生没年未詳。中国の俗文学に詳しかった。江戸地誌「墨水消夏録」(刊行は安政 四(一八五七)年であるが、没後か。)の著者として知られる。]に誓引[やぶちゃん注:「連れて行くという約束」の意か。]せられて、そが店に赴きて畜ひ[やぶちゃん注:「かひ」。]おける狸を見し事ありけり。この時は、狸、二、三頭を、前を竹篇子[やぶちゃん注:竹格子(たけごうし)か。]にせし箱に入れて、その座右に置きたり。毛いろのいさゝか異なるを、

「いかにぞや。」

とたづねしに、

「一頭は玉面狸なり。その餘はよのつねなるものなり。」[やぶちゃん注:「玉面狸」中国語で「白い顔の狸」の意。この意から、この一頭はタヌキではなく、アナグマである。]

とて、ほこりかに、とき示しにき。

 このゝち、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]の初にや有りけん、誰やらが書畫會の席上にて、又、彼狸庵に面をあはせし日、渠が年來祕藏すと聞えたる「狸石」を携へ來て、予にも見せ、人々にも見せけり。その石はまろくして、長さは纔[やぶちゃん注:「わづか」。]二寸に足らず。薄靑白なる石のうちに、黑く、三、四分[やぶちゃん注:〇・九~一・二センチメートル。]ばかりなる、狸のかたち、あり。是、天然のものにして、さながら、畫けるに異ならず。見るもの嘆賞せざるはなし。只、是のみにあらず、そが煙包(タバコイレ)の諸飾、紙囊(カミイレ)のかな物[やぶちゃん注:「金物」。]なんど、すべて、狸にあらぬは、なし。又、好みて狸の寫眞をよくせり。予、その畫きたる狸を見しに、形狀・毛色、分釐をたがへず[やぶちゃん注:微細な部分さえも総て違うところがなかった。]。

「畫は、唯、狸をのみ、よくして、その他のものを畫かず。」

と、いひにき。

「予が爲にも、一ひら、畫きて給はれ。」

と、いひけれども、

「この頃は、著述に、いとまなき身なれば。」

とばかりにして、ふたゝび、もとめず。今さら思へば、後、このかたりぐさ(話柄[やぶちゃん注:漢字のルビ。])にもなるべきに、畫かせざりしを悔ゆるも、甲斐なし。その畫は、今も、もてるものあらん。「狸石」は誰が手に落ちけん、しれるものにたづぬべし。

 人の嗜慾の、くさぐさなるそが中にも、王子猷が竹をこのみしは、秀色淸風をめづるなり。陶弘景が松風を好みしは、閑雅の餘韻をめづるなり。又、劉邕が瘡痂(カサブタ)を嗜【劉邕嗜瘡痂見宋書本傳。】[やぶちゃん注:頭書。]みしは、多くあるべきことならねども、そも口腹の爲ならば、いかゞはせん。ひとり狸庵が一生涯、狸をのみ好みたるすぐせ、いかなる因果にか有りけん。是も一個の畸人ならずや。

[やぶちゃん注:「王子猷」(わうしゆう)は王徽之(きし ?~三八八年)。晉代の文人で、知られた諸家王羲之(おうぎじ)の第五子。竹を愛し、奇行の人として知られる。父と同じく、書をよくした。

「陶弘景」(四五六年~五三六年)明の李時珍の「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。隠棲後は華陽隠居と称し、晩年には華陽真逸と名乗った。当該ウィキによれば、『眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲し』、『フィールド』・『ワークを中心に本草学を研究し』、『今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』。『丹陽郡秣陵県(現在の江蘇省南京市江寧区)の人で、南朝の士大夫の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。幼少より極めて聡明で』、忽ちにして『書法を得、万巻の書を読破し』、十『歳のときに葛洪の』「神仙伝」に『感化され』、『道教に傾倒』、十五『歳にして』「尋山志」を』『著したという』二十『歳の頃、南斉の高帝に招聘され』、『左衛殿中将軍を任じられると』、『諸王の侍講(教育係)となり』、『武帝のときまで仕えた』、三十『歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び』、三十六で『職を辞し』、四九二年、『茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した』。「南史」には『陶弘景が致仕した』際、『皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている』。四九九年には『三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒し』た。『王朝が交替すると』、『梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ』として、『吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため』、『武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり』、『王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった』かの「文選」の『編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである』。『多岐に』亙る『著述を著し』、『その数』、四十四『冊に上った』。『陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して五〇〇年頃に「本草経集注(ほんぞうきょうしっちゅう)」を『著した。この中で薬物の数を』七百三十『種類と従来の』二『倍とした。また』、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。漢方医学における薬学の祖とも呼ばれ、いまなお』、『この分類法は使われている。唐代に蘇敬らが勅命により』「新修本草」を刊行しているが、これも実は「本草経集注」の内容を網羅的に継承して増補した内容のものであった。『道教の一派である上清派を継承し』、『茅山派を開いた。著書』「真誥」(しんこう:霊媒師楊羲に降りた真人が口授した教えを筆写したものを、弘景が後に編纂した上清派の経典)は『上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て』、『多くの門弟を育て』て、『優れた道士を輩出した』。書は、『王羲之や鍾繇』(しょうよう)『に師法し』、『淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」』(えいかくめい:「瘞鶴」とは「鶴を埋める」の意)『の碑文は後世に評価が高く』、『その革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ』、『北宋の黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また』、『梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の』「法書要録」に収められ』て、『王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった』とある。

「劉邕」(りゅうよう 生没年不詳)は後漢末から三国時代の蜀漢の武将。荊州義陽郡出身。二一一年に劉備に付き従って益州に入り、二一四年に益州が平定された後に、江陽太守に任命され、建興年中(二二三年~二三七年)に次第に昇進し、監軍・後将軍・関内侯を加えられ、その後、死去した。蔣琬(しょうえん ?~二四六年)は、諸葛亮(一八一年~二三四年)から、科挙の最難関の茂才(秀才試のこと。後漢では初代皇帝光武帝の諱を避けてかく呼ばれた)に推挙されると、これを固辞し、代わりの者を推挙し、その中の一人に劉邕を挙げている。蜀の名臣を讃える楊戯の「季漢輔臣賛」(きかんほしんさん:二四一年に著された)では劉邕を「篤実」と評し、「軍事の任務に就き、辺境の地で活躍した。」と評価されている(当該ウィキ及びそのリンク先の記載に拠った)

「瘡痂(カサブタ)を嗜みし」「瘡蓋を食べることを好んだ」という意。「劉邕嗜瘡痂見宋書本傳」は「劉邕の瘡痂を嗜みしは、「宋書」の本傳を見よ。」の意。「宋書」の「四十二列傳第二 劉穆之 王弘」(劉邕は劉宋の初代皇帝劉裕(隠棲した陶淵明を仕官させようとして断固として断ったことで知られる)の参謀劉穆之(りゅうぼくし)の子孫であったので、ここに出る)に、

   *

邕、性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔甞見臣、今不能見勸一杯酒乎。」。歆之、因斅孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今與汝比肩。既不勸汝酒、亦不願汝年。」。邕、所至嗜食瘡痂、以「為味似鰒魚。」。嘗詣孟靈休、靈休先患灸瘡、瘡痂落床上、因取食之。靈休大驚、答曰、「性之所嗜。」。靈休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、靈休與何勖書曰、「劉邕向顧見啖、遂舉體流血。」。南康國吏二百許人、不問有罪無罪、遞互與鞭、鞭瘡痂常以給膳。卒。

   *

とある。凄絶な異物食嗜癖で、ちょっと生理的に厭なので、訓読しないが、サイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学」のこちらで、江戸中期に国学者宮川道達(?~元禄14(一七〇一)年:詩学入門書「和語円機活法」で知られる)が書いた教訓書「訓蒙故事要言」巻之十に載る本エピソードが現代語訳されているので、平気な人は見られたい。同書の原文は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。ただ、私はこの異食癖、実際に小学校の同級生にいた。実際に、自分の膝にあった瘡蓋を、私の目の前で美味そうに食べた。確か、しょっぱくて美味しいと言っていたように記憶する。なお、座敷浪人氏は「鰒魚」を『河豚(ふぐ)』と訳しておられるが、確かに中国には唯一の淡水産フグが棲息するものの、漢籍で「鰒魚」は普通、貝のアワビのことを指すので、言い添えておく。

 底本でも、以下は改行している。]

 寬政中、狸の、をんなにばけたるが、夜な夜な、山の宿の、辻に立ちて、人をたぶらかし、そのゝち、堀の船宿西村屋の庭なる靑樹のほとりに穴してをりしを、彼處の船宿ども、うちつどひて、生捕たることの趣は、去歲の冬、海棠庵にて、大かたは、かたりき。さばれ、まさしき事なるに、いまだ聞かざりしとのばらもあなれば、これも亦、のちのちに別にしるして披講すべし。こゝには、只、北峯子のいはざるを補ふのみ。

   乙酉仲夏初三      著 作 堂

[やぶちゃん注:最後の話は去年の冬と言っているので兎園会ではない。また、後の発表するとしているが、本編にはないようだし、続く馬琴の諸々の「兎園小説」集にも今のところ、見当たらぬようである。この話、「山の宿」として場所を特定していないのに、「堀の船宿西村屋」という固有名を出すというのが、今の我々には不親切である。こういう言い方をする以上は、会員は聴いてわかるのであろうから、江戸市中が舞台なんだろうが。]

2021/09/03

芥川龍之介書簡抄136 / 大正一五・昭和元(一九二六)年八月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年八月九日・鵠沼発信・信州輕井澤六五八 室生犀星樣・八月九日 鵠沼海岸イの四号 芥川龍之介

 

冠省、こちらは實に暑い。その上又下痢をした。何も書けずいらいらしてゐる。この間の句はかう改めた。奧さんのお體を御大事に。頓首

   花はちす雀をとめてたわわなる

   松風に白犬細うすぎにけり

    八月三日       芥川龍之介

   室 生 犀 星 君

二伸 夏目先生の句のことに僕を引き合ひに出して貰ひ少からず恐縮した。

三伸 君の手紙を拜見、こちらの地震は何ともなかつた。東京よりもずつと輕かつたらしい。

 

[やぶちゃん注:書簡中の「八月三日」はママ。実は地震があったのが(後述)、この七日前の八月三日であった。それに引かれて誤ったものか。

「夏目先生の句のことに僕を引き合ひに出して貰ひ」初出と掲載誌は判らないが(実は判る本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで発掘出来ない)、まず、この大正十五年のこの日以前に、室生犀星が書いた「漱石の發句」を指す。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの単行本「庭を造る人」のここ(昭和二(一九二七)年六月改造社刊)から読めるので見られたいが、その中で、『漱石の發句は後進澄江堂の洗練がなく、詠み捨て書き忘れたるやうのものが多い。あれ程の人物がなぜもつと鍛えなかつたのかと思ふくらゐである。漢詩の方がよほど逸れてゐるが、發句は玉石を雜ぜてゐて甚だしい。そこへゆくと澄江堂の句は、年は若いが一粒づつよりぬいて砧手』(きぬたで)『をゆるめてゐない』と述べていることを指す。この犀星の見解には完全に賛同するもので、私は漱石の漢詩は確かによいものがあると思うが、俳句となると、一句をさえ掲げ得べき名句を想起出来ないからである。

「地震」この大正十五年八月三日十八時二十六分に発生した「羽田沖地震」。こちらと、こちらの地震学の論文によって判明した(孰れもPDF)。前者のデータによれば、鵠沼に比較的近い鎌倉と大磯では『時計止まり』、『棚のもの落ちる』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月九日・相州鎌倉倉屋敷 佐佐木茂索樣

 

何や彼や人ばかり來る爲、御返事が遲れた。國木田君の家へは早速出かけた。月半ばに轉居するよし、少し假住ひには上等すぎるが借りようかと思ひをり候。煙突みたいな赤塗りの洋館、前には岸田劉生がゐたよし、今の所はヴアイオリン、ラヂオ、蓄音器、笛、ラツパ、謠、鼓、の上にこの二日はお祭りにて馬鹿囃しあり、ほとほと閉口した。病體依然、きのふ小穴が來てトランプをしながら、尻へばかり手をやる爲、トランプが臭くなると言はれた。こんなことまで君に訴へたくはないが、その中で僕の弟は袈裟法衣を拵へて出家すると騷いでゐる。神經衰弱癒るの期なし。しかし君が家を敎へてくれたのでちよつと世の中が明るくなつた。多謝。

    八月九日       芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「國木田君」国木田虎雄(明治三五(一九〇二)年~昭和四五(一九七〇)年)は詩人。国木田独歩と二度目の妻(初婚は有島武郎の「或る女」のモデルとなった佐々城信子(ささきのぶこ))治(はる)の長男。東京赤坂に生まれ、京北中学校に進学するも、病気のため、中退し、詩人福士幸次郎が大正十一年に始めた詩誌『楽園』などに作品を発表し、同誌編集発行人の金子光晴はじめ、同人のサトウハチロー・永瀬三吾・今井達夫らと交流した。大正十二年に詩集「鷗」、翌年「独歩随筆集」を出版する。松竹蒲田のエキストラ仲間だった香取幸枝(団鬼六の実母)と結婚して、鵠沼に暮らすが、その後、離婚し、大田区の馬込文士村に移る。その後、横浜出身の道子と再婚し、円本ブームで手にした父親の莫大な著作印税で新妻とホテル暮らしを始め、競馬で散財していたところを、金子光晴に誘われ、昭和二(一九二七)年には、金子の案内で、夫婦で上海に長期滞在し、競馬三昧の日々を送った。戦後は鎌倉に移り、「鎌倉文庫」勤務を経て、藤沢病院精神科の看護長として十年ほど勤務した後、六十八で没した。以上は当該ウィキに拠ったが、そこにもリンクされているが、サイト「湘南の情報発信基地  黒部五郎の部屋」内の「鵠沼文化人百選」の二十話に「國木田虎雄」があり、虎雄が『鵠沼に来たのは震災前で、当初』、『本村の農家の離れに住み、今井達夫と親交を持った。今井達夫の文章に時折書かれているが、住所は点々としたらしい。震災時に自宅が倒壊した著名人の中に岸田劉生と國木田虎雄の名が並んで掲載されている』。『震災後、松本別荘』(現在の鵠沼松が岡四丁目)『の岸田劉生宅が建て直された家屋に住んでいたらしい』。大正十五年に『東屋の貸別荘』イ―4『に住んでいた芥川龍之介が、國木田虎雄が転居する噂を聞きつけ、借り換えようと視察に来たときのことが、後に』悠々莊」(大正一六(一九二七)年一月一日発行の『サンデー毎日』新年特別号に掲載。リンク先は私サイトの非常に古い電子化物である。この小説は書かれている内容は虚実混淆であるが、全体に不定愁訴的心象のモンタージュという暗いが、しかしどこか惹かれてしまう独特の印象を持つ小品である)『という作品になったという話がある』とある。なお、芥川龍之介は頻りに騒音に悩まされているとして、これ以前、これ以降もずっと転居を匂わすが、実際には結局、転居してはいない。

「岸田劉生」既出既注(因みに、岸田は異常なまでに病的な潔癖症にして神経質でよく知られ、私は病跡学的に興味を持っている人物である。当該ウィキを見られたい)。

「僕の弟」異母弟新原得二。得二の母親フユも龍之介の叔母であるから、血縁は濃かったが、激情型で、忍耐に欠け、晩年の龍之介を大いに困らせた一人である。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月九日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛(葉書)

 

○こちらは地震それほどではなし。

○僕の「るしへる」の書後に「蔓頭の葛藤截斷し去る」云々の語あり。蔓頭は巖頭の誤にあらず。僕の家に和譯碧巖錄あり。その中にある筈、ちよつと調べて貰ひたし。○君の杖の頭を折つてしまつた。但しこれは女中の罪也。

○十日以内にもう少し靜かな所へ轉居する筈。

    八月九日           龍

 

[やぶちゃん注:「るしへる」は大正七(一九一八)年十一月発行の『雄弁』初出。大正八(一九一八)年一月十五日に新潮社より刊行した龍之介の第三作品集「傀儡師」に収録された切支丹物。私のサイトのバーチャル・ウェブ復刻版「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版」があり、その「るしへる」には、別立てで、『■芥川龍之介「るしへる」やぶちゃん注』がある。そこで、「るしへる」の末尾に添えた、

   *

 ああ、汝、提宇子(でうす)、すでに惡魔の何たるを知らず、況や又、天地作者の方寸をや。蔓頭(まんとう)の葛藤、截斷(せつだん)し去る。咄(とつ)。

   *

に注して、

   *

蔓頭の葛藤、截斷し去る:蔓の如くびっしりと頭に絡みついた一切の煩悩(この場合、邪宗たる切支丹の教えへの思い)を、ばっさりと断ち切って一切を取り除いた、の意。

   *

としたが、この文章自体は「破提宇子」(はでうす:元和六(一六二〇)年刊。排耶蘇書(キリスト教排撃書)。全七段。デウスの実在性に始まり、旧約・新約の内容をコンパクトに纏めながら、書名通り、キリスト教の神デウスの教えを論破した書。梶田叡一氏の「ハビアン研究序説」によれば、当時のイエズス会のローマへの報告書には、本書はペストの如き壊滅的打撃を信徒に及ぼしたと記されるとある)に基づきながら、龍之介のいじったもので、最後の「蔓頭(まんとう)の葛藤、截斷(せつだん)し去る。」は、同書の第一段の終りに出る(リンク先はウィキソースの同書影印と電子化の部分ページ)。「碧巖錄」(臨済宗で最重要書とされる禅の公案集。宋の圜悟克勤(えんごこくごん)著。全十巻。一一二五年成立。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が百則の公案を選んだものに、著者が「垂示」(序論的批評)・「著語」(じゃくご:部分的短評)・「評唱」(全体的評釈)を加えたもの)の「第五則」の「雪峰盡大地」の一節を指す。但し、「蔓」は「葛」の誤字であった。原漢文は「直下葛藤截斷」である。以下、表記と訓読は、一九九二年岩波文庫刊の入矢ほか訳注のものを参考に、恣意的に正字正仮名に直して示した。

   *

   第五則 雪峰盡大地(せつぱうじんだいち)

 垂示に云く、大凡(およ)そ宗敎を扶竪(おこ)すには、須是(すべか)らく英靈底漢(ひいでたるじんぶつ)にして、人を殺すに、眼眨(まばたき)もせざる底(ほど)の手脚(てなみ)あつて、方(はじ)めて、立地(たちどころ)に成佛すべし。所以(かく)て照用(せうゆう)同時、巻舒(けんじよ)齊(ひと)しく唱へ、理事不二(りじふに)、權實(ごんじつ)並び行はる。一著を放過するは、第二義門を建立す。直下(ずばり)と葛藤を截斷せば、後學初機は、湊泊を爲し難し。昨日、恁麼(いんも)なるは、事(じ)、已(や)むことを得ざるも、今日も又た、恁麼なるは、罪、過天に彌(み)つ。若是(もし)、明眼の漢ならば、一點(いささか)も他を謾(あなど)るを得ず。其れ、或いは未だ然らざるも、虎口の裏(うち)に身を橫たうれば、喪身失命を免れず。試みに擧(こ)し看(み)ん。

   *

禅の公案はそもそもが解説を拒否するものであるからして、私は特に何も言わない。因みに私は暴虎馮河の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を十二年前に手掛けている。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月十二日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・八月十二日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

モサとチヤコと來給へ。お土產は入らぬ故、アロナアルロツシュを二びん買つて來てくれ給へ。

兎角閑居してゐるのは寂然たるものだ。

 

 

大正一五(一九二六)年八月十二日・鵠沼発信・東京市外田端自笑軒前 下島動樣・八月十二日 八月十二日 鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

冠省、御無沙汰致してをりますがお受りない事と存じます。先達は奧樣にお鉢を貸して頂き難有く存じます。二三日前に堀辰雄參り、甥御樣御上京のよしを承りました。こちらへお出かけになりませんか。御馳走は出來ませんが御中食御休み所位の御役には立ちます。唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、莫迦囃し、謠攻めにて閉口、近々もう少し閑靜な所へ引き移らうと思つてをります。しかし海を御らんになつたりなさるのには今ゐる家の方が好都合です。右當用のみ。頓首

    八月十二日      龍 之 介

   

下 島 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、この中旬頃、『思い立って、文と二人で新婚生活を始めた』例の『鎌倉の』大町の辻薬師の近くの『家を訪ね』ている。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、コラム「鎌倉を出たのは一生の誤り」で、『文は「追想芥川龍之介」』(芥川文述・中野妙子記・昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊)『の中で、次のように記している』として、引用されている。芥川龍之介夫人文さんは昭和四三(一九六八)年九月十一日に亡くなっているので、ぎりぎりで著作権延長に入っているが、どうしても、重要な芥川龍之介の台詞が現われるので、鷺氏のそれから孫引きで引用する(実は当該書は購入して持っているのだが、書庫の底に沈んで見出せない)。

   《引用開始》

「或日突然に、鎌倉の前に住んでいた家へ、どうしても行ってみたいと言ってききません。もう午後三時頃になっていました。

 大正七年二月に結婚して、三月から一年間はじめて住んだ家で、鎌倉大町にある離れを借りておりました。

 主人はそこから横須賀の機関学校へ通っておりました。

 八畳二間、六畳一間、四畳半二間で、水蓮の浮く池や、芭蕉があり、松の本のある広々とした庭がありました。

 主人はその頃文壇に出ておりましたので、こんな所にいたら時代におくれるといって、一年住んだだけで、田端へ帰りました。

 私は田端へ帰らず鎌倉にもっといたかったのですが……。

 主人は亡くなる年の前に何となく急に、『鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった』と言ったりしました。

 鎌倉の家へ行きたいという主人の願いで、私達は自動車を呼んで出かけました。

 車をおりて浜の方から歩いて行くと、見覚えのある窓が見えて来ました。

 主人は『あったあった』と小躍りして喜びました。或いはもう改築でもしたのではないかと思ったのでしょう。

 表門から廻って、その離れヘ行きました。大工さんが入っていたのですが、濡縁でしばらく大工さんと話をして、なつかしそうでしたが、車が待たしてあったので、名残り惜しそうにして帰りました」

   《引用終了》

……そうだ……そうなのだ……芥川龍之介よ……あそこにおれば……或いは…………]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十三日・鵠沼発信・蒲原春夫宛

 

冠省この間は失禮、ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。]六百のうまい男が來て敎授を受けた。君の法律とは大分ちがふ。近々に來ないか。一戰したいから。鵠沼ももう大分靜かになつた。渡邊によろしく。以上

 

    二十三日       芥   川

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「六百」六百間(ろっぴゃっけん)。二人又は三人で行う花札遊戯の一つだそうである。龍之介は囲碁将棋に加えて花札が好きだった。私は賭け事系の遊びは悉く全く冥く、向後も興味を持つことはない。当該ウィキをどうぞ。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・鵠沼発信・中根駒十郞宛(葉書)

 

拜啓先達羅生門の印紙500枚、今日將軍の印紙1000枚落手、どちらも田端の方へ廻送しましたから、どうかあちらへとりにお出で下さい。なほ又右印稅はこちらへお送り下されば好都合です。頓首

 八月廿四日  鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:数字は底本では横転しているが、これは実際には横書されているものと思われる。

「中根駒十郞」既出既注。新潮社支配人。

「印紙」奥附に用いる作者が捺印して張られる検印紙のこと。

「羅生門」大正八年六月二十日新潮社刊の再刊本の作品集。

「將軍」大正十一年三月一日新潮社刊の単行本の作品集。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・鵠沼発信・遠田信太郞宛(葉書)

 

冠省、度々御親切にお手紙ありがたう。櫻桃は送つて頂かなくとも御好意だけで結構です。

     卽景

   花はちす雀をとめてたわわなる

    八月廿四日  鵠沼  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」不詳(新全集でも不詳とする)。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・消印二十五日・鵠沼発信・東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣・八月二十四日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

冠省、大分お凉しくなりました。當地も避暑客は大分へりました。しかしまだ少しは避暑地らしい氣もちも殘つてゐます。二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願があります。どうか何とか御都合をおつけ下さい。右御勸誘まで 頓首

    八月二十四日     芥川龍之介

   下 島 先 生

二伸 もうお孃さんと同じ位の令孃は餘りをりませんから、その邊はどうか御心配なく。

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介書簡抄131」の私の最後の注を参照。下島はこの五ヶ月前の三月十六日養女行枝(当時小学校六年)を肺炎で亡くしている。

 新全集年譜によれば、この『月末、睡眠薬を飲み過ぎ、夜中に五〇分もの間、うわ言を言い続ける』とあり、この月末頃に一度、『田端に戻る』が、九月二日頃、この年の東京は猛暑であったため、それを『避け』て、再び『鵠沼に帰』っている。]

伽婢子卷之八 屛風の繪の人形躍歌 / 卷之八~了

 

Huryuuodori

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して冒頭に配した。以下、文中に出る歌詞は底本では全体が一字下げで読点で区切ってベタで続くが、ブラウザでの不具合を考えて、かくした。前後も一行空けた。なお、「屛風」の歴史的仮名遣は「びやうぶ」が正しいので注意されたい。]

 

   ○屛風(べうぶ)の繪(ゑ)の人形(にんぎやう)躍歌(をどりうたふ)

 細川右京大夫政元(まさもと)は、源の義高公を取立、征夷將軍に拜任せしめ奉り、みづから權(けん)を執り、其《その》威を逞(たくま)しくす。

 或る日、大に酒に醉(ゑひ)て、家に歸り臥したりしに、物音、をかしげに聞えて、睡りを覺まし、かしらを抬(もた)げて見れば、枕本《まくらもと》に立《たて》たる屛風に、古き繪、あり。

 誰人《たれひと》の筆とも知れず、美しき女房、少年、多く遊ぶ所を、極彩色(ごくざいしき)にしたる也。

 其女房も、少年も、屛風を離れて、立並《たちなら》び、身の丈(たけ)五寸ばかり[やぶちゃん注:十五センチメートル。]なるが、足を踏み、手を拍ちて、哥、うたひ、おもしろく、躍りを、いたす。

 政元、つくづく、其の哥をきけば、さゝやかなる聲にて、

 

 世の中に

 恨みは殘る有明の

 月にむら雲春の暮

 花に嵐は物うきに

 あらひばしすな玉水に

 うつる影さへ消えて行

 

と、くり返し、くり返し、哥ふて、躍りけるを、政元、聲高く叱りて、

「曲者共(くせ《ものども》)の所爲(しわざ)かな。」

と、云はれて、

「はらはら」

と、屛風に登りて、元の繪と、なれり。

 怪しきこと、限りなし。

 陰陽師(おんやうじ)康方(やすかた)をよびて、うらなはせければ、

「屛風の繪にある女の風流(ふうりう)のをどりに、『花に風』と歌ふ。總べて、『風』の字、愼みなり。」

といふ。

 永正四年六月の事也。

 其《その》次の日、政元、精進潔齊して、愛宕(あたご)山に參籠し、偏へに、武運の長久を、勝軍地藏に、いのり申されたり。

 廿三日の下向道(げかうだう)に乘りたる馬、已に坂口にして、斃(たを)れたり。

 明《あく》れば、廿四日、我が家に於て、風呂に入《いり》けるに、その家人(けにん)、右筆(ゆうひつ)せし者、敵(てき)に内通して、俄に突き入《いり》つゝ、政元を刺し殺したり。

 康方が、

「『風』の字、つゝしみあり。」

と云ひしが、果して、風呂に入りて殺されしも、兆(うらかた)のとるところ、其故あるにや。

 

伽婢子卷之八終

[やぶちゃん注:「細川右京大夫政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年六月二十三日(ユリウス暦一五〇七年八月一日・グレゴリオ暦換算八月十一日))は室町幕府管領。同職を三度延べ約二十年も務めた細川勝元(文明五(一四七三)年没。享年四十四)の子。文明一八(一四八六)年七月、管領に就任し、一旦は畠山政長に譲ったが、長享元(一四八七)年八月及び延徳二(一四九〇)年七月と短期復職した後、明応三(一四九四)年十二月から死去するまで、同職を独占した。摂津・丹波・讃岐・土佐の各守護。文明一四(一四八二)年閏七月、内衆(うちしゅ:家来)の薬師寺元長らに命じて摂津国人茨木氏を討ち、長享元年九月には将軍足利義尚の近江出陣に従った。同二年九月、京都で土一揆が起こり、下京を焼いたが、これを鎮圧。延徳二年八月、近江守護に補任され、翌年八月、将軍足利義材(よしき=義稙(よしたね))の近江出陣にも参陣している。実子がなく、延徳三年二月、九条政基の子澄之(すみゆき)を養子とし、文亀三(一五〇三)年五月には、細川成之の孫澄元も養子として阿波から迎えている。政元に実子がなかった理由として、その男色と、修験道への没頭が指摘されている。「政基公旅引付」(まさもとこうたびひきつけ:前関白九条政基の日記)には、薬師寺元一が政元の男色を暴露した記事がみられ、修験道修行のため、遊行に出ようとしたこともあった。明応二年閏四月、内衆の安富元家・上原元秀らを派遣して、河内の畠山基家討伐中の将軍義材と畠山政長を攻撃、政長を自殺させ、義材を捕らえた。新将軍に義澄を擁立し、権力を手中にしたが、義材は脱出し、抵抗を続けた。永正元年九月には内衆薬師寺元一の反乱が起こり、赤沢朝経も、一時、これに呼応した。この乱は鎮圧したものの、澄之の擁立を図る内衆香西元長・薬師寺長忠らにより、自邸で、入浴中に暗殺された(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)

「源の義高公」室町幕府十一代将軍足利義澄(文明一二(一四八一)年~永正八(一五一一)年/将軍在任:明応三年十二月二十七日(一四九五年一月二十三日)~永正五(一五〇八)年四月十六日:足利氏の本姓は源氏で、清和源氏の一族河内源氏の流れを汲む)。伊豆生まれ。初名は義遐(よしとお)、後に義高、文亀二(一五〇二)年七月二十一に義澄と改名した。八代将軍義政の異母兄で堀越公方の足利政知の次男。十代将軍義稙が細川政元の反乱によって追放されたのを受けて、還俗して将軍となったが、政元が暗殺され、翌永正五年に義稙が援軍とともに京都に迫ると、近江に逃れた。水茎岡山城(滋賀県近江八幡市内)で病死した(以上は複数の資料を合成した)。

「世の中に 恨みは殘る有明の 月にむら雲春の暮 花に嵐は物うきに あらひばしすな玉水に うつる影さへ消えて行」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは前半の原拠としている『五朝小説の諾皐記「元和初有一士人云々」』という『原話の去り行く陽春を傷む意の七言絶句の踏歌』(多数の人が足で地を踏み鳴らして歌う舞踏。元は唐の風俗で、上元の夜、長安の安福門で行なうのを例とした。日本では「日本書紀」に載る、持統天皇七年正月に漢人が行なったものが初めとされ、平安時代には宮廷の年中行事となっている。また、諸社寺でも行なわれ、現在も踏歌神事を伝えるところがある。元来、歌詞は漢詩の句を音読したものであったが、後に催馬楽の歌曲などが援用された。歌詞の間に「万春楽」・「千春楽などの囃し言葉が入るが、それを「万年(よろずよ)あられ」とも囃したので、踏歌を一名「阿良礼走(あらればしり)」とも称した。この「ハシリ」とは「舞踏」の意であるらしい)『を、風流踊り』(本篇では「ふうりう」とルビを振るが、「ふりう」(をどり)が正しい。中世の民間芸能の風流(ふりゅう)に起こり、現在も諸国各地の念仏踊・太鼓踊・獅子踊・小歌踊・盆踊・綾踊・奴踊などに伝わる集団舞踊。所謂、民俗舞踊の大部分を占める踊りを総称する語である)『の囃子歌にとりなしたものか。原話に「長安ノ女児春陽ヲ踏ム。処(いづく)トシテ春陽ノ腸(はらわた)ヲタタザルハ無シ。舞ノ袖、弓ノ腰ハ渾(すべ)テ忘却シ、峨眉ハ空シク九秋ノ霜ヲ帯ブ」。「九秋」は秋の九十日間』とある。しかし、この「諾皐記」の「元和初有一士人云々」というのは、何のことはない、晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣/八六〇年頃成立)の巻十四「諾皋記」の「上」にある、以下である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の当該部を視認して活字化した。

   *

元和初、有一士人失姓字、因醉臥廳中。及醒、見古屏上婦人等、悉於牀前踏歌、歌曰、「長安女兒踏春陽、無處春陽不斷腸。無袖弓腰渾忘卻[やぶちゃん注:「忘却」に同じ。]、蛾眉空帶九秋霜。」其中雙鬟者問曰、「如何是弓腰。」。歌者笑曰、「汝不見我作弓腰乎。」。乃反首髻及地、腰勢如規焉。士人驚懼、因叱之、忽然上屏、亦無其他。

   *

 元和[やぶちゃん注:八〇六年~八二〇年。中唐末。]の初め、一士人有り。姓字は失す。醉ひに因りて、廳中[やぶちゃん注:広間。]に臥せり。醒むに及び、見るに、古き屏(べう)の上の婦人等(ら)、悉く、牀前に於いて踏歌して、歌ひて曰はく、

 長安の女兒 春陽を踏み

 處(いづ)くにも 春陽の腸(はらわた)を斷たざるは無く

 袖も 弓の腰も 無くして 渾(すべ)て忘卻し

 蛾眉 空しく帶ぶ 九秋の霜(しも)

其の中に、雙鬟(さうくわん)[やぶちゃん注:前話に出た稚児唐輪。]の者、問ひて曰はく、

「是の弓の腰とは、如何ぞ。」

と。歌へる者、笑ひて曰はく、

「汝は、我れの作れる『弓の腰』を見ずや。」

乃(すなは)ち、首を反(そら)せば、髻(まげ)、地に及び、腰の勢(かたち)、規(ぶんまはし)[やぶちゃん注:コンパス。]のごとし。

 士人、驚懼して、因つて之れを叱れば、忽然として屏に上(のぼ)り、亦、其の他(ほか)、こと、無し。

   *

訓読は所持する「酉陽雜俎」の全訳本である今村与志雄訳「東洋文庫」版の第三巻(一九八一年平凡社刊)の訳文を参考に我流で示した。

「陰陽師(おんやうじ)康方(やすかた)」当時は安倍氏の末裔土御門家が支配していたが、「康方」というのは不詳。

「花に風」花にとって風は散らすものであるから、「愼み」=忌むべきものである。しかも、「屛風」・「風流のをどり」・「花に風」で「總べて、『風』の字」であるからして、凶兆と判じて、「風」に拘わるものを避けることを進言したのである。

「愛宕(あたご)山」全国に約九百社ほどある愛宕社の総本社である、下財の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社(旧称は阿多古神社)のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「勝軍地藏」一説に、坂上田村麻呂が東征の際、戦勝を祈って作ったことから起ったという地蔵菩薩の一種。鎧、兜を装着し、右手に錫杖を、左手に如意宝珠を持ち、軍馬に跨っている。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などを免れるとされ、愛宕権現は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、伊耶那美命を垂迹神とし、この勝軍地蔵菩薩を本地仏とした。主に武家から信仰された。

「下向道(げかうだう)」社寺に参詣した後の帰り道を言う一般名詞。

「坂口」愛宕街道の古道で一の鳥居の附近であろう。私の好きな老舗の鮎茶屋である平野屋がある。

「明《あく》れば、廿四日、我が家に於て、風呂に入《いり》けるに、その家人(けにん)、右筆(ゆうひつ)せし者、敵(てき)に内通して、俄に突き入《いり》つゝ、政元を刺し殺したり」実際の日付が、一日、ずれている。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「廿四日政元浴室に入て垢をあらふ。その家人右筆のもの俄に入来りて政元を打ころす」(本朝将軍記十・源義澄・永正四年六月)』とあるが、「本朝将軍記」は本書の作者浅井了意が書いたものであるから、正規証左の史料とはならない。同別注で、『「永正四年丁卯六月二十三日の夜、御月待の音行水有し所を、御内の侍、福井四郎、竹田孫七、新名』(「にいな」か)『と云者どもが、薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟同心して政元を誅し奉る」(細川両家記)。家内は、養子の澄之派、澄元派に分かれて』(既に私の注で示した通りである)『政元は澄元派に暗殺された』とある。

「兆(うらかた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『占いの表象』とある。]

2021/09/02

伽婢子卷之八 幽靈出て僧にまみゆ

 

[やぶちゃん注:標題は「幽靈、出(いで)て、僧に、まみゆ」と読んでおく。挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して適切と判断した箇所に挿入した。この挿絵は子細に見れば判る通り(二枚目に田圃の様式線が被っている。なお、元禄版では二枚目はない)、見開き左右二幅であるが、思うところあって、分離した。]

 

   ○幽靈出て僧にまみゆ

 隅屋(すみや)藤九郞は、楠が一族として、畠山右衞門佐義就(はたけ《やまうゑもんのすけ》よしなり)が手に屬(しよく)し、「嶽山(だけ《やま》)の合戰」に、比類なき手がらをあらはし、つゐに、うち死して、名を殘しけり。

 其《その》子、藤四郞、おなじく、義就に屬して、應仁元年、御靈(ごりやう)の馬場の軍(いくさ)に、畠山左衞門督政長が陣中より放ちける矢に中(あた)りて、討《うた》れたり。

 父子二代、すでに義就に忠を盡しければ、其のよしみ、深く、河内國門間(かどま)の庄を、藤四郞が舍弟藤次、生年《しやうねん》五歲になりけるに、知行せさせ、父藤九郞が妻と同じく、すみ侍べり。

 

Toukurou1

 

 其比《そのころ》、諸國順禮のひじり、只一人、此のわたりに來り、日、已に暮ければ、宿借(《やど》か)るべき村里をもとめて、門間の鄕(がう)ちかく、田の畔(くろ)に立やすらふ處に、笛の音、かすかに聞え、漸々(ぜんぜん)に、近付くをみれば、年のほど、十四、五とみゆる少年、いふばかりなく美しきが、髮、からわに上げ、薄化粧(うすげさう)に、鐵漿(かね)、黑く、色、白く、眉、細く作りたるが、白き淨衣(じやうえ)に、はかま、きて、只一人、畔を傳ふて來りつゝ、ひじりを見て、いふやう、

「和僧(わそう)は何故に、こゝには、たゝずみ給ふ。」

と問(とふ)に、ひじりは、

「是は、諸國順禮の修行者(しゆぎやうじや)にて侍べる。道に行暮《ゆきく》れて、宿を求めんため、たゝずみ侍べる。」

といふ。

 少年、すこし、打ち笑らひて、

「世の中、靜かならず。如何でか、たやすく、宿かす人、あるべき。たとひ、『出家也』といへ共、『若《もし》は敵のはかりごとか』と、互ひに疑ひを致す時節也。あしく立《たち》めぐりて、人に咎められ、あえなき命を失ひ給ふな。今はゝや、夜も更けがたなり。某(それがし)が部屋に來りて、一夜《ひとよ》を明かし給へ。」

とて、聖と打ち連れて、一つの家に行至《ゆきいた》り、

「表の門は、番の者も臥(ふし)ぬらん、こなたへ、いらせ給へ。」

とて、裏の小門より密(ひそか)に内に入《いり》て見るに、

「こゝぞ、それがしの常にすむ所。」

とて、一間の部屋に入たり。

 内には、持佛堂ありて、阿彌陀の三尊を立(た)て、前なる机には、「淨土の三部經」あり。

 十二行(かう)の供物、燈明、かすかに、花香を供へ、位牌の前には靈供(りやうぐ)そなへて、いと尊(たふと)き有さま也。

 聖、なにとなく殊勝に覺えて、暫く、經讀み、念佛す。

 少年のいふやう、

「まだ宵の事ならば御内(みうち)の者に仰せて、非時(ひじ)の料《れう》、よくしたゝめて參らすべきに、夜更け、人靜まりて、すべき樣、なし。旅の勞れを休め、飢《うゑ》をたすくる御爲に、此(この)靈供を參れせむ。」

といふ。

 聖(ひじり)は、

「何か苦しかるべき。」

とて、靈供の飯(はん)を二つに分《わき》て、少年と、聖と、食ひ侍べり。

 ひじり、問ひけるは、

「こゝは、如何なる人の御家ぞ、和君は、御名を何とかいふ。」

と尋ねしに、少年、答へけるは、

「それがしの父は隅屋藤九郞とて、武勇の譽れありしが、去《いん》ぬる嶽山の軍に討死せり。それがし兄弟二人、其跡を繼ぐといへ共、弟にて侍べるものは、未だ、幼少也。それがしだに、年にも足らねば、唯、まづ、母に育てられて、月日を送る事にて、名をば、藤四郞と云ひ侍べり。今宵、尊きひじりに宿かし參らするも、他生(たしやう)の緣、淺からぬ故なれば、それがし、たとひ、空しくなるとも、後世《ごぜ》をとうて給(たび)たまへ。」

とて、そゞろに淚を流しければ、ひじり、聞て、

「如何に、かくは仰せありける。君は、誠に莟(つぼ)む花の、まだ咲出ぬころほひ、さしも、末久しく榮え給はん老さきある御身ぞかし。ひじりは、年傾(《とし》かたふ)きたる者なれば、しらず、けふもや、浮世の限りなるべき。」

といへば、少年は、

「いやとよ、武士(ものゝふ)の家に生れて、名を惜み、功を顯さむとするには、命は、草の露、夕(ゆふべ)を待たでも、消《きえ》やすく、賴みがたく侍べれば、かく申すぞ。そこに持ち給へる過去帳に、それがしの名を、書きのせ給へ。」

とて、硯を出す。

聖は、

「あら、心得ずや、年にもたり給はねば、何のわかちもなく、かやうに望み給ふか。過去帳には、死に去りたる人の名をこそ記せ、さらば、御望みを背くも、無下(むげ)なり。逆修(ぎやくしゆ)に書きのせて、武運の長久を祈り奉らん。」

と云ければ、兒(ちご)、うち笑ひて、

「それは、兎も角も、御心《みこころ》に任させたまへ。」

といふ程に、此兒(ちご)、まなこざし、俄かに變り、苦しげに、息、つき出し、

「何ぞ、只いまぞや、心得たり。」

とて、傍(そば)にたてかけたる太刀、おつとり、障子を開き、立出《たちづ》るぞ、とみえし、跡もなく、うせにけり。

 ひじりは、きもをけし、立出て見れど、かげもなく、物音も、聞えず。

 不思議の事に思ひながら、暮れて、歸るべき道も知らず、持佛堂の前に坐して、夜を明かす。

 巳に明方になりければ、藤九郞が後家、其外、家にありける一族、皆、起き出て、持佛堂に參りて見れば、色黑く、瘦せかれたる法師一人、佛前に、あり。

「こは、そも、如何なる古(ふる)盜人(ぬす《びと》)の忍び入《いつ》たる歟(か)、古狸(ふるたぬき)の化けて居たる歟、からめ捕りて、子細を問へ。」

と、ひしめきたり。

 ひじりは、少しも懼るゝ色なく、

「まづ、靜まりて、子細を聞給へ。」

とて、初め終りの事ども、語りければ、

「さては。藤四郞殿の亡魂(ぼうこん)、あらはれ出給《いでたま》ひけむ。」

と、今宵、位牌の前なる靈供を二つに分て、半(なかば)は、ひじりの參らせし、半は我が食(くひ)けるに、ひじりの食(しよく)せしは、皆になりつゝ、半は、さながら、位牌の前に殘りて、あり。

 

Toukurou2

 

[やぶちゃん注:持仏堂で回向する僧と、左に亡き藤四郎の霊を求めんとする母が佇立して、手を虚空に差し出している。「新日本古典文学大系」版脚注では、『半分に分けた霊供は定かではないが、仏壇の線香立の左右にある二つの皿がそれか』とする。]

 

 母は餘りの悲しさに、位牌の前に、ひれ伏し、聲を限りに泣き叫び、

「さても、去ぬる正月十九日、京都御靈の馬場にして、流矢にあたりて打れしが、今日、已に百ヶ日に及べり。此世に、殘りて、憂き物思ひする、みずからには、などや、見えこざる。」

とて、引かづきて、歎きしが、あまりの事に、堪へかね、聖を憑(たの)みて、髮を剃り、尼になりつつ、菩堤を深く吊(とふら)ひけると也。

 

[やぶちゃん注:本話は「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『三国伝記十二ノ十五「芸州西条下向僧逢児霊事」や曾呂利物語二ノ五「行の達したる僧にはかならずしるし有事」などに近似する、僧侶の回向譚に発した亡霊説話。これに応仁記に見出した一挿話を付加して、戦場に散った若武者の菩提を弔う物語に仕立てる』とある。実際に同書の注を見て行くと、若者と邂逅するシークエンス以降に、明らかに「曾呂利物語」の叙述が、多数、意図的に組み込まれていることが、判る。ただ、私は寧ろ、行脚僧の美女に見紛う美少年との出逢いから、持仏堂のある一間へ誘われて、仏飯(ぶっぱん)を折半して食し、実はその若者は亡霊であって、自らの後世を弔ってもらわんがために、僧をここへと導いたのであったという展開は、能の複式夢幻能を確信犯で意識しているものと思われ、私にはそこにしみじみとしたものが感じられ、本話に惹かれるのである。

「隅屋(すみや)藤九郞」「新日本古典文学大系」版脚注では、『応仁記・畠山右衛門佐上洛之事にその子とともに登場するが、「隅屋」「隅屋ト申者ノ子」とするのみで』、ここ出る『藤九郎』や、主人公である亡霊の『藤四郎』やその弟『藤次などの名乗りは不詳』とし、以下諸本の名乗りの記載を載せるが、私には必要ないので省略する。

「楠が一族」かの楠木正成の一族。言わずもがな、後裔は殆どが南朝方についたことから、南朝の衰退とともに一族も没落した。

「畠山右衞門佐義就」畠山義就(よしなり/よしひろ 永享九(一四三七)年?~延徳二(一四九一)年)は室町後期の武将。室町幕府管領畠山持国の長男。持国には嫡出の実子がなかったため、妾腹の義就を排し、弟持富、また、その子政長を養子に迎えたため、畠山氏は二流に分裂、細川・山名の両氏に助けられた政長側が優勢であったため、義就は京都を追われて河内・紀伊の各地に転戦した末、山名持豊 (宗全) を頼って文正元 (一四六六) 年に入京し、足利義政に謁した。翌年、持豊と結んで政長を討とうとしたことが、「応仁の乱」の発端を成した。最後は大阪で病死した。

「嶽山(だけ《やま》)の合戰」寛正元(一四六〇)年十二月十九日から寛正四(一四六三)年四月十五日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市龍泉のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し、実に二年以上の長きに亙って行われた幕府追討軍との戦い。

「應仁元年」一四六七年。

「御靈(ごりやう)の馬場の軍(いくさ)」「御霊(ごりょう)合戦」「上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の戦い」。「応仁の乱」に於ける緒戦となったもの。文正(ぶんしょう)二(一四六七)年一月十八日から翌十九日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した戦い(この凡そ一ヶ月余りの後の文正二年三月五日に応仁に改元された)。

「よしみ」「好み・誼み」交誼。縁故。

「河内國門間(かどま)の庄」「新日本古典文学大系」版脚注に、『戦国期に』現在の『大阪府門真市』の『北部に存在した地名』とある。この中央附近。淀川左岸内陸。「今昔マップ」で明治期の地図を見ると、広大な「門真村」があるが、殆んど全域が水田である。

「田の畔(くろ)」田と田の境。畦(あぜ)であるが、挿絵にあるように、通常の同一の持ち主の作業用の狭く細いそれではなく、境であって、農道も併用するようなそれである。

「からわ」日本髪の一種。男女ともに結んだが、ここは男性のそれ。男の唐輪は鎌倉時代に、武家の若者や寺院の稚児などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(ちごまげ)に類似する。髪の元を取り揃えて百会(ひゃくえ:頭頂)に揚げ、そこで一結びしてから、二分し、額の上に丸く輪としたものである。

「鐵漿(かね)」「お歯黒」のこと。鉄屑を焼いたものを濃い茶の中に入れ、これに五倍子(ふし)の粉を加えて、その液で、歯を染めた(その液に酒・飴・粥を加えることもあった。これは口中に入れるものであったため、原液のえぐみの不快さを和らげて使いやすくするためであった)。この風習がいつの時代に始まったかは詳らかでないものの、平安貴族の間で行われていたことは「源氏物語」や「枕草子」にも見え、中世初期の源平時代には男子も鉄漿付けしていた者があったことは、戦記物の中でも窺える。江戸時代に至って一般庶民の婦人の中に日常的な身だしなみとして行われるようになったが、逆に男子のそれは、それ以前に廃れていたらしい。ここは室町後期であるから、特に違和感はない。

「淨土の三部經」浄土三部経は「仏説無量寿経」・「仏説観無量寿経」・「仏説阿弥陀経」の三経典を逢わせた総称。法然を宗祖とする浄土宗・西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう:京都府長岡京市にある光明寺(粟生光明寺(あおうこうみょうじ))を総本山とする浄土宗の一派)、親鸞を宗祖とする浄土真宗では、この浄土三部経を根本経典とする。

「十二行(かう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は、『十二種の菩薩を供養するための供物』とあるが、持仏堂にあるのは阿弥陀三尊(観音・勢至の菩薩を脇侍とする)であり、十二因縁に基づく円覚十二菩薩があるにはあるが、浄土教の主体仏は必ず阿彌陀如来であって菩薩ではないから、これはおかしい。「伽婢子卷之二 狐の妖怪」の「廿四行(がう)の供物」を参照されたいが、そこで述べたように、この数値は阿弥陀如来の絶対他力の濫觴たる四十八誓願の約数である。それに擬えた四十八種の供物は、揃えるのが大変であるから、その最小の約数である十二種の御供物を以って阿弥陀の誓願成就のシンボルとして捧げるという意であると私は思う。

「靈供(りやうぐ)」ここは死者の霊への仏飯。

「非時(ひじ)の料《れう》」「伽婢子卷之三 梅花屛風」の私の「朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ」の注を参照されたい。

「何か苦しかるべき。」「何の不都合が御座いましょう。戴きまする。」。僧侶は亡者と共食することも、回向の大事な一儀であるからである。

「他生(たしやう)の緣」「多生の緣」が正しい(元禄版も「新日本古典文学大系」版も「多生」である)。「他生」とも書くが、これは誤用の汎用である。この世に生まれ出るまで、何度も生死を繰り返している間に結ばれた因縁。前世で結ばれた縁。

「そゞろに」思わずも。突然に。

「ひじりは、年傾(《とし》かたふ)きたる者なれば、しらず、けふもや、浮世の限りなるべき。」「拙僧は、老いよろぼえたる者にて御座ればこそ、知らぬうちに、今日やら、明日にもか、浮世の生(しょう)をば終わらんとぞせんものを。」。

「そこに持ち給へる過去帳に、それがしの名を、書きのせ給へ」「過去帳」は死者の戒名(法号・法名)・俗名・没年月日・享年などを記載した帳簿。本邦の仏具の一つ。「鬼籍」「点鬼簿」とも呼ぶ。寺院用・在家用が知られるが、ここではこの巡礼僧個人が持っているそれである。恐らくは、行脚の途中で出逢った行路死病人や臨終を看取った人物或いは特に供養・回向を依頼された物故者について、それ以降、続けて回向するための記録簿としてのそれであろう。

「年にもたり給はねば」「新日本古典文学大系」版脚注では、『一人前になっていない。まだ年若い』の意とする。

「何のわかちもなく」同前で、『是非善悪の分別』の意とする。

「かやうに望み給ふか。過去帳には、死に去りたる人の名をこそ記せ、さらば、御望みを背くも、無下(むげ)なり」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。

「逆修(ぎやくしゆ)」生きている内に予(あらかじ)め死後の冥福を祈って仏事を先んじて行なうこと。死後に行なう七七日(なななぬか:四十九日)の仏事を、生存しているうちに営んで、冥福を祈ること。死後に何が起こるか判らない場合、後世の安寧の心配をせぬように行うことは古くから多く見られたし、またそれを行うことが供養となって長生きが出来るという認識も広くあった。なお、そうした目的で生前に自分の供養塔(石塔婆)を建てる場合もあり、それは逆修塔(ぎゃくしゅとう)と呼ばれる。現在でも、生前に墓地を作っておき、その墓石に自分の戒名をすでに刻み込み、死んだ人の墓碑銘と区別するためにその戒名を朱書にしておく(死者の戒名を墨書にするのに対するもの)「逆修(ぎゃくしゅ)の朱(しゅ)」の習慣が残っている。

「何ぞ、只いまぞや、心得たり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『何か用か。すぐ行くぞ、わかった。』と訳されてある。討ち死にの瞬間が、ここに繰り返されているものか。いや、或いは、人間道で戦さ死にした少年は、修羅道に堕ちており、常時、戦いに駆り出されて、文字通り、修羅場に生きているのやも知れぬ。ここが、私には非常なリアリズムの映像となって眼前に迫ってくるのである。

「古(ふる)盜人(ぬす《びと》)」年老いた泥棒。

「去ぬる正月十九日、京都御靈の馬場にして、流矢にあたりて打れしが、今日、已に百ヶ日に及べり」ここは本書の中でも驚くべき特異点で、本話柄の時制が、年月日単位で特定されているのである。則ち、少年隅屋藤四郎は『「御靈の馬場の」戦い』で文正二年一月十九日(ユリウス暦二月二十三日・グレゴリオ暦換算三月四日)に討ち死にしたが、命日を入れて数えるので、いつもお世話になる「暦のページ」の旧暦カレンダーを用いて数えてみると、文正二年一月は「小」の月で十一日、二月は「大」の月で三十日、三月が「小」で二十九日、四月も「小」で二十九日、されば、故藤四郎の「百ヶ日」であるこの日は、ズバリ、文正二年五月一日(ユリウス暦六月二日・グレゴリオ暦換算六月十一日)となるのである。創作目的で書かれた怪奇談集で、話柄な時制がここまではっきりするのは、まず以って珍しいものである。なお、「百ヶ日」は故人が新仏(にいぼとけ)となって忌明け後初めての法要となるものである。これは「卒哭忌」(そっこくき)とも呼び、「悲しんで泣くことをやめる忌日」とされ、謂わば、死者を悼む一つの大きな区切りとして古くから認識されてきたものである。「中陰法要」(四十九日追善法要)と「年忌法要」(一周忌法要)の中間を結ぶ法要で、「十王信仰」では十の審判の内の八番目の審判(裁判官は平等王(びょうどうおう)で、本地は観音菩薩)が行われる日とされる。なお、当時、一般的であった土葬では、死後百日目頃に遺体が白骨化することから、この「百ヶ日」の日に、死者の魂が肉体を離れると信じられていたという説もある。

「引かづきて」悲しみのあまり、大泣きするのを人目から避けるために、自らの上着をずらして頭から被って。卒哭忌をも吹き飛ぶ母の慟哭である。]

2021/09/01

芥川龍之介書簡抄135 / 大正一五・昭和元(一九二六)年七月(全) 十通

 

大正一五(一九二六)年七月十日・鵠沼発信・小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

僕の神經的颶風は高まるばかりだ。君 今度來る時にあの靑いスパニッシュフライを一匹すりつぶり、オブラアトにつつみ、更に紙につつみ、ここへ持つて來てくれないか? こんな事をたのむのは實にすまない。しかし一生に一度のお願ひだ。友だち甲斐に助けてくれ給へ。是非どうか持つて來てくれ給へ。

   七月十日            龍

   隆 一 樣

二伸 二十日すぎになると子供が來る故、その前に來てくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば(この鷺氏のそれは、恐らく芥川龍之介の生涯を最もリアルに、しかも、一瞬の退屈さもなく、徹底的に面白く読ませる、稀有のものである。二〇一七年に新装版が出ている。芥川龍之介好きにはゼッタイにテツテ的にお薦めの一冊である!)、この七月初旬に、『鵠沼の東屋旅館にもど』ったが、『見舞いに来た斎藤茂吉の勧めもあって、東屋の貸家である』この「イの四号」『に移った。この家は玄関とも三あ間の小家で、彼の望む簡素な生活――西洋皿が三枚、小さな机がお膳になったり勉強机になったり、缶詰の空缶になったり生活をはじめ、何かにつけて気をつかう年寄りたち』(養父芥川道章・養母儔・伯母フキ)『から離れて久しぶりに妻と三男』也寸志『だけの暮しをすることができた。これを芥川は〈二度目の結婚〉と呼んでいる』とある。……しかし……かの忌まわしきファム・ファータルからは……決して……逃れられない……『引っ越した翌日』には、早々に、かの『秀しげ子が子供を連れて見舞いに来』ているのである。なお、「二度目の結婚」とは後の遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の草稿附電子化)の「四十三 夜」に拠るもの。

   *

       四十三 夜

 夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絕えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱(いだ)き、淚をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」

   *

一読、忘れられぬ凄絶なる一章である。私は十五年も前にこれを考証した「二度目の結婚(補正の再補正)」を書いている。そこでも既にして、私は一般の芥川龍之介研究の中での「スパニッシュフライ」=自殺薬説に疑問を呈している。まあ、確かに、以上の書簡の、

「こんな事をたのむのは實にすまない」

「しかし一生に一度のお願ひだ」

「友だち甲斐に助けてくれ給へ」

という切羽詰まった畳みかけに、

「是非どうか持つて來てくれ給へ」

とくる。しかも、これは以下の翌日発信の書簡でも繰り返されている。この鬼気迫るまでの懇請要求を見て、「やっぱり、芥川龍之介は自殺するためにスパニッシュフライを小穴に懇請している証拠じゃないか!」と思う人は確かに多いだろう。確かに、

この時に芥川龍之介は既に自殺念慮にとり憑かれていた

ことは、確かな事実ではある。だが、待ってくれよ、しかし、二伸の、

「二十日すぎになると子供が來る故、その前に來てくれ給ヘ」

というのは、何だか、ちょっと変じゃないか?

子供が来る前に自殺したいというのか?

劇薬を隠しておいて、うっかり、子ども(比呂志と多加志)が来て、うっかり触って、うっかり誤飲したら、大変だからってか?

いやいや! それじゃ、切羽詰まった覚悟の即刻自殺の予定とは、これ、矛盾するのじゃないか?

これはトーン・ダウンというより、寧ろ、信じられないほどの拍子抜けの言葉と言えるのではないか?

無論、自殺志願者は同時に矛盾した自殺回避行動もとるのは百も承知さ。しかし、どうだ?

――赤ん坊(也寸志)じゃない二人の子と一緒に――小さなコテージにいることになったら――どうしたって出来にくいことが――自殺のほかにも――ある――じゃないか?

――「二度目の結婚」とは――再び――妻文と――初夜のように交合する――こと

ではないか?

そのための――媚薬として――スパニッシュフライは必要だった――のではないか?

という目的性を、私は、今も取り下げる気は、さらさら、ない、のである。

 

 

大正一五(一九二六)年七月十一日・消印十二日・鵠沼発信・東京市小石川區丸山町三十小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・七月十一日 鵠沼いノ四號 芥川龍之介

 

君の來る時に是非あれを持つて來てくれ給へ。

    七月十一日      芥川龍之介

   小穴隆一君

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この日、この書簡以外に、『「スクキテクレ」と電報』も打っているとあり、七月十三日の条に、『昼、小穴隆一が鵠沼を訪れ、頼まれていたスパニッシュ・フライを渡す』とある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』が出典である。リンク先では私が神経症的に注を挟んでいるので、それを除去して訪問時の様子を示す。但し、スパニッシュ・フライの致死量をとんでもない微量に誤っているので、後で必ず、私の注を確認はして貰いたい。

   *

 スクキテクレ、アクタカワ、の電報が七月の十二日にきて、僕は十三日の晝に、僕にとつてははじめての土地の鵠沼で芥川と會つてゐる。松葉杖を抱へた僕は、電車を降りると葛卷と人力車を連らねて芥川の寓居に(伊四號の、)急いでゐた。僕は必ず數日のうちには金澤から上京してくる者と僕との萬一のためにも持つてゐた、スパァニッシュ・フライで(〇・〇〇1グラムが致死量と聞いてゐた一匹が、綿にくるんで蓄音機の針の箱のなかにいれてあつた。)果して、人が死ねるのかどうか、信じたり、疑つたりしてはゐたが、それをクレープの襯衣の隱しにいれて縫ひつけてしまつて持つてゐた。萬が一芥川が芥川の面目かけてもすぐにも死ななければならぬのならば、僕は手を拱いてゐてその後を追ふ腹であり、さういふ若さであつた。

 門で車を降りて内にはいると、僕はすがすがしい撥釣瓶をみた。その撥釣瓶は僕のこころを多少沈めてはくれたが、芥川の留守は意外であつた。(芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、」云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる、さういつた事情でもう少し閑靜な塚本さん(夫人の里方、)の家に原稿を書きにいつてゐた。)

 間には机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの(酒にあらず、)食べものが並んで、歸つてきた芥川とひとわたりの話がすむと、芥川の「散步をしようや。」で僕は伴れだされた。芥川は何年ぶりの松葉杖でさうは步けもしないものを、人目をさけて、小路へ小路へと引つぱりまはしておいてから、「あれを持つてきたか、」と言つた。僕は「うむ。」と答へたが、それからまた隨分步かせられた。(芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた。)僕らが砂丘のはうにでて海をみながら休んでゐたときには、もう僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは芥川にとりあげられてしまつてゐたが、夕陽を浴びてて話してた芥川の話は、ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐたので、僕の張りつめてゐた氣持も救はれて、死といふ懸念もなくなつてゐたほどの、のびやかさを感じてゐた。

 さうししてその日は、芥川のところに泊り、僕自身のことは七月二十九日を頂上として、あとは終るといふ有樣になつてしまつたので、芥川と彼の夫人とに約束してあつたとほり、引越しの金を改造社から貮百圓前借りして、(「三つの寶」の印税のこと、昭和三年六月二十日發行の金五圓の四六判の二倍よりは大きい本、芥川はこの本の印税を改造社とは壹割五分の約束で、僕にはその半分の七分五厘が僕のとりまへと言つてゐた。)僕も鵠沼に移つて芥川のそばにゐることになつた。

   *]

 

 

大正一五(一九二六)年七月十四日・鵠沼発信・南條勝代宛

 

冠省、この間はお見舞のオレンヂをありがたう。その後又腹をいため、唯今ここにごろごろしてゐます。十月末までには東京へかへれるつもり。憚りながら御心配なく。どうかもう御見舞など御無用になすつて下さい。頓首

   七月十四日       芥川龍之介

   南條勝代樣

 

 

大正一五(一九二六)年七月十四日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

冠省、手紙をありがたう。まだ君は東京にゐることゝ思ふ。僕は腹工合だけ少しよくなつた。その代りに便秘してゐる。こちらは不景氣のせゐかまだ寂しい。二十日過ぎに子供でも來たら、ちよつと海へはひり、砂に腹を暖めてゐようと思ふ。輕井澤へ行つたら、片山さんや何かによろしく。それから奧さんもお大事に。

   七月十四日       芥川龍之介

  室生犀星樣

 

[やぶちゃん注:……芥川龍之介の心は秘かに「越し人」の元へと飛んでいることが判る……この日、芥川龍之介は「三つのなぜ」(リンク先は私の古い電子テクスト)を脱稿している。この作品は実際には、

翌昭和二(一九二七)年四月

発行の雑誌『サンデー毎日』(春季特別号)に掲載されたものである。

九ヶ月も前に脱稿しているというのは、龍之介にして、尋常でない異様な早さである

ことに気づくだろう。そしてそれを読む時、その

「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」

が、

――「シバの女王片山廣子」への切ない恋情と

――それを叶えることの不可能であることを悟ってしまった「ソロモン芥川龍之介」の

哀しい返答であった

ことが判るであろう。具体的には、

凡そ一年足らず前の片山廣子から貰った手紙への「返事」こそが「三つのなぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」だったのだ!

どうあっても、それを作品に仮託して、廣子へ秘かに示さずにはいられなかった龍之介は、この作品を、こんなにも早く、その内的要求の強さ故にこそ、書き上げていたのである。その手紙は、

――私の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」

「□片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅰ】 大正一三(一九二四)年九月五日附(底本書簡番号②)」

として全文を読むことが出来る。言っておくが、この芥川龍之介宛片山廣子書簡は二〇一五年一月十五日に初めて公に刊行されたものであり、公開から僅か六年しか経っておらず、今でも、恐らく一般の人には殆んど知られていないものである(その経緯は上記リンク先の私の冒頭注で詳しく書いてある)。

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十一日・消印七月二十二日・鵠沼発信・東京市外田端四三五芥川龍之介方 葛卷義敏宛(葉書)

 

一、碧童先生の句稿(書齋にある)を出しておき、中央公論の人に渡すやうに。君が留守でもわかるやうに。

一、誰か來る時ビオフエル

   七月二十一日      芥川龍之介

  句稿は或はバスケツトの中にあるかも知れない。

二、バスケツトの中の遠藤君の手紙を送るやうに。

 

[やぶちゃん注:削除は底本の注に従って再現した。この書簡、筑摩全集類聚版にはない。ということは、第一次元版(昭和二年から同四年刊行)・第二次普及版(昭和九年刊)・第三次新初版(昭和二十九年刊)全集にはない、ということを意味する(筑摩全集類聚版は初版が昭和三三(一九五七)年であるが、私のは昭和四六(一九七一)年初版である)。元版全集には葛巻義敏が編集に参加している(編集委員ではない)。ということは、元版より後の版に於いて、葛巻が提供した、ということになる。彼は元版の編集を手伝った一人として誰よりもまず、所持する書簡を速やかに総て提供すべき立場にあったはずである。しかし、彼が現在の旧岩波全集(第四次編年体。昭和五二(一九七七)年から翌年刊行)以降にこの書簡を提供したことは明らかである(葛巻が「芥川龍之介未定稿集」を同じ岩波書店から刊行するのは昭和四三(一九六八)年のことであるが、そこには、この書簡は含まれていないことからの推定である。「芥川龍之介未定稿集」は未だに芥川龍之介全集の亡霊のように、研究者では積極的に向き合う者が今も少ない)。こういうところが、彼が、所有する芥川龍之介の遺稿その他を後に恣意的に小出しに公開するようなことをしたとして、芥川龍之介の研究者らから、批判されることになった。実は、私の家からそう遠くないところにある藤沢市文書館に「葛巻文庫」として、故葛巻義敏氏(昭和六〇(一九八五)年没)の芥川龍之介関連の旧蔵品(蔵書・メモ・来簡など)は纏めて保管されている。しかし、新全集の編集作業では、その保存されてある芥川龍之介関連品の一部は劣化が激しく、読み取ることが出来ないものもあり、原本として存在がそこに確認されていながら、結局、再視認さえ不可能で、岩波旧全集を元にせざるを得なかったものが、実際に、あるのである。葛巻氏は確かに芥川龍之介の資料が散逸しないように守った点では、もっと評価されるべきではあるものの、最早、それが、再検証出来なくなりつつあるという事実を知ってしまうと、まことに暗澹たる思いを持たざるを得ないのである。なお、この前日に脱稿した未定稿「鵠沼雜記」(末尾に大正一五(一九二六)年七月二十日のクレジットがある)があり、私はずっと昔に電子化している(リンク先)ので、是非、読まれたい。アフォリズム風のものだが、孰れも奇怪にして、甚だ病的である。龍之介の意図的創作も含まれてはいようが、ともかく、全部が、超弩級に妖しいのである。一つ、軽井沢も登場するのは廣子に通底するか。この中でも、最も強烈なのは、

   *

 僕は全然人かげのない松の中の路を散步してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り步いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ來ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

   *

であろう。

「碧童先生」小澤碧童。芥川龍之介は彼に依頼されて、彼の句集を出版する世話をしていたようである。後の七月二十七日附高野敬錄宛書簡を参照されたい。

「遠藤君」遠藤古原草。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十四日・消印二十六日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・廿四日 □□□□号 芥川龍之介[やぶちゃん注:判読不能は底本では、長方形。]

 

君の鎌倉の宿所がわからぬ故 多分𢌞送してくれる事と思ひ、中目黑へこの手紙を出す。ここも中々暑い。時々軟便になるので海へもはひれぬ[やぶちゃん注:ママ。]。おまけに無暗にヴアイオリンを引く靑年が近所にゐるのでやり切れない。何も書けず。不快極まりなし。一そ東京へかへらうかとも思つてゐる。

藥を敎へてくれてありがたう。あいつは早速一甁買つたが、鍼分故、胃にこたへて閉口する。僕はこの頃やはり砒素のオプタルソンと云ふものの注射をはじめた。まだ粥しか食へない。頓首

    七月二十四日     芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「砒素のオプタルソンと云ふものの注射」Optaron。サイト「精神科薬広告図像集」の「第1 1920-1949に広告画像(大正一二(一九二三)年の『神經學雜誌』のもの)があり、広告本文には「神經系統並に心臟疾患に對する强壯兼治療砒素注射劑」とあり、サイト主の解説に『砒素注射剤にストリヒニン(ストリキニーネ)を加えたもの』とある。砒素は猛毒であり、ストリキニーネも危険な劇薬であるが、昭和二七(一九五二)年九月一日発行の医学専門雑誌『臨床皮膚泌尿器科』に載る論文「各種皮膚疾患に對する砒素劑の效果」(大阪大學皮膚科泌尿器科學教室馬場正次・橋本 誠一共著。漢字の正字表記はママ)には、『從來』、『砒素製劑は所謂變質劑として各種の皮膚疾患に使用して』、『その效果が認められ』、『戰前』の『注射藥にソラルソン』、(☞)『オプタルソン等があり』、『邦産品として』は『アルソゾンが製造せられていた。然るに戰後暫時は輸入藥は入手不可能となり』、『邦産品も入手困難となつたので』、『止むなく同樣の效果を期待して我々は當時驅梅劑として使用され始めたマフアーゼンの少量を靜脈注射する方法を行つてみた。殊に最近に於ては』、『極めて安定な水溶性砒素劑注射藥が製造されるに至つたので』、『これを同樣』に『少量使用することにより』、『見るべき成績を得たのでこゝに報告する』と緒言されてある。芥川龍之介が打っているといのも、これである。新全集の宮坂年譜には、不審だが、翌月の八月十八日の条に、『富士』医師『の診察を受け、内服以外の方法がないか相談を』し、『そのため、この日から毎日、計一六回』(!)『にわたつて砒素のオプタルソン(神経衰弱に用いられた当時最高の注射液)の注射を受けることになった』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十七日・鵠沼発信・高野敬錄宛(葉書)

 

拜復御手紙拜見しました。大暑の候こちらまで御足勞をかけるのは恐縮ですから組み方その他の事は碧童先生御自身へ御相談下さいませんか。碧童先生の宿所は下谷區上根岸町百十七です。中村不折氏邸のすぐ側です。右とりあへず當用のみ。匆々

              芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:前の書簡に出た小澤碧童の句集の版組みの件である。

「高野敬錄」(けいろく 生没年未詳)は、新全集の「人名解説索引」その他によって、この年に『中央公論』編集長となったが、後の昭和二(一九二七)年一月三十日附宇野宛書簡に「高野さんがやめたのは氣の毒だね」とあるので、翌年早々に退任していることが判る(ウィキの「中央公論」の「歴代編集長」に、このクレジットで出る)。底本の岩波旧全集でも彼宛の書簡は八通あり、芥川龍之介研究論文でも、しばしばその名を見かける。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十九日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

ここにはこんな紙しかない。暑いことは東京と大差ないらしい。海へもはひらずに暑い思ひをしてゐるのは中々つらい。大喜びなのは子供ばかりだ。齒いしやや博士の健在を祈る。

   花はちす雀をとめてたわみけり

   白じろと┐ほそれる犬か┌松の風(コレハ未定稿)

       └犬もほそるか┘

    二十九日       龍 之 介

   犀 星 兄

 

[やぶちゃん注:鉤型の部分は、底本ではなめらな曲線で、行間は繋がっている。この書簡は高い確率で軽井沢にいる室生犀星に宛てて書かれたものと推定出来る。そうして、そこにはまだ廣子がいたかも知れない。彼女のことに触れないことが、逆に龍之介が廣子を強く意識していることを感じさせるものである「齒いしや」と「博士」が、その根拠である。「芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通」の八月二十九日附の輕井澤発信の塚本八洲宛書簡を見られたい。龍之介が、内心、嫌悪していた軽井沢二大馬鹿医者どもである。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十九日・消印三十一日・鵠沼発信・鎌倉大町藏屋敷七七九 佐佐木茂索樣・七月二十九日 鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、山本改造かへりて後、黑パンを食ひすぎて又々一日三四囘下痢し、再び富士さんの厄介に相成り候所、僕の胃腸の如きは藥餌療法では駄目なりと言はれ、悲親する事少からず。それでも兎に角藥を貰ひ、やつと下痢だけとまることを得たり。海水浴をする土地にゐながら海へもはひれぬほど悲慘なるはなし。おまけに僕の家の前はヴアイオリン、後はラディオと蓄昔機、左はラツパ、右はハアモニカ、後の又後は謠と鼓、と云ふ始末故、都合がつけば西海岸へ引き越さうかと思つてゐる。兎に角體を恢復するのは一事業だ。鎌倉へもちよつと行つて見たいが、足が寐足になつてゐるので三四町[やぶちゃん注:約三百二十八~四百三十六メートル。]步くとへこたれてしまふ。尻へはもう尾テイ骨が出て來たよ。匆々

               芥川龍之介

   佐佐木茂索君

二伸 この手紙を書き了つた時、西海岸の家ふさがりしことを知る。嘸然たり。そこへ君の本が來る。箱張りは餘り感心せず。見返しはよろし。しかし槪して裝幀は内容よりも落ちるかと思ふ。影などはうまいもんぢや(コレハ室生調)

 

[やぶちゃん注:「鎌倉大町藏屋敷」現在の鎌倉市御成町(グーグル・マップ・データ。地図有り)の旧名。八柳修之氏の「江ノ電の駅跡を訪ねあるく その6 極楽寺・鎌倉小町間」によれば、旧江ノ電には「蔵屋敷停留所」があり、大正十年十二月の『地図を見ると』、『江ノ電は大町停留所から直進して』、『横須賀線高架下を潜り』、『若宮大路へ出ていた。現在の御成は以前』、『鎌倉町蔵屋敷と言う地名であった。蔵屋敷停留所は、高架を潜る手前にあったと思われるが』、『定かではない。現在の人道下を通る電車の古い写真がある』とある。私は鎌倉史を調べているが、不覚にしてこの旧地名を知らなかった。

「山本改造」改造社の社長山本実彦。見舞いであろう。但し、冒頭の書き方で判る通り、山本の来訪はこの日よりも前である。新全集年譜では、二十四日と二十七日の間に『この頃、山本実彦(改造社)が来訪する』と差し込んであり、二十七日に確定して、『夕方、富士』医師『の診察を受ける。薬餌療法で胃腸を正常にするのは無理だと言われ、サルタ(座薬)を処方される』とある。思うのだが、この頃の龍之介の大腸の症状は現在のIBS(過敏性大腸症候群)ではないかと疑っている。何故なら、私もIBSだからである。龍之介の尾籠な表現はよく私の永い体験と一致するからである。私は少年期からずっと悩まされてきた。小学生の時は三度も朝の朝礼で大便を漏らしたし、成人後も緊張する場面に限って止めることの出来ない下痢に襲われた。硬い糞をした経験が殆んどない。一年三百六十五日、軟便か、下痢便であり続けた。私が胃腸科の専門医による内視鏡検査を経た上で正式にIBSと診断されたのは五十三歳の時であった。治療薬を処方された。噓のように全く下痢をしなくなった。しかし、その五ヶ月後に母がALS(筋萎縮性側索硬化症)で神に召され、その前後から服用しなくなり、また、元の木阿弥となった。しかし、五十五で早期退職してからは、そうした症状は殆んど無くなった。何処かへ出かけるとなると、しかし、便意を催す傾向は変わらない。

「西海岸」鵠沼の西直近の神奈川県藤沢市辻堂西海岸(グーグル・マップ・データ)のこと。

「君の本」これは恐らくこの大正十五年文藝春秋社出版部刊の佐佐木茂索「天の魚」かと思われる。松山省三装幀。サイト「日本の古本屋」のここで書影が見られる。

「室生調」室生犀星の口真似。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月・鵠沼発信・芥川宛

 

皆樣御變りない事と存じます。多加志こちらへ參つた晚より發熱いたし、こちらの醫者にかかりし所、胃腸惡きよしにて、ずつと床に就きをり候所、昨夜のませしヒマシ油の爲、今朝は床の中にウンコをし、大騷ぎに相成り、それよりおも湯をのませしも、皆吐いてしまひ、唯今又醫者に來て貰ひ候。熱も今は下り大した事は無之とは存候ヘども松ちやんも明日より村のお祭りにて家へかへることに相成り居り候へば、人手足らず、比呂志を四五日そちらへお預り願上げ候。右とりあへず當用のみ。

               龍 之 介

   芥 川 皆 々 樣

 

[やぶちゃん注:「松ちやん」現地で雇った女中の名と推察する。

 なお、新全集年譜に、この月末、『小穴隆一が、一軒おいた隣の貸別荘「イの二号」に移住する(翌年2月まで)。小穴の鵠沼移住を望んでいたこともあり、以後二人で、時には文を交えて三人で、散歩することがしばしばあった』とある。先に示した私の『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』には、『僕が丸山町のアパートから鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない』とある。

芥川龍之介書簡抄134 / 大正一五・昭和元(一九二六)年六月(全) 十通

 

大正一五(一九二六)年六月一日・田端発信(以下の宛先の書き方から推定)・市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣

 

同憂同散 二三日中には參上すべし。鵠沼に一月ゐる間の客の數は東京に三月ゐる間の客の數に匹敵す。唯今 又々痔を起し、泉さんより贈られたるお百草を尻へあてがつてゐる。この間の句は改作した。(チヤコ樣によろしく。)

     破調

   兎も片耳垂るる大暑かな

按ずるに「垂らす」或は「垂らしたる」とSの音はひりては大暑の感じかぶさり來たらず。「垂るる」と改めたる所以なり。

    六月一日       芥川龍之介

   佐 々 木 茂 索 樣

二伸「春の外套」に對する題など痔を起してゐては考へられん。唯僕のとつときの題に「南京の皿」「咋日の風景」などあり。御用には立ち難からんも、次手を以て披露に及ぶこと然り。

 

[やぶちゃん注:「同憂同散」貴君と憂うる心を同じくともにし、また同じように気を散ずるばかりの日々であるの意か。「同憂」は熟語としてあるが、「同散」は知らない。

「泉さん」泉鏡花。

「お百草」筑摩全集類聚版脚注に、『百種の草をとって製したという薬剤。長野県の御岳山のものが有名』で、本来は『胃腸薬』であるが、『外傷には塗布する。黒いかたまりで、かなりの苦みがある』とある。「日本家庭薬協会」公式サイト内の「御岳百草丸」を読まれたい。

「チヤコ樣」佐佐木の妻は房子だが、或いは愛称か。

「春の外套」筑摩全集類聚版脚注に、『佐佐木茂索の第一短編集。大正十三年十一月金星社刊。芥川の序を載せる。その処女短編集に応じた書名を龍之介に頼んでいるのだが、こんな形で無作為の書名を乞うなどというのは、私にはちょっと意外の感がある。

「南京の皿」筑摩全集類聚版脚注では、『この題名が佐佐木茂索の短編集にえらばれた。昭和二年五月改造社刊』とあるのだが、これは誤りがある。この時、佐佐木が書名を求めた作品集は大正一四(一九二五)年新潮社刊の「夢ほどの話」に続くものであるが、結局、刊行が遅れ、龍之介の自死した翌年の昭和三(一九二八)年に改造社から「南京の皿」として出版されている。この書簡での恩師のそれに謝意を表する形で採用したものであることが、同原本の佐佐木の後書で判る(国立国会図書館デジタルコレクションの佐佐木による後記)。

 なお、鷺氏及び宮坂氏の両年譜に、この頃(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「芥川文の〈湯河原〉回想」に引用されている「追想芥川龍之介」(芥川文述・中野妙子記・昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊)では、『六月に入ってから』とある)、『文と也寸志を連れて湯河原へ一泊旅行に出かけ』、龍之介が定宿としていた『中西屋旅館に宿泊』しており、『文との旅行は、これが最初で最後のものとなった』(ここの引用は宮坂年譜より)とある。龍之介は文とたった一度しか、しかも子連れの一泊きりの旅にしか出ていないことは、あまり認識されているとは思われないので、特にここに書く。本来なら、鷺氏のコラムを引用したいのだが、実は来月分で、どうしても引用したい部分があるので(文夫人の著作権は存続している)、ここは、鷺氏の引用からその折りの内容をなるべく私の言葉で纏める形で示す。――宿に着くまでに既に龍之介は疲れていたという。一泊後、湯河原からの帰りの汽車(二等車でシートは車体と並行して横になっているタイプであったとある)で、龍之介は、たまたま乗客がいなかったそこで、シートの上に横になってしまった。文さんはこのたった一泊の旅にお礼を言いつつ、しかし、『もう一つ連れて行って頂きたいところがあります』と言ったそうである。「どこだ?」と問うた龍之介に、文さんは『奈良です』と応じた。すると、『主人はしばらくして、『ぜいたく言うな』と申しました』とある。引用の最後は文さんだけに真に理解できた切々たる感懐を表現されておられるので、引用する。――『神経も体も疲れ果てた主人に、こんなことを言う私を、あわれとでも思ってでもよいから、奈良へ連れて行ってくれるような、生きる力が出てほしい、との私の願いでもあり、また策だったのですが……』――]

 

 

大正一五(一九二六)年六月七日・田端発信・蒲原春夫宛

手紙をありがたう。君の病狀を下島さんに話したら、ヂフリスぢやないかと言つてゐたぜ。僕はもうそろそろものを書いてゐる。あした又鵠沼へ行く。月末にはかへる故、ゆつくり出京し給へ。

    六月七日夜      芥川龍之介

   蒲 原 春 夫 樣

二伸 御芳志のカステラ今とゞいた。ありがたう 渡邊によろしく。

 

[やぶちゃん注:「ヂフリス」Syphilis。シファレス。梅毒。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月八日(消印)・田端発信・小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣

 

spanish fly の見本は東京のうちへとどけてくれ給へ。今度は一週間――長くとも二週間位にはかへつて來る故。

 

[やぶちゃん注:「spanish fly」『小穴隆一 「二つの繪」(6) 「その前後」』、及び、『穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』の本文及び私の注を読まれたいが、小穴は龍之介がこれを自殺用に「スパニッシュ・フライ」の入手を望んだと断じている。しかし、自殺用劇薬を不在の田端に届けてくれという言うだろうか? という疑問が、まず、ある。或いは、鵠沼の自分に届けると、それを直ぐに使用しまう虞れを龍之介自身が回避したともとれなくはない。しかし、「スパニッシュ・フライ」は別に催淫剤としても古くから知られていた。されば、鵠沼でそれを用いずに、妻文と交合が出来れば、まずは、いらない、と龍之介が考えたともとれるのである。事実上、「スパニッシュ・フライ」による自殺例を、私は本邦の事例では知らないからでもある。ともかくも芥川龍之介自身の霊にそれを求めた真相を聴く以外には、あるまいよ。

 

 

大正一五(一九二六)年六月十一日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。いろいろ御敎誨にあづかり難有く存じます。眠り藥の方はこの頃又ものを書き候爲、用ひる癖あり弱り候。日曜日にでも土屋君と御一しよにお遊びにお出で下さるまじく候や。近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顏ばかり大きく體は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より兩限の間へ駈け來るに少々悸え居り候。頓首

    六月十一日      龍 之 介

   齊 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:覚醒直前のレム睡眠時の幻覚が記されており、それが複数回起ると述べている。これは精神科医である茂吉への書簡であり、大真面目な事実として捉えなければならない。しかも、それが一度ならず起こるというのは、かなり病的である(但し、この幻覚は平安末から鎌倉初期頃に描かれた病者を描いた絵巻物「病草紙」の、一般に「小法師の幻覚を生ずる男」と仮題されるそれとよく似ており、その記憶が形成した夢或いは幻覚とも思われる)。この時、龍之介は暫くやめていた睡眠薬を再び常用し始めていたから、その副作用ともとれるが、それが、覚醒後の状態にも強迫観念として強く残るというのは、強迫神経症が始まっている可能性を排除出来ないと私は思う。

「敎誨」(けうくわい(きょうかい))は教え諭(さと)すこと。

「土屋君」土屋文明。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月十四日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十四日 あづまやうち 龍之介(葉書)

 

君が來ないものだから(即君が來らずアロナアルロシュも來らざる故)けふもひどい下痢を二囘起し、へこたれて切て[やぶちゃん注:底本には「へこたれて」の「て」にママ注記がある。]仰臥してゐる。僕の甥今死にさうなれど動くこともならず。怨、モサとチヤコとにあり。化けて出るぞ。

 

[やぶちゃん注:睡眠薬不使用により睡眠出来ないことで下痢が起こるというのは、腑に落ちるようで、そうでもない。寧ろ、胃腸の蠕動運動が低下し、睡眠剤で便が硬くなることはあるかとも思われるが、下痢がひどくなるのは、睡眠薬を服用しないからだという理屈はやはり納得出来ない。その不審通り、新全集の宮坂年譜に、六月中旬の条に、『下痢が続き、月末まで悩まされる(のち大腸カタル』(現在の大腸炎)『と判明)。痔も併発して苦しみ、塚本鈴』(妻文と八洲の母)『が心配して』、同じ鵠沼で結核療養していた『八洲についていた看護婦を回してくれた』とあって、文末の怨み言は、八洲に迷惑をかけている龍之介自身への鏡返しとなってしまうことが判る(後の書簡参照)。さらに、『藤沢で開業していた医師、富士山(ふじ たかし)の診察を初めて受ける』『(但し、富士の回想では、初診は翌月』二十七『日とされる』とある。但し、以下の小穴宛書簡から、最後のそれは富士医師の記憶違いであることが判る。

「甥」文の実弟塚本八洲。

「モサ」佐佐木茂索であろう。

「チヤコ」やはり佐佐木の妻房子の愛称らしい。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十日・鵠沼発信・神崎淸宛

 

何よりも先に御厚志を難有う

君は好い日に來た。あの翌日以來腹を下し從つて痔を起し、一かたならぬ苦しみをした上、とうとう鵠沼のお醫者にかかつてしまつた。腹の止り次第一刻も早く歸りたい。僕はもう尾籠ながらかき玉のやうな便をするのに心から底から飽きはててしまつた。菅忠雄君曰痔の痛みなんてわかりませんね。僕曰、たとへばくろがねの砦の上に赤い旗の立つてゐるやうな痛みだ。わかる? わからなければ度す可らずだ。

    六月二十日      芥川龍之介

   神 崎 淸 樣

 

[やぶちゃん注:「神崎淸」(かんざききよし 明治三四(一九〇四)年~昭和五四(一九七九)年)は評論家。島本志津夫のペン・ネームも用いた。香川県高松市出身。旧姓は河野。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学し、同在学中の大正一四(一九二五)年に、大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に参加した。東京帝国大学文学部国文科を昭和四(一九二八)年に卒業後、大森高等女学校(現在の三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により、昭和五(一九三〇)年に退職に追い込まれ、以後、文筆業に就いた。島本志津夫名義で映画「女學生と兵隊」の原作も手がけている。敗戦後は、売春の研究や、「幸徳事件」(大逆事件)の究明を手がけ、「日本子どもを守る会」副会長や、「第五福竜丸保存平和協会」理事などの役職も務めた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十日・消印六月二十一日・鵠沼発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アパートメント内 小穴隆一樣

 

拜啓、度々御手紙ありがたう。僕はここへ來る匆匆下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、とうとうここのお醫者にかかつてしまつた。お醫者の姓は富士、名は山、山は「たかし」と讓むよし、唯今弟についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、下痢のとまり次第歸京したい。一人で茫漠の海景を見ながら 橫になつてゐるのは實に寂しい。以上

    六月二十日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十二日・消印二十三日・鵠沼発信・東京市麹町區下六番町十番地文藝春秋此内 鈴木氏亨樣・六月二十二日 あづまやニテ 芥川龍之介

 

わたくしはけふの講演會へ出るつもりでゐましたが、腹を壞してゐる爲に出られません。元來講演と云ふものは肉體勞働に近いものですから、腹に力のない時には出來ないのです。甚だ尾籠なお話ですが、第一下痢をする時には何だか鮫の卵か何かを生み落してゐるやうに感ずるのです。それだけでもうがつかりします。おまけに胃袋まで鯨のやうに時々潮を吐き出すのです。そこで友人佐佐木茂索君にこの文章を讀んで貰ふことにしました。勿論佐佐木君は讀むだけではなく、佐佐木君自身の講演もされることと信じてゐます。若し万一されなかつたとすれば、どうか足を踏み鳴らして、總立ちになつてお騷ぎ下さい。右とりあへず御挨拶まで。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の六月二十二日の条に、『下痢のため、文芸春秋社の講演会の出席を断念する。佐佐木茂索に謝罪文の代読と講演の代演を依頼した』。『朝、佐佐木は芥川を見舞った後、海上の報知講堂に出かけて』以上の『謝罪文を読み、病状を説明した』とある。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラムによれば、この時のことを改装した佐佐木の「心覚えなど」という文章によれば、無論、『佐佐木は』代わりの『講演はしなかった』とあり、龍之介の病態を説明したところ、上記の『「鮫の卵」の条り』などで、『笑ったように』、『聴衆はなぜか時々哄笑をもって酬いてくれたという』と記されてある。而して、の日の午後十時頃、『鵠沼から田端の自宅に戻る』とある。症状がよくなったからではなく、恐らくは八洲の看護婦を横取りした形となったり、逆に八洲が見舞いに来て呉れたりした(次書簡参照)ことが堪えられなかったものとも思われる。年譜には、翌二十三日の条に、『午後、下島が来訪し、診察を受ける。大腸カタルによる衰弱が激しい』とある。

「鈴木氏亨」(しこう 明治一八(一八八五)年~昭和二三(一九四八)年)は小説家。宮城県仙台市出身。早稲田大学卒。雑誌『新小説』記者を経て大正一二(一九二三)年の『文藝春秋』創刊とともに編集同人となり、同時に菊池寛の秘書を務め、同社の経営に参画した。昭和三(一九二八)年には同社専務取締役となった。作家としては大衆小説昭和草双紙 江戶囃男祭(えどばやしとこまつり)(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年春秋社刊の単行本)の他、児童読物や、新国劇の戯曲、「菊池寛伝」などがある。戦時中は軽井沢に疎開した。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十九日・消印三十日・田端発信・市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・六月二十九日 たぱた 芥川龍之介

 

前略君がかへつた翌日から又腹を下し、少からず難澁した。おまけに一人になつて(尤も甥が來てゐたが)今にも死にさうな氣がしたから、冷たい番茶を藥罐にしこみ、それを飮み飮み東京へかへつた。それから下島さんに見て貰つて少康を得たからきのふちよつと室生を訪問したら、忽ち又冷えたと見えてけふは下痢と軟便との中間位になつてしまつた。五月三日には傍聽にでも參上したいと思つたがどうだかわからん(五月三日と言へば御迷惑を相かけ候段不惡おゆるし下され度)腹の固まり次第鵠沼へ行き何か少しでも仕事をしたいと思つてゐる。下痢ほど身心とも力のぬけるものはない。字までひよろひよろしてゐるのはあしからず。

    六月二十九日     芥川龍之介

   佐 佐 木 詞 兄(コレハ德田流)

二伸 奧さんによろしく。栗のお禮をよろしく。尤もあれは腹下しの種になつたが。

 

 

大正一五(一九二六)年六月三十日・田端発信(推定)・下谷區上根岸百十一 小嶋政二郞樣

 

冠省御手紙ありがたう。僕目下胃のみならず大腸加太兒を起し居り、お醫者に相談した所、痔の手術をするにはもつと營養がよくならねば駄目のよし。する時には岩佐病院へ御紹介を願ふべし。兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。實は君の手紙を見てあの長さに感謝すると同時にあの長さをものともしない君の魄力に敬服してしまつた。何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらヘカラシを貼り、脚湯まで使つてゐるのだから。もうこれでおしまひ。どうか奥さんによろしく。美籠ちやんの顏も見ざること久し。大きくなつたらうなあ。

   六月三十日       芥川龍之介

   小嶋政次郞樣

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、小島政二郎の書簡に、痔の手術の病院(この「岩佐病院」と思われる)を紹介する文面があった旨の記載がある。

「美籠ちやん」「みこ」と読む。小島の娘。諸資料を見ると、当時、数えで、三歳ほどか。調べてみると、昭和三九(一九六四)年光風社刊の小島政二郎の単行本「悪妻二態」の装幀が小島美籠とある。しかし、昭和五四(一九七九)年中央公論社刊の小島の短編集「妻が娘になる時」という作品では、Kent Nishi氏の小島政二郎『妻が娘になる時』の懐かしさ」という記事によれば、当時、美籠は亡くなっているようである。小島は一種、文壇の情報屋的な一面を持っており、当該ウィキによれば、一九五〇『年代以後は、その発言・記述が文壇において物議を醸し、時に軋轢を生じる結果となっている。長く務めた直木賞選考委員も最期は事実上』、『解任されることとなり、長年の盟友であった佐佐木茂索からも遠ざけられた』とある。彼は満百歳で亡くなっているが、長生きし過ぎたという感がある。]

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