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2021/09/03

伽婢子卷之八 屛風の繪の人形躍歌 / 卷之八~了

 

Huryuuodori

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して冒頭に配した。以下、文中に出る歌詞は底本では全体が一字下げで読点で区切ってベタで続くが、ブラウザでの不具合を考えて、かくした。前後も一行空けた。なお、「屛風」の歴史的仮名遣は「びやうぶ」が正しいので注意されたい。]

 

   ○屛風(べうぶ)の繪(ゑ)の人形(にんぎやう)躍歌(をどりうたふ)

 細川右京大夫政元(まさもと)は、源の義高公を取立、征夷將軍に拜任せしめ奉り、みづから權(けん)を執り、其《その》威を逞(たくま)しくす。

 或る日、大に酒に醉(ゑひ)て、家に歸り臥したりしに、物音、をかしげに聞えて、睡りを覺まし、かしらを抬(もた)げて見れば、枕本《まくらもと》に立《たて》たる屛風に、古き繪、あり。

 誰人《たれひと》の筆とも知れず、美しき女房、少年、多く遊ぶ所を、極彩色(ごくざいしき)にしたる也。

 其女房も、少年も、屛風を離れて、立並《たちなら》び、身の丈(たけ)五寸ばかり[やぶちゃん注:十五センチメートル。]なるが、足を踏み、手を拍ちて、哥、うたひ、おもしろく、躍りを、いたす。

 政元、つくづく、其の哥をきけば、さゝやかなる聲にて、

 

 世の中に

 恨みは殘る有明の

 月にむら雲春の暮

 花に嵐は物うきに

 あらひばしすな玉水に

 うつる影さへ消えて行

 

と、くり返し、くり返し、哥ふて、躍りけるを、政元、聲高く叱りて、

「曲者共(くせ《ものども》)の所爲(しわざ)かな。」

と、云はれて、

「はらはら」

と、屛風に登りて、元の繪と、なれり。

 怪しきこと、限りなし。

 陰陽師(おんやうじ)康方(やすかた)をよびて、うらなはせければ、

「屛風の繪にある女の風流(ふうりう)のをどりに、『花に風』と歌ふ。總べて、『風』の字、愼みなり。」

といふ。

 永正四年六月の事也。

 其《その》次の日、政元、精進潔齊して、愛宕(あたご)山に參籠し、偏へに、武運の長久を、勝軍地藏に、いのり申されたり。

 廿三日の下向道(げかうだう)に乘りたる馬、已に坂口にして、斃(たを)れたり。

 明《あく》れば、廿四日、我が家に於て、風呂に入《いり》けるに、その家人(けにん)、右筆(ゆうひつ)せし者、敵(てき)に内通して、俄に突き入《いり》つゝ、政元を刺し殺したり。

 康方が、

「『風』の字、つゝしみあり。」

と云ひしが、果して、風呂に入りて殺されしも、兆(うらかた)のとるところ、其故あるにや。

 

伽婢子卷之八終

[やぶちゃん注:「細川右京大夫政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年六月二十三日(ユリウス暦一五〇七年八月一日・グレゴリオ暦換算八月十一日))は室町幕府管領。同職を三度延べ約二十年も務めた細川勝元(文明五(一四七三)年没。享年四十四)の子。文明一八(一四八六)年七月、管領に就任し、一旦は畠山政長に譲ったが、長享元(一四八七)年八月及び延徳二(一四九〇)年七月と短期復職した後、明応三(一四九四)年十二月から死去するまで、同職を独占した。摂津・丹波・讃岐・土佐の各守護。文明一四(一四八二)年閏七月、内衆(うちしゅ:家来)の薬師寺元長らに命じて摂津国人茨木氏を討ち、長享元年九月には将軍足利義尚の近江出陣に従った。同二年九月、京都で土一揆が起こり、下京を焼いたが、これを鎮圧。延徳二年八月、近江守護に補任され、翌年八月、将軍足利義材(よしき=義稙(よしたね))の近江出陣にも参陣している。実子がなく、延徳三年二月、九条政基の子澄之(すみゆき)を養子とし、文亀三(一五〇三)年五月には、細川成之の孫澄元も養子として阿波から迎えている。政元に実子がなかった理由として、その男色と、修験道への没頭が指摘されている。「政基公旅引付」(まさもとこうたびひきつけ:前関白九条政基の日記)には、薬師寺元一が政元の男色を暴露した記事がみられ、修験道修行のため、遊行に出ようとしたこともあった。明応二年閏四月、内衆の安富元家・上原元秀らを派遣して、河内の畠山基家討伐中の将軍義材と畠山政長を攻撃、政長を自殺させ、義材を捕らえた。新将軍に義澄を擁立し、権力を手中にしたが、義材は脱出し、抵抗を続けた。永正元年九月には内衆薬師寺元一の反乱が起こり、赤沢朝経も、一時、これに呼応した。この乱は鎮圧したものの、澄之の擁立を図る内衆香西元長・薬師寺長忠らにより、自邸で、入浴中に暗殺された(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)

「源の義高公」室町幕府十一代将軍足利義澄(文明一二(一四八一)年~永正八(一五一一)年/将軍在任:明応三年十二月二十七日(一四九五年一月二十三日)~永正五(一五〇八)年四月十六日:足利氏の本姓は源氏で、清和源氏の一族河内源氏の流れを汲む)。伊豆生まれ。初名は義遐(よしとお)、後に義高、文亀二(一五〇二)年七月二十一に義澄と改名した。八代将軍義政の異母兄で堀越公方の足利政知の次男。十代将軍義稙が細川政元の反乱によって追放されたのを受けて、還俗して将軍となったが、政元が暗殺され、翌永正五年に義稙が援軍とともに京都に迫ると、近江に逃れた。水茎岡山城(滋賀県近江八幡市内)で病死した(以上は複数の資料を合成した)。

「世の中に 恨みは殘る有明の 月にむら雲春の暮 花に嵐は物うきに あらひばしすな玉水に うつる影さへ消えて行」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは前半の原拠としている『五朝小説の諾皐記「元和初有一士人云々」』という『原話の去り行く陽春を傷む意の七言絶句の踏歌』(多数の人が足で地を踏み鳴らして歌う舞踏。元は唐の風俗で、上元の夜、長安の安福門で行なうのを例とした。日本では「日本書紀」に載る、持統天皇七年正月に漢人が行なったものが初めとされ、平安時代には宮廷の年中行事となっている。また、諸社寺でも行なわれ、現在も踏歌神事を伝えるところがある。元来、歌詞は漢詩の句を音読したものであったが、後に催馬楽の歌曲などが援用された。歌詞の間に「万春楽」・「千春楽などの囃し言葉が入るが、それを「万年(よろずよ)あられ」とも囃したので、踏歌を一名「阿良礼走(あらればしり)」とも称した。この「ハシリ」とは「舞踏」の意であるらしい)『を、風流踊り』(本篇では「ふうりう」とルビを振るが、「ふりう」(をどり)が正しい。中世の民間芸能の風流(ふりゅう)に起こり、現在も諸国各地の念仏踊・太鼓踊・獅子踊・小歌踊・盆踊・綾踊・奴踊などに伝わる集団舞踊。所謂、民俗舞踊の大部分を占める踊りを総称する語である)『の囃子歌にとりなしたものか。原話に「長安ノ女児春陽ヲ踏ム。処(いづく)トシテ春陽ノ腸(はらわた)ヲタタザルハ無シ。舞ノ袖、弓ノ腰ハ渾(すべ)テ忘却シ、峨眉ハ空シク九秋ノ霜ヲ帯ブ」。「九秋」は秋の九十日間』とある。しかし、この「諾皐記」の「元和初有一士人云々」というのは、何のことはない、晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣/八六〇年頃成立)の巻十四「諾皋記」の「上」にある、以下である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の当該部を視認して活字化した。

   *

元和初、有一士人失姓字、因醉臥廳中。及醒、見古屏上婦人等、悉於牀前踏歌、歌曰、「長安女兒踏春陽、無處春陽不斷腸。無袖弓腰渾忘卻[やぶちゃん注:「忘却」に同じ。]、蛾眉空帶九秋霜。」其中雙鬟者問曰、「如何是弓腰。」。歌者笑曰、「汝不見我作弓腰乎。」。乃反首髻及地、腰勢如規焉。士人驚懼、因叱之、忽然上屏、亦無其他。

   *

 元和[やぶちゃん注:八〇六年~八二〇年。中唐末。]の初め、一士人有り。姓字は失す。醉ひに因りて、廳中[やぶちゃん注:広間。]に臥せり。醒むに及び、見るに、古き屏(べう)の上の婦人等(ら)、悉く、牀前に於いて踏歌して、歌ひて曰はく、

 長安の女兒 春陽を踏み

 處(いづ)くにも 春陽の腸(はらわた)を斷たざるは無く

 袖も 弓の腰も 無くして 渾(すべ)て忘卻し

 蛾眉 空しく帶ぶ 九秋の霜(しも)

其の中に、雙鬟(さうくわん)[やぶちゃん注:前話に出た稚児唐輪。]の者、問ひて曰はく、

「是の弓の腰とは、如何ぞ。」

と。歌へる者、笑ひて曰はく、

「汝は、我れの作れる『弓の腰』を見ずや。」

乃(すなは)ち、首を反(そら)せば、髻(まげ)、地に及び、腰の勢(かたち)、規(ぶんまはし)[やぶちゃん注:コンパス。]のごとし。

 士人、驚懼して、因つて之れを叱れば、忽然として屏に上(のぼ)り、亦、其の他(ほか)、こと、無し。

   *

訓読は所持する「酉陽雜俎」の全訳本である今村与志雄訳「東洋文庫」版の第三巻(一九八一年平凡社刊)の訳文を参考に我流で示した。

「陰陽師(おんやうじ)康方(やすかた)」当時は安倍氏の末裔土御門家が支配していたが、「康方」というのは不詳。

「花に風」花にとって風は散らすものであるから、「愼み」=忌むべきものである。しかも、「屛風」・「風流のをどり」・「花に風」で「總べて、『風』の字」であるからして、凶兆と判じて、「風」に拘わるものを避けることを進言したのである。

「愛宕(あたご)山」全国に約九百社ほどある愛宕社の総本社である、下財の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社(旧称は阿多古神社)のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「勝軍地藏」一説に、坂上田村麻呂が東征の際、戦勝を祈って作ったことから起ったという地蔵菩薩の一種。鎧、兜を装着し、右手に錫杖を、左手に如意宝珠を持ち、軍馬に跨っている。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などを免れるとされ、愛宕権現は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、伊耶那美命を垂迹神とし、この勝軍地蔵菩薩を本地仏とした。主に武家から信仰された。

「下向道(げかうだう)」社寺に参詣した後の帰り道を言う一般名詞。

「坂口」愛宕街道の古道で一の鳥居の附近であろう。私の好きな老舗の鮎茶屋である平野屋がある。

「明《あく》れば、廿四日、我が家に於て、風呂に入《いり》けるに、その家人(けにん)、右筆(ゆうひつ)せし者、敵(てき)に内通して、俄に突き入《いり》つゝ、政元を刺し殺したり」実際の日付が、一日、ずれている。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「廿四日政元浴室に入て垢をあらふ。その家人右筆のもの俄に入来りて政元を打ころす」(本朝将軍記十・源義澄・永正四年六月)』とあるが、「本朝将軍記」は本書の作者浅井了意が書いたものであるから、正規証左の史料とはならない。同別注で、『「永正四年丁卯六月二十三日の夜、御月待の音行水有し所を、御内の侍、福井四郎、竹田孫七、新名』(「にいな」か)『と云者どもが、薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟同心して政元を誅し奉る」(細川両家記)。家内は、養子の澄之派、澄元派に分かれて』(既に私の注で示した通りである)『政元は澄元派に暗殺された』とある。

「兆(うらかた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『占いの表象』とある。]

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