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2021/09/30

気がついたら

ブログが、夕刻、1600000アクセスを超えていた(今回は十一日でやってきた)。ここのところ、一万アクセス越えが異様に早い。「芥川龍之介書簡抄」と「兎園小説」へのアクセスが有意に増えたせいであるが、実は、小生、もう一年許り前から、夕食後の作業は殆んどしていない。というか、早いと八時過ぎには就寝するようになった。突破記念テクストは、準備はしたが、明日に持ち越す。今日も、もう床に就く。悪しからず。 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 平豊小說辨 /第七集~了

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の第一輯上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。発表者は著作堂曲亭馬琴で、標題は「へいほうせうせつべん」と読み、メイン・テーマは平清盛の白河院の落胤説、及び、豊臣秀吉私生児説を追った考証である。私は秀吉が生理的に嫌いであり、時間をかけたくないから、注はごく一部にする。やはりダラダラとしかも異様に長いので、段落を成形した。読みは一部で送りがなとして出し、読みが五月蠅くなるのを避けた。なお、底本は一部で略字が使われており、それに忠実に従っている。例えば平清盛は「淸盛」ではなく「清盛」であり、豊臣も「豐臣」ではなく「豊臣」である。

 

   ○平豊小說辨

 解云、小說・野乘(やじやう)の信じがたき、誰(たれ)か董狐(とうこ)の言を俟つべき。しかるに、猶ほ、世の讀書の人、唯、その舊記に因循して、曉(さと)らざるもの多かるも、むかしは、井澤・谷の両先輩、をさをさ、これを辯じたり。されども言(こと)に當否あり。猶ほ且つ、遣漏も少なからず。抑(そもそも)、中つころよりして、かの平相國入道を「白河帝の御子(おんこ)」といひ、又、豊臣太閤を「後奈良院の落胤なり」といふものあるは、いかにぞや。是等を辯ずるものもあらねば、今、その異同を折衷して、世俗の迷(まよひ)を解かんと欲(ほ)りす。極めて鳥滸(をこ)のわざに似たれど、學は異(い)を得て成るにあらずや。かゝれば、竊かに、この編に、「平」と「豊」との二姓(にせい)を擧げて、もて、題目とするもの、しかなり。

[やぶちゃん注:「小說」市中で口頭によって語られた話を記述した真否が疑わしい創作的文章。本書を「兎園小說」と名付けている馬琴がこうした語を使うのは、頗る鼻白む。

「野乘(やじやう)」「乘」は「孟子」「離婁下」に「晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋一也。」とあるように、春秋時代の晉の史官の筆による歴史の記録。また、歴史書のことであるが、転じて民間で編纂した公的信憑性が低いとされる私撰の野史を指す。

「董狐(とうこ)」春秋時代の晋の史官。霊公が趙穿に攻め殺された際、正卿である趙盾(ちょうとん)が穿を討たなかったことから、董狐は「盾、その君を弑 (しい) す。」と趙盾に罪があるとする記録をした。後世、理非を明らかにしたこの態度を孔子が大いに讃えたことで有名である。

「井澤」江戸前期の神道家・国学者井沢長秀(寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)。肥後熊本藩士の子。宝永三(一七〇六)年刊の当時の神道に係わる俗説を採り上げ、解説した「本朝俗説弁」が著名。号の蟠龍で知られる。彼の出版した「今昔物語集」の抄録本は校訂の杜撰が批難されることで有名だが、同書を民間に広く知らしめた功績は大きい。

「谷」同時期の儒学者・神道家の谷重遠(たに しげとお 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)。号の秦山(じんざん)で知られる。国書を渉猟し、学問を大成、「国体の明徴」を説いて、後代に大きな影響を与えた。

「後奈良院」正親町天皇の父。

 ここまで、底本では実は全体が一字下げ。

 「平家物語」に云、「相國入道清盛公は平人(たゞひと)にあらず。まことは白河院の御子なり。その故は、永久[やぶちゃん注:一一一三年~一一一八年。鳥羽天皇の治世だが、白河法皇が院政を敷いた。]のころほひ、平忠盛、東山祗園の片ほとりにて、あやしの法師を、生けながら、捕へたりける「けんしやう」[やぶちゃん注:「勸賞」。褒美を与えること。]に、白河院、御最愛と聞えし祗園女御を忠盛にこそ下されけれ。此女房、はらみたまへり。

「うめらん子、女子(めのこ)ならば、朕が子にせん。男子(をのこご)ならば、忠盛、とりて、弓とりにしたてよ。」

とぞ仰せける。乃(すなは)ち、男を、うめり。ことにふれては、披露せざりけれども、内々は、もてなしけり。

『この事、いかにもして奏せばや。』

と思はれけれども、しかるベき便宜(びんぎ)もなかりけるが、或時、白河院、熊野へ御幸(ごかう)なる。紀伊國「いとり坂(さか)」[やぶちゃん注:不詳。]といふ所に、御輿(みこし)をかきすゑさせて、しばらく御休息有りけり。其時、忠盛、やぶに、いくらも有りける「ぬかご」を、袖にもり入れ、御前(ごぜん)に參り、かしこまつて、

「いもが子は、はふ程にこそ、なりにけれ。」

と申したりければ、院、やがて、御心(みこゝろ)有りて、

「たゞもり、とつて、やしなひに、せよ。」

とぞ、つけさせましましける。さてこそ、わが子とは、もてなされけれ。此の若君、あまり、よなきをしたまひしかば、院、きこしめして、一首の御詠(ぎよえい)をあそばいて、下されける。

 夜なきすとたゞもりたてよ末の世に清く盛かれることもこそあれ

それよりしてこそ、「清盛」とは、なのられけれ』【已上、「平家物語」。○「源平盛衰記」に載する所、右に同じ。但、その文、小異あるのみ。】。

 又、「成形圖說(せいぎやうづせつ)」[やぶちゃん注:薩摩藩主島津重豪の命によって曾槃(そうはん)らが編纂した農学書。享和年間 (一八〇一年~一八〇四年) より三十年間に亙って、農政経済・本草・博物などを、和・漢・洋の資料を駆使し、百二十巻に及ぶ叢書として作り上げたもの。文化元(一八〇四)年までに三十巻まで刊行されたが、中絶した。]【卷二十二。[やぶちゃん注:原本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。]】・「山津芋糠子(やまついも・ぬかご)」の條下(くだり)に、右の本文を略抄・引用して曰、

『臣、國柱、按ずるに、世に不出非常の人、必、その本生(ほんせい)、父(ふ)の詳(さだか)ならぬぞ、多かる。豊臣秀吉公の平清盛に似たるにや。一書に、太閤秀吉の父、測(しれ)ずといふは、はじめ、馬島明眼院(ましまみやうげんゐん)[やぶちゃん注:愛知県海部郡大治町にある天台宗明眼院(みょうげんいん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は日本最古の眼科専門の医療施設として知られ、後水尾上皇皇女の治療により「明眼院」の名を賜ったとされるが、この同天皇の母は関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院近衛前子であるものの、この事実は時制が合わないから、信におけない。]といへる者あり。天子の御眼病(ごがんびやう)を療治しまゐらせしかば、叡感の餘り、宮女を明眼に賜はりける。此宮女、天子の幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて懷胎なり。是れは、後奈良帝の御宇の時の事にて、明眼てふ名も後に賜はりし名にや。始めより、宮女、有身(みこもり)の事も、しれざりしにぞ。しかるに、明眼は倫戒を(りんかい)保ちて、一向に妻を納(い)れず。この宮女を、尾州愛智郡(あいちこほり)中村の住人筑阿彌(ちくあみ)に與へけり。遂に筑阿彌許(がり)にて、出生(しゆつしやう)せしは、卽ち、秀吉也。一說に、筑阿彌、はじめ、中村彌助昌吉(やすけまさよし)と號す。故に、世には王氏(わうし)[やぶちゃん注:直系皇族。]の樣にいひなせるもあり[やぶちゃん注:この理由、意味不明。]。又、俗說に、筑阿彌が妻、『日輪、懷に入る。』と夢みて孕み、誕生ありし故、童名を「日吉丸(ひよしまる)」と號すなどあるも、天子の御種(おんたね)を宿せしを、いひなせるにや。「太閤記」などいふ草子には、其の母は持萩(もちはぎ)中納言保廉卿(やすかどきやう)[やぶちゃん注:不詳。]の女(むすめ)也。「天文丙申正月元日誕生」と記せり。一說には、信長の足輕木下彌助といふものゝ子也、とあり。然れども、秀吉の信長に仕へし次第を見るに、木下彌助が子ならば、初めより、信長に仕ふべき事なり。又、筑阿彌の秀吉に於ける、我が子のあしらひとも、見えず。僧にもなさんとせし程に、秀吉、父の所を逐電せられし事あり。且つ又、秀吉、一天下を掌握せられての後(のち)、親の廟所とて、中村にもなく、又、墓所(はかしよ)もしれず。秀吉の父、慥(たしか)ならば、きと、位牌なども取り建てらるべきに、其事も、聞えず。何れにも筑阿彌は、本生(ほんせい)の父にあらざるを、己れも、しり給ひしなるべし。』

と、いへり【下略】。

[やぶちゃん注:以下、底本では「學者、よろしく辨ずべし。」まで全体が一字下げ。]

 解云、これらの說は、ふるくより世の人口に膾炙したり。しかれども、平相國・豊太閤を「天子の落胤なり」といふが如きは、疑ふべく、信(う)けがたし。よりて、竊かにこれらの說の出づる所をおもひみるに、かの平相國入道は、老後にこそ、わろくはなりたれ、「保元・平治の擾亂(ぜうらん)」には、功ありて、不義あらず。就ㇾ中(なかんづく)「平治」には信賴・義朝を討ち滅ぼして、兵馬の權(けん)を執りしより、既に天子を挾(さしはさ)みて、己(おの)がまにまにせざる事なく、富(とみ)は三十餘國をたもちて、位は人臣の上を極め、遂に天子の外戚(ぐはいせき)とさへなりにたる。源・平両家の始まりしより、かゝる例(ためし)の有ることなければ、猶、その素生(すじやう)を至尊(しそん)にし、且つ、その人を神(かみ)にせんとて、不經(ふけい)[やぶちゃん注:常道からはずれること。常軌を逸すること。道理に合わないこと。]の言(こと)のいで來たるにや。按ずるに、かの「いもが子の歌」の出處(しゆつじよ)は、只、この一本のみならず、おのれ、往(い)ぬる歲(とし)、考異の編あり。今、錄すること、左の如し。

 阿彌陀寺本「平家物語」【この書は、長門なる阿彌陀寺の什物なり。防間[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『坊間』。「防」なら「周防一帯」、「坊」なら「寺院間」の意で孰れでもおかしくはない。]に寫本にて流布する。長門本「平家物語」と同じからず[やぶちゃん注:この言い方はおかしい。「阿彌陀寺本」は現在は「旧国宝本」或いは「赤間神宮所蔵本」とも呼ぶが、所謂、広義の「長門本」系には七十数本に及ぶ写本が伝わるが、この「阿彌陀寺本」は「長門本」系の代表的写本の筆頭に数えられているからである。但し、「平家物語」の写本の系統研究は進んでいないものの、今の段階ではあたかも伝家の宝刀の如く「阿彌陀寺本」と呼称するものの、この「阿彌陀寺本」が「長門本」の原型という説は退けられており、別な場所で写本・追加創作され、最終的に阿弥陀寺に齎された古い「長門本系写本」となったものと推定されているようである。以上は「花鳥社」公式サイト内の浜畑圭吾氏の「長門本『平家物語』研究小史―その成立をめぐって―」を参照した。]。「群書一覽」を著はしたる尾崎雅嘉も[やぶちゃん注:尾崎 雅嘉(まさよし 宝暦五(一七五五)年~文政一〇(一八二七)年)は江戸中・後期の国学者。この「群書一覽」は享和二(一八〇二)年刊行。国学の代表的な著書であったが、庶民から非常な高評価を得た。古代から江戸時代の国書の刊本千七十七部・写本六百五十二部を収録し、全六巻から成る。]、この書を見ざりけるにや。「平家物語」「梶原が箙の梅のうた」のくだりに疑をしるしたり。學者、よろしく辨ずべし。】に云、

『鳥羽院の御内に、小大進(こだいしん)の局(つぼね)とて候ひけるが、いさゝかなる事によて、御内(みうち)をすみうかれ、かたへんど[やぶちゃん注:「片邊土」。]なる處に、かすかなるすまゐしてぞ候ひける。或る時、小大進の局、太秦(うづまさ)にまゐりて、七日、こもれり。我身のありわびたる事をぞ、いのり申しける。七日にまんじける[やぶちゃん注:満願すること。]曉(あかつき)、「下向せん」とての夜半(よは)ばかりに、「やくし十二せいぐわん」の中(うち)に、「衆病悉除(しゆうびやうしつじよ)」のたのもしきことをおもひ出だして、

 南無やくしあはれみたまへ世の中に住みわびたるもおなじやまひぞ

と、よみてまゐらせ、下向して十二日とまうしゝに、八幡の撿校(けんげう)廣清(ひろきよ)に、ぐそくして、まうけたる子也【「まうけたる子なり」とは、「待宵の侍從」が事をいふなり。これまでは「著聞集」、その他の書どもに見えたるも、相同じ。但、右の歌の下の句、「ありわずらふも病ならずや」[やぶちゃん注:「わずらふ」はママ。]とあり。】[やぶちゃん注:『「待宵の侍從」が事』待宵(まつよい)の小侍従(生没年未詳)のこと。平安後期から鎌倉時代にかけての女流歌人で、石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。当該ウィキに、彼女が『高倉天皇に仕えていた頃は、ひどく貧乏で夏冬の衣更もままならない程だった。これでは宮仕にも差し支えると、広隆寺の薬師如来に七日間参籠して祈ったが御利益がなく、絶望してもう尼になるしかないと思いつつ』、『南無薬師憐給へ世中に有わづらふも病ならずや』(「源平盛衰記」巻第十七)と詠んで、『まどろんでいると』、『仏から』、『白い着物を賜る夢を見た。気を取りなおして参内したところ、八幡の別当』『に想いを寄せられる等、次第に運が向いてきて、高倉天皇の覚えもめでたくなり出世したという』とある。]。

 此の子、二つと申しけるに、父とも[やぶちゃん注:「「兎園小説」では『ともに』。]南おもてに出でゝあそびける。この子、はゝがひざによりをり、ひろえんを、はひありきけり。頃は九月中旬のころ、南面の(みなみおもて)のまがきに、薯預(やまのいも)、はひかゝり、その蘇(むかご)、なりさがりたりけるを、廣清、これを見て、

 いもが子ははやはふ程になりにけり

と、くちすさみたりければ、此の母、この子をいだきとるとて、

 いまはもりもやとるべかるらん』【已上、「德大寺實定卿舊都月見」の段に見えたり。】。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 又、「今物語」にも、この事、見えたり。云、

『小大進と聞えし歌よみ、いとまづしくて、太秦(うづまさ)へ參りて、御前(おまへ)の柱に書きつけゝる歌云云(しかじか)。程なく、八幡の別當光清に相ひ具して、たのしくなりにけり。子など、いできて後、もろともに居たりける處、近きところに、「いも」の「つる」の「は」、ひかゝりて[やぶちゃん注:引っ掛かって。]、「ぬか子」などのなりたりけるを見て、光清、

 はふほどにいもがぬかごはなりにけり

と、いひければ、ほどなく、小大進、

 今はもりもやとるべかるらむ』。

[やぶちゃん注:以下、底本では羅山の「將軍譜」の漢文引用の前まで、全体が一字下げ。]

 この連歌は、「菟玖波問答(つくばもんだう)」にも見えたり。これらは、後のものながら、「平家物語」にすら、異說ある事、右の如し。かゝれば、「ぬか子の連歌」をもて、「清盛公を白河帝の落胤なり」といふ說は、疑ふべく、信ずべからず。

 譬へば、源賴政卿、化鳥(けてう)を射ける勸賞(けんじやう)に、「あやめ」といへる宮嬪(きうひん)を賜はらんとありしとき、

 さみだれに池のまこもの水ましていづれあやめとひきぞわつらふ

と、よみけるよしは、「平家物語」・「源平盛衰記」その他の册子(さうし)にも見えたれど、無住法師が「沙石集」【五卷。】には、故鎌倉の右大將家、「あやめ」といふは、したものゝ美人なりけるを、

「梶原三郞兵衞尉に給はらん。」

と、ありしとき、梶原、すなはち、云々(しかじか)と、よめりしよし、いへり。但し、歌の上の句、「沙石集」には、「菰草(まこもぐさ)あさかの沼に茂りあひて」とあり。

「無住は俗姓、梶原の族なれば、彼(か)の集にいふ所をもて、まさしとすべし。」

と、先輩の、いへるが如し。

[やぶちゃん注:ウィキの「無住」によれば、説話集「沙石集」(弘安二(一二七九)年起筆で同六(一二八三)年に原型が成立したが、その後も絶えず加筆され、それぞれの段階で伝本が流布し、異本が多い。記述量の多い広本系と、少ない略本系に分類される)の作者で鎌倉後期の僧無住(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学』の僧」『として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、歴史学者『大隅和雄は、「無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい」との判断をしている』とある。同書は親しく読んだが、鎌倉の地誌に詳しいことが同書の諸編から窺われ、首肯出来る。]

 只、是のみならず、「清く盛れる」とある御製によりて、「清盛」と名のりしといふことも、信(う)けがたし。平家は貞盛より以來、「盛」をもて、二字名の下に置くこと、珍しからず。さるにより、清盛の「清盛」と名のれるならん、別に意味あることゝしも、おもほへず[やぶちゃん注:ママ。]。もし、その字義によりていはゞ、「清」白(せいはく)をもて、後々(のちのち)まで「盛」りなり、とせらるゝものは、無爲不爭(むゐふさう)の盛德のみ。

「仁者不ㇾ富。富者不ㇾ仁ナラ。」

かの入道の人となり、清白・盛德あることなければ、

「末世(まつせ)に清(きよ)く盛りならん。」

とよませ給ひしよしは、當らず。

「盡セハㇾ書、不ㇾ如(シ)カ[やぶちゃん注:読みを含んでいるので丸括弧を添えた。]ㇾ無キニㇾ書。」

と聞えたる孟子の敎(をしへ)いへば、さらなり。

 是等の類(たぐひ)、世に多かり。

 又、豊太閤の父の事、昔よりして、知るよしなければ、さまざまにいふものあれども、何れも不經(ふけい)をまぬかれず。そが中にも、

「後奈良院の孕みたる宮女をもて、明眼院に給はりしより、その宮女は尾張なる筑阿彌(ちくあみ)に遣嫁(よめら)せられて、うめりし、その子は秀吉なり。」

といへる說こそ、うけられね。

 いかにとならば、明眼院は、はじめより、淨戒を保つによりて、妻を娶(めと)らざるものにしあらば、假令(たと)ひ、至尊の恩賞なりとも、宮女を賜はらんとあるときに、辭し奉るべき事なるべし。さるを、辭(いな)まず、うけ奉りて、一兩月の程なりとも、その身は、醫師(くすし)のことなるに、その懷胎をしらざりしは、いと不審(いぶか)しき事にあらずや。しかのみならず、遙々(はるばる)と遠く貧しき尾張なる筑阿彌に遣嫁せし。

 かう、理(ことわり)に違(たが)ひし事、あるべくもあらずかし。

 又、その母の懷へ、「日輪の入る」と夢みて、秀吉公を生みしといへるを、俗說とのみ、すべからず。はじめ、朝鮮の役(いくさ)を起さんとせられし時、異邦へおくり示させし書翰の中に、彼(か)の日輪の一條あり。かゝれば、實(じつ)に、その事ありし歟。さらずば、「みづから、神にせん。」とて、このとき、猛(にはか)に云云(しかじか)と書き示させしも、知るべからず。寬永の末のころ、羅山林先生、台命(たいめい)によりて書きつめたる「將軍譜」にも、これを載せて云、

秀吉不ㇾ知所生。或曰、「尾張國愛智郡中村鄕、筑阿彌子。其母、夢ミテ日輪入ルト懷中而生ㇾ之。故ツク日吉

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が「その證は、」まで一字下げ。]

 これも、當時の小說を取られたるものながら、これより外の、正文、なし。然(さ)れども、世の人の、秀吉公の實父の名をだに、知りたるものゝあることなきに、まいて、末生(みしやう)に、その母人(はゝひと)の夢ものがたりを、誰か知るべき。

 よりて、思ふに、秀吉公の幼名を「日吉(ひよし)」といひしが實事(じつじ)ならば、「東國太平記」にいへるが如く、天文丙申[やぶちゃん注:天文五(一五三六)年。]の年に生れたまへば、「猿」に因みし名にはあらぬ歟[やぶちゃん注:日吉大社の神使は古くから猿とされる。]。かの記なる略傳には、童名を「猿」といふといへり【本文は下に抄すべし。】。「猿」といひしは、綽號(あだな)にて、「日吉」といひしは、童名歟。そを辨ずるよしなけれども、「日吉」は、卽、「比叡(ひえ)」にして、原(もと)、「山王」の山號(さんごう)なれば、亦、是、「猿」に因(ちな)みあり【いにしへは、「吉」を「エ」とよめり。よりて、「比叡」を「日吉」、「澄江」を「住吉」とも、かけり。後世、この訓讀を失ひしより、「日吉」を「ひよし」とよみ、「住吉」を「すみよし」と唱るは、みな、誤りなり。】。

[やぶちゃん注:日吉大社の祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)は「山王権現」とも称され、また、それは比叡山の地主神でもあり、「山王」と「比叡山」のイメージから「猿」が神使とされたのである。]

 又、俗說に、「秀吉の面貌の猿に似たり」といふもの、あれども、其肖像を今も見るに、「まさしく猿に似たり」とは、おもほへず。稚(をさな)き比(ころ)より、小さかしく、且つ、その本命(ほんめい)「丙申」なれば、里人等(ら)の綽號(あだな)して、「猿」といひしといふ說も、穩(おだやか)なりとすべきにや。されば、信長公の、罵りて、「猿冠者(さるくわんじや)」と呼びたまひしも、世の言ぐさに、よられしならん。かゝれば、「猿」といひしより、「猿」に因みて、「日吉」といふ名さへ、作り設けたる、當時(そのかみ)、好事(かうず)の所爲(わざ)にあらぬ歟。是も亦、知るべからず。そは、とまれ、かくもあれ、「成形圖說」[やぶちゃん注:底本は「成」を「或」と誤植している。訂した。]に、一書を引きて、秀古公の父の名を「木下彌介」と、しるしたる、「彌介」は「彌右衞門」のあやまりなり。その證(あかし)は、

「東國太平記」【卷一】に云、『傳ニ曰、秀吉ハ氏姓不ㇾ詳ナラ。大德ヲ賞セソガ爲ニ、種々ノ奇說ヲ記ストイヘドモ、皆、不ㇾ信ナラ【中略。】。或說ニ曰、「秀吉ノ父ハ、本(モト)織田信秀之鐵炮之者ニ、木下彌右衞門ト云フ人ナルガ、奉公ヲ辭シ、其在所ナル尾州愛智郡中村ニ歸住ス。同母ハ同郡御器所(ゴキソ)村ノ人ナリ。持萩(モチハギ)中納言ノ息女ナリトカヤ。其故ハ、中納言、罪、有テ、尾州持雲(ムラクモ)之里[やぶちゃん注:不詳。]へ配流セラレ、息女一人有リテ、二嵗ノ時、中納言、卒去セラル。依ㇾ之、後室ハ娘(ムスメ)ヲ誘(イザナ)ヒテ京へ上リシガ、年經テ、洛陽、兵亂起リ、在京成ガタク、ヨリテ息女十六歲ノ時、又、尾州へ下リ居タマヒシガ、十八歲ノ時、彌右衞門ニ嫁シテ女子一人ト、其次ニ天文五丙申春正月元日[やぶちゃん注:古くよりの説であるが、後で本文でも出るが、現在は翌六年二月六日誕生説が有力で、そうなると、「猿」干支説は崩れる。]ノ朝、男子ヲ、マウケ給フ。是、則、秀吉也。童名ヲ「猿」卜云ニ付テ、種々ノ異說アリ。皆、不ㇾ實ナラ。唯、申年ニ生レ給フニヨリテ也[やぶちゃん注:「や」。]]、父母、何トナク、其名ヲ「猿」トヨバレシナリ。面𧳖(メンボウ)モ自然ニ猿ニ似テ、又、仕業(シワザ)モ、コサカシク、猿ニ似マタヒケルニヤ。此說、尤、可ナリ。秀古ノ姊(アネ)ハ、成人ノ後、同國乙之(ヲトノ)村ノ民、彌介ニ嫁ス。彌介、後ニ、三好武藏守三位法印一露(イツロ)ト稱ス。是、則、關白秀次ノ實父也【下略。】』。

[やぶちゃん注:「三好武藏守三位法印一露」豊臣秀次・秀勝・秀保らの実父三好吉房(天文三(一五三四)年~慶長一七(一六一二)年)。豊臣家の一門衆で尾張犬山城主、後に清洲城主となった。もとは尾張国海東郡乙子(おとのこ)村の百姓か、馬丁出身ともされる。

 以下、「擇むべし。又、」まで、底本では全体が一字下げ。「兎園小説」では、その後の「眞砂に云、」までが一字下げで、異なる。]

 按ずるに、「豊臣譜」に載するもの、秀吉公の兄弟四人、所謂、第一「秀吉公」、第二「大和大納言秀長」、第三「武藏守一路(いつろ)が妻」、第四「南明院殿(なんみやうゐんでん)」、是也。かゝれば、「東國太平記」にいふ所も、一定(いつてい)しがたし。

 然れども、一書に云、『初生の女子と秀吉公は、前夫(ぜんふ)彌右衞門が子也。又、秀長卿と南明院殿は、後夫(こうふ)筑阿彌が子也。いまだ、孰れか是(よき)を、しらず』。

 さて、「明眼院云云」の一說は、右に抄せし持萩中納言母子の事より、いできたるものにやあらん。實に[やぶちゃん注:「げに」。]、秀吉公の母、稚(をさな)くて父を喪(うしな)ひたまひし時、母と共に都にのぼりて、二八のころまでありし程、大内(おほうち)に仕へまつりて、遂に天子の御胤(おんたね)を宿(やど)せしなど、いはゞいふべし。然かれども、持萩殿の妻といへるは、本妻ならで、配所にて娶(めと)りたる、かりそめの側室(そばめ)なるべし。昔も今も、流罪の人の、その妻を携へて、配所にゆくこと、なければ也。まいて、敕免あらずして、配所にて身まかりし人の息女を、いかにして内裡(だいり)にて召し仕(つか)はるべき。縱令(たとひ)、その身、素生(すじやう)をかくして、仕へまつりし事ありとても、尾張にかへりて生みたる子の、初めなるは、女の子にて、次に生れしが秀吉ならば、亦、かの「天子の落胤也」といひけんことも、齟齬すなり。又、持萩といふ人は、當時、公卿の名號(みやうがう)を書きたるものに、所見、なし。かゝれば、「明眼に賜はりし宮女云云(しかじか)」の一說は、菅公(かんこう)を「文德帝の落胤也」といふものと、平相國人道を「白河院の落胤也」といふものと相似たり[やぶちゃん注:「あひにたり」。]。

 皆、是れ、當時の稗說(はいせつ)にて、鑿空無根(さくくうむこん)[やぶちゃん注:現代仮名遣「さっくうむこん」。根拠がなく、出鱈目なこと。内容が乏しく、真実性が薄く、事実も根拠も全くないこと。]の言(こと)なるべし。人の好事(こうず)に走ること、今も昔もかはらねど、菅丞相は大賢(たいけん)也。平相國は將種(しやうしゆ)也。豊太閤は英雄也。至尊の落胤ならずといふとも、誰(たれ)かこれを賤(いやし)むべき、思はざること、甚し。

 只、是れのみにあらずして、平大臣宗盛公をば、「傘張の子なり」といへり。その人、暗愚なるときは、將相貴介(しやうじやうきかい)[やぶちゃん注:将軍・宰相といった高貴な位。]の公子(こうし)なるも、これを「匹夫の子なり」といひ、その人、賢良英雄なれば、儒官・武士・匹夫の子をも、これを「天子の落胤」とす。世の褒貶は、私議(しぎ)に起こり、是非は成敗(せいばい)に依ること、多かり。陳壽(ちんじゆ)が米(こめ)を甘(あま)なふとも、氏族を飾るは、人によるべし。

[やぶちゃん注:「陳壽」(二三三年~二九七年?)は三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で「三国志」の著者として知られる。よく判らぬが、当該ウィキに、彼には執筆に『際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られると』、『その人物の伝記を書かなかったという話がある』とあり、「米を甘なふ」というのは、「執筆料次第でいかようにも事実を捏造した」ことの意ととれる。

 以下は底本でも改行。]

 唐山(からくに)にも、さるためしあり。秦の始皇を「呂不韋(りよふゐ)が子」といひ[やぶちゃん注:「呂不韋中国」戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護し、後に、その擁立の功によって丞相となり、始皇帝に「仲父」と尊称されたが、密通事件に連座して失脚・自殺した。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂したことで知られる。俗説では「始皇帝の実父」とされる。紀元前二三五年没。]、晋の明帝(めいてい)を「牛金(ぎうきん)が子也」といふ[やぶちゃん注:「牛金」は後漢末期から三国時代の魏に仕えた軍人。曹仁に従って各地を転戦した。「赤壁の戦い」の後に、周瑜率いる孫権軍六千人が江陵に攻め込んで来た時、牛金は僅か三百人でこれを迎撃・奮戦し、守備し通した。後に魏の後将軍に出世した猛将。]。これ、將(はた)、當時の小說なれども、史官、をさをさ、取るものあれば、必ず、よしあることなるべし。又、蜀漢の昭烈(そうれつ)の、自(みづ)から「中山靖王(ちうざんせいわう)の後(のち)なり」と稱したる[やぶちゃん注:「中山靖王」前漢景帝の子。名は劉勝。紀元前一五四年に中山王に封ぜられ、河北省定県一帯を治めた。その墓は「満城漢墓」と称され、玉片を金糸で綴り合わせた死装束などの出土で知られる。紀元前一一三年没。]、劉宋の高祖武帝の、自から「漢の楚元王(そげんわう)の後也」といふが如き[やぶちゃん注:「漢の楚元王」前漢の高祖劉邦の異母弟劉交(?~紀元前一七九年)の諡号。]、世系(せいけい)遥かなるをもて、司馬光は、猶ほ、疑ひぬ[やぶちゃん注:「司馬光」(一〇一九年~一〇八六年)は北宋時代の儒学者・歴史家で政治家。彼の祖先は西晋の高祖宣帝司馬懿(い)の弟司馬孚(ふ)とされている。厳密な大書の歴史書「資治通鑑」の編者として著名。]。譬へば、織田家を「清盛の裔孫也」と云と雖も、世系、まさしからぬをもて、白石は、猶、疑ひて、遂に、その辯あるが如し[やぶちゃん注:以上の太字部分は「兎園小説」版では、後の頭書に出る。]。

 又、この事と似たるものあり。足利の義包(よしかね)を「爲朝の子なり」といひ[やぶちゃん注:「足利の義包」足利義兼(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)の異名表記。足利義康(源義家の孫で義国の子)の子で源義家の曾孫に当たる。源頼朝に属し、平氏討伐・奥州藤原氏討伐に従軍。北条時政の女婿である。]、岩松入道天用(いはまつにふだうてんよう)を「新田少將義宗(よしむね)の子也」といへる、卽、これなり[やぶちゃん注:「岩松入道天用」岩松満純(みつずみ ?~応永二四(一四一七)年)の法名。彼は足利氏(下野源氏)一門の岩松氏(上野源氏)の当主岩松満国と新田義貞の子である義宗の娘との間の子で、妻は犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)の娘である。但し、満純自身、後年、「外曾祖父新田義貞の後継者」と称して「新田岩松家」の祖となっている。因みに「兎園小説」では、この後に、『【頭書、譬へば、織田家を「淸盛の裔孫なり」といふといへども、世系、まさしからぬをもて、白石は、なほ、疑ひて、遂に、その辯あるが如し。』。】として先の内容が入る。]。然かれども、義包の一條は、足利の族なりける今川了俊(りやうしゆん)の說にして、「難太平記(なんたいへいき)」に出でたれば、信ずべく、疑ふべからず。只、是のみならずして、「梅松論」にも粗(ほゞ)そのよし、見えたり。同書、下の卷、足利尊氏卿、西國より攻め上るをり、筥崎(はこざき)なる八幡宮[やぶちゃん注:福岡県東区箱崎にある筥崎宮。]へ參詣の段に、「すなはち、寄附地(ふち)[やぶちゃん注:「きふち」。私は「どうしても寄付をするために寄って行かねばならぬところ」の意と読んだ。]あるべし。」とて、御文章の爲に、社家(しやけ)の古文を召し出だされし中に、昔、鎭西八郞爲朝の寄附の狀、有しを、御覽ぜられて、『當家の祖神、實(ぢつ)に難有(ありがたく)』思(おぼ)し召して、御敬心、淺からず云云(しかじか)」といへり。このとき、尊氏の「當家の祖神」といはれしは、八幡宮に爲朝朝臣をかけたることゝ聞ゆなり。かゝれば、今川氏のみならで、尊氏卿も、素(もと)より又、その身の、爲朝の裔孫なるを知りておはせし也。又、天用の義宗のおん子なるよしは、「岩松系譜」に見えたれば、是等(これら)は、平相國・豊太閤の素生をいふものと、おなじからず。事迹(じせき)に、信と、不信と、あり。論者、よろしく擇(えら)むべし。又、

[やぶちゃん注:「今川了俊」鎌倉末期から南北朝・室町時代の武将で守護大名で、室町幕府の九州探題などを務めた今川貞世(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?)の法名。彼は河内源氏義国流に連なる者であるが、その自著「難太平記」の『中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を』、源『為朝の子であるとし、係累である足利義康』(彼自身が源義家の孫に当たる)『が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない』とウィキの「源為朝」にはあったから、馬琴には私は組み出来ない。

 なお、以下は底本を再現し、続き具合からも、次の行頭の一字下げはしなかった。]

或記に云、『太闇秀吉公の父、しれざるを以て、牽强附會の說、多し。それらは、今さら、論ずるに足らず。傳に云、秀吉は、その母、野合(やがふ)の子也。そのいはけなかりし時、つれ子にして、木下彌右衞門に嫁したるに、彌右衞門、はやく、世を去りければ、その頃、織田家の茶坊主にて、筑阿彌といひしもの、浪人して、近村にあるをもて、卽、これを入夫(にうふ)にしたり。この故に、彌右衞門は、秀吉の繼父(けいふ)にして、筑阿彌は假父(かふ)也。母が野合の子なるをもて、實(まこと)の父の事においては、その名をだにも、いひしらせず、秀吉も亦、これを悟りて、「われに、父なし。」と、いはれしなり。もし、彌右衞門にもせよ。筑阿彌にもあれ、生(う)みの父ならんには、はや、世を去りて年を經るとも、秀吉、武運、比類なく、富み、四海を保つに至りて、父の廟所を建立し、贈位贈官の追福あるべし。然るに、その事なかりしは、野合の子なればなり。』といヘり。

[やぶちゃん注:底本にも改行があり、以下は底本では「眞砂に云、」まで全体が一字下げ。]

 こは、理(ことわ)りあるに似たれども、又、不經をまぬかれず。抑(そもそも)、當時(そのかみ)の小說者流(せうせつしやりう)、豊太閤の、その亡父の爲に廟所を建立し給はざりしと、贈官爵の事なきとを、深く疑ふ心を師(し)として、臆說をなすもの也。今、予が思ふよしは、しからず。

 倩(つらつら)、豊公の情狀を亮察(りやうさつ)[やぶちゃん注:対象者に対して敬意を表して思いやりを持って明らかに察し見ること。]して、よく、その意中を推しはかるに、その恩、すべて現世に過ぎて、過去の事には、絕えて、なし。只、信長のおん爲にのみ、大法事を興行して、廟所を莊嚴(さうごん[やぶちゃん注:私はこの場合、「しやうごん(しょうごん)」と読むのを節としている。])し給ひしは、諸將の心を釣らんが爲なり。その他、丹羽・蒲生・堀[やぶちゃん注:秀吉の有力家臣団。丹羽長秀・蒲生氏郷・堀秀政。]のともがら、百万石を食(しよく)せしも、既に沒後に至りては、その國郡(こくぐん)の三つがひとつも、其子どもには、受けしめたまはず。是等は、「骨肉なるものならねば、恩に増減あり。」ともいふべし。秀長卿は弟也。その世にゐまそかりし日は、数十万石の主(ぬし)として、官職、亞相(あしやう)[やぶちゃん注:大納言の唐名。秀吉の異父弟秀長は最後に従二位権大納言に昇っている。]にのぼせしも、その沒後にいたりては、はやくも忘れたるが如し。こは、異父(いぶ)兄弟なるものなれば、かくてもあらんと、いはゞ、いふべし。彼(か)の「棄君(すてぎみ)」[やぶちゃん注:豊臣鶴松の幼名「棄(すて)」。数え三つで病死した。]は、豊公の老後にうませし愛子(あいし)也。その誕生の初より、天下の富も足らざる如く、めでいつくしみたまひしに、忽ち早逝したまひしかば、哀慕の淚は胸にこそ盈(み)つらめ、その後々(のちのち)まで菩提の爲に大かたならぬ法會などを執り行はれし事は、聞こえず。この情狀を推すときは、幼弱微賤の時にわかれて、その面影だも見しらざる亡父の事には、懸念(けねん)せず、只、現在(げんざい)なる母御前(はゝごぜ)をのみ、「大政所(おほまんどころ)」と尊稱して、孝養を盡くしたまひし也。その母御前も、父の如く、早く世を去り給ひなば、追慕の孝養なきにより、世の人、遂に、豊公の母をすら知らずして、或は「天より降(くだ)りたまひぬ」、「地より涌きにき」といふものあらん。かゝれば、豊公の事實を取りて、筆に載せんと欲するもの、いまだ、織田家に仕へざりし已前(いぜん)の事は、闕如(けつじよ)[やぶちゃん注:「缺(欠)如」に同じ。]して、可、なり。獨(ひとり)、竹中丹後守重門の書きつめたる「豊鑑(とよかゞみ)」巻の一「長濱(ながはま)ノ眞砂(まさご)」に云、

[やぶちゃん注:「竹中丹後守重門」竹中重門 (たけなかしげかど 天正元(一五七三)年~寛永八(一六三一)年)は織豊・江戸前期の武将。美濃出身。戦国期の軍師として知られ、秀吉に仕えた竹中重治半兵衛の嫡子。初め、父に継いで豊臣秀吉に仕えたが、「関ケ原の戦い」では西軍から東軍に転じ、小西行長を捕えている。秀吉の一代記「豊鑑」の著者。

 ここは底本でも改行。]

 羽柴筑前守豊臣秀吉、天文六年丁酉に生れ【解云、天文五年丙申とするものは非歟。】。後に關白になり昇りたまふ。尾張國愛智郡中村[やぶちゃん注:現在の名古屋市中村区及び西区の名古屋駅北東部附近。]とかや、熱田の宮よりは、五十町許り[やぶちゃん注:約四・五キロメートル。]乾(ゐぬゐ[やぶちゃん注:ママ。北西。])にて。萱(かや)ふきの民の屋、わづか、五、六十ばかりやあらん郷(さと)の、あやしの民の子なれば、父母の名も誰か知らむ。一族なども、しかなり【下略。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 予は、この說に、從ふべく、おもほゆ。その事、すべて、實にして、その文、青史(せいし)に耻ぢずといふべし【文政八年乙酉秋七月朔草。】。

[やぶちゃん注:「兎園小説」では、末尾は改行してクレジットのみ(「草」はなし)と、下方に『神田山脚の老逸稿』とある。

「青史」中国で紙のない時代には青竹を冊に割った札を炙って文字を記したところから。「歴史・歴史書・正規の記録」の意。]

2021/09/29

只野真葛 むかしばなし (39)

 

〇父樣、おぢ樣[やぶちゃん注:何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が祟りなす女「〆(しめ)」である。]、得手は、御たがひ被ㇾ成とも、『凡人にては、なし。』とぞ、おもふ心のかたち、こゝろみにいはゞ、此(この)やうなるものならん。「何を以てそれをしる」といはゞ、おてる、おぢ樣のそばに付居(つきをり)し時の、はなし聞く度に、心もしめり、引入(ひきいるる)やうにて有しといひし。

[やぶちゃん注:「おぢ樣」何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が真葛が盛んに祟りなす凶なる女として示す「〆(しめ)」である。

「おてる」既出既注であるが、長女であった真葛の末の妹(五女)照子。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。]

 

Titiodinozu

 

[やぶちゃん注:以上の図は底本のものではなく、「日本庶民生活史料集成」のものを用いた。底本「江戸文庫」版では、キャプションが活字に直されてしまっているからである。キャプションは、右上に、

「凡をぬけたる

 ところ」

右下方に、

「父樣、足本に、何も、なし。

 たゞ、廣く、高くのみ、御才(ナンサイ[やぶちゃん注:ママ。])

 有り。」

左上に、

「おぢ樣は凡人

 の丈(たけ)に上(のぼ)りて

 橫ひろがり也。」

左中央に、

「凡人の

 たけ。」

とある。これは思うに、左右の父と叔父の二本の系統樹風の、下から見て、最初の、それぞぞれ左右に横に出る枝をかく言っているように私には思われる。

左下右に(右や下方にカタカナと漢字含む不全な読みの添えがある)、

「 カマワヌヤウテシワク

 何もかまわぬ樣にて タメル心

 しわく、物をためる 有リ

 心有り。」

最も左端下に、

「かごの物に、

 つき合(あふ)心。」

である。敢えて人の在り様をこうしたチャートで示す辺り、只野真葛、只者ではないぞ!]

 

 「此世の中のはてはどうなるものだか。何でもおれが出入せぬ大名もないが、どこの若殿を見ても、是が成人したらよい馬鹿だろうと思(おもふ)樣な兒ばかり有(ある)。大納言樣はどんな人かと、旗本衆の所へ行て聞てみれば、御幼少の時は豆蟹をつぶすが御すきで、每日每日、『大納言樣御用』とて、おびたゞしくとりにでるを、おそばにまきちらして、御相手の子と、ひとつにおしつぶす事。それが過て、九ツ十(と)ヲくらいのときから、鷄が御好で、いくらも上る。それも棒を持(もつ)ておひ𢌞して、追つめて、ぶちころすが、おすき。おなぐさみにて、お緣の下には、いくらも腰拔に成(なつ)た鳥が、『ひこひこ』して、かゞんでゐるといふことだ。そんな不仁の人が公方樣になられたら、どんな代になるかしれぬ。」

といふやうなおはなしにて有しとぞ。

 父樣は、のめり死するとても、そんな氣のつまる、ふさいだはなしなどは不ㇾ被ㇾ成、おはなしをきけば、心も、のびくのびとなりて有し。

「ゑぞ地【夷地。】[やぶちゃん注:『原頭註』]、ひらけば、おのづから、仙臺は中國となる故、末々、めでたき國とならん。我日本國の都は、暑き所より、寒きところへ、うつるかたち、なり。はじめ、筑紫より、大和、山城と、うつり、後、鎌倉、江戶に、榮(さかえ)、うつり、此後は、さしづめ、仙臺なるべし、是、うたがへなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

「世の中といふものは、つまりたりとても、もの極れば、又、どうか、工夫がつくものなり。世の滅するといふ事、有べからず。代の、末に成(なる)といふことも、有(ある)べからず。爰につきれば、かしこにあらはれ、かしこにたゆれば、こゝにあらはれ、天地の間に、わく、人なれば、智者のたへても、亦、わくなり。世の中をなげくは、たわけなり。」

と被ㇾ仰し。

 何をうかゞひても、行つまらず、のびのびとしたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なりと、御こたひ[やぶちゃん注:ママ。]被ㇾ遊し。夫故《それゆゑ》に、御心のかたち、空のかたへ、はればれと、ぬけいでしとは申なり。

 おぢ樣は、そしらぬ顏にて、人にほめられたい心が一ぱい故、凡人をぬけても、下の方をのぞいてゐる樣な御心ならんと、おもふなり。

 父樣、おぢ樣、得手のちがひしといふは、おぢ樣、ある病家へ、はじめて御見舞被ㇾ成しに、座付といなや、障子の外の緣側にて、鳥の、少し音(ね)をいだせしを聞(きき)て、

「こなたにては、かい鳥を被ㇾ成るや」

「さよふ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、こたふれば、

「それならば、たしかに、今の鳴聲は、餌にしたき物を見て、くわれぬ故、出せし聲なり。明(あけ)て御覽ぜよ。みゝずか、けらの類(たぐゐ)、いでゝ、あらん。」

と被ㇾ仰し故、あけてみしに、みゝずいでゝ、有(あり)しとぞ。

「常に飼いてならせし人だに其心をさとらぬに、はじめて其聲をきゝて、其心をしられしは、神妙なり。」

とて、感じ、信仰せしとぞ。

 是、一向、得手、被ㇾ成(なされ)ぬ所なり。

 父樣、中年のころ、本田樣[やぶちゃん注:不詳。家内に女ばかりというのは、大々名の家老ではあるまい。]御家老、時疫[やぶちゃん注:流行り病い。]にて、御りやうじ被ㇾ成しが、家内は女ばかりにて、たわひなくまどひて有しに、附子(ブシ)を御付被ㇾ成(なされる)やいなや、

「外(ほか)へ轉藥いたす。」

と斷申來(ことわりまうしきた)りしを、其つかひに、御むかい[やぶちゃん注:ママ。]、被ㇾ仰しは、

「素人は何も御ぞんじなきこと故、尤のことながら、醫をかへるは、時の有(ある)ものなり。たゞ今、轉藥せられては、此病人、必死なり。今、少し、またれよ。只今、周庵、御見舞申。」と被ㇾ仰て、すぐに、御出手づから、藥をせんじて御のませ被ㇾ成しに、病人、かくべつ、ひらけて、正氣付し、となり。

「さらば。轉藥、御勝手次第。」

と被ㇾ仰しが、家内も親類も、いきほひにおそれて、轉藥は、せざりし。大病も、本復せしとぞ。

 それより、御一生、本田樣の御出入と成し。

 かやうないきほひよきことは、おぢ樣は、なし。此ことは御じきのはなしにはなく、本田樣の家中小林村仙といふ醫、

「其時、見聞せし。」

とて、折々ごとに、

「手づから藥をせんじられし御いきほひのよさ。」

とて、かたり出(いで)、かたり出せし故、しりたり。村仙は殊の外、父樣をしたひて、師のごとくせし人なり。此一事を、天のごとくおもひ、たうとみて有し愚醫なり。

[やぶちゃん注:「附子(ブシ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。ここは「ぶす」と聴いて狂言辺りの知識のみで、猛毒の毒薬とのみ合点して、ビビッてしまい、「轉藥」=医師変えを通知したのである。]

只野真葛 むかしばなし (38)

 

〇津輕藩は小家故、おしづなどに、御家中の人、むかへては、

「こちの旦那のくらいな、たかの朋輩、其御家には、いくらも有らん。」

といはれて、挨拶にこまりし、といひし。しかし、それは居(をる)にも、よきことなり。

 ワなど、酒井家中へ行しに、おもひよらぬこと有しは、そのむかし、御家騷動の時分、酒井家にて、むつかしきこと有しを、今の世までも、家中一統、仙臺にまけぬ氣が有て、茶のみ、酒のみ、寄合(よりあへ)ば、其代の手がらばなしをして、りきむことなり。仙臺家をわるくいひたがる心いき故、一生、此ような聞たくない事[やぶちゃん注:ママ。]を聞(きく)は、くるしきことゝおもひて有し。

 父樣御懇意にて、ワを酒井家へ世話したる磯田藤助といふ人の家のおこりは、そのかみ、騷動の時分、仙臺の家中「またもの」[やぶちゃん注:「又者」陪臣のこと。上級領主の直臣の臣下のこと。]にても有し。三人にて切こみ來りしを、其頃、藤助は次男にて、むそくもの、若黨と壱つに成(なり)居(ゐ)たりしが、かくと見るより、ぬき合、切むすびしに、數ケ所、きずは、おひしかども、死(しに)きらず、相手をば、切とめし、とぞ。

[やぶちゃん注:以上の酒井家での話は、真葛の最初の結婚に係わる。ウィキの「只野真葛」によれば、仙台藩上屋敷五年、彦根藩上屋敷五年の計十年にも及んだ奥勤めを『辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった』が、『寛政元』(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は』、父平助より、「かねて自分が懇意にしている磯田藤助が、藤助の従兄弟に当たる酒井家家臣と、そなたの縁談を世話する、と言っているので、嫁に行け。」と『言われ、あや子は父に従った』。既にこの時、真葛は二十七の大年増になっていたのだが、『この結婚は惨憺たる結果』となった。逢った『相手は』、『かなりの老人であり、夫としてはじめて口にした』言葉が、「俺は高々、五年ばかりも生きるなるべし。頼むは、あとの事なり」だった『という。これが自分の一生を託す夫であり、自分の』残りの『人生かと思うと』、『情けなく、泣いてばかりいたあや子は』、『結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それも』、『あや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の』「先は老年と聞くが、其方も、年取りしこと」という『言葉も彼女を傷つけた』とある。「伊達騒動」は万治三(一六六〇)年、第三代藩主伊達綱宗が不行跡で幕府から隠居を命ぜられ、二歳の亀千代 (後の綱村) が家督を相続、伊達兵部宗勝が後見役となり、藩内の進歩派であった原田甲斐と結んで、実権を掌握したが、それに対し不満をもっていた保守派の有力者伊達安芸と伊達式部宗倫(むねのり)の所領争いが発生、安芸は藩内の実情を幕府に注進した。寛文一一(一六七一)年、上野厩橋藩第四代藩主にして幕府大老であった酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷で裁決が行われたが、安芸は甲斐に殺害され、甲斐は酒井家の家臣に斬られ、宗勝は処罰されて、伊達家は安泰となった。]

 殿m此よしを聞せられ、殊の外、御悅氣(およろこびげ)にて、

「人の肩にかゝてなりとも、御前へ、參れ。」

と被ㇾ仰て、めしよせられ、二百石の墨付を手づから被ㇾ下しより、いでたる家なり。あちらこちらをきられて、埒(らち)もなき「かたわ」にて有しが、命は、またくして、ながらへし、とぞ。

 子、なし。養子せしが、それも、何か「かたわ」にて有し、となり。其養子、代々、「かたわ」、代々、養子の家なりとぞ。

 ワ、おぽぼへし藤助も、六ッになる時、養子にきわまるといなや、普請假小屋へ上りしに、落(おち)て背の骨、折(おり)しを、療治して、やうやう、たすかりしに、若殿、明地(あきち)に、ほうづき、多(おく[やぶちゃん注:ママ。])有(ある)を、花ばさみにて、きらせられ、子どもにとらせられし時、餘りはやまりて、手をいだし、小ゆび一本、切(きり)おとされし、となり。是も、子もなくて、養子とおぼへし。わるい[やぶちゃん注:ママ。]家なり。

 何かわ[やぶちゃん注:ママ。]しらず、こち[やぶちゃん注:「こちらの」。仙台藩の。]御家中の人を切(きつ)たが手柄とて、新地被ㇾ下しといふを聞て、うれしくもなきものなり。

 世の中のさたには、

「酒井家、あしゝ。」

といふを、むりに、よいに仕つけるとて、今も、りきむことなり。此はなしがでると、みな、肩をはり、肘を、りきませて、ほこるが、家中のふうなり。

只野真葛 むかしばなし (37)

 

 玄良、妹[やぶちゃん注:三女の「つね子」であろう。加瀬家に嫁していた。]をめとりて、十年、子、なし。ある人、すゝめて曰、

「人の子をもらへば、子のできるものなり。其ためし、有事(あること)あり。女子にてももらわれよ。」

とすゝめしを、

「いや、とても。もらはゞ、女は、めんどうなり。男を、もらはん。」

とて、牧野樣御家中より、男子をもらいしに、いまだ引とらざる内、妻、懷姙、男子出生なり、名、庄之助。

「それ。まじないが、きいた。」

と、すゝめし人は、いふべし。

 養子の里方にては、

「男子、出生。」

と聞て、

「此うへは、御入用に有まじ。取もどさん。」

といひしを、きかず、

「一旦、約せしこと故、ぜひ、家督、つがせる。」

と、いひて、もらひ受し人、權市なり。

 是、わるひおもひ付の一番なるべし。

 又、男子出生、友八といひし。庄之助をば、手前より、よほど、高(たか)よろしきかたへ養子にやりしが、心だて、いかつにして、あたり、かたく、おしづ、大きに苦勞せしなり。

「來ては、家の中を、かきまわし、自由自在を、はたらきし。」

となり。湯に行度に、「あかすり切(きれ)」[やぶちゃん注:「垢磨り布」。]をもちひ、一度、つかひて、すてゝくる。

「手ぬぐひを、かせ。」

といふも、夫切《それきり》などゝいふことにて有しとぞ。

「それも、中やすみの不自由の中から、とられる故、めいわくなり。小袖一おもてにては、一年のあかすりきれに、たらぬ。」

とて、なげきたりし。

 弟友八は、おしづが行し頃は、十六にて、源四郞に、一ッ、ましなり。是は世に珍らしき善人なり。

「此人の、陰にたすけられし。」

とのことなり。おしづ、守のさきばゞは、度々、出入して、やうすも見しが、

「誠に感じ入(いり)しこゝろざし。」

とて語りし。

 さきばゞが逗留の内、權市かたへ、客、有て、ながばなし、夕めし時分に成て、

「膳をいだせ。」

といひしに、權八、外より到來の鮒(ふな)有しを、菜にして出したること有しに、權八は留守なりし。夜《よ》に入りて、權八、かへり、

「酒の看に昨日もらつた鮒が有はづだから、持てこい。」

といひしに、

「ござりません。」

といふ。

「どうした。」

「ひる、お客樣へ上(あげ)ました。」

「誰がきた。」

「だれだれ。」

とか、こたへれば、

「それは權市が所へきた客だ。おれがもらつておいた物を、自由に、わが客へだすはづがない。」

とて、とんだむつかしく成そうな時、友八、とんでいで、

「いや、おとゝ樣、兄樣をおしかり被ㇾ成るな。晝膳をだすに、『何で、上(あげ)やう。』と、女どもが申たから、『是が、よからろふ。』と申て、私が、だしてやりました。兄樣の御存知のことは、ござりません。私が、わるふござります。どこから來たか、存じましなんだ。わるいことをいたしました。どうぞ、御めん被ㇾ成て被ㇾ下まし。」

と、袂にすがり、ひたすら、わびて、小言をやめさせし、となり。

 さきは、晝より見て有しが、またく、友八がせしことにては、なかりしを、たゞ其間(あひだ)をとりむすぶためなりし故、感心せしなり。

 おしづ、來りし時、其はなしをしたれば、

「そのやうなことは、日に、二、三度、有ことにて、めづらしからず、父親も友八がわびごとゝしりながら、年もゆかぬものゝ、なかぬばかりにわびごとする故、それにめでゝ小言をこらへていはずに仕舞ことなり、といひし。

 一躰、小男にて、歲よりはちいさきに、色黑く、しなびだらけな若衆、小家の家中故、人がらも、よろしからず。おさなきより、茶の湯好(ずき)にて有しとぞ。濱町居宅の近所に、其師、有しが、千家なり。けいこ日には、かけず、いでたりし。

 又、近所の「野だいこ」に「さりやう」といふ坊主、有し。三十近(ちかく)にて、きいたふうをする人、

「少々、茶をやつて見たし。」

とて、弟子入せしが、末熟なり。けいこ日に、廻座なるべし、だんだん、いでたてるとき、友八出しを、

「この若衆が、何。」

と、見をとしてゐると、手前の見事さ、いひ分、なし。その次が大坊主の番なり。大きに臆して、ふるひふるひ、出てたてると、いかゞしたりけん、茶杓を、

「ぴん」

と、はねかせしが、頭から、茶をかぶり、折ふし、夏にて、汗、たる、故、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、袂から手ぬぐひを出して、一寸、ふいたれば、靑ぼうづに成し。おかしさ、座中一同、ふきいだせし、とて評判なりし。

 庄之助には、世の中を、ざと、心得し人にて、養家親は隱居して、其身のうへ、妻子も有しに、前町[やぶちゃん注:不詳。]の「うり女」に入上(いれあげ)、當番下りに相番の人の刀をぬすみ、緣の下にかくしたりしぞ、淺はかなる心なりし。手ぜまき家中のこと故、ほどなく露顯《ろけん》せしかば、仕方なく、身をかくし、日陰ものと成しを、父樣、世話にて、「曾(そう)松けい」に御賴み、一生、かくまひ、もらひたり。

 此「松けい」という人[やぶちゃん注:ママ。]、壱ッの、「きりやう人」なりし。父は町醫にて、はやり、よほど大株なものなりしが、十ばかりにては、父に、おくれ、とかくする内、母も死、壱人身(ひとりみ)となり、十三の年、ばくちを打(うち)ならひ、家諸道具を打こんで、かけおちせし人なり。あしきことながらも、十三ぐらいで、そふ[やぶちゃん注:「さう」か。]、物がとりまわされるは[やぶちゃん注:ママ。]、器量のうちなり。

 それより、所々をありきて、後、奈須玄□[やぶちゃん注:底本に『(一字欠)』とある。]

樣の弟子と成て有し。其妹子を、つれのきして[やぶちゃん注:意味不明。「連れ合いにして」か。]、かすかに暮して有し時、ばくち、殊の外、御法度きびしく成し。はじめ、公儀衆のうち、ばくち沙汰にてむつかしき事出來し時、一座したる故、牢入(ろういり)となりて有しを、父樣、きやう[やぶちゃん注:「器用」。]をば、おしみ被ㇾ成、其内は、家内を扶持して、いろいろ御手入被ㇾ成、出牢させて被ㇾ遣し。御おん有(ある)故、いのちをすてゝ、庄之肋を、かくまひしなり。其頃は、薩摩へめしかゝへに成て、御國產方(かた)を、もはら、つとめて有し本草家なり。ちいさな、やせ坊主にて有しが、氣のつよきことは、萬人に勝たり。

[やぶちゃん注:「奈須玄□」延宝七(一六七九)年没の医師に「医方聚要」を書いた奈須玄竹がおり、彼か或いはその後裔か。他に幕府医官奈須恒隆の養子で多くの医書を書いた奈須恒徳(通称は玄盅(げんちゅう))がいるが、彼は安永三(一七七四)年生まれで若過ぎるから違う。

「御國產方」以下を見る通り、薩摩藩及び琉球を主特産・主産地とする漢方生剤を扱う江戸での役方の意であろう。]

 薩摩の國產を[やぶちゃん注:底本は「を」にママ注記。「日本庶民生活史料集成」版では、ここの「を」を『の』とする。]藥種、江戶へ船𢌞しなれば、利、有ことなれども、いつも、破船して、とゞかぬ故、役人を、「うわのり」に付られしも、水に入(いり)て死(しぬ)ことにて、誰も「うはのり」仕(つままつる)人なくて、船𢌞しのこと、やみて有しをしらず、「松けい」、ぞんじよりを申上しに、

「船𢌞し、尤、利、有ども、かくかくの次第にて、『うわのり』する人、なし。」

と、いはれし時、

「私、船『うわのり』、いたさん。」

と、いひしこと[やぶちゃん注:感触であるが、この「こと」は以下の続きから「こそ」ではあるまいか?]、破船、名付、いたづらする時、役人ぐるみに、海にいれたものとは、誰も察せらるゝを、やせ坊主の望(のぞみ)し氣のつよさ、たゞ人ならず。舟頭もおそれて、かゞまりて、何事なく、江戶、着せし時、すぐに、數寄屋町へきて、

「きのふ、薩摩から、かへりました。」

「それは。早く御ざつた。」

と被ㇾ仰しに、

「いや。とんだことで。早く參りました。かやうかやう。」

とて、はなしたりし。

 歸りしあとで、

「たぐひなく、氣のつよひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、御ほめ被ㇾ遊し。其時、御はなしに、

「ばくち打といふものは、すてられぬものなり。此うわのりせしは、ばくちにて、下衆をとりひしぐこと、手のうちに有故、のぞみて、せしなり。覺なくては、のぞまれぬわざ。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「うわのり」ママ。「上乘(うはの)り」で、近世に於いて、貨物輸送船に乗り込んで荷主に代わって積み荷の管理・監督を司った役を指す。]

 

只野真葛 むかしばなし (36)

 

 爰にて、ばゞ樣、御不幸。

 此御病、誰も、うらやまぬ人、なかりし。二月廿二日、ワかたへ、御自筆にて御文被ㇾ下、野菜ものなど、夫《それ》々に被ㇾ下しに、廿三日夜五頃[やぶちゃん注:不定時法では午後八時頃か。]、御不淨にて、

「お遊、お遊。」

と、よばせられしが【「おしづ」、是までは「お遊」といひし。[やぶちゃん注:一般に真葛の母は「お遊」となっているが、実際に名は実は不明であるから、この記載は不審ではない。]】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とする。]、御聲、少々、常ならぬ樣にきこえし故、かゝ樣、御いで御覽被ㇾ成しに、

「あしが、なへた。」

と被ㇾ仰し。不淨より御出がけなるべし。

 不淨のかたをあとに被ㇾ成て、橫におしづまりていらせられしが、一向、御熟睡のてい、少しも、くるしげなること、なし。御床など取て、人々、荷《にな》いて、いれ、寢《ね》かし上(あげ)しまゝにて、夜・晝、こゝろよげに、おしづまり、廿六日、御事切(おんこときれ)と成し。

「このやうにて死ぬものなら、うらやまし。」

と、見る人ごとに申たりし。少しも、毒とあくもなき御生(ごしやう)故[やぶちゃん注:「ご一生の間、少しも、ひどく気の毒なところや、生くるに飽きらるるような悪い後悔ごとも取り立てて御座いませんでしたから、」の意であろう。]、御臨終もおだやかなりしならん。有がたき事なりし。ワは、井伊樣に有しほどに、とまりの御いとま、いでず、日々、三日かよひしが、御目あかせられしことは、なかりし。それも、

「親の外は、ならぬ。」

といふことなれども、

「かねてより、大恩うけし祖母に候へば、病氣の時分、御いとまいたゞきたく。」

と、常のはなしに、しておきし故、年寄衆、母の分に、いひたてゝ、さげられしなり。

[やぶちゃん注:「井伊樣に有しほどに」真葛はて安永七(一七七八)年九月十六歳の時に父の関係で仙台藩上屋敷での奉公を始め、第七代藩主伊達重村の夫人近衛年子に仕えていたが、天明三(一七八三)年には忠勤を評価され、選ばれて、重村の三女詮子(あきこ)の嫁ぎ先となった彦根藩の井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、時の権力者田沼意次であったとされる(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]

 御心たしかの時、御そばにてみやづかへ申上ざりしことを、千度、もゝ度[やぶちゃん注:「百度」。]、くひても、かひなし。

 つくづく思ひば、

『あのごとく、御息才にてあらせられし祖母樣さへ、あのごとし。まして、よわよわしき母樣、御かんがく[やぶちゃん注:ママ。漢字不詳。「かん」は「看」で、看護の意かと思うが、「かんがく」では当該する意味の熟語が浮かばぬ。]のため、御いとま戴たし。』

と、おもへたりし。

 其年七月、玄蕃頭樣、御かくれ、父樣、終に、藥指、上られし。守眞院樣、御十八にて御すがた、かわらせらるゝにつけても、末に御藥上られし人の評判、あしく、

「身をひくべき時、來りぬ。」

と覺悟して、病氣、幸、御いとま戴て有しが、下りて見れば、昔にかはること、おほく、ばゞ樣いらせられねば、いとわびしくおもひし。

[やぶちゃん注:「玄蕃頭樣」前に注した井伊直富(宝暦一三(一七六三)年~天明七年七月十二日(一七八七年八月二十四日)のこと。従四位下・玄蕃頭。ウィキの「井伊直富」にも、『最期に手当をおこなったのは仙台藩の藩医』『工藤平助であった』と明記されてある。数え二十四の若さであったから、以上の風評は判らぬではない。]

 母樣は、こゝにいらせられし内が、御一生の御たのしみなりし。子共、のこらず、より合、にぎやかに、花見よ、舟よ、二丁町は近し、兩國は見世物のたいこが聞へして、やかましく、二丁ばかりあゆめば、大川ばたへ、でる。五百羅漢・萩寺などは音にのみ聞て有しも、ひる過から、おもひたちて、ふと、ゆかれるし、龜井戶・妙見・向島、みな、遠からず、遊んで、くらすには江戶一番の所なりし。

 おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]、雨森(あめのもり)へ婚禮なり。父樣には、御上やしき、遠く、御めいわくと被ㇾ仰し。ばゞ樣と同じ時に、四郞左衞門樣、御大病にて御死去なり。父樣、御ちから、おとし、申ばかりなかりし。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森氏の中に元御所御殿医の雨森良意家(京師)で地下人になった一族がいるが、この後裔か。後で舅の名を出し、それは雨森友心であるが、不詳。但し、後で「おしづ」について、結婚後は津軽藩の屋敷内に迎えられたとあるから、この雨森は津軽藩の江戸藩邸附きの江戸詰藩医であったものと私は推定している。

「四郞左衞門樣」先に出た柔術に秀でた平助の長兄。]

 ワ、廿六の三月、下りて、七の五月、すきや町へ行たりし。ワ、廿八のとし、おつね、大田へ行、おしづ、數寄屋町にて死去なり。

[やぶちゃん注:「おつね」三女。加瀬家に嫁した。「大田」は不詳。

妹の「おしづ」は寛政二(一七九〇)年に亡くなっている。以下の叙述から死因は肺結核と思われる。生年は判らぬが、若死にである。

「ワ、廿六」天明八(一七八八)年。

「七の五月」翌年の二十七歳の時の五月の意。次注参照。

「すきや町」寛政元(一七八九)年五月に工藤一家は日本橋数寄屋町(現在の中央区八重洲一丁目及び日本橋二丁目。グーグル・マップ・データ)に転居している。]

 此人、雨の森へ行て、苦勞ばかりして、はてしぞ、いとをしき。しうと母は小山の妹なり。

「むづかしいのてつぺん。」

と、はじめから、いうことなりし。病中に、婚禮、有。終りの時は、おしづ、懷姙にてありし【終りは、「かこ作」[やぶちゃん注:不詳。]、死去の時なり。】[やぶちゃん注:『原頭註』とある。]。おしづも病身のうへ、心づかひせし故にや、乳不足なりしを、中やすみにて、乳母おく、力なく、たらぬなりにそだてし故、榮之助、大病と成しに付、やうやう、乳母おきて、さて、この方《かた》へ引とりて、療治被ㇾ成たりし。四、五日ありて、死たり。一向、よわりはてゝも、氣のはりたるばかりにつゞきて有しを、

「やれ、心やすや。」

と、ゆるみいでゝより、へたへたと、よわり、死に成(なり)しなり。四、五日の内、死にいたるほどの大病人を、舅ちゝ友心、あしらいやうのひどきこと、三度のめし、平人とおなじく、膳にすわることなりし、とぞ。

 痰けつ[やぶちゃん注:血痰。]、いでゝ、吸をせく力もなきに、背をなでゝもらうこともならぬなどゝいふ樣な事にて、保養、成かねし。

 榮之助、乳、ふそくにて、そだてし故、二ッに成ても、知惠付(ちゑづき)なく、頭の鉢、ひろく成て、足、たゝず。此病は、平安樣【せんの隆朝[やぶちゃん注:真葛の母方の祖父仙台藩医桑原隆朝如璋。]。】[やぶちゃん注:『原割註』とある。]、常に父樣におはなし有し病なりと被ㇾ仰し。

「すておけば、鉢ばかり、ひろく成て、大ばかに成ものなり。八味地黃丸、のませ、かたく。はち卷しておけば、よし。」

となり。其通にりやうじ被ㇾ成しが、よく成たり。

[やぶちゃん注:悪い疾患では水頭症だが、このような療治では治らないから、単に乳児の頭頂の顖門(ひよめき)の骨化癒合が遅かっただけかも知れない。「ひよめき」とは、乳児の場合、頭蓋骨の泉門(せんもん)の骨は接合していないため、脈動に合わせてひくひく動く。頭頂のやわらかい部分を指す。]

 友心御隱居、名、はじめは權八といひし。此人も一哥人なり。質素儉約の名人、

「世の中、菜《さい》がわるくて、飯がくわれぬ。」

といふを笑て、

「食は人の命をつなぐ爲のものなり。費《つゐ》をかけて、菜をまうけ、無理にくふに、およばず。菜がなくて、くわれずば、くわずにをれば、よし。空腹になれば、素(す)めしも、くわれるものぞ。」

と、いひしとなり。

 日々の暮しおもひやるべし。此心では金も持(もた)れそうな[やぶちゃん注:ママ。]所、また、持(もつ)心もなし。たゞ素々として、身を、からく、自(おのづから)もとめて、不自由にくらすが、好(このみ)なり。いやなこと、いやなこと。

只野真葛 むかしばなし (35)

 

 父樣、俗にならせられしは、相模樣御家中、梶原平兵衞といふ俗のはやり醫有しを、○徹山樣御若ざかり御ぼしめし付にて、梶原工藤と兩家に俗醫をこしらへ、工藤をはやりにかたせる思召にて有しとぞ。是が御運のかたむきそめなりし。あのかたは元より俗躰なれば、はやりに、かはること、なし。こなたは髮のなき人のたてたること故、人才によりて、おもき御用にても被仰付ため、醫を御やめ被ㇾ成しこゝ、もはら、世の人、おもひて、病用たのむを遠慮したる故、新病家、いひ入ること、とゞまりし故、暇にならせられしも、〆《しめ》がのろひのきゝたるならん。

[やぶちゃん注:以上はウィキの「工藤平助」に、安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩第七代藩主伊達重村(当時数え三十五歲で藩主就任後二十年目であった。戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」である)により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになる、とあるのを指すものと思われる。

「相模樣御家中、梶原平兵衞」不詳。主家は旗本池田家か。]

 とかくするうち、御やしきにては、一年ましに御不如意とならせらるゝ上、御國は不作續、大きゝん、ほどなく、火難に逢、丸やけにて、次第にかげうすく成やうにならせられし。袋小路のあばらやにて、長庵に御わかれ、御力、おとし、築地川むかへへ、地面、御かり、堀本樣の隣なりし。普請とりかゝりしも、立てばなしにて、埒《らち》あかず、どちらむきても、ふさぐことばかり有し。

[やぶちゃん注:平助の長男で真葛より二歳年下であった長庵元保は天明六(一七八六)年に二十二の若さで夭折した。]

 築地にて、類燒の時分までは、田沼世界故、人もうわきにて金𢌞りよかりし故、進物の金ばかりも、二百兩ばかりは、よりしなり。鍋島樣の家老松枝善右衞門といひし人より、五十兩、進物なりし。二十三十ヅヽ、權門、つき合被ㇾ成しかたより、御もらひ被ㇾ成しなり。

[やぶちゃん注:「鍋島樣の家老松枝善右衞門」鍋島藩支藩蓮池藩家老に松枝善右衛門を見出せる。]

 醫學館へ珍らしき大部の書、御納被ㇾ成しに、ほどなく火事にて有し間、其挨拶に、疊おもて百枚、來りし、となり。是等は、

「誠によき事被ㇾ成し。」

と御悅にて有し。父樣、おぼしめしにも、

「火事の節、持(もち)のきがたし。やけては、寶をうしなふ。」

とて、納められしとのことなり。此時、かなりに賣据《うりすゑ》[やぶちゃん注:家屋を造作付きで売ること。居抜き。]にて、もとゝの[やぶちゃん注:「元殿」であろう。旧邸宅。]へ、うつらせられなば、後の難、うすかるべきに、日々の食味におごり、又、河津重兵衞がために、金は、消はてしなり。

 此人の事は、火事の少し前に、ふと御懇意になりしが、いかなる人か、心の奧も、所行もしらず、水の出花の懇意ぶり、うまくばかり、かたる人、

「火事の時などは、壱人にて、大はたらき、やけだされの翌朝、仕かたなくて有し時、大鍋に『あんかう汁』と飯を送りしが、此御恩ばかりも、わすれがたし。」

といふ、はなしなりし。いづかたにやわすれしが、よき町の名主にて若き壱人もの【淺草の方の名主とみへたり。つれてきた小僧百助の、「油をかいに行」といへば、「家にかへる心にて、うれしかりし。」、ということ有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。やたらにつかひちらして、あと、つまらず、千兩にてうりかへのなる株故、それを七百兩ばかり【此金高、おぼへず。おし當なり。[やぶちゃん注:推定に過ぎないの意。]】[やぶちゃん注:『原傍註』とある。]にもうりしや、其金、七十兩、

「築地の普請金に。」

とて、かして、大工の手付やりし、となり。此仕うちにはまりしが、あさはかのことなり。大工へのかけ合、壱人にて取切てせしが、後には、皆、渡した顏ばかりして、引込、つかいつぶしに成しなり。それに家内の夜具、壱ツづゝにても、六、七人まへ、是も、かろからぬもの。下女どもへも、小袖にても、おかれねば、もめん布子と帶一筋とても、六、七人まへ、何事も手びろきだけに、人數もおほく、時の間に、二百兩、御つかひつぶしになり、普請はあとへも先へもいかず、淚ながらにたてたまゝにて、すてうりに拂、とかくするうち、白川樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世と變じて、金𢌞り、あしくなり、せんかたなき折ふし、濱町に木村養春といふ公儀衆、二百俵の醫師有しが、壱人者にて、娘子壱人有しが、

「家、ひろ過て、こまる。」

よし、

「御出被ㇾ下。」

といふこと、いでたり。

「わたりに舟。」

と、うれしくて、濱町へ御引こしなり。それより養春樣は、こなたの食をふるまひて、家に同居、娘は親類うちへ預けて有し。わびわびながらも、所のよければ、心やすく、たのしみはなりし。

[やぶちゃん注:「醫學館」江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。明和二(一七六五)年に幕府奥医師の多紀元孝(安元)が開設した私塾躋寿館(せいじゅかん)が起源であるが、多紀氏の私財だけでは四年しか維持出来ず、中断されていた。松平定信が筆頭老中となった際、医官の多数が、遊惰で無能なものが多いという理由から、躋寿館を改め、官学にする方針が定められた。寛政四(一七九一)年正月二十三日から、幕府直轄の医官養成校となり、医学館と改称している。文化三(一八〇六)年、大火で焼け落ちたが、浅草向柳原に移転・再建されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「河津重兵衞」不詳。所謂、悪知恵の働く仕事師であろう。

「木村養春」不詳。ただ、元禄七(一六九四)年の史料に(サイト「香取研究室」の「江戸幕府医療制度研究室」に、公に認定された市医として木村養運の名を見出せるので、この後裔であろうか。

「濱町」現在の中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川河口近くの右岸。]

2021/09/28

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前大福米

 

[やぶちゃん注:だらだら長いので、段落を成形した。本篇は瀧沢興継の発表であるが、かなり父馬琴の手が加わっていると考えるべきものである。]

 

   ○松前大福米

 いにしへより仁人・義士・貞婦・孝子の天感によりて、或は米穀、或は錢帛[やぶちゃん注:「せんぱく」。金銭と布帛。]の、不慮にその家に涌出せし事、和漢のためし、少からねど、正しく國史に載せられしは、「書紀」「天智紀」云、三年冬十二月[やぶちゃん注:六六三年十二月から六六四年一月にかけて。同年旧暦十二月一日はユリウス暦で十二月十三日(グレゴリオ暦換算で十二月二十三日)。この月は大の月。]、

『淡海(アマミノ)國言、坂田郡(サカタノコホリ)の人、小竹田身(シノダノム)之(ナガ)猪槽(サカヒ)水中、自然稻生。身(ムナ)、取而收日日到ㇾ富。栗太郡人、磐城村主殷(イハキノスクリオホガ)之新婦(ヨメ)床席(トモムシロノ)頭(カシラノ)端(カタニ)、一宿(ヨ)之間、稻生而穗。新婦出ㇾ庭、兩箇鑰匙自ㇾ天落ㇾ前。婦取百與ㇾ殷(オホカニ[やぶちゃん注:清音ママ。])。殷得始富。』

[やぶちゃん注:引用原文に不審があり、読み仮名もかなりおかしい。まず、原文を示す。

   *

是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。」。「栗太郡人磐城村主殷之新婦牀席頭端、一宿之閒稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」。

   *

訓読するが、以上の「兎園小説」の読みには、基本、全く従わないことにした。また、私は記紀を御大層な敬語満載のいかにもな奇体な訓で読むやり方が生理的に嫌いであるので、判り安く読む自然流である。上古文学・国語学的なインキ臭い学術的読みではないので、注意されたい。

   *

 是の月、淡海國(あふみのくに)、言(まう)さく、

「坂田郡(さかたのこほり)の人、小竹田史身(しのだの ふびと む)の猪槽(ゐかひふね)の水中に、忽然(たちまち)に、稻、生(お)ふ。身(む)、取りて收むに、日々に、富み、致れり。」

と。

「栗太郡(くるもとのこほり)の人、磐城村主殷(いはきのすぐり おほ)の新婦(にひよめ)の床席(とこむしろ)の頭端(かしらはし)に、一宿(ひとよ)の間(ま)に、稻、生ひて、穗(ほい)でたり。其の旦(あした)、頴(ほさき)を垂らして、熟(な)れり。明日(あくるひ)の夜、更に一つの穗、生ふ。新婦、庭に出づ。両箇(ふたつ)の鑰匙(かぎ)[やぶちゃん注:音「ヤクシ」。鍵。]、天より前に落ちたり。婦、取りて、殷(おほ)に與ふ。殷、始めて富むことを得たり。」

と。

   *

「淡海」は近江で、「坂田郡」は琵琶湖東岸で伊吹山の西南(米原市・彦根市及び長浜市の一部)に当たる。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「栗太郡」は琵琶湖南岸東部(草津市・栗東市付近)。猪槽(ゐかひふね)は、恐らくは、飼育している豚のための水や餌を入れる槽のことである。「小竹田史身」不詳。「史(ふびと)」とあるから文書・記録・歴史記載を担当する官吏であろう。「床席の頭端」新妻の寝床の枕上の敷物の隙間であろう。私は以下の「大福米」は胡散臭く、考証する気にならないが(麹菌で増殖したものか。何だか少年の日に舞台上で見たインド魔術団の延々と水差しから水が出て尽きない「インドの水」とか、如何にも怪しさ百二十%のサティヤ・サイ・ババのヴィブーティー(聖灰)を尽きせずに瓶から搔き出すあの阿呆臭いものを感ずるからだが、この「日本書紀」の記載は少し面白い気がする。もし、「猪槽」が豚の飼養のそれで間違いないならば――豚の飼料の残滓や豚の糞が「肥料」となって、稲が恐ろしくよく育った事態――本邦に於ける稲作改良の一場面を記載しているのかも知れないと思ったからである。

 これらは、遠く見ぬ世の事にて、いと疑はしく思ひしに、近ごろ、松前の藩中に、よくこれと似たる事、あり。

 その由來を傳へ聞くに、寬永十七年春二月廿二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦四月十三日。]、松前の家臣蠣崎主殿[やぶちゃん注:「とのも」。]友廣の家に、米、數升、涌き出でけり。是よりして、或は一升、或は二升、日々に涌出せずといふことなし。かくて、この年の夏四月下旬に至りて、その事、やうやく、やみしかば、友廣、あやしみ、且、祝して、「大福米」と名づけつゝ、主君公廣[やぶちゃん注:「きんひろ」。第二代松前藩主松前公広。]朝臣に進上して、ことのよしをまうしゝかば、人みな、驚嘆せざるは、なし。主君、すなはち、その米數斗を受けとらして、一箇の甁[やぶちゃん注:「かめ」。]にこれを納め、又、その事を略記せしめて、倉廩[やぶちゃん注:「さうりん(そうりん)」。米などの穀物を蓄えておく蔵(くら)。]中に藏め給ひ、その餘の米は、皆、ことごとく、友廣に取らせ給ひぬ。

[やぶちゃん注:「蠣崎主殿友廣」(慶長三(一五九八)年~明暦四(一六五八)年)は蝦夷地松前藩家老で、藩主松前家の傍系親族の守広系蠣崎家二代。初代松前藩主松前(蠣崎)慶広の嫡男蠣崎舜広の十一男蠣崎守広の子である。別名主殿助(とのものすけ)。]

 これより後の世に至り、不慮に[やぶちゃん注:たまたま偶然に。後に出る「ゆくりなく」も同義。]その甁をひらかせて、その米を見給ふに、絕えて、蟲ばみ、朽つること、なく、且、遠からず、ゆくりなき吉事ある事もありけり。

 かゝりし程に、當主章廣朝巨【公廣朝臣より八世歟。[やぶちゃん注:松前章広は第九代藩主なので正しい。]】、家督の後、文化四年春三月廿二日、ゆくりなく松前の采地を召しはなされて、奧の伊達郡築川へ移され給ひしとき[やぶちゃん注:幕府は寛政一一(一七九九)年に松前藩領であった東蝦夷地を七年の期限付きで上知していたが、期限が来ても返還されず、文化四(一八〇七)年二月二十二日には残っていた西蝦夷地の没収も決定されてしまい、同年三月十二日には所領を陸奥国伊達郡梁川(やながわ)藩九千石に移されている。現在の福島県伊達市梁川町。]、彼大福米をも簗川へ運送せしめ給ひしに、その米は近きころ迄、もとのまゝにてありけるに、このとき見れば、蟲ばみ、朽ちて、米粉の如くなりしもの、既に、なかばに及びしかば、その朽ちたるを篩(ふる)ひ袪(ステ)て、その、またき[やぶちゃん注:「全き」。]米をのみ、ふたゝび甁に納めさせて、築川におかせ給ひき。

 かくて、文政元年[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬十一月廿一日、松前家の勘定新役の者、倉廩中なる米穀を展檢することあるにより、大福米の甁を見て、未だその事をしらず、則、これを主公[やぶちゃん注:後に出る通り、同じく章広。]に訴ふ。主君、

「云々。」

と說き示させて、封をきらせて見給ふに、曩に篩ひわけしより十ケ年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさへ、いたく殖えまして、甁七、八分目になりにたるを、章廣朝臣、見そなはして、且、驚き、且、悅び、次の年の春のはじめに、その米を幾合か、簗川より齎して、老父君道廣朝臣[やぶちゃん注:章広の父で前第八代藩主松前道広。]へ「云々」と告げ給へば、老侯、怡々[やぶちゃん注:「いい」。喜ぶさま。]、斜[やぶちゃん注:「なのめ」。]ならず。

「昔よりして、大福米の甁の封皮を、ゆくりなく披く事あるときは、吉事ありとか傳へ聞きたり。しかるに、吾家、舊領にはなれしとき、この米、過半、減少せしに、今、又、殖えしは、故こそあらめ。賀すべし、賀すべし。」

と、宣ひし。

 そのよろこびの餘りにや、このごろ、あわたゞしく、使者をもて、己が父に、その米一包を贈り給はり、

「この米は箇樣に。」

と、その來歷を示させて、件の甁に附けおかれし舊記錄、おちもなく寫しとらして給はりければ、家嚴[やぶちゃん注:自身の父。馬琴のこと。]、しきりに嘆賞して、

「かゝれば、今より、遠からず、大吉事、あらせ給はん。いにしへも、さるためしあり。その事どもは云々。」

と、則、上に錄したる「天智紀」をはじめとして、和漢の故事を抄錄しつゝ、をさをさ、ことほぎまゐらせし。

 これよりの後、わづかに三稔[やぶちゃん注:「三年」に同じ。]、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家に、ゆくりなく、こよなき大吉事、あり。

 松前の舊領を、元のごとくに返させ給ふ臺命を蒙り給ひて、おなじき五年四月十五日に、志州章廣朝臣父子【是より先に、嫡男千之助殿、任官あり、主計頭になられたり。】、もろともに、歸國の御暇を給はりて、同月廿八日に江戶の邸を發駕あり、既にして、五月下旬に、松前の城に着き給へば、君臣上下、おしなべて、みな、とし來の愁眉を開きて、笑坪に入らずといふもの、なし。

[やぶちゃん注:文政四年十二月七日(一八二一年十二月三十日)、幕府の政策転換により、蝦夷地一円の支配が旧松前藩に戻されて旧地に松前藩が復藩した。]

 これに依りて、大福米をも、又、松前へ運送せしめて、舊所の倉に藏めらる。この時にして、事每に、公私となく、大小となく、慶祥、すべて、あまりあり。

 かの「大福の米」の名の、むなしからぬも、奇といふべし。

 件の甁に附けられたる寬永以來の記錄に云ふ。

[やぶちゃん注:以下の文書は底本では全体が一字下げ。]

大福米一甁

此米、公廣尊公御在世寬永十七庚辰年春二月廿二日、沸出蠣崎主殿友廣之家。而後至五月朔日友廣奉獻之。則彼ㇾ納御穀藏者也。

寬永十七年五月吉日封之畢【興繼云、「傳に公廣朝臣は、松前家第七世といふ。いまだその詳なるをしらず。】。此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

 明和四年丁亥十一月[やぶちゃん注:一七六一年十二月から翌年一月。]改而納之

       御勘定奉行    靑山園右衞門

                因藤 與惣治

                小林兵左衞門

       御 鍵 取    和田  甚八

                川村品右衞門

安永元年巳十月五日より太福米御鍵取

                川村  左七

                工藤庄左衞門

[やぶちゃん注:「安永元年巳」不審。「安永元年」は壬辰である。安永二年癸巳の孰れかの誤り。「太」はママ。]

此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

 文化十三丙子年六月四日改之。

       御勘定奉行    近藤  兎毛

                和田  文藏

                蠣崎 喜惣治

                工藤 左太郞

                明石 寅次郞

       下   代    鹿能  與七

  右大福米、於簗川御役所。改之。

 大福米

  此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

   文政元戊寅年十一月二十一日改之。

       御勘定奉行    和田  文藏

                蠣崎 喜惣治

                工藤 左太郞

                明石 寅次郞

       下   代    鹿能  與七

                澤田 忠五郞

                安保佐左衞門

                松村銀左衞門

  右大福米、於簗川御役所收之。

   但、入御覽候に付取出之、其後又納置候樣仰に付、御藏へ納置之。

家嚴、既にこの福米の感あり。且、老侯の愛願を蒙り奉るも、はや年ごろになるをもて、文政五年の春たつころ、ことほぎのこゝろをよみて、まゐらせし長歌あれば、ちなみに、こゝにしるす折、

「おこ、な、せそ。」

とて、とめられしを、猶、やみがたくて、ものす、といふ。

[やぶちゃん注:以下、長歌は四段組みで、各段は均等配列。ベタにしようかと思ったが、或いは判じ物の可能性もあるので、一応、似せて示した。]

  こたび舊領にかへらせ給ふことほぎのこゝろを

  よみてたてまつる長歌

                 瀧澤  馬琴

みちのくの えみしの國は  くさのきぬ まゆつらなりし

なめ人の  たけきこゝろに けものなす おのがまにまに

おこなひて 親をおやとし  したはねば 君をきみとし

いやまはず 家しもあらで  をちこちに あさりすなどり

朝なゆふな ふす矢さつ弓  とりほこり そむきまつるを

みかどより いくさのきみを またしつゝ うたしたまへば

したがひつ あとはみだれて としあまた みつぎをたえて

ともすれば 靑人ぐさを   ほふりたる 嘉吉のとしに

わかさなる たけ田のとのゝ しらま弓  はるばるみちを

ふみわきて かゆきかくゆき うちをさめ をしへみちびき

まつりごち しりぞしづめて 常磐なす  松まへの城に

百とせを  よつかさねつゝ いそのかみ ふりにし事の

いやたかき 御代にきこえて いやちこに 遠つみおやの

うるはしき いさをもつひに なまよみの かひなきまでに

まがつひの そこなひけらし もゝのふの やな川へとて

月も日も  うつればかはる しまつ鳥  うかりける世に

よろこびの 時は來にけり  ゆくりなく もとのさかひに

もとのごと かへされ給へば 冬ながら  春かとぞ思ふ

春來れば  あづまのさたを ことさへぐ えぞに傳へて

えぞ人の  うちもあほぎて たのもしく おもはんのみか

おしなべて しるもしらぬも ひな鶴の  千とせの後も

龜の子の  よろづよまでも 松竹の   さかゆるまゝに

かぎりなき 北のまもりは  君ならで  誰やはあると

かくばかり ことほぎまつる ことの葉に よむともつきじ

さきくさの さきくありける ことのみにして

   反歌

みちのくのえぞの高濱あれぬとも立ちかへる浪の花ぞ目出度

曩に老侯より家嚴に賜はりし大福米は、後の「耽奇」に出だすべし。

 文政八年七月期   琴嶺 瀧澤興繼謹誌

[やぶちゃん注:ヨイショの(馬琴が興継の代筆をしたり、松前公にこんなサーヴィスをするのは偏に息子興継の出世のためである。残念なことに、興継は若くして病死してしまうのだが)糞言祝歌に興味はない(アイヌを蛮人として描いているのが、殊更に腹が立つ!)から注もつけたくないのだが、私がどうしても言いたいところと、躓いたところだけは附す。

「まゆつらなりし」「眉連なりし」。

「なめ人」「無禮人(なめひと)」。アイヌに対する差別表現。無礼であったのは他ならぬ我々「和人」であった。

「ふす矢さつ弓」「伏(臥)矢獵弓」。アイヌの民は短弓の射撃に優れた狩人であった。その短刀や弓と矢筒のフォルムは素晴らしい。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ)」のモースの描いた挿絵を見られたい。

「嘉吉のとしに わかさなる たけ田のとのゝ……」ウィキの「蠣崎氏」(先に注した通り、松前氏の先祖は蠣崎姓)によれば、「新羅之記録」(しんらのきろく:歴史資料。別称に「松前国記録」「新羅記」。寛永二〇(一六四三)年、幕命によって編纂された「松前家系図」を初代松前藩主松前慶広の六男景広が、正保三(一六四六)年に、記述を補って作成した系図と史書を兼ねたものを、近江国園城寺(三井寺)境内の新羅神社に奉納したもので、寛永一四(一六三七)年の福山館の火災により焼失した元記録を、記憶によって纏めたものと言われているが、他の一次史料記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている。ここは当該ウィキに拠った)に拠れば、松前氏は若狭武田氏の流れを汲む武田信広を祖とする。若狭武田氏当主信賢の子とされる武田信広が宝徳三(一四五一)年に若狭から下北半島の蠣崎(現在のむつ市川内町(かわうちまち))に移り、その後、北海道に移住し、その地を治める豪族となったとある。嘉吉は一四四一年から一四四四年まで、その後、文安・宝徳を挟んで享徳三年までは、十~七年ほど離れるものの、若狭から蠣崎を経て松前に至るまでの時間としては、腑に落ちなくはない。

「しらま弓」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus の木で作った、白木のままの弓であるが、万葉以来、「弓を張る・引く・射る」ことから、同音の「はる」「ひく」「いる」などに掛かる枕詞である。

「なまよみの」枕詞。「甲斐」にかかる。

「しまつ鳥」「島つ鳥」で「鵜」の古名。転じて「う」の枕詞。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (20) 御伽婢子と雨月物語の内容

 

     御伽婢子と雨月物語の内容

 

 超自然的な怪奇を取り扱つた作品の内容も、その形式と等しく頗る相似通つて居る。御伽婢子と雨月物語の内容の似て居るのは當然であるけれども、ポオの作品にも相似寄つた點があるのは興昧ある現象といはねばならない。中にも戀愛を取り扱つたものには類似の題材が多く、例ヘば御伽婢子の「眞紅の打帶」(剪燈新話の「金鳳叙記」を飜案したもの)と、ポオの「リジア」とは頗る似たところがある。

[やぶちゃん注:以下は私のブログの「伽婢子卷之二 眞紅擊帶(しんくのうちをび)」で電子化注済み。なお、以下の「雨月物語」は私は少なくとも五冊以上の注釈版本を所持しているので、わざわざ原文リンクを必要としないのだが、最初の注に従い、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会大正七(一九一八)年刊の「上田秋成全集第一」の「雨月物語」の頭をリンクさせておく。各編はお手数乍ら、ご自身で探されたい。

『ポオの「リジア」』既出既注

 以下の梗概は、底本では全体が一字下げ。]

 越前の敦賀に檜垣平次といふ士《さむらひ》があつた。その一族が織田信長に攻められたゝめに、身をかくして上洛し五年間を暮した。彼には許嫁《いひなづけ》の女があつたが、別離の悲哀のために思ひ死にをしてしまつた。彼女の親は平次が出立の際與ヘて行つた眞紅の帶を、彼女の死骸に結びつけて野邊の送りをすませた後、幾何もなく平次は歸つたが、彼女の死をきいて獨り物思ひに沈み乍ら暮して居ると、ある日彼女の妹が外出するに逢つたが、その時妹が乘り物から落したものを見ると見覺えのある眞紅の帶であつた。不思議に思ひながら家に歸ると、その夜妹が忍んで來てさまざまに搔き口說いたので、彼は妹と駈落して三國《みくに》の湊に行き一年ばかりを夢のうちに暮したけれども、良心の呵責のために、敦賀に歸り、妹を船にとどめて、妹の兩親に詫を入れると、兩親は驚いて、帶はたしかに姉娘の死骸と共に葬つたこと及び妹娘は一年このかた重病で寢て居ることを語つた。こんどは平次が吃驚して船へ人を遣はして見ると、殘して來た筈の妹娘は居なかつた。するとその時病床の妹は枕をあげて、姉そのままの聲を出し、『前世に深い緣があつたから、閣魔大王に暇を貰つて一年あまり樂しく暮しましたが、もう私は歸ります。』といつて平次の手を取り、暇乞をして父母を拜み、更に『平次さんの妻となつても必ず女の道を守つて兩親に孝行をしなさい。』といひ乍らわなわなと顫へて倒れてしまつた。皆が驚いて顏に水を灑ぐと、妹は蘇生し病は忽ち平癒したが、何事も覺えがないといふことであつた。かくて妹は平次の妻となつて共に姉の跡を弔つた。といふのが眞紅の打帶の梗槪である。

 ポオの『リジア』では、ある男が、容貌も知識も古今に稀なといつてよい位の女と灼熱的な戀をする。ところがその女は死なねばならぬ運命に際會した。彼女はジョセフ・グランヴィールの『人間は意志さへ强ければ天使にも死にも決してその身を委ねることはない』といふ言葉を三度迄繰返して絕命する。男は悲歎のあまり、ライン河畔を去つてイギリスの片田舍に渡り、阿片溺愛者となつたが、女の遺產で、東洋風な邸宅に住ふことになり、そこで二度目の妻を迎へた。この女は第一の妻とは比較にならぬほど敎養が低く、男は頻りに先妻に戀ひこがれた。程なくして第二の妻も病氣にかゝつて絕命するが、やがて甦つた姿は先妻リジアであつたといふのである。

[やぶちゃん注:「リジア」「(18) 淺井了意と上田秋成」で既出既注。]

 この二つの物語は、共に强烈な戀は死をも征服することを描いたものであるが、前者では姉の靈が妹の生靈に宿り、後者では遺志の强い女の靈が、血緣關係のない女の死體に宿つたのであつて、凄味は遙かに後者に多いけれど、ポオのような巨匠でないものが、かういふ取扱いひ方をしたならば恐らく失敗するに違いない。

 これ等の物語とその内容は少しちがふが、强烈なる夫婦の戀は雨月物語の『淺茅《あさぢ》が宿《やど》』に美しく描かれてある。零落した男が家運再興のために上洛すると、その留守中に鄕里は戰亂の巷となつた。八年振りに歸つて見ると、最愛の妻は昔のわが家に待ちわびていたので、つもる話に夜を更かし、さて曉の夢がさめて見ると、自分一人が八重葎の中に臥て居て、妻の姿もわが家も見えなかつた。驚いて附近の人にたずねると妻はとくの昔に世を去つて居たといふ筋で、甚だ簡單である。然し、

[やぶちゃん注:同前。]

『たまたま此處彼處《ここかしこ》に殘る家に、人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つゝもあらね、いづれか我住みし家ぞと立惑《たちまど》ふに、こゝ二十步ばかりを去りて、雷《らい》に摧《くだか》れし松の聳えて立《たて》るが、雲間の星のひかりに見えたるを、げに我軒の標《しるし》こそ見えつると、先《まづ》喜《うれ》しきこゝちしてあゆむに、家は故《もと》にかはらであり、人も住むと見えて、古戶の間《すき》より燈火の影もれて輝々《きらきら》とするに、他人や住む、もし其人や在《いま》すかと、心躁《こころさはが》しく、門に立よりて咳《しはぶき》すれば、内にも速く聞《きき》とりて、誰《た》そと咎む。いたうねびたれど正《まさ》しく妻の聲なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ歸りまゐりたれ。かはらで獨自《ひとり》淺茅が原に住みつることの不思議さよ、といふを、聞知りたれば、やがて戶を明《あく》るに、いといたう黑く垢づきて、眼《まみ》はおち入りたるやうに、結げたる髪も背にかゝりて、故《もと》の人とも思はれず、夫を見て、物をもいはでさめざめと泣く。』

 の一節などは、物語の簡單な筋を文章の妙によつて補つて餘りあると謂はねばならない。ことに『雷に摧かれし松』を持つて來た技巧は非凡である。

『淺茅が宿』は主として御伽婢子の『遊女宮木野』の一篇がその題材となつて居るらしいが、この『遊女宮木野』は、剪燈新話の『愛卿傳』[やぶちゃん注:底本は『愛鄕傳』となっているが、誤植と断じ、訂した。]の飜案である。又、雨月物語の中の『夢應の鯉魚』は、古今說海『魚眼記』の逐語譯と言つてよい。かういふ點を考へて見ると、超自然を取り扱つた題材といふものは、殆んど先人によつて搜し盡されたといつてよく、これからの怪奇小說の作者は、表現に新味を求めるより外はないかもしれない。

[やぶちゃん注:「遊女宮木野」私の「伽婢子卷之六 遊女宮木野」を参照されたい。

「古今說海」(ここんせつかい)全百四十二巻。明の陸楫(りくしゅう)撰。明までの小説百三十五種を「説選」・「説淵」・「説略」・「説纂」の四部に分けて収めている。もっぱら小説のみを集めた叢書は、現存するものでがこれが最も古い。特に「説淵」部には「杜子春伝」・「李章武伝」・「崑崙奴伝」・「魚服記」・「人虎伝」などの唐代伝奇の名篇がぞろりと収録されていて、伝奇作品の後世への影響を考察する上で貴重な資料とされる。]

 雨月物語には『白峯』、『菊花の契』、『淺茅が宿』、『夢應の鯉魚』、『佛法僧』、『吉備津の釜』、『蛇性の婬』、『靑頭巾』、『貧福論』の九篇が收められてあるが、このうち『靑頭巾』はその前半には變態性慾という現實の怪奇が取り扱はれて居るし、又、秋成が理窟家であることを知るに都合がよいから、特に紹介して置こうと思ふ。この物語は衆道に墮して鬼と化した庵主が行脚憎によつて得度されるといふ筋であつて、愛する少年の死を悲しんだ庵主は、『懷の璧《たま》を奪はれ、插頭《かざし》の花を嵐に誘はれしおもひ、泣くに淚なく、叫ぶに聲なく、あまりに歎かせ給ふまゝに、火に燒き、土に葬ることをもせで、瞼《かほ》に瞼をもたせ、手に手をとりくみて、日を經給ふが、終に心神《こころ》みだれ、生きてありし日に違《たが》はず、戲れつゝも其肉の腐り爛るゝを吝《をし》みて、肉を吸ひ、骨を嘗めて、はた喫《くら》ひつくしぬ。寺中の人々、院主こそ鬼になり給ひつれと、連忙《あはただ》しく逃去《にげさり》ぬる後《のち》は、夜な夜な里に下りて、人を驚殺《おど》し、或は墓を發《あば》きて、腥々《なまなま》しき屍を喫ふありさま、實《まこと》に鬼といふものは、昔物語には聞きもしつれど、現《うつつ》にかくなり給ふを見て侍れ』といふ狀態になつたのであつた。この狂妄の人に法を說いた行脚僧は、三年の後再び庵を訪れると、その人は、昔のままに葎《むぐら》の中に端座して、敎へられた通りに證道の歌を誦し、影のやうな人の聲ばかりが、生き殘つて居るのである。僧が禪杖を振りまはすと庵主の肉身は立ちどころに消えて靑頭巾と骨ばかりが散ばつて居たといふ結末である。作者は勿論後半の超自然的怪奇の凄味を多からしめんがために、前半に現實の怪奇を述べて居るためでもあらうが、現實の怪奇を述べる筆は、上に示したごとく一こう物凄くも何ともない。して見ると超自然的怪奇を取り扱ふ時と、現實の怪奇を取り扱ふ時とでは、作者はその態度をきつぱり變へてかゝる必要があるかもしれない。

[やぶちゃん注:この「靑頭巾」は私が「雨月物語」中、最も偏愛する一篇で、高校教師時代にオリジナルに授業案を作り、何度も古文の授業で全篇を教授した。私はそれを、雨月物語 青頭巾やぶちゃん訳やぶちゃんのオリジナル授業ノートとしてサイトで公開しているので、是非、読まれたい。

 それは兎に角、この一篇中に眼だつ所は、作者が人間が鬼になつた古今の例證を長々と擧げて居ることである。卽ち、『楚王の宮人は蛇となり、王含が母は夜叉となり、吳生が妻は蛾となる』といつたり、又、『男子にも隋の煬帝《ようだい》の臣家に麻叔謀といふもの、小兒の肉を嗜好《この》みて、潜《ひそか》に民の小兒を偸《ぬす》み[やぶちゃん注:底本は『嗜み』となっているが、これは不木の誤りかと思う。特異的に原作によって訂した。]これを蒸して喫《くら》ひしもあれど』などと書いて居る。これはかのポオの『早過ぎた埋葬』の始めの部分の実例記載や、『かねごと』の中の笑と死とに關する議論と同じやうなものであつて、一方から言へば作品の效果を多からしめるかもしれぬが、うつかりするとペダンチックだといつて笑はれる。秋成も可成りに議論が好きであつたと見え『貧福論』の如きは怪奇小說にはちがひないが、始めから終《しま》ひまで議論で埋つて居て、こゝにもまたポオと秋成との類似が認められるのである。

[やぶちゃん注:「早過ぎた埋葬」知られた短編小説。原題は‘The Premature Burial ’ 。一八四四年。梗概は当該ウィキを見られたい。

「かねごと」「予言・兼言」で「前以って言っておく言葉」の意。 「約束の言葉・未来を予想していう言説」を意味する。ここはポーの「約束事(ごと)」(The Assignation :一八三四年)のこと。中間部で主人が私に彼の館の建築と室内装飾について説明する内容を指す。但し、議論というより、殆んど主人の一方的な主張である。]

 さて、雨月物語にあらはれる幽靈を通覽するに、『吉備津の釜』にあらわれる人妻磯良の生靈が多少主觀的な色彩を帶びて居るだけであつて、あとは皆客觀的な幽靈である。それにも拘はらず、十分なる凄味をあらわし得たのは偏に秋成の非凡なる手腕の然らしめたところであるといはねばならない。

2021/09/27

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (19)  御伽婢子と雨月物語の文章

 

     御伽婢子と雨月物語の文章

 

 如何に幽靈の眞の信者であつても、文章が拙くては、優れた怪奇小說を作ることが出來ない。作者が幽靈の信者であつても、讀者は十人が十人幽靈の信者でないから、讀者を强く戰慄せしめるためには、文章の力に依る外はないのである。御伽婢子や雨月物語の成功して居るのは、その美しい文章の力であつて、このことはポオの作品に就ても同樣である。『アシャー家の沒落』を讀んだものは、何よりも先にその文章の巧さに魅せられる。『雨月物語』の九篇の小說を讀んで、文章の妙味に醉はされぬ人は恐らく少ないであらう。

 特種な妙文を書くには特種の感覺を必要とする。ボードレールは散文詩を創作し、人工美に極端な憧憬をいだいたが、遂に嗅覺に新らしい詩的聯想を發見するに至つた。例へば彼は麝香をもつて緋と金色とを思ひ起させると言つたが、かうした特種の感覺は[やぶちゃん注:共感覚(シナスタジア:synesthesia)と呼ぶ。ある一つの刺激に対し、通常の感覚だけでなく、通常人では反応しない、異なる種類の感覚が自動的に同時に有意な確率で生じる知覚現象を指す。例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに色や形を感じたりするケースを言う。私の教え子の女性に一人いた。日本語以外の文字を見ると色が見えるとのことであった。ある程度馴れた言語ではそれがあまり発生しなくなるとも言っていた。]、やがて彼の文體に影響して、一種言ふにいへぬ絢爛な熱情的な色彩を躍動せしめたのであるが、ポオに就ても、また秋成についても同じことが言へるであらうと思ふ。尤も秋成の文章にはボードレールほどの異常感覺は認められないが、秋成が文體といふことに可なりに鋭敏な感じをもつて居たことは事實であつて、かの本居宣長との論爭にもその一端が覗はれると思ふ。その音韻假名遣の論爭の如きは、語學上の論議ではあるけれど、一面からいへば、彼が文章に對する熱情を認めない譯にはいかぬ。ロンブロソーはポオやボードレールの文章を、狂的發作の影響が然らしめたであらうと論じたが、實際狂的になる位にならねば名文章は書けぬかも知れない。

[やぶちゃん注:「音韻假名遣の論爭」本居宣長「字音仮名用格」(安永五(一七七五)年刊)に対しての秋成が吹っ掛けた古代音韻研究の論争。秋成は後の寛政六(一七九四)年の「霊語通」で時節を述べているが、この論争は輻輳したものがあって、「日の神論争」と呼ばれる。天明六(一七八六)年(年)から翌年にかけて宣長と秋成の間で書簡を通して交わされた国学上の論争で、具体的には「日の神」=「天照大御神」を巡る論争であったが、その前半戦に於ける古代日本語の「ん」の撥音の存在の有無を巡る論争である。因みに、宣長は古代には「ん」の音も半濁音も存在しなかったと立場をとり、現在それらが普通にあるようになったのは音便の結果であると主張したのに対し、秋成はそれらが古代から存在したと主張し、両者一歩も引かない頭突き合いとなった。それぞれの主張は宣長が「呵刈葭」(かかいか:寛政二(一七九〇)年頃成立:この書名は「葭刈(あしかる)」人=誤ったことを主張する「惡しかる人」を「呵(しか)る」という意に掛けた不穏当な書名らしい)で、秋成が「安々言」(やすみごと:寛政四(一七九二)年)という書で纏めている。なお、現在の言語学では「ん」の発音は漢字の伝来以降に形成されたというのが、学問上の定説らしい。しかし、「なめり」を「なんめり」と読めという非道な高等学校古文の常識を不審に思い続けた人間であり、そうであるなら、私は秋成の考えをこそ支持すべきであると考えるものである。則ち、「ん」(「n」「m」)の撥音は本来的に原日本人に備わっていたと考えるものであり、私は思想家としては独善的ファシストである宣長が嫌いであるからでもある。]

 凄味を目的の怪奇小說は通常短いことがその特徵となつて居るやうである。寸鐵人を殺すといふ言葉のあるとほり、人の心をびりつと戰慄せしめるにはなるべく短い方が效果が多いやうに思はれる。然しいふ迄もなく短か過ぎてはやはりいけない。長過ぎず短か過ぎず適當に書くのが作者の腕である。了意の御伽婢子が雨月物語に及ばぬのは、各々の物語が一般に短か過ぎるといふこともその原因の一つであらう。雨月物語に收められた九篇の物語は、四百字詰原稿用紙十枚乃至二十枚のもので一番長番長い『蛇性の婬』も約三十枚のものである、モーリス・ルヴェルの恐怖小說が日本語に飜譯して十枚乃至二十枚であることゝ比較して見ると頗る興味があると思ふ。もとより物語の長短などは、内容によつて定まることであるから、兎や角言ふのは野暮であるかも知れぬが、俳句や川柳が限られたる字數の藝術であるところを見ると、怪奇小說の長さといふことに一考を費すのも、無意義なことではあるまいと思ふ。

 短かい紙數の中に、作者の狙つた氣分を十分に漂はせることは甚だむづかしいことであつて、其處に怪奇小說作者の特別な技倆が必要となつて來る。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用部は全体が一字下げである。言うまでもないが、以下は「伽婢子」の中の名篇中の名篇「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」である。リンク先は私がこの春に行ったブログ版の電子化注である。]

『戌申の歲、五條京極に荻原新之丞と云者あり、近き比妻に後れて、愛執(あいしふ)の淚、袖に餘り、戀慕の焰、胸を焦し、獨淋しき窓の下《もと》に、ありし世の事を思ひ續くるに、いとゞ悲しさかぎりもなし。聖靈祭りの營みも、今年は取わき、此妻さへ無き名の數に入ける事よと、經讀み囘向して、終に出《いで》ても遊ばず、友だちの誘ひ來《く》れども、心、唯、浮立たず、門《かど》に彳立《たたずみたち》て、浮れをるより外はなし。

  いかなれば立《たち》もはれなず面影の

     身にそひながらかなしかるらむ

と打詠《うちなが》め、淚を押拭《をしぬぐ》ふ。十五日の夜いたく更けて、遊び步《あり》く人も稀になり、物音も靜かなりけるに、一人の美人、その年、二十《はたち》許と見ゆるが、十四五許の女《め》の童《わらは》に、美しき牡丹花《ぼたんくわ》の燈籠持たせ、さしも徐やかに打過ぐる。芙蓉の眥《まなじり》あざやかに、楊柳《やうりう》の姿、たをやかなり。桂の黛《まゆずみ》、碧《みどり》の髮、いふ許りなくあてやか也。萩原、月の下《もと》に是を見て、是はそも天津乙女《あまつをとめ》の天降《あまくだ》りて、人間《じんかん》に遊ぶにや、龍の宮の乙姬の渡津海《わたつみ》より出で慰むにや、誠に、人の種《たね》ならずと覺えて、魂《たましひ》、飛び、心、浮かれ、自《みづから》をさへ留むる思ひなく愛で惑ひつゝ後《うしろ》に隨ひ行く。』

 とは、御伽婢子の中の、有名な『牡丹燈籠』の一節である。これを讀むと、この窈窕《えうてう》たる[やぶちゃん注:美しく上品で奥床しいさま。]美人が幽靈であると知れない前に、何となくこの世のものでないやうな氣がする。又『野路忠太が妻の幽靈物語の事』の一節には、同じく妻を失つた男が妻の幽靈に訪ねられる有樣を敍して、

[やぶちゃん注:以下、底本では引用部は全体が一字下げである。なお、以下のそれは「伽婢子卷之四 幽靈逢夫話」。リンク先は同じく私のブログ版電子化注。]

『三日の後、便りにつけて聞けば、妻、風氣《ふうき》をいたはりて死せりと言《いふ》。忠太、悲しさ限りなし。とかくして江州に歸り、其跡を慕ひ、妻が手馴れし調度を見るに、今更のやうに思はれ、淚の落《おつ》る事、隙なし。日比《ひごろ》の心ざし、わりなき中の、其の期《ご》に及びては、さこそ思ひぬらんと思ひやるにも、なにはにつけて歎きの色こそ深く成けれ。寢ても覺めても面影をだに戀しくて、

  思ひ寢の夢のうき橋とだえして

     さむる枕にきゆるおもかげ

と打ち詠じ、若しわが戀悲しむ心を感ぜば、せめて夢の中にだにも見え來りてよかしと、獨言して日をくらす。比《ころ》は秋も半ば、月、朗かに、風、淸し、壁に吟ずるきりぎりす、草村にすだく蟲の聲、折にふれ、事によそへて、露も淚も置き爭ひ、枕を傾《かたぶ》けれども、いも寢《ね》られず、はや更かたに及びて、女の泣く聲かすかに聞えて、漸々に近くなれり、よくよく聞《きけ》ば、我妻が聲に似たり。忠太、心に誓ひけるは、我妻の幽靈ならば、何ぞ一たび我にまみえざる。裟婆と迷途と隔《へだて》ありとは云へ共、其かみのわりなき契り、死すとも忘れめやと。其の時、妻は窓近く來り、我はこれ君が妻なり。君が悲しみ欺く心ざし、黃泉《よみぢ》にあれども堪がたくて、今夜《こよひ》こゝに來り侍べりと。』

と書いたあたり、幽靈の出て來る雰圍氣が、その美しい文章によつて巧みに醗酵させられて居る。

 たゞあまりに文章がなだらかであるために出て來る幽靈が現實のやさしい人間と變りがなく、ために陰森凄愴たる感じを與へることが少ない。一口にいふと美しい刺繡の幽靈を見て居るやうであつて、この點から考へても、了意は眞の幽靈信者ではなかつたかも知れない。これに比べると、秋成の幽靈には一段の凄味がある。

[やぶちゃん注:以下同前。]

『よもすがら、供養したてまつらばやと、御墓《みはか》の前のたひらなる石の上に座をしめて、經文、徐《しづか》に誦《ず》しつゝも、かつ歌よみてたてまつる。

  松山の浪のけしきは變らじを

       かたなく君はなりまさりけり

猶、心怠らず、供養す。露いかばかり袂にふかゝりけん、日は没しほどに、山深き夜のさま、常ならで、石の床《ゆか》、木葉《このは》の衾《ふすま》、いと寒く。神《しん》淸《すみ》骨《ほね》冷えて、物とはなしに凄《すざま》じきここちせらる。月は出しかど、茂きが林は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく、圓位《ゑんゐ》、圓位、とよぶ聲、す。眼をひらきて、すかし見れば、其《その》形《さま》、異《こと》なる人の、背高く、瘦《やせ》おとろへたるが、顏のかたち、著《き》たる衣の色紋《いろあや》も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行、もとより道心の法師なれば、恐《おそろ》しともなくて、こゝに來たるは誰《た》ぞと問ふ。』[やぶちゃん注:最後は原本では「答ふ」である。]

 とは、『白峯』の一節であるが、その凄味に於ては、同じ題材を取り扱つた露伴の『二日物語』に、優るとも劣つては居ないやうな氣がする。『菊花の契《ちぎり》』に於て、赤穴宗右衞門の亡靈が左門を訪ねて來るところなどは、まだ亡靈とはわからないのに、一種の凄味が漂つて居る。

[やぶちゃん注:「露伴の『二日物語』」前半は明治二五(一八九二)年五月『國會』初出で、後半は九年後の明治三四(一九〇一)年一月『文藝倶樂部』である。私は不木に言おう! 並べられては上田秋成の方が可哀そうだ! 露伴の怪談など、全然、話にならない愚作である。彼の怪談で慄然としたことは私は一作もない!

 以下同前。「菊花の約(ちぎり)」は「白峯」に次いで名篇であり、私の偏愛するものである。以下のシークエンスは実際にその場に私が左門になって実際に体験したようなデジャ・ヴュがあるほどである。]

『午時《ひる》もやゝかたふきぬれど、待つる人は來らず。西に沈む日に、宿《やどり》急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方のみまもられて、心、醉へるが如し。老母、左門をよびて、人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきは、けふのみかは。歸り來る信《まこと》だにあらば、空は時雨にうつりゆくとも、何をか怨べき。入りて臥《ふし》もして、又、翌の日を待つべし、とあるに、否みがたく、母をすかして、前《さき》に臥さしめ、もしやと、戶の外に出でて見れば、銀河、影、きえきえに、氷輪《ひやうりん》[やぶちゃん注:月の異名。]、我のみを照して淋しきに、軒守《もきも》る犬の吼《ほ》ゆる聲、すみわたり、浦浪の音ぞ、こゝもとにたちくるやうなり。月の光も山の際《は》に陰《くら》くなれば、今は、とて、戶を閉《た》てて入らんとするに、たゞ看る、おぼろなる黑影《かげろひ》の中に、人ありて、風のまにまに來る《く》を、あやし、と見れば、赤穴宗右衞門なり。』

 簡潔にして要を得て居る所、ポオの文章を思ひ起せる。

 すべて、超自然な事柄を取り扱ふに際し、西洋の作者でも東洋の作者でも、同じやうな背景を選ぶやうである。先づ最も多く選ばれるのは、前揭の諸例に見られるやうに夜分、しかも月を配した夜である。次は人通りなき山中か或は訪ふ人もなき癈墟である。更にその次には暴風雨や霧である。秋成はそれ等のものを自由自在に組み合せて、愈々作品の印象を深からしめることに成功した。

[やぶちゃん注:以下、二つの引用は同前。]

『五更の空明ゆく頃、現《うつつ》なき心にも、すゞろに寒かりければ、衾被《かづき》んと搜《さぐ》る手に何物にや、さやさやと音するに目さめぬ。面に冷々《ひやひや》と物の零《こぼ》るゝを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根はの風に捲くられてあれば、有明の月の白みて殘りたるも見ゆ。家は扉《と》もあるやなし、簀垣、朽頽《くちくずれ》たる間《ひま》より、荻・薄、高く生《を》ひ出《いで》て、朝露、うちこぼるゝに、袖、濕《ひ》ぢて、絞るばかりなり。壁には蔦葛延びかゝり、庭は葎《むぐら》に埋《うづも》れて、秋ならねども、野らなる宿なりけり。』(淺茅が宿)

『松ふく風、物をたふすがごとく、雨さへふりて、常ならぬ夜のさまに、壁を距てて、聲を掛合ひ、既に四更に至る。下屋の窓の紙に、さ、と、赤き光さして、あな憎くや、こゝにも貼《おし》しつるよ、といふ聲、深き夜には、いとゞ凄《すざま》じく、髪も生毛《うぶげ》も、悉く聳立《そばだ》ちて、暫くは死入《しにいり》たり。』(吉備津の釜)

 など、例をあげればまだ幾らもあるが、同じやうな筆をつかひ乍ら、しかも巧みに一々の情緖を描きわけて居るのは、さすがに巨匠の腕かなと驚嘆せざるを得ないのである。

 かやうな筆法はポオによつても採用された。かの『アシャー家の沒落』の中には、廢墟に似た荒びた建物、嵐の夜の音又は月光などが、巧みに按排されて、いふにいへぬ美しい凄味が描き出されて居る。たゞポオの作品にありては、彼自身の内側から發する病的恐怖が中心となつて居るために、一層深刻に描き出されて居るのであつて、超自然的怪奇小說の效果は、どうしても、作者自身の先天的性質の如何によつて定まるものと考へざるを得ない。だから同じ材料を取り扱つても、作者の素質次第でいくらでも、凄味を深からしめることが出來るのであつて、現に雨月物語に收められた作品の題材の中には、後に說くやうに、御伽婢子その他の怪奇小說から取つたものが可なりにある。だから現今に於て、雨月物語の内容をそのまゝ書き直しても、書き手によりては雨月物語よりも遙かに物凄いものが出來るかも知れない。このことは强ち怪異小說に限らず、一般の文藝作品に就ても言ひ得ることであるけれども、同じ凄味を取り扱つたルヴェルの作品の如きは怪奇の發見そのものに價値があるのであつて、もし同じ題材を取り扱つたならば單なる剽窃になつてしまふから、特に注意したまでである。之に反して御伽婢子に收められた物語の約三分の一が、支那の剪燈新話の飜案であり乍ら、それ自身に獨特の凄味をもつて居るのは、超自然的題材の剽窃が所謂換骨奪胎たり得ることを示すものといつてよい。

 然しながら、現代に於ても、超自然的題材を取り扱つた小說が、果して喜ばれるか否かといふことは全くの別問題である。雨月物語やポオの作品からは、いはばたゞ美しい凄味を得るだけであつて、近代人が要求するところの、身震ひするやうな戰慄といふものは得られないから、追々ルヴェルの作品のやうなものが、好まれるだらうと思はれるけれど、それはいまこゝで委しく論ずべき範圍ではないのである。

畔田翠山「水族志」 タバミ (フエフキダイ)

 

(一七)

タバミ【紀州日高郡由良足代浦】一名タモリ【紀州海士郡雜賀崎浦】白頰

大者尺餘形狀黃翅ニ似テ觜細ク眼大也背淡靑色帶ㇾ黃腹白色頰白色

細鱗「ハカタヂヌ」ノ如シ脇翅淡黃色腹下淡黃色ニ乄黑條アリ本ノ刺

太ク二寸許白色帶淡紅縱ニ條アリ腰下鬣淡黃色本淡黑色其本ニ太

キ刺三アリ中ノ刺長ク乄二寸餘白色帶淡紅縱ニ條アリ背ノ上鬣刺

長三寸許陰陽刺アリ淡紅色ニ乄淡黑斑アリ下ナルハ本黑色ニ乄其

下淡黄色尾淡黃色ニ乄淡黑斑アリ端淡黑色漳州府志ニ烏頰全棘鬣

但其頰烏又有白頰ト云ヘハ白頰ハ棘鬣類ノ白頰也閩中海錯疏及閩

書ニ白頰魚ヲ載曰似跳魚而頰白跳魚ハ弾塗ニ乄「トビハゼ」也棘鬣類

ノ白頰ト同名異物也

○やぶちゃんの書き下し文

たばみ【紀州日高郡由良足代浦。】一名「たもり」【紀州海士郡雜賀崎浦。】・白頰

大なる者、尺餘。形狀、黃翅〔はかたぢぬ〕に似て、觜〔はし〕、細く、眼、大なり。背、淡靑色に黃を帶び、腹、白色。頰、白色。細鱗。「はかたぢぬ」のごとし。脇の翅〔ひれ〕、淡黃色。腹の下、淡黃色にして黑條あり。本〔もと〕の刺〔とげ〕、太く、二寸許り。白色に淡紅を帶ぶ。縱に條あり。腰の下の鬣〔ひれ〕、淡黃色、本は淡黑色。其の本に太き刺、三つあり。中の刺、長くして、二寸餘、白色に淡紅を帶ぶ。縱に條あり。背の上の鬣の刺、長さ三寸許り。陰陽の刺あり。淡紅色にして、淡黑の斑あり。下なるは、本、黑色にして、其の下、淡黄色。尾、淡黃色にして、淡黑の斑あり、端〔はし〕、淡黑色。「漳州府志」に、『烏頰〔すみやき〕、棘鬣、全きたり。但し、其の頰、烏〔くろ〕、又、白頰〔はくきやう〕も有り。』と云へば、「白頰」は棘鬣類〔きよくりやうるゐ〕の白き頰のものなり。「閩中海錯疏」及び「閩書」に、「白頰魚」を載せて曰はく、『跳魚に似て、頰、白し。』と。跳魚は「彈塗〔だんと〕」にして「とびはぜ」なり。棘鬣類の「白頰」と同名異物なり。

[やぶちゃん注:宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)ではここで、

スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

の方言の一つとして挙げる。他に「クチビ」「クチビダイ」『(紀州各地)』とし、その名は『口中赤色であるため』とし、「タバミ」は『(田邊・切目・鹽屋)』とし、「タバメ」は『(周參見』(すさみ:現在の和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見。]『・串本』とし、「タマメ」は『串本・三輪崎』』とした後、本「水族志」では「タモリ」『(雜賀崎)』と挙げ、また、別に田辺では「タバミババク」と本書にあるとするが、少なくとも、ここではない。「WEB魚類図鑑」の同種のページによれば、『他の日本産フエフキダイ属魚類とくらべ、体高が著しく高い。胸鰭基部の内側には鱗がないか』、『あっても少ない。背鰭棘中央部下の側線上方横列鱗数(Trac)は』通常は五列。『鰓蓋後端が赤いものと』、『そうでないものがいるが、これについては現在』、『研究がすすめられている。体長』は四十センチメートル程度で、分布は、新潟県)以南、『神奈川県』から『鹿児島県、瀬戸内海、沖縄、小笠原諸島』の他、『済州島、台湾』東『シナ海』で『岩礁域』の『砂泥底にすむ。沿岸からやや沖合に見られ、水深』百メートル『前後まで見られるよう』であるが、『小型個体は浅海に多い』。「食性」は『肉食性』で『甲殻類や小魚などを捕食する』とある。『釣りや沖合底曳網で漁獲され、食用になる。標準和名フエフキダイであるが、日本の太平洋沿岸には』、『あまり多くなく、東シナ海や日本海西部などに比較的多い』とある。

「紀州日高郡由良足代浦」現在の和歌山県日高郡由良町のこの湾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。由良町網代がある。

「紀州海士郡雜賀崎浦」和歌山県和歌山市雑賀崎のこの附近

「白頰」「しろほ」或いは「しらほ」か。「ほお」は漁師は縮約するだろうと踏んだ。

「黃翅〔はかたぢぬ〕」前回の『畔田翠山「水族志」 ハカタヂヌ (キチヌ)』に異名として出る。

「背の上の鬣の刺、長さ三寸許り。陰陽の刺あり」宇井氏の記載によれば、『背鰭は十棘九軟條』とあるので、この「陰陽」とは軟条と硬い棘条を指すものと思われる。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、何度も出ているが、ここのところ、サボっているので再掲する(以下の二書も同じ)。原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「烏頰〔すみやき〕」前回も注したが、「烏頰魚(すみやき/くろだひ)」というのは、前項にも注で出した、スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini を指すとしか思えないのである。畔田は真正の現在のクロダイを想起して書いているとしても、そうした部分をバイアスとしてかけて読む必要がある。

「棘鬣類〔きよくりやうるゐ〕」広義のタイ類。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「中卷」はこちらである。但し、三種を並べて述べているので、以下に引く(後者の画像が不具合で見れないので、恣意的に一部の漢字を正字化した。太字は私が施した)。

   *

 彈塗  白頰  塗蝨

「彈塗」、大如拇指。鬚鬛靑斑色。生泥穴中。夜、則、駢首、朝、北。一名「跳魚」。「海物異名記」云、『登物捷、若猴。然故名「泥猴」。』。「白頰」、似跳魚而頰白。「塗蝨」、生於泥中、如蝨。故名一呼「塗蝨」。有刺彈人。一名「彈瑟」。田塍潭底、往往有之、一名「田瑟」。

   *

これは面白い記述だ。「塗蝨」は特に惹かれる。これは直感だが、跳ねて、人が刺されるとなると(生息域は泥中ではなく、ごく浅い岩場だが)、スズキ目ゲンゲ亜目ニシキギンポ科ニシキギンポ属ギンポ Pholis nebulosa の仲間ではないかと考えた。鰭が結構、硬く、尖っており、中・大型個体(最大三十センチメートル)に不用意に触ると、かなり痛む。但し、現代中国語では「塗蝨」(音「トヒツ」)は調べてみるに、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps を指しているようである。それも確かに指すし、泥田(「田塍」の「塍」(音「ショウ・ジョウ」:現代仮名遣)は「田の畔」の意)の中にいて、刺されると、激しく痛むという点、ナマズの仲間であるが、前の二種のハゼ同様、細長いから、納得出来、違和感はない。因みにこの場合の「塗」は「(泥に)塗(まみ)れる」性質による呼称と読める。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「跳魚」「弾塗〔だんと〕」孰れも広義のハゼ類(条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei)を指す。

「とびはぜ」現行ではハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科 Oxudercinae トビハゼ属 Periophthalmus のことを広義には指すものの、特にその中でも、和名としてはトビハゼ Periophthalmus modestus に限定される。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 靈救水厄の金佛觀世音の事に付 文政二年四月七日 松前家臣佐藤隼治より君公へたてまつりし書狀の寫【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】

 

   ○靈救水厄の金佛觀世音の事に付

    文政二年四月七日

    松前家臣佐藤隼治より

    君公へたてまつりし書狀の寫

    【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】

寬文二年壬寅[やぶちゃん注:一六六二年。]九月廿七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十一月七日。]、松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシと申す村にて、和歷代の内、佐藤木工左衞門[やぶちゃん注:「もくざゑもん」。]と申者、川流れいたし、柳の根に止まり候處、蝦夷共、集まり、引き揚げ候節、兩手に土を握み、上り、其節、手に握り候土の内に、觀音の金佛、有之候處、同所へ祠を建て、右之金佛、松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候。寬文二年より今文政二年迄凡百五十年餘に可相成哉と奉存候。右木工左衞門、其町御奉行相勤、御同所出火之砌、立腹仕候由、松前年々記に有之樣覺え罷在候。

  卯四月七日      佐 藤 隼 治

[やぶちゃん注:標題はブログ・タイトルの通り、ベタ一行で、小五月蠅い読点附きであるが、ブラウザの不具合を考え、本文では改行し、読点も附さなかった。

「寬文二年壬寅九月廿七日」グレゴリオ暦一六六二年十一月七日。

「松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシ」不詳だが、支笏湖の方五十七キロメートルも離れるが、北海道勇払郡むかわがある(グーグル・マップ・データ)。漢字は「鵡川」を当てる。同地区を貫流するも「鵡川である。「キナオシ」は見当たらない。当字は「木直」か(同名の地区が北海道函館市木直町としてある)。

「和歷代の内」「和人としてここに官人(後に「町奉行」とする)として勤めていた歴代の中で」であろう。恐らくは、今も同名の末裔の人物がおり、現にその観音を蔵しているのであろう。

「松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候」「郡」は「歸・皈」の判読の誤りであろう。恐らくは「松前へ持ち歸りて、今も所持仕りて候ふ」であろう。

「文政二年」一八一九年。

「松前年々記」慶長元(一五九六)年から寛保元(一七四一)年までの松前藩の年代記。成立は寛保二(一七四二)年頃。

「佐藤隼治」「北海道大学 北方資料データベース」のこちらに、彼宛の二通の通知状(「松前藩士佐藤家文書」)があり、その「佐藤隼治禄高通知 (二百石)」で彼の名前の読みは「さとうはやじ」であることが判明した。通知状が送られたのは文政六 (一八二三) 年とある。

 以下、「奇といふべし。」まで、底本では全体が二字下げ。]

解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事のくだりに、これをも倂せ記すべきを忘れたれば、別に出だせり。按ずるに、白石先生の「琉球事略」に載せたりし、「林太夫が事」と、佐藤木工左衞門が事と、よく相似たり。林太夫が溺れしとき、とり携へしは、「梅の枝」にて、感得せしは「天滿宮の木像」なり。又、木工左衞門が溺れしとき、堰留めたるは「柳」にて、感得せしは「金の觀音」なり。「木」は東方・春の色、「梅」は菅家の遺愛たり。「金」は西方・秋の色、又、「楊」は觀音に、因み、いちじるし。これ彼共に奇といふべし。

附けていふ、曩に予があらはしたる「ひやうし考及圖說」にも、『松前にて、イタヤといふ樹、未詳。木蓮をイタヰといへば、これにはあらぬか。』としるしゝは、猶、ひがことなりき。再、按ずるに、「北海隨筆」に云、『楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なり。』といへり【「下」の卷「夷言」の條下に見えたり。】。これにより、イタヤは楓なるよしをしるものから、猶、心もとなければ、いぬる日、松前家の醫師牧村右門、訪ひ來りし折、この一條を擧げて質問せしに、牧村が云、「イタヤは、卽、幷楓の事なり。その葉は、よのつねなる楓より、大きし。その樹、松前に多くあり、蝦夷地には、いよいよ多かり。よりて、松前にて薪にするは、皆、イタヤなり。凡、『ひやうし』を造るもの、材竃(マキ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]木などをもてすれば、『ひやうし』は、必、イタヤに造ると思ふものもあらん。その木に拘ることにはあらず。」と、こともなげに答へらる。よりて思ふに、松前にてイタヤといへるは、「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】のたぐひなるべし。又、「ひやうし」の綱に、よる、といふシナの事をたづねしに、牧村が云、「シナといへるも、木の皮なり。その皮をもて、索(ナハ)にすれば、麻よりは、なかなかに、つよし。松前にてシナを文字に「极」と書くものもあり。當否はしらず侍り。」と、いひにき。この兩條は、「ひやうし考」の圖說の末に、つけ紙して、しるしおかれんことを、ねがふかし【今、按ずるに、「正字通」、『「极」、音「桀」。驢背上木以負物[やぶちゃん注:「驢(ろば)の背の上に木を以つて負はす物」か。]』なり。『「㭕」、卽、「极」。「极」、或作「笈」。』と見えたり。かゝれば、シナに「极」と書くこと、その義に、かなはず。當に「栲」に作るべし。】。又いふ、今玆五月のはじめにやありけん、倉卒に書きつめたる拙者の「帶かけ考」にも、遣漏ありけり。「伊豆國海島風土記」【下の卷。】に八丈島なる男女の風俗をしるして云、『女の帶は幅壱尺なり。長さ、四、五尺に紬を織り、蘇方木を以て、赤く染め、その儘、單にて用ひ、老若ともに是を前にて結ぶ。男は眞を入れ、くけたる帶を結びたるもあり。』と、いへり。

[やぶちゃん注:以下最後まで底本では全体が一字下げ。]

解云、これも亦、「帶かけ」の遺風なるべし。今、佐渡にては、女の帶の、幅廣きをもて結ぶ故に、帶ひらをば、竪にたゝみて、その帶に、はさむなり。又、八丈島なる女は、いにしへの帶かけをやりて、帶にせしより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕の人をまじへず。こゝをもて、古風の存すること、多かり。此他、五島・平戶などの風俗をも訪求せば、かゝるたぐひ、猶、あるべし。抑、予が「帶かけ考」は、「兎園」にのせぬ「別錄」なれども、遺忘に備へん爲にして、且、寫しとられたる一兩君に告げんとて、いふのみ。

  文政八年秋七月朔  玄同 瀧澤 解 識

[やぶちゃん注:「解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事」「兎園小説」第六集の「土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音」の後半のそれ。

『白石先生の「琉球事略」』新井白石著「琉球國事畧」。正徳元(一七一一)年。琉球の国情を白石が将軍徳川家宣に報告したもの。原本を確認出来ない。

「ひやうし考及圖說」「第一集」の「ひやうし考に圖說」リンク先のそれは「馬琴雑記」版底本であるため、実はこの附記も既に挿入されてある。しかし、微妙に表記等がことなるので、ここでは吉川弘文館随筆大成版とそれとの違いを示すために、零から電子化した。

「北海隨筆」前記リンク先では注しなかった。幕府江戸金座の後藤庄三郎の手代板倉源次郎なるもの紀行文で、調べた書誌データでは、奥書には「右隨筆者元文二年の春松前より蝦夷へ至り翌年の冬江都へ歸り見聞の事ともを記せし也」とある。「国文学研究資料館」の画像データの一写本(貴重書らしい)のここである。本文ではなく、掉尾の語彙集(「夷言」)の中にある。右丁の七行だが、実は馬琴は致命的に誤読していることが判明した! この行を総て起こす。

   *

桐(タウヘ)【松前にてはイタヤといふ。日本のより、葉、大なり。】・桜(サツフ)・栗(シケ)・木実(イベ)・楓(タフベニ)

   *

御覧の通り、馬琴は「桐」を「楓」と誤読した上、しかも「楓」のアイヌ語「タフベニ」を「タラベニ」と誤っている。これは諸本の誤りでないとすれば、要訂正注レベルのひどい誤りである。しかし、以下の牧村は確かに「イタヤ」は「幷楓」と言っている。とすれば、この写本の筆者者が誤ったものか? しかし、最後に「楓」をもってきておいて、この頭に同じ「楓」逆立ちしても配さない。牧村は知ったかぶりしたのではないか? と私は勘繰りたくなる。

「松前家の醫師牧村右門」こちらの「松前藩家臣名簿:ま行」の史料文書によるリストで、牧村右門は寛政一〇(一七九八)年の時点で「御近習列」、文化四(一八〇七)年で「医師」、後の嘉永六 (一八五三) 年には「中書院格医師」とある。

「幷楓」「ならびかえで」か。不詳。

「材竃(マキ)木」「竃(かまど)で燃やす材にする木」で「薪(マキ)」か。

『「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】』国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここと、ここ(図はこちら)。植物は全電子化する気がないので、ここで訓読しておく(ひらがなの読みは私の推定)。図もトリミング補正して添えた。

   *

楓(ヲガツラ) 「江陰縣志」曰、『白楊に似て、葉、厚く、枝、弱し。善く搖(ゆら)ぐ。故、字、風に從ふ。霜後、色、赤し。「合璧事類」に、「楓葉、圓(まどか)にして、岐(マタ)、分れ、三角なり。」』。今、案ずるに、「和名」に「楓」を「オガツラ」と訓ず。その葉、まことに白楊(ハコヤナギ)に似て、兩々、相ひ對す。賀茂の祭に用る「カツラ」、是なり。又、筑紫にても「カツラギ」と云ふ。葉、「カヘデ」より大きなり。花は「サヽゲ」の花のごとく、三、四月、開く。形狀は似たれども、からの書にいへるやうに、「オカツラ」は紅葉せず、香、なし。是、眞に楓なりや、未だ詳かならず。「朝鮮には楓あり。香、あり。」と云ふ。「桂」を順が「和名」に「メガツラ」と訓ず。「オガツラ」に對す。楓を「カヘデ」と訓ずるは、あやまれり。「カヘデ」は機樹なり。

 

Katuranoha

 

   *

この葉の図によって、「楓」はカエデ(ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer )ではなく、カツラ(ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )であることが判明した。本篇のそれもそうとることで不審の一部が解消出来る。

「シナ」日本特産種のアオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica 。樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く、古くから主に太い綱の材料とされてきた。

「极」誤字。荷車用の馬につけた鞍。荷鞍(にぐら)。シナノキには本邦では「科」「級」「榀」の漢字が当てられ、現代中国では「椴」の字が当てられている。

『當に「栲」に作るべし』誤り。「栲」は「かじのき(梶木)」(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )、又は「こうぞ(楮)」(バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera )の古名である。孰れも和紙の原料としては知られる。

「倉卒」

『拙者の「帶かけ考」』「馬琴雑記」のここから(リンク先は標題の「帶被考」のみ)読める。これは後に電子化予定の「兎園小説別集」のこちらにも載る。

「伊豆國海島風土記」八丈島・八丈小島・青ヶ島・大島・三宅島・新島・式根島・神津島・御蔵島・利島(としま)の風土・歴史・民俗等を記したもので、幕僚の佐藤行信なる人物が天明元 (一七八一)年に、吉川秀道なる者に伊豆諸島を調査させた結果をもとに書き上げたものとされる(以上は「静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介(8)」PDF)の本書についての記載に拠った)。

「文政八年」一八二五年。]

2021/09/26

伽婢子卷之十 妬婦水神となる

 

[やぶちゃん注:今回は状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。]

 

Tohu

 

   〇妬婦(とふ)水神(すいじん)となる

 山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり。

 世に傅へていふ、

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし。この故に、つひに配偶(はいぐ)、なし。橋の南に離宮(りくう)明神あり。昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ。その來り給ふ時は、宇治の川水、白波、たかくあがりて、すさまじき事、いふばかりなし。されば、明神の哥に、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎの

   行あひのまに霜やおくらむ

と、よみ給ひし。」

とかや。

 然るに、宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也。

 このゆゑに、今に到りて、兩郡(《りやう》ぐん)、緣を結ぶには、橋より北の方、「槇(まき)の嶋」より、舟にて川を渡る事也。これは、

「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて、ひとり、やもめなる事を怨み、ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり。」

と、いへり。

 それにはあらず。

 昔、宇治郡に、岡谷式部(をかのやしきぶ)とて、富裕の者あり。

 その妻は、小椋(おぐら)の里の領主村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)といふ人のむすめ也。

 物嫉み、極めて深く、召し使ふ女童(《めの》わらは)まで、少し人がましきをば[やぶちゃん注:少しでも女として相応の器量を持っていたりすれば。]、追出《おひいだ》して、たゞ、五體不具の女ばかりを、家の内には集め、使ひけり。

 餘所(よそ)の事をも、男女《なんによ》のわりなき物語を聞《きき》ては、そのまゝ、腹立ち、怒りて、食、更に、口に入れず。

 まして、わが夫(をつと)の事は、悋氣(りんき)ふかく、せめかこちて、門より外に出《いだ》さず。

 岡谷も、もてあつかふて、

「去(さり)もどさん。」

とすれば、

「我に、いとまをくれて、去(さり)たらんには、鬼になりて、とり殺さん。」

など、すさまじく罵しりけり。

 年をかさぬれども、子も、なし。

 岡谷、つねには、双紙をよむ事を好みて、慰(なぐさみ)とす。

 「『源氏物語』の中に、物嫉み深きためしには、六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり、髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり。これ、皆、『物ねたみ、深きためし。』とて、後の世迄も、名を殘せし。是等は、恐ろしながらも、『眉目(みめ)かたち美しかりし』と、いへり。たとひ、悋氣深くとも、和御前(わごぜ)も、みめよくは、ありなむ。さのみに、たけだけしう、嫉み給ふな。」

といふに、女房、大《おほき》に腹立ち、

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて[やぶちゃん注:死んで転生して。]、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」

とて、髮は、さかさまに立ち、口、廣く、色、あかうなり、まなこ、大《だい》に、血、さし入《いり》たるが、淚を、

「はらはら」

と流し、座を立《たち》て、走り出つゝ、宇治川に飛び入《いり》たり。

 水練を入《いれ》て求むれ共、死骸も、見えず。

 岡谷、驚き、平等院にして、さまざま、佛事、とり行ひけり。

 七日《なぬか》といふ夜《よ》の夢に、妻の女房、來りて、岡谷にいふやう、

「我、死して、此《この》川の神と、なれり。橋を渡りて緣を結ぶものあらば、行末、必ず、遂(とげ)さすまじ。」

とて、夢は、さめたり。

 これより、

「橋を渡りて、緣を結べば、必ず、別離する。」

と、いへり。

「船にて川を渡すにも、眉目(みめ)わろき女には、仔細なし。顏かたち、美しき女の渡れば、必ず、風、あらく、波、たちて、舟、危し。」

といふ。

 此故に、新婦(よめ)を迎へて、川を渡すに、波風なきときは、

「新婦(よめ)のみめ、惡(わろ)からん。」

と、諸人、これを知るとかや。

[やぶちゃん注:全国に見られる橋姫伝説は数多注してきたので、ここで改めて語る気にならない。手っ取り早く、梗概を知りたければ、ウィキの「橋姫」を見られたいし、民俗学的なそれは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫』(十分割)を読まれたい。なお、これも時制を特定していない。しかし、個人的にはここまでの「伽婢子」の中では珍しく読後がいかにも後味悪い作品である。妬心をいやさかに燃え上がらす妻を病的に描くことに執着した了意に、妙なもやもやしたダークな一面(彼の人生の中の女の影)を見るからであろうか。

「山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり」宇治橋周辺は宇治川右岸が旧宇治郡、左岸が旧久世郡宇治郷に当たる。橋姫神社をポイントした(グーグル・マップ・データ)。

「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし」不審。「新日本古典文学大系」版脚注でも、直後の『文にも』「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて」『とするが、宇治の橋姫を醜女』(しこめ)『とする伝承は見当たらない。美女を妬むとする原話』(本篇は五朝小説「諾皐記」の「臨清有妬婦津云々」を原話とすると前注にある)『に即した付加か』とある。

「離宮(りくう)明神」先の地図で宇治川の対岸にある末多武利神社(またふりじんじゃ)。祭神は藤原忠文(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)は天慶二(九四〇)年、「平将門の乱」鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ、東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。忠文は大納言藤原実頼の反対により、恩賞の対象から外されたことから、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫に祟ったとされ、この神社は、その忠文の御霊を慰めるために創建されたもの。

「昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ」前掲の岩波文庫の高田氏の注に、『「宇治の橋姫とは姫大明神とて、宇治の橋本に座す神也。其の神の許へ、宇治橋の北に座す離宮の神、夜毎に通ひ給ふとて、暁毎に川波大きに声あり」(『顕注密勘』)』とあり、以下の歌について、『「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行合のまより霜や置くらむ」(『新古今集』巻十九、神祇歌)。「かたそぎ」は、「片削ぎ」で片方を削ぎ落したもの』とある。「片削ぎ」とは神社の神明造りに於いて、破風板の両端が棟でX字型に交差するが(これを「千木(ちぎ)」と呼ぶ)、それが更に上に突き出た部分を指す。その先端部は孰れも片側が削がれてあることに由来する呼称である。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『出来斎京土産七。橋姫宮に「離宮神夜る』夜る『橋姫に通ふあかつきごとに川波大きに声ありといへり。又ある説に住吉明神宇治の橋守の神に通ひ給ふといへり。明神の歌に』として次の「夜や寒き」の歌を引く」とある。

「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行あひのまに霜やおくらむ」「新古今和歌集」(一八五五番)のそれは、「住吉御歌となん」という後書を持ち、

 夜や寒き衣やうすきかたそぎのゆきあひのまより霜やおくらむ

である。確認した「新日本古典文学大系」(同集・一九九二年刊)で、その赤瀬信吾氏の訳に、『夜が寒いのか、わたしの着ている衣が薄いのか、それとも片そぎの千木のまじわっている隙間から、霜がもれて置いている』からな『のであろうか』とある。

「宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「むかしより橋姫の前を新婦(よめ)入する時通らず。久世と宇治との縁を結ぶには橋の下より舟にて渡る事なり。橋姫のまへを通りぬれば神ねたみ給ひて夫婦の中すゑとをらずとかや」(出来斎京土産七・橋姫宮)』とある。花嫁御寮の行列が特定の橋を禁忌とする習俗は各地に見られ(鎌倉の深沢にもある)、これは霊魂がそこを伝って海へ下る霊的なシステムとしての川、及び、それを自然ではなく橋(同時にそれは「端」であり、非日常に繋がる「辺縁」である)というジョイントで繫いでいる場所は、日常と異界との通路に相当するため、川や橋自体が「晴れ」の儀式の禁忌対象となることは極めて腑に落ちるものである。

「槇(まき)の嶋」現在の宇治川左岸の京都府宇治市槇島町(まきしまちょう)。

「ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり」「緣邊」は縁が結ばれて両者が結びつくこと。特に婚姻による縁続きの間柄を指す語。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(10) /橋姫~了』に、『傳說の解釋は面白いものだが同時に中々むづかしく、一寸自分等の手の屆かぬ色々の學問が入用である。此場合に先づ考へて見ねばならぬのはネタミと云ふ日木語の古い意味である。中世以後の學者には一箇の日本語に一箇の漢語を堅く結び附けて、漢字で日本文を書く便宜を圖つたが、其宛字の不當であつた例は此ばかりでは無い。ネタミも嫉又は妬の字に定めてしまつてから後は、終に男女の情のみを意味するやうに變化したが、最初は憤り嫌ひ又は不承知などをも意味して居たらしいことは、倭訓栞などを見ても凡そ疑が無い。而して何故に此類の氣質ある神を橋の邊に祭つたかと言ふと、敵であれ鬼であれ外から遣つて來る有害な者に對して、十分に其特色を發揮して貰ひたい爲であつた。街道の中でも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に、人間の武士が切處として爰で防戰をしたと同じく、境を守るべき神をも坂又は橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於ては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍の無いやうに、土地の者は平生の崇敬を怠らたかつたので、そこで橋姬と云ふ神が怒れば人の命を取り、悅べば世に稀なる財寶を與へると云ふやうな、兩面所極端の性質を具へて居るやうに考へられるに至つたのである。又二つの山の高さを爭ふと云ふ類の話は、別に相應の原因があるので逢橋と猿橋と互に競ふと云ふなども、男と女と二人列んで居る處は、最も他人を近寄せたくない處である故に、卽ち古い意味に於ける「人ねたき」境である故に、若し其男女が神靈であつたならぱ、必ず偉い力を以て侵入者を突き飛ばすであらうと信じたからである。東山往來と云ふ古い本を見るに、足利時代に於ても此信仰の痕跡が尙存し、夫婦又は親族の者二人竝び立つ中間を通るのは最も忌むべきことで、人が通るを人別れ、犬が通るを犬別れと謂つて共に凶事とするとある。つまり此思想に基づいて、橋にも男女の二神を祭つたのが橋姬の最初で、男女であるが故に同時に安產と小兒の健康とを禱ることにもなつたのである。ゴンムの『英國土俗起原』やフレヱザーの『黃金の枝』などを見ると、外國には近い頃まで、此神靈を製造する爲に橋や境で若い男女を殺戮した例が少なくない。日本では僅かに古い古い世の風俗の名殘を、かの長柄の橋柱系統の傳說の中に留めて居るが、其は此序を以て話し得るほど手輕な問題では無いから略して置く。近世の風習としては、新たに架けた橋の渡初めに、美しい女を盛裝させて、其夫が是に附添ひ橋姬の社に參詣することが、伊勢の宇治橋などにあつたと、皇大神宮參詣順路圖會には見えて居る。橋姬姫の根源を解說するには、尙進んでこの渡初めの問題に立入つて見ねばならぬのである』とある。さすればこそ、ここで妬心深き妻は自ら命を絶つのであるが、それが他ならぬ橋であってみれば、この話柄の淵源は人身御供にまで遡ることが可能である。美麗な婦人でありながら、病的に妬心の炎(ほむら)を立てる彼女は日常的存在でないことによって、宿命的に既にして神に選ばれし者であったのである。

「それにはあらず」否定表現ではなく、「それは、まず、さておいて」という枕の発語。

「岡谷式部(をかのやしきぶ)」不詳。

「小椋(おぐら)の里」既出既注の豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)」不詳。

「六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり」不審。葵の上に憑依して、結局、彼女をとり殺すのは、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊であり、それも六条御息所自身が殆んど意識していない潜在意識内に於ける憑依である。

「髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり」岩文庫の高田氏の注に、『紫の上の姉』(異母姉)『にあたる。夫が玉鬘に夢中なので物の怪の発作を起こして』、雪の日の朝、性懲りもなく玉鬘のもとに向かおうとする夫に『火取の灰をあびせかける』とある。

「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」この言い方を見るに、彼女は妬心が病的に亢進し、自分の美貌に対しても、自信と絶望のアンビバレントな感覚を抱いていることが判る。強い関係妄想を伴う重い統合失調症の様相を呈していることが判る。

「水練」泳ぎの達者な者。

「平等院」ここ。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (18) 淺井了意と上田秋成

 

     淺井了意と上田秋成

 

 淺井了意と上田秋成とは江戶時代に於ける怪奇小說の兩巨擘《きよはく》である。前者は伽婢子と狗張子を著はして怪奇小說の元祖の地位を占め、後者は雨月物語を著はして中興の祖となつた。雨月物語一集は、日本古今を通じての怪奇小說の白眉といつてよいから、中興の祖といふ言葉は或は適當でないかも知れない。適當でなければ何とでも改める。兎に角、怪奇小說の作者としての上田秋成は第一人者として奉つてもよいであらう。實に秋成の作品のあるものはポオの作品に比肩すべきであつて、而も秋成にはポオの作品に見られない秋成獨得の味がある。かの歷史的人物の亡靈を引つ張り出して、一層讀者の感興をそゝるあたりは彼獨得の味といつてよいのであらう。否、彼獨得といふよりも、日本の怪奇小說に獨得な點であつて、すでに英草紙あたりにも見られるところであるが、この點はむしろ目本人の好みから出て居るといつてもよく、現代でも所謂髷物が愛好せられるのは興味ある現象といはねばならない。

[やぶちゃん注:「巨擘」(きょはく)の原義は「親指」。転じて「同類中で特に優れた人・指導的立場にある人・巨頭・首魁」の意。

「かの歷史的人物の亡靈を引つ張り出して、一層讀者の感興をそゝるあたり」巻頭巻之一の「白峯」のことであろう。西行と旧主崇徳院の怨霊と対面・論争する展開は、今以って鮮烈である。次いで巻之三の「佛法僧」に豊臣秀次の一行の怨霊が出現するのも挙げてよかろう。]

 超自然的な事件を取扱つて凄味を多く出さうとするには、作者自身が超自然的なことを信ずる程度が深くなくてはならない。從つて怪奇小說を硏究するには、作者の怪奇に對する信仰の如何をたしかめて置く必要がある。で、私は淺井了意と上田秋成の性格の一端を述べて見たいと思ふのである。

 ところがこの二人とも、その傳記があまりはつきりして居ないのである。ことに淺井了意に至つては、シェクスピーアと同じように、不明な點があつて、その性格などはむしろ、その作物から覗はねばならぬくらいである。之に反して上田秋成には自敍傳風な著作があるので、可なりにはつきりその性格が覗はれ、その性格を知れば、雨月物語を生んだのも强ち偶然ではないと思はれる。

 秋成が曾根崎の娼家の妓女の子で、その父が知れぬといふことがたとひ虛傳であつても、幼より身體が弱く時々驚癇を發し、世間的にも隨分苦勞して育つたことは事實であるらしく、又病的に近いほどの癇癖を持つて居て、世に背き人にすねたことも事實である。靑年時代には遊蕩に耽つたが、酒は嫌ひであつて、この點が、ポオやボードレールのやうな怪奇小說作者とちがつた點である。秋成を天才 genius とするには異存のある人も多からうが、少なくとも彼が能才 talent であることは爭はれぬところであつて、天才と能才とを混同したロンブロゾーの天才論式に觀察したならば、秋成が所謂天才型の人物であつたことは認めなければならない。それは、彼の『膽大小心錄』を讀んでも、十分察することが出來るやうに思ふ。ポオは酒精中毒患者であつて、加ふるに阿片を溺愛し種々幻覺に惱んだ。ことにその「動物幻覺」は著しかつたらしく、ビルンバウムは彼の名詩『大鴉』もその幻覺から生れたものであると言つて居る。かような性質をもつた藝術家がアラペスクなまたグロテスクな多くの傑作を生んだのは無理もないが、酒の嫌ひであつた秋成が、雨月物語のやうなすぐれた怪奇小說を殘し得たのは、彼自身に深い靈怪信仰を持つて居たからであらう。まつたく秋成は迷はし神や狐狸が人につくことを信じ切つて居たらしく、さういふ事の決して無いことを主張した中井履軒を口を極めて罵つた。『膽大小心錄』の中には次の一節がある。

[やぶちゃん注:「秋成が曾根崎の娼家の妓女の子で、その父が知れぬ」秋成は享保一九(一七三四)年に大坂曾根崎で大和国樋野村(現在の奈良県御所市)出身の未婚の母松尾ヲサキの私生児として生まれた。父は不明。ヲサキは妓家の娘ともされるが、秋成は実母について殆んど語っていない。亡くなる前年文化五(一八〇八)年に書かれた自伝「自像筥記」(じぞうきょき)にも「父ナシ、ソノ故ヲ知ラズ。四歲、母、マタ、捨ツ。」とあるように、元文二(一七三七)年には堂島永来町(えらまち:現在の大阪市北区堂島一丁目)の紙油商嶋屋上田茂助の養子にされ、仙次郎と呼ばれた。翌元文三年には重い疱瘡を病み、命は取り留めたものの、両手指が奇形を起こし、不自由になった。宝暦一〇(一七六〇)年、京都生まれの植山たまと結婚した(間に子はいない)。翌年茂助が没し、嶋屋を継いでいる。前後と以降の作家デビューは、以上で一部を参考にした当該ウィキを見られたい。

「驚癇」「驚風」とも。漢方で小児の「ひきつけ」を起こす病気の総称。現在の先天性・後天性の癲癇(てんかん)や脳髄膜炎の類いを指す。

「ビルンバウム」ドイツの精神医学者カール・ビルンバウム(Karl Birnbaum 一八七八年~一九五〇年?)。ベルリンのブーフ精神病院長で、ベルリン大学員外教授。主著「精神病の構成」(Der Aufbau der Psychose. Grundzüge der Psychiatrischen Strukturanalyse.  :精神病の構成・精神医学的構造分析の基本的特徴:一九二三年)は、精神病の病像形成の理解に対する新しい見方を示したものとして評価された。そこでは精神病像を構成する因子として、本来の疾病過程に直接関連する病像成因的な要素と、病像の内容に色彩と特別な形姿とを与える体質・年齢・性別・環境・状況・諸体験などのような病像形成的な要素とを概念的に区別し、さらに補助概念として病像成因的準備状態に関連する素因、病像形成的準備状態に関連する病前形質、疾病の誘発と活動化に関連する誘発の三概念を挙げている。一九三六年にアメリカに移住した。

「膽大小心錄」同じく最晩年の心境を文化五年に綴った随筆。百六十三条の短文からなり、自筆本の他、数種の写本が伝えられている。和歌・俳諧に関する意見・考証、国史に対する感想や儒仏の説、或いは、知友についての批評・自伝的回想、世俗の見聞への見解等、内心の関心事が平易な口語で記されており、秋成の人となりを知る上で欠かせない資料とされる。題名は「唐書」の「隠逸」中の孫思邈(しばく)の言葉「膽は大なるを欲し、心は小[やぶちゃん注:「細心」の意。]なるを欲す」に基づく。

 以下の引用は底本では全体か一字下げ。読点の一部を句点に私が変更している。]

『履軒[やぶちゃん注:秋成と同時代の儒者中井履軒(享保一七(一七三二)年~文化一四(一八一七)年)。大坂生まれ。名は積徳(せきとく)。父は懐徳堂(享保九(一七二四)年に大坂に設立された町人出資の学校)の第二代学主中井甃庵(しゅうあん)。兄は竹山。五井蘭洲に師事し、程朱学を主とする道学を学んだが、彼の学風は折衷学的であった。明和三(一七六六)年に大坂和泉町に学塾水哉館(すいさいかん)を開いて教授した。後の享和四(一八〇四)年には兄の死を受けて懐徳堂の学主となったが、兄竹山に比べて交際範囲が少なく、専ら、研究と著述に従事した。また蘭学にも興味を示し、医師で天文学者もあった麻田剛立(ごうりゅう)と交わり、人体解剖所見「越俎弄筆」(安永二(一七七三)年成立)を纏めている。他に多数の著述がある。]曰、狐《きつね》人に近よる事なし、もとより彼等に魅《み》せらるゝといふ事はなき事なりとぞ、細谷半齋[やぶちゃん注:不木或いは植字のミスで「細谷」ではなく「細合(ほそあひ)」が正しい。細合半斎(ほそあいはんさい 享保一二(一七二七)年~享和三(一八〇三)年)は同時代の伊勢出身の儒学者・書家・漢詩人。名は離又は方明。書は松花堂昭乗の流れを汲む滝本流に私淑し、のちにこの流派の中興の祖とされた。詩文結社「混沌詩社」に加わり、多くの文人墨客と交わった。博物学者的町人文人木村蒹葭堂の婚姻の際には媒酌人を務めている。私塾学半塾を主催した。また、彼は江嶋庄六或いは細合八郎衛門の名義で書肆としても活躍し、同じく書肆であった藤屋弥兵衛とも親しかった。]は性慇懃にて禮正しき人也、世人是を却りて疎むは、世人の性亂怠なる者なり、京師に在りて西本願寺へ拜走す、あした三條の油小路を出て、晝過ぐるに到らず、終に日暮れしかば、恍忙[やぶちゃん注:「くわうはう」。「忙」は「茫」或いは「惘」の当て字と思われ、「ぼんやりとして・薄気味悪く感じて」の意であるらしい。]として家に歸りし事あり、是性の靜なるをさへ狐狸道を失はす。翁(秋成)又一日鴨堤《かもづつみ》の庵を出《いで》て、銀閣寺の淨土院[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に行くに、吉田の丘の北をめぐりて、又東に行く順路なり。道尤も狹からず。さるにいかにしてか白川の里に來りぬ。物思ひて感ひしと心得て、やうやう東南の淨土寺村に來りて、和上《わじやう》圖南[やぶちゃん注:「和上」は和尚に同じ。浄土寺の住持と思われるが、不詳。読みは「となん」であろう。]と談話のついでに此事を語る。和上、病なるべしよく愼み給へとぞ。歸路又、吉田の丘の北に來て、大道につきて西に庵に歸らんとす。いかにしてか百萬遍の寺前に至る。こゝに知る、狐《きつね》道を失はせしよと。然れども心忙然[やぶちゃん注:「茫然」に同じ。当時は転用字として用いられた。]たらずして、午後歸り着きぬ。また一日北野の神にまうづ。あしたに出て拜し、東をさすに、春雨蕭々と降り來りて、老の足弱く、眼氣つのりて[やぶちゃん注:私の所持する「日本古典文学大系」版(昭和三四(一九五九)年刊)では『眼又くらきに煩ひ、大賀伊賀をとむらひて、午飯を食しぬ。雨いよゝつのりて、』とあって以下に続く。注に『秋成は六十前から始終眼が悪かった』とある。左眼は寛政二(一七九〇)年五十七の時に失明し、寛政十年には右眼も失明して全盲となったが、眼科医の尽力で左眼の明を得た。]、頭さし出づべからず、今夜はこゝに宿すか、さらずば乘輿をめさんと云程、雨少しやむ。庵には十二三町[やぶちゃん注:千三百~千四百メートル強。]の所也。常に通ひなるゝに勞なく思へば、雨おもしろ[やぶちゃん注:ママ。「雨、をもしろ」であるべきところ。]とて門を出て東をさす。一條堀川に至りて雨又しきり也、傘を雨にかたぶけて行くに、苦しかれども行くに、大道のみにて迷ふべからず。雨に興じて來る程に堀川の椹木町《さわらぎちやう》に至りぬ。こゝに始て心づきて、傘の傾きに東南をたがへし也と思ひ、又東をさすに、圖らずも堀川の西に步む步む。又所を知りたれば、いかにしてとて心をすまして、遂に丸太町をたゞに東をさして庵に歸りぬ。日將に暮れんとす。病尼[やぶちゃん注:養女で尼体で病弱であったという。詳しい養子縁組の経緯などは不明。なお、妻は寛政九年に亡くなっている。]待ちわびて辻立したり。大賀(宗文の家)に在りしとのみ答へて入りたるが、足疲れ眼暗み心いよく暗し。燈下に牀《とこ》のべさせて臥して、曉天に至るまでうまいしたり、是又狐の道失はせしか。半齋も我も精神たがはずして、一日忘る事、狐の術の人にこえたる所也。學校のふところ親父[やぶちゃん注:「世間知らず」の意。本来は「學校の懷ろ子」でその意味となるが、ここは挑戦的に批判した履軒が年嵩であったために戯れたもの。]、たまたまにも門戶を出ずして狐人を魅せずと定む、笑ふべし笑ふべし。」

 この文を讀まれた讀者は、『學校のふところ親父』たる履軒を笑つてよいか、又は秋成その人を笑つてよいかに迷はれるであらう。もし秋成が眞に上記のやうな經驗をしたとするならば、彼に多少の精神異常があつたと認めて差支なく、却つて彼が所謂天才型の人であつたことを裏書きして居ると言つてよいかも知れない。彼はなほこの外に色々の實例を擧げて履軒に喰つてかゝつて居るが、いづれにしても彼が妖怪とか幽靈とかを信じ切つて居たことは明かであつて、信じ切つて居つたればこそ、雨月物語のやうな凄味の多いものが書けたのである。勿論怪奇小說の目的は、凄味をあらわすことばかりではないかも知れぬが、凄味を唯一の目的として怪奇小說を書かうと思つたならば、作者自身が、怪奇を信じ切らなければならない。もし、冷靜な、所謂科學的態度をもつて書いたならば、恐らく十分な凄味は出ないと思ふのである。

[やぶちゃん注:以下の引用前の文章は、後の引用とともに一字下げであるが、これは版組みの誤りと推定される。なお、今まで通り、引用は引き上げてある。]

 例へばかの山岡元隣の『古今百物語評判』は、『御伽婢子』の少し後に公にされた怪奇小說であるが、元隣は學者肌の男であつて、自分の宅で催ほされた百物語の一々に批評解說を加へ、その一斑を擧げるならば、

『哲人は狐にばかされずと言はゞよし、哲人の前に狐化けずと言はゞよからず、是眞人は火に人つても、燒けずと言はゞよし、眞人の前には火燃えずと言はゞ非なるが如し。燃ゆるは火の性、やけぬは眞人の德、化くるは狐の術、ばかされぬは哲人の德なり。』

 といつたやうな書き振りであるから、物語そのものに凄味が頗る少なくなる譯である。言ふ迄もなく、モーリス・ルヴェルの作品のやうに自然的な事件から凄味を發見したものは、書き方が科學的であればある程、却つてその凄味は强くなるのであるが、超自然的な事件によつて凄味を出すためには作者が科學的態度卽ち冷靜な客觀的態度を取ることは危險であらうと思ふ。尤も、前囘に述べたやうに主觀的な幽靈、例へば犯罪者が良心の呵責によつて見るやうな幽靈を取り扱ふ場合は別物であつて、德川時代の怪奇小說のうち、主觀的幽靈を取り扱つたものが、文學的作物として比較的見どころのあるのは、作者が幽靈を眞に信ずると否とに關係しないからであらう。

[やぶちゃん注:「山岡元隣の『古今百物語評判』」江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本。全四巻。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終えている。正直、インキ臭くて、しかも蘊蓄の語り部分が如何にも勿体ぶっていて不快であり、全体に面白くない。引用は「古今百物語評判卷之二 第一 狐の沙汰附百丈禪師の事」である。

「モーリス・ルヴェル」(Maurice Level 一八七五年~一九二六年)は「フランスのポオ」と賞賛された怪奇小説家。]

『御伽婢子』の作者淺井了意が秋成のやうに幽靈や化物の信者であつたかどうかといふことははつきり傳はつていない。晚年には洛陽本性寺の住職となつたといはれて居るが、僧侶であつたことが必ずしも幽靈の信者であつたといふ證明にはならぬのである。彼は怪奇小說ばかりでなく、『堪忍記』や『浮世物語』のやうな敎訓小說に加ふるに『東海道名所記』のやうな旅行文學をも著はして居つて、それ等の作物を通じて作者の心を推察して見るならば、少くとも秋成ほどの幽靈信者ではなかつたと思はれる。それにも拘はらず、彼が、秋成に次での怪奇小說作者であるのは、彼の文章の巧《たくみ》さが然らしめて居ると言ふべきであらう。後に委しく說くやうに、超自然的の事柄を取り扱つて凄味を多く出すためには、作者の主觀狀態と同じく文章の力卽ち文章によつて作られる氣分が非常に大切なものとなつて居るのである。

 なお又、怪奇小說、ことに超自然的な事柄を取り扱つた作品の出來ばえは、作者の年齡が多少の關係を持つて居るやうに思はれる。ポオは四十歲の若さで斃れ、それ迄に約七十種の物語を作つたが『アシャー家の沒落』、『リジア』の如き傑作は三十歲になるかならぬかに作られて居る。秋成の雨月物語が三十五歲の時に出來上つたことを考へると、二十五歲から四十五六歲迄の間が怪奇小說を書くに最も適當でないかと思はれる。これは主として年齡と文章との關係から考察すべきものであつて、老齡になつて、所謂枯淡な文章を書くやうになつては、凄味を出すことが困難となるであらう。同じく淺井了意の作でも、狗張子は、御伽婢子より二十數年後に作られたのであつて、御伽婢子よりも劣つて居るといふ定評のあるのは、主としてやはり文章の枯淡になつた爲ではないかと思はれる。御伽婢子そのものも、よくはわからぬが了意の五十以後の作であるらしく、若し彼が三十代に筆を執つたならば或は、もつともつと凄味の多いものとなつたかも知れない。怪奇小說に志す人は、須らく、年の若いうちに多くの作品を殘すことに心懸くべきであらう。

[やぶちゃん注:「アシャー家の沒落」「アッシャー家の崩壊 」(The Fall of the House of Usher :一八三九年)。

「リジア」「ライジーア 」(Ligeia :一八三八年)。前書の前年の発表である。但し、この作品はポオが偏愛した短編で何度も改稿し、作品集や雑誌に再掲している。後の「御伽婢子と雨月物語の内容」(私の電子化では「20」を予定)の本文でごく簡単な梗概が出るが、ウィキの「ライジーア」の方が詳しい。但し、当該ウィキは完全なネタバレであるから、ポーの偏愛者である私としては、未読の方には、絶対にお薦め出来ない。

2021/09/25

伽婢子卷之十 守宮の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」のものを用いた。「守宮」に「ゐもり」とあるのはママ。近代まで、しばしば誤って用いられ、今でも混同している人もいる。本文内での対象生物はイモリである。種や博物誌は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍盤魚(イモリ)」がダイレクトでよかろう。]

 

Imori1

 

   〇守宮(ゐもり)の妖(ばけもの)

 越前の國湯尾(ゆのを)といふ所のおくに、城郭の跡あり。荊棘(けいきよく)のいばら、生ひ茂り、古松(こまつ)の根、よこたはり、鳥の聲、かすかに、谷の水音、物すごきに、曹洞家(そうとうか)褊衫(へんさん)の僧、塵外首座(じんぐわいしゆそ)とかや、この所に草庵を結びて、座禪學解(がくげ)の風儀を味ひ、春は萠え出る蕨(わらび)を、をりて、飢《うゑ》をたすけ、秋は、嵐に、木の葉をまちて、薪(たきゞ)とす。近きあたりの村里より、檀越(だんをつ)まうで來ては、その日を送る程の糧(かて)をつゝみて惠む事、折々は、これありと雖も、多くは、人影も、まれまれ也。

 されども書典(しよてん)を開きて向ふ時は、古人に對して語るが如く、座禪の床(ゆか)にのぼれば、空裡三昧(くうり《さん》まい)に入て、おのづから、さびしくも、なし。

 ある夜、ともし火をかゝげ、机によりかゝり、「傳灯錄(でんどうのろく)」を讀み居たりければ、身のたけ、僅に、四、五寸ばかりなる人、黑き帽子をかぶり、細き杖をつき、蚋(あぶ)のなくが如く、小さき聲にて、

「我、今、ここに來れども、あるじなきやらん、物いふ人もなく、靜かに、淋しきことかな。」といふに、塵首座(じんしゆそ)、もとより、心法(しんほう)をさまりて、物のために動ぜざるが故に、これを見聞くに、おどろき恐れず。

 かの化物、怒りて、

「我、今、客人(きやくじん)として來りたるを、無禮にして、物だにいはぬ事こそ、やすからね。」

とて、机の上に飛び上がる。

 塵首座、扇をとりて、打ければ、下に落ちて、

「狼籍の所爲(しわざ)、よく心得よ。」

とて、大《おほき》に叫びつゝ、門に出《いで》て、跡かた、なし。

 暫くありて、女房五人、出來たれり。

 その中に、若きもあり、姥(うば)もあり。

 何れも身のたけ、四、五寸許也。

 姥(うば)がいふやう、

「わが君の仰せに、『沙門、たゞ一人、淋しきともし火の下に學行(がくぎやう)をつとめらる。早く行き向かふて、物がたりをも致し、又、佛法の深きことわりをも、問答して、慰めよ。』とあり。此故に、智辯(ちべん)兼備(かねそな)へたる學士(がくじ)、こゝに來りければ、何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、我君、たゞ今、こゝに來りて、子細を尋ね給ふべき也。」

といふに、其長(たけ)、五、六寸ばかりなる人、腕をまくり、臂(ひぢ)を張(はり)、手ごとに杖をもちて、一萬あまり、馳せ來り、蟻の如くに集りて、塵首座を打《うつ》に、首座は、夢の如くに覺えて、痛むこと、いふばかりなし。

 その中に、また一人、あかき裝束(しやうぞく)して烏帽子(ゑぼし)着(き)たるもの、大將かと見えて、うしろに控えて、下知して、

「沙門、はやく、こゝを出て、去(さる)べし。出去らずば、汝が目・鼻・耳を損ずべし。」

といふに、七、八人、首座が肩に飛びのぼり、耳・鼻に、くひつきければ、塵首座、これを拂ひ落として、門の外に逃げ出つゝ、南の方の岡に登りて見れば、一つの門あり。

「これは。そも、見馴れざる所かな。まづ、こゝにたちよりて、今夜をあかさん。」

と思ひ、門外近くさしよりければ、うしろより一萬あまりの人、立かへり、塵首座、捕へて、

「咄(どつ)」

と、つき倒し、門の内に引入たり。

 門の内にも七、八千ばかりの人數、身のたけ、五、六寸ばかりなるが、すきまもなく、立並びたり。

 大將、又、かへりていふやう、

「我、汝を憐みて、伽(とぎ)をつかはし慰めんとすれば、かへつて、損害をなす。その罪、まさに、手足をきりて、償ふべし。」

といふ。

 數(す)百人、手ごとに刀をぬきもちて、立かゝる。

 首座、大に怖れ惑ふて、

「それがし、おろかなるまなこをもつて、その惠みを知らざる事、その誤り、まことに、少なからず、後悔するに、かへらず。たゞ、願はくは、罪を赦したまへ。」

といふに、

「さては。悔む心あり。さのみに、せむべからず。なだめて、追返せ。」

といふ聲、聞えて、門の外へ突き出さるゝと思ふに、寺の小門の前なり。

 堂に立かへりたりければ、灯火(ともしび)は消え殘り、東の山の端(は)、しらみて、あけわたる。

 餘りの不思議さに、門のあたりを尋るに、更に、跡、なし。

 

Imori2

 

 東の方に、少し高き郊(をか)のもとに、穴、有《あり》て、守宮(ゐもり)、多く出入するを怪しみ思ひて、人多く雇ひて、こゝを掘らするに、漸々(ぜんぜん)に、底、廣し。

 一丈ばかり、掘ければ、守宮(ゐもり)、集りて、二萬ばかり、あり。

 中にも大なるもの、その長(たけ)、一尺ばかりにして、色、赤し。これ、すなはち、守宮(ゐもり)の王なるべし。

 村人の中に、一人の翁(おきな)、すゝみ出て、語りけるやう、

「古しへ、瓜生判官(うりふはんぐはん)とて武勇(ぶよう)の人、あり。この所に城を構へて、しばらく、近邊を從へ、新田義治(につたよしはる)に心を傾(かたふ)けたり。その根源は、判官の舍弟に義鑑房(ぎかんばう)とて、出家あり。新田義治を見まゐらせ、極めてたぐひなき美童なりければ、これに愛念を越こし、兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げしかども、遂に本意を遂げずして、討死(うちじに)したり。義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

 

『云越(こゝに)、蟲あり。蛤蚧(かうかい)と名づく。かしらは蝦(ひき)に似て、四つの足あり。鱗、こまかにして、背(そびら)にかさなり、色黑くして、尾、長し。石龍子(とかげ)をもつて部類とし、蝘蜓(やもり)をもつて支族とせり。あるひは泥土水(どろみず)の底にかくれ、あるひは頽井(くづれゐ)の中にむらがる。然るに、今、この土窟(どくつ)に蟄(ちつ)して、ほしいまゝに子孫を育長(いくちやう)し、その巨多(おほき)こと、何ぞ數ふるに百千をもつて盡さむや。月をわたり、年をつみて、たちまちに變化妖邪(へんげえうじや)のわざはひをなし、漫(みだり)に人の神魂(たましひ)を銷(けさ)しむ。これ、何のことぞや。爾而(なんぢ)、生(しやう)を蟲豸(むしち)の間《かん》に托(たく)し、質(かたち)を虵(へび)虬(みつち)の屬(たぐひ)によせて、暫く十二時蟲(《じふに》じちう)の名ありといへども、亦、三十六禽(きん)の員(かず)に外(はづ)れたり。よく蝎蠅(かつよう)を捕(とり)て蝎虎(かつこ)の美名あり。よく一日のうちに身の色變りて折易(せきえき)の佳號ありといへども、守宮(ゐもり)のしるしを張華が筆に貽(のこ)し、戀情(れんじやう)のなかだちを王濟(わうせい)が書にしるす。これ、皆、嫉妬愛執をもつて爾(なんぢ)が性(せい)とす。諒聞(まことにきく)、爾は、そのかみ、釋門(しやく《もん》)の緇徒(しと)、一朝、卒然として男色(なんしよく)に眩(めぐる)めき、つひに行業(ぎやうごふ)をすてゝ武勇をはげまし、欝悶(うつもん)して死して這(この)蟲(むし)となれりといふ。鳴呼(あゝ)、酥(そ)を執(しつ)せし沙彌(しやみ)は酥上(そじやう)の蟲となり、橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる。これ、上古の聆(きく)に傳ふ。爾、色に淫して、また、この蟲となれり。其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり。人の惡(にく)む所、世の戒むる所、何ぞ慚愧(ざんぎ)の心なく、剩(あまつさ)へ、かくの如くの恠異(くわいゐ)をなすや。早く心を改めて正道《しやうだう》に赴き、生《しやう》を轉じて、眞元《しんぐわん》に歸れ。』

 

と、よみければ、是にや、感じけん、數萬の守宮、皆、一同に死(しゝ)たふれたり。

 人皆、不思議の思ひをなし、

「たゞ、此まゝ、捨つべき事、ならず。」

とて、柴を積みて、燒きたて、灰になし、一丘(《いつ》きう)を築きて、しるしとす。

 それより後、二たび、恠異、なし。

[やぶちゃん注:これもまた、作品内時制の規定がない。私は南北朝以降の中世、特に戦国時代は守備範囲外の、さらにその場外で、今までの「伽婢子」の話の大部分がそこに集中しているのが、実は厭だったから(注を記すのにいちいち調べなくてはいけないからである)、これは誠にいい傾向である。

「越前の國湯尾(ゆのを)」福井県南条郡南越前町(みなみえちぜんちょう)湯尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「おくに、城郭の跡あり」杣山城址。湯尾とは日野川を挟んだ対岸の南条郡南越前町阿久和(あくわ)の山上にある山寨。「南越前町」公式サイト内のこちらに解説がある。『杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高』四百九十二『メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています』。『山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します』。『杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部』が『国史跡の指定を受けています』。『杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞』二(一二二八)年八月、『上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました』。『山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父』衡(はかる)『が越後の三島郡瓜生村から』、『この地に移り』、『築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました』。延元元(一三三六)年、『新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました』が、「太平記」によれば、延元二(一三三七)年正月十一日、『金ヶ崎城を救うため』に『出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています』。「得江頼員軍忠状」によれば、暦応元(一三四一)年六月二十五日『夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治』六(一三六七)年七月、『高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明』六(一四七四)年正月、『日野川の合戦に敗れ』、『落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣』『河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元』(一五七三)年、『織田信長の北陸攻めにより』、『廃城となり』、その後の天正二年には、『一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です』とあった。なお、グーグル・マップ・データ航空写真で、ストリービューを起動すると、かなりの箇所の杣山城址周辺ポイント画像が見られる。まあ、確かに好んで人が来そうなところでは、ない。「ブリタニカ国際大百科事典」他によれば、後で本文にも出る瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)は南北朝時代の武将。越前南条の住人。建武二年に、建武政権に背いた名越時兼を加賀大聖寺に攻め、自殺させ、同年、新田義貞の挙兵に応じたが,翌年には足利尊氏方につき、越前金崎城に義貞を攻めた。しかし、弟の義鑑坊(ぎかんぼう:本話のイモリに転生したのが、この人物の亡霊)・照(てらす)・重(しげし)ら三人が、義貞の甥脇屋義治に従って、杣山城で挙兵したことから、保も足利の陣を逃れ、義治の陣営に参じ,足利方の高師泰・斯波高経らを破った。翌年、金崎城の義貞救援に向ったが、途中、高師泰・今川頼貞と戦って戦死した、とある。

「曹洞家(そうとうか)」曹洞宗。

「褊衫(へんさん)」短い衣の上着。これに「裙子(くんす)」という下裳を着ける、僧の服の様式は仏教伝来以来あったが、特に鎌倉時代に主として禅家の間で、この上下を縫い合わせた「直綴(じきとつ)」が着用されるようになった。

「塵外首座(じんぐわいしゆそ)」不詳。了意が創出した架空の人物。「塵外」は一般名詞で「俗世間の煩わしさを離れた所或いはその境地。「浮き世の外・塵界の外・世外」の意。「首座」(しゅそ:現代仮名遣)の「そ」は「座」の唐宋音。仏語で、禅寺に於ける修行僧中で首席にあるものを指し、修行僧中の第一座にして長老(住持)の次位に当たる。僧堂内の一切の事を司る実務トップである。「上座」とも呼ぶ。

「學解(がくげ)」学問上の深い知識や見識。

「空裡三昧(くうり《さん》まい)に入」(いり)「て」「新日本古典文学大系」版脚注に『無念夢想の境地にひたることができて』とある。

「傳灯錄(でんどうのろく)」通常は「でんとうろく」と読む。中国の禅宗史書の一つ。全三十巻。蘇州承天寺の道原の作。宋の景徳元(一〇〇四)年、時の皇帝真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから「景德傳燈錄」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序がある。過去七仏に始まり、インドの二十八代、中国の六代を経て、北宋初期に至るまでの千七百一名の祖師の名と伝灯相承(でんとうそうじよう)の次第を述べたもの。北宋期に於いて禅が隆盛となるとともに、広く士大夫の教養書の一つとなり、禅の本の権威となった。仏祖の機縁問答を一千七百則の公案と呼ぶ名数は、本書に収める仏祖の人数に基づいている。

「蚋(あぶ)」読みはママ。これは、ブヨ・ブユ・ブトと読むのが普通で、一般的にはアブよりも遙かに小型である(但し、吸血されると、痒みが長く続き、しかも痕がなかなか消えない)。種や博物誌は「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)」を、アブは「虻」で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)」を見られたい。

「心法(しんほう)」読みは元禄版のものである。「新日本古典文学大系」版(国立国会図書館本底本)では『しんぼう』と振るが、この場合は厳密には、「しんぼふ」と読むのが歴史的仮名遣としては正しい。仏教用語としての「法」は「ぼふ」と読むのが決まりだからである。作者浅井了意は浄土宗の僧侶でもあるから、こういうところは、正しく守って貰いたかった気がする。

「よく心得よ。」「覚えておれよ!」という罵言。

「何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、」最後を読点にしたのは、憤怒と逆接の雰囲気を出すために私が確信犯で振った。

「咄(どつ)」大勢が殺到してくるオノマトペイア(擬態語)。

「汝が目・鼻・耳を損ずべし」「手足をきりて、償ふべし」本邦らしからぬ、いかにも原拠が漢籍(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、五朝小説の「諾皐記」の「太和末荊南云々」を元とするとある)であることを示す、中国人の大好きな人体部分切断処刑である。最悪無惨なのは、近代まで行われた凌遲(りょうち)刑であろう。

「新田義治(につたよしはる)」新田義貞の弟新田(脇屋)義助(よしすけ)の子で新田義貞の甥であった脇屋義治(元亨三(一三二三)年~?)。当該ウィキによれば、元弘三(一三三三)年、『父義助は義貞の挙兵に参加して活躍した。義治はまだ幼く、父の所領である新田荘脇屋郷に残留したと見られる。その後、上洛したと見られ、建武』二(一三三五)年、『伯父の義貞が建武政権に反旗を翻した足利尊氏への追討令を下されると、父義助と共にその軍に加わった。箱根・竹ノ下の戦いでは父義助の大手軍に属し、足柄峠を目指した。戦闘では大友貞載、塩冶高貞らの寝返りにより、宮方が敗北し、京へ敗退した。その後、父や伯父と共に京をめぐる戦闘や、播磨の赤松円心攻め、湊川の戦いに参加』した。翌建武三年、『後醍醐天皇が足利尊氏と和議を結び、義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下ると、父義助と共に越前金ヶ崎城に入る。義治は瓜生氏の杣山城に入り、諸氏への働きかけを行った』。『まもなく金ヶ崎城は高師泰・斯波高経に包囲される。瓜生保と義治は援軍を組織し救援に向かうが』、『失敗する。義貞、義助兄弟は援軍を組織するために金ヶ崎城から抜け出し、瓜生氏の下に身を寄せる。義貞は援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗し、金ヶ崎城は建武』四年三月六日に『落城した。同年夏頃に義貞は勢いを盛り返し、斯波高経を越前北部に追い詰めた。翌建武』五年閏七月二日、『義貞が不慮の戦死を遂げると、北陸の宮方の総指揮を義助が執ることとなる。義治は義助と共に北陸経営を行うが、徐々に斯波高経が勢いを盛り返し』、興国二(一三四一)年『夏には杣山城が陥落し、越前の宮方は駆逐された。脇屋父子は美濃、尾張と落延び、吉野に入』った。翌興国三年には『義助と共に中国、四国の宮方の指揮を取るために伊予に下向』したが、『下向直後の』五月十一日、『義助は突然の発病により没した』。『義治は里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようにな』った。正平七(一三五二)年、『観応の擾乱と正平の一統で混乱する室町幕府に対し、南朝が一斉に蜂起した。畿内では北畠顕信、千種顕経、楠木正儀が直義派残党も糾合し、足利義詮を破り、京を奪還した。それに呼応して義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。同時に信濃では征夷大将軍宗良親王も挙兵し、一斉に鎌倉目指して進撃する。宮方には北条時行の他、直義派残党の上杉憲顕も加わり、鎌倉を一時的に占拠するが、結局』、『敗れ、宗良親王は信濃に、義宗、義興、義治らは越後へそれぞれ逃れたが、北条時行は捕縛されて処刑された(武蔵野合戦)』。正平二三(一三六八)年、『足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗と義治は再度』、上野・『越後国境周辺で挙兵するが、上野沼田荘で敗れ、義宗は戦死し、義治は出羽に逃走した』。『その後の消息については不明であるが、伊予国温泉郡に逃れたとの伝承や、明徳年間』(一三九〇年~一三九四年)に『丹波に逃れたとの伝承、陸奥の伊達持宗が』応永二一(一四一三)年に『挙兵した際、義治を押し立てて稲村・篠川両御所を襲撃したとの説もある。しかし』、一三七〇年代から『義治の子義則が単独で活動を』していることから、『出羽逃走直後に没したと見られ』ている、とある。

「義鑑房(ぎかんばう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『俗名瓜生儁興』(読み不明。音で「しゅんこう」と仮に読んでおく)『僧籍にあったが、実兄瓜生判官』保『の挙兵を助け、義に殉じた勇者として太平記に描かれる』とある。

「美童」同前で、『「脇や右衛門佐殿ノ子息ニ式部大夫義治トテ、今年十三ニ成給ヒケルヲ、義鑑坊ニゾ預ケラル(太平記十七・瓜生判官心替事義鑑房蔵義治事』とある。

「これに愛念を越こし」同前で、『太平記では、瓜生保の一時の心変りにより、父から義鑑坊に預けられ、杣山城で反撃の機会を待った』とある。

「兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げし」既に注したが、同前で、『足利尊氏に従って城を攻撃する側にいた兄の瓜生判官を説得しての挙兵であった』とある。「義兵」についても、同前で、『後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王を奉じた新田方に呼応したもの』とある。

「討死(うちじに)したり」同前で、『金崎の戦いに兄の瓜生判官とともに討死、その地を敦賀市樫曲(かしまがり)と伝える』とある。ここ。杣山城とは直線で十三キロメートル南西であるが、イモリは種によっては、かなりの距離を移動出来るし、地下水脈で移動することも可能であり、距離感は矛盾しない。言っておくが、私自身、イモリから祟られても仕方がない人間である。高校時代、生物部(演劇部と掛け持ち)でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという、今、考えれば、ひどい実験をしていたからである(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。

義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

「云越(こゝに)」思うに、中国語のサンスクリット語の漢音写等に基づく当て字であろう。

「蛤蚧(かうかい)」寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」で「蛤蚧(あをとかげ)」を立項している。そこで私は、『「蛤蚧」は音で「コウカイ」である』。良安は別に『「ヤマイモリ」とルビを振るが、そのような和名を持つイモリはいない。該当熟語に「オオイモリ」と振る記載を見かけたが、そのような和名のイモリもいない。「大漢和辭典」の「蛤」の項の意味に『⑤蛤蚧(コウカイ)・蛤解はとかげの一種。首は蝦蟇(ガマ)に似、背に細かいうろこがあり、広西に産する。』とある。さても良安先生、「蛤蚧」はイモリではなく、ヤモリですよ! 現在種では中国南部に棲息する(本邦には棲息しないから良安先生も間違えたのかもしれない)ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属トッケイヤモリGekko geckoである。以前は「オオヤモリ」と称せられた。但し、一般にイモリの黒焼きが古くから強壮剤とされることは周知の事実であり、この漢字とルビを用いなければ、私もオオヤモリのようには嚙み付かなかったと思う。どうも、これは日本に伝承する際に、ヤモリからイモリに誤認されたものであるらしい。イモリは皮膚からの分泌物質にフグ毒で知られる猛毒のテトロドトキシンtetrodotoxinTTX)に極めて近似した成分を持っていることは、近年ではよく知られるようになった。とは言え、イモリの黒焼きを食って死んだ人は聞かない。一個体の持つ毒成分の分量が少ないことや、そんなに多量に食えるもんじゃあない(真っ黒に炭化するまでかりかりに焼いているので苦い)からであろう。ちなみに平凡社一九九六年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項にの総排泄腔からの内側の毛様突起から放出されるを誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸』十『個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた。』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じの「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌物の主成分は、額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリン sodefrin だ。でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ』と注した。

「蝦(ひき)」蝦蟇(ひきがえる)。

「蟲豸(むしち)」「爾雅」の「釋蟲」によれば、所謂、広義の「むし」の内で、脚があるものを「蟲」(チュウ)とし、蠕虫や針金状に線虫などのような脚のないものを「豸」(チ)である、と説明している。このため、広義の「むし」を「蟲豸」で総称したのである。

「虬(みつち)」「みづち」。「蛟」。水中に住み、蛇に似ており、角と四足を有し、毒気を吐いて人を害すると言い伝えられる想像上の龍の一種。

「十二時蟲(《じふに》じちう)」「太平廣記」の「昆蟲六」に「南海毒蟲」を載せ、

   *

南海有毒蟲者、若大蜥蜴、眸子尤精朗、土人呼爲十二時蟲。一日一夜、隨十二時變其色、乍赤乍黃。亦呼爲籬頭蟲。傳云、傷人立死、既潛噬人、急走於藩籬之上、望其死者親族之哭。新州西南諸郡。絕不產虵及蚊蠅。余竄南方十年。竟不覩虵。盛夏露臥。無䁮膚之苦。此人謂南方少虵。以爲夷獠所食。別有水虵。形狀稍短、不居陸地、非噴毒齧人者。出「投荒雜錄」。

(南海に毒蟲有り。大なる蜥蜴(とかげ)のごとく、眸子、尤、精朗たり。土人、呼びて「十二時蟲(じふにじちゆう)」と爲す。一日一夜(いちじついちや)、十二時に隨ひて、其の色を變ず。乍(たちま)ち、赤く、乍ち黄たり。亦、呼びて、「籬頭蟲(りとうちゆう)」[やぶちゃん注:「籬(まがき)の上にいる虫」の意。]と爲す。潛(ひそ)かに、人を噬(か)み、急ぎ、藩[やぶちゃん注:土塀。]・籬の上を走りて、その死者の親族の哭するを望むなり。新州の西南の諸郡には、絕えて不產虵(へび)及び蚊・蠅を產せず。余、南方に十年、竄(はなた)らるも、竟(つひ)に虵を覩(み)ず。盛夏、露はに臥すも、膚の苦しみのために䁮(のが)るること、無し。此れ、人の謂ふ、「南方、虵、少なし。以つてて夷獠(いれう)[やぶちゃん注:異民族の名。]の食らふ所と爲ればなり。」と。別に、「水虵(すいじや)」有り。形狀、稍や短く、陸地に居らず、毒を噴き、人を齧む者には、非ず【「投荒雜錄」に出づ。】。)

   *

と、十二刻(二十四時間の二時間刻み)の間、十二の色に体色を変えるために、かく別名がついた、とある。ヤモリかトカゲの一種だな。因みにカメレオンはアジアにはいない。なお、「投荒雜錄」というのは唐の房千里という人物の書いたものであるが、散佚して原本はなく、筆者どんな人物かは判らない。南方の地に流謫されたというから、官人ではあろう。

「三十六禽(きん)」一昼夜十二刻の各時に一獣を配して、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣を附けた計三十六の鳥獣。五行ではそれを占卜に用い、仏家では、それぞれの時刻に、出現しては、坐禅の行者を悩ますとされる。WEB画題百科事典「画題Wiki」の「三十六禽」に全名数が載る。

「蝎蠅(かつよう)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『キクイムシ(カミキリムシの幼虫)とハエ』とする。何故、サソリとしないのかは、判らない。中国にはサソリいるけど?

「蝎虎(かつこ)」ヤモリの異称。「新日本古典文学大系」版脚注は『イモリの別称』としている。だから、それは、そちらの注が頭で注意している現代の誤りの一つを、当人が、やらかしちゃったんだなあ!

「折易(せきえき)」「新日本古典文学大系」版では『析易』とする。確かにそれが正しいだろう。「蜥蜴」の(つくり)だもの。ただ、底本も元禄版も孰れも「折易」なので、修正しなかった。

「守宮(ゐもり)のしるし」意味のしっかり分かっている私は改めて説明する気にならない。私の南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を読まれたい。オリジナル注も附してある。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「貽(のこ)し」「殘し」「遺し」に同じ。

「戀情(れんじやう)のなかだち」前の前の前の注のリンク先を参照。

「王濟(わうせい)が書」「王濟」は明の政治家。「新日本古典文学大系」版脚注に、彼『の著、君子堂日詢手鏡に、蜥蜴・守宮の事を、「其物二者上下相ヒ呼ビ、牝声ハ蛤、牡声ハ蚧、日ヲ累(かさ)ネテ情洽甚シク乃(いま)交(こもごも)両(ふたつながら)相ヒ抱ヘ負ヒ、日(あるひ)地ニ堕ツ」とあり、この虫を捕え、粉にして「房中之薬」にする。「情洽」は愛情が和合すること』とある。

「緇徒(しと)」「緇」は「墨染めの衣」の意で、「僧」の意。

「眩(めぐる)めき」「めくるめき」に同じ。眼が眩(くら)んで。

「酥(そ)」チーズに似た牛乳を発酵・固形化したもの。仏教では、「大般涅槃経」の中で牛の乳から生み出される貴重な宝である「五味」として、順に「乳」→「酪」→「生酥」→「熟酥」→「醍醐」の順に熟成精製されるとある。但し、それぞれの完成物は、現在のチーズと同じであるかどうかは判らない。

「橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる」「新日本古典文学大系」版脚注に『未詳。発心集八ノ八、三国伝記三ノ二十一に類話があるが、両例とも尼僧』であるとある。

「聆(きく)に傳ふ」「きく」は「聽く」。聴き伝えている。

「其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり」イモリに転生する以前から、一度は僧籍にあり乍ら、瞬く間に美少年に懸想して若衆道の深みにはまるという、七変化を成すアプリオリな性的変色変態素質があったことを色を変えるイモリに掛けて言う。

「慚愧(ざんぎ)」今は「ざんき」だが、「ざんぎ」は古い読みとしてあった。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。

「生《しやう》を轉じて」輪廻転生して。

「眞元《しんぐわん》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「真元(しんぐわん)か。「真元」は「真如」に同じ』とある。「真如」サンスクリット語「タタター」の漢訳語で、「ありのままの姿・万物の本体としての永久不変の絶対真理・宇宙万有に遍く存在する根元的実体・法性(ほっしょう)・実相」のこと。]

伽婢子卷之九 人鬼 / 卷之九~了

 

Hitooni

 

[やぶちゃん注:今回も状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。今回は衝撃的雰囲気を出すためにダッシュを用いた。]

 

   〇人鬼(《ひと》をに)

 丹波の國野々口(のゝぐち)といふ所に、與次といふ者の祖母(うば)百六十餘歲になり、髮、甚だ白かりければ、僧を賴みて、尼になしけり。若き時より、放逸無慚なる事、ならびなし。

 與次、已に八十あまりにして、子、あまた有り。孫も多かりしを、かの祖母(うば)は、與次を、

「我が孫なり。」

とて、常に心にかなはむ事あれば、責《せめ》いましむる事、小兒(せうに)ををどし、叱るが如くす。

 され共、與次がため[やぶちゃん注:「与次にとっては」の意。]、祖母(うば)の事なれば、孝行に養ひけり。

 此うば、年、已に極まりながら、目も明きらかにして、針の孔(みゝ)をとほし、耳、さやかにして、私語(さゝやく)事をも、聞付け侍べり。

 年九十ばかりの時、齒は、皆、ぬけ落ちたりしに、百歲の上になりて、元の如く、生(おひ)出たり。

 世の人、ふしぎの事に思ひ、いとけなき子、持(もち)ては[やぶちゃん注:連れてきては。]、

「此祖母にあやかれ。」

とて、名をつけさせ、もてなし、かしづき侍べり。

 畫の内は、家に在りて、麻(を)をうみ紡(つむ)ぎ、夜に入りぬれば、行く先、知れず、家を出る。

 初の程こそ有けれ、後(のち)には、孫も子も怪しみて、出て行く跡をしたへば、此祖母、立ち歸り、大《おほき》に叱りどよみ、杖は突きながら、足、はやく、飛ぶが如くに步む。

 更に其ゆく所、定かならず。

 身の肉(しゝ)は、消え落ちて、骨、太く、あらはれ、兩の目は、白き所、色、變じて、碧(あを)し。

 朝夕の食事は、至りて少なけれ共、氣象(きじやう)は、若き者も、及ばれず。

 或る時より、畫も出《いで》て行くに、孫・曾孫(ひこ)・新婦(よめ)なんどに向ひて、

「我が留守に、部屋の戶、開くな。必ず、窓の内を、さし覗くな。もし、戶を開かば、大に怨むべし。」

といふに、家にある者共、怪しみ、おもふ。

 又、ある日、晝、出て、夜、更くるまで、歸らざりけるに、與次が末子(ばつし)、酒に醉《ゑひ》て、

『何條(なでう)、祖母の『部屋の戶ひらくな』と云はれしこそ、怪しけれ。留主(るす)の紛れに、見ばや。』

と思ひ、密(ひそ)かに戶を明けて見ければ――

――狗(いぬ)のかしら

――庭鳥(にはとり)の羽(はね)

――をさなき子の手首

又は――

――人の髑髏(しやれかうべ)――手足の骨

――數も知らず、簀(すがき)の下に積み重ねて――あり。

 是れを見て、大に驚き、走しり出て、父に、

「かく。」

と、告げたり。

 一族、集りて、

「いかゞすべき。」

と評議する所へ、祖母(うば)、立ち歸り、部屋の戶の明きたるを見て、大に恨み、怒り、兩眼(りやうがん)、まろく、見開き、光り輝き、口、廣く、聲、わなゝき、走り出て、行かたなく失(うせ)にけり。

 恐ろしさ、いふばかりなし。

 後に、近江山のあたりに薪(たきゞ)こる者、行あひたり。

「其さま、地白《ぢしろ》のかたびらを、つぼをり、杖をつきて、山の頂きに登る。其の速き事、飛ぶがごとく、猪(ゐ)のしゝを捕へて、押し伏せたるを見て、おそろしく、身の毛よだちて、逃げかへりぬ。」

と、語りし。

 かの姥なるべし。

 生(いき)ながら鬼になりける事、疑ひなし。

[やぶちゃん注:本篇も前話と同じく、珍しく時制設定がない。

「丹波の國野々口(のゝぐち)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『京都府船井郡園部町埴生近辺』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「氣象(きじやう)」「氣性」に同じ。

「窓の内を、さし覗くな」窓も内側から見えないように板などで塞いであったものであろう。その隙間からも覗くな、という謂いであろう。所詮、暗いから見えはしないのだが。

「髑髏(しやれかうべ)」底本はひらがなであるが、元禄本で漢字にし、おどろおどろしさを出した。

「簀(すがき)の下に積み重ねて――あり」「簀」は「簀の子」のことであろう。あらゆる貪り食った人や鳥獣の遺骸の上に簀の子を敷いて、寝起きしていたものと思われる。シリアル・キラーの典型的猟奇性が窺われる。

「近江山」「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都府加佐郡大江町』(おおえまち)『と与謝郡加悦町』(かやちょう:但し、二〇〇六年に隣接する与謝郡岩滝町・野田川町と新設合併して与謝郡与謝野町となっている。引用書は二〇〇一年刊である)『との境にある山。千丈ケ岳とも。「丹波国 大江山」(歌枕名寄三十)。源頼光の鬼神退治で知られる(酒呑童子)。また、大江山の伝承は西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)『老ノ坂付近の大枝山もあるが、ここは、野々口よりさらに奥まった前者が適しよう』と考証されてある。前者は「千丈ヶ嶽」と地図にあり、ここで、大枝山の方はこちらである。注釈者の見解を支持する。

「地白《ぢしろ》」織物の地の白いこと。また、白地の織物。

「かたびら」「帷子」。裏をつけない布製の衣類の総称で、夏は直衣(のうし)の下に着るものの他に、夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)ものの着物を指すが、当然ここは、仏式で葬る際に名号・経文・題目などを書いて死者に着せる白麻などで作った経帷子(きょうかたびら)を嗅がせてある。鬼(中国語ではもとはフラットな「死者」の意である)となった表象である。

「つぼをり」「壺折る・窄折る」で、手で着物の裾を折って絡み取る、また、着物の褄(つま)の部分を折って前の帯に挟む、の意。丈を短くして山野を走るのに邪魔にならないようにしているのである。「かいどる」とも言う。普通は女のすることではない。挿絵でも確かに膝から下が丸出しで走り抜けている。なお、挿絵では鬼となった老婆は「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『綿帽子を被』っていると解説する。]

伽婢子卷之九 人面瘡

 

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[やぶちゃん注:最も左膝膝蓋骨付近に生じた(但し、本文では「腿の上」とする)人面瘡が最もよく視認出来る岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。人面が判るように、大サイズで示した。]

 

   〇人面瘡(じんめんさう)

 山城の國小椋(をぐら)といふ所の農人(のうにん)、久しく、心地、惱みけり。

 或る時は、惡寒(をかん)・發熱(ほつねつ)して、瘧(おこり)の如く、或る時は、遍身(そうみ)、痛み、疼(ひらゝ)きて、通風(つうふう)[やぶちゃん注:「痛風」。]の如く、さまざま、療治すれ共、しるしなく、半年ばかりの後に、左の股の上に瘡(かさ)出來て、其形、人の貌(かほ)の如く、目・口ありて、鼻・耳は、なし。

 是れより餘(よ)の惱みはなくなりて、只、其の瘡の痛む事、いふばかりなし。

 まづ、試みに、瘡の口に酒を入るれば、其のまま、瘡のおもて、赤くなれり。

 餅(もちひ)・飯(はん)を口に入るれば、人の食ふ如く、口を動かし、呑み、をさむる。

 食をあたふれば、其の間(あひだ)は、痛み、とゞまりて、心安く、食(しよく)せさせざれば、又、はなはだ、痛む。

 病人、此故に瘦せ勞(つか)れて、しゝむら、いたみ、力、落ちて、骨と皮とになり、死すべき事、近きにあり。

 諸方の醫師、聞き傳へ、集まりて、療治を加へ、本道[やぶちゃん注:広義の内科。]・外科、皆、その術を盡くせども、驗(げん)なし。

 こゝに、諸國行脚の道人(だうにん)、此所に來りていふやう、

「此瘡、まことに、世に稀れなり。是れを、うれふる人は、必ず、死せずといふ事、なし。され共、一つの手だてを以て、いゆる事、あるべし。」

といふ。

 農夫、いふやう、

「此の病《やまひ》だに愈(い)えば、たとひ田地を沽却(こきやく)すとも、何か惜しかるべき。」

とて、すなはち、田地をば賣(うり)しろなし、其の價ひを道人に渡す。

 道人、もろもろの藥種を買ひ集め、金(かね)・石(いし)・土(つち)を初めて、草・木に至りて、一種づゝ、瘡の口に入るれば、皆、受けて、是れを呑みにけり。

 「貝母(ばいも)」といふものを、さしよせしに、その瘡、すなはち、眉を、しゞめ、口を、ふさぎて、食(くら)はず。

 やがて、貝母を粉にして、瘡の口を押し開き、葦(あし)の筒(つゝ)を以つて、吹き入るゝに、一七日《ひとなぬか》の内に、其の瘡、すなはち、痂(ふた)、づくりて、愈《いえ》たり。

 世にいふ「人面瘡」とは、此事なり。

[やぶちゃん注:本篇は珍しく時制設定を行っていない。

「人面瘡」妖怪的奇病の一種。体の一部に生じた傷が化膿し、人の顔のようなものが出現し、話をしたり、物を食べたりするとされる架空の病気。江戸の怪奇談や随筆に見られ(私の電子化注では「諸國百物語卷之四 十四 下總の國平六左衞門が親の腫物の事」がある。殺された下女の因果が病根とするものである。また、「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」にも出(十二歳の少年の腹に開口し、人語を話すもの)、私の注で、原拠である「新著聞集」の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」や、「酉陽雜俎」(唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の貝母が特効薬とする原拠らしきものも電子化してあるので見られたい)、三流の近代以降の怪奇小説にもしばしば登場する(私は近代物は概ね濫読したが、谷崎潤一郎の「人面疽」は最も面白くなく、成功しているのは手塚治虫先生の「ブラックジャック」の「人面瘡」ぐらいなものである)。そんな中でも、医師が治療したとする驚くべき詳細な信頼出来る事例記載として、江戸後期の儒者で漢詩人としても知られる菅茶山(かん さざん 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年):諱は晋帥(ときのり)。備後国安那郡川北村(現在の広島県福山市神辺町)の農家の生まれ。当該ウィキによれば、彼が『生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した』。『故郷に帰り』天明元(一七八一)年頃、郷里神辺に『私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした』。『塾は』寛政八(一七九六)年には『福山藩の郷学として認可され』、『廉塾と名が改められた。茶山は』享和元(一八〇一)年から『福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという』詩集「黄葉夕陽村舎詩」が残る。『廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など』の著名人もいる)が晩年に書いた随筆「筆のすさび」の巻之四の「人面瘡の話」に以下のようにある(ともかく臨床例記載として頗る興味深いものである!)ので、挙げておくことにする(「日本古典籍ビューア」のこちらにある原本の当該話を視認して起こした。挿絵は当該画像をトリミング補正した)。頭の「一」は原本では上に飛び抜けているが、代わりに下を一字分空けた。

   *

一 人面瘡の話   仙臺の人、怪病の圖、並に記事、左に載す【本文、漢語を以てすといへども、今、兒童の見やすからんために和解す。覽者、これを察せよ。】

 

 

王父月池先生[やぶちゃん注:蘭学者で幕府奥医師でもあった桂川甫賢(かつらがわほけん 寛政九(一七九七)年~天保一五(一八四四)年)の号。医家桂川家六代目で甫周の孫。名は国寧(くにやす)。オランダ名 Johannes Botanicus。大槻玄沢らに学び、オランダ語に堪能でシーボルトらとも交友があった。絵も上手く、「和漢蘭三州必真像自画小幅」がある。主著「酷烈竦弁」。]嘗て余に語(かたり)て曰、「祖考華君[やぶちゃん注:甫賢の五代前の桂川国華(甫筑)。]の曰く、城東材木町に一商あり、年二十五、六、膝下に一腫を生ず、逐(ひをおふて)漸(やうやく)にして、大に、瘡(かさ)、口、泛(ひろ)く開き、膿口(うみくち)三両處、其の位置、略(ほゞ)、人面に像(かたど)る。瘡口(きづくち)、時ありて、澁痛(いまみ)し、滿(みつ)るに、紫糖(したう)[やぶちゃん注:紫蘇糖(しそとう)か。青紫蘇の精油主成分を原料とした甘味料。近代に精製された製品は蔗糖の約二千倍の甘味がある。]を以てすれば、其痛み、暫く退(しりぞ)く。少選(しばらく)あつて、再び痛むこと、初のごとし。夫、「人面(にんめん)の瘡(さう)」は、固(もと)より妄誕に渉る。然るに、かくのごときの症(せう)、「人面瘡」と做(な)すも、亦、可ならん乎。蓋(けだし)、瘍科(やうか)諸編を歴諬(れきけい)するに、瘡名、極めて、繁(しげ)し。究竟(くつきやう)するに、其の症、一因に係(かゝり)て發する所の部分及び瘡の形状(かたち)を以て、其名を別(わか)つに過ぎざるのみ。「人面瘡」のごときも、亦、是なり。今、茲(こゝ)に己卯[やぶちゃん注:これがずっと国華甫筑の台詞であるなら、彼の存命期から推定して宝暦九(一七五九)年である。もし、話者国寧賢の謂いなら、文政二(一八一九)年となる。どこまでが引用なのか判らないのを恨みとする。]中元[やぶちゃん注:陰暦七月十五日。]仙臺の一商客、門人に介(なかだち)して曰、「或人、遠くより來て、治を請く。年三十五を加ふ。始、十四歳のときにありて、左の脛(はぎ)上に腫(はれ)を生ず、潰(つぶれ)て後、膿をながして、不竭(つきず)、終に朽骨(きうこつ)二、三枚を出す。四年を經て、瘡口、漸く収る。只、全腫(ぜんしゆ)不消(しやうせず)、步(ほ)、頗る難(かた)し。故に、温泉に浴し、或は、委中(いちゆう)[やぶちゃん注:膝の後ろの中央にある経絡のツボの名。]の絡を刺(さし)、血を泻(なが)す、咸(みな)、應、せず。醫者を轉換するも、亦、数人、荏苒(じんぜん)として[やぶちゃん注:治療が滞って、そのままで、病態が好転する兆しがないということ。]、幾歲月、其腫(はれ)、却(かへつ)て、自ら増し、膝を圍み、腿(もゝ)を襲せ[やぶちゃん注:読み不詳。「覆(おほ)ふ」の意味ならある。]、然[やぶちゃん注:「しかして」か。]、再び、膿管(のうかん)、數處(すうしよ)を生じ、彼(かれ)[やぶちゃん注:指示語。それが、]、収まれば、此(こゝ)に發(はつし)、前に比するに、甚(はなはだ)同じからず。只。絶えて疼苦(いたみ)なく、今年に至て、瘡口(きつくち)、一處に止(とま)る。即、先に骨を出すの孔旁(こうぼう)なり。瘡口(さうこう)、脹起哆開(ちやうきたかい)し、あたかも口を開くの状(かたち)のごとし。周圍(めぐり)、淡紅(うすあか)く、唇のごとく、微(すこ)しく其口に觸(ふる)れば、則、血を噴(ほとはし)る。亦、疼痛、なし。口上に、二凹(くぼ)あり、瘡痕(かさのあと)相對し、凹内(くぼきうち)に、各(おのおの)、皺(しはん)紋あり、あたかも目を閉ぢ、笑ひを含むの状(かたち)のごとし。眼の下に、二の小孔あり、鼻の穴の、下に向ふが如し。兩旁に、又、各、痕(あと)あり、痕の辺に、各、堆起(つゐき)し、耳朶(みゝたぶ)のごとく、其面(をもて)、楕圓(だゑん)、根(ね)、膝蓋(ひざふた)に基(もとゐ)して、頭顱(づろ/カシラ[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ。]の状をなす。且、患(うれ)ふる處、惻々として、動(うごき)あり、呼吸のごとし。衣を掲(かゝげ)て、一たび、見れば、則、言を欲する者に似たり。復(また)、約略(おほやう)、人面を具するにあらず。強ひて、人面をもつてこれを名づくるの類なり。而(しかして)、脛(はぎ)の内、㢛(けん/ハヾキ)[やぶちゃん注:所持する吉川弘文館随筆大成版では『廉』と翻字するが、採らない。この漢字の意味は判らないが、読みの「はばき」は脛(すね)の意と思うし、以下の文字列からも腑に落ちる。]・腿(たい/モヽ)・股(こ/マタ)に連(つらな)り、腫(はれ)、大にして、斗(と)のごとく、靑筋、縦橫(ちゆうわう)遮絡(さらく)[やぶちゃん注:塞ぎ繋がること。]、これを按ずるに、緊(きん)ならず、寛(くわん)ならず、其の脈(みやく)、数(さゝ)にして、力あり、飮食、減ぜず、二便、自可[やぶちゃん注:「おのづからかなり」と訓じておく。]。斯(この)症、固(もと)より、これを「多骨疽(たこつそ)」[やぶちゃん注:私が幼少時に罹患したカリエス。結核性骨髄炎。]に得たり。「多骨疽」の症、多くは遺毒(いどく)[やぶちゃん注:先天性梅毒。]に出づ。而(して)其(その)瘡勢(さうぜい)、斯のごとくに至るものあり。只、口内、汚腐(をふ)、充塡(ぢゆうてん)、縁なく、餌糖(したう)、即(すなはち)、貝母(ばひも)も、眉(まゆ)をあつめ、口をひらくの功を奏すること、あたはず。文政己卯(きぼう)[やぶちゃん注:文政二(一八一九)年。]中元、桂川甫賢國寧(かつらがはほけんこくねい)、記(きす)。

   *

「山城の國小椋(をぐら)」豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。

「瘧(おこり)」長期に間歇的に発熱・振戦を伴う病気。熱性マラリア。

「貝母(ばいも)」中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要である(ここはウィキの「アミガサユリ」に拠った)。]

2021/09/24

伽婢子卷之九 金閣寺の幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」のものをトリミング補正して、適切な位置に配した。]

 

    ○金閣寺の幽靈に契る

 中原主水正(なかはらもんどのかみ)は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

 大永乙酉(きのととり)[やぶちゃん注:一五二五年。将軍は足利義晴であるが、最早、戦国時代前期。]彌生ばかりに、思ひ立《たち》て、霞を分つゝ、北東の山路(《やま》ぢ)にさすらひ、暮ゆく春の名殘を慕ふ。

 北白川檜垣(ひがき)の森、櫻井の里氷室(ひむろ)山、岩倉谷(いはくらたに)きつね坂、八鹽岡(やしほのをか)、比叡橫川(よかは)、片岡の森、鬼が城、大原、音無(をとなし)の瀧、志津原、朧淸水(おぼろのしみづ)、市原野邊(《いちはら》のべ)、暗部(くらぶ)山を、打めぐり、鹿苑院(ろくをんいん)に行き至る。

 世に金閣寺と號す。征夷大將軍源義滿公、この地に家づくりして移り住み給ひしも、薨去の後、直(すぐ)に寺となし給へり。

 庭の築山(つきやま)、泉水の立石《たていし》、まことに、古今絕景の勝地として、たぐひなき所なり。

 中原、こゝまで浮かれ來て、日、巳に暮らして、朧月、東のかたに出れば、「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」と、花に移ろふ月の光に、木の本も立ち去りがたくぞ、覺えし。

 里の家に宿は借りけれ共、いも寢られず、砌(みぎり)をめぐり、苔路(こけぢ)を踏んで、金閣のもとに至りぬ。

 去ぬる應永十五年[やぶちゃん注:一四〇八年。]、義滿公の薨じ給ひしより、既に百十八年、そのかみ、さしも、にぎにぎしかりけるも、君おはしまさずなりけるより、すむ人も、やうやう、稀になり、礎(いしずゑ)、傾(かたふ)き、柱、朽ちて、僅かに、金閣のみ、昔の色を殘したり。

 主水は軒に立ち寄り、欄干によりかかりて、昔を思ひ、今を感じて、ふけゆく月に、打うそぶきつゝ、古木(こぼく)の櫻花、少し咲たるを見やりて、

 櫻花いざ言問はん春の夜の

   月はむかしも朧なりきや

 

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[やぶちゃん注:中原主水正の向こうに既にして、二人の女の墓が描かれてある。]

 

 かゝる所に、ひとりの女、其の齡(よはひ)、十七、八と見ゆるが、半者(はしたもの)一人召し具して、閣のもとに來れり。

 桂の眉墨、雲《くも》のびんづら、たをやかなる姿かたち、美しさ心も、詞も及ばれず、いふばかりなくあてやかなるが、

「如何なる事ぞ。」

と、忍びて見ければ、此の女房、いふやう、

「金閣ばかりは故(もと)のごとくにして、庭のおもては、風景、變らず。但、時移り、世變はり、そゞろに昔の戀しきのみ、おもひつゞくるこそ悲しけれ。」

とて、泉水のほとりに休らひて、津守國基(つもりのくにもと)、花山(くわさん)に行きて、僧正遍昭が古跡のさくら、散りけるを見て詠みける古歌を吟詠す。

 あるじなき住みかに殘る櫻ばな

   あはれむかしの春や戀しき

主水正、此の吟聲を聞くに、胸とゞろき、魂(たましひ)きえて、心も、そぞろにまどひつゝ、うつゝなき中より、

 さく花にむかしを思ふ君はたぞ

   今宵は我ぞあるじなるもの

と、よみて、立ち向へば、女房、さらに驚く氣色なく、いとさゝやかななる聲にて、

「初より、和君、此所《ここ》に在(おは)する事を知り侍べりて、みづから、こゝに來りて見え參らする也。」

といふ。

 大にあやしみて、其名を問へば、女、こたへていふやう、

「みづから、人間(にんげん)に捨てられて、已(すで)に年久し。此の事を語り侍べらば、和君、さだめて驚き怖れ給はん。」

といふに、主水正、此言葉を聞きて、

『扨は。是れ、人間にあらず。山近く木玉(こたま)の現れしか、狐のなれる姿か、然らずば、幽靈ならん。』

と思ふに、形の美くしさに、心、解けて、露、おそろしき事、なし。

「如何でか、驚き怖れ侍べらむ、只、有の儘に語り給へ。」

といふ。

 女房いふやう、

「みづから、畠山氏(はたけやまうぢ)の家に生まれ、いにしへ、義滿公、この所に引籠り給ひし時、宮仕へせし者なり。年二十にして、むなしくなり、君の御憐れみ、深くて、この院の傍らに埋(うづ)み給ふ。今宵は追福の御事《おんこと》によりて、從一位(じゆ《いち》ゐ)良子禪尼(よしこぜんに)の御許に參りぬ。是は、義滿公の御母にておはします。その座、久しくて、今、漸く、ここに出來り侍り。」

とて、半者に仰せて、筵(むしろ)・しとねを取り敷かせ、酒・菓(くだもの)をめし寄せ、閣の庇に向ひ坐して、

「今夜の花に今夜の月、如何で空しく送り明さむ。」

とて、酒、のみ、語り、遊ぶ。

 半者、哥、うたひ、盃(さかづき)の數(かず)、重なれり。

 女房、打ちかたぶきて、

 明行かば戀しかるべき名殘りかな

   花のかげもるあたら夜の月

と、詠みて、打ち淚ぐみけるを、主水正、心ありげに思ひて、

 いづれをか花は嬉しと思ふらむ

   さそうあらしとをしむ心と

女房、袖かきをさめて、

「君は、みづからが心を引み給ふと覺ゆる歌ぞかし。世をさり、え久しく埋もれし身の、又、立返り、君に契らば、死すとても、朽果てはせじ。」

と睦まじく語らひける程に、月は、西の嶺にかくれ、星は、北の空に集まる頃、西の庇(ひさし)に移りて、女房、わりなく思ふ色あらはれ、暫し、もろ友に枕を傾けしに、春の夜の習ひ、程なく時の移りて、鳥の聲三たび鳴きつゝ、花より白む橫雲の、嶺に棚びくころになれば、互に淚を拭ひて、起き別れたり。

 晝になりて、そこら、見めぐらせば、院の傍に古(ふり)たる卒都婆(そとば)ありて、苔むしたる塚に、朽ち殘り、塚の左に、小さき塚、並べり。

 是れ、はしたもの、其ころ、悲しみて、打續き焦がれ死せしを、人々、憐れがりて、同じ所の塚の主(ぬし)になしたる、となり。

 主水正、憐れにも悲しくて、家に歸らん事を忘れ、又、其の夕暮れに、閣のほとりに立ちめぐれば、女房も、あらはれ出《いで》て、手を取り組み、淚を流して、語るやう、

「みづから、君が心の情を感じて、只、其夜の契をなし、かづらきの神かけて、晝を厭ふぞ心憂き。」

など言ひければ、男も、

「何かをば厭ふ。」

とて、

「只、うば玉の夜ならで、契をかはす道なしとや。よひよひごとを待《まつ》も苦しきに、誰《たれ》を人目の關守になし、忍ぶなげきを、こりつむべき。」

など、語らひ、是より、夜每に、こゝに出逢ふ。

 二十日ばかりの後は、晝も出て、語り遊ぶ。

 主水も官に仕ふる身なれば、都に歸りて、日每に行きかよふ。

 終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り。

 

Kinakau2

 

[やぶちゃん注:縁にいる下女は主水主の使い女。]

 

 其身持ち、よろづ愼みて、物言ひ・言葉のしな、才知有り、主水が一族に、まじはりを親しく、内外に召使ふ女童(《めの》わらは)まで、恩を與へ、惠みを厚くし、隣家(りんか)の嫗(うば)までも、隨ひ、いつくしみ、此女房に心をとけずと言ふ事、なし。

 衣(きぬ)縫うふわざ・物かき、うとからず、かろがろしく他人にまみえず。

「まことに。主水は淑女のよきたぐひを求めたり。」

と、人皆、羨みけり。

 かくて、三とせの後、七月十五日、女房、いふやう、

「半者(はしたもの)は、我が住みける方(かた)の宿守(やどもり)せさせて、殘しおきぬ。さこそ、待ちわぶらめ。今日は、金閣に行きて、こととひ侍らん。」

とて、酒とゝのへて、主水、女房を打ちつれて行く。

 

Kinakau3

 

 日、已に暮れて、月さやかにして、東の山に出れば、池の蓮(はちす)は南の池に開け、柳は枝垂れて露を含み、竹は風にそよぎけるに、半者(はした)出むかうて、いふやう、

「君、已に人間に返り遊ぶ事、已に三とせにして、たのしみを極めながら、御住みかをば、忘れ給ふか。」

と恨めしげに言ひければ、三人つれて、閣の西の庇に行きて、女房、なくなく、主水に語るやう、

「君が情《なさけ》の深きに引れて、三とせの月日は、隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て、猶、飽くことなき契りの中(なか)らひ、今宵を限りに、永く別れ參らせむ。みづから黃泉(よみぢ)の者ながら、此の世の人に馴るゝ事、宿世(すぐせ)の緣淺からぬ故ぞかし。今は、緣、つき侍べれば、別れをとり參らする也。若《も》し又、是れを悲しみて、强ひてこゝに留まりなば、冥府(みやうふ)の咎めも如何ならん、君をさへ、惱まし侍べらん禍(わざはひ)、必ず、遠かるまじ。」

とて、互いに淚を流しつゝ袂も袖も絞りけり。

 巳に曉の八聲《やこゑ》の鳥も打ち頻り、鐘の音、響き渡りしかば、女房、立ち上がり、蒔晝の箱に、香爐をいれて、

「これは、此程の形見とも、見給へ。」

とて、なくなく別れて、古塚(ふるつか)の方(かた)に行く。

 猶も、名ごり惜しみて、立ち戾り、見かへりて、煙(けふり)の如く、消失せたり。

 主水、胸焦がれ、身悶えて、悲しき事、限りなく、血の淚を流して、慕へ共、かなはず。

 家に歸りて、僧を請じ、「法華經」よみて、吊(とふら)ひ、一紙(《いつ》し)の願文(ぐわん《もん》)を書《かき》て、供養を遂げ侍べり。其詞に、

[やぶちゃん注:以下の詞章部引用は、底本では全体が一字下げ。「*」で挟んでおいた。]

   *

維(これ)、靈(みたま)は、生まれて、よきたぐひ、郡(ともがら)にこえ、妍(かほよき)すがた、仙(やまひと)に似(にれ)り。花の鮮(あざやか)なる玉のうるはしき、みな、この靈(みたま)の形(さま)に、うつせり。住昔(そのかみ)、金(こがね)の扉(とぼそ)に宮仕へ、如今(いま)は荒れたる墳(つか)に埋(うづ)もれり。篠(しの)薄(すゝき)のもとに住み、狐(きつね)兎(うさぎ)のゆくに忍ぶ。花、落ちて、枝に返らず、水、流れて、源に來らず。日かげ傾き、月めぐれ共、精靈(くはしきみたま)は泯(ひた)けず。性(たましひ)、もの識ること、長(とこしなへ)にいます。魂《たましひ》を返す術(たむけ)はなしに、姿をあらはす功(いさをし)あり。玉のさし櫛(くし)、くれなゐの襜(うちぎ)は、色うるはしく、にほひ、殘れり。松の千歲(ちとせ)、常盤(ときは)、かはらず、喜びを、同じく偕(とも)に老なんことを思ひしに、如何に逢(あふ)て、又、別れたる。雲となり雨となりし朝なゆうなのうらみ歎くに、その跡を失へり。しるしの塚(つか)に向へども、聲をだに、まだ、聞かず。後の逢瀨、いつか、繼(つが)ん。雁の聲、わづかに悲しみを助け、螢の光、只、愁へを弔(とふら)ふ。姿、隱れ、なさけ、絕《たえ》て、むなしき空に、霧、ふさがり、星、くらし。心の底は糸のみだれ、淚の色、くれなゐを染めて、悲しみの中に、經、讀み、花を手向く。靈(みたま)、よく、うけ給へ。鳴呼、悲しきかな、痛ましき哉、こひねがはくは、よく、うけ給へ。

 ともす火やたむくる水や香花を

   魂(たま)のありかにうけて知れ君

 主水正、是より、官職を辭退して、獨り淋しき床に起き臥し、只、此人の面影のみ立離れず、歎きに沈み侍べりしが、二たび、妻をも求めず、小原《こはら》[やぶちゃん注:京の「大原」の別称。]の奧に引籠り、終に其終る所をしらず。

[やぶちゃん注:「中原主水正(なかはらもんどのかみ)」不詳。「主水」はウィキの「主水司」によれば、『主水司(しゅすいし/もいとりのつかさ)は、律令制において宮内省に属する機関の一つで』、『主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司(もひとりのつかさ)は水・氷の調達および粥の調理をつかさどった。やがてこれを扱う役人への敬称(殿=おとど)が接尾して転訛し「もんどのつかさ」とも呼ばれる』。『調達のために伴部として水部(もいとりべ)品部として水戸(もいとりこ)が置かれた。また』、『運搬等のために駆使丁が配属された。駆使丁は重労働の現業部門に置かれ、とくに氷は夏場は珍品として貴重だったため』、『運搬に非常に苦労したとみられる。中世以降は明経道清原氏が長官職を世襲し』、『付属の主水司領を相続した』。『氷は冬場に製造するため』、『夏までの間』、『保管しておく場所として氷室が設置された。氷室は畿内周辺に点在し』、『それぞれ預が置かれた』とある。「正」はその長官。

は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。

「北白川檜垣(ひがき)の森」「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区。筑紫国白川の遊女檜垣の嫗』(おうな)『の伝承を京都の白川にとりなした地名という』とある。銀閣寺の北の北白川地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のどこか(現在のどこかは特定出来なかった)。「檜垣の嫗」は平安朝の筑前の遊女(あそびめ)で歌人。生没年不詳。「後撰和歌集」に,延喜一一(九一一)年に大宰大弐となった藤原興範(おきのり)が筑前の白川で水を乞うたとき、老いを嘆く「年ふればわが黑髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」の歌を詠みかけたと見えるが。「大和物語」では、興範ではなく、それより三十年後の小野好古(よしふる)とし、家集「檜垣嫗集」では、清原元輔が肥後守となった七十余年後の歌人とする。機智的な即詠を得意とする遊女として伝承され、後人によって家集も編纂されているが、その生涯は明らかではない。

「櫻井の里氷室(ひむろ)山」「桜井の里」は「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区松ケ崎。山州名跡志六・桜井里では古老の言として、岩倉に至る坂の前、山神と号する杜の西にある浅井をその跡と伝える』とし、「氷室山」は『左京区上高野氷室町』(かみたかのひむろちょう)とし、『山腹に禁裏への供御の氷を蓄えた。小野氏の在地で「小野の氷室」とも称される』とある。ここ。主人公の職責と連関する。

「岩倉谷(いはくらたに)同前で、『左京区岩倉。岩倉・長代川』(ちょうだいがわ)『の渓流近辺か』とする。この附近か(特定不能)。

「きつね坂」同前で、『左京区松ケ崎。桜井の西北の坂で岩倉や深泥池』(みどろがいけ)『に至る。木列坂(キツレザカ)、木摺坂とも(山州名跡志六・木列坂)』とある。この中央附近か。ここに出る旧地名が現在の地名と合致しないため、以上と同じく、同定が難しい。

「八鹽岡(やしほのをか)」同前で、『左京区長谷町。岩倉の北、瓢箪崩山』(ここ。西に岩倉長谷町がある)『の西南にある丘で八入(やしお)とも。紅葉の名所』とある。

「比叡橫川(よかは)」滋賀県大津市坂本本町。比叡山横川中堂がある一帯。

「片岡の森」同前で、『京都市北区上賀茂。上賀茂神社本殿東の片岡山(古称賀茂山地)の麓。歌枕』とある。ここ

「鬼が城」同前で、『左京区。八瀬の西北にある石窟。「むかし酒呑童子ひえの山より追出されて此いはやにこもり、此石のうへに起ふしけりといふ。後に丹後大江山にして源の頼光にころされしとかや」(出来斎京土産五・鬼城)』とある。この辺りか。

「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近

「音無(をとなし)の瀧」左京区大原勝林院町にある。歌枕。

「志津原」左京区静市静原町

「朧淸水(おぼろのしみづ)」京都市左京区大原草生町(くさおちょう)の寂光院の東南にある名泉。歌枕。

「市原野邊(《いちはら》のべ)」左京区静市市原町の野辺。

「暗部(くらぶ)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『歌枕。場所に諸説あるが、洛陽名所集八では鞍馬の山続きとし、了意もそれを踏襲』しているとある。この附近ということになる。

「鹿苑院(ろくをんいん)」「いん」はママ。正しくは北山(ほくざん)鹿苑禅寺で、金閣寺の正式名。この地には、鎌倉時代の元仁元(1224)年に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり、以後も、公経の子孫である西園寺家が、代々、領有を続けていた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したため、逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず、荒れていったが、応永四(一三九七)年)に室町幕府第三代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の総てが集約された。応永元(一三九四)年に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、この「北山第」にあって政務を執り続けた(以上は当該ウィキに拠った)。

「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」蘇軾の七言絶句、

   *

   春夜

 春宵一刻値千金

 花有淸香月有陰

 歌管樓臺聲細細

 鞦韆院落夜沈沈

    春夜

  春宵一刻 値(あたひ)千金

  花に淸香有り 月に陰有り

  歌管 樓臺 聲 細細

  鞦韆(しうせん) 院落 夜 沈沈(しんしん)

   *

起句に基づく。「院落」は「屋敷内の中庭」のこと。

「櫻花いざ言問はん春の夜の月はむかしも朧なりきや」特に原拠歌はないようである。

「津守國基(つもりのくにもと)」(治安三(一〇二三)年~康和四(一一〇二)年)は神職にして歌人。摂津住吉神社神主。「後拾遺和歌集」にとられている名歌「薄墨にかく玉章と見ゆるかな霞める空に歸る雁がね」に因んで「薄墨の神主」の異名がある。

「花山(くわさん)」京都市山科区北花山河原町にある天台宗華頂山元慶寺(がんけいじ/古くは「がんぎょうじ」)。貞観一〇(八六八)年に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により定額寺という寺名で建立され、開山は六歌仙の一人僧正遍昭。元慶元(八七七)年に勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。花山法皇の宸影を安置する寺で「花山寺(かさんじ)」とも呼ばれ、大鏡では「花山寺」と記されてある。但し、「応仁の乱」の戦火によって伽藍が消失し、以来、境内が小さくなってしまったと参照した当該ウィキにあるので、この話柄内時制であれば、荒廃していたか。「新日本古典文学大系」版脚注には『あった』と過去形にもなっている。

「あるじなき住みかに殘る櫻ばなあはれむかしの春や戀しき」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原拠は続古今集・哀傷。出来斎京土産三・花山に同歌を引いて、「津守国基花山にまかりたりけるに僧正遍昭が室の跡の桜ちりけるを見て」とある』とある。

「さく花にむかしを思ふ君はたぞ今宵は我ぞあるじなるもの」どうもぎくしゃくした言葉遣いで気に入らない一首である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『類歌』として「平家物語」巻九の平忠度の、

 行きくれて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし

を挙げる。

「みづから」一人称自称代名詞。

「人間(にんげん)に捨てられて」人間道から捨てられて。死者であることをダイレクトに述べた。本邦の怪談では比較的珍しいが、本話の原拠は「剪灯新話」であるが、中国の伝奇・志怪小説では狐であるとか、死者であるとか、初っ端から明かす話は多い。

「畠山氏」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室町幕府で斯波・細川と共に三管領職を勤めた重臣。畠山英国』(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)『は、義満が北山第に移住した応永五年(一三九八)』に『管領となり、以後』、『義満を補佐した』とある。

「良子禪尼(よしこぜんに)」足利義満の生母紀良子(建武三/延文元(一三三六)年~応永二〇(一四一三)年)。室町幕府第二代将軍足利義詮の側室。石清水八幡宮検校善法寺通清(みちきよ)の娘。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は五歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも、幸子の方を重んじていた。幸子が従一位を授けられた永徳元(一三八一)年には、良子は従二位とされており、後に従一位に叙された。春屋妙葩に帰依した。法号は「洪恩院殿月海如光禅定尼」(以上は主文を当該ウィキに拠った)。

「明行かば戀しかるべき名殘りかな花のかげもるあたら夜の月」「夫木和歌抄」の巻四の「春四」にある後京極摂政九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)の一首、

 明けはてば戀しかるべき名殘かな花のかげもるあたら夜の月

の細工品。

「いづれをか花は嬉しと思ふらむさそうあらしとをしむ心と」同じく「夫木和歌抄」同じ「春四」にある法橋顕昭の一首のそのままの転用。

「心を引み給ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『思惑があるのかと考えてなぞをかける』とある。

「わりなく」この上もないまでに。

「かづらきの神」「葛城の神」。「かつらぎ」が一般的。奈良県葛城山の山神。特に「一言主神(ひとことぬしのかみ)」を指す。また、昔、役行者の命によって、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けようとした一言主神が、自身の容貌の醜いのを恥じて、夜間にだけ、仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、「恋愛や物事が成就しないこと」の喩えや、「醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりする」喩えなどにも用いられ、ここは夜ばかりにしか逢わないのを、主水正に済まなく思う気持ちをちゃんと持っていることを、かのいわく因縁のある神に誓ったのである。後日、その制約も投げ捨てて、主水正とともに普通に住むようになることの伏線である。

「忍ぶなげきを、こりつむべき」「なげき」を「嘆き」と薪として火に投げ込んで積む「投げ木」を掛けたもの。「新日本古典文学大系」版脚注に、『嘆きという名の木を伐って積み上げるの意』とされる。

「終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り」この雨のシークエンスには、何らかの民俗学的な意味が隠されているようだが、今のところ、思いつかない。

「人間」個人的には「じんかん」と読みたい。

「隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て」白い馬が走り過ぎるのを、壁の隙間からちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことを言う喩え。「白駒(はっく)の隙(げき)を過るがごとし」。「荘子」の「知北遊篇」が原拠。

「篠(しの)」稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠の小笹(おざさ)。

「泯(ひた)けず」読みは不詳(「新日本古典文学大系」版脚注でも『読み未詳』とする)。但し、「泯」は「尽きる」の意があるから、意味としては判る。

「魂《たましひ》を返す術(たむけ)」反魂術。死者の姿を見せる魔術。洋の東西なく、存在する。ここはその術「なしに」彼女が私のために「姿をあらは」した既成事実としての「功(いさをし)」=優れた超自然の力を示したことを指す。

「襜(うちぎ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「襜(せん)」は。膝掛け、まえだれ』で、これが「袿(うちき)」を指すのならば、『上流婦人の装束で襲(かさね)の上着』とする。

「ともす火やたむくる水や香花を魂(たま)のありかにうけて知れ君」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「夫木和歌抄」の巻十九の「火」にある、

 ともす火も手向る水もまことあらば魂のありかを聞よしもがな

をインスパイアしたものとされておられるようである。]

2021/09/23

譚海 卷之四 同年信州上田領一揆の事

 

[やぶちゃん注:前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」及びさらにその後の「同年信州淺間山火出て燒る事」に引き続いて、同天明三(一七八三)年に発生した事件記事で、珍しい連投関連記事である。非常に長いものなので、読み易くするために改行を施し(書簡なので一字下げは意識的行わなかった)、句読点・記号も変更・追加した。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本ではここから。]

 

○同年十月廿七日、信州上田の家士香山長琳、來書の寫。

「以別紙貴意候。去月廿九日、武州・上州の百姓騷動仕、安中領板鼻より、段々、富家を打崩、當月二日には當國作[やぶちゃん注:佐久。]郡へ亂入、古靑竹、或は、松明を持候て、村々ヘ入込、一味に相成不ㇾ申候へば、燒拂候段申聞、太き靑竹にてたゝき立候故、不ㇾ得止事作郡の大百姓どもを打潰し、或は放火仕候よし。

當月三日の朝、宿々より、注進有レ之。凡、人數は、四、五萬人も可ㇾ有ㇾ之旨、申來候ゆゑ、此方にても、殊の外、驚き、早速、人數追々指出申候處、人數の程、大方、五、六千人は可ㇾ有ㇾ之段、申聞候ゆゑ、領分境迄、人數指出候積り評儀仕候。

同四日の夜に入、小諸牧野遠江守樣御城下へ押寄候處、御小家ゆゑ、防ぎ兼候て、御通し被ㇾ成候ゆゑ、四日の夜、當御領分へ亂入、三箇村にて、三軒、打潰し、それより、根津領へ罷通り、富家二軒へ投火仕、二人燒死申候。

同日夜の内、上田城下へ押し來申候段、風聞有ㇾ之候ゆゑ、加賀川と申所より壹里先迄、數人指出防申候處、四日には參不ㇾ申候。

五日には矢澤領へ罷越、所々打崩し、夜に入、上田領眞田村・槇尾村にて、富家二軒、燒打に仕、六軒類燒仕候。狼藉なる事、中々、難申盡候。

仍て、當家より追手の方へ、用人壹人、武頭[やぶちゃん注:「ぶがしら」弓組・鉄砲組などを統率する組頭。物頭 (ものがしら) 。]壹人、侍分五十人、足輕百人、内、五十人は鐵炮、五十人は弓、目付壹人、醫師壹人、其外、領分の百姓相加り、千五百人の餘、指出し候。大得川原と申所にて、勢揃仕候節は、領分の百姓共、追々、駈加り、夜分の事ゆゑ、挑燈・松明の光にて、十萬人程にも相見え申候。

扨、又、搦手の方、伊勢山口の方へは、武頭二人、侍分三十人、足輕五十人、目付、醫師、其外、領分の百姓、相加り、千人計にて駈向候處、川久保村と中川原にて賊徒に行あひ、爰にて合戰初り申候。

賊徒は「橋をわたらん」と致し、味方は「橋を渡さじ」と、あらそひ、橋中にて、賊徒の方のもの三人、突伏申候處、賊徒、大に怒て、近寄候ゆゑ、鐵炮、壹度に打候へば、是に驚き、みなみな、にげ散申候。

右、人數は、火をともし不ㇾ申候ゆゑ、いかほどと申事、相知れ不ㇾ申候。誠に眞の闇にて、雨、少々、降申候て、一寸先も見不ㇾ申候。追手・搦手にて八方をとり圍、五十壹人、搦取申候。打捨・切捨も、よほど御座候。川原戰故、川へ、多く、ながれ申候よし。

兼て、他領へは罷越申間敷段、申付有ㇾ之候へども、見懸候敵ゆゑ、追付、うちもらし候分は、其儘に仕置候。晝にて御座候へば、壹人もなく打止可ㇾ申候得共、眞の闇故、夥敷、山林へ、にげ隱れ申候。

當領分へ罷越申候人數、「三千人程、可ㇾ有ㇾ之」よしに御座候へ共、二手にわかれ、上田へ押寄、上下、不ㇾ殘、燒拂申候積りに御座候。

今一時、出勢、遲く候へば、甚、あやうき事に御座候所、右川久保の橋にて、防留申候ゆゑ、壹人も城下へ通し不ㇾ申候。

仍て、城下無難に御座候得共、誠に戰場の有樣、目前に見侍る如くに御座候。

若、城下まで亂入候はば、大合戰に可ㇾ有御座[やぶちゃん注:「大合戰に御座有るべきに」。]、能き場所にて、防ぎ止候ゆゑ、味方、壹人も手疵無御座候。

當領分、三箇村にて、三軒、打崩、二箇村にて六軒、類燒仕候。小諸領にては、十箇村、大百姓共を、不ㇾ殘、打崩し燒拂申候。

其外、當國にても、打崩申候、村・人數は、夥敷、御座候ゆゑ、信濃壹箇國の御大名方、御領分境へ、皆、五百人・千人位づつ、出張有ㇾ之候。

此度の騷動、信濃壹箇國の騷に御座候。當領分にて打留不ㇾ申候へば、直に松本領へ押寄候筈のよしに御座候。

左候はば、段段、勢も相加り、いかやうの大事に及可ㇾ申候所、早速、相鎭り[やぶちゃん注:「あひしづまり」。]、先は安堵仕候。

乍ㇾ去、世上の樣子承候處、甚、六箇敷樣子に座候。此末、いかやうの大事も可ㇾ有レ之候や、難ㇾ計奉ㇾ存候。

且、又、此節、米、直段[やぶちゃん注:「ねだん」。値段。]、古米にて六斗、新米にて六斗七升仕候。騷動前には古米にて八斗五升仕候。

騷動にて、所々の米藏等、燒拂申候ゆゑ、急に高直に罷成申候。

扨々、難澁の年にて御座候。右の荒增[やぶちゃん注:「あらまし」。大体の内容。]申上度[やぶちゃん注:「まうしあげたく」。]、如ㇾ此に御座候。」。

[やぶちゃん注:地名・人物は、今、疲弊しているので、全く注する気になれない。悪しからず。

「武州・上州の百姓騷動」上野・信濃国で起きた百姓一揆「天明上信騒動」。群馬県では「安中騒動」、長野県では「天明騒動」「天明佐久騒動」などと呼ぶ。天明三年の浅間山の噴火による被害と「天明の大飢饉」のダブルで、深刻な食糧不足が発生し、米屋の買占めによる、米不足及び米価高騰によって、まず、中山道の馬子・人夫・駕籠舁き等が中心になって米屋を襲撃する事態が発生し、これを引き金として勢多・群馬両郡下の百姓が主となって「打ち毀(こわ)し」が引き起こされ、それが安中藩領全域に広がり、さらに信濃方面へも押し寄せ、最終的には二千人ほどの規模となって、上田領に及んだが、武力により鎮圧された。]

譚海 卷之四 同時中山道安中驛領主再興の事

 

○信州[やぶちゃん注:「上州」の誤り。]安中驛泥土にうづみ破滅せしゆゑ、領主板倉伊勢守殿、重代の什器を沽却(こきやく)し、國中(くにうち)を再興せられぬ。その器あたひ二萬兩餘(あまり)也。その内に油屋片付(あぶらやかたつき)と云(いふ)茶入を、松平出羽守殿千五百兩にもとめられけり。此器は太闇秀吉公祕藏のものにて、東照宮へ贈り給ひしを、又板倉伊勢守殿先祖拜領ありし事にて、天下無双の名器といひ傳ふ。尾花といふ茶入も日本橋檜物町(ひものちやう)大橋忠七といふ町人六百兩にもとめたり。其外常住釜の本歌をば柳澤甲斐守殿百兩にてもとめられたり。そのよは伊勢守殿本家板倉氏へも求められたりとぞ。

[やぶちゃん注:前話との強い連関で立項されている。その「信州安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。」という部分を完全に受けているのであり、こうした構成は「譚海」の中では、思いの外、それほどには多くない。

「板倉伊勢守殿」当時の上野国安中藩主板倉勝嶢(かつとし/かつとき 享保一二(一七二七)年或いは翌年~寛政四(一七九二)年)。官位は従四位下・伊勢守・肥前守。板倉家第四代当主。初代藩主板倉勝清(当時は泉藩主)の長男として陸奥国泉にて生まれた。安永九(一七八〇)年、父の死去により、跡を継ぎ、天明三(一七八三)年九月に奏者番(大名・旗本と将軍との連絡役で、大目付・目付と並ぶ要職。譜代大名はここを振り出しにして寺社奉行を経て、若年寄・大坂城代・京都所司代或いは老中などの重職へと上った)となった。天明四(一七八四)年に長男が早世したため、弟勝意(かつおき)を世子として迎えている。

「沽却」売却。

「油屋片付」鶴田純久氏のサイト内の「油屋肩衝」(あぶらやかたつき)として現物画像と解説が載る。それによると、とんでもない名物である。私は興味がないので、抜粋して引用させて戴くと、古来より『大名物茶入中の首位として尊重されたもので、堺の町人油屋常言(浄言)』(孰れも「じょうごん」と読む)『およびその子常祐(浄祐)が所持していたのでこの名があります』。天正一五(一五八七)年の『北野大茶会の際、豊臣秀吉が常言に命じて献上させ、代わりに銭三百貫および北野茄子』(きたのなす:やはり茶入れの大名物の一つ)『を授けました』。『のちに福島正則が拝領し、さらにその子正利になって徳川幕府に献上しました』。寛永三(一六二六)年に『将軍秀忠はこれを土井利勝に与えましたが、土井家では財政困難のため』、『河村瑞軒に売り渡し、程なく』、『冬木喜平次に移りました』。『そして天明年間』(一七八一年~一七八九年)『に次第に家運の傾いてきた冬木家から』、『松平不昧の手に入りました』。『値一万両といわれたこの茶入も、飢饉で冬木家の家運が衰え』、『わずか一千五百両であったといわれます』。『不昧は天下の茶入を歴観して』、『ますますこの茶入の優秀さを知り』、『特に愛蔵しました』。『不昧所持品中』、『最高位の』『墨蹟』等『と共に一つの笈櫃中に納め』、『この笈櫃は現在もこの肩衝を納めて残っています』。『参勤交代の時は』、『士人がこれを担って不昧の前を行き、本陣到着後も』、『これが床に据えられない前には不昧もまた着座しなかった』といい、『家中の士もまた』、『これを見ることができず、家老ですら』、『一生に』、『ただ一度』、『拝覧の栄を得るだけであったといわれます』。『その秘蔵振りがこれでわかりましょう。かつて薩摩侯が』、『将軍がこれを所望したらどうするかと不昧に冗談でいいますと、将軍の命はもとより否むことができないが』、『隠岐一国ほどは貰いたいと答えたということであります』とある。また、ここに書かれた来歴を年表形式でさらに細かく書いた個人サイト「名刀幻想辞典」の「油屋肩衝」があり、そこで、ここでネックになる時制に持っていた冬木喜平次というのは『江戸の豪商』『上田宗五(冬木伯庵)のこと』とされ、『豪商冬木屋は上野出身の上田直次が興した材木問屋で、東京都江東区冬木の町名は、冬木屋三代目冬木屋弥平次が、一族の上田屋重兵衛とともに材木置場として幕府から買い取ったことに由来する』とある。しかし、冬木から買った人物は前と同じく「松平出羽守」不昧=出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年:従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人として知られ、その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる)としており、板倉勝嶢が冬木から買ったという事実はなく、ここに書かれた不昧が買った金額も「千五百兩」と同額であることから、この津村のこの茶入についての話だけは、ガセネタと考えた方がいいように思われる。

「尾花といふ茶入」不詳。

「日本橋檜物町」現在の八重洲一丁目及び日本橋二・三丁目附近の旧称で、花街としてしられた。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「大橋忠七」茶器サイトで掛かってくる。大名連中から茶道具を高価に買い求めていることが判る。

「常住釜」大徳寺常住釜と呼ばれる茶釜の名品群を言うらしい。グーグル画像検索「大徳寺常住釜」をリンクさせておく。

「本歌」「歌」? しかし、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見るに、確かに「哥」の崩し字であった。調べてみたところ、茶道の世界で、古くから名物とされている茶器や伝来の茶碗に於いては、必ず、基本の形があり、その見所(みどころ)の約束の基準のことを「本歌」(ほんか)と言うのだそうで、茶人はこの「本歌」という基準を以って道具の格付けをしてきたのだそうである。納得(福島美香氏の『茶道の「本歌と写し」とはなにか』という記事を参照した)。

「柳澤甲斐守殿」大和国郡山藩第三代藩主で郡山藩柳沢家第四代柳沢保光(宝暦三(一七五三)年~文化一四(一八一七)年)。かの柳沢吉保の曾孫。

「伊勢守殿本家板倉氏」板倉勝嶢は重形(しげかた)系板倉家で傍流。本家は重形の父板倉重宗及びその長子重郷に始まる板倉家宗家。ウィキの「板倉氏」の系図を参照されたい。]

畔田翠山「水族志」 ハカタヂヌ (キチヌ)

 

(一六)

ハカタヂヌ 一名アサギダヒ 黃翅

形狀チヌニ似テ短濶背淡靑色腹白色腹下翅黃色腰下鬣黃色大者

二尺續修臺灣府志曰黃翅狀如烏頰肉細而味淸以其翅黃故名下淡水

重サ一二斤ナル者

○やぶちゃんの書き下し文

はかたぢぬ 一名「あさぎだひ」。「黃翅」。

形狀、「ちぬ」に似て、短く、濶〔ひろ〕し。背、淡靑色。腹、白色。腹の下の翅〔ひれ〕、黃色。腰の下の鬣〔ひれ〕、黃色。大なる者、二尺。「續修臺彎府志」に曰はく、『黃翅は、狀〔かたち〕、烏頰〔すみやき〕のごとく、肉、細やかにして、味、淸し。其の翅の黃なる故を以つて名づく。下、淡水たり。重さ、一、二斤なる者、有り。

[やぶちゃん注:暫く放置していたので、底本の当該部を示す。ここ宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)ではここで、

タイ科ヘダイ亜科クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus

と同定しつつ、「方言」として、チヌ(紀州各地)・シラタイ(田辺・湯浅・白崎)と、『多く前種と混同してゐる』と注した上で、本「水族志」では「ハカタヂヌ」一名「アサギダヒ」とある、と記す。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「キチヌ」のページよれば、標準体長は四十五センチメートルになり、『クロダイなどと比べ、全身から見て頭部が小さい。目は小さくやや前方にある。腹鰭、尻鰭、尾鰭が黄色い』。『クロダイは茅渟の海(大阪湾)でたくさんとれたので、関西では「茅渟(ちぬ)」。そのクロダイに似て』、『鰭などが黄色いという意味』の和名であるが、『どこの呼び名かは不明』とある。『比較的暖かい内湾、汽水域に生息し、ときどき河川を遡上することもあり』、『「川鯛」とも呼ばれる』。分布は、『茨城県利根川河口、千葉県外房』、『東京湾江東区中央防波堤前』から『九州南岸の太平洋沿岸』、『京都府天橋立内海阿蘇海』、『兵庫県浜坂』から『九州南岸の日本海』及び『東シナ海沿岸、瀬戸内海、小笠原諸島』で、国外では、『朝鮮半島南岸・東岸、台湾、中国東シナ海・南シナ海、トンキン湾、フィリピン諸島北岸、オーストラリア北西岸・北岸、ペルシャ湾』から『インド沿岸』に分布する。「生態」は『最初は総てが雄』で、十五センチメートル『を超える頃に両性期となり、その後、雌になる』とあって、『産卵期は秋』とし、『クロダイよりも内湾、河口域を好む』とする。但し、一九八〇年代の『関東では珍しい魚だった。関東ではほとんど見られなかったといってもいい。これが今、流通や釣り人の間では』、『当たり前の魚になりつつある。ただし、今でも関東に少なく』、『西日本に多い。もともと関東での取扱量は少ない魚種であったが、最近』(二〇一一年現在)『入荷量が増えている』とある。『透明感のある白身でクセがなく、とても味のいい魚』であり、『市場ではクロダイに混ざってくることが多いのであるが、キチヌのほうが主役ということも多い』。『クロダイが寒い時期から初夏までの旬であるのに対して、一月ほど遅れて旬を迎える』。『東シナ海で大正時代には大量に漁獲されていた。急激に漁獲量は減り、現在に至っている』とする。『旬は春から夏』で、『春になると』徐々に『筋肉が締まり、脂がのってくる』。『鱗は硬くなく取りやすい。皮はしっかりしている』。『透明感のある白身』で、『活け締めの血合いは赤くきれいだが、野締めの血合いの色合いは濃く』、『食欲をそそらない』。『熱を通すと適度に締まり、粗などからいい』ダシが『でる。微かに川魚に似た臭みを感じることがある』と評しておられる。

「續修臺灣府志」清の余文儀の撰になる台湾地誌。一七七四年刊。この「臺灣府志」は一六八五から一七六四年まで、何度も再編集が加えられた地方誌である。その書誌データは維基文庫の「臺灣府志」に詳しい。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原本影印の当該箇所が視認出来る(右側の電子化は機械翻刻で話にならないので注意)。

「烏頰〔すみやき〕」畔田はこれに「くろだひ」という読みも与えているのだが、既注の通り、私にはスズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini を指すとしか思えない。畔田は真正の現在の「クロダイ」を想起して書いているとしても、そうした現代の種別として部分的にバイアスかけて読む必要があると考えている。

「下、淡水たり」体幹の下方は白っぽいの意であろう。

「一、二斤」六百グラム~一・二キロゴラム。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (17) 古今奇談英草子

 

[やぶちゃん注:標題が「紙」でなく、「子」となっているのはママ。]

 

     古今奇談英草子

 

 英草紙《はなぶさざうし》は前に述べた如く、雨月物語と共に江戶時代怪異小說の双璧である。作者近路行者《きんろぎやうじや》は本名を都賀庭鐘《つがていしよう》といつて大阪の醫者である。水滸傳最初の譯者たる岡島冠山、小說精言、奇言等の著者たる岡白駒《をかはつく》と共に、同時代の支那小說紹介の三大功勞者と稱せられて居る。彼は英草紙の外に、「古今奇談繁野話《しべしげやわ》」と稱する怪異小說を書いているが、讀本としては前者の方が面白いやうである。

 英草紙は五卷九話から成つて居て、各々の物語がその長さに於ても、御伽婢子などより遙かにまさつて居るから頗る讀みごたへがある。歷史を取り扱つたものと世事を取り扱つたものとの二種類にわかれて居るが、いづれも比較的現實味に富んで居るから、これを怪異小說の中へ數えぬ人さへある。ことに歷史物は世事を取り扱つたものよりも現實味に富んでいて、怪異分子に乏しいから、私は世事を取り扱つたものの中から、その一つを選んで述べて見ようと思ふ。

 英草紙の文章は支那小說の影響を受けて居るだけに、漢文口調であつて、多少ごつごつしたところがある。以下私は、『白水翁が賣卜《まいぼく》直言《ちよくげん》奇を示す話』の一篇によつて、その文章と構想とに就て述ベて見よう。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの寛延二(一七四九)年初版で、ここから読める。読みはそれ及び所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に載るものを参照した(後者をも使用したのは、初版と表記が異なる箇所があったり、初版に歴史的仮名遣の誤りがあるためである)。不木の引用に句読点があったりなかったりするのはママである。

 以下、底本では最後の不木の言い添えまで、ずっと全体が一字下げ。]

『文明の頃、泉州堺に白水翁といへるものあり。よく人の禍福吉凶を決し、成敗興衰を指すこと差《たが》はず、常に大鳥《おほとり》の社《やしろ》の邊《ほとり》に行きてトを賣る。一日《あるひ》一人の士《さむらひ》こゝに來りて其卦《くわ》を問ふ。白水翁其年月日時《じつじ》を聞いて、卦を舖下《しきくだ》し、考を施して言ふ。『此卦占ひがたし、早く歸られよ』といふ。此士心得ぬ體にて、『我《わが》卦何のゆゑに占ひがたき。察するに、卦のいづる所よろしからず、あらはにしめしがたきことあるか。いむことなく示されよ』といふ。翁もとより言葉を飾らず『拙道《せつだう》が卦による時は、貴君まさに死し給ふべし』此士いふ『人死せざる道理なし。我《われ》幾年の後か死すべき。』翁云ふ『今年死し給はん。』『今年の中、幾の月に死すべき』『今年今月に死にたまふべし』『今月幾日に死するや。』『今年今月今日死にたまふべし。』此人心中怒《いかり》を帶びて再び問ふ『時刻は幾時《いくとき》ぞ』『今夜三更子の時死に給はん。』此人おぼえず言葉を勵《はげし》くしていふ『今夜眞《しん》に死せば萬事皆休す。若し死せずんば明日爾をゆるさじ。』翁いふ『貴君明日《みやうにち》恙なくば、來つて翁が頭《くび》とり給へ。』此人彼が詞の强きを聞いていよいよいかり、翁を床《ゆか》より引きおろし、拳《こぶし》をあげて打たんとす。近邊のものはしり集りてなだめ、此士をこしらへかへし[やぶちゃん注:宥めとりなして落ち着かせ。]、翁にむかひ『爾《なんぢ》しらずや、彼人は此所に執りはやす侍なり彼人の氣色《きしよく》を損じては、爰にあつて卦店《くわてん/うらなひみせ[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。]》をひらき難からん。かへすぐも、爾應變《おうへん》なき人かな、人の貧富壽夭《ひんぷじゆえう/ながいきわかじに》は數《すう》の定《さだま》る所ならんに、卦には如何に出づるともすこしは詞をひかへてこそよからん』といふ。翁一口《いつこう》の氣を歎じて言ふ。『人の心に應ぜんとすれば卦の言《こと》にそむく。卦の實《じつ》を告ぐれば人の怒をおこす。此所にとゞまらずとも己自《おのづから》留《とどま》る所あらん」と、卦舖《くわてん/うらなひみせ》を拾收《とりをさ》めて別所に去りゆきぬ』

といつたような文章であつて、その會話など、近代文學的色彩が頗る濃厚に出て居る。

『さて、この白水翁に卜つてもらつた侍は、當所郡代の別官をつとめて居る茅沼官平というものであつたが、白水翁の言葉がひどく癪にさはつたので、ぷんぷんして家に歸ると女房の小瀨《こせ》は心配して、何か上役の御機嫌でも惡かつたのですかとたずねた。そこで彼が白水翁の話をすると、小瀨は眉をひそめて、『そんないい加減なことを言ふものを、何故追つ拂ひになりませんでしたか」といつた。

『隨分腹は立つたが、人がとめたからゆるしてやつたよ。今日死ななかつたら、明日は彼をたずねていたしめてやろう[やぶちゃん注:「痛いしめてやらう」(痛い目にあわせてやる!)であろう。]。』

『ほんとにさうなさいまし、そんなにぴんぴんしていらつしやるのに、今夜死ぬなどとよくも言へたものです。もうもうそんなけがらはしい言葉は、酒を飮んでお忘れなさいませ。』

 官平は女房のすゝめた晚酌に醉つて、まだ日も暮れきらぬにその場で假寢した。小瀨は女中の安《やす》を呼んで二人で官平を運んで、正しく寢させ、それから女中に、易者の話をして、今夜は針仕事しながら寢ずの番をしようと云ひ出した。さて段々夜が更けて行くと、安がくらりくらりと眠り出したので、小瀨は搖り起しては夜の更けるのを待つと、やがて三更[やぶちゃん注:午前零時頃。]の太皷がなつたので、『もう三更が過ぎたから大丈夫、さあ二人がもた人がもたれ合つて寢よう。』と告げた。

 するとその時、奧の間から、官平が白裝束で寢間から飛び出して來て、あつといふまに、戶外へ走り出して行つた。すはとばかり、小瀨は安と共に手燭をともして良人の跡を追ひかけたが、女の足では追ひつくことが出來ず、あれよあれよという間に官平は、ある大川の橋の上まで走つて、まんなかどころから、どぶんと飛び込んでしまつた。

 二人の女は橋の上で、泣き悲しみ乍ら、聲をかけたが、丁度水の多い時分だつたので忽ち良人の姿は見えなくなつてしまつた。かれこれするうち近邊の人たちは物音を聞いて駈け集つて來たが、最早如何ともすることが出來ず、小瀨をなだめて家に送りかへし、白水翁の言葉のあたつたことに皆々舌を捲いた。

 あくる日近邊のものは死骸をさがしに行つたけれども海へ流されたと見えて行方が知れず、官平は狂氣して死んだと取沙汰されて事件は落着した。小瀨は安と共に亡夫の位牌を設けて追善に日を送つたが、百ケ日も過ぎると、小瀨の親里から再緣のことをすゝめて來た。小瀨はどうしてもそれを受けなかつたが、あまりに勸められるので、『この家へ養子を迎へるならば兎に角、他家へ嫁《よめい》ることは、どうしても厭だ』と、その心底を打明けた。そこで父親も尤もに思つて、然るべき養子を物色すると、丁度同じ國守の郡役を承る岸某の弟に權藤太《ごんとうだ》といふのがあつて、官平夫婦をまんざら知らぬ間でもなかつたから、話をすゝめて見ると双方乘氣になり、こゝに緣談は首尾よくまとまつて、權藤太は名を官平と改めて、茅沼の家を相續したが、夫婦の間は至つて圓滿であつた。

 或る夜夫婦は寢酒を飮まうと思つて、女中の安に酒の𤏐を命じた。安は眠たい眼をこすり乍ら、竃のそばへ寄ると驚いたことにその竃がぐらぐらと搖れて、一尺ほども地を離れた。見ると竃の下には人間らしいものがいて、髮を亂し、舌を吐き、眼に血の淚をうかべて、『安、安』と呼んだ。安はびつくりして悲鳴をあげて氣絕したので、夫婦が水をそゝいで甦らせて事情をたずねると、安は『前の且那樣が竃の下から御呼びになつた』と答へた。これをきいた小瀨は大に怒つて『厭々酒を溫めるものだから、そういう恐ろしい目にあふのだ。』とたしなめ、ぶつぶつ言つて二人は寢室へかへつた。

 そのことがあつてから、小瀨は安をきらい、どこかへ嫁らせようと思つて居ると、幸ひに同じ郡に段介《だんすけ》といふ商人があつたので其處へ仲人して安をかたづけてやつた。ところがこの段介という男は非常な酒好きで博奕を好み、いつも安を官平の家に遣して金を借りさせたが、ある夜、また酒に醉つて、今からすぐ金を借りて來いと言ひ出した。で安は厭々ながら官平の家の門まで來ると、ふと上の方から『お前に金をやらう』といふものがあつた。見ると、屋根の上に一人の男が立つて居て、

『俺は死んだ官平だ。この袋の中に金があるからつかふがよい。それから、この紙に俺の末期の一句が書いてある。』

 といいながら、その袋を投げて、何處ともなく消え去つた。安は恐ろしい思ひをしながらも、取り上げて見ると、先の主人の火打袋であつたので、家に歸つて事の次第を告げたが、段介はその金を消費したので、人には語らずそのまゝ日を送つた。

 話變つて、ある夜、國守は、夢に髮をのばした男が、頭に井戶をいたゞき、眼中血の淚をながして一枚の願狀を奉つたのを見た。その文に、

   要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水

とあつたことを覺めて後も覺えて居たのでそれを紙に書いて市門《しもん》に掛け、懸賞で、この意味を說くものを募集した。これを見た段介は、先夜火打袋にあつた一句がこれと全く同じだつたので、早速訴え出ると、國守はその書附を出させて御覽になつた。ところがその書附は白紙になつて居たので段介は大に恐縮して、事の次第を逐一申述べた。

 國守はそれから安を呼んで一切の事情をきゝとり、官平の家へ數人の人夫を遣して竃を毀《こわ》させると、下には一個の石があり、更にその石を取りのけると井戶があらはれたので、中を探ると官平の絞殺死體が出て來た。そこで國守は官平夫婦を詰問し、その結果夫婦は包み切れずして白狀した。それによると、二人は先の官平の生きて居る頃、不義をして居たが、ある日官平が八卦を見て貰つて歸り、易者の言葉を告げたので、その家にかくれていた權藤太は三更の頃、醉ひふした官平を絞殺して井戶の中へかくし、それから、髮をふりみだし、官平のやうに裝つて、橋まで走り行き、大石を投げて、身を投げたように見せかけ、それから小瀨と計つて、井戶の上に竃をうつし、次で首尾よく養子をして不義の目的を達したのである。』

[やぶちゃん注:「要ㇾ知三更事  可ㇾ開火下水」「三更の事を知らんと要(えう)せば 火下(くわか)の水を開くべし」である。]

 これがこの物語の梗槪であつて、可なりに超自然的な分子が濃厚であるけれども、探偵小說としては上乘のものである。易者の言を巧みに應用して、人々の眼をくらますやうな狂言を書いたところは頗る面白い。現代の探偵小說家ならば後半の超自然的分子を科學的にして相當な探偵小說を作るであろう。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 上野國山田郡吉澤村堀地所見石棺圖 石棺圖別錄

 

[やぶちゃん注:同じ対象物を、まず、輪池が発表、それと同じものを文宝堂が発表しているらしく、ここは並べて電子化した。図は孰れも底本のものをトリミング補正した。キャプションは、石棺の蓋上面に、

「天平三

  己亥

  三月」

と彫られた文字が記されてある。干支が合わないのは、本文で指摘されてある通りで、天平三年は辛未でユリウス暦七三一年、天平宝字三年ならば己亥で七五九年である(但し、字が新しいから、別な意見も本文で示されているが、それだと、誤字だらけでちょっと鼻白む。干支を誤るのは、捏造の場合、初歩的な話にならない誤りだからである)。石棺左下に、台に彫られた文字であろう、

「藏尊人民

 依𠋣意忘

 耕故埋」

とある。埋めた理由を彫ったものらしい。やはり、本文の別判読で、「藏尊人民依歸忘耕故埋」で、「藏尊、人民、依歸(歸依)を忘れ、耕す。故に埋づめり。」か。]

 

Sekikan1

 

   ○上野國山田郡吉澤村堀地所見石棺圖

[やぶちゃん注:以下のデータ指示の「分り兼。」までは、底本では全体が一字下げ。]

唐金不動尊  たけ壱寸五分、臺座より火煙先まで貳寸四分。右一體、錆之中程、金箔の光相見、臺に書物切付有之[やぶちゃん注:「物にて切り付けて書きたる、之れ、有り」と訓じておく。]。但、小像故、不動、不分明。

赤がねの輪一 差渡し壱寸壱分、太さ一寸𢌞り。

       右は、錆懸り、貳分四方程、金、きせ、有之。

脇差身計   長、壱尺弐寸弐分。無銘。錆厚く、しのぎ、分り兼。

[やぶちゃん注:「計」は副詞「ばかり」。鞘がないこと。]

御領分上州山田郡吉澤村[やぶちゃん注:現在の群馬県太田市吉沢町(グーグル・マップ・データ、以下同じ)。]、學音寺[やぶちゃん注:現在の吉沢町直近の太田市丸山町のここに現存する。]住地、「百庚申塚」[やぶちゃん注:「百」は単に多いことを指すものであろう。後の文宝堂の表現に『數十五ケ所の塚』とあるからである。]有之、百姓菊太郞、「心願有之、石集拵度」由にて、當三月七日、庚申塚へおり、石集候處、庚申塚東の方、少々の崕(キリギシ)有之、場所、石、數多く相見候間、掘出候處、四尺計、掘候へば、左右、大石にて積立候石棺體之物出、其中より右之品、出申候。

これ、村役人より領主への屆出なり。五月末の事なりとぞ。

 行智曰、『倚依は歸依なり【「集韻」、『「倚」、同「奇」。】。上州人は「エ」を「イ」といふ。江澤を「イサハ」、蝦を「イビ」といふ類なり。』。

輪池曰、『天平三は辛未なり。天平寶字三は己亥なり。予、その搨本[やぶちゃん注:「すりほん」。音なら「トウホン」。拓本。]を見しに、筆力・書式ともに、その時代のものとは見えず。疑ふべきなり。』。行智曰、『天正三乙亥[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年。]なれば、天平は天正の誤寫、己亥は乙亥の誤字なるベし。』。輪池曰、『搨本につきて見るに、誤字にはあらず。』。

 乙酉六月        輪 池 再 記

  これは乙酉六月の兎園會の附錄なりとぞ。

[やぶちゃん注:「乙酉六月の兎園會の附錄」第六集の最後に輪池屋代弘賢が発表しているが、内容は無関係である。その時に附録として紹介したものを後掲したということらしいが、同日の兎園会では、冒頭で馬琴が「土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音」を発表しているおり、これは埋没した石棺や観音という仏教関連物の発掘という関係性で、多少の親和性が認められ、それを受けて臨時に輪池が会では附言したという感じがしないでもない。]

 

   ○石棺圖別錄

[やぶちゃん注:図は輪池よりも遙かに細かい。キャプションは、右上に、

不動尊一躰。長三寸位。

錆脇差一本。身斗リ。

   金、キセ、

   所々、ハゲテアリ。

マガタマ。一寸四方位。

とあり、上の切れた輪状のものが描かれている。これを勾玉と言っているようである。その左に、損壊した蓋の一部を、ひっくり返した状態で描き、

蓋、欠テ有。

とし、そこには、

「埋此尊依命」

という文字が彫られているようである。これは、「此の尊、命(めい)により、埋づむ。」となるか。その石棺の蓋の欠損部上面に、

アツミ、七寸位。

とキャプションがあり、蓋の長辺の斜めになった箇所に、

蓋、髙サ一寸七尺余。但シ、一枚石也。

と記す。手前の短辺の斜めになった箇所に、輪池の示した、

「尊像人民

 依𠋣意忘

 耕故埋

  □」

が彫られている。最後の「□」は、一番、左の棺の外に、縦に、

此所、華押体(てい)ノモノ、見ユル

とあるのが、それらしい。蓋の上面には、輪池に示した、

「天平三

   亥三月」

の彫られた文字がある。石棺長辺下部に、

長七尺余

とし、短篇の下部に

横四尺位

とする。特異点は輪池の図にはなかった溝状のもの(実は石の接合部の隙間)が短辺の手前に左に縦にあり、その溝の下に、

合セ目、一寸位。ハナレ有。

とキャプションする。]

 

Sekikan2

 

右文政八乙酉年春三月、黑田三五郞樣領分上州山田郡吉澤村の内に、數十五ケ所の塚あり。其内、親塚、字は「七日市」[やぶちゃん注:不詳。]と申處を掘候ヘば、圖の如き、石棺、出づ。同月中旬、領主へ訴出候。

三月十九日に、相越、一見いたし候處、石棺、圖の如く、ミカゲ石のやうにて、内の方は至りてカタク、外は水氣を持ち、ボロゴロ致すやうなり。「天平三」の下に、何か文字體のもの見え候。「己亥」の中にも、おなじく、あやあり。隨分、古く相見え申候。塚の大さ、敷[やぶちゃん注:延べ面積の意か。]、凡、十間四方位、高、一丈三、四尺も有るべし。

不動尊、赤銅にて鑄ものと見え候。所々、すりはがし申候。

「マガタマ」、金キセ、殘り見え申候。右二品は、隨分、古く相見え申候。

脇差は、信用しがたし。

[やぶちゃん注:以下は全体が底本では一字下げ。]

右一條は、上州なる從弟の方より、認め來りしまゝを、しるし出だす。輪池翁のしるし給へるに、あはせ見給へかし。

  乙酉初秋初五、蚊にさゝれ、さゝれ、燈下にしるす。 文 寶 堂

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 野狐魅人

 

[やぶちゃん注:だらだら長いので、段落を成形する。標題は「野狐、人を魅(だま)す」と訓じておく。]

   ○野狐魅人

 和泉國日根郡佐野村といふ處に【世にしられたる食野佐太郞といふもの、この村に住す。岸和田にて食野を佐野と稱す。】、浦太夫とて、義太夫節の淨瑠璃をよくせる者有り。五畿内にて、十人のかたりての一なり。常に、此佐野村より、大坂の座へ、かよひて、業とせしが【佐野村は、岸和田城をさる事、五十丁道弐里とぞ。大坂をさる事、おなじ。道法九里許。】、一日、浪華よりの歸途、夜に入りて、同國泉郡布野といふ所を通りしに【布野は浪花より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺の有るところなり。三昧といふは、※1※2所をいふ。高石は「古たかし」といふ。卽、「高しの濱」なり[やぶちゃん注:「※1」=(上)「𠆢」+(下)「番」。「※2」=「土」+「毘」。通常「三昧」とは墓地の意である。この熟語もその意であろう。]。】、ふと、人と道づれに成りしに、一人のいふ、

「先刻より、說話[やぶちゃん注:「とくはなし」。]を承るに、音に聞きし浦太夫丈のよし。自分は、この布野の下在[やぶちゃん注:「したざい」。]なる【此邊にては、山の在方を「上(ウヘ)」と云ひ、濱の方を「下(シタ)」といふ。】其の村の者なるが、此所にて行き逢ひしは幸のことなり。何卒、今より我方に來りて、一曲を、かたり聞かせ給はるべし。」

といふ。浦太夫、何ごゝろなく、うけあひて、其家に伴ひ行きしに、大なる農家にて、座しきへ通し、休足させ置き、その内に、大勢、あたりの者、寄り來りて、座に滿つ。

 主人、盛に杯盤を持ちて、酒肴を勸む。

 浦太夫、いへるは、

「あまりに多く飮食をなせば、飽滿して淨瑠璃をかたるに迷惑なり。先、語りて、後に給はらん。」

とて、一、二段かたりければ、座中、

「ひつそり」

として、感に堪へし有りさまなり。

 又、暫く飮食して、大に興に入りしに、座客、又、かたらん事を望む。則、其乞に任せて數段を語りしが、席上、實に感服せしにや、息もせず、ひつそりとせしに、心をつけて見過せば[やぶちゃん注:「見𢌞せば」の誤りではないか。]、人、ひとりも、居ず。

 眸を定めて、四方を見るに、夜、少しゝらみて、東の方、明けかゝるに、今迄、

『座敷なり。』

と、おもひし所は、あらぬ布野の三昧なりければ、仰天して、歸らんとせしに、夜は、ほのぼのと明けはなれたり。草ばうばうたる墓所なりけるに、

「ぞつ。」

として、早々、家に歸り、

『狐に魅されし。』

と心付に、

『夢のごとくに飮食せしものは、さだめて、世にいふ、馬勃牛溲にこそ。』

と、おもはれて、何となく、むねあしく、心も心ならず、恍惚として、たゞしからず。

 數日、わづらひて、打ち臥したり。

 其頃、和泉國中にて、

「佐野の浦太夫は、狐に化されしか。狐に淨瑠璃を望まれしか。」

と、一國の評判となる折しも、或人のいひけるは、

「其夜、浦太夫に饗せしものは、あらぬ不潔の物には、あらず。その夜、近村に婚姻の禮有りしに、其用意の酒肴・膳部、のこらず、うせて、あとかた、なし。さだめて、狐狸などの所爲ならん。」

とて、其家には、別に飮食を、とゝのへし、と聞く。

 されば、

「布野の三昧に、魚骨・杯盤、引散らして、さながら、人の飮食せし如く、狼藉たりし。」

とぞ。

 これをきけば、

「浦太夫が食せしは、實の食品にて、野狐、其藝を感じ、酒食をもてなし、淨瑠璃を聞きしならん。」

との取り沙汰にて、浦太夫、追日、平癒せしが、其後は太夫をやめ、外のなりはひして世を送り、程へては、折にふれて、人の望に應じて、かたりしこともあれど、たえて、業とはせざりし。

 實に安永[やぶちゃん注:一七七二年~一七八一年。]年中の事なりとぞ【岸和田藩中茂大夫談。同藩三宅定昭が筆記。】。

[やぶちゃん注:「和泉國日根郡佐野村」大阪府泉佐野市のこの附近の広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。

「食野佐太郞」江戸中期から幕末にかけて、この和泉国佐野村を拠点として栄えた豪商の一族である食野(めしの)家。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。私の「譚海 卷之一  泉州めしからね居宅の事」や、『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』の私の「平賀鳩溪實記」の注も参照されたい。

「岸和田」大阪府岸和田市

「食野を佐野と稱す」人物を地名に変えるのはよくあること。

「浦太夫」不詳。

「佐野村は、岸和田城をさる事、五十丁道弐里」佐野は岸和田城からは道実測で約六キロメートル南西。「五十丁道弐里」というのは、一里を五十町五千四百五十四・五メートルとするものか。としてもちょっと長過ぎる気がするが。

「大坂をさる事、おなじ。道法九里許」同じく道実測で三十五キロメートルほどである。前の換算では、やはり長過ぎる。よく判らぬ。

「泉郡布野」「布野は浪花より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺の有るところなり」大阪府高石市であるが、「布野」は不明。読みも判らない。

「馬勃牛溲」(ばぼつぎうし)の後者は「牛の小便」。「馬勃」の男根か。しかし、「溲」に対応し、狐狸に化かされる一般から言えば、「馬糞」の誤りのように思われる。

「茂大夫」不詳。

「三宅定昭」不詳。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 自然齋和歌

 

   ○自然齋和歌        輪 池

いせのくにあのゝ津にすめる川喜田氏、やまと歌に心をよせ、家業を舍弟と子と從者とにまかせ、壯年にて薙髮し、自然齋と號し、京に出でゝ、洛外、千世の古道にかくれ住みけるが、ある時、

心の花をしをりにて夢にわけ入るみよしのゝ山

といふことの、ふと心にうかびつゝ、初五文字を、數百日、按じけれども、終にうちつかざりければ、武者小路家【實陰卿。】に參りて、「かゝることこそ侍れば、しろおほき事に侍れども、この五文字つけさせ給はんことを、こひ奉る。」と申しければ、受けひかせ給ひぬ。日頃へて、うかゞひければ、「さまざま、おきかへぬれど、心にかなはず。よりて法皇に【靈元院。】うかゞひ奉りぬれば、數日、考へさせ給ひぬれど、おぼしめしにかなはせられず。「かやうのことは、北野が得手なり。」と仰せ有りしなり。「はやく祈り申すべし。」と仰せ含めらるゝにより、「いと、かしこきこと。」ゝて、その席より、すぐに參籠して、七日、こもりて、丹誠をこらし、いのるといへども、滿ずる朝まで、何の託宣もなし。「こは。いかにせん。」と、なげきながら還向して、七本松の邊まで歸りける折から、七十ばかりの齡とみゆる社人三人、朝きよめして有りながら、「この頃のことは、おもひねになりし。」と物がたりし故、「思ひ寢の」と初五文字をおきて、吟じ見しければ、よく相叶ひたり。よりて、「まさしく天滿宮の御告なり。」と思ひとりつゝ、いそぎ、神前に參り、ぬかづきてかへり申し、たゞちに武者小路家に參り、事のよし、申しゝかば、御感有りて、やがて、院、參せさせ給ひつゝ御手奏せさせ給ひければ、叡感のあまり、御製を下し給はりぬ。

賤のをの心をよするいせの海のもくずの中に玉の有りとは

この御製、傳聞・寫の誤も有りや、うたがはし。自然齋其無法師者。勢州阿濃郡。津城下。俗姓菅原。世々豪族。□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]壯年厭塵紛。脫家累。晦跡京洛。志好和歌。後卜地西山法輪寺疆内居之。寶曆五年乙亥初冬。持齋不起。終及十一月廿七日泰然而逝。享齡七十一。孝子潭空著存不忘平心。建碑舊廬之傍。敍銘靈龜山天龍資聖禪寺賜紫沙門堅翠巖撰。銘曰、

 生ㇾ勢長ㇾ京 賦性溫柔 菅原之裔 似統箕裘 厥行不玷 厥言寡ㇾ尤 壓塵界艱

 遁跡緇流 寓情和歌 讀書優游 水兮滔々 雲兮悠々

  銘  權中納言菅爲成卿

  篆  從三位淸原宜條卿

   權中納言兼左衞門督藤原隆前書

[やぶちゃん注:私は短歌嫌いで、興味が全くないので、短歌も調べないし(さしていい歌とも感じない)、漢文の「銘」の一部も意味が判らないし、漢文の銘に出る人物らにも興味がないので注しない。このところ、よんどころない多事の起こり、私個人としては予期せぬ時間的拘束が波状的に続いており、疲弊している。これは十一月半ばまで続く。向後も、注が不全なものが多く出るかも知れぬが、そういうわけで、悪しからず。

「自然齋」「川喜田」は川喜田光盛(かわきたみつもり)で国学者らしい。こちらの「国学関連人物データベース一覧表(50音順)」PDF)に拠る。生没年は後掲する。

「武者小路家【實陰卿。】」江戸時代前期から中期にかけての公卿・歌人で武者小路家二代当主であった武小路実陰(寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)。官位は従一位・准大臣。和歌の師である霊元上皇から古今伝授を受け、また、三条西実教にも師事した。清水谷実業、中院通躬らとともに霊元院歌壇に於ける代表的な歌人(当該ウィキによ拠る)。

「霊元上皇」(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年)は天皇在位は寛文三(一六六三)年~貞享四年三月二十一日までで、以後、上皇であったが、正徳三(一七一三)年八月に落飾して法皇となっている(法名は素浄)。参照した当該ウィキによれば、『これ以降、天皇が法皇になった例は無く、最後の法皇となった』元天皇ということになるそうである。彼は『兄後西天皇より』、『古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である』「新類題和歌集」の『編纂を臣下に命じた』とある。能書家としても知られた。

「北野」北野天満宮。菅原道真を祭り、

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花

       主なしとて春を忘るな

で知られ、和歌と縁が深い。

「七本松」現在の七本松通(しち(ひち)ほんまつどおり)。京都市の南北の通りの一つ。平安京の皇嘉門大路(「平安条坊図」。中央よりやや東)にあたる。

『七十ばかりの齡とみゆる社人三人、朝きよめして有りながら、「この頃のことは、おもひねになりし。」と物がたりし故』北野天神参籠もだめだったので、窮して、古典的な呪術である「辻占」を行ったのである。ただ、それを彼は天神の御教示ととっている。

「西山法輪寺」嵐山のそれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「疆」「境」に同じであるから、広義の寺の境内地内という意か。

「寶曆五年乙亥」一七五五年。

「享齡七十一」逆算すると、貞享二(一六八五)年生まれとなる。

「孝子潭空著存」意味不明。

「靈龜山天龍資聖禪寺」京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山天龍寺の正式寺名。]

2021/09/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 養和帝遺事附雨蛤竹筒

 

[やぶちゃん注:改行はあるが、ガタガタしているので、段落を成形した。話柄が変わる箇所に「*」と、改めて標題も配した。因みに「雨蛤」はこれで「あまがへる」と読む。]

 

   ○養和帝遺事雨蛤竹筒

 文治元年[やぶちゃん注:一一八五年。]、源義経、平宗の一族を壇浦に鏖[やぶちゃん注:「みなごろし」。]にせし時[やぶちゃん注:旧暦三月二十四日。ユリウス暦四月二十五日。グレゴリオ暦換算五月二日。]、安德天皇は二位殿の懷き奉り、神璽・寶劍を身にしたがへ、海底に沈みましましけるよし、史にも記し、人口にも云ひ傳ふれど、或は、阿波に逃れましくけるとも、又は、日向にかくれ住み給ふなど、異說まちまちにて、いづれを是とも定めがたし。

 しかるに、肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり。開山を神子和尙といふ。これ、則、安德天皇にて、わたらせ給ふ、となり。寺傳に云、

「昔、安德天皇、西海にて戰ひ敗れしとき、事を入水に托し、二位尼、及、郞等、五、六輩ともに、此川上に逃れ來り、かくれ住み給へるか。

[やぶちゃん注:『肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり』現在の佐賀県佐賀市大和町大字川上に臨済宗水上山輿聖万寿寺(すいじょうさんこうせいまんじゅじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)として現存する。サイト「さがの歴史・文化お宝帳」の同寺の記載他(後掲する)よれば、仁治元(一二四〇)年、神子和尚(しんしおしょう)が開山した寺で、本尊も神子和尚作と伝えられる不動明王とあり、さらに、『「鎮西要略」並びに「開山行業記」の中に『大治五年』(一一三〇年)に『水上山に善住という異僧がいた。天台宗の僧で、ここで不動の法を修すること多年、天がその仏心に感応して』、『その年の五月二十八日丑の刻(午前二時)に宝剱を下された。天皇のお言葉によって一旦』、『宮中に収められたが、瑞相がしばしば起るので』、『再び水上山に返された』とある。この宝剱といわれるものは』、『現在』、『寺宝として保管されている』とあるのだが、神子和尚=安徳天皇という記事は、ない。しかし、検索してみると、「安徳天皇生存説」の一つとして伝承が存在し、複数の書き込みでそれを確認出来る。ウィキの「安徳天皇」の「伝説」にも、『肥前国山田郷にて出家し』、四十三『歳で死去したとする説』が挙げられ、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』とある。他に、神子和尚は「鹿ケ谷の謀議」で鬼界島に流され赦免された平康頼(久安二(一一四六)年?~承久二(一二二〇)年)と筑後国の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれたとする別伝承もある。実は、いろいろなフレーズ検索をする内、自分のブログが引っ掛かってきた。既に「譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事」で注していたのを忘れていたのであった。さらに調べたところ、「佐賀市」公式サイト内には、驚くべきことに「旧市町村史(誌)」群の多くを全冊PDF化して公開してあり、これを調べたところ、「大和町史」(全一巻・昭和五〇(一九七五)年発行)の「【中世】概観(PDF:312.0KB)」8コマ目末の「⑵ 郷土の神社」の冒頭に「① 水上山万寿寺(お不動さん)」の項で公的な第一次資料が確認出来た。而して、結論を言うと、神子和尚を平康頼の子とする記載は同万寿寺に保存されている「神子禪師年譜」(現物画像有り。書成立や書誌は後の方の引用の最後を参照)は現存している。そのちゃんとした現代語訳がそこに載るので、引用する。

   《引用開始》

 万寿寺の開山神子和尚については二説がある。万寿寺に保存されている「神子禅師年譜」には、

『神子和尚は名を「口光」といい又「栄尊」と呼んだ。平氏の判官康頼の子である。父が硫黄島(いおうじま)に流された時、わけあって筑後国(福岡県)三瀦庄(みずまのしょう)に数年間往んでいた。そこの住人藤原種継に一人の娘がいた。嫁に行く気持は全く無く、ただひたすらに仏法を修めていた。この地に誰が建てたかわからないが、「不空羂索大士(ふくうけんじゃくたいし)」を本尊にした大きな寺があった。彼女はこの寺にはだしで千日参りの祈願を立て、ある日たまたま康頼に出合った。ある晩のこと、朝日を呑んだ夢を見て懐妊した。まだ子供が生まれぬうちに硫黄島に行ってから、やがて産気付いて三十八日目に出産したが、母子共に健全であった。時に建久六年(一一九五)六月二十六日である。しかし祖父はこの子を野原に捨てさせた。永勝寺の住職元琳(げんりん)法師は夢に、野原の草の間に法華経を唱える妙音を聞いた。和尚は翌朝人をやって探させたところ、お経を読んでいる人はいなかったが、ただ赤ん坊が捨てられて泣いていたという報告を受けた。そこで和尚自ら行ってみると赤ん坊の口から光明がさん然と輝いている。やがて生みの母を探して「この子は凡人ではない。必ずや仏種を起すであろう。大事に育てよ」といって、この子に「口光」と名付け母も歓喜して育てた。承元元年(一二〇七)十三才の時髪をおろし、天台の教えを受け、喜禎元年(一二三五)四十一才の時、商船に乗り平戸から十昼夜の後宋に渡った。この地で三年間修業し、歴仁元年(一二三八)日本へ帰り、二年の後肥前河上宮に参り、ついで一沙門(しゃもん)の勧めによって水上山に末て禅寺を建てた。時に仁治元年(一二四〇)、師の年四十六才であった。』

 と記されている。

   《引用終了》

ところが、それに直ちに続けて、全く別の驚くべき神子和尚安徳帝御落胤説が示されるのである。

   《引用開始》

 鳥栖市下野立石清治氏所蔵の記録によれば、

 文治元年(一一八五)四月旭(あさひ)村千年(ちとせ)川(千歳川)畔の立石儀右衛門宅を訪れる一隊があった。それは屋島・壇の浦の戦に敗れた安徳帝以下二位尼、平宗盛、平知時ら数名の一団であった。彼らが儀右衛門に語ることには、』『「去る彼らが儀右衛門

に語ることには、

 『去る二月十九日屋島の合戦で敗退した平氏の本隊は小倉に上陸、その中七十名ほどで安徳帝を奉じ太宰府に行った。その時、御幼帝はにわかに発病され、御看病申し上げるうち早や三月になった。ある日源義経より宗盛へ次のような親書が届いた。

『来る三月二十四日、壇の浦にて最後の決戦を開く事と相成り候。ついては御幼帝の御上を案じ申し上げ候。身替りを立て御無事御遠路にお立ち退(の)き下さるよう願わしゅう存じ候。』

 この時、二位尼の忠臣である古賀春時の妻初音(はつね)とその子喜太夫の申出により、二位尼と帝の御身替りになって、建礼門院以下平氏の兵らと共に出陣した。壇の浦に到着するより早く海戦となったが、たちまち平氏の敗戦となって、初音、喜太夫は海に沈んだ。建礼門院は捕われ京都へ送られた。一方、太宰府では安徳帝の御病もよくなったので、宗盛、二位尼、伊勢女らの一行は筑後浮羽(うきは)のあたりに逃れ、宗盛は自領である田代(鳥栖市)に行き、恩顧の士を集め主上をお迎え申し上げた。

 当時、筑後国藤吉に平家の臣で藤吉種継という富豪がいて、小笹(こざさ)山(久留米篠山(ささやま))に行在所(あんざいしょ)(仮り御所)を造り、奉迎申し上げたが、源氏の兵の襲撃を受けたので、幼帝、宗盛の一行は夜陰にまぎれ川を渡り、立石儀右衛門の家に来た。」ということであった。

 さて、立石儀右衛門は一族と計らい、当屋敷内におかくまい申すことに決し、御一同を百姓風に装わせた。間もなく宗盛は自領対島(つしま)へ安住の地を求めて去り、翌二年帝九才の時から藤吉種継を師として御学問を修業遊ばす事になり、十六才の春にはすべての御学問を修業遊ばされた。ここに千代姫という種継の受娘(まなむすめ)がいた。年は十五才、心素直(すなお)な美しい娘で帝のお目にとまりお通いになるようになった。帝十八才の時千代姫は皇子を御誕生になった。しかし御子の行末を案じ憎籍に入れることになった。帝は二十五才の七月にわかに発病され正治二年(一二〇〇)八月二十五日ついに崩御(ほうぎょ)なされた。千代女は剃髪(ていはつ)し、洗切(あらいぎり)の屋敷内に一宇の観音堂を建てて主上の御冥(ごめい)福を祈り、八十五才の天寿を全うした。御千は栄尊神子となって宋にも渡り、水上山万寿寺を再建した。

 鳥栖市下野(しもの)の老松宮が安徳帝の御陵といわれ、同じく下野の立石清治氏の裏千北方に二位尼の御墓所、更に西方に平知時の墓がある(豊増幸子ふるさと紀行より)[やぶちゃん注:中略。]

 現在の堂宇は明治五年火災後再建され、その後もまた時々修理されている。当寺の墓所正面の五輪塔が神子和尚の墓で、向かって右側の無縫塔(卵塔)が勅願寺第一世天亨和尚の墓である。

[やぶちゃん注:以下、底本では「※」のみが二字目に突き出て全体(二行目以降)は二字下げ。]

※ 万寿寺にある宝剱の由米並びに神千和尚年譜は「建治元年(一二七五)了因、公俊(いずれも塔頭(たっちゅう)これを証す」とあり文永九年(一二七二)十二月八日付神子和尚自筆の置文(おきぶみ)が宝剱箱内にあったのを写し世に顕(あらわす)と称して延宝八年(一六八〇)八月田原仁左衛門の文書の写(うつし)、更に享保十九年(一七三四)三月二十目付塔頭三名(花押あり)になる水上山略記の写、更に元和六年(一六二〇)十一月十日付是琢(ぜたく)和尚遷化(せんげ)の後写す とある文書等いずれも写しとして万寿寺に保管されている。神子和尚の後説は鳥柄市下野の立石光男氏(立石儀右衛門後裔)所蔵の文書による。「海の底にも都の候ぞ」といって八才の安徳帝と共に二位尼は壇の浦に投身したと平家物語にあるがその真偽はともかく、伝説を生むには何らかの背景があるのではないかということである。

   《引用終了》

因みに、少なくとも現在の同寺は、ネットを見る限り、神子和尚安徳天皇或いは落胤説を公的には述べていない(認めていない・参拝者への「売り」とはしていない)模様である。

 以下、底本では「建たるならんと。」まで全体が一字下げ。]

 「閑田耕筆」に、「緖方三郞は無二の平家の方人[やぶちゃん注:「かたうど」。]なりしに、俄に心がはりせしといふは、實は平家の勢ひとてもさゝふべきにあらぬを知りて、帝をはじめ奉り、一門のしかるべき人々を、この五箇山に隱せるが爲の謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]なり。その後、つひに、戰、まけて、入水せるは、みなそのさまを眞似たる人なり。」といへり。この說によるときは、帝をはじめ奉り、この五箇山に來り、後に寺を川上に建たるならんと。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。この引用は巻之一「天地の部」の一節。「閑田耕筆」(享和元(一八〇一)年版本)の当該部を「日本古典籍ビューア」のこちらで視認して、活字に起こした。前条と続きで、関連性(祖谷渓は隠田集落村で平家落武者伝説もある)も強力にあるので、併せて電子化した。

   *

○佐野儒士の話。「阿波にて、祖谷(イヤタニ)山の辺、深山幽谷に、村里、多し。『村』といふことを、『名(メウ)』といふ。其所にて然るべき者を『名主(メウシユ)』と、よぶ。下の民を『名子(ナゴ)』といふ。東大寺の古文書に、『村』を『名』といふこと、あるに、かなへり。又、『諸侯』を『大名』といふも、『名主(メウシユ)』の大なる心成べし。」とぞ。

○同話に、「此『名主』の中に、『門脇宰相の子孫』といふもの、山、あまた持たるあり。又、祖谷の並びに『木屋平(コヤダヒラ)』といふ山に『劔(ツルキ)權現』と号る[やぶちゃん注:「なづくる」。]社、有、『安德帝の御懷劔と、御髮を納めし所。』といふ。『實は、御出家にて、ながらへましましける。』と、いへり。凡、此帝の御名殘をまうす所、猶、二所あり。豐前小倉のうち、『かくれ蓑』といふ里に『安德庵』といふは、御落飾の後、かくれ給ふ所にて、四十歲餘まで御生存、と傳ふ。近侍の人の墓もありとぞ。又、肥後、神璽寺[やぶちゃん注:「しんじじ」。]といふが、開基を『神璽和尙』といふ。是、安德帝にてまします歟といふ。此寺、住持あらず、『看主(カンス)』にて相續す。『住僧』と名のれば、死と云。其寺に劔あり。御持物なるべし。請雨に驗(シルシ)あり。又、平氏の墓も有、といふ。畢竟、決しがたき事なれども、異聞に備ふべし。」とぞ。又、或說に、肥後東南、『五ケ山』といふは、平家の族(ヤカラ)、遁隱(ノカレカク)れし所にて、村中、皆、先祖の稱号を傳へたり。其氏神と崇(アカム)る社は、安德帝を祭り、御璽(シルシ)は宝劔なりといへり。因に、一說有、『「緖方三郞は、無二の平家の方人(カタウト)なるに、俄に心変(カハリ)せし。」といふは、實は、平家の勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]、とても、さゝふべからざるを知りて、帝をはじめ奉り、一門の然るべき人々を、此五ケ山に隱せるがための謀なり。其後、つひに、戰、まけて、入水せるは、皆、其さまを眞似たる人なり。』と、いへり。奧州の泰衡が、賴朝卿に從ひて、却て、義經を蝦夷に落せし、といふ話に似たり。是、尤、實否は、今、定がたき事なるべし。

   *

「緖方三郞」尾形(緒方)三郎惟栄(これよし 生没年不詳)は豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。当該ウィキによれば、「平家物語」に『登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄』『の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』が、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後、養和元』(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永』二(一一八三)年『に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした』。『同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって』、『源氏方の九州統治が進んだとされる』。『また』、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には』、『義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき』、『義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り』、『佐伯荘に住んだとも、途中』で『病死したとも伝えられる』とあり、』「平家物語」の巻八では『「恐ろしい者の子孫」として語られている』とある。

「五箇山」後に出る「五家荘・五家庄」(ごかのしょう)のこと。熊本県八代市(旧肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この附近当該ウィキによれば、『平家の落人の伝説で知られ、伝承によれば』、『平清経の曾孫たちが「緒方氏」を称して久連子・椎原・葉木を治め、菅原道真の子孫たちが「左座氏(ぞうざし)」を称して仁田尾・樅木を治めたと伝えられている(『肥後国誌』には葉木を菅原氏系とする異説も載せている)』。五『つの地域の支配者はそれぞれ地頭を称し、江戸時代にはそれぞれの村の大庄屋に任じられていた。更に外部の木地師の集団移住によって成立したとする説もあり、更に双方の伝説の混合もみられる(木地師の祖とされている惟喬親王が、惟仁親王(清和天皇)に皇位継承で敗れたことから、惟喬親王の子孫が「平氏」と称して惟仁親王の子孫である「源氏」の及ばない地に逃れたとする)。五家荘としてのまとまりが成立したのは、緒方・左座両氏が阿蘇氏の勢力に従って砥用方面に進出したとされる戦国時代初頭』(明応~永正期(一四九二年~一五二一年))『と推定されている』とある。]

 帝、御年二十になり給ふ時【建久八年[やぶちゃん注:一一九七年。]。】、出家し給ひ、入宋ましくて、學問なるの後、歸り給ひ、此所に一寺を建て萬壽寺といふ。寺内に寶劍堂といふもあり。こゝに寶劍を安置す。箱の長サ一尺五六寸計もありとぞ。古來より開くことなしといへり【これは三種の神器の一つにや。さらずば、帝の帶び給ふものなるべし。】。

 寺の邊に、二位尼村といふ所もあり。かくて、文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]【月日、詳ならず。】、神子和尙の六百年忌の法會を、萬壽寺にて執行せしに、

[やぶちゃん注:以下、「下にいふべし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 一說に、帝、實は女帝にて、此に隱れ給ひし時、山伏ありて、帝に配して[やぶちゃん注:「つれあひして」と訓じておく。]、子をうみ給ふ。神子和尙、是なりといひ、又、「扶桑僧寶傳」に、「神子禪師、諱、榮尊、號、神子。法嗣、聖一國師。鎭西人判官康賴平公、子なり。」とあれど、いづれもいへる處、いたく謬れり。その由、下にいふべし。

[やぶちゃん注:「扶桑僧寶傳」「扶桑禪林僧寶傳」(ふそうぜんりんそうぼうでん:現代仮名遣)江戸前期の明の渡来僧で臨済宗黄檗派の高泉性潡(こうせんしょうとん 一六三三年~元禄八(一六九五)年:福建省福州府福清県東閣出身。俗姓は林氏。高泉が号で、性潡は法諱。師であった隠元が一六五四年に渡日し、隠元門下で黄檗山の住持を継承した慧門に就いたが、一六六一年(本邦は万治四・寛文元年)に隠元の七十歳の寿を祝うため、慧門に代わって他三名の僧とともに来日し、そのまま日本に残った)が書いた日・明の僧の伝記。]

 肥後國五家の庄より、平家の末裔の人、おのおの、系圖を携へ【この五家の人々の先祖は、帝につき隨ひ奉りし人なり。その先祖の名、かねて聞けるをもて、末に記す。】、且、金子廿五兩を奉納し、

「主人の年忌なれば、備へ奉る。」

とて、來りて、法會の中も、敬ひ愼み、事果て、かへりしとぞ。

 此一條は、浮きたる事にあらず。今玆三月廿日、一友人森某ぬし【柳川侯の藩士。】を訪ひたるに、町野氏【同藩の士。】、來りていへるは、

「去年、かの川上あたりの溫泉に浴したるころ、一夕、萬壽寺に宿りて、住僧と話しゝに、『をとゝしの事にて候。かゝる事、ありし。』とて、上件のことゞも、かたり出でたり。」

と、親しく予にかたられけるを、記したるなり。文政三年。

[やぶちゃん注:底本はここで改行して、以下、「歡ぶべしとぞ」までが全体が一字下げ。]

 六百年忌なれば、承久二年の崩御なり。文治元年、壇浦敗軍[やぶちゃん注:「まけいくさ」。]の時、帝、寶算八歲なれば、崩じ給ふ御年四十三歲にてましませしなり。かゝれば、帝の御子といふ事は、もとより、ひがことなり。《評ニ云》[やぶちゃん注:底本では長方形の囲み字。]、帝、もし、御年十五、六歲にて御子をまうけ給ひ、その子、はやく出家せば、承久二年遷化の時、廿七、八歲なれば、さのみ、年紀のたがひ、あるにしもあらず。且、「神子」といふも、巫女の俗稱、「公主」といふも、秦・漢のとき、帝姬の稱なれば、一說に女帝なりしといふこと、「公主萬壽寺神子和尙」の名號に、據なき[やぶちゃん注:「よんどころなき」。]にあらず。又、神子和尙を、康賴が子なりといふを寺說によれば、謬に似たれども、畢竟、寺說とても、證文なき事なれば、いづれを虛、いづれを實と、定めがたかるべし。譬へば、藤澤寺なる「小栗十士」の墓、佐野の、天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき古跡、多ければ、萬壽寺の事も、うけられぬ說なれ共、異聞なり。かくめづらしきことを聞くも、兎園の一得にて、交遊の忠告とやいはん。歡ぶべしとぞ。

[やぶちゃん注:『藤澤寺なる「小栗十士」の墓』私の家からそう遠くない時宗総本山 遊行寺には、小栗判官と照手姫、及び、その家来十一人の墓がある。公式サイトの解説によれば、『東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺があり』、これは「小栗堂」とも『言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺です』。応永二九(一四二二)年、『常陸小栗の城主』『判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣』十一『人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき』、『妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手姫を妻に迎えました。満重往生の後、助重は遊行寺八徳池の側らに満重主従の墳墓を建立。助重の死後、照手は髪を落とし』、『長生尼と名のり、助重と家臣』十一『人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています』とある。

『佐野の天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき』これは恐らく「いざ鎌倉」の元となった話や謡曲「鉢木」に登場する架空の鎌倉中期の武士佐野源左衛門(諱を常世(つねよ)と称したとする)の神格化されたもので、現在も彼の屋敷跡とされるされる群馬県高崎市上佐野町に常世神社がある。天明の頃に創建されたかどうかは判らなかったが(複数の画像を見るに、如何にも新しい感じはする)、それを指しているものと考えてよかろう。

 以下は底本でも改行。]

 さて肥後國に、當時、五軒ありしをもて、「五家の庄」と呼べり。その人々は、帝に隨ひ奉りて、かくれすみし處にて、しか呼べるなり。その五家の先祖の名代は、從四位下少將平知時【知盛の男。】・左中將淸經【小松の男。】・上總介忠淸【關八州の侍大將。】・越中次郞盛次【平家四士之家。】・菊地次郞高直【外族侍。】瀨尾十郞兼高【兼安の男。】。今、この庄の頭、知盛の男より、廿九代の孫、權少輔平時資といふとぞ。

[やぶちゃん注:以上の人名に注を附す気はない。悪しからず。

以下は底本でも改行。]

 右一條は、あがれる世の事にして、且、もと、かくれましましゝことなれば、その實否は、今より、いかにとも定め難けれども、萬壽寺の僧が口づからの物語とあれば、聊、拙案を參考して異聞に備ふ。

     *

   雨蛤竹筒

[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミング補正した。店の名を附けた唐辛子入れである。]

 

Amagaherutougarasiire

 

 去月廿六日、京師なる戶田君の御もとより、祗園祭禮番付三葉を下し給はり、且、鈴木氏の書物[やぶちゃん注:「かきもの」。手紙。]に、

西原氏、先日、當所御通行之節、此方へも御尋被下、久々にて、且那も拜顏被致大慶奉存侯。其節、貴君、御噂、山々、御座候。しかし御城中故、緩々、拜顏も不被致殘念奉存候。當地御出立の砌は、雨天にて伏見乘船留り居、京地へ兩三日御逗留之内、四條雨蛤てんがく見世へも御立寄被成候よし、右田樂見世に、餘程ふるき「たうがらし入」、ケ樣の形に竹にて作り候もの、殊の外、望の由にて、亭主にいろいろ掛合候へども、餘程むつかしく申、手に入り兼、殘念の趣にて、京地出立被致候。此よし、美濃守致承知、其後、向々へ相賴、此程、漸、手に入申候。西原氏、格別望故、追日、大坂表柳川藏屋敷迄、差出し置、幸便之節、柳川表へ相屆候積りに御座候。此段御慰に申上候。又云、大坂表、蒹葭堂、此程參り候間、耽奇の本爲見候處[やぶちゃん注:「耽奇會」の本を「見の爲めに候ふ處」。]、殊の外、歡、大坂表へ是非とも持參いたし候趣にて、壱本不殘、貨遣し候。耽奇會は殊の外浦山敷樣子にて御座候。此段申上候。

[やぶちゃん注:以上は書信なので、そのまま字下げを行わずにおいた。]

と記されたるを見るにも、千里面談の心地ぞする。かゝれば、この二條及番付ともに、ひとり見過さんも本意なさに、けふのまとゐの諸君と同じくせばやとて、そのよしいさゝか記し出でたるになん。

  文政八年乙酉七月朔    北峯美成識

相月兎園

[やぶちゃん注:「戶田君」や「鈴木氏」「西原氏」及び「美濃守」(これはちょっと気になって調べたが、確定不能)は注する気になれない。悪しからず。

「四條雨蛤てんがく見世」思うに、「四條」通りにある「雨蛤(あまがへる)」という「田樂(でんがく)屋」の意であろう。田楽に唐辛子は合う。

「蒹葭堂」大坂北堀江瓶橋北詰の造酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付)を兼ねた商人で文人にして本草学者でコレクターの木村蒹葭堂孔恭(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)。私は先日、彼の編著になるとされる「日本山海名産図会」の電子化注を完遂している

「相月」は「さうげつ(そうげつ)」「しやうげつ(しょうげつ)」と読み、陰暦七月の異名。]

2021/09/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 腐儒唐樣を好みし事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○腐儒唐樣を好みし事

 或西方の大名に仕へて、三十人扶持を給はりし儒者あり。その名は忘れたり。この儒者、

「何事も孔子のごとくせざれば、儒道にあらず。」

とて、

「沽酒・市晡は食はず。」

[やぶちゃん注:「沽酒」は「こしゆ」。市販されている酒。「市晡」は「しほ」。市販されている広義の干物。本来は「脯」は「ほじし」で、細かく裂いて干した鳥獣の肉を指すが、肉食はそれ自体が賤しいものであったし、以下の叙述からも魚介類のそれと限定してとるべきところであろう。]

とあれば、酒も、わが方にて、かもし、鰹節も、手まへにて、乾させ[やぶちゃん注:「ほさせ」。]、周尺にて諸物を拵へけり。

[やぶちゃん注:「周尺」長さの単位の一つで、周代に用いられたとされる尺で、長さは六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二十三・〇三センチメートル)に当たると言われる。]

 家老の人、意見せしめて、

「いかに唐樣を好めばとて、竊に傳へ聞くに、大小共に、兩刀の劍を用ひらるゝよし。日本の劒術は、この國風に隨ふこそ、よけれ。且、御邊、儒をもつて仕ふとも、又、是、武門の奉公ならずや。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、文・武・周公・孔子の世が周なればとて、一切の事を周の制にて濟さんと欲すとも、官途・品級の次第、職宗の體などは、『周禮』にても考へらるべし。もろこしにてすら、太古の事は、今日の用に當て[やぶちゃん注:「あてて」。]、考へとられざること、あらん。」

といふ。

 彼儒者、答へて、

「好意、寔に忝し[やぶちゃん注:「まことにかたじけなし」。]。しかしながら、周の代の事、考へ得られざれば、漢の世の制を用ふる故、さしつかふること、なし。」

といふ。家老、聞きて、あざ笑ひ、

「『智は非を凌ぐに足る』といへるは、則、御邊の事なるべし。今、五穀を量らんに、周の制は考へがたし。漢の升をもて考ふれば、日本[やぶちゃん注:「ひのもと」。]、今の一合は、卽、漢の一升なり。「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えしも、日本の三石六斗に當れり。御邊の月俸三十口なれば、これまで一ケ月に四石五斗づゝわたしゝは、一ケ年に五十四石の高なれども、周漢の制を好める故、扶持方も漢の升目を以て、壱人扶持は壱升五合なり。これを三十合にすれば四斗五升なり。かくのごとくにしてわたせば、一ケ年に五石四斗の高となる。十二ケ月の内、大小のたがひはあれども、當月より四石五斗を四斗五升にしてわたす樣に、藏方に申し渡すベし。かゝれば、御邊も漢法にて扶持方をうけ取られ、滿足なるべし。」

と、いひければ、儒者、大に驚きて、

「その儀は御免候へかし。誤り入り候。」

とて、漢法をやめしとかや【評に云、「この事は、先輩、既に物にしるしゝもあれば、作り設くることなるべし。」。】[やぶちゃん注:乾斎自身が入れた割注であろう。]。

 すべて、手前勝手にあらぬ事は、日本の古格に任せ、勝手の事は異國の風をまねんとせしは、笑ふべし。

 わが知れる人、親の死せしとき、

「三年の喪を勤むる。」

とて、喪服樣の物を製し、

「唐流は精をなし。」[やぶちゃん注:「なし」の右に『(マヽ)』注記あり。編者によるもの。「生活上必要最小限の精力がつかない」の意であろうか。]

とて、喪中に酒を飮み、肉を食ひ、自如として、平日のごとし。

 殊にしらず、「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり。菜果すら食はざりし喪に、酒を飮み、肉をくらふは、何事ぞ。

 是等の事ども。世に多し。抱腹云々。

  乙酉七月朔      乾  齋  識

[やぶちゃん注:「文・武」周(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)は古代中国の王朝。当初は殷(商)の従属国であったが、「牧野の戦い」(殷周革命戦争)で殷を倒し、周王朝を開いた。紀元前七七一年の洛邑遷都までを「西周」、遷都から春秋戦国時代に秦によって滅ぼされるまでを「東周」と区分する。儒教に於いては、西周は理想的な時代とされ、周の歴史は。孔子の言説を始めとして儒教経典や「史記」などの歴史書に儒教の理想国家として記されてある。一方で、現代では考古学調査による研究も進展しており、中国文明は周代に確立したという学説もある。西周・東周の両方を合わせると、中国史上、最も長く続いた王朝であった。周の伝説上の始祖は后稷(こうしょく)であり、五帝の舜に仕え、農政に功績があったとされる。古公亶父(ここうたんぽ)の御代に周の地に定住したとされる。彼には三人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と称した。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥、父は「わが子孫の内で、最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るために自発的に出奔し、南方の僻地に赴いた太伯は「句呉」と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は、皆、これに従った。なお、この南方の僻地は「日本であった」という伝説もある。季歴の息子姫昌(後の)が王位を継ぐと、祖父の期待通り、周を繁栄させ、遂には宗主国殷から「西伯」(国を東西南北に分けた際に西を管轄する権限を持つ諸侯。宗主たる王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることが許された)の地位を賜るに至った。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君であったため、諸侯は姫昌に革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。姫昌の死後、後を継いだ姫発(後の)は、周公旦・太公望・召公奭(せき)ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、紀元前一〇四六年に「牧野の戦い」を起こし、武王は見事に殷の紂王に打ち克ち、周王朝を創始した(以上は当該ウィキに拠った)。

「職宗」官職の制式や祖先を祀る際の規範の意であろう。

「周禮」呉音で「しゆらい(しゅらい)」と読む習慣がある。周公旦の撰と伝えるが、偽作説もある。元は「周官」と称したが、唐の賈公彦の疏で、初めて「周礼」と称するようになった。天・地・春・夏・秋・冬に象って官制を立て、天命の具現者である王の国家統一による理想国家の行政組織の細目規定を詳説する。「儀礼」「礼記」と共に「三礼」の一つとされる。

「にても考へらるべし、」読点にしたのは、「それらは確かに周公旦の記された「周礼」通りに考え、執行することも出来ようが、」という逆接の雰囲気を出したかったからである。

「智は非を凌ぐに足る」「人知というものは決定的な誤りを避ける程度にしか有効ではない」の意か。細部まで絶対的価値を持つものではないということなら、この話に係わってくる。

「漢の升」例えば、漢代の容積単位を現代に換算してみると。

「今の一合は、卽、漢の一升なり」江戸時代の一合は現代と同じ一・八リットルであるが、漢代の「一合」はその十分の一の〇・一九八リットルでしかなく、漢代の「一升」が現代の「一合」と同じなのである。因みに、周代はそれよりも〇・〇四リットルさらに少ない

『「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えし』「漢書」(後漢の歴史家班固らが著した前漢(劉邦から王莽まで)の紀伝体の正史。百巻。紀元八二年頃成立。「地理誌」に日本(倭)についての初めての記述があることで知られる)に「牛一頭の背に三十六斛(こく)を積む」(そのまま現代のそれで示すと約六・九四三キロリットルという膨大なものになってしまう)とあるが、これは江戸時代に換算すると、同前で「三石六斗」(一斛=一石=十斗=百升=一千合)であるから、五百四十二・九七リットルとなる。

「唐流」似非者だから、音読みせず、「からりう(からりゅう)」或いは「もろこしりう」と読んでおく。

「自如」(じじよ(じじょ)は「言動が平素と少しも変わらないこと・もとのままであること」。「自若」に同じ。

「殊にしらず」「その上に、知らないのか?」という呆れ果てた感嘆表現か。

『「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり』「礼記」の「喪大記」に、

   *

期之喪、三不食。食疏食、水飮、不食菜果。三月既葬、食肉飮酒。期終喪、不食肉、不飮酒、父在爲母、爲妻。九月之喪、食飮猶期之喪也、食肉飮酒、不與人樂之。

(期(ご)の喪には、三つの不食あり。食するに、疏食を食ひ、水を飮み、菜果(さいくわ)を食はず。三月(みつき)にして既に葬ふれば、肉を食ひ、酒を飮む。期の喪を終(を)ふるまでは、肉を食はず、酒を飮まず。父、在(いま)せば、母の爲にし、妻の爲にす。九月の喪には、食飮、猶ほ、期の喪のごときなり。肉を食ひ、酒を飮むも、人と之れを樂まず。)

   *

「菜果」野菜・果物。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 勝敗不由多少之談

 

[やぶちゃん注:乾斎発表。標題は「勝敗は、多少の由、あらざるの談」と訓じておく。段落を成形した。]

 

   ○勝敗不ㇾ由多少之談

 昔、晉の智伯、韓・魏の三家と志を合せ、逍襄子の軍を、晉陽にて、水攻になしゝ時、逍城の侵さるゝもの、纔に三版なりしに、襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば、智伯、大に敗北せり。

 又、西楚の項籍は、精兵若干にて、漢高祖の五十六萬人を敗り、漢の韓信は壱萬餘人の兵を帥ゐ[やぶちゃん注:「ひきゐ」。]、しかも、水を背にして陣をとり、逋の陳除が二萬人を、暫時に打ち敗りぬ。

 我朝にても、判官爲義、十八歲の時、終に十七騎にて、南部法師二千餘人を、栗柄山にて追ひ散らし、楠正成は、百六十人にて、千劒屋に籠城し、關東の廿萬餘騎と、二年の合戰あり。且、落城は、せざりしなり。

 大神君、姊川の御戰、御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ。

 信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ、長篠の役に、奧平九八郞は、至りて、小勢を以て、長篠城に籠城し、勝賴、弐萬を帥ゐて攻めたれ共、終に拔けざりき。

 これをもて、これを觀れば、軍の勝敗は兵の多少にあらずして、人心の誠と不誠とにあるなり。帝軍の勝敗のみにあらず。物、皆、然り。

 大神君、竹千代君と申し奉りし時、「五日菖蒲擊」を御覽ありしに、その打合、双方、東西にわかれ、いまだ、戰、始めざりしとき、竹千代君、仰せられけるは、

「大敵と、小敵と、戰ふ。小數の方、勝つべし。」

と宜ひしに、果たして、小數のかた、勝たれけり。

 近頃、わが主君、下莊の門前に、甚だしき鬪諍あり。大數の方は、長竿を持出で、且、石・瓦を、頻に、礫に、うちけり。小數のかたは、徐々と[やぶちゃん注:「そろそろと」。]並居たりしが、その中、一人、剛勇の男、短刀を拔きて、大敵の中に飛び入り、大に働きければ、大數の者ども、大に驚き、右往左往に馳せ散りけり。是、わが親しく觀る所なり。

 しかれば、則、物の勝敗は、人心の誠と不誠にありて、人數の多少にあらざるなり。

[やぶちゃん注:「晉の智伯」春秋末期の晋の政治家で武将の智瑶(ちよう ?~紀元前四五三年)。当該ウィキによれば、『智氏が属する荀氏の遠祖は一説』には、『殷の王族の末裔だといわれる』。『智氏は晋の中でも荀氏の分家として、中行氏(荀氏の本家)や』、『その婚姻の范氏(士氏の分家)と共に』、『晋の六卿の中でも名門中の名門だったという。だが、智瑶の祖父の智躒』(ちらく)『(智文子)は、勢力拡大のために』、『六卿の魏氏・韓氏・趙氏と結託して本家である中行氏を攻撃。中行氏は滅亡し、続いて范氏も滅亡に追い込まれた。滅ぼされた両氏の所領は智氏・魏氏・韓氏・趙氏の四卿によって分割された』。『孫の智瑶が当主になったころ、当時の晋公であった出公は彼らの専横を憎み』、『これを討伐しようとしたが』、逆に『四卿は反撃』に出、『敗れた出公は逃走中に死亡し、智瑶が擁立した哀公が出公の後を継いだ』(紀元前四五八年)が、『哀公は傀儡に過ぎず、晋の実権は智瑶によって掌握された。これを期に』、『智瑶は晋にとってかわる野望を抱くようにな』った。『しばらくして、かつて范氏と中行氏の家臣であった豫譲が彼に仕官した。智瑶は豫譲の才能を認め』、『彼を国士として優遇した。この待遇に感激した豫譲は智氏の滅亡後、智瑶の仇を討つべく奔走することとなる』。『数年後、智瑶は魏氏・韓氏・趙氏に所領の割譲を要求した。魏氏の当主の魏駒(魏桓子)と韓氏の当主の韓虎(韓康子)は恫喝に屈して所領の一部を割譲したが、趙氏の当主の趙無恤(趙襄子)』(本文の「逍襄子」はこの誤字であろう)『はこれを拒絶』したため、『智瑶は趙氏を滅ぼすために兵を発し、智瑶の要請を受けた魏駒・韓虎も兵を率いて従軍した』。『智氏・魏氏・韓氏の連合軍を率いた智瑶は趙氏の本拠地である晋陽』(現在の山西省の省都である太原市。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を攻めた(晋陽の戦い)。晋陽の守りが堅いことを知った智瑶は水攻めを決行。戦いが始まって一年が経ったころには晋陽の食糧は底をつき、ついには落城寸前となった』(本文の「襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば」というのは、この部分の誤認であろう)。『絶体絶命の窮地に陥った趙無恤は』、『魏駒と韓虎に密使を派遣』し、『「智伯は強欲な男であり、このわたしがやつに滅ぼされた後には今度は貴公らの番である」と離反をそそのかした』。『内心では智瑶を不快に思っていた魏駒・韓虎はこれに応じ、智氏の軍を奇襲。趙襄子も城を出て』、『総攻撃をかけた』結果、『形勢は逆転し』、『智氏の軍は壊滅』、『智瑶は捕虜となり、その後』、『殺害された。智氏は滅亡し、その所領は魏氏・韓氏・趙氏によって三分された』。『趙無恤は酒の席で智瑶に酒を浴びせかけられたことがあり、それ以来』、『彼を深く恨んでいた。智瑶の死後、趙無恤は智瑶の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、さらしものにしたという』。『死後、「襄」を諡され、智襄子とも呼ばれる。なお、戦国時代後期に現れた荀子は、滅びた智氏の一族の末裔だという』とある。

「三版」意味不明。

「西楚の項籍」西楚の覇王項羽。

「漢高祖」劉邦。

「韓信」(?~前一九六年)漢初の武将。当初は項羽に従ったが、後に劉邦 の将に寝返り、華北を平定、斉王次いで楚王に封ぜられたが、後、淮陰侯に左遷され、最後は反逆の疑いで劉邦の后呂后(りょこう)に処刑された。

「水を背にして陣をとり」「彭城の戦い」で敗走した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に、韓信の別働隊が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが、裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と、将軍の曹参とともに討伐に送り出した。魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信は、その対岸に囮の船を並べ、そちらに敵を引き付けておき、その間に、上流に回り込んで、木の桶で作った筏で兵を渡らせ、魏の首都安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを、討って、魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行った(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。二十万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余(?~紀元前二〇五年:秦末から前漢初期にかけての武将で代王。彼は張耳とともに趙王の子孫である趙歇を探し出して趙王にし、信都を都に定めたから、本文にある「逋の陳除」は「趙の陳餘」の誤りである)を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(「井陘の戦い」)。以上はウィキの「陳余」に拠った。

「判官爲義」源義朝の父源為義(永長元(一〇九六)年~保元元(一一五六)年)。但し、これも錯誤があるようだ。複雑な真相を持つ、河内源氏の棟梁であった源義忠の暗殺事件(天仁二(一一〇九)年二月発生)の首謀容疑者として源義綱一族に嫌疑がかかり、これ憤慨した義綱が甲賀山(鹿深山)に立て籠もった。これに対し、白河院は、棟梁を継いだばかりの義忠の甥源為義に義綱父子の追討を命じた。為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると、義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できないとする息子たちが憤激、次々と息子たちが自害していく中、ただ一人残された義綱は、甲賀郡の大岡寺で出家し、為義に投降した(後、佐渡に配流された)事件がある(詳しくはウィキの「源義忠暗殺事件」を見られたいが、これは冤罪で真犯人は義忠の叔父で、義綱の末弟である源義光であった)が、これは為義数え十四歳で「十八歲」に、まあ、近い。しかし、「南部法師二千餘人」云々が合致しない。この内容に合致するかと思われるのは、大治四(一一二九)年十一月の、興福寺衆徒による「仏師長円暴行事件」で、犯人追捕のため、他の検非違使とともに、為義が南都(奈良)に派遣されたが、逆に首謀者の悪僧信実を匿って、鳥羽上皇から勘当されたというのが、まず一件だが、結末が合致せず、しょぼくらしいから違う。翌大治五年五月に、延暦寺の悪僧追捕があるが、これも、郎党が誤って前紀伊守藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えてしまったために、検非違使別当三条実行により勘事に処されてしまっている。源師時はこの時の様子を日記「長秋記」で『爲義の作法、兒戲の如し」と罵倒しているから、これもしょぼい。因みに、大治五年では為義は数え三十五歳であるから、これまた、合わない(以上はウィキの「源為義」を参考にした)。唯一、「栗柄山」(「くりからやま」と読んでおく)がヒントになろうかと思ったが、こんな山は南都にはない。どうも、この記事、誤りや不審が多過ぎる。

「千劒屋」「ちはや」で「千早」の当て字。元弘三/正慶二(一三三三)年の後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将楠木正成と鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦「千早城の戦い」。実際には三ヶ月半ほどの籠城戦であったことが判明している。但し、前年四月に、正成は、一度、幕府軍にとられた赤坂城を奪い返し、その背後の山上に千早城を作ったので、数えで「二年」とはなる。また、幕府軍を本文では「廿萬餘騎」とするが、これは過小で、北条高時が、畿内に於いて反幕府勢力が台頭していることを知って、九月二十日に関東八ヶ国の大名からなる追討軍を派遣しているが、それは三十万余騎である。全部が千早城攻めに加わらなかったであろうが、少なくとも派遣された総数では、十万も少ないことになる。

「姊川の御戰」戦国時代の元亀元年六月二十八日(一五七〇年七月三十日/グレゴリオ暦換算八月九日)に織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉景健(かげたけ)連合軍の間で近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)に於いて行われた「姉川の戦い」。「御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ」とあるが、現在知られている総勢力では、織田・徳川軍は一万三千から四万、浅井・朝倉軍は一万三千から三万名とされ、当該ウィキを見るに、「信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ」というのは、その緖戦に当たる同年四月の、信長の義弟で盟友でもあった浅井長政の裏切りにより、織田信長の撤退戦となってしまった「金ヶ崎の戦い」の誤りと思われる。詳しくはウィキの「金ヶ崎の戦い」の方を見られたい。

「長篠の役」天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)に三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って三万八千人の織田信長・徳川家康連合軍と、一万五千人の武田勝頼の軍勢が戦った「長篠の戦い」。

「奧平九八郞」徳川家康の長女亀姫を正室とし、娘婿として重用された奥平信昌(のぶまさ)の幼名。後に上野小幡藩初代藩主、美濃加納藩初代藩主となった。当該ウィキによれば、『奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は』、一万五千と称した『大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで』、『武田軍の攻勢を凌ぎきった。その結果』、同月の「長篠の戦い」では、結果、『織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた』。『この時の戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。ただし、近年になって、武田信玄こと』、『晴信の偏諱「信」を与えられて信昌と称したものの、後世の奥平氏が』、『この事情を憚って』、『信長からの偏諱の話を創作したとする説』『も出されている』とある。『家康もまた、名刀大般若長光を授けて』、『信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣』十二『名に対して』も『一人一人に』、『労いの言葉をかけた上』、『彼らの知行地に関する約束事など』、『子々孫々に至るまで』、『その待遇を保障するという特異な御墨付きまで与え』ている。『戦後、父』『貞能から正式に家督を譲られ』ているとある。

「五日菖蒲擊」「菖蒲擊」は「あやめうち」「しやうぶうち」「しやうぶたたき」等と読む。五月五日の端午の節句に行った子供の遊びの一つで、ショウブの葉を、三つ打ちに平たく編んで棒のようにし、互いに地上に叩きつけて、その音の大きさを争ったり、また、切れた方を「負け」などとしたもの。ここは武家の男の子の節句祝いとして行われた家中の武士による擬似合戦である。

「わが主君」発表者乾斎中井豊民は、大儒大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年:加賀国大聖寺出身。京の皆川淇園(きえん)や、江戸の山本北山に学ぶが、飽きたらず、独学を重ね、折衷学に清の考証学を取り入れた独自の考証法を編み出した。三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町附近)に仕え、晩年は加賀金沢藩に招かれた)の教えを受け、師と同じく吉田藩に仕え、渡辺華山や鈴木春山らと交流し、経学と文章を以って儒者として名を成した人物らしい。但し、生没年等、具体的な事績は不詳である。この「兎園会」の行われた文政八(一八二五)年七月当時の主君吉田藩藩主は第四代藩主にして幕府寺社奉行を務めていた松平信順(のぶより 寛政五(一七九三)年~天保一五(一八四四)年)である。

「下莊」吉田城の「下方にある村」の意の一般名詞か。]

芥川龍之介書簡抄148 / 岩波旧全集「年月未詳」分より 四通

 

[やぶちゃん注:或いは、新全集では推定年で参入されてあるものもあるかも知れない。]

 

年不明・執筆地不明・八日・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

謹啓 小生はかゝる文を御手許に差上ることと相成りしを悲しむものに御坐侯 又大兄の御痛恨の程を慰めまつるには我交のあまりに淺かりしを悔ゆるものに御坐候 小生は伊藤兄を隔てゝまた知人たる伊藤氏を隔てゝ大兄の御家事を伺ひ居り候 而してそは却つて小生をして大兄の御不幸に泣かしめ候ひき

然れども小生は玆に芝居めきたる悼詞に僞りの淚を流すを得ず候 只小生の苦き經驗に比べて大兄の御愁嘆を察し奉るに止め置くべく候

小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき

大兄も今はかくてあらるゝならむと思へばよしなき松長等のうかれ人が名を追悼にかりて尊宅を驚かしまゐらせし事のなかなかに憎くらしく思はれ候

完りに一言申上候 そは申す迄もなく今後の御勵精に御坐候 悲しみは一種の砥石に御坐匹 硬き金はこれによりて光をこそ增せ、軟き金は忽ちに磨り耗り申し侯 小生は平塚兄の如きはこの硬き金の一人にはおはさずやとそゞろ男らしき(敢てこの語を用ひ候)人格の程をゆかしみ居るものに候

大兄も亦願くはその一人たられむ事を庶幾ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]居り候

さまざまの思雲の如く湧きて筆のみ徒に澁り候 亂筆不書

    八日夜 雨聲をきゝつゝ 龍之介

   喜 譽 司 兄 玉案下

 

[やぶちゃん注:府立三中時代からの親友山本の家内の不幸(実母か)に寄せた誠実なものである。「我交のあまりに淺かりし」とあるから、三中在学中(であれば執筆地は本所)か、下限は一高入学後(執筆地の可能性に新宿の実父新原敏三所有の家が加わる)であろう。内容が内容であるだけに、同性愛感情を持っていた山本宛書簡にしては異様にかたぐるしいが、それだけに印象的には早い時期で、前者の可能性の方が高いように私は感じる。この書簡を採り上げた理由は、その親友の不幸への誠実な語りかけに加えて、「小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき」「大兄も今はかくてあらるゝならむと思へば」という一節に惹かれるからである。後に実母の死を文壇には隠し続け、晩年の三十四の大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した「點鬼簿」の「一」で、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。」と、かくもクールに、その事実を告白した彼が、実は、やはり作家としてのポーズに過ぎなったことが、判然とするからである。

「松長」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引にも載らない(落としている)。

「平塚兄」複数回既出既注だが、再掲しておくと、三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。後、岡山の第六高等学校に進学したが、結核のために戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。]

 

 

年月日不明・執筆地不明・宛名不明(書きかけの絵葉書)

海近き靑海苔干場に野萄のむらさきの花をみつゝもの思ふ旅人を思へ あたゝかく光れる海はキヤベツ畠の上に瓏銀をのべ眞珠の如き空よりは雲雀の聲雨よりもしげくふり來らむとすされど旅人の心はたのしまず 海つきて路は山の峽に入り雨後の春泥滑なる處落椿紅くして藪中鶯の聲をきくこと頻なりされど旅人の心はたのしまず

起伏せる靑麥の畑をうがち菜の花の間を南に下れば其處に眠れる如き港町ありて靑き潮のにほひはものさびたる白壁になげきたはれたる唄はとほき三絃と共にかはたれの霜をさらへり海にのぞめる石垣に桃は白く花さき金も褪せたる寺院の軒にはつばくらのかたらひしげけれど家と云ふ家街と云ふ街には云ふ可らざる安息と怠惰と悲哀との影ありて旅人の心はこゝに一味の平安を見出し得たり

とほき世ゆ何をか人にかたるらむ琅玕洞の水の音はも

名越川ほのかに靑き蘆の芽にうす月さすとさみしきものか

 

[やぶちゃん注:短歌(底本では三字下げだが、引き上げた)があり、紀行文としてよく掛けているので採用した。絵葉書のある観光地で、山峡から海浜が近く、港町に「海苔ひび」があり、さらにキャベツ畑というのは、まず東京近辺では三浦半島一円が最もしっくりくるが、ロケーションは不詳である。鎌倉(「名越の切通し」が逗子間にある)・小坪・逗子(「田越川」(手越川とも呼んだ)がある)附近を考えたが、その辺りに、春、龍之介が行った事実は、私の知る限りではない。但し、旅好きの若き日の彼が日帰りで行って帰ってくるに、不自然ではない。私は大学時代、春の一日、廃道の旧原「名越の切通し」を藪漕ぎして踏破し、小坪の「ゲジ穴」も抜け、逗子に下って、中目黒に戻った経験がある。

「瓏銀」鮮やかな銀色。明るい銀色。

「琅玕洞」不詳。「琅玕」は宝石の翡翠のこと。私も入ったことがあるイタリア南部のカプリ島にある海食洞「青の洞窟」(Grotta Azzurra)を、アンデルセンの恋愛小説「即興詩人」では、この洞窟が重要な舞台となっているが、森鷗外の翻訳では「琅玕洞」と訳されているが、短歌との相性はよくない。

「名越川」不詳。但し、冒頭注参照。]

 

 

四月十四日・田端発信(推定)・北原白秋宛(封筒欠)

 冠省

 原稿用紙にて御免蒙り候。咋夜はいろいろ御馳走にあひなり、ありがたく存候。どうか奧樣によろしくおつたヘ下され度候。それから今日室生君參り候所、十五日の俳句の會はパイプの會のよし、パイプをハイクと聞きあやまりし女中、おかしくもかなしく存候 頓首

    四月十四日      芥川龍之介

   北原白秋樣

 

[やぶちゃん注:犀星と龍之介の出会いは大正七(一九一八)年一月十三日であるから、それ以降となる。本書簡は岩波旧全集所収の唯一の白秋宛書簡なので採用した。]

 

 

大正一一(一九二二)年から翌一二(一九二三)年(推定)・田端発信・小杉未醒宛

 

ただに見てすぎむ巖ぞ雲林の弟子とならむは轉生ののち

のみ執るはあなむづかしと麥うるしここだも使ふ指物師われは

ぎらひふるアメリカにわがあらば牛飼ひぬべしジエルシイの牛を

唐くにに生れましかば李義山の家のやつことならんとするらむ

 十六日           龍 之 介

放 庵 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:全文が三字下げであるが、引き上げた。短歌で採用した。推定年は芥川龍之介満三十~三十二歳。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「麥うるし」「麥漆」小麦粉と生漆(きうるし)を混ぜ合わせた接着剤。陶磁器・木地の割れた部分などを接着させるのに用いる。

「天ぎらひふる」「天霧らひ降る」か。上代語の動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」は「雲や霧などで空一面が曇る」の意。或いは「ふる」は「振る」で、「あまぎらひ」は枕詞的で「天」から「降る」を引き出して、「偉そうに振る舞う」の意かもしれない。「アメリカ」は「あめ」で「天」「雨」の縁語になるし、偉そうにな態度に相応しい。

「ジエルシイの牛」ジェルシーは乳牛のJersey(ジャージー種)の古い読み方。

「李義山」晩唐の官僚政治家で詩人として知られる李商隠(八一二年或いは翌年~八五八年)の字(あざな)。]

2021/09/20

芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通

 

[やぶちゃん注:書簡数が少ないが、今まで通り、新全集の宮坂覺氏の年譜を用いて、七月一日から自死・死亡確認・通夜・出棺・火葬までと、九月二十四日に行われた追悼会及び末尾に配された遺骨埋葬・墓石関連記事までも引いておく。

七月一日 『午後、道章の体調が優れず、下島勲が来診する。軽い脳卒中の症状があった』。

七月二日土曜日 『午後、下島勲が道章を来診するが、病状は良好』であった。

七月三日日曜日 『川口松太郎(「映画時代」記者)が来訪するか。映画論議を展開し、自作の映画化の話などをしているところに、室生犀星が来訪した』。『夜、小穴隆一、神崎清らと談笑しているところに、下島勲が来訪して加わる。午後』十一『時頃まで雑談を』する。

七月五日 『午前、下島勲が道章を来診する』。この日、『室生犀星が来訪』した『か。翌日、犀星は軽井沢に出発しており、これが最後の面会となった』。]

 

昭和二(一九二七)年七月八日・田端発信・金九經宛

 

前略、原稿用紙にて御免蒙り候。「書物禮讚」ありがたく存候。訣、譯、ともにあて字たる國に生まれたること我ながら笑止千萬に存じ候。所詮わけと假名にするに若かず。唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候。(「慢性出鱈目」の慢性も言海には慢性とあり、新聞雜誌などには蔓性とあれども、しやれて慢性といふさへしやれと聞え難き世の中に候。)高須氏の著書は拜見不仕、高評によりて大體を窺ひ申し候。右とりあへず御禮まで。頓首

    七月八日       曼   靑

   金 九 經 先 生

 

[やぶちゃん注:「金九經」一般的な本邦での読みとして「きむ きゅうけい」と読んでおく。現代韓国語では「キム クーギョン」か。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、『大谷學報』(第九十四巻第二号・二〇一五年三月十八日発行)PDF・但し、標題・目次他のみで当該論文はない)に載る孫 知慧(Son Ji-Hye)氏の論文『忘れられた近代の知識人「金九経」に関する調査」(ネットで『忘れられた近代の知識人「金九経」』で検索を掛けると、恐らく一番上にPDFでダウン・ロード出来るリンクが現われるはずである)によれば、「金九經」(一八九九年~?)は、『近代における新出敦煌文献の校訂、初期禅宗史の研究に貢猷した学者で』あったが、一九五〇年以降に『行方不明になった』(「北朝鮮に拉致されたか」という趣旨の記載が後に載る)とされる学者である。慶州生まれで、京城第一高等普通学校を卒業後、小学校教師を務めたが、一九二一(大正一〇)年に日本の京都の真宗大谷派の大谷大学に留学し、予科から文学部支那文学科に進学、鈴本大拙・倉石武四郎に師事した。一九二三(大正一二)年一月には「在京都苦学生会」を組織して会長となり、この昭和二年三月に同学科を卒業し、同年中には朝鮮(一九一〇年八月二十九日以降は現地は日本統治時代であった)に帰国している。則ち、卒業から三ヵ月ほど後に、恐らくは金の方から何らかのアプローチがあり、本書簡での龍之介の言葉遣いの印象からは、複数回(但し、金宛書簡はこれ以外にはなく、金の書簡も存在しないようだが)の書簡の遣り取りがあったのではないかと私は推定する。帰国後は高等普通学校教師や京城帝国図書館司書官を務めたりし(一九二七年~一九二八年)、一九二八年下半期に家族を連れて北京に赴き、翌年から一九三一年までは北京大学の朝鮮語及び日本語講師となった。その同時期に、かの周作人や兄の魯迅とも交遊している。一九三〇年には敦煌写本校刊本を発行し、師の鈴木大拙や、北京大学教授であった胡適(こせき)と交わり、初期禅宗史研究と敦煌発見の「校刊本楞伽(りょうが)師資記」の刊行(一九三一年)に協力した。 他にも『満洲滞在期に金九経は、満洲の遣跡調査と歴史研究に尽力し』、「重訂満洲祭神祭天典禮」『なども残している』とあり(引用符を使用していない部分は論文内の年表に拠って私が纏めたためである)、『とりわけ、近代禅宗史学において重要な地位を占める『(敦惶本)楞伽師資記』が、千余年の時間を経て世に知られるようになったのは、金九経という若い韓国人学者を媒介とした日中韓三国学者の協力による産物といえる。金九経自ら「私の願いは日中学者の相互交通であった』『」と述懐したように、近代東アジアの学術交渉に貢献した人物という観点からも考察してみる必要がある』べき重要な人物である、と孫氏は述べておられる。是非、同論文全体に目を通されんことを、強くお薦めする。なお、本書簡もそこに引用されているが、孫氏はその書簡内容については一切触れておられない。

「書物禮讚」芥川龍之介の読書書誌を纏めた学術書誌PDF)では、金九経の著作として載せているが、そうではない。調べたら、あった! 中身は見られないが、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌データで判った! これは雑誌名である! リンク先の詳細レコード表示を表示されたい。すると、その雑誌(杉田大学堂書店発行。一号から十一号とあり、発行は大一四(一九二五)年六月から昭和五(一九三〇)年七月までで、以降「廃刊」とある。国立国会図書館にあるのは同雑誌の合冊本らしい)記事細目の中に、金九經が投稿したものと思われる記事★「慢性出鱈目」★があった!!!

「訣、譯、ともにあて字たる」以下の龍之介の記載から、「訣」を「譯(訳)」の代用字として国字として「わけ」(「ゆえ」・「いわれ」等の軽い意味)と読む場合を指している。本来の漢字としての「訣」には「解釈する」という正統な意味はあっても、我々が今も使う「そういうわけ」といった「わけ」という軽い意味は全くないからである。

「唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候」金九經が龍之介のどの作品を指摘したのかは、確定は不可能だが、例えば、この直近の異色作で、金のような日本語に自在で、深い学識を持った人物が読んだものとなら、「玄鶴山房」かも知れない。リンク先の私のページで検索をかけて貰うと判るが、本文内で七ヶ所も使用されてある。但し、他にも龍之介は「訣(わけ)」をよく用いており、それ以前の「河童」でも十ヶ所ある(「訣別」は除く)。或いは「文藝的な、餘りに文藝的な」の可能性もある。この評論では、実に二十八ヶ所も使用されているからである。評論は或いは中国語も自在な朝鮮人である彼にとっては、小説よりも読み易かった可能性があるからである。

「慢性出鱈目」国立国会図書館デジタルコレクションの上記が見られないので内容は不明であるが、当時(そうして現代まで)の日本人が、世正規の国字でない漢字を、和語として、本来の漢字としては、あり得ない誤った使い方をしている「慢性」的な「出鱈目」の状況を述べたものであろうか。

「慢性も言海には慢性とあり」芥川龍之介! 嘘、こくな!! 俺の持ってる明治三七(一九〇四)年縮刷版(ちくま学芸文庫の覆[やぶちゃん注:ママ。]製本)にはな!(【 】は底本では長方形の囲み字)

 まん-せい(名)【漫性】醫ノ語、病症ノ永引クモノ。

ってあるぜ!!! 但し、芥川龍之介は蔓(つる)みたいに漫(みだ)りにうじゃうじゃ言ってるけど、ネットを調べるに、現在は中国語も朝鮮語(漢字表記の場合)も日本語の「慢性」を同じく「慢性」と表記していることが確認出来た。

「高須氏」不詳。

 以下、年譜より。

七月九日土曜日 『久保田万太郎を訪ね、『湖南の扇』を進呈し、一時間ほど話』した。

七月十日日曜日 『朝』、養母儔(とも)、『文、也寸志の三人が下島勲の楽天堂医院に行く』(まずは、道章の予後の確認であろう。但し、妻文が、直感で龍之介の精神的な異変に気づき、相談もしたものかも知れない)。『夕方、往診帰りの下島が来訪し、四人の来客と一緒に雑談をする。夜、小穴隆一、堀辰雄、下島らが来訪する。堀が帰った後、午前』二『時頃まで小穴、下島と花札を』した。

  「西方の人」を脱稿。

七月十三日 『夜、小穴隆一と六百間』(花札の競技の一種の名)『をしているところに下島勲が来訪して加わる。下島は午前』零『時頃、帰宅し、小穴は泊まっ』た。

七月十四日頃『室賀文武が来訪する。来客を帰して、深夜までキリスト教について話し合』った。

七月十五日 『午後』四『時頃、下島勲が来訪する。文に動坂まで『湖南の扇』を買いに行かせ、署名して進呈した』。『電報で永見徳太郎を自宅に呼び、「河童」の原稿を与え』ている永見は作家の原稿を蒐集する癖があったので、何んとも思わずに喜んで受け取ったのだろうが、明らかな「形見分け」である)。『夜、永見、小穴隆一、沖本常吉と四人で、亀戸に遊』んだ。

七月十六日土曜日 『夜、室賀文武が来訪するが、フキが理由を付けて断る。これを後で聞いた芥川は、会いたかったと漏らした。下島勲が来訪し、帰りがけの室賀に会っている』。

七月十七日日曜日 『午後』六『時頃、文を連れて観劇に出かけ、午後』十一『時頃、帰宅。途中、文に金時計を買い与え』ている(太字は私が施した)。結婚後は、苦労ばかりかけてきた文への、最後の思いやりであったのだろう。

七月十八日 『小穴隆一の下宿を訪ね、座布団の下に五〇円を置く』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』を参照されたい)。『帰途、道章の診察を終えて小穴宅に向かっていた下島勲と会い、書斎で午前』零『時頃まで談笑』した。

七月十九日 『早朝、多加志が発熱し、下島勲が来診する。この日、鵠沼を訪れる予定だったが、中止した』。『午後、小穴隆一が来訪』した。]

 

 

 

昭和二(一九二七)年七月二十日 コウヂマチクウチサイワイチヨウサイワイピルデイングナイ」カイソウシヤ宛(電報)

 

ユク」アクタガ ハ

 

[やぶちゃん注:電報でドキッとするが、同日の年譜に、この翌八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事を』したのがこれである。

 以下、この日の年譜。『フキと諍いを起こし、フキが泣き出したため宥めたが、気持ちはおさまらず』、龍之介は『床の間にあった花瓶を庭石に投げ付け』ている。『内田百間が来訪するが、半醒半睡の状態で、時には』、『来客の前にもかかわらず眠ったり』した。『午後』四『時頃、道章の診察を終えて二階の書斎に顔を出した下島勲を引き留め、内田を送り出した後、二人で六百間をする』。なお、一方で、『この頃、日に一回は卒倒していたのが』、『おさまっている』ともある。

七月二十一日 『睡眠薬を飲んで』、『昼寝をしていたところを』、『雑誌記者の来訪で起こされ、乾嘔して苦しむ』。『午後、内田百間と一緒に自宅を出て、宇野浩二の留守宅に見舞いの品を届ける』。『小穴隆一の下宿に立ち寄り、義足を撫でて帰った』(『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』参照)。『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を中し入れていた佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』(ダブりがあり、詳しくもないが、『小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」』の私の「佐多稻子」の注を参照されたい)。]

 

 

昭和二(一九二七)年七月・田端・自宅にて・葛卷義敏宛(「西方の人」原稿と共に)

 

この原稿の番號を打ち直し、改造社の使に渡して下さい。

               龍 之 介

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:太字「番號を打ち直し」は底本では傍点「◦」。

 年譜より(以下、凡て私が太字とした)。

七月二十二日 『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏約三五度)を示す猛暑』となった。『午後』三『時半頃、下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方、小穴隆一も来訪し、午前』零『時頃まで死について話をした』。『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成しないため、取止め』たとされる。

七月二十三日土曜日 『午前』九『時頃、起床』し、『口調もはっきりしており、朝食で半熟卵四つと』、『牛乳二合をとる。書斎に閉じこもって「続西方の人」を書き続けた。文と三人の息子と一緒に、談笑しながら昼食をとる。午後』一『時頃と午後』三『時頃、来客』、『それぞれ』、『一人。午後』五『時半頃、二人。この二人と夕食を共にした。午後』十『時半頃、来客は帰った。この日は、小穴隆一も下島勲も訪れていない』。『深夜、絶筆「続西方の人」を脱稿』した。

七月二四日日曜日 『午前』一『時頃、フキに、下島勲に宛てた短冊「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」を預ける』。『午前』二『時頃、書斎から階下に降り、文と三人の息子が眠る部屋で』、『床に入』った。『この時、すでに致死量のベロナール、ジャールなどを飲んでいたものと思われる』(私藪野は山崎光夫氏の「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)の説に賛同して、自殺に用いたのは劇毒の青酸カリであったと考えている)。『二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた』。『午前』六『時頃、文が異常に気付き、すぐに下島勲、小穴隆一に知らせたが、午前』七『時過ぎ、死亡が』医師下島勲によって『確認され』た。『小穴はデスマスクを描いた』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から同デスマスクを含む「二つの繪」の表紙カバーを以下に再掲しておく)。午後』九『時、親族の反対もあったが、久米正雄の説得により』、貸席「竹むら」で、「或旧友へ送る手記」が『久米から発表され、自殺が公表され』た。『この時、一八枚の原稿のうち二枚が紛失してい』たが、四日後の『二十七日に何者かの手で返送されて』きた、とあるが、これはちょっと端折り過ぎであって、公表された時は、ちゃんと全原稿があった。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の同作の項によれば、『読み上げた後、報道陣の強い要望で写真に撮るために遺書』(本作のこと)『原稿が全文』(二百字詰原稿用紙で九枚)が『貼り出されたが、回収してみると』、『二枚不足していた。公表を主張した手前、久米は大いに慌てたが、各社に回状を出すなどした結果、出棺直前の二十七日に、女文字の封書で紛失分が返送されてきて、かろうじて落着したという』とある。

 

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七月二十五日 『午後』四『時頃、夫人や親族によって納棺され、客間に移される。夜、家族や友人などによる通夜が執り行われた』。『前日は日曜日で夕刊が休みだったため、各紙は一斉に大きく芥川の死を報じた。読者への遺言とも言うべき「或旧友へ送る手記」』『に自殺の動機として書かれた「将来に対するぼんやりした不安」は、当時の時代を言い当てた字句として社会を震憾させ、人々に大きな衝撃を与えた』とある。「或舊友へ送る手記」はこれ

七月二十六日 『文壇関係者による通夜』となった。

七月二十七日 『午後』二『時頃、自宅から出棺。午後』三『時から』四『時少し前まで(三〇分の予定)、谷中斎楊で葬儀が執り行われ』、『導師は慈眼寺住職の篠原智光師』であった。『泉鏡花(先輩総代)、菊池寛(友人総代)、小島政二郎(後輩代表)、里見弾(文芸家協会代表)によって弔辞が読み上げられ』、『文壇関係者百数十名を含め、千五百名余りの弔問客が参集し』、午後』四『時』半『分頃、町井の火葬場の釜に納められ』た。同じく『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から、「当世文壇番附」の如き芥川龍之介葬儀場の配置図を再掲しておく。

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翌二十八日 『午前、日暮里の火葬場で火葬。午後、家族や親戚、さらに恒藤恭ら若干の友人たちによって骨揚げがなされ』ている。

七月三十日土曜日 『初七日』。

   *

九月二十四日土曜日 『午後』三『時』「竹むら」で『追悼会が行われ、久米正雄、菊池寛ら三十数名が列席する。その席で、改造社『現代日本文学全集』の宜伝用に撮影された、在りし日の芥川が映った活動写真が上映され』ている。YouTube のこれである。

   *

『遺骨は染井の慈眼寺境内に埋葬』され、『遺志により、墓石は、寸法も含め』、『愛用の座布団が形どられた』。『墓碑銘「芥川龍之介墓」は、小穴隆一の筆によるもの』であったが、十『月下旬の時点でも、宇体候補は決まっていな』かったとある。私は大学卒業の三月、墓参し、墓を洗った。

 なお、これで「芥川龍之介書簡抄」を終るつもりは――ない――また――必要となら――幾らでも晒す。芥川龍之介よ、勘弁して呉れよ…………]

芥川龍之介書簡抄146 / 昭和二(一九二七)年六月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年六月十日・田端発信・柳田國男宛

 

冠省、先夜は失禮仕り候。「まひまひつぶろ」のぬき刷り、ありがたく拜受致し候。尙又近頃泉先生より河童の話をいろいろ伺ひ候。

     舊句 金澤にて

   簀(す)むし子や雨にもねまる蝸牛

御一笑下され度候。頓首

    六月十日夜      龍 之 介

   柳 田 國 男 樣

 

[やぶちゃん注:以下、例によって前後を新全集の宮坂覺氏の年譜より引く。上記にある通り、この六月(自死前月)初旬、『泉鏡花に会って河童の話を聞』いている。六月二日、前月末に激しい精神異常を発症した宇野浩二を斎藤茂吉に『診察してもら』い、田端の自宅近くの天然『自笑軒で斎藤と夕食をとり』、その『帰途、午後』十『時頃、下島勲を訪ね、宇野の症状を話した』。六月四日土曜日、『「冬と手紙と」の「一 冬」を脱稿』、同七日、『「冬と手紙と」の「二 手紙」を脱稿』した(「冬と手紙」とは昭和二(一九二七)年七月一日発行の『中央公論』に二パートを合わせて掲載されている。リンク先は私のサイトの電子化)。而して、六月九日の『夜、柳田国男と会って「まひまひつぶろ」の抜き刷りをもら』っており、本書簡はそれへの礼である。また、この日に「三つの窓」を脱稿している。「三つの窓」は昭和二(一九二七)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載されたが、雑誌掲載の作品としては、芥川の意識の中では、「西方の人」「或阿呆の一生」へと直連関してゆく、最晩年の重要な作品の一つである(リンク先は総て私のサイト版電子化。前者は正・続を合わせた完全版で、後者は未定稿(草稿)附き)。また、この龍之介は『編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とあり(これは「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)」に拠る記載である)、厭人癖が見られる。他に、この『上旬』、『斎藤茂吉の紹介で、嫌がる宇野浩二を王子の精神科医院小峰病院に入院させ』てもいる。

「まひまひつぶろ」この三年後に刀江(とうこう)書院から昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を刊行することになる「蝸牛考」の一部(どの部分かは不詳)の抜刷。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同初版を分割でオリジナル注附きで電子化を終わっている。

「簀むし子」(すむしこ)「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照されたいが、前書から、金沢などの旧加賀藩内などの北日本に独特の建築構造物(ここは屋外との仕切りとして装着されたものだが、屋内の部屋と廊下の間に透き障子の代わりとしても使用されることがあるようである)であり、そちらの注で、私は『「簀むし子」については、中田雅敏編著 蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文に拠れば、竹の簀を、道路に面して格子代わりに横に細い桟で打ちつけ、積雪や日差しの直射を避ける日除けとある。一九八六年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」では、『中からは外が見え、外からは中が見えないこの地方独特の仕掛けで、いわゆる格子とは似ているが』、『ちがうものらしい』ともある』とした。茨城県の「益子材木店」公式サイトの富山県『岩瀬大町・新川町通りの「簾虫籠(すむしこ)」』の写真(現地の解説版含む)と解説がある。私はこの写真の通りを、三年前に友人らと歩いた。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月十四日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

原稿用紙で失禮。日本では滅多に吸へぬ煙草をありがたう。不相變たつしやかね。この間大東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した。それから北海道へ行つた。

   雪どけの中にしだるゝ柳かな

これは旭川の吟だ。

    六月十四日      龍 之 介

   齋 藤 貞 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、ごく親しかった友人であった。既出既注

「東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した」「本所兩國」(リンク先は私の注附サイト版)の「綠町、龜澤町」に出てくる「Sと云ふ友だち」と思われる。

 年譜には、六月十二日日曜日、『午後、下島勲と宇野浩二の病状などを話していると、林房雄。神崎清が来訪』し、『プロレタリア文学について議論を交わした』とあり、この書簡の翌六月十五日には、『佐佐木茂索を鎌倉に訪ね』、『偶然』、『遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼に一泊』(東屋旅館か)し、翌十六日に『鵠沼から田端の自宅に戻』ったとある。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十一日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省度たび頂戴ものを致しありがたく存候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十一日     龍 之 介

   小手川金次郞樣

     旭川

   雪どけの中にしだるゝ柳哉

御一笑下され度候

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は作家野上弥生子の弟。既出既注

 年譜より。この前日、遺作となる問題作「或阿呆の一生」を脱稿している。冒頭にある久米正雄宛の当該原稿を託す内容のそれ(傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

 僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き惡夫、惡子、惡親を持つたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。

 ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と云ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

    昭和二年六月二十日  芥川龍之介

   久米正雄君

   *

のクレジットは御覧の通り、その六月二十日である。則ち――芥川龍之介は《作家としての創作としての完成品としての遺書》である「或阿呆の一生」――を三十四日前に――書き終えていた――のである。なお、小穴隆一は「或阿呆の一生」の原稿が最初に託されていた相手は、自分、小穴自身だった、と証言している(『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照)。小穴はエキセントリックなところが多分にあり、その証言は安易に無批判に信用することは危険なのだが(私はブログのこちらで「二つの繪」と「鯨のお詣り」の二作品全文をオリジナル電子化注している)、これは「さもありなん」とは思う。ただ、龍之介が作家としての小説形式の遺書を――芥川龍之介自身が百%公開を確信犯で予知しているそれを――託すに相応しいのは、久米だと――計算して変更した――と私は考えている。そうして、それは正しかったとも考えている。

 なお、この日には、生前最後となる創作集「湖南の扇」が文藝春秋出版部から刊行されてもいる。

 また、翌六月二十一日には、前月分の最後で問題にした「東北・北海道・新潟」(自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載)を脱稿している。]

 

昭和二(一九二七)年六月二十四日・田端発信・大岡龍男宛

 

冠省高著お贈り下されありがたく存候 唯今序文だけ拜見致し候高濱さんの序文は小生などにも藥に相成り候 いづれゆつくり拜見仕る可く候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十四日     芥川龍之介

   大 岡 龍 男 樣

 

[やぶちゃん注:「大岡龍男」(明治二五(一八九二)年~昭和四七(一九七二)年は俳人で小説家。東京市下谷区出身。慶応義塾大学中退。十二歳で童話作家として知られる巌谷小波に師事して俳句を学んだ。後、三省堂・NHK(後に文芸部プロデューサーとして黒柳徹子を見出した人物らしい)に勤務する傍ら、大正初期に高浜虚子の門下となり、後に『ホトトギス』同人となった。この年に小説集「不孝者」(大阪・天青堂刊・序(高濱虛子・德冨蘇峰))を刊行しているから、「高著」はそれである。ネットを見る限り、俳句は殆んど見当たらず、しかもしょぼい(まあ、虚子の門じゃね)が、写生文や小説は、結構、評価している記事が見られる(私は未見)。

 年譜より。この翌日、六月二十五日土曜日、『小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の』待合『「春日」に行き、馴染みの芸者小亀と会う。この日は、小穴が』芥川家に『泊まってい』ったとある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』に基づく。無論、この「小かめ」とのそれは、鷺氏が年譜で仰るように、秘めて別れを告げるためであったに相違ない。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・遠田信太郞宛(封筒に「遠田一路風樣」とあり)

 

冠省さくらんぼありがたく存候まい度御配慮にあづかり忝く右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   遠 田 信 太 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」「遠田一路風」岩波新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、ネット検索で判明した。山形県遊佐町(ゆざまち)の『広報ゆざ』第六百二十八号(平成二五(二〇一三)年六月一日発行)PDF)の「輝ける遊佐(まち)つくりびと㊳」として「遠田信太郎」として最終ページ(裏表紙)に記事が書かれ、それによれば、薬剤師で俳人の遠田信太郎(のぶたろう 明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)である。山形県酒田生まれで、大正二(一九一三)年に『鶴岡の荘内中学を卒業後、金沢医学専門学校に進学して薬学を学び、父の後をついで酒田で薬局を始めます。昭和』二十『年代には遊佐町に薬局が』一『店もなかったことから遊佐町十日町に居を移し、現在の「ユザ薬局」を開業。それまで遊佐町には薬店しかなかったため、調剤は酒田まで求めに行かなければならない状況を改善し、地域医療の発展に貢献しました』。『一方で』、『若い頃から俳句をたしなみ伊藤万寿に入門』し、『俳号を一路風』『とし、庄内で著名だった俳人の竹内唯一郎、伊藤酉水子(ゆうすいし)とともに三羽烏と称されるなど』、『文化人としても名高かった信太郎は』、『俳句仲間とともに町内への俳句の浸透に努めました。また、芥川龍之介と文通する』(☜)『など著名人との幅広い交友関係を持ちました。釣にも没頭し、店を家族にまかせて』、『吹浦や象潟まで出かけることも多く、家には庄内竿が何本もあったといいます』。『明治気質で』、『家庭でも冗談を言うことはほとんどなかったといいますが、孫を叱ることは一度もないなど』、『「やさしいおじいちゃん」であった』とあり、『感性豊かな文化人が築いた健康の一拠点は、今も多くの人の生活を支えています』とあるから、間違いない。岩波新全集の次回の新版では明記されることを望むものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・東宮エルザ宛

 

敬啓 東宮樣御長逝のよし承り候謹みて御悼み申上候 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   東 宮 エ ル ザ 樣

 

[やぶちゃん注:「東宮エルザ」既出既注のエスペランティスト東宮豐達の長女。]

2021/09/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 附錄蛇祟

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 附錄蛇祟

[やぶちゃん注:「附錄」でお判りの通り、海棠庵の発表。段落を成形した。]

   ○附錄 蛇祟

 文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]四月廿七、八日の頃、柳川侯淺草鳥越[やぶちゃん注:現在の東京都台東区鳥越(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の中屋敷に住める火消中間千次郞、程五郞といふもの、田所、庭中、田字亭[やぶちゃん注:どこで切れるのか判らないので、適当に二箇所に読点を打っただけ。]といへる茶屋のほとりにて、蛇の交接せるを見つけて、さんざんに打擲し、終に殺して、門前の溝へ捨てけり【「此時まで、蛇は死しても、猶、繩の如くに、よれて、はなれず。」と云ふ。】。

 かくて、右、千次郞、五月八日、上野御成の節、上屋敷へ詰め、その歸より、病氣づきて、甚、苦みければ、彼程五郞は、

「蛇のたゝりにや。」

と察し、戶田川の邊に、「羽黑山」といへる、あるよし【羽州羽黑の出張などにや。】、右に、いたり、

「堂邊の榎の虛(ウロ)中の水を乞はん。」

とて、既に汲まんとしたるとき、釣甁、きれて、落ちければ、

「いかゞせん。」

と、あわてしをり、寺僧、立出で、

「汝が祈る病人、快氣すべからず。」

と、示しぬれど、

「兎にも、角にも、水をば、乞ひ奉らん。」

とて、やうやくに得てかへり、千次郞に與へけれども、遂に五月十五日に、みまかりぬ【此千次郞は、川越在の產にてありし。その死せる時、兩手の指にて、豆を拵へて、果てしとぞ。】。

 淺草安樂院といへるに葬りし、とぞ。

 扨、程五郞は、その月廿日頃より、

「肩より、腹へかけて、痛む。」

と覺えしが始めにて、日を追うて、熱氣、つよく、蛇の事のみ、口ばしりて、狂ひ𢌞りしが、遂に走り出でゝ、久保田侯の中間部屋に至り、それより、淺草阿部川町龍德院【程五郞が菩提所也。】といへるにゆきて、和尙に願ひけるは、

「おのれ、頭に蛇とりつき、惱苦に得堪へず。あはれ、御弟子となされ、髮を剃り給はれかし。」

と、いひけるを、和尙は

「發狂にやあらむ。」

とて、程五郞が父淺草六軒町「の」組の頭取角十郞といへるもの、これも檀家の事なれば、則呼びよせて、問ひしを告げければ、やがて、角十郞方へ引きとり【程五郞は是まで不行蹟により、家出してありしとぞ。】、さまざま、療用しつゝ、本所邊なる修驗者【名を詳にせず。】をたのみしに、右の修驗、いまだ何とも告げざりしに、修驗は、彼の蛇のたゝりの事、「羽黑山」に走りし事まで、とき示し、

「羽黑は、神體、白蛇におはするに、却りて、あしき事を、せし。」

と、いひけるとぞ。

 かくて、程五郞が病苦、日々に、おもりて、六月朔日に、むなしくなりしかば、すなはち、龍德院に葬りけり。

 初、かの兩人が蛇を殺しけるとき、榮吉といふもの手傳しに、兩人が死せしよしを聞くと、やがて、病氣づきて、これも危かりしを、漸、平癒して、定火消の人足部屋に、をる、といふ。

 此物がたりは、柳川侯の中間部屋頭のものより、親しく聞きし人より、傳へて記したるなり。

 凡、物、みな、暗疑より、病を生ずること、昔の樂廣が、客の盃中の弓影を、「蛇なり」とあやまり見て、病みし如きためし、少からねど、抑、この柳川藩のものども三人まで、鬼邪にをかされしも亦、一奇談なり。

  乙酉秋七月初八      海棠庵 再記

[やぶちゃん注:『戶田川の邊に、「羽黑山」といへる、あるよし』この地名と「羽黑」と木の洞の中の霊水から、これは「江戸名所図会」巻之四に出る「戶田(とた) 羽黑靈泉(はくろれいせん)」と確定してよいだろう。但し、そこでは「榎」ではなく、「椋」とある。メタボン氏のブログの「江戸名所図会 戸田川渡口」を見られたい。場所はブログ主の指示した場所を示した。「戶田川」は荒川の部分名称で、現在の埼玉県戸田市戸田公園附近にあったようである。

『昔の樂廣が、客の盃中の弓影を、「蛇なり」とあやまり見て、病みし』集英社の「イミダス」によれば、「晋書」にある「杯中の蛇影」とする。「疑心暗鬼を生ず」の類語で、『疑いを抱いて物事を憶測すると、なんでもないことにまで脅えることがあることをいう。むかし』、『中国の河南で役人をしていた楽広という人が、無二の親友の足がばったりと途絶えたので、理由をただしてみたところ、かつてごちそうになったおり、杯の酒に蛇』『の影が映り、それがもとで寝ついてしまったという。これを聞いた楽広は、もう一度、その客を招待してごちそうし、同じように酒を注いで蛇影が映るか問うたところ、見えるという。調べると壁に掛けておいた弓が映っていたのだ。以来、その親友の病気は、けろりと治ったという故事による』とあった。「Web漢文大系」のこちらで、同じ話を引く「蒙求」の「広客蛇影」が原文・訓読で読める。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 土中出現黃金佛

 

[やぶちゃん注:海棠庵発表。図は底本からトリミングした。段落を成形した。キャプションは、円龕の最上部に、左を上にして、

「口ノ径(わた)リ五寸余」

下方に右から、

「蓋ヨリ下髙一尺」

 「天女ノ如キモノヲ

    彫(ほり)モノトス」

  「蓋共ニ總(すべて)金ナリ」

か。「總」は自信はない。]

 

Engan

 

   ○土中出現黃金佛

 今茲、文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の春、熊野本宮社、

「川除[やぶちゃん注:「かはよけ」。堤防などの水害防止施設。]の堤を築かん。」

とて、社境内の川上なる大黑島といふ岩山より、大石を引き出だす。

 爰に、あやしき事あり。

 石を出だす雇夫等、砂を穿ち、磐石を割るのいとま、

「暫く、勞を休めん。」

と。側によりて、憩ひ居れば、巖上の土石、おのづから崩れ落ちて、止まず。

 工人、各、その業をなす間は、土石、崩るゝこと、なし。

 憇へば、又、崩る。

 かゝること、數日にして、その春彌生の廿日より、あまたの烏、この處へ飛び來りて、人を、おそれず、譬ば、腐肉に蠅の集ふが如し。

 かくて、この日より次の日まで、銀器の缺けたりと見ゆるものを、數片、掘り出だしけり。

 されば、又、廿二日に至りては、烏の聚まること、いよいよ多く、空中に飛び翔りて、翅をたゝき、背を鳴らし、殆、人の頭上を喙まん[やぶちゃん注:「ついばまん」。]とするの勢なれば、心よはき雇夫等は、迯げ走りて、これを避け、壯々なるもの共は、怪み疑ひながら、そがまゝに、土石を穿つに、その日も既に亭午[やぶちゃん注:正午。]になりしころ、土中より一つの、瓷[やぶちゃん注:「かめ」。甕。]、顯れ出でけり。

 そのさま、今の世に見なれざる器なれば、人みな、うちよりて、これを見るに、その瓷に彫れる文字あり、左の如し。

    熊野山如法經銘文

    大般若一部六百卷

      白瓷箱十二合

      箱 別 五 十 卷

    保安二年歲次辛丑十月日

      願主沙門良勝

      檀越散位秦親任

 この瓷中に、黃金にて造れる圓龕一箇あり。その圖、如下。

[やぶちゃん注:ここは底本も改行。]

 此金龕の蓋をひらき見るに、内に、闇浮檀金の阿彌陀佛の尊像一軀を藏む。御長け七寸。愛愍接取の慈眼、あざやかに、瑞嚴殊勝の妖相、尊くをがまれ、諸人奇異の思をなせり。先に得たる所の白銀[やぶちゃん注:「しろがね」と訓じておく。]の器とおぼしきものは、破れ損じて、形、全からぬも、取り集めて、重さを量るに、八百目[やぶちゃん注:三キログラム。]に餘れり。

 今度、紀藩より、修理の宰[やぶちゃん注:長官。]として、爰に來りし吏石井傳左衞門といふ人、

「是を得て、藩主に奉り、命を請はん。」

と祕襲[やぶちゃん注:「内密に納めて。]して、その月の廿四日に、本宮を發して、府にかへれり。

 右一說は、藩にちなみある一友人に得たり。

  文政乙酉孟秋朔    海棠菴思亮 記

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 解、按ずるに、保安二年[やぶちゃん注:一一二一年。]は鳥羽院の御宇にて、藤原忠通公關白の時の事なり。文政八年乙酉まで七百零七年[やぶちゃん注:「七零五年」の誤り。]をへたり。當時、秦氏の人に、高位のもの、聞えず。散位の事は、さまざまの說あれども、位の高卑に拘らず、「冠位有りて官職なきを散位といふ」と予は思ひをり。猶、職事家[やぶちゃん注:「しきじか」。律令制に於ける特定の官人集団に詳しい方。]にたづぬべし。秦氏は「忌寸」[やぶちゃん注:「いみき」。]の姓[やぶちゃん注:「かばね」。]にて、秦始皇の後なるよし。「姓氏錄」諸蕃の譜に見えたり。「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか。さばれ、慥なる證を得ざれば、何とも、いひがたし。當時、熊野別當は、いきほひあるものゝよし、聞ゆ。熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり。良勝は、いづくの沙門ぞや。これも熊野の別當か。なほ考ふべし【著作堂主人追記。】。

[やぶちゃん注:ここに描かれた円筒形経筒は、「本宮経塚出土陶製外筒」として現存する(東京国立博物館蔵)。「和歌山県立博物館」公式サイト内の「常設展ガイド」の「熊野の経塚」で画像も見られる(図よりも高さがなく、ずんぐりしたものである)。その解説に、『経塚とは、平安時代後期以降、末法思想の広がりを背景に、仏教の衰滅を恐れた貴族や僧侶が、法華経などの経巻を経筒に入れ』、『仏具類とともに地中に埋蔵したもの。経塚の築造には霊地などの特別な土地が選ばれ、熊野にも多くの経塚がつくられた。それは熊野詣の目的のひとつでもあった。今日、その豊富な内容は、我が国の経塚研究のうえで重要な意味をもっている』とし、『本宮経塚出土陶製外筒』として、『文政八(一八二五)年、熊野本宮の付近から経塚が発見された。(『熊野年代記』)。この時出土した経筒の外容器は渥美窯製とされ、現存する経筒類としては最大のものである。側面には銘文七行五一文字』(本記載と完全に一致する)『が刻まれており、保安二(一一二一)年に願主良勝と壇越秦親任とが、大般若経六〇〇巻を五〇巻ずつに分けて、この地に埋納したことがわかる。かつて本宮社地周辺にも新宮や那智と同様に多数の経塚が造営されたであろうことを想像させる』とある。

「大黑島」「み熊野ねっと」の『熊野本宮大社旧社地「大斎原」の石積護岸』によれば、『熊野本宮大社がもともとあった』『大斎原(おおゆのはら)』にある、古い『石積みの割石は、対岸に大黒島という石切り場があるので、そこから船で運ばれて来たものと考えられ』るとある。されば、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の東側の熊野川左岸に、この大黒島(読み不詳。「おほぐろじま」と仮に読んでおく)はあったものと考えられる。

「沙門良勝」不詳。

「散位」(さんみ/さんい)は律令制下で位階を持ちながら、官職に就いていない者の呼称。「散官」とも称する。もとは散位寮、後に式部省所轄とされ、臨時の諸使・諸役のために出勤したりした。但し、三位以上でありながら、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の孰れにも就任していない者を指す場合もあるので注意が必要である。

「秦親任」生没年未詳乍ら、文化庁の「国指定文化財等データベース」のこちらに、彼の関わった重要文化財「松尾社一切経(まつのおしゃいっさいきょう)」(京都府妙蓮寺蔵)としてあることが判った。その解説に、『『松尾社一切経』は、永久三年(一一一五)ころ、松尾神社の神主をつとめた秦親任をはじめとする秦氏の一族が発願し、二三年の歳月を経て、保延四年(一一三八)ころ、その子秦頼親のときに完成した一切経である』。『体裁は一部折本装に改められたものを除き、すべて巻子装で、茶表紙、朱頂軸など原装を存する。本文料紙は黄蘗染あるいは丁字染の楮紙を打紙し、淡墨界を施して用い、本文はおよそ一行一七字で書写される。本経の書写については、筆跡が多様であり、本経が秦氏一族を中心に京都周辺の僧俗を含めた数多の人びとによって書写が行われたことを示している』。『各巻末の書写・校合・読誦等に関する奥書は内容が豊富で、とくに『大方広仏華厳経』など計四七巻の奥書には、秦親任を長とする秦氏一族の名が詳しく記されており、当時の秦氏の族的結合を検討する際の好史料である。また校合は、保延五年(一一三九)から康治二年(一一四三)にかけて延暦寺や三井寺などの僧が奈良朝写経の梵釈寺本等を用いて厳密に行っており、本紙の継目表裏や紙背に平安時代末期の「松尾社/一切経」朱印や花押、あるいは「松尾社」などの墨書がみえることは、本書の書写校合の経過を考えるうえにも注目される』。『これらの経巻は「松尾宮読経所」において読誦等に用いられていたと考えられるが、伝来の過程で欠失した部分は他経をもって補われている。たとえば『大般若経』は、数種類の写経からなるが、うち一九巻には、紺紙の表紙と見返に金銀泥や金箔・彩色などで描かれた経意絵があり、十一世紀にさかのぼる作例としても貴重である。さらに松尾社の西方に接し、秦氏一族の勢力下にあったとみられる妙法寺において僧良慶が願主となり、平治元年(一一五九)から永万元年(一一六五)ころにかけて書写した経巻が少なくとも五二巻を数えるほか、「地蔵院一切経」「南都善光院一切経」の印文のある経巻なども含まれており、平安時代から室町時代にかけて一切経の読誦にともなう経巻の補充が盛んに行われていたことが知られる』。『この松尾社一切経は、嘉永七年(一八五四)三月、松尾社の「読経所」の閉鎖後、その所在が不明となっていたが、平成五年八月、立正大学中尾尭氏の調査により、妙蓮寺の宝蔵でまとまって発見され、本経が安政四年(一八五七)ころ、妙蓮寺の有力信徒によって寄進されたことなども明らかになった』。『このように本経は当初のままの姿を伝えた十二世紀の一切経遺品として、当時の京都周辺で行われた一切経書写事業の実態を併せ伝えて価値が高い』。『なお、附とした経箱は、ヒノキ材を用い、内側に黒漆を塗った被蓋箱三八合で、嘉暦二年(一三二七)の虫払の貼紙墨書や、文安四年(一四四七)の修理銘等から、鎌倉時代後期に製作され、本経巻を納めた経箱と認められるもので、本経の伝来を知るうえでも重要であり、併せてその保存を図ることとしたい』とある。

「圓龕」「龕」は、通常は仏像を納める厨子・仏壇のことを言う。経典は仏像と等価だから、問題ない。

「闇浮檀金」「えんぶだごん」と読み、「閻浮提金」とも書く。サンスクリット語の漢音写。閻浮提(えんぶだい:人間世界・現世のこと。世界の中心である須弥山の四方にある大陸の内、南方にあって、閻浮洲(えんぶしゅう)・南閻浮提・南贍部洲(なんせんぶしゅう)とも呼ぶ。金塊が埋まっている閻浮樹が生えているとされ、もとはインドを指した。ここは、その閻浮樹の林の下、或いは、そこを流れる川の底に産する砂金を指し、また、広く赤黄色を呈した良質の金をも言う語である。

「愛愍接取」(あいみんせつしゆ)。「愛愍」は「目上の者が目下の者を愛おしく不憫に思うこと」の意だが、ここは広大無辺の大慈大悲で洩れなく衆生に接してそれを掬い取る弥陀のそれを言う。

「瑞嚴殊勝」厳かな瑞兆に包まれて特に優れているさま。

「妖相」この場合は、限りなくあでやかな尊貌を言う。

「石井傳左衞門」不詳。

「藩主」当時は紀州藩第十一代藩主徳川斉順(なりゆき)。元清水徳川家第三代当主。江戸幕府第十四代将軍徳川家茂の実父。

『秦氏は「忌寸」の姓』「忌寸(いみき)」は天武天皇一三(六八四)年に制定された「八色の姓」(やくさのかばね:他に「真人(まひと)」・「朝臣(あそみ・あそん)・「宿禰(すくね)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」」で新たに作られた姓(かばね)で、上から四番目。国造系氏族である「大倭氏」・「凡川内氏(おおしこうちうじ)」や、渡来人系の氏族である「東漢氏(やまとのあやうじ)」・「秦氏」など、「元直(あたえの)姓」などの十一の「連」姓氏族が選ばれて、賜姓されている。その後、主として秦氏・漢氏の系譜を引く氏族に授与され、渡来系氏族に多い姓となっていった、と当該ウィキにある。

「秦始皇の後なるよし」ウィキの「秦氏」によれば、「日本書紀」で、応神天皇一四(二八三)年、百済より、『百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君』『を秦氏の祖とする』とするという。馬琴が言うように、平安初期の弘仁六(八一五)年に編纂された「新撰姓氏録」によれば、『「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが』、『その真実性には疑問が呈せられており』、『その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている』。『「弓月」の朝鮮語の音訓が「百済」の和訓である「くだら」と同音であることにより』、『百済の系統とする説などがある』とある。

『「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか』ウィキの「長宗我部氏」によれば、『長宗我部氏は、室町以降、通字に「親」を用いた』。『中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し』、『土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦』したが、『元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し』、『改易され』、『盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は断絶したとされる』。『他家に仕えるか帰農した傍系の子孫が、現在に残っている』とある。

「熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり」湛增(たんぞう ?~正治二(一二〇〇)年?)は平安末期から鎌倉初期の僧。熊野第二十一代別当。第十八代別当湛快の子で紀伊国田辺を本拠地とし、熊野水軍を統率していたと思われる。権別当を経て元暦元(一一八四)年十月に別当となった。父は「平治の乱」(一一五九年)で平清盛を助け、姉妹は平忠度に嫁し、平氏方に味方していた。「平家物語」では治承四(一一八〇)年の以仁王謀反を平氏方に通報したとし、また、田辺の今熊野神社に祈請し、「鶏合(とりあわせ)」まで行って占い、漸く源氏に味方することを決心、水軍を率いて、文治元(一一八五)年二月、屋島の源義経に合流し、平家の士気を喪失させたとするが、実際には、治承四年には弟と戦って謀反を起こし、既にして平家を脅かし始めていたようである。文治元年三月の「壇の浦の戦い」にも参加し、延慶本「平家物語」では、源頼朝の外戚の姨母聟と記されている。建久六(一一九五)年五月には上洛した頼朝と対面をしている。建久九年、別当を辞した。「爲義の婿になりし」というのは、源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」が湛増の妻の母に当たることを混同した誤認である。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 由利郡神靈

 

[やぶちゃん注:海棠庵発表。段落を成形した。]

 

   ○由利郡神靈

 羽州秋田【佐竹侯封内。】に、大平山といふあり。鎭坐の神を「三吉大明神」・「三助大明神」と號す。又、土俗、「三助お村」、あるは、「福の神」など唱へ、月の八日・廿一日を緣日とす。

 しかるに、同州由利郡知島領【生駒家封邑。】下村づゝ大琴村の農民惣十郞といふものあり。

 その性質、朴なるが、年ごろ、かの秋田なる三吉明神を信仰しけるに、いぬる文政七年四月七日の夜、あやしき夢を見たり。

 たとへば、一つの山上に、神人、ゐまし、その側に、人、ありて、神人に向ひて、

「日比、信仰なし奉るものは、是にて候。」

と、まうす。

 その時、神人のいはく、

「われ、汝に、さいはひを與ん。いよいよ、怠ること、なかれ。」

と告げ給ふ、と見て、驚き、さめぬ。

 惣十郞、奇異の思をなし、朝、とく、起きて、その妻に、かくものがたり、

「みやしろを建てゝ、祭りなん。」

といへば、妻、答へて、

「さることは、世間の聞えもいかゞあらん。心にて、仰尊み給へ。」

といふ。

 その夜、又、妻が見し夢、夫に、つゆ、違はざりければ、始めてその靈夢なるを語り、相共に謀りて、神祠を營まんとするに、

「夢中に見し處、惣十郞が本家なる大琴村【本庄龜田矢島の界。】の農民某が家の、後の山に彷彿たり。」

とて、先づ、試に、餠をつきて、供しけるに、しるしありて、牙のあとめきたるもの、付きてあり。されば、

「此處こそ、神慮に叶ひつれ。」

とて、いちはやく、みやしろを作りはじめしに、不思議なるは、その日より、はや、詣來る人、あり。

 全く、秋田なる大平山より、神の移り給ふなるベし。

 かくて、靈驗、日々にいちじるく、響の、物に應ずる如し。

 矢島にて、女を携へ走りしものを、立願せしに、おのれと、かへり來つ。

 或は、腰の立たざるもの、人に扶けられて詣でけるに、歸りには、獨步行く[やぶちゃん注:「ひとりありきゆく」或いは「ひとりありく」と訓じておく。]やうになり、又、某といふもの、

「立願の事ありて、成就せば、餠を備へまゐらせん。」

と、いひながら、その事、成就したれども、得備へざりければ、忽、それが苗代を、一夜に流されて、跡なく、なりし。

 その崇も亦、速なれば、一人として、おそれ尊まぬものも、なし。

 近邊は、さらなり、諸國より、日每に、三、四百人づゝ參詣羣集して、さしもの邊鄙、市をなし、彼惣十郞は、別當して、自[やぶちゃん注:「おのづと」。]、富を得ること、大かたならずなん。

 右一條の話は、當六月中旬、生駒家【矢島領主。】[やぶちゃん注:二行割注。]の臣に、助川龍造に、見も、聞きも、しつるなり。

「浮きたることにはあらず。」

とて、同人のかたりしまゝを、しるすにこそ。

[やぶちゃん注:「大平山」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高千百七十メートル。古くから山岳信仰の対象で、嘗ては女人禁制であったことが知られている。現在、太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)の里宮が麓に、山頂に奥宮がある。祭神は大己貴大神・少彦名大神・三吉霊神(みよしのおおかみ)を祀る。三吉霊神は、太平の城主藤原三吉(鶴寿丸)が神格化されたと社伝にはあるが、基本的には古くからの山岳信仰による神であり、力・勝負・破邪顕正を司る神という。社伝によれば白鳳二(六七三)年に役小角が創建したとされ、その後、延暦二〇(八〇一)年には、征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を建立し、鏑矢を奉納したという。中世を通じて、薬師如来を本地仏とする修験道の霊場として崇敬され、近世には秋田藩主佐竹氏からも社領を寄進され、現在の里宮は第八代曙山佐竹義敦の建立である。現在も東北地方を中心として、全国に三吉神社が祀られ、「太平山講」・「三吉講」も広く分布している(以上はウィキの同神社の記載に拠った)。

「由利郡知島領【生駒家封邑。】下村づゝ大琴村」現在の秋田県由利本荘市東由利宿大琴か。「下村づゝ」は不詳。大平山は、しかし、ここから、ほぼ北へ五十四キロメートルも離れる(別段、それは奇異ではないけれども)。後で「惣十郞が本家なる大琴村【本庄龜田矢島の界。】」とは異なるということになるのだが(松本清張の「砂の器」犯人が偽装手段として使う秋田県由利本荘市岩城亀田亀田町はここであるが、前の大琴とはえらく離れており、「矢島」という地名も周囲には見あたらない)、凡そ繋がりが想像出来ない。「知島領【生駒家封邑。】」「生駒家【矢島領主。】」というのは、ウィキの「矢島藩」によれば、江戸初期に讃岐国高松藩(十七万千八百石)の藩主生駒高俊が家中不取締を理由に領地を没収され、堪忍料として矢島一万石(現在の秋田県由利本荘市矢島町。ここは先の由利宿大琴からは南西に十一キロメートルほどで近い)を与えられたが、さらに高俊の嫡男高清が弟の俊明に二千石を分知したため、以降の生駒氏は八千石の交代寄合(最初は江戸詰交代寄合表御礼衆)となり、以降幕末まで江戸定府であったとあるから、この「知島領」というのは、まずは「知」と「矢」で、「矢島領」の誤記の可能性が高いとは思うのだが、これらの地名の関係性が私にはどうもよく判らない。

「文政七年」一八二四年。

「矢島にて、女を携へ走りしものを、立願せしに、おのれと、かへり來つ」「矢島の者で、ある女と駆落ちした者があったが、その男の帰村を祈願したところが、その男、自分から村へ帰って来た。」という意か。]

芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・恒藤恭宛

 

手紙をありがたう。頭の中はまだ片づかない。從つて未だに病氣だ。唯書かざる可らざる必要があつて書いてゐるのだから、憫み給へ。來月も亦谷崎君に答へることにした。僕等の議論は君などには非論理的だらうが、僕の現在の頭の中を整理する爲には必要なのだ。そのうちに京都へ行くかも知れない。右御返事のみ。奧さんによろしく。誰か君が大醉して下立賣を步いてゐるのを見たとか言つた。大いにわが意を得た。時々は大いに飮み給へ。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   恒 藤 恭 樣

二伸 さう云ふ暇もなからうが、若しあつたら、僕の說を批評した手紙をくれ給へ。ちつとは阿呆以外の說も聞きたい。尤も夫子自身阿呆だが。

 

[やぶちゃん注:現在、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」は執筆時期が不明である。しかし、私は、この書簡の「二伸」中に、その痕跡を発見する。また、この前後は、昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された「晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」を参照されたい。実際の日記ではなく、日記を装ったものであるが、「五月五日」の掉尾の、『夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。』は鬼気迫るものがある。

「下立賣」下立売通(しもたちうりどおり/しもだちうりどおり)。この東西(グーグル・マップ・データ)。

「夫子」ここは「そういうことを言っている私自身」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二日・田端発信・眞野友二郞宛

 

冠省、鯛をありがたう存じます。あなたは悠々自適してゐられる容子、健羨に堪へません。右とりあへず御禮まで。

   こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

    五月二日       芥川龍之介

   眞 野 友 二 郞 樣

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端・発信・里見弴宛

 

冠省大道無門ありがたく存じ候。來月の改造にてお禮かたがた妄評仕らんと存じをり候所、大事をとりすぎ、とうとう今日の〆切りに間に合はず、斷念致し候間、この手紙を差し上げ候。御禮相遲れ候段あしからずおゆるし下され度候。頓首

    五月六日       芥川龍之介

   山 内 英 夫 樣

 

[やぶちゃん注:「大道無門」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『昭和二年三月刊。前年(大正十五年)「婦人公論」に連載したもの』とある。

「來月の改造にて」同前で、『連載中の「文芸的な、余りに文芸的な」を指す』とある。実は、書き始めている内に、力が入り過ぎ、締切に間に合わなくなったというのが事実であると私は考えている。実際、「大道無門」という「文藝的な、餘りに文藝的な」の草稿(と私は考えている)が存在するからである。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」で電子化してあるので読まれたい。

「山本英夫」里見弴の本名。彼は明治二一(一八八八)年に有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれたが(有島武郎と有島生馬は実兄)、生まれる直前に母方の叔父山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となって「山内英夫」となった。但し、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月六日・田端発信・宇野浩二宛

 

冠省 君の本の題を知らせてくれぬか。好意に甘えて序文を作ることにする。但しそれは一度「文藝春秋」にのせる事にしたい。さうすると、僕も大いに助かるから。餘は拜眉の上萬々、頓首

    五月六日夜      芥川龍之介

   宇野浩二樣

 

[やぶちゃん注:「君の本」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年八月』(十日)『新潮社刊の「我が日我が夢」』とある。昭和二年六月一日発行の『文藝春秋』に『「我が日我が夢」の序』として掲載され、上記単行本の「序」として収録された。

「僕も大いに助かる」稿料が貰えるからであるが、自分のためといういうよりも、この時期、夫に自殺されて未亡人となった姉ヒサの一家の経済的援助も龍之介は一身に担っていたから、「たかが/されど」であったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十六日・函館発信・芥川宛(絵葉書)

 

一路平穩函館へ參り候 頓首

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この五月十三日の午後十時三十分に『上野駅で青森行の急行に乗車し、里見弴とともに、改造社『現代日本文学全集』の宣伝講演旅行のため、東北・北海道方面に向けて出発』したとあり、十四日土曜日、午前七時二十分、『仙台に到着』、『小宮豊隆とともに、当時』、『東北大学にいた木下杢太郎』(東北帝国大学医学部教授として皮膚病黴毒学講座を担当していた)『を訪ね、昼食を共にする。この時』、龍之介は木下に『九州』帝国『大学から招聘されていることを漏らした』とある。その後、午後四時半、『仙台公会堂で講演を』し、『この日は』仙台の『針久』(はりきゅう)『別館に宿泊』した。十五日、『仙台を発ち、盛岡に到着。午後』四『時、盛岡劇場で「夏目先生の事」と題して講演を』し、『終了後、岩手日報社の招待で金山踊り』(かなやまおどり:嘗て鉱山で選鉱作業をした女の仕事歌と踊り)『を見物し』、『この日は、六日町の高与旅館に宿泊』した。十六日の午前十一時四十二分『発の急行で盛岡を発ち、午後』十『時、函館に到着』、『この日は、函館駅頭の勝田旅館に宿泊』した。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・志賀直哉宛(絵葉書。里見弴と寄書)

 

   双鳬眠圓

   孤雁夢寒

旅情御想察下され度候。

     五月十七日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版書簡本文によれば(同全集は独自に歴史的仮名遣による推定読みが各所で行われている)、

 双鳬(さうふ) 眠り 圓かにして

 孤雁(こがん) 夢 寒し

と訓じており、脚注で、「双鳬」は『ひとつがいの鴨。里見が女づれであることを暗示する』とし、「孤雁」は『一話の雁。。芥川自身の単身旅行の境涯をいう』とある。但し、私はこれ以外に、この時の里見が女性同伴であったという記事を見たことがない。もし、終始、里見が女性を連れていたとなら、書簡のどこかで、その女性への言及があると私は思うのだが、そんなものは欠片もない。この注の根拠となる事実証左をご存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、里見は大阪の芸妓山中まさと早くに結婚しているが、妻なら(しかも元芸妓となら)、龍之介が書簡で触れないはずがない。それとも、妻でない愛人だったのか? これはまた、問題であろう。第一、芥川と里見の、この改造社提灯持ち情宣講演部隊(事実、「現代日本文学全集」と書いた提灯を持った二人に繩が附けられて、その二本を後ろで操る「改造社」の社長が背後に小さく描かれた昭和二年五月発行の『北海タイムス』に掲載された「悦郎生」の手になる辛みの強烈な戯画が残されている(底本の岩波旧全集「月報8」の「資料紹介」に載る「昭和二年五月二十二日『東奥日報』」に挿入されたもの。そのカリカチャライズに龍之介の談話として、『この度北海タイムスの漫畫程、われ乍ら感心したのはないね、岡本一平のもの』(太字は底本傍点「ヽ」)『したよりは』(岡本の絵も先の絵の上に掲げられてある)『餘程うまく出てますね。』と書かれてある)この行動・講演日程(『九日間で八カ所講演』という『相当な強行軍』と鷺氏の年譜にある。次の書簡も参照)は特に北海道内でのそれは相当にハードなものであったから、講演中は暇でも、それに合わせて移動するのは(しかも次の書簡で判る通り、飯は不味くて汚いのである)、女性にはかなりきついと思うのだが? 但し、次の書簡も参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・相州鎌倉阪の下 佐々木茂索樣 同房子樣(絵葉書、里見弴と寄書)

 

連日强行軍的に講演させられ神身[やぶちゃん注:ママ。]ともに疲勞而も食物はまづく宿は汚い

一體どうしてくれるつもりだ      弴

汽車にのる、しやべる、ねる、又汽車にのる、のべつ幕なしの精進には少からず弱り居り候但し鴛鴦眠暖 孤鶴夢冷

                   龍

 

[やぶちゃん注:里見弴は著作権存続だが、寄書なので、そのまま引用扱いで載せる。特にこの宣伝講演旅行の凄絶なそれのへ怒りは貴重な資料であるからである。

「鴛鴦眠暖 狐鶴夢冷」

 鴛鴦 眠り暖かにして

 孤鶴 夢 冷やかなり

か。前の「但し」といい、やっぱり里見は女連れということか?]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日・函館発信・東京市外田端四三五芥川氣附 小穴隆一樣・五月十七日 蝦夷の國湯の川 芥川龍之介

 

敬啓 仙臺、岩手と巡業し、やつと津輕海峽を渡りて函館へ參り候函館は殺風景を極めた所なり、匆々湯の川溫泉へ避難、ここらは櫻さき蒲公英さき黃水仙さき櫻すずめと云ふ鳥啼き居り候あひ變らず憂鬱夜々卽時に死ねる支度をして休みをり候これより札幌、旭川、小樽をまはり、新潟を經て二十四五日頃にかへる筈、文中さしつかへなき所だけ宅へもお洩らし下され度候

  盛岡

啄木は今はあらずも目なぐもる岩手の山に鳥は啼きつつ

插し画日々大へんなるべし女の子の鞠をつける画より後は見ず不本意この事也 頓首

    五月十七日          澄

   一 游 先 生

 

[やぶちゃん注:「芥川氣附」葛巻義敏辺りが、小穴に届けることを想定したものであろう。

「湯の川溫泉」この附近(グーグル・マップ・データ)。私も一度、友人らと泊まったことがある。

「櫻すずめ」種としてはスズメ目カエデチョウ科 Neochmia 属サクラスズメ Neochmia modesta がオーストラリア北東部の固有種であるので、違う。単に桜の花を花ごと食い千切って、花の附け根に入っている蜜を吸う普通の雀ではあるまいか?

「目なぐもる」「たなぐもる」の誤記か。

「插し画」芥川龍之介晩年の纏まった中編随筆作品の一つである「本所兩國」の挿絵(リンク先は私のサイト版)。昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」の「四六――六〇」として連載したものを指す(芥川龍之介は、結局、未だに大阪毎日新聞社の社員であった)。連載時の挿絵は芥川龍之介の友人であり、画家の小穴隆一(作中のO君)であった。これにはエピソードがある(以下は鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の記述に基づく)。当初の新聞社の指示は、挿絵も芥川龍之介自身が描くという条件で、芥川は相当に悩みながらも、小穴の指導を受けて、第一回・第二回分の絵を描くが、社に帰参した記者が芥川が挿絵を描くことを嫌がっている伝えたところ、小穴が描いてもよいということになり、芥川は快哉を叫んだという。より詳しい経緯は私の『小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」』を読まれたい。ともかくも、そうした経緯からも小穴には借りがあるから、言い添えているのである。なお、この絵は展覧会で、現物全篇を見たことがある。ただ、「女の子の鞠をつける画」というのは、残念なことに、記憶がない。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十七日消印・函館発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣(絵葉書)

 

コレハアイヌデス ハコダテニハアイヌハヰマセン シカシアイヌノコシラヘタモノヲウツテヰマス

 

[やぶちゃん注:新全集年譜に、五月十七日の午後四時半、『函館公会堂で「雑感」と題して講演を』し、午後十一時六分『発の急行に乗り、札幌に向かう』とあり、翌十八日の午前七時五十四分、『札幌に到着。札幌では、午後』二『時、北海道大学中央講堂で「ポオの美学について」、午後』四『時、大通小学校で「夏目先生の事ども」と題して、二回』の『講演をする。講演会終了後、北大文芸部と札幌の文学グループによる歓迎会に出席』、『この日は、山形屋に宿泊』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川比呂志 同多加志宛(絵葉書)

 

サツポロヘキマシタココニハキレイナシヨクブツエンガアリマスアシタハアサヒガハトイフ町ヘユキマス

 

[やぶちゃん注:

「シヨクブツエン」北海道帝国大学植物園のことであろう。クラーク博士の学術的要請によって明治一九(一八八六)年に竣工した非常に古いものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月十九日・札幌発信・芥川文宛(絵葉書)

 

汽車へ乘つてはしやべりしやべりする爲、すつかりくたびれた。かへりには新潟へまはり、二三日休養するつもり。こんなに烈しい旅とは思はなかつた。北海道では今ボオヂエストをやつてゐる。以上

    札幌

 

[やぶちゃん注:年譜に、この十九日の午前八時『発の急行で札幌を発ち、午前』十一時三十二分、『旭川に到着、午後』四『時半、錦座で「表現」と題して講演を』し、午後六時十五分発の急行で『旭川を発ち』、午後九時四十四分、『再び札幌に到着』、『この日は、札幌に宿泊か』とある。

「二三日休養するつもり」これこそが大切な発言なのである! この時点で、あの《計画》は立てられていたのである! 後述する。

「ボオヂエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste)はイギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)が一九二四年に発表した冒険小説で、本邦では「ボゥ・ジェスト」のタイトルで日本語訳が出版されている。原題は英語で「麗しき行為・上辺だけの雅量」の意。ここはそれを最初に映画化した一九二六年公開のアメリカのモノクロームのサイレント映画(ハーバート・ブレノン(Herbert Brenon 一八八〇年~一九五八年:アイルランド出身)監督/ロナルド・コールマン(Ronald Colman/本名 Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリスの名優でトーキー黎明期を代表する人気スターの一人で、本邦でも人気が高かった)主演)である。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

 

やつと新潟着、これはプライヴェエトだから氣樂だ。尤も大きな部屋にたつた一人坐つてゐるのははかない。

     憶北海道

   冱え返る身にしみじみとほつき貝

このほつき貝と云ふ貝は恐るべきものだ。どこの宿へとまつても大抵膳の上に出現する。

    五月二十四日     龍 之 介

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日、『札幌を発ち、小樽に到着。午後』五『時、花園小学校で「描かけてること」(あるいは「描ける物」「描かれたもの」)と題して講演を』した。『聴衆の中には、若き日の伊藤整、小林多喜二がいた』。午前十時四十八分『発の寝台急行に乗り、函館に向かう』とあり、翌二十一日土曜日の午前七時、『函館に到着。午前』八『時、青函連絡船に乗り、午後』零『時半、青森に到着。ここで上京する里見弴と別れ、新潟に向かうべく、休息と時間調整のために旅館塩谷支店に部屋をと取った。そこで青森市公会堂での講演のために訪れていた秋田雨雀、片岡鉄兵に会う。「東奥日報」や秋田などの勧めもあって』、『急遽、午後』四『時半、青森市公会堂で行われた講演会に参加し、「漱石先生の話」と題して講演を』した。『熱心な聴衆の一人には、太宰治(当時弘前高校生徒)がいた。この日は、塩谷支店に宿泊』した。翌二十二日日曜日、『朝、北陸回りで新潟に向かう(秋田雨雀らと同乗』)。『夜、新潟に到着』、『新潟では、三中の校長だった八田三喜(はったみき)が旧制新潟高校校長をつとめて』おり、以前に八田から講演の依頼があったのである(それが「これはプライヴェエトだから氣樂だ」の意である)。『この日は、篠田旅館に宿泊』した。翌二十四日の午後三字半、『新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演をし』た(この時の英文講演メモは現在も残っており、全集に収録されてある)。『夕方、篠田旅館で行われた座談会に、八田三喜、式場隆三郎をはじめ、新潟高校の関係者らと出席する』。この時の座談会は、本年年初に、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』として、ブログで電子化してあるので、是非、読まれたい。

「ほつき貝」」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。また、私の「眼からホッキ!」も見られたいが、芥川龍之介が「恐るべきものだ」と言っているのは、その剥き身が女性生殖器に似ていることを暗に指しているものと私は信じて疑わないのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信(推定)・東京市外田端四三五芥川氣附小穴隆一樣(絵葉書)

 

  北海道二句

ひつじ田の中にしだるる柳かな

  ほつき貝と云ふ貝ありいづこの膳にものぼる

冴え返る身にしみじみとほつき貝

 五月二十四日

二伸 繁昌記十三、十五囘だけ拜見。長明先生云々の字は下島先生乎。

 

[やぶちゃん注:「ひつじ田」「ひつじ」とは、刈り取った後に再び伸びてくる稲のことを言う。「穭」と書く。秋の季語。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『この句は、東京に戻った六月一四日付西村貞吉宛書簡や「講演軍記」(「文芸時報」六月号)などでは、「雪どけの(雪解けの)中にしだるる栁かな」と改められ、旭川で作った句とある。残された最後の句である』とある。改作形は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」及びやぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世を参照されたい。後者で私も、『これが旧全集の中で日附の判明している書簡に所収する龍之介最後の俳句である』と注した。

「長明先生云々の字」「本所・兩國」の最終回は「方丈記」の見出しが付けられているが、この謂いの詳しい意味は不詳。挿絵を再び見る機会があったら、追記する。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・芥川文宛(絵葉書)

 

おととひの夜新潟到着、八田さんにいろいろ御厄介になる。二十五日か六日にはかへるつもり。くたびれ切つてゐる。東北や北海道を𢌞つて來ると食ひもののうまいだけ難有い。

                 龍

どこへ行つても御馳走ぜめに弱つてゐる。就中北海道の「ホツキ」と云ふ貝はやり切れない。

    五月二十四日  志の田にて

 

[やぶちゃん注:ここでは確かに文に「二十五日か六日にはかへるつもり」と言ってはいる。これをまともに信ずれば、宮坂年譜は正しいことになるが、私は信じない。

「志の田」新潟の旅館名だが、前で引用した通り、「篠田」が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・東京市外田端四三五 芥川比呂志樣 同多加志樣(絵葉書)

 

コレハニヒガタノマチデス ムカシノ東京ノヤウナキガシマス ソレデモジドウシヤハ トホツテヰマス

   ヒ ロ シ サ マ

   タ カ シ サ マ

    五月二十四日     ヘ チ マ

 

[やぶちゃん注:「ヘチマ」瘦せた芥川龍之介の自身の卑戯称か、或いは、自分の子らがたまたま「御父さんは糸瓜みたい」と言ったことがあるか。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

鍋茶屋はつひに鍔甚に若かず。金澤にありし日の多幸なりしを思ふ事切なり。

     北海道

   ひつじ田の中にしだるる柳かな

          新潟   龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「鍋茶屋」(なべじやや(なべじゃや))は筑摩全集類聚版脚注に、『新潟の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、創業は弘化三(一八四六)年とする。

「鍔甚」(つばじん)は筑摩全集類聚版脚注に、『金沢の有名な料亭』とある。現存する。公式サイトによれば、『加賀百万石の礎を築いた前田利家に、お抱え鍔師として仕えて四〇〇年の鍔家』の『三代目甚兵衛が宝暦二年(一七五二年)に鍔師の傍ら』、『営んだ小亭・塩梅屋「つば屋」が「つば甚」の始まりとされて』いるとある。

「金澤にありし日」芥川龍之介大正一三(一九二四)年五月十四日、金沢・大坂・京都方面の旅に出、十五日に金沢に到着し、媒酌人をつとめることになっていた岡栄一郎の親族に逢って、彼らの結婚の了承を求めることが旅の一つの目的であった。金沢では室生犀星の世話で、兼六園園内にあった茶屋「三芳庵」の別荘にたった一人で二泊し、その豪奢な造りに非常な感銘を受けている。十九日の夜に大阪に発った。金沢滞在は龍之介にとって忘れられぬ至福の時だったのである。]

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十四日・新潟発信・里見弴宛(絵葉書)

 

靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り、その上例の茶話會と云ふやつにて往生すること一かたならず、新潟にてやつと人並みの食物にありつきほつと致し候。尤も鍋茶屋も鍔甚に及ばず、美人にも生惜邂逅不仕候

遠藤さまによろしく。魚は東京よりも新しいことを御吹聽下さらば幸甚。

     北海道を憶ふ

   冴え返る身にしみじみとほつき貝

 

[やぶちゃん注:『靑森では貴意の通り「のがれざるや」と相成り……』先の五月二十四日附佐佐木茂索宛書簡の注を参照。青森で秋田や片岡と逢ったことで、またまた、予期せぬ講演や歓迎会に引き廻されたことを言っているものと推察される。

「遠藤さま」不詳だが、一つ、里見は元赤坂芸妓であった菊龍(遠藤喜久・お良)を愛人にしていたと当該ウィキにあるので(時期が合うどうかは判らない)、彼女のことかも知れない。

 

 

昭和二(一九二七)年五月二十八日・田端発信・福島金次宛

 

御手紙拜見しました。何かとムヤミに書いてゐます。「蜃氣樓」をほめて頂いて恐縮です。しかし或友だちは小生の作品中、あれを一番無感激のものに數へてゐます。小生自身は一番無感激とも思つてゐないのですが。

    五月二十八日     芥川龍之介

   福島金次樣

二伸北海道よりかへり、いろいろ手紙ばかり書いて大分くたびれました。これは四本目です。

 

[やぶちゃん注:宛名の「福島金次」は未詳(新全集「人名解説索引」も同じく『未詳』とする)。この書面の謂いからは、少なくとも、この前日には田端へ帰着しているもののように読み取れる。

……さて、前記の新全集の宮坂覺氏の年譜では、新潟での五月二十四日の座談会記事に続いて、さらりと、

『午後』六『時半、帰京の途につく』

と記されてあり、次に、

翌五月二十五日の条が立項されて、『新潟から帰京し、田端の自宅に戻る。下島勲に土産の梨を進呈した』

とある。しかし、この二十五日の龍之介帰京の情報は昭和一一(一九三六)年に下島が公刊した随筆集だけを元にしたものであるのだが、私は、龍之介自死後九年も経ってから発表された、この随筆中の日付を激しく疑っている。

そもそも宮坂氏の年譜のここの記載が確かなのものであるなら、芥川龍之介は十九日の文宛書簡の「二三日休養するつもり」を実行せずに、即刻帰宅した

ことになる

のである。

更に、先行する一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、

ここに大きな相違が見られる

のである。鷺氏は、芥川龍之介の帰京を、

五月『二十七日、田端の自宅にもどる。』

とされておられるのである。

則ち、鷺氏の見解に従うなら、

新潟を発した五月二十四日(鷺氏は実はこの講演日を五月二十三日で立項し、『(あるいは二十四日)』とされて不確定としておられる)から五月二十七日までの――正味二日から約二日半(約三日)の空白――がここに存在することになる

のである。

この空白期間は、まさに、文への――「二三日休養するつもり」――に合致する

のである。宮坂年譜にある通り、講演の終わった後、座談会の後、夕刻に新潟を発車した列車に芥川龍之介が乗ったのは、事実であろう。

しかし……芥川龍之介はそのまま帰京はしていない――

のである。

……何処へ行ったか?……さても……そこで、誰と逢ったか?……

それを解き明かす鑰(かぎ)となる作品が――ある――

芥川龍之介の「東北・北海道・新潟」

である。これは昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載された。

以上のリンク先は私の電子化であるが、その冒頭注で、私はこの空白への推理を最初に開始しているので、是非、読まれたい。

 

……ズバリ、言おう……

この空白の中で――芥川龍之介は片山廣子と軽井沢で逢っていた――

というのが私の結論である。

 

片山廣子には昭和四(一九二九)年六月号の雑誌『若草』に松村みね子名義(廣子の翻訳作品用のペン・ネーム)で掲載された「五月と六月」があるが、それをまず、読んで貰いたい。そこから、私の本格的な疑問が生じたからである。

次いで、私のブログ記事の『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』へと進まれ、最後に、私のサイト版の、

『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』

を読まれたい。芥川龍之介研究者の中で、この邂逅を仮定している方は今のところ知らないが、しかし、私は絶対に事実としてあったと考えているのである――反論があれば、何時でも受けて立つ。

 なお、宮坂年譜には、この五月の『下旬(あるいは上旬か)』として、『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる。平松麻素子の知らせで文たちがホテルへに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒する。文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せて誤ったことを回想している』とあり、また、この『月末』には、盟友『宇野浩二が発狂し』(既注)、『広津和郎とともに世話をする』とある。――風雲急を告げる刻(とき)が――遂にやって来てしまったのである…………

2021/09/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 金靈幷鰹舟事

 

[やぶちゃん注:この話、「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」に梗概があったので、私が注で既に電子化している。今回はまた、総て零から、やり直してある。そちらと差別化するために、段落を成形した。但し、「金靈」については、そちらの私の注を参照されたい。なお、文中で述べている通り、この日の会合は文宝堂邸で行われた。]

 

   〇金靈 幷 鰹舟事

 今玆、乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]春三月、房州朝夷郡大井村五反目[やぶちゃん注:千葉県南房総市大井のバス停名に「五反目」NAVITIME)が現存する。最大拡大されたい。]の丈助といふ百姓、朝五時比、

「苗代を見ん。」

とて、立ち出でて、こゝかしこ、見過し居たるをり、靑天に、雷のごとくひゞきて、五、六間[やぶちゃん注:約九メートル強から十一メートル弱。]、後の方へ落ちたる樣なれば、丈助、驚きながらも、はやく、その處に至り見れば、穴、あり。

 手拭を出だして、その穴を、ふさぎおさへて、𢌞りを掘りかゝり見れば、五寸程、埋まりて、光明赫奕たる、鷄卵の如き、玉を、得たり。

「これ、所謂、『かね玉』なるべし。」

とて、いそぎ、我家へ持ち歸り、

「けふ、はからずも、かゝる名玉を得たり。」

とて、人々に見せければ、

「是や。まさしく『かね玉』ならん。追々、富貴になられん。」

とて、見る人、これを羨みける。丈助も、よろこびて、いよいよ祕藏しけるとぞ。

「此丈助は、日比、正直なる故、かゝるめぐみも、ありしならん。」

と、きのふ、房州より來て、わが菴を訪ひける堂村の喜兵衞といふ人の物がたりしまゝ、けふの兎園にしるし出だすになん。

[やぶちゃん注:底本では、以下の二文は全体が一字下げ。]

 其かね玉の事につきては、いさゝか考もあれど、けふのまとゐのあるじなれば、ことしげくて、もらしつ。猶、後にしるすべし。

[やぶちゃん注:底本では以下行頭に戻る。]

「ことし乙酉の夏ほど、鰹の獵のありしこと、むかしより多くあらざる事なり。」

とて、右の房州の客の語るをきくに、

東房州 小みなと 内浦 あまつ はま荻 磯村 浪太(ナブト) 天面(アマツラ) 大ま崎 よし浦 江見 和田

西房州 白子 千倉(チクラ) 平舘 忽戶 平磯 千田 川口 大川 白有浦 野島 洲崎 館山 那古 多田羅

右は、獵船の出づる所の地名、あらましを、しらす。

「壱ケ處にて『釣溜』【鰹の獵船を「釣りため」といふ。】十五艘、或は廿艘ばかりづゝも出づる中にも、あまつは、二百艘も出づるよし。凡、一艘にて、鰹千五百本・二千本づゝ、六月六日比より、同十四、五日比は、每日、打續き夥敷[やぶちゃん注:「おびただしく」。]獵のありし事、めづらし。」

とて、かたりしまゝ、筆のついでに、しるしおきぬ。

 文政八乙酉初秋朔     文 寶 堂 誌

[やぶちゃん注:「小みなと」千葉県鴨川市小湊(グーグル・マップ・データ)。以下、東へと海岸を辿る。「見やしねえよ。面倒なことをせんでいいに。」と言う勿れ。私は高校三年間、社会の主選択として地理を選び、所謂、「世界地誌」(「地理B」)までやった、大の地理や地図好きなので、少しも苦じゃないのさ!

「内浦」鴨川市内浦。所謂、「鯛の浦」を含む内浦湾。小学校三年の時に父母と祖母と四人で行った。また、行きたいな。海の底から舞い踊ってくる鯛の鱗の光ったのを、昨日のことのように覚えている。もう四十五年も前のことなのに……

「あまつ」鴨川市天津。天津小湊港があることで知られる。

「はま荻」鴨川市浜荻

「磯村」鴨川市磯村。鴨川漁港がある。

「浪太(ナブト)」恐らく鴨川市太海(ふとみ)附近。

「天面(アマツラ)」鴨川市天面

「大ま崎」思うに、鴨川市江見太夫崎(えみたゆうざき)を指しているものと思われる。

「よし浦」鴨川市江見吉浦

「江見」江見漁港を中心とした広域。

「和田」千葉県南房総市和田町(わだまち)は広域。

「白子」南房総市白子(しらこ)。

「千倉(チクラ)」南房総市千倉町(ちくらちょう)も広域。

「平舘」千倉町平舘(へだて)。現行表記の漢字「舘」を本文でも用いた。

「忽戶」千倉町忽戸(こっと)。

「平磯」千倉町平磯(ひらいそ)。

「千田」千倉町千田(せんだ)。

「川口」千倉町川口(かわぐち)。

「大川」千倉町大川

「白有浦」読み不詳。次の「野島」から、現在の千倉町白間津から東の白浜町地区の広域の浦辺を指すものと推定される。

「野島」南房総市白浜町白浜にある野島崎

「洲崎」館山市洲崎ここから、初めて、現在の内房に移るのである。

「館山」館山市館山。館山港を擁する。

「那古」館山市那古。ああっ! 漱石の「こゝろ」の最も大切なシークエンスを含むあそこだ! リンク先は私の初出復元版であるが、実は、その(八十二)(探すのが面倒な御仁のためにブログ分割版をリンクさせておく)を見て戴きたいのだが、初出には「那古」の地名は、実は、出ていない。当該箇所は、

   *

其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。

   *

であった。漱石は、極めて珍しく、単行本に際して、以下のように、大きくここを書き換えているのである。

   *

私はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]彼を說き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃海水浴場だつたのです。

   *

「多田羅」南房総市富浦町(とみうらちょう)多田良(ただら)

「六月六日比より、同十四、五日比は」グレゴリオ暦で七月二十一日より七月二十九、三十日である。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第七集) 古墳女鬼

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。]

   ○古墳女鬼

 江戶松島町家主古兵衞忰 五郞吉事 幸次郞 酉廿歲

右之者、拾ケ年以前文化元酉年春中、日本橋通り弐丁目善兵衞店忠兵衞方へ、年季奉公に差遣、是迄相勤罷在候。然る處、一昨年春中と覺ゆ、堺町、勘三郞芝居、見物に罷越候處、神田邊、「みよ」と申す、十六、七歲位の女、棧敷に罷在候處、住所も不存者に付、芝居打出候之砌、相別れ申候。其後、同年秋中と覺ゆ、又候、勘三郞芝居へ見物に參候處、右みよ義も致見物罷在候間、猶又、其棧敷へ這入合せ、其節も同樣之義に而、相別れ、後一囘出合も不致相過申候。然處、右幸次郞義、當八月頃より、濕刀瘡相煩、氣分あしく罷在候處、先月廿六日夜八時頃と覺ゆ。右「みよ」義、幸次郞臥居候枕元へ參り、咄致候と夢の樣にも存候處、翌二十七日より同月廿九日夜、又々、右「みよ」參候に付、「宿へ付添可參。」とかねて支度いたし置、宿元を「小用可致」體に而出、往來等は不辨、同道致罷越候處、淺草今戶町、無何心寺之垣を越え、墓場へ參り、石塔へ水手向候處、右「みよ」義、見失ひ候に付、不計心付、「宿元へ可相歸。」と存候處、「右體之義故、證據に可致。」と、同寺垣にいたし有之候塔婆壱本、引拔持歸り候途中、淺草田町に而、夜明け、煮賣酒屋へ立寄り、酒・膾、猶、堺町三味線屋の隣の蒲鉾屋にて、かまぼこ二枚買ひ求め、主人方へ罷歸り申候。尤、途中等に而、幸次郞、『「みよ」と咄抔いたし候へ共、「みよ」義、請答等は不仕候。』由に御座候。

右之通、風聞有之候に付、當人呼寄せ、承糺候處、前書之趣申候に付奉申上候。以上。

 文化十年九月   島町 名主 五郞兵衞

こは、町奉行所へ訴狀の「うつし」なり。

此後、幸次郞事、とかく心氣不定故、親元へ、かへしけるよし、幸次郞主人忠兵衞妻の姊夫、元飯田町醫師本田雄仙の話なり。

[やぶちゃん注:ここで引き抜いた卒塔婆に「俗名 かよ」なる墨書きがあって、没年も記されてあって(しかもずっと昔の)、その現物とともに上申されてあったとなれば、俄然、驚愕の怪奇談として迫真するんだがなぁ……。

「文化元酉年」不審。文化元(一八〇四)年ならば「甲子」である。

「一昨年」最後のクレジットから文化八(一八一一)年。

「日本橋通り弐丁目」現在の東京都中央区日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったことを切絵図で確認した。

「堺町」台東区千束四丁目で中村座があった。

「勘三郞芝居」歌舞伎役者の名跡中村勘三郎。この当時だと、十一代目中村勘三郎(明和三(一七六六)年~文政一二(一八二九)年)か。八代目の娘婿で、父は二代目市川八百藏。

「濕刀瘡」不詳。刀傷がひどく糜爛・化膿したものか。

「淺草今戶町、無何心寺」不詳。「江戸名所図会」も調べたが、そのような名の寺は今戸以外にも、ない。「心光寺」というのが、今戸の切絵図内にはあったが、正式な寺名を忘れてこう書いたものか?]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 北里烈女 / 第六集~了

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。一部の踊り字を正字に代えた。「北里」は「ほくり」で江戸吉原遊廓の異称。元は長安城の妓館の中心を成した北里(東市の東隣りの平康坊内にあった)が由来。]

 

   ○北里烈女

 天明の比、三緣山の所化に「靈瞬」といふ僧あり。したしき友にいざなはれて、よし原にゆき、玉屋の「琴柱」といふ、たはれめにあひぬ。此僧、容顏美麗なりしかば、琴柱、それにめでしにや、

「しばしばとはせ給へ。」

といふ。

 僧、もとより、

『あるまじきこと。』

とは思ひつれど、愛欲の情、おさへがたく、「ぬれぬさきこそ」と、うつゝなくなりて、かよふほどに、琴柱に身の上をとはれて、ありのまゝに、かたりきかせたり。

「さらば、末々は、たかき位にのぼり、よき寺をも、もたせ給ふべきや。」

と、とふ。

「凡、わがともがら、學文をはげみぬれば、こゝかしこに、うつりすゝみて、幸あれば、大僧正にも、いたらるゝなり。しかしながら、こがね、乏しくては、すみやかにすゝみがたし。」

と、いひしを、こまかに聞きゐたりしが、そのゝち、とひし時、琴柱、いふやう、

「えにし(緣)[やぶちゃん注:漢字のルビ。]あればこそ、君がしたしみをうけまゐらせたり。これもすぐせのことなるべし。」

とて、一包のこがねを出だして、あたへ、

「これをもとゝして、かならず、なりのぼらせ給へ。こよひをかぎりとして、こゝにも、來たり給ふな。あだし女にも、近づき給ふな。みづからは、ちかきうちに、身まかり侍りて、君が身を、まもり侍るべし。必、わすれ給ふな。」

といふ。

 僧も、初は、

「おもひよらざること。」

とて、いなみけれども、そのこゝろざしのまめなるに、めでゝ、うけひきぬ。

 かくて、日あらずして、琴柱、みづから、身にきずつけてぞ、まかりぬ。

「心のみだれしにや。」

と聞きて、かつは、おどろき、かつは、かなしみ、法號をつけて、日々に囘向して有りけるが、一とせばかり過ぎにしかば、「去ものはうとき」習にて、又、友にすゝめられて、品川のあそびのもとにゆき、とかくして、雲雨のちぎりを、もよほす比、琴柱が在りし姿、あらはれて、

「いかでちかひしことを忘れ玉ひしか。」

と、いさむるかほばせ、恨、骨にとほりしおもざしなりければ、おそろしく覺えて、にげかへりぬ。

 日ごとに、ゑかうする事は、をこたらざれど、年月をへて又、あそびのもとにゆくこと有りしが、かの幽靈、いでゝ、いさむる事、前のごとくなりしかば、それより、またまた、不犯の身となり、勇猛精進なりしかば、年をおひて、進みて、京の智恩院になりて、聖譽大僧正とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「靈瞬」「聖譽大僧正」酷似した法号名に知恩院第六十二世の体蓮社聖誉霊麟(たいれんしゃしょうよれいりん)がいる。「WEB版新纂 浄土宗大辞典」のこちらに、霊麟は元文四(一七三九)年生まれで、文化三(一八〇六)年四月十三日示寂。体蓮社聖誉心阿具堂。結城弘経寺三十九世・飯沼弘経寺五十五世・小石川伝通院四十五世を歴住し、享和元(一八〇一)年十月十六日に台命を拝して知恩院に昇転、翌年の四月二十七日に大僧正に任ぜられた。文化二(一八〇五)年八月七日には有栖川宮織仁親王の第八皇子であった幼名種宮、後の尊超法親王(同七年に親王宣下)を知恩院門跡六世に迎えた。在住すること、四年余にして入寂したとある。事実かどうかは別として、時制的にも問題がなく、彼がモデルであることは疑いようがない。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「三緣山」浄土宗増上寺塔頭三縁山宝珠院。浄土宗の開祖法然は「七箇条制誡」に於いて僧については肉食妻帯を禁じている。江戸時代、その許諾を開祖親鸞が正規の宗派文書に残している浄土真宗のみが、僧であっても、「女犯(にょぼん)の罪」を免れた。従って、厳密には、廓遊びであろうとなんであろうと、本来は彼のそれは許されないことである(「御定書百箇条」によれば、その女犯僧が江戸の住職出逢った場合は「遠島」、住職ではない僧は、日本橋に三日間晒された上、本寺に引き渡され、寺法に従って「破門」・「追放」となった)が、医者と偽って変装し(当時の医者の多くは、僧侶同様、剃髪しているものも多かった)通う僧は多かった。私の古い電子化注「耳嚢 巻之五 死に增る恥可憐事」の本文及び私の注を参照されたい。

「玉屋」玉屋山三郎(生没年不詳)が営んでいた江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(火焔玉屋)代々の主人の名乗り。山三郎は宝暦六(一七五六)年以後、大見世の大三浦屋の廃絶によって、吉原の惣名主となり、抱えの遊女に多くの名妓を出したことで知られた。天保末年から弘化年間(一八四四年~一八四八年)にかけて、それまで書肆で知られた蔦屋重三郎が独占していた、吉原廓内の案内記ともいうべき「吉原細見」の刊行を巡る紛争が起こったが、嘉永元(一八四八)年秋以降、『「細見」株』(版権)を手に入れて、これを収め、明治五(一八七二)年まで玉屋版として独占的に「吉原細見」を刊行し続けた。

「所化」(しよけ(しょけ))は寺で修行中の僧。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前貞女

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。漢詩は縦に並ぶが、引き上げて、一段組みに変えた。短歌も引き上げた。]

 

   ○松前貞女

 寬政[やぶちゃん注:十三年まで。一七八九年から一八〇一年まで。]の末の比、若狹國の人、

「松前にゆかん。」

とて、敦賀より、船に乘りたり。

 そのふねの内に、さた過ぎたる女[やぶちゃん注:若くないことを言うのであろう。]、一人、あり。

「いづくより、いづくへゆくにか。」

と問ひたれば、

「京より、箱舘のしらとりに歸るなり。」

と、こたふ。

「いかなるゆかりにて、京に在りしか。」

とゝへば、

「ことなるゆかりも、あらず。みづからは、ふるさとに在りし時、人につれそひしかど、ゆゑありて、わかれ、やもめとなりぬ。おやは、『ふたゝび、人にみえよ。』と、いはれしかど、かたくいなみて、のがれたり。みやこの見まくほりせしかば、ひとの、『まうのぼる。』とて、船にて能登國につきぬ。さて、京にいりて、あき人の家より、「つふね」[やぶちゃん注:「奴(つぶね)」。召使い。]となりて、一とせ侍りしかど、おもふほどは、都の手ぶりもしられざりしかば、高倉さま[やぶちゃん注:高倉家か。藤原北家藤原長良の子孫に当たる従二位参議高倉永季を祖とする公家。有職故実・衣文道(えもんどう)の家柄。]に參りて、二とせ、つとめ、さて、故鄕にかへり侍るなり。」

といふ。

「それがつくりし、からうた。」

とて、その人、うつし傳へたり。

 春盡早囘一葉船

 薰風拂浪向胡天

 誰憐去程三千里

 旅恨悠々碧海煙

又、

「その國のことばにて、よめるうた。」、

春くればちようかい心ひるかして霞のうちにちつふみえけり

「ちようかい」は「己」、「ひるかして」は「悅」意、「ちつふ」は小舟をいふ。

あぶらさけやくさけまでもいしやませはひるかてつひもなにゝかはせん

「あふらさけ」[やぶちゃん注:清音はママ。]は「美酒」、「やくさけ」は「えぞのにごりさけ」、「いしやませ」は、「無」といふこと、「ひるか」は「嬉しき」といふこと、「てつひ」は「肴」といふことゝいふ。

[やぶちゃん注:漢詩の訓読を試みる。

   *

 春 盡きて 早や囘(めぐ)る 一葉船(ひとはぶね)

 薰風 浪を拂ひて 胡天に向かふ

 誰(たれ)か憐れみ去らん 程(てい)三千里

 旅恨 悠々 碧海 煙(けぶ)る

   *

「胡天」は「北の空・地方」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 突くといふ沙汰

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。段落を成形した。]

 

   ○「突く」といふ沙汰

 文化三丙寅年[やぶちゃん注:一八〇六年]正月の末より、夜分、往來の盲人、或は、乞食・ゐざりの類を、鎗にて突き殺す事、はやりて、月の中比より、此事、甚しく、三月のはじめ比より、少し此沙汰やみたるに、同四日、芝車町より出火して、淺草たんぼまで、やける。

[やぶちゃん注:「文化の大火」である。文化三(一八〇六)年三月四日、江戸芝の車町(くるまちょう:牛町とも称し、現在の港区)から出火し,大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域と、神田・浅草の大半を類焼した大火。「車町火事」「牛町火事」とも呼ぶ。死者は千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋に収納し、救済金を下付、火災後に「諸色物価高値取締」などの対策も講じた。]

 此大火の後、又々、鎗の沙汰有りて、日暮過よりは、人々、用心して、他出する者、稀なり。夜分は、いよいよ、往來、淋しければ、わる者は、時を得たるにや、猶、所々にて、突く事、多かりけり。されども、大かたは、盲人、或は、至極下賤の者ばかりにて、よき人つかれしといふこと、なし。

 盜賊の所爲かと思へば、さのみ金銀を目がくるにもあらず、いかにもあやしき事にて、おほやけよりも、いと嚴しく仰渡され、町中にても、火事後、猶更、夜番をなして、たゆみなく心をつくすといへども、さらに其わる者、しれざりけるが、四谷天王[やぶちゃん注:現在の東京都新宿区須賀町にある須賀神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の社内地形[やぶちゃん注:「ぢかた」。平面の土地を指す。]の普請場へ、いとあやしき侍、來りて、別當所の座敷に有りし頭巾と衣二品をぬすみて、去らんとす。折しも石工、或は鳶のものなど、あまた居合せたれば、忽、とらへられ、盜みたる品を取りかへされ、からきめにあひて、逃げうせたりしに、そのゝち、「鮫が橋」[やぶちゃん注:この附近の地名。]の「おか」てふものに訴へられて、遂に召し捕れ、きびしく御吟味ありけるに、此者も、夜分、人を突くわるものなりければ、すみやかに、其罪、きはまり、江戶中引廻しの上、品川鈴が森にて、獄門にぞ行はれける。是、四月十八日に召しとられ、同廿三日に、かく行はれたれば、

「この後は、さる事、あらじ。」

と、世上安堵の思をなしたるに、はや、其廿三日の夜、淺草西福寺[やぶちゃん注:「さいふくじ」。ここ。]門前にて、又候、つかれたるもの、あり。

 牛込改代町[やぶちゃん注:「かいたいちやう」。ここ。]麁朶橋にて、十八歲になる盲人、出刄庖丁にて突き殺されたり。これは五月二日の夜の事なり。

 同夜同所、神樂坂上寺町[やぶちゃん注:この中央附近。]にても、つかれたるものあり。

 いかなる事にて、何者のなすわざにや。猶々、おほやけよりも、さまざま觸出だされし事共あれど、とにかくに、しれがたし。

 其後、自然と此沙汰やみたるに、又、八月の末より、春中のごとく、夜分、非人或は盲人を突く事、所々にあり。かへすがへすも、いぶかしき事なり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]

 此頃、甲州にて、あやしき法を行ひて、婦女子の膽[やぶちゃん注:「きも」。]を取りて、藥に用ふるよし、風說あり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]

 水銀蠟、當春以來、賣買いたし候哉、有無之返答書差出候樣、名主より申し渡され、飯田町にても、町内の藥種や一同、賣買不致旨、連印いたし、返答書を差出だしゝ事あり。後に聞くに、水銀蠟を妖術に用ひ、又は鎗にて突く事にも、用ふるよし、依之、右の御尋あり、なんど種々の說々あり。

[やぶちゃん注:「水銀蠟」不詳。水銀に蝋を混ぜたものか。

 以下は底本でも改行。狂歌は四字下げであるが、引き上げた。]

 同年十月の中比より、少し、此沙汰、やむ。一體、春中より月の夜はしづかにて、暗夜に、此事、多くありける故、其比の落頌[やぶちゃん注:「らくしよう(らくしょう)」。この「頌」は単なる「形・様」の意で、落首に同じであろう。]に、

春の夜のやみはあぶなし鎗梅のわきこそみえね人はつかるゝ

月よしといへど月にはつかぬなり闇とはいへどやまぬ鎗沙汰

やみにつき月夜につきの出でざるはやりはなしなるうき世なりけり

[やぶちゃん注:「鎗梅」「やりうめ・やりむめ」は、梅の花と蕾のついた梅の枝を真っ直ぐに立てて並べた文様の呼称。丁度、槍を並べたように見えるので、この名があり、江戸時代の小袖や陶磁器などには、この文様を使った作品が数多くみられ、尾形光琳の絵にもある、とサイト「きものと悉皆 みなぎ」のこちらにある(紋様図有り)。この歌、「わき」はその紋様から着物の「脇」に、「分(わ)き」を掛けて、闇夜に対象の識別も出来ないことを掛けていよう。]

 これは扨おき、當酉五月廿六日の夜、豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋、芝居よりかへるさ、乘物町[やぶちゃん注:現在の中央区日本橋堀留町一丁目。町名は駕籠屋が多かったことに因む。]にて、何者ともしらず、延壽齋の脇腹を、一突、つきて、いづくともなく逃げうせたり。延壽は、

「𠰄。」[やぶちゃん注:叫び声のオノマトペイア。]

といひたるに、挑燈をもちし男、驚き、

「こは、いかに。」

と、立ちよりたれば、

「はやく、駕龍を、雇ひくれよ。」

といひて、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]程あゆみて、駕籠に乘り、本石町鐘撞堂新道[やぶちゃん注:「ほんごくちやうかねつきだうじんみち」。墨田区緑四丁目中央区日本橋本石町との関係は、参照したサイト「江戸町巡り」の「【本所 新道】鐘撞堂新道」の解説を読まれたい。]なる我家へ來りしと聞きて、其まゝ息たえたりし、となん。をしむべし、をしむべし。【このとき、葺屋町[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋人形町三丁目。]市村座狂言「曾我祭」・淨瑠璃名題「嬲三人色地走(まてみたりいろのちはしり)」[やぶちゃん注:「の太夫を勤めた」の意であろう。]。『「地走」は「血走り」にかよひあてゝ見るといふも、名詮自性なり。』と、後に人のいひしとぞ。延壽が菩提所は、日蓮宗深川淨心寺[やぶちゃん注:ここ。墓も現存する。]なり。戒名「妙聲院誓音日延信士」。○是より先、延壽齋、剃髮・改名のすり物に、剃髮の「剃」を「刺」と書きたり。是も前兆なるべし。】[やぶちゃん注:頭書。恐らくは馬琴によるものであろう。狂歌・狂句は一字空けで前文に繋がっているが、改行した。]

  此延壽齋の一條は、前編の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]にしるし出だせり。

 何ものゝよめるにか、

いつきならつかるゝこともあるべきにこは前生の因えん壽齋

又、發句に、

五月やみあといふ聲や聞きをさめ

  文政八乙酉夏六朔   文 寶 亭 記

[やぶちゃん注:「豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋」有名な太夫。江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である清元延寿太夫(現在まで七代続いている)の初代(安永六(一七七七)年~文政八年五月二十六日(一八二五年七月十一日)。通称は岡村屋吉五郎。江戸横山町の茶油商に生まれた。寛政六(一七九四)年に富本節の初代富本斎宮太夫(いつきだゆう:後に剃髪して清水延寿斎)の養子となり、寛政九(一七九七)年に初代の高弟の弟子であった斎宮吉から二代目斎宮太夫を襲名した。文化九(一八一二)年、富本節を離れ、豊後路清海太夫の名で、一派を設立し、文化一一(一八一四)年に清元延寿太夫を名乗り、清元節を創設した。美声に加え、庶民の風俗・世相・時代を取り入れて、清元節の隆盛の基礎を築いた。文政七(一八二四)年に剃髪し、清元延寿斎を号した。しかし、翌年、劇場の帰宅途中に何者かに刺殺された。犯人は延寿太夫の活躍を妬んだ富本の仕業とされたが、今以て、犯人は不明である。当時、あまりにも人気だったため、

都座に過ぎたるものが二つあり延壽太夫に鶴屋南北

という落書が詠まれたほどだったという。「累」・「山姥」・「須磨」などを語り、評価を受けた(以上は当該ウィキに拠った)。

「名詮自性」(みやうせんじしやう)は仏教語で「名がそのものの本質を表しているもの」、又は、「本質に名が相応しいもののこと」を言う。「名詮」は「その名に備わっていること」、「自性」は「そのものの本質のこと」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 新吉原京町壱丁目娼家若松屋の掟

 

[やぶちゃん注:文宝堂発表。なお、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の『博多祇園山笠で歌われる「祝い歌」の歌詞に出てくる「若松さま」とはどこの神社仏閣のことか』という質問への回答として、『博多の祝い唄「祝い目出度の若松様よ…」は、『民謡歴史散歩』九州・沖縄編(河出書房新社 1962 p.19-21)、『九州のうた100』(朝日ソノラマ 1982 p.50-52)によると「伊勢音頭」と同系の歌』で、『この系統で最も新しいのが山形県の「花笠音頭」と出ている』。『博多独自のものではなく、伊勢に参詣した人々が、そこで唄われていた歌詞を記録して帰り、それによって同様の歌詞が全国に広まっているよう』で、『『日本民謡大事典』(雄山閣 1983 p.67410-411)には、「花笠踊」の項目に、「目出度目出度の若松様よ…」という歌詞があ』り、『また、『日本民謡集』(岩波書店 1983 p.98)によると「この部分は、今も祝唄、婚礼唄、木遣唄、餅搗き唄等として殆ど全国共通」とあり、富山県の「布施谷節(ふせたんぶし)」、石川県の「まだら節」も同様の歌詞』であるとし、『インターネットで検索すると、「若松観音(若松寺)」を紹介したサイトに「花笠音頭に唄われ…」とあり。 正式な読みは「じゃくしょうじ」』とあった。また、『『福岡県事典』に全歌詞があり、この歌詞は、博多独特のものではなく、全国共通とあった』。『祇園祭は、奈良時代に春日若宮(春日大社)を興福寺で祝ったとあり、また、八幡神宮にも関係あるのではないかと思われる』という附記がある。一部で二段組を一段にした。]

 

   ○新吉原京町壱丁目娼家若松屋の掟【所謂、「めでた若松」、これなり。】

右若松屋の掟は、每朝、神棚の前へ、新造をはじめ、子供殘らず居並び、神棚に向ひ皆同音に、[やぶちゃん注:「新造」江戸時代の女郎の階梯を示すもの。振袖新造・留袖新造・太鼓新造・番頭新造があるが、通常は振袖新造を指す。若過ぎて、未だ水揚げの済まない見習い女郎のこと。正規の女郎は満十六から十七歳で客をとるが、新造はその前の十三から十四歳の頃に与えられる段階を指す。姉さん女郎の付き人として、身の回りの世話をするのが仕事で、姉さん女郎のところに複数の客が登楼している場合、待たせる方の客の話相手をするのも大事な仕事であった。美人で器量がいいと、引込新造(楼主や女将が将来の花魁候補と見込んだ禿(かむろ:江戸時代、上級の遊女に仕えて見習いをした、現在の六~七歳から十三~十四歳までの少女の呼称)が成れた)になることが出来た。]

  おヲ   エ た う   三べん

  おありがたふ存じ奉ります   これも三べん

此事、言ひ終りて、見せのわき座敷にて、又、三べんづゝいひて、夫より佛壇に向ひ、居ならびて、又、三べん、是をしまひて、内證女房の前に出でゝ、[やぶちゃん注:「内證女房」廓一階の奥にあった、外からは見えない、妓楼の主人と、そのお内儀が過ごす事務所を「内証(ないしょう)」と称した。ここは、その女将。]

  お め て た ふ   こればかり、はじめの如く、三べん

女房、これをきゝて、いへらく、

「めでたいと、おつしやつた、御供(ゴクウ)いたゞけと、おつしやつた。」と、これを三べんいふと、それより、新造・子供、同音に、

 廊下でさわぎますまい つまみぐひいたしますまい ね小べんいたしますまい

 お客人を大切にいたしませう わるいことをいたしますまい

など、その外、此類の箇條をならべ立てゝいふ。これを聞きて、

女房

 一々申しつかつた通り、まちがへるな。且那さまが、おゆから、おあがんなさつたら、御祝儀に出よ。わるい事をしたらば、友ぎん味[やぶちゃん注:同輩相互による総括。]をして、申し上うぞ。一々申しつかつた通り、まちがへるな。

子供・新造、又、同音に、

 火の用心を大切にいたします  三べん

 お客樣を大切に仕ります    同

これを聞きゝて、女房、

 火の用心、火の用心、大切は、大切は。上々樣方へ御奉公、御奉公。

 御客人樣、大切は、大切は。わいらが親を孝行にして、やつたかはりの奉公だぞ。よろしい。いつて、御供をいたゞけ。

新造・子供、同音に、

 おありがたうぞんじ奉ります。

女房、いふ、

 まちがひると、棒だぞ、○たて。

[やぶちゃん注:「〇たて」意味不明。「まるまる」(皆々)立て]か。「丸太で」ではあるまい。]

是より、みなみな、次へたちて、朝飯を、くふなり。

每夜、引け過ぎ、女房の前へ、又、新造・子供、殘らず、居並ぶ。[やぶちゃん注:「引け」午前零時か。サイト「吉原再見」の「廓の一日」に、「引け四ツ」としてこの時刻とし、『正しい四ツ(鐘四ツ)』(午後十時)『に対して』、『こちらを引け四ツといいます』。『各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りし』、『金棒をならしながら』、『火の番が回ります』とある。]

女房、いふ、

 火の用心、大切は、大切は。上々樣方へ御奉公、御奉公

 お客人さまは、大切、大切。わいらが親を孝行にして、やつたかはりの奉公だぞ。諸神樣、諸佛樣、諸神樣、諸佛樣。上々樣、上々樣。お慈悲、お慈悲、お慈悲ぞ、よろしい、いつて、休息、休息、休息。

子供・新造、一同に、

「おありがたう存じ奉ります。おやすみなされませ。」というて、皆々、臥所にいる、といへり。

此每日の唱事、正月元日は、「おしよく女郞」をはじめ、新造・禿・男女出入の者に至るまで、殘らず。ならび居て、かくの如くいふとぞ。[やぶちゃん注:「おしよく女郞」御職女郎。遊女屋で上位の遊女の総称。初めは江戸吉原遊郭だけでの名であった。]

右女房のことばの中に、「親を孝行にしてやつたかはりの奉公」といふ事、解しがたき故、かの家のものに問ひしに、「それは、銘々、おやの爲に身をしづめし上、折々、其おやども、來りて、『くらし方、難澁のよし』にて、金子借用の願を出だし、少しにても、借りうけて、先、當時々々の困窮をも凌ぐは、是、奉公をして居る故に、親の貧苦をも救へば、自然と、孝行にあたるべし。『その孝行をさせてやるは、誰が、かげぞ、是、おやかたのかげならずや。其かはりの奉公なれば、大切に、つとめずば、なるまい。』といふ、無理に理窟をつけたる、いましめことばなり。」と、かたりき。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) なら茸 乞兒の賢 羅城門の札

 

[やぶちゃん注:乾斎発表。段落を成形した。話の切れる部分に「*」を入れた。二話目の漢詩は四字下げで一行に句明け一字分で書かれているが、句で改行して引き上げて示し

短歌も引き上げた上、句で分離した。]

 

   ○なら茸 乞兒の賢 羅城門の札

 上州眞壁郡野瓜(ノウリ)村[やぶちゃん注:不詳。旧真壁郡では現在の筑西市に野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)という地名なら現存する。]にての事なりし。

 寬政四年辛未【是年、改元、「寶曆」。】[やぶちゃん注:干支と割注から、「寬政四年」は「寬延四年」の誤り。一七五一年。寛延四年十月二十七日(グレゴリオ暦十二月十四日:旧暦では閏六月があった)に宝暦に改元した。]四月中[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では四月二十四日から五月二十四日。]、百姓ども、寄り合ひて、「なら茸」といふきのこ、大さ、三、四寸ばかりなる、いと美事なるを取り來て、四、五人、より合ひ、吸物にこしらへ、酒を吞まんとせし折、同村なる不二澤幸伯といふ醫師、來にければ、五人のもの申しけるは、

「さてさて。よき處ヘ御出候ものかな。今日、「ならたけ」といふきのこを採り候故、吸物にして酒をたべ候なり。幸ひの折なれば、御酒ひとつ、きこしめされよ。」

といふに、此醫師も、

「そは、よき處へ參りあはしゝ。」

などいふ程に、吸物膳をもて出でければ、葢をとりて見るに、特に美なる「なら茸」を四つ割にして、出だしたり。

 幸伯、これを、吸はんと思ひしに、はじめ座につく時、腰にさげたる印籠巾着[やぶちゃん注:底本は「籠」が「竃」だが、誤植と断じて特異的に訂した。]を、膝の脇にや居[やぶちゃん注:「をき」。]しきけん、忽、

「はつし」

と、音、しにけり。

 幸伯、ひそかに驚きて、

『こは、印籠を、ひしぎしならん。』

と思ひつゝ、とりて見るに、させることも、なし。

『こは、いかに。』

と疑ひまどひて、やがて、その巾着の紐をときつゝ、内を見るに、いぬる年、兄道伯がくれたりし、三つ角の銀杏、くだけたり。

 そのとき、幸伯、思ふやう、

『曩に、わが兄の、この銀杏をくれしときに、いへらく、「その理あるにあらねども、『三つ角なる銀杏は毒けしなり』とて、むかしより、人のいひ傳へたり。よしや、醫師なればとて、かゝる事は、俗にしたがひて、文盲見義[やぶちゃん注:「文盲の下々の者に対して発明して真義を示すためのもの」の意か。]に用ふるぞ、よき。其方にも、一つ、懷中せよ。」とくれたるを、この巾着に入れおきしに、今、摧けしは不審の事なり。且、この吸物は、わが好物といふにも、あらず。いかにせまし。』

と思ふ心の、とかく、心にかゝりしかば、

『吸はぬにますこと[やぶちゃん注:「增すこと」で「それ以上によいこと」の意か。]あらじものを。』

と、やうやくに思ひとりて、もろ人にうちむかひ、

「われら、けふは大切なる精進日に候へば、御酒ばかり、たまはらん。」

とて、盃をうけて、少し飮みしが、遂に療用にかこつけて、酒宴なかばに、辭し去りぬ。

 しばらくして、彼吸物をくらひし百姓の家より、幸伯がり、人を走らして、

「只今、見まひ、給はれかし。」

とて、急病用の使、推しつゞきて、來にければ、幸伯、ふたゝびゆきて、彼五人の中、亭主と外、一人の卽死したれば、療治、屆かず。殘る三人は、その腹、いづれも、大皷のごとくにはれたれども、命運や竭きざりけん[やぶちゃん注:「つきざりけん」。]、からくして、順快しけり。

 そのゝち、幸伯は江戶へ出府せし折、

「かゝる事にや、不思議に命を助かりし。」

とて、朋友某に物がたりしなり。

[やぶちゃん注:「ならたけ」食用の菌界担子菌亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica であるが、毒成分は不明ながら、ナラタケ食で体調不良を起こすことはあるものの、死に至るケースはない。似た形のもので致死性が高いのは、ハラタケ目フウセンタケ科ケコガサタケ属コレラタケ Galerina fasciculata だか、同中毒は食後概ね十時間(摂食量によっては六~二十四時間)後にコレラの様な激しい下痢が起こり、一日ほどで、一度、回復するが、その後、二~七日後に肝臓・腎臓などの著しい機能低下による劇症肝炎や腎不全症状を呈し、最悪の場合、死に至るとあるので、即日即死二名の本件には当たらない。彼らが食った「きのこ」の正体はよく判らない。但し、公開直前に、サイト「森林微生物管理研究グループ」の「きのこ中毒の話(二)」を発見、毒キノコに詳しい専門の方が本話を現代語抄訳された上で、『この話の「ならたけ」は別の種類であろう。コレラタケかニガクリタケかもしれない』とされ、さらに『一般の本では、「ナラタケ類は食用になるが、消化が悪く、嘔吐、下痢などの例がある」と記されている。しかし千葉、茨城では、「消化不良」程度ではない「毒きのこ」並の中毒が起きたことがある。しかも一件は私が同定したきのこで、面目を失った苦い経験がある。どうもツバの無いナラタケモドキのなかまに毒性の強いものがあるようだ』と記されてあった。強ち、私の同定も信用ならぬわけではないようである。

   *

 延享五年戊辰【この年、「寬延」と改元。[やぶちゃん注:延享五年七月十二日(グレゴリオ暦一七四八年八月五日)改元。]】春正月十三日の夜の明がたに、大坂四ツ橋にて。そのほとりなる非人、金五拾兩拾ひしに、その包がみに、

「字津屋氏」

と書きつけてありしかば、隈なくたづねて、終に、そのぬしに返しけり。金のぬし、歡びて、謝物として金子少々とらせしかども、つやつや、うけず。

 よりて、又、酒代として鳥目三貫文つかはしゝに、左の詩を相添へて、その鳥目を返しつゝ、非人は、ゆくへしれずとぞ。

  橋上路邊一二錢

  往來終日幾千人

  死生富貴任天命

  昨日錦今日草菰

 たからぞと

     おもへば袖に

   つゝみけり

      ひろへはおもき

     障りなりけり

 又、いづれのとしにかありけん、豐後國【郡、たづぬべし。】地藏寺[やぶちゃん注:大分県大分市佐賀関にある地蔵寺か。]門前に、行き倒れの尼あり。

 その住所をたづねしに、

「乞食のよし。」

なれば、しれず。

 その傍に、辭世あり。

  漸出人間界

  忽今上昊天

  卽捨敞蓑笠

  夢醒寺門前

 予、これらの人の塵埃に埋もるゝを哀み、錄して、もて、人に示して、後に傳へんと欲するのみ。

[やぶちゃん注:二篇の漢詩の訓読を試みる。

  橋上(きやうしやう)路邊 一二錢

  往來終日(ひねもす) 幾千人

  死生(ししやう)富貴(ふうき) 天命に任せ

  昨日(きのふ)の錦 今日(けふ)の草菰(くさこも)

   〇

  漸(やうや)く出づ 人間界

  忽ち今 昊天(かうてん)に上(のぼ)り

  卽ち 敞(たか)きに捨つ 蓑笠(さりふ)

  夢 醒むる 寺門の前

「昊天」(こうてん:現代仮名遣)は「夏の空」或いは「大空」。]

   *

[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミングした。キャプションは、右斜辺に、

「此所、朽、一尺程。」

禁札内には(本文に従い、判読出来なかった可能性の部分に□を置いた)、

「羅生門変□

 為退治蒙□

 

天近 二年二月

   摂津守源頼」

左下辺下に、

「此所、朽。」

とあるが、「天近」(意味不明。「ごく最近の比」の意か)は「天延」(二年は九七四年で、頼光四天王の一人渡辺綱(後述)は数え二十二)のつもりか(但し、それでは後に示される退治の逆算よりも前になってしまう)。「摂津守源頼」は彼が従った源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)を指す。渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は嵯峨源氏であったが、頼光の父源満仲の女婿源敦(あつし)の養子となる。摂津国渡辺に住んだことで「渡辺」を名乗った。坂田公時らとともにに源頼光の四天王に挙げられ、武勇談が多いが、伝説的な要素が強い。京の堀川に架かる一条戻橋で女に化けた鬼に遭遇し、髻を摑まれたので、その鬼の腕を名刀「鬚切」で斬り落とし、こと無きを得た。その後、陰陽師安倍晴明の勧めにより七日の間、閉門して慎んでいたところ、養母に化けた鬼がやって来て、斬られた腕を取り返した、という話が有名であるが、それを室町時代に観世信光が謡曲「羅生門」としてロケーションを変え、そこに巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝として創り変えた。そもそもが、それを事実としていることからして、この話は全くお話にならないのである。

 

Watanabetunanokinsatu

 

 京都安井御門跡、諸寶物、くさぐさの中、うす綠の大刀、羅生門へ、渡邊綱が、もてゆきし、といふ禁札は、わきて、めづらし。番の侍某を賴みて、※寫せし圖[やぶちゃん注:「※」=「菖」-(最下部)+(中間)「大」+(最下部)「手」。フォント無し。意味不明だが、「しゆしや」で傍で手書きで写すことか。]。

  幅弐尺二寸   長壱尺弐寸

  厚三寸

  人王六十四代  圓融院御宇

    寬延二巳年迄七百七十三年

右の板は、榎木にて、文字消えて、多く、よめず、「變」の字の下にも、文字見ゆれど、讀みがたし。撫づれば、手に障るのみ。又、「蒙」の字の下にも、文字あれども、これ又、よめず、「蒙」の下は「者也」とあるやうに見ゆ。手にて、撫づれば、少し障るのみ【右、獲自古記錄中。】。

  文政八年乙酉六月朔

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

著作堂云、「この禁札といふものは、ある人の※[やぶちゃん注:先に同じ。]刻せしを、予、藏弃せり。友人美成にも、所藏にありといふ。「羅城門」を「羅生門」と書きたるなど、すべて、疑はしく、信じがたき者なり。

[やぶちゃん注:「京都安井御門跡」京都府京都市東山区にあった真言宗の門跡寺院蓮華光院。元は仁和寺の院家として太秦安井に建てられ、後、東山に移された(大覚寺が兼帯した時期もある)。明治になって廃絶され、現在は当地に旧鎮守安井金比羅宮が残る。安井門跡とも呼ぶ。

「羅生門」羅城門の後世(中世以降)の当て字。「羅城門」は近代まで「羅生門」と表記されることが多かった。

「圓融院御宇」円融天皇の在位は安和二(九六九)年から永観二(九八四)。

「寬延二巳年」一七四九年。徳川家重の治世。

「寬延二巳年迄七百七十三年」数えとして逆算すると、貞元二(九七七)年で、確かに円融天皇の治世に合致する。この年なら、渡辺綱は数え二十五歳で、如何にも相応しい年齢にはなる。]

2021/09/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐孫右衞門が事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。頭で、かく言っているが、最初の「むじな・たぬき」の発表は、この海棠庵である。]

 

   ○狐孫右衞門が事

 過ぎし「兎園」のまとゐには、きつね・たぬきの事など、諸君のしめし給ふ物から、予も亦、聞きつる一條のものがたりあり。

 こは予が家に、年ごろ、出入なせるもの、元は下谷の長者町に住みし萬屋義兵衞が母「みね」のはなしなり。みねが生國は、下總相馬郡宮和田村[やぶちゃん注:現在の茨城県取手市宮和田(みやわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]のほとりにて、みねが父は同國赤法華村[やぶちゃん注:茨城県守谷市大字赤法花(あかぼっけ)。]の農民孫右衞門といふものなり。

 此孫右衞門より六世ばかりの祖孫右衞門【代々、孫右衞門をもて稱す。】とかいひしもの、江戶に出でゝ歸るさ、何がしとかいふ原【原の名を詳にせず。】をよぎりし時、傍に若き女の、ひとりたゞずみしが、呼びかけて、いへらく、

「われは下總なる云々の村にゆくものなるが、ゆき暮れて、いと、なやみぬ。願ふは、和君も、そのほとりにしおはさば、伴ひ給はれかし。」

と、他事もなく[やぶちゃん注:そのことに念を入れて。]賴まれければ、孫右衞門、止む事を得ず、うけがひて、その夜は、おのが家にとゞめ、とかくして、一兩日をふる程に、彼女のふるまひの、まめくまめしければ、孫右衞門が母なるもの、女に問ひて、いふ。

「我子、いまだ、妻、あらず。わがよめとなりなんや。」

と、いひしに、女、答へて、

「われに、實は、親兄弟もなく、たよるべき方、なし。云々の村は、些のゆかりあれば、尋ねゆかんと思ひしのみ。兎もかくも、御心にしたがひなん。」

と、いひければ、母、悅びて、つひに、めあはしぬ。

 いく程もなく、男子をまうけ、そが五歲といふとき、又、をのこを、うめり。

 冬の事にて、稚子[やぶちゃん注:「をさなご」。]に添乳して、しばし、爐邊にまどろみしに、五歲なりける男子が、あはたゞしく、

「てゝごよ。見給へ。かゝさまの、かほが。『おとうか』【狐の方言なり。】に、よく似たり。」

と、いふに、おどろき、彼女は、忽、身を翻して、かけ出でぬ。

 みなみな、打ち驚き、※(アハテ)まどひて[やぶちゃん注:「※」「目」+「條」。]、そがあたりを、おちもなく、さがし求めしに、向の小高き山に、狐の穴ありて、その穴の口に、小兒のもて遊びの茶釜と、燒ものゝきせると、書きおきやうのもの、一通あり。

「さては。彌、狐にてありけり。」

と、はじめてさとる物から、なほ、哀慕に堪へざりけり。

 かくて、その生れし男子、成長して、また、孫右衞門と稱し、老いて、

「廻國の望あり。」

と、家を出でしが、何地ゆきけん、遂に歸らずなりし。

 そのあたりのもの、後々までも、「狐のおぢい」と呼びしとぞ。

「かの『みね』は、右『きつねのおぢい』が爲には、『ひまご』にや當りぬべし。」

といふ。「みね」媼(ばば)が話に、

「をさなきころ、赤法華村にゆきて、彼[やぶちゃん注:「かの」。]茶がま・きせるなど、見し事、あり。わなみも、狐の血すぢにて、侍り。」

と、こまやかにかたりしを諳記して、こゝにしるしぬ。老媼がむかしがたりなれば、郡村の名さへ詳ならぬもあれば、遣漏、なほ、多かるべし。もし、委しきことをしも得ば、後のまとゐに補ふべし。

  乙酉六月朔      海棠庵主人 識

[やぶちゃん注:元は安倍晴明の古話の変形譚ではあろうが、何か、小泉八雲の「雪女」(リンク先は私の「小泉八雲 雪女  (田部隆次訳)」)を読むような、とても、しみじみとする話ではないか!…………

「わなみ」「我儕・吾儕」。一人称代名詞。対等の者に対して自身を言う語。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代り觀音補遺

 

[やぶちゃん注:これの補遺。冒頭の添書は底本では全体が二字下げ。だらだら続けると面白味が損なわれるので、段落を成形した。]

 

   ○身代り觀音補遺

 四月の「兎圖會」に、翰池翁の錄し給へる「身代觀音」の一條あり。その年月、及、人名等、詳ならざるをもて、

「名どころは、糺すべし。」

と注し給へり。しかるに、「淺草寺志」の中に於て、その記事一篇を得たり。年月旅宿等はしるし給へど、その事、少しく異同あり。參考に補ふべし、といふ。

   「淺草寺志」本文     美成 記

「明石屋甚藏刀難圖之額」

 額に、「文化四年[やぶちゃん注:一八〇七年。]丁卯四月」・「大坂新町住人明石屋甚藏法橋周南 畫」。本堂右の方にあり。

 文化三年、大坂新町の遊女屋明石屋某といふもの、いまだ江戶を一見せざれは、同所のもの二人を打ちつれ關東に下りけるに、いづれも家まづしからねば、

「旅用の財をも、そこばく持ち出でん。」

と欲すれども、長途の事なれば、盜難を恐れ、順禮の姿にやつし、わざと、物などもたぬ體になしけるに、伊勢の桑名のあたりより、あやしきものども、その貯あることを知りつらん、跡になり、先になり、隙をうかゞふ體にて、つひに武州かな川の驛まで來たり。

[やぶちゃん注:現在の横浜駅北直近のこの辺り(グーグル・マップ・データ)。ポイントした「田中屋」は歌川広重の「東海道五十三次」の神奈川宿の台之景に絵に描かれている「さくらや」という茶屋を、幕末の文久三(一八六三)年に田中家初代が買い取って出来た料亭で、坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていたことでも知られる。「田中屋」の公式サイトのこちらをご覧あれ。私は三度ばかり行ったことがある、とても雰囲気のいい老舗である。嘗て、横浜駅のあるところは、この断崖の下の巨大な入り江だったのである。

 明石がとまりたる宿の向に、彼もの共、とまる。

 明石屋は、宿のあるじに向ひて、

「われら、旅中より、あやしきものにつけ𢌞され、千辛萬苦せし。」

かたる時に、むかふのあるじ、周章(アハタヾ)しく、走り來り、

「此うちに順禮のかたちをなしたるもの、とまりつらん。かれらは、大坂より子細有りて出奔せしものなり。わが内にやどせる人、

『これをとらへんが爲、はるばる、これまで下りたり。あすは定めて曉に立つベし。其時に待ちぶせして、からめとらんと思ふなり。その用意あれ。』

と告ぐ。」

 あるじは、すでに明石等が物がたりにて、その盜賊たることをしれるにより、向のあるじにも、委しく是をかたり、

「何れ、穩便に計ふこそ、よけれ。」

とて、明石屋にとはかり[やぶちゃん注:底本に右に『(本ノマヽ)』と傍注する。「に」は衍字か。]、

「幸、三人の知音なれば、深川靈嚴寺中、何某院へ、船にて送りつくべし。」[やぶちゃん注:「つく」は「繼(つ)ぐ」か。]

と相談し、向のあるじは、かの賊をあざむき、

「道にて、捕へ給へ。」

とて、曉に先だち、神奈川をたゝせたり。

 故に、あかし屋はじめ、二人のもの、難なく深川にいたりつきぬ。

 居ること數月にして、江戶をも、略、一見をはりぬれば、すでに深川をうち立たんとするに、明石屋某、常に觀音を信じ、たびたび、淺草寺に詣でけるに、御いとま乞の心にや、

「今一度、參らん。」

と、二人の男をもすゝむるに、彼等は旅の用意にいとまなく、明石屋のみ、詣でけるに、

「いまだ、吉原を見ざれば、一見せん。」

と、立ちより、日本堤を東へかへらんとするに、俄に大雨ふり來て、衣服もしぼる程濡るゝにより、とある人の傘に、しばし雨を凌ぎけるに、かのもの云やう、

「汝も、見しりあらん。我こそ、桑名より跡先になりて來つるものなり。神奈川にてあざむかれたることの口惜しさ、今こそ思ひ知らせんず。」

といふに、明石は、

『めぐりめぐりて、又、かの賊にあふことも、過去の宿業。』

と覺悟して、正に淺草觀音を念じゐけるに、かの賊、腰のものを技きて、一打に切りつける。

 きられて、

「どう」

と倒るゝ迄は、物覺えしが、その後を、知らずなりにけり。

 深川に殘れる二人の男は、明石屋がかへるをまてど、夜半を過ぐるまで、さたなし。

 二人のもの、

「かねて、明石屋がやぶさかなる[やぶちゃん注:吝嗇である。]うへに、遊興などには心なきをとこなれば、よし原ヘいたるとも、今迄かへらぬことやはある、いかさま、變事のいで來たるならん。いで、尋ねばや。」

といふ所に、明石屋、かへり來れり。

「いかに。」

と問ふに、物をもいはで、倒れふしたり。

 人々、打ちより、

「何ゆゑなるか。」

と、立ち騷ぐ程に、夜明けて、あかし屋、起きあがり、茫然たる體にて、

「こゝは。いづくぞ。我こそ、日本堤にて、賊にきられつるものを。」

と、膚を見るに、疵だに、なし。たゞ、懷にしたる金のみ、うばゝれたり。

「まことに、大慈大悲の我身に代りて、刄をうけ給ひしふしぎさよ。」

と、信心、いやまし、三人ともに事故なく歸國し、彼刀難にあひし時のありさまに、覺えたるまゝを畫にしたゝめ、寶前へ、そなへたりとなん。

芥川龍之介書簡抄144 / 昭和二(一九二七)年四月(全) 五通

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・吉田泰司宛

 

冠省、あらゆる「河童」の批評の中にあなたの批評だけ僕を動かしました。あなたは僕を知らないだけにこれは僕には本望です。河童はあらゆるものに對する、――就中僕自身に對するデグウから生まれました。あらゆる「河童」の批評は「明るい機智」を云々してゐます。恰も一層僕自身を不快にさせる爲のやうに。右突然ながら排悶の爲に。(御禮の爲と云ふよりも) 頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   吉田泰司樣

 

[やぶちゃん注:「吉田泰司」(生没年未詳)筑摩全集類聚版脚注に、『白樺系統の批評家。この』「河童」の『批評は倉田百三』が大正一五(一九二六)年に創刊した雑誌『「生活者」に出る』とある(当該雑誌のこの年の四月号所収)。岩波新全集の「人名解説索引」によれば、彼は大正八(一九一九)年に『片山敏彦らと同人誌「青空」を創刊』し、『のち「白樺」「高原」などに寄稿している』とある。

「デグウ」dégout。フランス語で「嫌悪・不快感」。]

 

昭和二(一九二七)年四月三日・田端発信・稻垣足穗宛

 

高著をありがたう、文壇はあなたのやうな fancy の所有主に冷淡です。しかし fancy それ自身に價値のあるのは勿論です。書けるまでどんどんお書きなさい。僕などはもう fancy に見すてられた方です。しかし今牛乳をのんでゐると、第三半球がぼんやり浮かんで來ました。頓首

    四月三日朝      芥川龍之介

   稻垣足穗樣

二伸ゆうべまで鵠沼にゐた爲に御禮が遲れました。

 

[やぶちゃん注:「稻垣足穗」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は小説家。大阪出身で関西学院普通部卒。佐藤春夫の知遇を得て、大正一二(一九二三)年に「一千一秒物語」を発表。器械・天体などを題材に反リアリズムの小宇宙を構成した作品を発表、奇才と称された。戦後、小説「弥勒」やエッセイ「A感覚とV感覚」を発表。昭和四四(一九六九)年に随筆集「少年愛の美学」でタルホ・ブームを起こした。私は「一千一秒物語」・「A感覚とV感覚」・「少年愛の美学」を読んだが、どれも生理的に受けつけられなかった。

「高著」最後の部分から、この年の三月に金星堂から刊行した「第三半球物語」であろう。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月四日・田端発信・芥川文宛(葉書)

 

多加志熱を出したよし、石川さんから聞いた。こちらも義敏熱を出し(インフルエンザ)ねてゐる。

多加志はすつかりなほるまでそちらに置いた方がよいかも知れない。六日或は七日に種やをやる筈。お母さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の四月四日の条に、『鵠沼の塚本家に滞在中の文から、多加志が熱を出したことを知らされ、見舞い状を送る』というのがこれ。

「石川さん」一九九四年岩波書店刊の宮坂覺編著「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」を見るに、石川太一・石川暁星なる人物であるが、人物は不詳。

「種やをやる」意味不明。何かの植物の種を自宅の庭に蒔くということか。或いは、文にのみ判る符牒か? しかし、この四月七日には芥川龍之介は大変な事件を起こしている(時日は未確定ともされる)。新全集宮坂年譜から前後を引く。

   *

四月五日 『夜、ウィスキーを手土産に持って久保田万太郎を訪ね、一緒に飲む。この時、傘の絵と句を書き残した』。現在、絵・俳句ともに自筆の傘の絵というのは、私の知る限りでは、三種が存在する。データが不足しているために、ここに出るのがそれらのどれかであるか、或いは別なものかは判らない。但し、それらに共通する添え句は、

 時雨るゝ堀江の茶屋に客ひとり

の龍之介の句であるから、まず、これもそれと同じようなものと考えて差し支えあるまい。

四月六日 午後二時頃、『下島勲が初めて甥の連(むらじ)(のち養子に迎える)を連れて来訪する。下島には、英語の聖書を読むことを勧めた。夕方、下島とともに室生犀星を訪ねる。この時、犀星の机上にあった書簡箋をとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とある。

四月七日 『「歯車」の最終稿「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻簾素子と心中することを計画していたとされる』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照されたい)。『但し、平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられる』。『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる。この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』した。

四月八日 『文が、比呂志の小学校の始業式に出席した後、帝国ホテルを訪ねる。この日、柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で平松麻素子、柳原と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが』、彼女は行かなかった。

   *

この柳原白蓮との一件は、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「柳原白蓮の回想」に柳原白蓮「芥川龍之介さんの思ひ出」が引かれてあるので、引用部を転載する。歌人柳原白蓮は延長ギリギリ前でパブリック・ドメインである。最後の句点のみ私が打った。

   *

自殺をなさる一寸前の事、私の可愛がつてゐた人で芥川さんと大変親しくしていた人があつたのだが、その人からの突然の連絡で芥川さんが心中を迫つてゐるとの事、私はとるものもとりあえずその時丁度頂いたばかりの印税があつたので、それをそつくりもつてかけつけた。龍之介さんはどうしても死ぬといふ。私は死ぬ事は悪い事だといふ。たうとう議論になつた。そして私はおしまひには、これ程云つてもやはりわかつてもらヘなければ勝手に死ぬがいい。しかしこの人は私にとつて大事な人だから一緒に死んではいやだ、死ぬなら一人で死んでといつて泣き出してしまつた。するとどうでせう。その時まで大変深刻だつた龍之介さんは突然上機嫌になり、あなたのやうな正直な人はみたことないと云ふ。そして一緒に御飯を食べようと云ひ出した。それから星ケ丘茶寮に三人で出掛けた。興奮からさめた私は御飯を頂きながら、又死ぬ事のいけないことを説いた。そして、たとへどのやうな状態であつても、何処であつても、生きている事は死んでしまつたよりいいから、二人が本当に愛し合つてゐるのなら、一緒に支那へお行きなさい、お金は持つて来たし、あなたはとつても支那が気に人つてゐるやうだからといふやうな事を云つた。するとお金なら自分もあるからいいと云ふ。やがてその人と二人きりで話したいと云ふので私は帰つて来た。おもへばそれが龍之介さんにお目にかかつた最後でもあつたのだ。

   *]

 

 

昭和二(一九二七)年四月十日・田端発信・飯田蛇笏宛

 

冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―― niru と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、

   「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」

御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、

   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」

人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首

    四月十日       芥川龍之介

   散田蛇笏樣

 

[やぶちゃん注:この書簡はサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で既に電子化している。内容は大正十五(一九二六)年十二月二十五日新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められた芥川龍之介の発句群への、『雲母』誌上での蛇笏評に対する消息文である。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、この蛇笏の批評は、『飯田蛇笏「虚子、竜之介、幹彦、三氏の俳句近業」(『雲母』一九二七年三月号)』で、『蛇笏は、「俳人以外の人々」の中で、芥川の句境は久保田万太郎以上、「まさに群を抜くもの」と評価した』とある。

 なお、前のリンク先で前記の心中未遂の話を引いて注している私の見解は、現在の私は大きな修正をしている。ここでは、それについて書いた私のブログ記事、『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』をリンクさせるに留める。

「蝶の舌の句」同前の石割氏の注に、『『ホトトギス』「雜詠」欄(一九一八年八月号)では「鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな」』となっており、『『梅・馬・鶯』では「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」』としたのを、『蛇笏はこの改作は「却つて失敗」とし、感受性に「緊張」が欠けたとみる』と注されておられる。それぞれの句の正規表現(「鉄条」は私には生理的にダメである)は、後者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を、前者は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を「蝶」で検索されたい。私は蛇笏の見解に賛同する。龍之介の決定稿は整序され過ぎて、新傾向俳句の底に沈んでもおかしくない技巧に過ぎたものである。

「かげろふや棟も落ちたる」同前の石割氏の注に、『「近詠」(『驢馬』一九二六年六月号)では「陽炎や棟も落ちたる茅の屋根」。『梅・馬・鶯』では「かげろふや」』とある。同前の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で確認されたい。「鵠沼」の前書を持つ

「久保田君、句集を出す」久保田万太郎の句集「道芝」(昭和二年五月二十日俳書堂號友堂刊)。

「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」同前の句集「道芝」の序の掉尾に置かれた芥川龍之介の発句であるが、この『「道芝」の序』は事前に昭和二年五月一日発行の『文藝春秋』で初出されており、後に同句集に収録されたものである。但し、表記が異なり、

 冴え返る隣の屋根や夜半の雨

が正しい。]

 

 

昭和二(一九二七)年四月二十五日・田端発信・室生犀星宛

 

冠省藏六刻の印二顆、小生よりけん上せしも應の一寸お貸し下され度、なほ又肉池もお借し下され候はゞ幸甚 頓首

    二十五日       龍 之 介

   犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:「藏六」浜村蔵六。江戸中期から明治時代にかけて五代に亙って篆刻家として活躍した浜村家が名乗った名跡。蔵六とは「亀」の異名とされ、初世が亀鈕(きちゅう:亀の形をした印の持ち手)の銅印を所蔵していたことから号としたとされる。当該ウィキにある、四世浜村蔵六(文政九(一八二六)年~明治二八(一八九五)年:備前岡山の人。正本氏、後に塩見氏を名乗った。名は観侯)か、五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四二(一九〇九)年:津軽の人。三谷氏、名は裕)の孰れかであろうか。

 なお、新全集年譜によれば、この前の四月十六日の条に、『菊池寛に宛てて遺書を書く。小穴隆一宛の遺書を書いたのも、この頃と思われる』とある。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州南部癸卯の荒饑

 

[やぶちゃん注:「癸卯」(みづのとう/きぼう)は後に出る通り、天明三(一七八三)年。「荒饑」は「くわうき(こうき)」で「荒飢」と同じく、作物が実らず、食物の乏しいこと。饑荒・饑饉のことで、所謂、「天明の大飢饉」のことである。私の最近の仕儀である「譚海 卷之四 天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」の詳しい注を見られたいが、これは「享保の飢饉」・「天保の飢饉」と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つで、九年の長きに亙って連年で発生した未曽有のもので、中でもここに語られる天明三(一七八三)年と、後の天明六年の惨状が甚だしかった。しかも東北地方のそれは想像を絶し、陸奥辺境部各地では人肉相い食(は)む凄惨な話が伝えられていることでも知られるが、以下の条にもその実例が記されてある。この井筒屋三郎兵衛の書状は、凄絶にして正確無比な文章で、しかも非常に知的な優れた文章でもある。

 

    ○奧州南部癸卯の荒饑

古にいへらく、「食者天下之本也。黃金萬貫不ㇾ可ㇾ療ㇾ飢。白玉千箱何能救ㇾ命。」。いでや、今のおほ御代は、しも、何事も足らぬことなく、凶年・餓饉などいふことは、嘗てあらず。いにしへより、凶年のためし、少からねど、近き年のうゑたるは、人々も、よくしりてあれば、常に昔語にのみ聞きなしたる、此大江戶のことにこそあれ、遠鄕僻地は、いかばかりなりけん、只、推しはからるゝばかりなるを、この比、友人のもとより、その比、陸奥より、ことのさま、つばらかに、いひおこしたる書狀、壱通を示されき。彼あたりは、ことに甚しきよし、ほの聞えたれど、思ふにましたることのみにて、今のおほ御代に思ひくらべては、いとおそろしく、魂も消ゆるこゝちす。されば、かけまくも、かしこきことながら、國家盛德のおほんめぐみの有りがたきをも、更に思ひしらるゝわざなりけり。かつは、時ならぬ氣候もあらば、此後も、その意、得べきことならんかしと、思ふからに、錄して、後葉に傳へまほしくこそ。

  文政乙酉六月朔      山崎美成識

[やぶちゃん注:「食者天下之本也。黃金萬貫不ㇾ可ㇾ療ㇾ飢。白玉千箱何能救ㇾ命。」訓読してみる。

 食は天下の本(もと)なり。黃金萬貫、飢えを療(いや)すべからず、白玉千箱、何ぞ能く命を救はん。

でよかろうかい。]

天明三年癸卯十一月十一日、奧州三戶郡南部内藏頭殿領分、八戶の惠比須屋善六より、本店江戶田所町かど、井筒屋三郞兵衞へ遺しゝ書狀、左の如し。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。但し、物品項目の頭の「一」群を除いて、条文頭の「一」は一字頭抜けている。それを項目「一」と区別するために「一、」とした。ただ、次の頭は「一筆」で、二字下げ位置から始まるのであって注意されたい。]

一筆啓上仕候。甚寒御座候得共、先以其御地御揃、益御勇健可被成御座珍重奉存候。拙者共無異罷在候。乍慰外御安意可被下候。

一、追々御承知可被遊、當地凶作前代未聞御座候。全體去冬寒中甚暖に而如夏、霜月比より氷候へ共、寒に入、悉く解、平生三四月頃の季候に等しく、夫より年明正月に成、少々寒く候得共、例年よりは格別暖に御座候。二月三日迄不寒、四月頃より卯辰(ヤキ)[やぶちゃん注:東南東。読みは意味不明。]風、北風計に而、寒中如極寒雨降、四月中に雨不降日漸々七日御座候。夫も薄曇東風に而霧多、晴天は一日も無御座候。五月も同斷に而朔日より降初、五月中不降日漸々六日、六月中も五日程も右之如く快晴は無之、七月には四日、八月には六日、右之通不天氣に候得共、當春より麥作之景氣至而宜、近年に不覺作合に相見え候間、諸人甚大悅罷在候處、苅頃に成右之雨續候故熟し兼、存之外日數おくれ苅取候處、一圓實成無御座、諸民大困窮仕候。然共稻作・大豆・小豆・豆・稗等は例年に勝候作合宜相見え申候間、「秋作者十分に可有之」と素人の拙者共は不申及、老農老圃年來の功者共、「當秋は豐作無相違」由申居候故、右之季候も左而已驚不申罷在候處、次第に不順に相成、春一度花咲候藤・山吹之類など、六、七月頃[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では同年の同旧暦月はほぼ七~八月相当。]山々春の如く花咲、九輪草[やぶちゃん注:サクラソウ目サクラソウ科サクラソウ属クリンソウ Primula japonica 。]・唐葵[やぶちゃん注:アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea の古名。]抔は春より霜月まで四度も五度も花咲、夏菊十一月下旬[やぶちゃん注:同前で十一月末日三十日は十二月二十三日。]まで盛り、九月十月中旬に竹の子生じ、九月下旬[やぶちゃん注:同前で十月中旬相当。]に蟬なきやまず、種々の季候違に御座候。稻作は七月下旬に至り候而も出穗無之、たまさか穗出候而も、葉の内へかくれ花もかゝり不申、穗出るは百分一、其外一圓に穗出不申候。右之次第に御座候間、一粒も實入無御座候、大豆・小豆・粟・稗・蕎麥等は、八月十三日之夜大に霜降り、是に當り種なしに罷成、誠に古今未曾有之大凶作、元來三四年以來打續半作に不滿、飢饉に御座候處、當夏麥不作、其上秋作皆無に御座候間、諸穀物一向無之、相場は市每に引上ゲ、當時相場左之通り、

[やぶちゃん注:以下の物品項目は底本では二段組だが、一段に変えた。ズレが生ずるので読みはここのみ半角にした。]

一玄米  壱升に付 弐百五拾文

一こぬか 同    五拾文

一大豆  同    百五拾文

一搗粟  同    弐百三拾文

一蕎麥  同    百廿文

一豆腐粕 同    廿五文

一片春(ツキ)麥 同  二百文

一フスマ 同    六拾文

一粗稗(アラヒエ) 同  百 文

一兩替六貫三百文

右之通何品によらず、食物に相成候類、過分之直段に御座候間、食物在々に無御座、蕨・野花(トコロ)[やぶちゃん注:恐らくは単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属オニドコロ Dioscorea tokoro であろう。苦味が強く、一般には食わないが、古くよりアク抜きして焼いたり茹でたりして食用にしたとされる。]、葛等を掘り食事仕候。夫も幾千百人と申限りなき事に御座候間、さしもの大山も忽に掘盡し申候間、葛・蕨の粕、あもそゝめ[やぶちゃん注:底本には編者によってママ注記がある。後の記載で明らかになるが正しくは「あも」の「ささめ」である。]など申もの計、食事に仕候に付、右之毒に中り、五體腫れ、大小便不出して、忽に相果候者數知れ不申候。當九月頃乞食共、犬・猫・猿等を食事に仕候事承り候間、肝を潰し候處、去月頃より犬・猫は不及申、牛馬を打殺食事に仕候。非人・乞食等は、眼前、犬・猫をとらへ、鹽も付ず喰候體、誠に鬼共可申哉おそろしとも何とも可申樣無御座候。夫に付在々は押込强盜夥敷起り、家出[やぶちゃん注:家人を「家より出だして」か。]不殘しばり置、穀物は不及申家財奪取、其上家を燒、立退候事數多く、如此之事中々書盡しがたく候。依之每日捕手見分之役人衆、隙なく相𢌞り候へども、中々手に合不申候。

一、只今、難澁の者共食事には、

[やぶちゃん注:以下は三段組みだが、一段に変えた。「香煎」とはここでは煎り焦がしたものの意。]

一あも香煎【是は、「わらび」の屑をたゝきさらし、粉を取申候かすを「ササメ」といふ。細成るを「アモ」といふよし。】[やぶちゃん注:美成の割注であろう。]

一松皮香煎

一同餠

一藁採香煎

一豆から香煎

一犬たで香煎

一あざみの葉

右之類、專食物に仕候。扨餓死之者、唯今國中半分餘と相見え申候間、來正月より三四月迄之内、如何樣に成可申哉難計奉存候。乞食・非人往來如市、そのありさま、元來、世並宜敷砌、伊勢・熊野抔へ參詣仕候に、路用澤山所持仕候而も、南部案山子(カヽシ)と出立に御座候。まして況、此節の體、譬可申者無御座候。顏色憔悴(カジケ)、髮、亂れ、眼、星のごとく、色、靑く、つかれ衰へ、頰骨、高く、口、尖り、手足、※如く[やぶちゃん注:「※」=(へん:上「正」+下「ノ」の接合)+(つくり)「片」。底本右に『(本ノマヽ)』とあり、これは原本の傍注か。意味不明。]、からだ、赤裸に菰をまとひし有樣、何と申候而も更に人間とは見え不申候、右故に店々も相しめ、戶・蔀など指堅め居候。戶口開置候へば、非人共無體に押入、食事をあたへ不申内は更に立退不申候故、無據、白晝に門戶を閉申事御座候者、戶口より用事を達し、志に有之旅行抔仕候節は、家内中立わたり世話仕候へ共、我勝に前後を爭ひ泣さけび、老弱の者の貰候食物を奪ひ取、なきさけびし聲、身にしみ胸に答申候、互に食を奪ひ合、溝へ落入半死半生之者數多、叫喚・八寒・紅蓮のくるしみ、食を奪合打合つかみ合、互に疵を得候體、修羅道の有樣目前に御座候。火事は一夜に二ケ處三ケ處より出來、燒死する者數多、焦熱・大焦熱の炎に入、煙にむせび、牛馬鷄犬之燒亡夥敷御座候。世尊滅後二千八百年、彌勒の出生迄は餘程間も有之樣に承り候處、今その期來候哉と心細く、少も安心無御座候。依て御上樣にも、何卒飢渴之者御救ひ被遊度思召候へ共、近年打續不熟損毛[やぶちゃん注:損失を受けること。損亡。]に付、御貯も悉く盡候故、不被任思召御心遣被爲痛候へども[やぶちゃん注:ちょっと読み難い。「思し召しに任されず、御心遣ひ爲され、痛み候へども」か。「普段ならば、お考えになられる必要がないこと(下々の日常生活のこと)であるにも拘わらず、お心遣いを戴き、痛み入る思いにては御座いますが」の謂いか。]、更に其無甲斐殘念に被思召、乞食・非人へ御施行被遊候ても、大海之一滴、中々相屆不申、氣之毒千萬に奉存候。

一、捨牛馬は御割札第一之御法度に御座候へ共、此節悉捨申候。右之牛馬を乞食共引參り、皮をはぎ、鹿と[やぶちゃん注:「しかと」しっかりと。]申候而賣候を、馬と存ながら價の下直に任せ、馬肉を買ひ、能鹿と申候。直段平生のおつとせい抔の如く、目方にて賣買致し、鹿に不限、何品にても食物に相成候品、總て魚等の直段に御座候。

一、御城下端に近在遠在之子共を、悉く、海川へ投込申候者、數不知、右之樣子承り候に、哀、之品は數々御座候へ共、皆凶作之なすわざに御座候。其内、しに樣にも、色々、いさぎよきも、未練なるも有。又は名を惜み候者は、猶又深林の中へゆき候てくびれ、或は淵川へ行き、石をいだき沈み申候は數多難計奉存候。然共、子、被捨候者は、澤山御座候得共、親を捨候ものは于今[やぶちゃん注:「いまだもつて」と訓じておく。]不承候。尤殊勝之事に御座候。

一、去月末より、別て火事多く、每日每夜、五ケ所、六ケ所より出來、燒取に仕候。或は、五十人、七十人、徒黨を結び、在々へ押込、理不盡に働仕、家財穀物奪取候由、所々より每日承り候。扨々、一日片時も安心無御座候。

一、此間も承り候得者、定家卿の御短尺・古筆、目利所[やぶちゃん注:「めききどころ」。]にて極め相添、米五升に取替申候由、大坂御陣に高名仕候「正宗の刀」を、稗壱斗と取替申候よし。箇樣之時節なり。餘は御推量可被下候。

一、仙臺領・津輕領・盛岡御領、共に皆無にて候内、尤盛岡御領には少々も實入有之候哉有之候由[やぶちゃん注:底本に『(本ノマヽ)』とある。やはり原本の傍注であろう。衍文と思われる。]、是迚も、種分も無御座候由、譬、種之分御座候ても、種に相成候樣に實入無御座候。然者生殘り明年仕付申候節、右種物も無御座候て、何を以仕付可申哉千萬無心元候[やぶちゃん注:「こころもとなくさふらふ」。]。

一、古來稀成義は、非人共、犬・猫・牛・馬を喰候は、世に不思議に存候處、死掛り候人之肉を切はなし、格別うまき味なるよし申候。言語道斷かゝる時節にあひ申候事、いか成事に御座候哉と奉存候。乍然箇樣之儀不存候はゝ、生涯佛も御經もうはの空にて、至敬の信心も有間敷奉存候處、六道四生之有樣、凡俗之身にて目前に見申候事こそ難有奉存候。乍去知りぬる佛見ぬる花とも申候。何卒無難に明年をむかへ、豐作を祈り申候外他事無御座候。總體當地之事、中々難盡筆紙、實に九牛が一毛に御座候。猶追使萬々可申上候。恐惶謹言。

 卯十一月十一日     惠比須屋 善 六

    井隨鼠三郞兵衞樣

        平兵衞樣

        傳兵衞樣

2021/09/16

芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・芥川文宛

 

拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首

    三月朔        龍 之 介

   文 子 ど の

二伸 比呂志に西洋象棋を買つてやつた

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜の三月一日の条に、『谷崎潤一郎、佐藤春夫両夫妻とともに弁天座で文楽を観る』。『夜、佐藤夫妻は帰京する』が、『谷崎と二人で南地の茶屋で文学論などをしていると、内儀の紹介で』芥川龍之介のファンであった『根津松子が訪ねてくる。松子は、この時初めて谷崎と会い、二人はのちに結婚することとなった』とある。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム、自死の翌月に出た『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に載った、谷崎潤一郎追悼文「いたましき人」のからの抜粋があるので孫引きさせて貰う(略指示は鷺氏のもの)。『最後に会つたのは此の三月かに改造社の講演で大阪へ来た時であつた。(略)で、講演の夜は久しぶりで佐藤と一緒に私の家へ泊まり、翌々日は君と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で弁天座の人形芝居を見、その夜佐藤が帰つてからも君は大阪の宿に居残つて、『どうです、今夜は僕の宿に泊まつて一と晩話して行かないですか』と、なつかしさうに私を引き止めるのであつた。いつたい此れまで私などに対しては、あたたかい情愛も示さないではなかつたけれど、どちらかと云へば理智的な態度を取つてゐた人で、その晩のやうにひどく感傷的に人なつツこい素振りを見せるのは珍らしいことだつた。然るに君は人生のこと、文学のこと、友達のこと、江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出して、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、『自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ』と云ひ、『僕は此の頃精神上のマゾヒストになつてゐてね、誰か先輩のやうな人からウンと自分の悪い所をコキ卸してもらひたいんですよ』と云ひながら、その眼底には涙をさへ宿してゐた。 (略)君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちやうど根津さんの奥さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと言ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを簸[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「嵌」(は)の誤字或いは誤植。]めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた』とある。鷺氏の年譜では、この三月二日、三人でダンス・ホールへ行ったが、龍之介は『踊らず、二人の踊るのを見ているだけであった』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・葛卷義敏宛

 

冠省一度やつたものをとり上げ、まことにすまぬが、森さんの卽興詩人二册を小包にし谷崎氏へ送つてくれないか。宿所は文藝日記の末にあるべし。右當用のみ。小穴君によろしく。頓首

    三月朔        芥   川

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:「森さんの卽興詩人」デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)が一八三五年に発表した小説(Improvisatoren )を森鷗外が擬古文訳したもの。「原作以上の翻訳」と評され、鴎外は本作のドイツ語訳を読み、「わが座右を離れざる書」として愛惜しており、ドイツ留学から帰国後、軍務の傍ら、丹精を込めて明治二十五年から三十四年(一八九二年から一九〇一年)の凡そ十年かけてドイツ語版から重訳し、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ここに出るのは初刊版「即興詩人」で、明治三五(一九〇二)年に春陽堂(上・下二巻)で刊行されたものであろう。筑摩全集類聚版脚注に、『文藝春秋』昭和二年九月号からとして、谷崎潤一郎が『死ぬと覚悟をきめて見ればさすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを』と述懐している旨の記載がある。後掲の谷崎書簡も参照されたい。

「文藝日記」昭和二年版「文藝自由日記」(文藝春秋社出版部・大正十五年十一月)というのがあり、ここには近年の流行作家の日記や日録が載っていたコラムとしていようである。今では考えられないプライバシー侵害だ。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・齋藤茂吉宛

 

冠省岡さんより御手紙有之小生にも「庭苔」に就いて何か書けと仰せられ候まゝ二三枚相したゝめ御手もとまでさし上げ候なほ又下阪前短尺二三枚お送り申上候も御落手の事と存候右とりあへず當用のみ 頓首

    三月二日       龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「岡さん」「庭苔」前月分で既出既注

「二三枚相したゝめ」『「庭苔」讀後』。昭和二年四月発行の『アララギ』に発表された。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月六日・田端発信・靑野季吉宛

 

原稿用紙で御竟下さい。「新潮」の合評會の記事を讀み、ちよつとこの手紙を書く氣になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦樂」でも善いと言ひました。しかし「苦樂」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ觸れさせたい氣もちを持つてゐました。(最後の一囘以外が悉く山房内に起つてゐるのはその爲です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り、「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑聲を與へることは出來ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶錄」の中にあるマルクスやエングルスと會つた時の記事の中に多少の嘆聲を洩らしてゐます。わたしはわたしの大學生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企圖は失敗だつたかも知れません。少くとも合評會の諸君には尊臺を除き、何の暗示も與へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊臺にはこれだけのことを申上げたい氣を生じましたから、この手紙を認めることにしました。なほ又わたしはブルヂヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歎喜を除けば、多大の苦痛を與へるものと思つてゐます。これは近頃 Nicolas Ségur の書いた「アナトオル・フランスとの對話」を讀み、一層その感を深くしました。ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに驅りやつたものは「輕侮に近い憐憫」だと言つてゐます。右突然手紙をさし上げた失禮を赦して頂ければ幸甚です。頓首

    昭和二年三月六日   芥川龍之介

   靑 野 季 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「靑野季吉」明治二三(一八九〇)年~昭和三六(一九六三)年]は文芸評論家。新潟県佐渡生まれ。佐渡中学時代、幸徳秋水らの著作を通して社会主義思想に傾いた。早稲田大学英文科卒業後、大正一一(一九二二)年に評論「心霊の滅亡」を書き、本格的に評論活動を展開、後、『種蒔く人』・『文芸戦線』の同人となり、プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。ことに『「調べた」芸術』(大正一四(一九二五)年)と「自然生長と目的意識」(大正一五(一九二六)年)の二論文は、プロレタリア文学とマルクス主義運動との相関や創作上の問題などに指標を与え、初期プロレタリア文学に多大な影響を与えた。昭和一三(一九三八)年の「人民戦線事件」による検挙を機に転向した。戦後は「日本ペンクラブ」の再建や、「日本文芸家協会」会長に就任するなど、幅広い進歩的良識派として活躍した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「「新潮」の合評會の記事」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年三月号所掲。芥川の「玄鶴山房」が批評された』とある。私は草稿附きの「玄鶴山房」を公開しているが、ここでは、その最終章「六」の末尾に「リイプクネヒト」を出した意図を龍之介自身が語っている重要な書簡である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の橋浦洋志氏の本作の解説によれば、同合評会で、『「六」における「リープクネヒト」の登場の意味が問われ、中村武羅夫は「芥川氏の一種の心境」をそこに認めつつも「作品全体をそのために書いてゐるとはいえない」としたが、青野季吉は「リープクネヒトを持つて来たのは何かある」と述べた』とあり、この好意的な発言に対して以上の書簡が書かれたのである。

「リイプクネヒト」ドイツ社会民主党の指導者ウィルヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht 一八二六年~一九〇〇年)ギーセン生まれで、同地やベルリンなどの大学で哲学・言語学を学んだが、社会主義やポーランド独立に関心を持ったために放校された。 一八四八年の「三月革命」に参加し、スイスを経て、一八六二年までロンドンに亡命した。その間、マルクスやエンゲルスと交際し、影響を受けた。帰国後、反ビスマルク運動でプロシアを追放され(一八六五年)、ライプチヒに移り住み、社会主義運動に尽力、一八六七年から一八七〇年までプロシア下院議員、一八六九年にはアイゼナハで「社会民主労働党」を創立した。「普仏戦争」では軍事予算採択に棄権、「アルザス=ロレーヌ併合」に反対し、投獄された (一八七二年~一八七四年)。 一八七五年には、ゴータで、マルクスの批判を無視してラサール派と合同し、「ドイツ社会主義労働党」を結成、一八七四年より没するまでドイツ帝国議会議員を務めた。その間、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」に対する反対運動を指導し、同法を無効にさせた。同法廃止(一八九〇年)後、合法政党として改名した「ドイツ社会民主党」の中央機関誌『前進』の主筆を務め、修正主義派と対決した。主著に「カール=マルクス追想録」(一八九六年)などがある。後のドイツの左派社会主義運動の指導者で、ポーランド及びドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 一八七〇年~一九一九年)とともにベルリンで虐殺されたカール・リープクネヒト(Karl Liebknecht 一八七一年~一九一九年)は彼の子である。なお、現在の芥川龍之介研究では、このコーダで重要な登場人物重吉が読んでいるのは、上記「追想録」であるとされている。

「苦樂」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『プラトン社から』大正一三(一九二四)『年一一月に創刊された雑誌。中間小説、随筆を主に掲載した』とあり、龍之介の言う「或人」はプロレタリア文学家・劇作家で、後の日本社会党参議院議員となった金子洋文(ようぶん 明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九八五)年)で、『「「リープクネヒト」でも「苦楽」でも同じ」と評した』(出典不詳。龍之介の言い方からは前記合評会ではなく、別な批評と推定される)とある。

『「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます』アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Анто́н Па́влович Че́хов/ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)晩年の名作戯曲(Вишнёвый сад :一九〇三年秋決定稿・初演一九〇四年一月モスクワ芸術座)の第三幕の中間部で、「永遠の学生」トロフィーモフが無様に階段から転げ落ちるシーンが、舞台外の落ちる音で示される。

『Nicolas Ségurの書いた「アナトオル・フランスとの對話」』ギリシャ生まれでフランスで活動し、アナトール・フランスと親しかった批評家ニコラ・セギュール(一八七四年~一九四四年)の随想録‘Conversations avec Anatole France ou les melancolies de l'intelligence ’(アナトール・フランスとの対話:知性の愁い)前掲書で石割氏は、この前年の『一九二六年、Lewes May による英訳本が刊行され』ていた、とある。ジェームス・ルイス・メイ(James Lewis May  一八七三年~一九六一年)は作家・翻訳者・出版者。

  なお、子の日の翌日三月七日に、秀作「誘惑――或シナリオ――」を脱稿している。リンク先は私の詳細注附きサイト版。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月十一日・田端発信・谷崎潤一郞宛

 

冠省、先日來いろいろ御厄介に相成りありがたく存じます。どうも御迷惑をかけすぎたやうな氣がして恐縮です。本は御氣に入れば幸甚です。實は善いゴヤを見つけ、さし上げようと思つたのですが、金がなくてあきらめました。Los Caprichos の複製です。唯今大いに筋のあるシナリオを製造中 頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   谷 崎 潤 一 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「本」前掲の森鷗外訳の「即興詩人」。

「Los Caprichos」スペインの巨匠フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の版画集で「気まぐれ」。一七九九年に第一版が刊行された。私も非常に好きなダークでグロテスクなブラック・ユーモアの作品群であるが、今でこそゴヤの代表作とされるものの、刊行当時は殆んど注目されなかった。英語版ウィキの「Los caprichos で全八十枚の画像が見られる。

「筋のあるシナリオ」日付から、三月十四日脱稿の私の偏愛する「淺草公園――或シナリオ――」。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に存じ候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故[やぶちゃん注:「餘り」に「傍」(はた)が、「齒痒」(はがゆ)「き故」(ゆゑ)。「余りに先生を取り巻く周囲の人々の反応が鈍くてじれったくてたまらないものですから」の意。何を指して言っているものかは不詳。芥川龍之介が、この直近で直接に茂吉に係わる公開記事を書いた形跡はない。この前に茂吉宛に送られた書簡があったものとすれば、腑には落ちるのだが。]、ペンを及ぼし候次第、高況を得れば[やぶちゃん注:「相応なる御共感をお感じ戴けるものならば」の意。同前。]幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙擊したる和田久太郞君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢ひにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冱え返る枝もふるへて猿すべり

    三月二十八日     龍 之 介

   齋 藤 樣

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では『鵠沼から』とあるが、「今日は午後より鵠沼へ參る筈」という言い方から、田端で書信は認め、藤沢辺りで投函したものかと思われる。されば、標題は以上のようにした。この前後を新全集年譜を参考にして示しておく。

三月十七日 仕事場にしていた帝国ホテルから帰宅した(何時から滞在していたかは不明)。

三月二十日(日曜日) 外出し、そのままこの日は外泊して翌日田端に帰っている(外泊先不詳。怪しい。小町園の可能性は有るだろう)。

三月二十三日 「齒車」(リンク先は私の草稿附きサイト版)の「一 レエン・コオト」脱稿(これのみが昭和二(一九二七)年六月一日発行の雑誌『大調和』に「齒車」の題で「一 レエン・コオト」として掲載された。全章は、芥川龍之介の死後、同年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』にこの「一」も再録して、全六章が改めて「齒車」の題で掲載された)。

三月二十七日(日曜日) 「齒車」の「二 復讐」を脱稿。

三月二十八日(当書簡当日) 借家の整理もあって、鵠沼に出かけ、翌四月二日まで六日まで滞在した。これを以って芥川龍之介は鵠沼を引き上げている。この日、「齒車」の「三 夜」及び「たね子の憂鬱」(こちらは五月一日発行の『新潮』に発表)を脱稿。

三月二十九日 「齒車」の「四 まだ?」を脱稿。

三月三十日 「齒車」の「五 赤光」((しやくくわう(しゃっこう))を脱稿。三月末に宮坂年譜には、『この頃、岡本かの子と』、『偶然』、『列車で同乗になる。近くにいた子供に「オバケ』!」『と言われた』とある。これは、岡本かの子の小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文學界』初出)の最後の方に出現するものだが、私は同小説は相当に創作された部分が多く、一次資料とするには頗る信用性が低いと考えている(青空文庫のこちらで新字新仮名で読める)。但し、確かに、そこに描かれた瘦せ枯れて妖気さえ放っている感じは、この晩年の鵠沼時代の龍之介のそれと酷似しては、いる。

『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』芥川龍之介の書簡の中では、「河童」への強い自信(但し、「この程度のものなら、幾らでも製造出来るぜ!」という芥川龍之介自身がずっと以前に自戒したところの悪しき自動作用的な安易さも大いに私は感じるのである)の見える一つとして、しばしば引かれるものである。しかし、それに反した『みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候』という後の一節が、これまた、真逆の病的なまでの自信喪失の表明とも言える、龍之介の心内のアンビバンンツなものを図らずも表出させてもいるのである。

「一休禪師は朦々三十年と申し候へども」は「一休話」の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の一節を指して言っているものと思われる。

   *

 朦々然而三十年

 淡々然而三十年

 朦々淡々六十年

 末後脫糞捧梵天

  朦々然として三十年

  淡々然として三十年

  朦々淡々 六十年

  末期の脫糞 梵天に捧ぐ

   *

「朦々」とは、この場合、「心がぼんやりとすること」で、「迷いに迷って」の意。「淡々」は悟りの境地を指している。但し、あまりに一休然とした破格の詩句は逆に似非物のようにも感じられる。この部分は、「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)」でも引いている。

「この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり」「又」とあり、齋藤にこの症状を、一度、話していることが判る。この異様な視覚障害が「齒車」という作品名の由来であり、龍之介自身がこの書簡で述べているように、彼自身、それが重篤な精神疾患(龍之介が最も恐れていた実母から遺伝していると誤認していた「発狂」の素質)の初期症状かと怯え、素人の読者もそこに彼の異常を読む方が甚だ多いのだが、これはとっくの昔に、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状であることが解明されている。龍之介と同様にこの「齒車を誤解していたのが、宇野浩二で「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」にそれが出てくる。そこでも注したが、より詳しくは、『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』の私の『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』の注がよいだろう。にしても、それを、眼科医に相談し、何ら気にすることはないと助言してやるべきであったのは齋藤茂吉であり、精神科医としては当然やるべきことをしていない、という気が私はするのである。脳の中枢神経との関連性や視覚異常の機序は判っていなかったとしても、非常に古くからあったから、知らなかったとは言わせない。寧ろ、重篤な精神疾患の初期症状としてあり得ると思い、茂吉は逆に黙っていたのかも知れない。

「福田大將」福田雅太郎(慶応二(一八六六)年~昭和七(一九三二)年))は日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。大村藩士の二男として現在の長崎県大村市に生まれ、大村中学校・有斐学舎を経て、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉に任官し、歩兵第三連隊付となり明治三一(一八九三)年陸軍大学校を卒業した。「日清戦争」では第一師団副官として出征し、後にドイツに留学、「日露戦争」には第一軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前より田中義一らとともに対露早期開戦派であった。後、歩兵第五十三連隊長などを歴任し、明治四四(一九一一)年、陸軍少将に進級、大正五(一九一六)年、陸軍中将。欧州出張や第五師団長・参謀本部次長・台湾軍司令官などを歴任して陸軍大将に進級した。軍事参議官となり、大正一二(一九二三)年九月の「関東大震災」には、関東戒厳司令官を兼務したが、在職中の「甘粕事件」で、対処不手際を問われ、司令官を更迭された。大正一二(一九二四)年の第二次山本内閣退陣に伴う清浦内閣組閣に際しては、上原勇作から陸軍大臣に推挙されたが、田中義一らの工作により、就任は叶わなかった。同年九月一日、「甘粕事件」での大杉栄殺害を怨んだ無政府主義者和田久太郎(明治二五(一八九三)年昭和三(一九二八)年二月二十日自死:彼については次に注する)によって『狙撃されたが、無事であった。大正一四(一九二五)年五月にも福岡市』でも『再び狙撃されたが、無傷であった。同月、予備役編入(当該ウィキに拠った)。

「和田久太郞」当該ウィキによれば、『温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称』した。『兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず』、十一『歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら』、『実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また』、十五『歳のころから俳句をたしなんだ』。『売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスム』(フランス語:Syndicalisme:労働組合主義)『を熱心に研究し、久板卯之助』(ひさいたうのすけ)とともに、「日蔭茶屋事件」(複数の女性達から常に経済的援助を受けていた社会運動家大杉栄が、野枝とその子どもに愛情を移したのを嫉妬した、神近市子によって刺された事件)で『人望を失った大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった』。『社会の底辺の人々を愛し』、「無政府主義伝道」と称して、『全国を流浪して体を壊したため』、大正一二(一九二三)年二月頃から五月まで、『栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた』、大正十二年九月一日に起こった『関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では』、『大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤』し、「彼の仇を討つ」『という名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社』(大正十一年に結成されたテロリスト組織)『の古田大次郎や村木ら』四『名と計画。和田らは』、『福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた』。『初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発』であったため、『ピストルでの襲撃に切り替え』、翌年の『震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店』『燕楽軒』『で福田大将を待ち伏せした。しかし』、『初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田』が『知らず、至近距離からの発砲であったが』、『失敗』し、『大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ』、殆んど無傷で『逮捕された』。大正一四(一九二五)年、『上記罪状の併合罪』で『無期懲役判決』を受けた。『余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」』『と憤慨した』。但し、『翌年の大正天皇の崩御により』、『恩赦があり、懲役』二十『年に減刑された』。『最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作』「獄窓から」は昭和二(一九二七)年三月に労働者運動社から『出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた』とある。芥川龍之介は『獄中の俳人 「獄窓から」を讀んで』を昭和二(一九二七)年四月四日附『東京日日新聞』に掲載しており、これは、それを指す。ちょっとびっくりしたが、幸いにして、サイト「釜ヶ崎資料センター」内の「趣味のA研資料室」の「獄窓から-増補決定版 和田久太郎著 近藤憲二編 黒色戦線社補 197191日 黒色戦線社」とあるページでPDFで当該書籍のほぼ全てが視認出来、しかも、ここの9コマ目に芥川龍之介の当該書評の切抜が全文載るので読まれたい(但し、新字旧仮名である)。ダウン・ロード必須! 『しかし』、『和田は長く肺病を患っており、古田の刑死』(彼は『福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺してい』たので量刑が重かった)、『村木の病死を知って悲観し』、昭和三(一九二八)年二月二十日午後七時頃、『看守の目を盗んで自殺した』。

 もろもろの惱みも消ゆる雪の風

が秋田刑務所での『 和田久太郎の辞世の句』とされる。『和田の遺骸は、労働社の近藤憲二』『らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた』とあるものの、注で、『現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明』とある。――草の葉の蔭に消えたり久太郎――

「しんかんとしたりや蚤のはねる音」大正一四(一九二五)年八月の句。前掲のリンク先の句集「鐵窓三昧」PDF)の7コマ目上段「八月」の四句目であるが、

   日影の匂ひ

 しんかんとしたりやな蚤のはねる音

で、前書があり、中七も字余りの破調である。破調の方が俄然いい。暑熱の陽の匂いも、より、むんむんしてくるではないか!

「のどの中に藥塗るなり雲の峯」同年六月の句。6コマ目下段四句目。

「麥飯の虫ふえにけり土用雲」同年八月の句。7コマ目下段冒頭であるが、表記は、

 麥飯の蟲殖えにけり土用雲

で断然、「蟲」「殖」の方がいい。この「蟲」はコクゾウであろう。蒸された中に一緒に彼奴らが死んで入っているのだ! 芥川龍之介は「蟲」の字が生理的に嫌いだった可能性が頗る髙いので、書き換えたのは腑に落ちる。

「あの霜が刺つてゐるか痔の病」同年一月の句。3コマ目下段五句目。

「何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)」前掲書の石割氏の注に、『菊池寛・芥川龍之介編集『小学生全集』全八八巻(一九二七年五月―一九二九年一〇月、興文社刊)』を指すとある。筑摩全集類聚版脚注も同じ、「全集」ではあるが、小学生の広義の「讀本」の形式であるから、おかしくはない。石割氏は、続けて、『同時にアルスから『日本児童文庫』全七六巻も刊行された』と注してあるが、これは研究者自明の端折り過ぎで、所謂、全く同時に(同日に並んで広告が出た)同様の叢書が別々に刊行され、円本ブームに乗った熾烈な販売合戦が展開された、出版界でも知られた騒動を言っているのである。芥川龍之介も見事に巻き込まれることになってしまう。新全集年譜の四月中旬の箇所に、『アルス『日本児童文庫』(七〇巻)と興文社『小学生全集』(八〇巻)の間で誹謗中傷合戦が起こ』り、『芥川は前者からは執筆を、後者からは編集を依頼されており、大いに神経を痛めた』とあり、龍之介にとっては、やっと終息させた「近代日本文藝讀本」の悪夢が再来する思いがあったに違いないこの告訴にまで発展してしまう事件に興味のある方は、中西靖忠氏の論文菊池寛と児童文学」PDF・『高松短期大学研究紀要』第十二号(昭和五七(一九八二)年三月発行所収)のを読まれるとよい。また、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 アリス物語」という驚きの「不思議の国のアリス」の邦訳を電子化(分割・全十二回)しているが、何を隠そう、これはまさに、その「小学生全集」の一冊(第二十八巻・リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)なのである。発行は芥川龍之介の自死後の昭和二年十一月であるが、研究者によって、前半の一部は間違いなく芥川龍之介が訳しているものと推定されているものなのである。 

「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。」これも、しばしば引かれる芥川龍之介の書簡の一節である。私はこれを眺めていると、私は「河童」の「六」の冒頭、

   *

 實際又河童の戀愛は我々人間の戀愛とは餘程趣を異(こと)にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は氣違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見(み)じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床(とこ)についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を讀んでゐました。するとそこへ駈けこんで來たのはあのラツプと云ふ學生です。ラツプは僕の家へ轉げこむと、床(ゆか)の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。

 「大變だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」

 僕は咄嗟に詩集を投げ出し、戶口の錠(ぢやう)をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戶口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床(とこ)の上に寢てゐました。のみならずいつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしまひました。

   *

というシークエンスを思い出すのを常としている。寧ろ――龍之介よ……君はこれ以前に動物的エネルギイを過剰に使い過ぎたのではなかったか?……

2021/09/15

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 双頭蛇

 

[やぶちゃん注:発表者は本文で判る通り、前の同類系奇談「蛇化して爲ㇾ蛸」に続いて、同じく滝沢興継琴嶺舎。画像は底本の吉川弘文館随筆大成版からトリミング補正した。]

 

Soutouda

 

   ○双頭蛇

文化十二年乙亥秋九月上旬[やぶちゃん注:一八一五年十月上旬(三日以降)相当。]、越後魚沼郡六日町の近村餘川(ヨカハ)村[やぶちゃん注:現在の新潟県南魚沼市余川。グーグル・マップ・データ。南魚沼市六日町の北に接する。]の民金藏、雙頭蛇をとらへ得たり。この金藏が隣人を太左衞門といふ。この日、金藏、所要ありて門邊にをり。その時、件の蛇、地上より走りて、隣堺なる垣に跂登るを[やぶちゃん注:「つまだちのぼるを」と訓じておく。伸び上がるように立ち登ったのを。]、金藏、はやく、見だして、箒をもて、拂ひ落としつゝ、やがて、とらへしなり。この蛇、長さ纔に六寸あまり、全身、黑く、只、その中央は薄黑にして、腹は、靑かり。則、桶に入れて養(カヒ)おきけり。近鄕、傳へ聞きて、老弱、日每に來たりて、觀るもの、甚、多し。はじめ、この蛇の跂出でんとするとき、双頭をふりわけ、左の頭は、左にゆかんと、するごとく、右の頭は、右にゆかんと、するがごとし。既にして、双頭、一心に定むる時は、眞直に走る、といふ。又、桶に入れて屈蹯(ワタカマ)るときは、双頭、かさなりて、よのつねの小蛇の如し。時に近鄕の香具師[やぶちゃん注:「やし」。]、これを數金に買ひとりて、もて、見せものにせんと、はかる。その事、いまだ熟談せざりし程に、忽、猫に銜み去られて[やぶちゃん注:「ふくみさられて」、口に銜(くわ)え去られて。]、これを追へども、終に及ばず。主客、望を失ひし、といふ。當時、同郡鹽澤の質屋義惣治、その略圖をつくりて、家嚴[やぶちゃん注:他人に自分の父を言う語。馬琴のこと。]におくりぬ。かの金藏は、義惣治が亡息の乳母の子なり。これにより、その蛇を、とりよして[やぶちゃん注:「取り寄して」。持ってこさせて。]、よく見て、圖したり。こは、傳聞にまかせたるそゞろごとにはあらず、とぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

按ずるに、小蛇は、その色、皆、黑し。初生兩三年のゝち、きぬを脫(ヌキ)て、色の定まるものなり。件の双頭蛇も、その黑きが、本色にはあらぬなるべし。

 文政乙酉林鍾月氷室開かるゝ日  琴嶺しるす

[やぶちゃん注:時に発見される双頭奇形の蛇。「耳嚢 巻之二 兩頭蟲の事」私の注の方を見られたい。

グーグル画像検索「双頭蛇」をリンクさせておく。平気な方は、どうぞ。多数の事例の写真が見られる。剥製になったものは見たことがあるが、流石に実物を自然界で見たことは私はない。

「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「林鍾月」(りんしようげつ)は六月の異名。林鐘月とも書く。語源は不詳。

「氷室開かるゝ日」石川県金沢市湯涌町の「湯涌温泉観光協会」公式サイト内の「氷室」に、加賀藩では、『旧六月朔日を「氷室の朔日」と呼んでおり、毎年冬の間(大寒の雪)に白山山系に降った雪を氷室に貯蔵し、六月朔日になると』、『この雪を「白山氷」と名付け、桐の二重長持ちに入れて江戸の徳川将軍へ献上していた』とあるので、六月一日かとも思われる。]

2021/09/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蛇化して爲ㇾ蛸

 

[やぶちゃん注:底本は吉川弘文館随筆大成版に戻る。例によって段落を成形した。本文内で判る通り、瀧澤興継琴嶺舎の発表。]

 

   ○蛇化して爲ㇾ蛸

 越後の刈羽郡[やぶちゃん注:「かりはのこほり」。]なる海濱は、古歌にも、「八百日ゆく越の長濱」とよみたる當國一の荒磯なり。この所、出雲崎に相つゞきて、東南は嵯峨たる海巖のつらなりたる、さながら刀もて削れるがごとく、西北は渺茫たる大洋にして、見るめも、はるかに、限り、しられず。うち寄するしら波の、摧けてかへる、すさましかるべし。

 かねて聞く、この邊、すべて沙濱(スナハラ[やぶちゃん注:ママ。])にて、石地といふ漁村あり。

[やぶちゃん注:「八百日ゆく越の長濱」「万葉集」巻四の笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った二十四首の相聞歌内の一首(五九六番)、

 八百日(やほか)行く

   濱(はま)の沙(まさご)も

  わが戀に

       あに益(まさ)らじか

    沖(おき)つ島守(しまもり)

であるが、特に、この海岸を詠んだものではない。

「石地」現在の新潟県柏崎市西山町石地(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 抑、この町は、海を面にし、山を背にす。こゝには、松、多し、といふ。この山に相つゞきて、又、松山あり、この山の根がたには、石の六地藏、建たせ給へり。よりて里俗、この邊を「賽の河原」と唱へたり。これより、松の林あり、この林のうしろよりして、柏谷・宮川と唱ふるかたは、みな、これ、峨々たる岩山なり。

[やぶちゃん注:前の地図をもっと拡大すると、後に出る絵図と合致することが判る。北に石地町の街区があり、南の沖には独特の形をした、岩礁帯(グーグル・マップ・データ航空写真)を現認出来る。ここが「賽の河原」だ。だから、閻魔や地蔵が出るわけである。

「柏谷・宮川」種々の地図や古いものも見たが、見当たらない。]

 この岩山の前にあたりて閻魔堂あり。そのうしろの岩を穿ちて、凹王の木像を安置せり。これより海邊又數町にして、岩山の半腹に辨天堂あり。この天女堂の前なる磯の浪打際に男根石あり。土俗はこれを「裸石」といふ。三四尺なる天然石にして飴色なり。遠近の石等(ウマヅメラ)、この石に祈りて、子を求むることあり、といふ。されば、石地町なる童子等は、年々の夏、每にこの濱に出でゝ、水に戲れ、終日、游びくらすこと、絕えて虛日なし、となん。

[やぶちゃん注:「閻魔堂」先の地図の「羅石尊」とあるものの、サイド・パネルの写真を開くと、閻魔(かなりキッチュ)と地蔵の像がある(地獄の閻魔王の本地仏は地蔵菩薩である。なお、子を守る地蔵だから、石地の子等は安心してこの前の海で夏中、浜で遊び暮らしても、子も親も心配しないのである)。さらに、同じパネルを下へと見てゆくと、ここに所謂、本邦で広く知られる陽物崇拝である「金精様」と呼ばれる男根を模したものを複数祀ってある「羅石尊」が見られ、さらに少しバックして撮られた写真で、その小祠の左手に木製の巨大なファルスも屹立しているのが判る。これはグーグル・ストリートビューでは非常に見難いのであるが、このショットで巨大なそれの頭の部分が現認出来る。「羅」は男根を意味する「まら」の「ら」であり、「羅」+「裸石」「尊」で実は「まらいし」となるのであろう。

 しかるに、いぬる文化九年夏六月十六日[やぶちゃん注:一八一二年七月二十四日。]、石地町なる民の子、文四郞といふもの【時に十五歲。】、その友だち兩三人とゝもに、「賽の河原」の海邊に出でて、水をあみん、としたる折、石の六地藏のほとりより、長さ、四、五尺なる蛇、はしり出でけり。文四郞等、これを見て、

「彼、打ちころしてん。」

と、いひもあへず、手に手に、棒をとりて、打たんとせしに、蛇は、たゞちに、海に入りつゝ、波を凌ぎて、泳ぐほどに、文四郞等は、衣、脫ぎ捨て、逃ぐるを追ふて、水中のところどころにあらはれ出でたる、岩角づたひに、飛び越え、飛び越え、「飛石」・「老曾」[やぶちゃん注:「おいそ」。直後に出る。]など呼びなしたる海岩を、つたひゆきしかば、「おいそ岩」のほとりに到りぬ。そのとき、蛇は、岩角に、しはじば[やぶちゃん注:踊り字「〲」に従ったが、これは「しばしば」の誤りであろう。]、その身をうちつけしを、

「いとあやし。」

と見る程に、蛇の尾は、忽に、いくすぢにか、裂けたるが、そのほとりの海水は、たちまち、黃色になりしとぞ。

 さりけれども、驚き、おそれず、猶しも、

「取りな逃がしそ。」

とて、終に、うち殺してけり。

 扨、引きあげてよく見るに、その蛇、既に蛸に變じ、裂けたる處は、足になりて、肬(イボ)さヘ、はやく、いで來たるに、頭も、はじめの蛇に似ず、俄に、

「まろまろ」

ふくだみて、さながら、蛸に異ならず。

 只、その色は白はげて、聊も、赤み、なし。

 日を經れば、あかみさす、といふ。

 只、そのかたちの異なるよしは、八足ならで、七足なるのみ。

 さればにや、凡、この地の漁父共の、七足の蛸を獲ることあれば、

「こは、蛇の化したるなり。」

とて、うち捨てゝ、是をくらはず。

 しかれども、

「まのあたりに蛇の蛸になりぬるを見つるは、いとも、めづらし。」

とて、事、をちこちに聞えたり。

 こゝをもて、當年、かの地の一友人、ゆきて、その蛸を見つ。且、文四郞に、その折の有さまをよく聞きて、地理さへ、圖して、家嚴[やぶちゃん注:自身の父を指す語。発表者滝沢興継の父滝沢解曲亭馬琴のこと。]におくれり。

 

Hebitako

 

[やぶちゃん注:キャプションは、まず、左右下方に方位が記されてある。

「北」と「西」

右下方から見る。最も陸から離れたように見える小さな岩礁が、

「沖ノ石」

で、有意に長く伸びた岩礁が、

「ヲイソ岩」(「ヲ」はママ)

とある。本文では最初に「老曾」岩の字を当てているが、この意味は不明である。但し、このカタカナ表記と岩礁の形状からは、私は「尾磯岩」がもとではないかと考えた。さて、その陸側の渚の部分に、三つに分離した小さな岩場があって、

「飛石」

とあって、その「飛石」から指示線が伸びて、

「此トビ石ヨリ『ヲイソ岩』に行」

とある。そして、その解説の上方の波打ち際の砂浜に、囲み字で、

「裸石」

とあって(石は横たえてあって半ば砂に埋まっているようである)、その右に、

「飴色」

左には、

「長三尺ホド」

とある。そこから少し左の崖の脇に、

「岩ナリ」

とあり、この砂浜海岸一帯の背後が、峨々たる岩山であることを示している。而して、その右手を見ると、岩山の上に堂宇らしきが描かれてある。これは現在の地図では、諏訪神社が相当するか。さらに浜伝いに北東方向に進むと、浜の中央奥に、囲み字で、

「ヱンマ堂」

とあり、その左前に、

「ウシロノ岩ヲ、ウガチ、ヱンマ、有之」

と記す。則ち、この時代の閻魔像は堂の背後の岸壁に直に閻魔像が彫り込まれてあったことが判る。更に北東に進むと、渚の部分に、

「砂地往還」

とあるので、当時はこの水際を以って、北国越路の正規の往還道としていたことが判る。而して、その先の陸側に、囲み字で、

「六地蔵」

とあって、頭が見にくいが、

「此所、『賽の河原』」

とある。また、背後の山の上に堂宇があり、

「クワン音」

と記す。その「六地蔵」の左から、点線で蛇を子らが追尾したコースが提示されて、その海上点線中央左右に、

「蛇 道 海上ヲヲツタル所」

とある(「道」は「追」にも見えなくもないが、キャプションとしては屋上屋なるのであり得ない)。

左手の陸に囲み字で、

「石地町」

とあり、その前浜に、

「海道砂ハマ」

とし、その下方の海上に、

「前後、浪、髙ク、惣」(すべ)「て、此辺、越ノ荒海」

とある。

 これらから、現在の「羅石尊」は恐らく明治期に「裸石」と「閻魔堂」を集めて無理矢理に合祀したものと思われる(排斥されなかっただけでも幸運であった)。また、六地蔵はこの位置には見出すことが出来なかった。それだけでなく、この「クワン音」というのも、特定し得なかった。この石地街区のこの附近には現在も複数(国土地理院図で六ヶ寺)の寺があるが、特定するには至らなかった。位置的には大聖寺というのがそれらしいのだがが、本尊が観音菩薩でなくてはならないが、同寺の本尊は不動明王であるから、違う。本尊が観音であるのは、位置的にはずっと北になるが、ここにある(グーグル・マップでは寺が示されていないが、別な信頼出来るデータで確認した)円融寺で、本尊は聖観音菩薩坐像である。ここか。

 

 よりて、今、その地圖を乞ひ得て、ちなみにこゝに載するのみ。予、甞て、越後の總地圖によりて、しりぬ。この「老曾岩」のほとりには、「蛇崩」[やぶちゃん注:「じやくずれ」。]と唱ふる處あり。且、その邊に、ふかき淵、あり。

「この淵のぬしは、大なる蛸なり。」

又、

「大なる龜なり。」

なども、いへり。

 近ごろ、漁者のむすめ、

「海苔をとる。」

とて、こゝに來て、そのぬしなるものに、引き込まれたり。

 死骸は終に出でざりし、といふ。

 按ずるに、龜も、その性、蛇と近し。

 いづれにまれ、蛸の八足ならぬものをば、くらふまじきことぞかし。

[やぶちゃん注:ここでも「蛇」と言い、「龜」と言い、若い娘が餌食となるという、陽物のメタファーが横溢している。

「蛇崩」私の「北越奇談 巻之三 玉石 其六(蛇崩れ海中の怪光石)」を参照されたい。

 なお、この、「蛇が蛸に化生する」という話は、フレーザーの言う類感呪術的で、実は本邦では枚挙に遑がないほどある。私の宿直草卷五 第六 蛸も恐ろしき物なる事」の本文、及び私の注で目ぼしいものを少し纏めてあるので、参照されたい

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第六集) 土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音

 

[やぶちゃん注:本篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」巻第五上のここから。やはりだらだら長いので、段落を成形した。]

 

   ○土定の行者不ㇾ死

 信濃國(しなのゝくに)伊奈郡(いなこほり)[やぶちゃん注:「伊奈」はママ。]平井手(ひらゐで)[やぶちゃん注:現在の長野県上伊那郡辰野町平出(ひらいで:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]といふ村に、いと大きなる槻(けやき)ありけり【平井手村は、下の諏訪を距ること、三里許に在り。内藤家の封内也。】。

 文化十四年丁丑[やぶちゃん注:一八一七年。]の秋のころ、させる風雨もなかりし日に、此木、おのづから倒れけり。かくて、その墳(うごも)ち[やぶちゃん注:土が高く盛り上がってること。]あばけし坎(あな)の中に、ひとつの石櫃(せきひつ)、あらはれたり。

 里人等(ら)、いぶかりて、みな、立ちよりて見る程に、この石櫃のうちよりして、鈴鐸(すゞ)の音(おと)、讀經の聲の、洩れて、かすかに聞えしかば、人々、驚き、あやしみて、彼に告げ、これにしらせ、つどひて、評議したりける。

 そのとき、里の翁のいはく、

「むかし、天龍海喜法印といふ山伏あり。當時(そのとき)、この人の所願によりて、生きながら、土定(どぢやう)したりと、傳へ聞きたることもぞ、ある。おもふに彼(か)の法印は、今なほ、土中に死なずや、あるらん。是なるべし。」

と、いひしかば、里人等、うべなひて、櫃の上に殘りたる土を搔き拂ひつゝ、よく見るに、果して、歲月・名字などの彫りつけてあるにより、感嘆・敬信せざるものなく、俄かに注連(しめなは)を引き遶(めぐ)らし、蘆垣(あしがき)をさへ結びなどして、妄(みだり)に人を近かづけず。

 かゝりし程に、近鄕の老弱男女(ろうにやくなんによ)、傳へ聞きて、參詣・群集したりしかば、更に又、假屋(かりや)やうのものを修理(しつら)ひて、線香・洗米などを備へ、なほ、日にまして、繁昌しけり。

 しかれども、石櫃をば、そがまゝにして、戶をひらかず。

 鈴鐸の音、讀經の聲は、月を經(ふ)れども、絕ゆることなし。

 その石櫃の上のかたに、息ぬきの穴、三つ、四つ、あり。

 その入り口は二重戶にて、第一の戶はひらけども、二の戶は内より鎖(とざ)したるが、はじめ、ひらかんとしたれども、得(え)披(ひら)かれざりければ、その後は、里人等も、おそれて、いよいよ、開くこと、なし。

 この年、冬のころまでも、參詣、日每に、たえず、とぞ。

 抑(そもそも)この一條は、同年の霜月より、予が家に來て仕へたる、初太郞といふ僕(をとこ)の、云々(しかじか)と、かたりしなり。渠(かれ)は信濃國髙島郡下(しも)の諏訪(すは)眞字野村[やぶちゃん注:現在の下諏訪町はここだが、「真字野」は見当たらない。]のものなり。その故鄕にありし日より、件(くだん)の事を傳へ聞きつゝ、

「こたみ、江戶へ來つる折、同行(どうぎやう)のもの、もろともに、平井手村へ立ちよりて、かの石櫃を見き。」

と、いへり。しからば、

「その年號は、何とかありし。」

と、たづねしに、

「年號は、おぼへ候はず。大約(おほよそ)今より百五十餘年に及ぶと聞きつ。」

といふ。

「さらば、明曆・萬治の中か、寬文にはあらずや。」[やぶちゃん注:この年号は連続であるので、一六五五年から一六七三年までに相当する。]

と、一、二を推して問ひ質(たゞ)せども、いふがひもなく、

「知らず。」

と答ふ。

 かゝるあやしき物語には、そら言も多かれば、疑はしくは、思ふものから、二十(はたち)に足らぬ田舍兒(ゐなかふさ[やぶちゃん注:「ふさ」は意味不明。「さ」ではないかも知れない。ここの左ページの四行目。])の、「正しく見き」といふなれば、作り設けし事には、あらじ。彼地の人に逢ふ事あらば、ふたゝび、問はんと思ひつゝ、「雜記」中に記しおきぬ。扨、その後は、いかにしけん。問ふよしもなくて過ぎにき。

[やぶちゃん注:底本でもここで改行している。]

 按ずるに、「見聞集」に云、

『慶長二年[やぶちゃん注:一五九七年。秀吉の晩年。翌年死去。]の比及(ころほひ)、行人(ぎやうにん)、江戶へ來り、いふやう、

「神田の原大塚のもとにて、來る六月十五日、火定(くわぢやう)せん。」[やぶちゃん注:「神田の原大塚」「神田の原」は解せないが、まだ幕府が出来ないころは、広域を神田の原と呼んだのかも知れない。ここは「大塚」で現在の東京都文京区大塚でよかろうか。]

と、ふれて、町を巡(めぐ)る。是を、

「おがまん。」

と、貴賤、群集し、廣き野も、所せき、立ところ、なかりけり。

 塚中(つかちう)に棚を結びて、その下に薪をつみ、火を付け、燒き立つる處に、行人、火中に飛びいりたりとも、弟子の行人ども、傍らより、突き落としたり、ともいふ。我、たしかには、見ざりけり。次の日、朋友とうちつれ、とぶらひゆき、大塚のあたりを見るに、人氣(ひとけ)は、ひとりもなく、跡には、骨まじりの灰ばかり、のこりたり。』

と、しるしつけたる事もあれば、およそは、慶長・元和[やぶちゃん注:一五九六年から一六二四年まで。以下の年号までには寛永・正保・慶安・承応・が挟まる。]より明曆・萬治の頃までも、さる名聞(みやうもん)の爲(ため)などに、命を失(うしな)ふ似非行者(ゑせぎやうじや)の、江戶の外にも、ありしならん。火定は、弟子に突き落されても、立どころに死にたらめ。土定して百五、六十年、さすがに死も果てざりしは、猶、この火宅に愛借(あいじやく)したる慾念の凝(こ)れるにこそ。迷ひのうへの迷ひなるをも、よに、理に(り)にあきらかならで、只、竒に走り、信を起こすは、なべての人のこゝろなりけり。今も又、さる人あらば、智識の杖もて、破却せしめて、成佛させたきものにあらずや。

[やぶちゃん注:「見聞集」(けんもんしゅう:現代仮名遣)は仮名草子作家三浦浄心(永禄八(一五六五)年~正保元(一六四四)年)によって著された江戸初期の世相や出来事を主な話題としたもの。全十巻。浄心の子孫の家に秘書として伝えられ、化政期の三浦義和の頃から伝写により流布し、明治以降に翻刻が、多数、刊行された。作中に作品当時が慶長一九(一六一四)年とする記載があるため、「慶長見聞集」とも称され、近年に至るまで、作品内時制の基準を無批判に慶長十九年に置いて解釈したことに起因する混乱が江戸時代研究関係の書物の各所に見受けられるが、これは幕政批判に対する干渉を避けるための擬態であって、実際の作品成立時期は寛永(一六二四年~一六四五年だが、三浦は正保元年三月十二日(一六四四年四月十八日)に没しているから、そこまで。寛永二十一年十二月十六日(一六四五年一月十三日)に正保に改元されている)後期と考えられている(以上は当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」十二巻の「卷の貳」(大正六(千九百十七)年江戸叢書刊行会編刊)のここで当該話「神田大塚にて行人火定の事」が読める。但し、もっと細部がリアルに読めるかと期待しない方がよい。長いが、事件は最初の五分の一だけで、ほぼここにある通り(近くに蟻が異様に群がっていたというものぐらいしか、落ちている部分はない)で、後は辛気臭いペダントリーに過ぎない。

 以下は「兎園小説」にはない、底本編者の渥美正幹(馬琴の外孫)の評言。底本では全体が一字下げ。]

 正幹云、この土定の行者が得死なずして、鈴鐸(れいたく)・讀經の聲の幽(かす)かに聞えしというは、疑ふべし。こは石櫃の現はれ出たるによりて、例の山師などの言ひふらして、賽錢・施物(せもつ)を貪る計策に出て[やぶちゃん注:ママ。]たるなり。只、翁が奇談珍說、何くれとなく抄錄して、そが小說の材料に用ひしは、今更いふまでもなし。この見聞集に見えたる、慶長の比、江戸大坂の原[やぶちゃん注:ママ。「大塚」の誤り。]にて、火定の行者の事は、「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせしは全くこれより轉化したり。翁の思想の自在なる物として、其小說に入ざるものなし。但し、この似非行者が、猶、火宅に愛惜(あいじやく)せる、煩悩の迷ひを醒ませし評論は、見識、卓(たか)し。予、甞て、「髑髏(どくろう)の圖」に題せる一絶あり。

 脫シテ人間五慾

 荒凉長九原

 世人欲セハㇾ識ント情味

 看取セヨ南華至樂

拙劣、まことに愧(は)づべしといへども、因みに、こゝに錄(しる)しぬ。

[やぶちゃん注:『「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせし』「南総里見八犬伝」第三輯巻之四の「第廿七回」の後半の「寂寞道人(じやくまくだうじん)見(げん)に圓塚(まるつか)に火定(くわじやう)す」を指す。明四二(一九〇九)年金港堂刊の同書の当該二十七回の冒頭をリンクさせておく。後半部の始まりはここの後ろから五行目で、火定幻術の挿絵もここにある。

「脫シテ人間五慾……」訓読しておく。

 人間(にんげん) 五慾の煩(わづらひ)を脫却して

 荒凉 長く委(まか)す 九原の天

 世人(せじん) 他の情味を識らんと欲せば

 看取せよ 南華至樂の篇

「南華至樂の篇」というのは、書の「荘子」(そうじ)のこと。「荘子」の完全なテキストとしては最も古い宋本は「南華真経」という異名を持ち、 南宋の刊本は外篇の「至楽篇第十八」までで構成されている。

 最後に。私はこの手の入定したはずの僧が、妄執故に生き続けてしまうという話柄が大好きで、枚挙に遑がないほど、電子化注している。その中でも最も古い一つであるサイト版の三坂春編(みさかはるよし)の「入定の執念」をリンクさせておく。そこの冒頭注に私のめぼしいそれらをリンクさせてもある。

 

   〇土中出現の觀音

文化十三年戊子[やぶちゃん注:一八一六年。]の春、正月廿五日の夜、巢鴨の町醫師大舘微庵(おほたてびあん)[やぶちゃん注:不詳。]が弟松之助といふもの、王子權現[やぶちゃん注:現在の東京都北区王子本町にある王子神社(王子権現)。]の社(やしろ)のほとりにて、黃金佛(わうこんぶつ)なる觀音の小像を掘り出だせしこと、ありけり。かくて、同年の秋閏八月中旬、肝煎・名主等(ら)、市(いち)の尹(かみ)の旨(むね)を得て、事の由(よし)を書きしるしつゝ、町々へ、ふれ傳へしかば、しりたる人も多かめれど、本文のまゝ、抄錄す。其書にいはく、

 拾四番組名主政右衞門支配巢鴨町勘兵衞店町醫師

     大館微庵弟    松之助

               子二十六歳

右松之助義、去亥年中より、王子村金輪寺雇而罷越居候處、當正月二十六日夜、主人用事にて罷出立歸候節、夜四ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午後十時頃。]餘、王子權現と稻荷社[やぶちゃん注:王子稲荷神社。王子権現とは二百六十メートルほどしか離れていない。]之間、十條村方へ、拾二、三間[やぶちゃん注:二十二~二十三メートル半強。]も參り候往還端にて、光り候品、見え候間、立寄見候得ば、土中より、光り、出候ニ付、少し、土中を掘候ば、小サキ佛像、出、光り居候間、持歸り洗見候得ば、金佛之觀音に付、能々、改見候處、黃金佛にて、長壹寸八分[やぶちゃん注:五センチメートル半弱。]程有ㇾ之間、卽刻、兄微庵方へ持參り、同二月五日、御用番永田備後守樣御番所へ御訴申上候處、御糺之上、上置候樣被仰渡、當八月廿六日、微庵・町役人・組合・肝煎・名主一同、右御番所へ被、月數相立候ニ付、右之品ハ松之助へ被ㇾ下旨、右ニ付、不審成異說等、不義は勿論、猥りに、人々に爲ㇾ見候事不相成候間、其旨存候樣、於御白洲、右佛像、御渡被ㇾ成候。下略子閏八月十八日

かゝる事を、江戸町々なる借屋(しやくや)・店借(たながり)の者迄に、ふれ繼がれしは、いとめづらし。おもふに、黃金佛なれば、後日に、ぬしの出るとも、異論あらせじ、との爲歟。且、靈驗などをさへ、唱へさせじ、との爲なるべし。

[やぶちゃん注:底本でもここで改行。]

按ずるに、「本草」セテ地鏡圖、「黃金之氣赤。夜有火光及白氣。」。かゝれば、件の佛像の、夜、その光りをはなちしは、黃金ゆゑ歟。靈ある故歟。この事、極めていひ難し。且、その土中に入りしこと、深からざりしは、雨後などに、人の遺(おと)せしことありしを、知らで、踏み込みたるもの歟。これも亦、しるべからず。是より先にも、夜な夜なに、光をはなちしものならば、見出だす人も有るべかりしを、松之助が目にのみかゝりて、掘り出だされしも亦、竒なり。思ふに、昔時(むかし)、佛像の、水中に光りを放ちて、或は漁者(ぎよしや)の綱[やぶちゃん注:「兎園小説」版では「網」。]にかけられ、或は木の杪(うら)、井の底より出現したもふ故(こと)ゝいへば、靈驗あらぬものもなく、堂塔・伽藍、美を盡くして、今も衆生にをがまれたまふに、いかなれば、この觀音のみ、さるよしもなく、世の人にしられも得せず、をがまるゝことすら許されたまはぬは、佛にも、幸不幸や、ある。もし、猶、時の早し、とて、そこに知識をまたせたまふか、さらずは、國の寶をもて、その軀形(みかたち)としたまふを、耻させ給ふこともやあらむ。此等の靈のある故に、凡夫のめづる靈驗を現はしたまはぬものならば、寵辱利害(ちやうぢよくりがい)を解脫(げだつ)したまふ、それこそ、眞(まこと)の靈佛ならんとまうさんも、猶、かしこかるベし。

[やぶちゃん注:「兎園小説」にはこの最後に『文政八年六月小暑後之朔、識於著作堂南窓合歡花蔭』として、その下方に馬琴の号の一つである『簑笠漁隱』(さりつぎょいん:現代仮名遣)の署名が載る。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子 / 第五集~了

 

   ○奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子

ちなみにいふ、みちのくの「田うゑ歌」は、古風なるものなればこそ、芭蕉の發句にも、「風流のはじめや奧の田うゑ歌」といへれ。この「田うゑ歌」の事は、本居氏の「玉勝間」に載せたれば、世の人のしる所なり。しかるに、奧州平泉に、中尊寺・毛越寺といふ寺ありて、各十八箇の子院あり。今、毛越寺は廢して、唯、子院十八箇をのみ殘したり。この毛越寺に、むかしより傳へて「唐拍子」といふ歌あり。「路錄歌」ともいへるよし。今も每年、毛越寺廢墟の阿彌陀堂に、子院の法師、集りて、この「錄樂」を行ふとぞ。そのうた、左のごとし。

    唐拍子歌

○ソヨヤミイユ。ソヨヤミユ。ゼイゼレゼイガ。サンザラ。クンズルロヲヤ

○シモゾロヤア。ヤラズハ。ソンゾロロニ。ソンゾロメニ。コウコロナンズリシニ。ワヨヤミイユ

○ラウゾラユク。ラウゾラユク。カリノハネヲトヲヤ

○シツライ。デイガ。サイドノトノ。サアラサラメニ。ユクヨナ。ザレヲ。ノウトメ(の)[やぶちゃん注:「の」は「メ」の右にルビのように小さくある。]。コソノ。タマメハ。ミヤノウマイ

○ハアチジウ。ヨヨノ。ミヤワカアイ。ハチジウヨヨノ。ミヤワカイ。チヨノタマメハ。ミヤノマイ

○ワラワロニ。タマワロウトサユワイ。クサヲハ。アユノ。チヨインニ。サワケタマイ

○トウリノ。ミヤコニハ。トウリノミヤコニハ。ホトケノ。ミナヲバ。シラヌナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

○ゴダイ。サンニハ。モンジユコソ。ロクジニ。ハナヲバ。チラスナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

この一條は、懸川候の儒生松崎慊堂、文化中、ある夏、東游の日、件の舞踏を目擊し、且、その幾曲を寫し來つるよし、同藩の留守居役長鹽氏【平六。】は、家巖[やぶちゃん注:父。馬琴のこと。]と、いさゝか、由緖あり。予も相識れるものなり。文化の末、長鹽氏、家嚴に消息のおくに、この事を、告げおこせたり。さきの日、「反故を、えりわくるとて、これをも、たづね出でたるを、こゝにしるせ。」と、いはれしによりてなむ。

 文政八年五月朔書於神田若壺庵 琴嶺 瀧澤興繼

[やぶちゃん注:「唐拍子歌」の意味はどれも私には殆んど意味が分からない。悪しからず。ただ、橋本裕之氏の論文「論舞考―研究史的素描を通して―」PDF)に、この「唐拍子」についての詳しい論考があり、その中に「路錄歌」ではないが、『毛越寺延年資料「路舞(唐拍子)」に収められた唐拍子歌には四つに分かれている』とされて、ここに記された歌詞と酷似するものが並んで採録されてあるので、読まれたい。さすれば、「路錄歌」は「路舞歌(ろまひうた)」の誤りではないかと私には思われた。

「風流のはじめや奧の田うゑ歌」「奥の細道」で、元禄二年四月二十二日(一六八九年六月九日)に、矢吹を立って、須賀川本町(すかがわもとまち)の相楽(さがら)伊佐衛門等躬(とうきゅう)宅に着き、この日の夜、芭蕉・等躬・曽良の三吟にてこの句を発句とする歌仙が巻かれている。「奥の細道」では、

 風流の初(はじめ)やおくの田植うた

の表記である。「猿蓑」所収のそれには「しら川の關こえて」と前書を持つ。詳しくは、私が二〇一四年に行った「奥の細道」のシンクロ追跡の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅17 風流の初(はじめ)やおくの田植うた』を参照されたい。

「懸川候」遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)にあった掛川藩藩主。

「松崎慊堂」(こうどう 明和八(一七七一)年~天保一五(一八四四)年)。諱は密、又は、復。慊堂は号。「慊」は「飽き足りない・満足しない」の意。肥後国益城(ましき)郡木倉村(現在の熊本県上益城(かみましき)郡御船町(みふねまち))生まれ。実家は農家。十一歳頃、浄土真宗の寺へ、小僧として預けられたが、生まれつき、読書好きで、学問で身を立てるため、十三歳の頃、国元から江戸へ出奔、浅草称念寺の寺主玄門に養われ、寛政二(一七九〇)年には昌平黌に入った。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び、寛政六年には塾生領袖となった。述斎が務めていた朝鮮通信使の応接は、慊堂が代行した。享和二(一八〇二)年、掛川藩の藩校の教授となり、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行、文化十二年に致仕した。文政五(一八二二)年から江戸目黒の羽沢に隠退し、塾生の指導と諸侯への講説を行った。「蛮社の獄」により捕らえられていた門人渡辺崋山(興継や馬琴と親しかった)の身を案じて、天保一〇(一八四〇)年には、病いをおして、建白書を草し、老中水野忠邦に提出した。慊堂は、その建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の「慎機論」が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来、政治誹謗の罪などは聖賢の世に、あるべき道理がない、ということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし、公にしていない反古書きを証拠に罪を問うならば、誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力で、まず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから、慊堂と同等の名声を維持することが出来たに過ぎないとさえ言われた大儒であった。狩谷棭斎らの町人学者らとも交遊し、初めは朱子学に親しんだが、後、その空理性を嫌って、考証学を構築した(以上は当該ウィキに拠った)。

「同藩の留守居役長鹽氏【平六。】」詳細事績は不詳だが、信頼出来る論文等を見るに、文芸その他の考証家であったようである。

【追記】公開した途端にFacebookの知人から、以下のリンクを紹介された。

tenti氏のブログ「因縁果子」の「毛越寺延年の舞」(写真主体の構成)

サイト「文化デジタルライブラリー」の「中世芸能公演」のリスト(第二部に「唐拍子」の一番表紙から六番拍子までの略標題が載る)

併せて見られたい。]

2021/09/13

私の考える今あるべき報道

私は思う――コビッド19の罹患者や死亡者数を時報するなら、福島原発によって放射線障害に罹患した人々の推定発症数と死亡者を報知することの方が、遙かに日本人の「脅威」として戦慄的意味があると考える――

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松五郞遺愛馬の考異

 

[やぶちゃん注:これは馬琴の息子で松前藩医員であった琴嶺舎宗伯滝沢興継の発表であるが、彼の発表物は大概が馬琴の代筆であったことが判っている。これもそれが判るように、例の「曲亭雑記」の巻第二の下に「琴嶺興繼」名義乍ら、載っているので、そちらを底本にする。但し、挿絵は極端にタッチが異なるので、「兎園小説」も載せた。明らかに「兎園小説」版の方が手馴れていて上手い。文章は父に代筆して貰ったものの、絵については興継は渡邊崋山の兄弟子である(崋山の方が五歲年上だが、同じ絵師金子金陵に入門したのが興継の方が早かった。因みに、その息子の縁で馬琴は崋山と親しくなったのである)からして、「兎園小説」版の方は興継の書き直したもので、こちらの絵は、松前藩家臣と思われる櫻井耽齋なる人物から土屋翁平(不詳)へ送った最後の方の書簡に出る現地の主要な配置図と思われる。なお、やはり、だらだら長いので段落を成形した。]

 

   ○松五郞遺愛馬(いあいば)の考異   琴 嶺 興 繼

 今玆(ことし)暮春朔日の兎園會に、家嚴[やぶちゃん注:「かげん」は他者に対して自分の父を言う時に用いる語。]の書きつめて披講したりし「五馬之一」、陸奧の伊達郡箱崎村農民傳兵衛が子の松五郞か遺愛の馬の事[やぶちゃん注:これ。]、當時松前老侯、その近習に命じ給ひて、圖說をつまびらかに錄(しる)し玉はりしもの、嚮(さき)に家嚴ふかく藏め失ひて、たづね求めたるに、かいくれ、見えざりければ、暗記をもて書(かゝ)れしなり。

 しかるに、いぬる日、ゆくりなく、その圖說を、たづね出でたり。

 扨、披閱(ひえつ)せられしに、曩(さき)に誌されしと、大かたは違(たが)はねど、暗記の失(あやま)りなきにあらず。家嚴、則、その書畫を興繼にしめしていへらく、

「かゝる實錄に、いさゝかたりとも、錯誤あらんは、遺憾の事なり。そのたがへるところどころを、なほ、書きあらためて、後のまとゐに披露せばやと思へども、おなじすぢなることどもを、ふたゝびせんは、わづらはしく、且、ことふりにて、勞(らう)にしも、得(え)[やぶちゃん注:不可能を示す呼応の副詞「え」の漢字表記。]湛へず。汝、われに代りて、これかれを、よく比較して、足らざるを補ひ、違へるを正せかし。」

と、いはれたり。

 おのれ、不似(ふじ)にして、文辭のうへには、その才、露ばかりもあること、なし。

『何と書べきや。』

と、思ひ煩ふものから[やぶちゃん注:中古以前の正しい逆接の接続助詞の用法。]、

『もし、かゝる事なかりせば、いかでか不文(ふふん)の筆ずさみを、晴(はれ)なるむしろにおし出だして、諸先生の、玉をつらね、錦をひるがへせる文場に加はることを得べけんや。いなむも、事によるべきものを。』

と、思ふばかりを心あてに、おちおち、たがへるところどころを、さらに誌(しる)すこと、左のごとし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 奧州伊達郡箱﨑村は、御領にて、桑折御代官所の支配たり。同村の百姓傳兵衛は、高橋氏にして、文政二己卯[やぶちゃん注:一八一九年。「己」を「巳」に書いてあるのは訂した。]には、年四十七になりぬ。渠(かれ)は元祿年間[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]より、代々、當地に住居して、相應の百姓なりしに、近年、いよいよ、ゆたかになりぬ。男女の子ども、三、四人あり。彼松五郞は家子なり。又、この家に老母あり、傳兵衛、素より、孝心ふかく、よく老母に仕へしかば、松五郞も、その心、親に劣らず。これにより、その二親の志にたがふことなく、祖母に、よく仕へたり。且、その性(さが)、馬を好みしこと、曩編(なうへん)にしるされし如し。かくて、松五郞は、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年]の夏の比より、勞瘵(らうさい)[やぶちゃん注:「勞咳」に同じ。肺結核のこと。]の症にて、病みわづらふこと、二とせに及びつゝ、文政元年戊寅冬十月廿七日[やぶちゃん注:一八一三年十一月二十五日。]に、享年二十歲にて身まかりけり。曩編に文政二年十二月十二日に病死せしよしをしるされしは、暗記の失(あやま)りなるべし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 かくて、次の日、松五郞が亡骸(なきがら)を棺(ひつぎ)に斂(をさ)めんとせしとき、祖母幷に二親、哀傷に得たへず、松五郞が手道具やうのものを、おちもなく、とりあつめて、棺に納めんとしたりしを、親類たるもの、ひそかに諫めて、

「其事、甚、しかるべからず。當今は、六道錢すら、嚴しく停止(ちやうじ)せられしに、まいて、かゝるしなじなを、むなしく土中に埋めんは、物體(もつたい)なきことどもなり。ゆめゆめ、思ひとゞまり給へ。」

と、まめやかにいさめしかば、祖母・ふた親も、その儀に任(まか)して、さる事は、せず、なりぬ。

 しかるに、この宵、同村の貧民、四、五人[やぶちゃん注:「昼の葬儀の折りに」というような言葉が抜けている。]、

「手傳ひの爲に。」

とて、來てをりしに、はじめ、

「松五郞が棺の内へ、手道具やうのものを納めて、つかはさん。」

と、いひし趣を、もれ聞きて、そのゝち、親類なるものゝ諫めによりて、さる事はせずなりしことをしらず、こゝをもて、件(くだん)の四、五人、竊(ひそ)かに示し合しつゝ、同月廿九日の薄暮(はくぼ)より、打ちつどひて、酒、四、五升を求め來つ。これを、飮むと、のむほどに、酒氣(しゆき)に乘じて、松五郞が墓所に赳き、既に、その新墓(にいばか)を發(あば)きし折り、松五郞が遺愛の馬は、厩(むまや)の橫木を推し破り、驀地(まつしぐら)に走り來つ。件の惡者(わるもの)、四、五人を踶仆(けたふ)せし事の趣は、曩編にしるされしがごとし。これを、

「隣村の百姓なりし。」

と、いへりしは、傳兵衛が、聊か、遠慮もていひし事にて、實(まこと)は同村の百姓なりけるよし也。すべてこの箱﨑わたりは、人氣(じんき)よろしからぬ所にやありけん、かゝるまさな事をするもの、折々ありとぞ聞えたる。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 さて。件の馬は靑毛(あをげ)なり。曩編に「栗毛」としるされしは、是、又、暗記の失りなり。この馬は、「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧より出でたるを、二歲のとき、傳兵術が從弟(いとこ)龜次郞といふ者、馬市(むまいち)にて買取來たり、松五郞は馬を好むに、傳兵衛も又、馬を愛する心ある者なりければ、すなはち、

「乘馬にせん。」

とて、乘り立てしかど、

「地道(ぢみち)、よろしからず。」

とて、遂に小荷駄(こにだ)にしたりける。されども、松五郞は、はじめにかはらず、この馬を鍾愛して、みづから、抹(まくさ)を飼ひ、又、ある時は、餅菓子などをも食はせ、田畑(たはた)へ牽きもてゆくときも、決して、家僕・雇人などにあづけずして、みづから牽きて、ゆきかへりせしとぞ。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。

『「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧』伊達藩内であろうが、不詳。但し、ちょっと厭な名前だ。雅楽で使われる打楽器で鼓の一種で中型の桴で叩く羯鼓(鞨鼓)(かっこ)の鼓面は馬の皮で出来ているからである。

 又、傳兵衛が菩提所は、眞言宗にて、普賢山福嚴寺[やぶちゃん注:今も同じ福島県伊達市箱崎山岸に現存する(グーグル・マップ・データ)。]といふ。住持は覺應法印とて、文政元年、その齡(とし)六十七歲なりとそ聞えし。又、この寺は傳兵衛が居宅よりは三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル強。]許(ばか)り北のかたにあり。又、その墓所は、寺を距(さ)ること、東南のかた、五町許り[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]にあり。傳兵衛が宅より、墓所は、東南の隅にあたりて、相い去ること、二町程[やぶちゃん注:二百十八メートル。]なり、といふ。

[やぶちゃん注:以上の詳細な距離と方向記載から、現在の箱崎地区内として限定出来る、僅か十九歳にして亡くなった、この馬を愛し、孝行者であった高橋松五郎の墓はこの中央附近にあったものと私は推定する。高橋家はその東のこの中央附近か(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真を用いた)。

 底本でもここは改行がある。]

 松五郞が戒名は「寂光院貞心自了信士」【文政元年戊寅十月廿七日二十歲。】

[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]

 松前家より、件の趣を、よく質(たゝ)し問ひて、家嚴(ちゝ)に示し給ひしは、文政二年六月十三日のことなり。後(のち)の考への爲めに、その筒牘(かんとく/テカミ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を寫し書する事、左のことし。

松前藩長尾氏手簡

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げであるが、活字本として版組みした際、次のページの一行目分を下げるのを忘れている。]

昨夕は罷出御目通、殊に寬々御物語仕、大慶至極奉ㇾ存候。其節申上置候箱﨑馬之巨細書指上候樣被申付、則爲ㇾ持指上候間、御落手願上候。早々頓首。

    六月十三日                        長 尾 友 藏

   瀧澤樣尊下         長 尾 友 藏

[やぶちゃん注:既に注したが、来信の相手は松前藩家臣長尾友蔵(所左衛門)である。]

同藩櫻井氏手簡

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。但し、手簡(書簡)の柱のみ行頭から。]

一筆啓上仕候。甚暑之砌御座候得共、上々樣益御機嫌能被ㇾ爲ㇾ遊御座、御同意奉恐悅候。隨而貴公樣、彌御安泰被ㇾ成御勤仕目出度御義奉ㇾ存候。然者蒙ㇾ仰候箱﨑名馬實說巨細書奉候。宜敷御披露奉ㇾ願候。且又右馬之義茂[やぶちゃん注:助詞の「も」。]、箱﨑傳兵衛從弟龜次郞と申、當時瀨之上(セノカミ)驛[やぶちゃん注:箱崎と阿武隈川を挟んだ南西対岸に福島県福島市瀨上町が現存する。]ニ別宅仕、馬喰商賣仕居候間、同人へ懇意仕候出入園吉と申者へ中含承合候得は、龜次郞心易受合候間、伯父傳兵衛へ申含承合候得者、龜次郞心易受合候而伯父傳兵衛へ申込候處【興繼云、伯父傳兵衛といへは、龜次郞は、則、傳兵衛が爲には甥にはべきを傳兵衛が從弟としるせしは、こゝろえがたし從弟は甥の誤りか。猶、たづぬべし。】[やぶちゃん注:「兎園小説」版ではこの附近がゴッソり存在しない。]中々放候樣子無之旨、態々以飛脚申參り候。右紙面貴公樣迄指上候間、可ㇾ然御取繕御沙汰奉ㇾ願上候。乍ㇾ倂此上是非々々被ㇾ爲ㇾ有思召候者、又々一手段仕見可ㇾ申候得共、先此段奉申上候。猶又、箱﨑傳兵衛居宅・寺・墓所等踈繪圖認奉指上候。彼是可ㇾ然樣御取合奉願上候。殊更此間家内ニ病人有ㇾ之、延引仕候段奉恐入候。何分宜敷御執成奉ㇾ願候。右之趣可ㇾ得貴意、如ㇾ此御座候。恐惶謹言。

    六月二日       櫻 井 耽 齋

   土屋翁平樣

 

Hakosaki2

[やぶちゃん注:上掲のものが、底本のもの。キャプションは、時計回りに、「松五郞墓」、「亀次郞宅」、「セノ上路」、右幅に「ホハラ路」、右幅中央に「ハコサキ村傳兵衞宅」。これだと、亀次郎の家は阿武隈川対岸にはないことになる。不審。]
 

Hakosaki1
 

[やぶちゃん注:後者が「兎園小説」版。キャプションは右から左に、「愛宕山」、「松五郞墓」、「ハコサキ村」。]

 


別紙奉申上候合紙面入御覽候。瀨之上(セノカミ)後藤龜次郞者、箱﨑傳兵衞方ヨリ別家仕者之子ニ而傳兵衛ト者從弟ニ御座候。此段御含ミ被ㇾ置御披露可ㇾ被ㇾ下候以上

  翁平樣              耽 齋

傳兵衛從弟龜次郞手簡

飛脚ヲ以テ申上候。暑氣甚敷候得共、彌御勇健ニ可ㇾ被ㇾ成御渡ト奉ㇾ賀候。然者、先日者御目懸大慶奉ㇾ存候。其節御咄被ㇾ成候箱﨑傳兵衞方へ馬之義申聞候處、實[やぶちゃん注:「まことに」、]忠義ニ相當リ候馬之殼ニ御座候得者、傳兵衛方ニテ飼ころしに仕度よしに御座候。尤前々ヨリ忰松五郞氣ニ入、一人ニ而、飼立候馬ニ御座候ば、猶更右樣之義有之候義而ハ、相はなし兼候趣ニ御座候。右之段何分御斷り申上候。早々此御座候以上

    五月廿七日

             瀨之上

              後藤屋龜次郞

   新田屋園吉樣 要用

長尾友藏は松前家の臣なり【後、改所左衞門。】又、櫻井耽齋も同家臣にて、當時在梁川なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、髙橋傳兵衞が從弟なり。櫻井耽齋(さくらゐいうさい)も、同家臣にて、當時、在(ざい)梁川(やなかは)なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、高橋傳兵兵衛が從弟(いとこ)なり。櫻井耽齋、かねて、園吉が龜次郞と識(しれ)る人なるをもて、則、園吉をもて、彼(か)の馬の事をはからはせしに、傳兵衞、かたく辭して、售(う)らざりし事、筒牘(かんとく)に見えたるが如し。抑(そもそも)この竒談は、

「浮きたることにあらず、忠孝の端(はし)にも、かゝつらへるよしあれば、いさゝかも、違(たが)ふことなく、ありつるまゝに、識(しる)しおくべし。」

と、家嚴(ちゝ)のいはれしによりて、この事に及べるのみ。文政八年五月朔 琴嶺興繼

[やぶちゃん注:以下一字下げで依田百川(既注)の評言がある。昨日は、カットする旨を言い、電子化しなかったが、考えを改め、電子化する。

 百川云、凡そ考證の文字は、古事を引證し、彼を較べ、此を比し、無用の事を爭ひ、不急の話を多くするのみ、益ある事、少し。されば、余は考證の文字を好まず。されども、此琴嶺の考證は、よく近時の事を訂正し、その事を實(じつ)にするの功ある。かゝる考證こそ、大に世には益あれ。曲亭の文章,小說には飾(かざり)多く、もとより作りものにはあれども、さもあらぬ道理と思ふもの、少なからず。獨り事實を記するに至りては、一小事(いつせうじ)といへども、苟(いやしく)もせず。琴嶺もまた、その志(こゝろざし)を繼ぎて、この訂正あり。父子、心を用ゐるの老實(ろうじつ)[やぶちゃん注:物事に慣れていて誠実であること。 ]なるは多く得がたし。

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)

 

[やぶちゃん注:本篇は、遠い昔、ネットを始めたばかりの二〇〇六年九月三日に平凡社「南方熊楠選集」を底本としてサイト版で電子化しているのだが、今回は全くの零から始めて、しかも詳注附きで改めて電子化に入る。長いので、幾つかの段落部分で分けて電子化注する。]

 

        牛王の名義と烏の俗信

 

       

 鄕土硏究に出た「守札考」の中に、淸原君は、牛王(ごわう)の名の起原を論じて「要するに牛王の符は、牛黃なる靈藥を密敎でその儀軌に收用し一種の加持を作成した事から起つた者であらう」と言はれた。乃ち舊說に牛王は牛玉で有て又牛黃牛寶とも稱し、牛膽の中から得る所の最も貴き藥である、之を印色として符の上に印するより牛王寶印と稱すと云ふに據つたものだ(鄕土硏究三卷四號一九七、一九九頁)。和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末と有り、田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケと云ふ部落の大將、予と年來相識の者の話に、牛の腹より極めて貴き黃色の物稀(まれ)に出で芬香比類無しゴーインと名くと云ふたのは牛王印の訛りだらう。東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す。格別上品で大きい牛黃だつた物か。又牛膽中より得る極て香しき牛黃の外に、韋皮(なめしがは)の樣な臭有る牛の毛玉(けだま)というものを膓から出す事有り。和漢三才圖會俗間有牛寶、形如玉石、外面有毛、蓋此如狗寶鮓荅之類、牛之病塊、與牛黃一類二種也、庸愚賣僧輩、爲靈物、或以重價索之、其惑甚哉と云へるは是だ。此邊で之を懷中すれば勝負事に運强いと云ふ。實朝が布施したのは此毛玉かとも思ふ。

[やぶちゃん注:『鄕土硏究に出た「守札考」』『郷土研究』に清原貞雄著「守札考(上)」(大正四(一九一五)年六月発行)及び同翌月号「守札考(下)」が載ることが国立国会図書館「レファレンス協同データベース」のこちらで確認出来た。「鄕土硏究三卷四號」とあるのは前者。

「牛王」清原氏の論文名から、ここは熊野神社・手向山八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などの諸社寺で出す厄難除けの護符「牛王(玉)宝印」(中世のものが「玉」が多い)のこと。図柄はそれぞれに異なるが、七十五羽の鴉を図案化した「熊野牛王」は有名(私は熊野三社総てのそれを書斎に配してある)。その裏は誓紙や起請文を書く際に神かけたものとするために用いた。

「和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末」(うしのたま)「と有り」私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)」の原文・訓読及びオリジナル注を参照されたい。

「田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケ」現在の和歌山県田辺市芳養町(はやちょう)のこの旧崖地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す」建保五(一二一七)年五月大の二十五日の条に、

   *

廿五日壬丑 於御持佛堂。被供養文殊像。導師壽福寺長老。而將軍以年來御所持牛玉爲御布施。廣元朝臣不可然之由。雖傾申。不能御許容云々。

(廿五日壬丑 御持佛堂に於いて、文殊像を供養せらる。導師は壽福寺長老[やぶちゃん注:退耕行勇。]。而うして、將軍、年來の御所持の牛玉(ぎうぎよく)を以つて御布施と爲すに、廣元朝臣、「然るべからざる」の由、傾(かたぶ)け申すと雖も、御許容に能はずと云々。)

   *

大江広元は畜生の体内から得た物を梵珠菩薩に供儀することを宜しくないと進言したのである。

「香しき」「かぐはしき」。

「和漢三才圖會俗間有牛寶……」先の私のリンク先を見られたいが、

   *

△按ずるに、俗間、牛寳(うしのたま)有り、形、玉石のごとく、外靣に毛あり。蓋し、此れ、狗寳(いぬのたま)[やぶちゃん注:「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」を参照。]のごとくにして、「鮓荅(さとう)」の類ひなり。牛の病塊(びやうかい)たる牛黃とは、一類にして二種なり[やぶちゃん注:「別種のものである」の意。「牛黃」を特別視する習慣によるもの。]。傭愚(おろかもの)・賣僧(まいす)[やぶちゃん注:「まい」「す」ともに唐音。仏法を種に金品を不当に得る僧。禅宗から起こった語で、後に単に人を騙す者の意にも転じた。]の輩(やから)、靈物(れいもつ)と爲(な)し、或いは重き價(あたひ)を以つて之れを索(もと)む。其れ、惑(まどひ)の甚しきかな。

   *

で、寺島良安は効能を全く認めていないことが判る。なお、こうした「鮓荅(さとう)」(各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称したもの)については、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。]

 曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時、その弟子證空これに代り死なんとて晴明を請うて請じて祀り替へしむるところに、「晴明禮拜恭敬(らいはいくぎやう)して、云々、既に祭文に及びければ、牛王の渡(わた)ると見えて、種々のさんせん幣帛或は空に舞上がりて舞遊び、或は壇上を跳り廻る、繪像の大聖不動明王は利劒を振り給ひければ、其時晴明座を立て珠數を以て證空の頭を撫で、平等大慧一乘妙典と言ひければ、則ち上人の苦惱さめて證空に移りけり」と出づ。爰に牛王と云へるは牛黃では分らず、假令牛黃又牛王寶印とするも、文の前後より推すと牛黃又牛王寶印其物を指さずして其物の精靈乃ち牛黃神又牛王寶印神とも稱すべき者を意味し、修法成就の際右樣の神が渡り降る[やぶちゃん注:「くだる」。]と同時に供物が自ら動き出すこと、恰も今日の稻荷下げに彌よ神が降る時幣帛搖(ゆれ)廻る如くだつたのであらう。例せば、唐譯不空羂索神變眞言經に見えた藥精味神が、狀如天形、衆寶衣服備莊嚴、身手便執持俱延枝果、無垢藥精大毒威云々、力能人吸奪精氣。それを畏れずに、持眞言者が咒を誦し打ち伏せると藥精の身から甘露を出す。それを採つて眼と身に塗れば金色仙と成り得、又藥精の髮を取つて繩として腰に繫(かく)れば何處に行くも障礙無しと有り。芳賀博士も予も出處を見出だし得ぬが、今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり(鄕硏究一卷六號三六四頁及九號五五二頁參照)。徒然草に大根が人と現じて人の急難を救ふ譚出で、歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)(A. de Gubernatis, “La Mythologie des Plantes,” 1882, tom. ii, p. 213 seqq.)、印度のツラシ草(同書同卷三六五頁)、チエロキー印甸人[やぶちゃん注:「インジアン」。インディアン。]の人參(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)等、何れも植物ながら人體に象れる根又全體を具し、靈妙の精神を有すと信ぜられ、それ程には無いが、熊野で疝氣等の妙藥と傳へらるゝ「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)も、之を見出だした卽時採らずに歸宅して復往くと隱れ去つて見えぬと言ふ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時……」国立国会図書館デジタルコレクションの武笠三校訂「義経記・曽我物語」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊。貞享四(一六八七)年刊本が底本)で示すと、当該条は「八 泣不動(なきふどう)の事」であるが、前の「七 三井寺の智興大師の事」から読まないと判らない。軍記物によくある、ある事態やケースに対して同様の例を示すに、ずっと過去に遡った事例を引き合いに出して語るところの一種の「語りの脱線」的部分で、蘇我兄弟の仇討ちとは無関係である。この話は、「宝物集」(巻三)、「発心集」(巻六)、「義経記」(巻五)などにも見え、陰陽師のチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~ 寛弘二(一〇〇五)年)が登場するからか、かなりメジャーな話である。読んで戴ければ判るが、智興大師が重病に陥り、晴明を呼ぶが、助けるためには、身代わりとなる死者が必要と述べ、智興の弟子證空が名乗り出て、病いが證空に移るに(熊楠はここまでしか書いていない)、證空が持仏の不動尊に祈ったところ、絵像が血の涙を流して、「我、汝の身に代わらん。」と言い、智興も證空も無事であったという話である。

「智興大師」阿闍梨智興内供奉(ないぐぶ ?~安和三(九七〇)年)。平安初期の僧。「内供」は宮中の道場で天皇に奉仕して御斎会の読師や修法を勤めた僧職。

「さんせん」「散錢」であろう。私の所持する王堂本「曾我物語」では「きんせんさんぐ」で「金錢」(「さんぐ」は「散供」であろう)であるが、「散錢」でも問題ない。

「稻荷下げ」稲荷信仰の内でも民間の巫者は、稲荷神を守護神として祀り、「稲荷下げ」「稲荷降(おろ)し」と称される託宣を行うことが多い。

「不空羂索神變眞言經」不空羂索観音を説く経典。大小約六十種ほどの色々な儀軌から構成されており、「大日経」以前に成立したと推定されている初期密教経典で、七〇九年頃に菩提流志によって漢訳されたもの(こちらの木村秀明氏の論文「『不空羂索神変真言経』「護摩安穏品」所説の護摩儀軌」PDF・『印度學佛教學研究』平成一六(二〇〇四)年十二月)に拠った)。

「藥精味神」不詳。古代インドの薬を司る荒神か。

「狀如天形……」平凡社選集の訓読を参考(無批判には従わない)に読み下す。

狀(かたち)、天の形のごとく、衆寶の衣服、備(つぶ)さに莊嚴にして、身・手には便(すなは)ち、俱延枝果(ぐえんしくわ)を執り持ち、無垢なる藥精は大毒威ありて」云々、「力は能く人の精氣を吸ひ奪ふ」。

「金色仙」「こんしきせん」と読んでおく。道教の最上級の仙薬金丹を含んで不老不死の一切の傷を身に受けることのないフル・メタル。ジャケットみたような神仙となることか。

「芳賀博士」国文学者芳賀矢一(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)。越前国福井生まれ。父芳賀真咲も国学者であった。第一高等中学校から帝国大学文科大学を卒業。明治三一(一八九八)年に東京帝国大学助教授、翌年からドイツに留学し、文献学を学び、明治三四(一九〇一)年に帰国して東京帝国大学教授となった。二年後には文学博士を取得している。南方熊楠とは東京帝大予備門での同級生であり(熊楠は明治一八(一八八五)年十二月二九日に期末試験で代数一課目だけが合格点に達しなかったため、落第し、予備門を中退した)、「今昔物語集」の研究などで交流があった。

「今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり」「今昔物語集」巻第四の「震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二」(震旦(しんだん)の國王の前に阿竭陀藥(あかだやく)來たれる語(こと)第三十二)である(「新日本古典文学大系」版(第一巻・今野達校注・一九九九年)を参考に用い、漢字は正字化した。□は欠字)。

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 今は昔、震旦の□□代に國王、在(まし)ましけり。一人の皇子(わうじ)有り。形、端正にして、心□□也。然れば、□□□□父の王、此の皇子を悲しみ愛し給ふ事、限り無し。

 而るに、皇子、身に重き病ひを受けて、月來(つきごろ)經たるに、國王、此れを歎きて、天に仰ぎて、祈請し、藥を以つて療治すと云へども、煩ふ事、彌(いよい)よ增さりて、𡀍(い)ゆる事、無し。

 其の時に、大臣として、止む事無き醫師有り。而るに、國王、此の大臣と極めて、中、惡しくして、敵(かたき)の如し。然れば、此の皇子の病ひをも、此の大臣には、問はれず。

 然りと云へども、此の大臣、醫道に極めたるに依りて、國王、皇子の病い、問はむが爲に、年來(としごろ)の怨(あた)を思ひ、弱り給ひて、忽ちに大臣を召す。

 大臣、喜びを成して參りぬ。

 國王、大臣に出で會ひて、語りて宣はく、

「年來、互ひに怨を成して、親しまずと云へども、皇子、身に病ひを受けて煩ふに、諸(もろもろ)の醫師を召して、療治せしむるに、𡀍ゆる事、無し。然(さ)れば、年來の怨を忘れて、汝を呼ぶ。速かに、此の皇子の病ひを療治して𡀍(い)えしめよ。」

と。

 大臣、答へて云はく、

「實(まこと)に、年來、敕命を蒙(かうぶ)らず、暗夜(やみのよ)に向へるが如し。今、此の仰せを奉(うけたま)はる、夜の曉(あ)けたるが如し。然(さ)れば、速かに御子(みこ)の御病ひを見るべし。」

と云ふに隨ひて、大臣を呼び入れて、皇子の病ひを見しむ。

 大臣、皇子を見て云はく、

「速かに藥を以て療すべし。」

と云ひて、出でぬ。卽ち、藥を以つて、大臣、參りて云はく、

「此れを服(ぶく)せしめ給はば、御病ひ、卽ち、𡀍ゆべし。」

と。

 國王、此れを聞きて、喜び乍ら、此の藥を取りて、見て、宣はく、

「此の藥の名をば、何とか云ふ。」

と。早う、大臣の構へける樣(やう)[やぶちゃん注:事前に医師大臣が内心で企んで思ったことによれば。]、

『此れは、藥には非ずして、人、此れを服しつれば、忽ちに死ぬる毒を、「藥ぞ」と云ひて、此の次(つい)でに、年來の怨を酬いて、皇子を殺さむ。』

と思ひて、毒を持(も)て來たれるを、國王の、藥の名を問ひ給ふ時に、大臣、思ひ繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:どきっとして、あれこれと思案に迷って。]、

『何が云はまし。』

と思ふに、只、何ともなく、

「此れなむ、『阿竭陀藥(あかだやく)』と申す。」

と。

 國王、「阿竭陀藥」と聞き給ひて、

「其の藥は、服する人、死ぬる事、無かんなり[やぶちゃん注:死ぬことはないそうだ。]。『皷に塗りて打つに、其の音を聞く人、皆、病ひを失ふ[やぶちゃん注:病が癒える。]事、疑ひ無し。』と聞く。況や、服せらむ人、何(な)どか病ひを𡀍ざらむ。」

と深く信じて、皇子に服せしめつ。

 其の後、皇子の病ひ、立ち所に𡀍ぬ。大臣は既に家に還りて、

『御子は、卽ち、死ぬらむ。』

と思ひ居たる間に、

「卽ち、𡀍ぬ。」

と聞きて、怪しび思ふ事、限り無し。

 國王は、大臣の德に依りて、皇子の病ひ𡀍ぬる事を、喜び思ひ給ふ。

 而る程に、日、晚(く)れぬ。夜に入りて、國王の居給へる傍らを、叩く者、有り。

 國王、怪しびで、

「何ぞの者の、かくは、叩くぞ。」

と問ひ給へば、

「阿竭陀藥の參れる也。」

と云ふ。

 國王、

『奇異也。』

と思ひ給ひ乍ら、叩く所を開(あ)けたれば、端正なる、若き男女(なんによ)、來たれり。

 國王の御前に居て、語りて云はく、

「我れは、此れ、阿竭陀藥也。今日、大臣の持て