曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 土中出現黃金佛
[やぶちゃん注:海棠庵発表。図は底本からトリミングした。段落を成形した。キャプションは、円龕の最上部に、左を上にして、
「口ノ径(わた)リ五寸余」
下方に右から、
「蓋ヨリ下髙一尺」
「天女ノ如キモノヲ
彫(ほり)モノトス」
「蓋共ニ總(すべて)金ナリ」
か。「總」は自信はない。]
○土中出現黃金佛
今茲、文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の春、熊野本宮社、
「川除[やぶちゃん注:「かはよけ」。堤防などの水害防止施設。]の堤を築かん。」
とて、社境内の川上なる大黑島といふ岩山より、大石を引き出だす。
爰に、あやしき事あり。
石を出だす雇夫等、砂を穿ち、磐石を割るのいとま、
「暫く、勞を休めん。」
と。側によりて、憩ひ居れば、巖上の土石、おのづから崩れ落ちて、止まず。
工人、各、その業をなす間は、土石、崩るゝこと、なし。
憇へば、又、崩る。
かゝること、數日にして、その春彌生の廿日より、あまたの烏、この處へ飛び來りて、人を、おそれず、譬ば、腐肉に蠅の集ふが如し。
かくて、この日より次の日まで、銀器の缺けたりと見ゆるものを、數片、掘り出だしけり。
されば、又、廿二日に至りては、烏の聚まること、いよいよ多く、空中に飛び翔りて、翅をたゝき、背を鳴らし、殆、人の頭上を喙まん[やぶちゃん注:「ついばまん」。]とするの勢なれば、心よはき雇夫等は、迯げ走りて、これを避け、壯々なるもの共は、怪み疑ひながら、そがまゝに、土石を穿つに、その日も既に亭午[やぶちゃん注:正午。]になりしころ、土中より一つの、瓷[やぶちゃん注:「かめ」。甕。]、顯れ出でけり。
そのさま、今の世に見なれざる器なれば、人みな、うちよりて、これを見るに、その瓷に彫れる文字あり、左の如し。
熊野山如法經銘文
大般若一部六百卷
白瓷箱十二合
箱 別 五 十 卷
保安二年歲次辛丑十月日
願主沙門良勝
檀越散位秦親任
この瓷中に、黃金にて造れる圓龕一箇あり。その圖、如下。
[やぶちゃん注:ここは底本も改行。]
此金龕の蓋をひらき見るに、内に、闇浮檀金の阿彌陀佛の尊像一軀を藏む。御長け七寸。愛愍接取の慈眼、あざやかに、瑞嚴殊勝の妖相、尊くをがまれ、諸人奇異の思をなせり。先に得たる所の白銀[やぶちゃん注:「しろがね」と訓じておく。]の器とおぼしきものは、破れ損じて、形、全からぬも、取り集めて、重さを量るに、八百目[やぶちゃん注:三キログラム。]に餘れり。
今度、紀藩より、修理の宰[やぶちゃん注:長官。]として、爰に來りし吏石井傳左衞門といふ人、
「是を得て、藩主に奉り、命を請はん。」
と祕襲[やぶちゃん注:「内密に納めて。]して、その月の廿四日に、本宮を發して、府にかへれり。
右一說は、藩にちなみある一友人に得たり。
文政乙酉孟秋朔 海棠菴思亮 記
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
解、按ずるに、保安二年[やぶちゃん注:一一二一年。]は鳥羽院の御宇にて、藤原忠通公關白の時の事なり。文政八年乙酉まで七百零七年[やぶちゃん注:「七零五年」の誤り。]をへたり。當時、秦氏の人に、高位のもの、聞えず。散位の事は、さまざまの說あれども、位の高卑に拘らず、「冠位有りて官職なきを散位といふ」と予は思ひをり。猶、職事家[やぶちゃん注:「しきじか」。律令制に於ける特定の官人集団に詳しい方。]にたづぬべし。秦氏は「忌寸」[やぶちゃん注:「いみき」。]の姓[やぶちゃん注:「かばね」。]にて、秦始皇の後なるよし。「姓氏錄」諸蕃の譜に見えたり。「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか。さばれ、慥なる證を得ざれば、何とも、いひがたし。當時、熊野別當は、いきほひあるものゝよし、聞ゆ。熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり。良勝は、いづくの沙門ぞや。これも熊野の別當か。なほ考ふべし【著作堂主人追記。】。
[やぶちゃん注:ここに描かれた円筒形経筒は、「本宮経塚出土陶製外筒」として現存する(東京国立博物館蔵)。「和歌山県立博物館」公式サイト内の「常設展ガイド」の「熊野の経塚」で画像も見られる(図よりも高さがなく、ずんぐりしたものである)。その解説に、『経塚とは、平安時代後期以降、末法思想の広がりを背景に、仏教の衰滅を恐れた貴族や僧侶が、法華経などの経巻を経筒に入れ』、『仏具類とともに地中に埋蔵したもの。経塚の築造には霊地などの特別な土地が選ばれ、熊野にも多くの経塚がつくられた。それは熊野詣の目的のひとつでもあった。今日、その豊富な内容は、我が国の経塚研究のうえで重要な意味をもっている』とし、『本宮経塚出土陶製外筒』として、『文政八(一八二五)年、熊野本宮の付近から経塚が発見された。(『熊野年代記』)。この時出土した経筒の外容器は渥美窯製とされ、現存する経筒類としては最大のものである。側面には銘文七行五一文字』(本記載と完全に一致する)『が刻まれており、保安二(一一二一)年に願主良勝と壇越秦親任とが、大般若経六〇〇巻を五〇巻ずつに分けて、この地に埋納したことがわかる。かつて本宮社地周辺にも新宮や那智と同様に多数の経塚が造営されたであろうことを想像させる』とある。
「大黑島」「み熊野ねっと」の『熊野本宮大社旧社地「大斎原」の石積護岸』によれば、『熊野本宮大社がもともとあった』『大斎原(おおゆのはら)』にある、古い『石積みの割石は、対岸に大黒島という石切り場があるので、そこから船で運ばれて来たものと考えられ』るとある。されば、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の東側の熊野川左岸に、この大黒島(読み不詳。「おほぐろじま」と仮に読んでおく)はあったものと考えられる。
「沙門良勝」不詳。
「散位」(さんみ/さんい)は律令制下で位階を持ちながら、官職に就いていない者の呼称。「散官」とも称する。もとは散位寮、後に式部省所轄とされ、臨時の諸使・諸役のために出勤したりした。但し、三位以上でありながら、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の孰れにも就任していない者を指す場合もあるので注意が必要である。
「秦親任」生没年未詳乍ら、文化庁の「国指定文化財等データベース」のこちらに、彼の関わった重要文化財「松尾社一切経(まつのおしゃいっさいきょう)」(京都府妙蓮寺蔵)としてあることが判った。その解説に、『『松尾社一切経』は、永久三年(一一一五)ころ、松尾神社の神主をつとめた秦親任をはじめとする秦氏の一族が発願し、二三年の歳月を経て、保延四年(一一三八)ころ、その子秦頼親のときに完成した一切経である』。『体裁は一部折本装に改められたものを除き、すべて巻子装で、茶表紙、朱頂軸など原装を存する。本文料紙は黄蘗染あるいは丁字染の楮紙を打紙し、淡墨界を施して用い、本文はおよそ一行一七字で書写される。本経の書写については、筆跡が多様であり、本経が秦氏一族を中心に京都周辺の僧俗を含めた数多の人びとによって書写が行われたことを示している』。『各巻末の書写・校合・読誦等に関する奥書は内容が豊富で、とくに『大方広仏華厳経』など計四七巻の奥書には、秦親任を長とする秦氏一族の名が詳しく記されており、当時の秦氏の族的結合を検討する際の好史料である。また校合は、保延五年(一一三九)から康治二年(一一四三)にかけて延暦寺や三井寺などの僧が奈良朝写経の梵釈寺本等を用いて厳密に行っており、本紙の継目表裏や紙背に平安時代末期の「松尾社/一切経」朱印や花押、あるいは「松尾社」などの墨書がみえることは、本書の書写校合の経過を考えるうえにも注目される』。『これらの経巻は「松尾宮読経所」において読誦等に用いられていたと考えられるが、伝来の過程で欠失した部分は他経をもって補われている。たとえば『大般若経』は、数種類の写経からなるが、うち一九巻には、紺紙の表紙と見返に金銀泥や金箔・彩色などで描かれた経意絵があり、十一世紀にさかのぼる作例としても貴重である。さらに松尾社の西方に接し、秦氏一族の勢力下にあったとみられる妙法寺において僧良慶が願主となり、平治元年(一一五九)から永万元年(一一六五)ころにかけて書写した経巻が少なくとも五二巻を数えるほか、「地蔵院一切経」「南都善光院一切経」の印文のある経巻なども含まれており、平安時代から室町時代にかけて一切経の読誦にともなう経巻の補充が盛んに行われていたことが知られる』。『この松尾社一切経は、嘉永七年(一八五四)三月、松尾社の「読経所」の閉鎖後、その所在が不明となっていたが、平成五年八月、立正大学中尾尭氏の調査により、妙蓮寺の宝蔵でまとまって発見され、本経が安政四年(一八五七)ころ、妙蓮寺の有力信徒によって寄進されたことなども明らかになった』。『このように本経は当初のままの姿を伝えた十二世紀の一切経遺品として、当時の京都周辺で行われた一切経書写事業の実態を併せ伝えて価値が高い』。『なお、附とした経箱は、ヒノキ材を用い、内側に黒漆を塗った被蓋箱三八合で、嘉暦二年(一三二七)の虫払の貼紙墨書や、文安四年(一四四七)の修理銘等から、鎌倉時代後期に製作され、本経巻を納めた経箱と認められるもので、本経の伝来を知るうえでも重要であり、併せてその保存を図ることとしたい』とある。
「圓龕」「龕」は、通常は仏像を納める厨子・仏壇のことを言う。経典は仏像と等価だから、問題ない。
「闇浮檀金」「えんぶだごん」と読み、「閻浮提金」とも書く。サンスクリット語の漢音写。閻浮提(えんぶだい:人間世界・現世のこと。世界の中心である須弥山の四方にある大陸の内、南方にあって、閻浮洲(えんぶしゅう)・南閻浮提・南贍部洲(なんせんぶしゅう)とも呼ぶ。金塊が埋まっている閻浮樹が生えているとされ、もとはインドを指した。ここは、その閻浮樹の林の下、或いは、そこを流れる川の底に産する砂金を指し、また、広く赤黄色を呈した良質の金をも言う語である。
「愛愍接取」(あいみんせつしゆ)。「愛愍」は「目上の者が目下の者を愛おしく不憫に思うこと」の意だが、ここは広大無辺の大慈大悲で洩れなく衆生に接してそれを掬い取る弥陀のそれを言う。
「瑞嚴殊勝」厳かな瑞兆に包まれて特に優れているさま。
「妖相」この場合は、限りなくあでやかな尊貌を言う。
「石井傳左衞門」不詳。
「藩主」当時は紀州藩第十一代藩主徳川斉順(なりゆき)。元清水徳川家第三代当主。江戸幕府第十四代将軍徳川家茂の実父。
『秦氏は「忌寸」の姓』「忌寸(いみき)」は天武天皇一三(六八四)年に制定された「八色の姓」(やくさのかばね:他に「真人(まひと)」・「朝臣(あそみ・あそん)・「宿禰(すくね)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」」で新たに作られた姓(かばね)で、上から四番目。国造系氏族である「大倭氏」・「凡川内氏(おおしこうちうじ)」や、渡来人系の氏族である「東漢氏(やまとのあやうじ)」・「秦氏」など、「元直(あたえの)姓」などの十一の「連」姓氏族が選ばれて、賜姓されている。その後、主として秦氏・漢氏の系譜を引く氏族に授与され、渡来系氏族に多い姓となっていった、と当該ウィキにある。
「秦始皇の後なるよし」ウィキの「秦氏」によれば、「日本書紀」で、応神天皇一四(二八三)年、百済より、『百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君』『を秦氏の祖とする』とするという。馬琴が言うように、平安初期の弘仁六(八一五)年に編纂された「新撰姓氏録」によれば、『「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが』、『その真実性には疑問が呈せられており』、『その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている』。『「弓月」の朝鮮語の音訓が「百済」の和訓である「くだら」と同音であることにより』、『百済の系統とする説などがある』とある。
『「親任」といふ名につきて、思ふに、土佐の長曾我部などの上祖にはあらぬか』ウィキの「長宗我部氏」によれば、『長宗我部氏は、室町以降、通字に「親」を用いた』。『中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し』、『土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦』したが、『元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し』、『改易され』、『盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は断絶したとされる』。『他家に仕えるか帰農した傍系の子孫が、現在に残っている』とある。
「熊野別當湛增が爲義の婿になりしは、これより少し後の事なり」湛增(たんぞう ?~正治二(一二〇〇)年?)は平安末期から鎌倉初期の僧。熊野第二十一代別当。第十八代別当湛快の子で紀伊国田辺を本拠地とし、熊野水軍を統率していたと思われる。権別当を経て元暦元(一一八四)年十月に別当となった。父は「平治の乱」(一一五九年)で平清盛を助け、姉妹は平忠度に嫁し、平氏方に味方していた。「平家物語」では治承四(一一八〇)年の以仁王謀反を平氏方に通報したとし、また、田辺の今熊野神社に祈請し、「鶏合(とりあわせ)」まで行って占い、漸く源氏に味方することを決心、水軍を率いて、文治元(一一八五)年二月、屋島の源義経に合流し、平家の士気を喪失させたとするが、実際には、治承四年には弟と戦って謀反を起こし、既にして平家を脅かし始めていたようである。文治元年三月の「壇の浦の戦い」にも参加し、延慶本「平家物語」では、源頼朝の外戚の姨母聟と記されている。建久六(一一九五)年五月には上洛した頼朝と対面をしている。建久九年、別当を辞した。「爲義の婿になりし」というのは、源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」が湛増の妻の母に当たることを混同した誤認である。]