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2021/09/01

芥川龍之介書簡抄134 / 大正一五・昭和元(一九二六)年六月(全) 十通

 

大正一五(一九二六)年六月一日・田端発信(以下の宛先の書き方から推定)・市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣

 

同憂同散 二三日中には參上すべし。鵠沼に一月ゐる間の客の數は東京に三月ゐる間の客の數に匹敵す。唯今 又々痔を起し、泉さんより贈られたるお百草を尻へあてがつてゐる。この間の句は改作した。(チヤコ樣によろしく。)

     破調

   兎も片耳垂るる大暑かな

按ずるに「垂らす」或は「垂らしたる」とSの音はひりては大暑の感じかぶさり來たらず。「垂るる」と改めたる所以なり。

    六月一日       芥川龍之介

   佐 々 木 茂 索 樣

二伸「春の外套」に對する題など痔を起してゐては考へられん。唯僕のとつときの題に「南京の皿」「咋日の風景」などあり。御用には立ち難からんも、次手を以て披露に及ぶこと然り。

 

[やぶちゃん注:「同憂同散」貴君と憂うる心を同じくともにし、また同じように気を散ずるばかりの日々であるの意か。「同憂」は熟語としてあるが、「同散」は知らない。

「泉さん」泉鏡花。

「お百草」筑摩全集類聚版脚注に、『百種の草をとって製したという薬剤。長野県の御岳山のものが有名』で、本来は『胃腸薬』であるが、『外傷には塗布する。黒いかたまりで、かなりの苦みがある』とある。「日本家庭薬協会」公式サイト内の「御岳百草丸」を読まれたい。

「チヤコ樣」佐佐木の妻は房子だが、或いは愛称か。

「春の外套」筑摩全集類聚版脚注に、『佐佐木茂索の第一短編集。大正十三年十一月金星社刊。芥川の序を載せる。その処女短編集に応じた書名を龍之介に頼んでいるのだが、こんな形で無作為の書名を乞うなどというのは、私にはちょっと意外の感がある。

「南京の皿」筑摩全集類聚版脚注では、『この題名が佐佐木茂索の短編集にえらばれた。昭和二年五月改造社刊』とあるのだが、これは誤りがある。この時、佐佐木が書名を求めた作品集は大正一四(一九二五)年新潮社刊の「夢ほどの話」に続くものであるが、結局、刊行が遅れ、龍之介の自死した翌年の昭和三(一九二八)年に改造社から「南京の皿」として出版されている。この書簡での恩師のそれに謝意を表する形で採用したものであることが、同原本の佐佐木の後書で判る(国立国会図書館デジタルコレクションの佐佐木による後記)。

 なお、鷺氏及び宮坂氏の両年譜に、この頃(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「芥川文の〈湯河原〉回想」に引用されている「追想芥川龍之介」(芥川文述・中野妙子記・昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊)では、『六月に入ってから』とある)、『文と也寸志を連れて湯河原へ一泊旅行に出かけ』、龍之介が定宿としていた『中西屋旅館に宿泊』しており、『文との旅行は、これが最初で最後のものとなった』(ここの引用は宮坂年譜より)とある。龍之介は文とたった一度しか、しかも子連れの一泊きりの旅にしか出ていないことは、あまり認識されているとは思われないので、特にここに書く。本来なら、鷺氏のコラムを引用したいのだが、実は来月分で、どうしても引用したい部分があるので(文夫人の著作権は存続している)、ここは、鷺氏の引用からその折りの内容をなるべく私の言葉で纏める形で示す。――宿に着くまでに既に龍之介は疲れていたという。一泊後、湯河原からの帰りの汽車(二等車でシートは車体と並行して横になっているタイプであったとある)で、龍之介は、たまたま乗客がいなかったそこで、シートの上に横になってしまった。文さんはこのたった一泊の旅にお礼を言いつつ、しかし、『もう一つ連れて行って頂きたいところがあります』と言ったそうである。「どこだ?」と問うた龍之介に、文さんは『奈良です』と応じた。すると、『主人はしばらくして、『ぜいたく言うな』と申しました』とある。引用の最後は文さんだけに真に理解できた切々たる感懐を表現されておられるので、引用する。――『神経も体も疲れ果てた主人に、こんなことを言う私を、あわれとでも思ってでもよいから、奈良へ連れて行ってくれるような、生きる力が出てほしい、との私の願いでもあり、また策だったのですが……』――]

 

 

大正一五(一九二六)年六月七日・田端発信・蒲原春夫宛

手紙をありがたう。君の病狀を下島さんに話したら、ヂフリスぢやないかと言つてゐたぜ。僕はもうそろそろものを書いてゐる。あした又鵠沼へ行く。月末にはかへる故、ゆつくり出京し給へ。

    六月七日夜      芥川龍之介

   蒲 原 春 夫 樣

二伸 御芳志のカステラ今とゞいた。ありがたう 渡邊によろしく。

 

[やぶちゃん注:「ヂフリス」Syphilis。シファレス。梅毒。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月八日(消印)・田端発信・小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣

 

spanish fly の見本は東京のうちへとどけてくれ給へ。今度は一週間――長くとも二週間位にはかへつて來る故。

 

[やぶちゃん注:「spanish fly」『小穴隆一 「二つの繪」(6) 「その前後」』、及び、『穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』の本文及び私の注を読まれたいが、小穴は龍之介がこれを自殺用に「スパニッシュ・フライ」の入手を望んだと断じている。しかし、自殺用劇薬を不在の田端に届けてくれという言うだろうか? という疑問が、まず、ある。或いは、鵠沼の自分に届けると、それを直ぐに使用しまう虞れを龍之介自身が回避したともとれなくはない。しかし、「スパニッシュ・フライ」は別に催淫剤としても古くから知られていた。されば、鵠沼でそれを用いずに、妻文と交合が出来れば、まずは、いらない、と龍之介が考えたともとれるのである。事実上、「スパニッシュ・フライ」による自殺例を、私は本邦の事例では知らないからでもある。ともかくも芥川龍之介自身の霊にそれを求めた真相を聴く以外には、あるまいよ。

 

 

大正一五(一九二六)年六月十一日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。いろいろ御敎誨にあづかり難有く存じます。眠り藥の方はこの頃又ものを書き候爲、用ひる癖あり弱り候。日曜日にでも土屋君と御一しよにお遊びにお出で下さるまじく候や。近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顏ばかり大きく體は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より兩限の間へ駈け來るに少々悸え居り候。頓首

    六月十一日      龍 之 介

   齊 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:覚醒直前のレム睡眠時の幻覚が記されており、それが複数回起ると述べている。これは精神科医である茂吉への書簡であり、大真面目な事実として捉えなければならない。しかも、それが一度ならず起こるというのは、かなり病的である(但し、この幻覚は平安末から鎌倉初期頃に描かれた病者を描いた絵巻物「病草紙」の、一般に「小法師の幻覚を生ずる男」と仮題されるそれとよく似ており、その記憶が形成した夢或いは幻覚とも思われる)。この時、龍之介は暫くやめていた睡眠薬を再び常用し始めていたから、その副作用ともとれるが、それが、覚醒後の状態にも強迫観念として強く残るというのは、強迫神経症が始まっている可能性を排除出来ないと私は思う。

「敎誨」(けうくわい(きょうかい))は教え諭(さと)すこと。

「土屋君」土屋文明。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月十四日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十四日 あづまやうち 龍之介(葉書)

 

君が來ないものだから(即君が來らずアロナアルロシュも來らざる故)けふもひどい下痢を二囘起し、へこたれて切て[やぶちゃん注:底本には「へこたれて」の「て」にママ注記がある。]仰臥してゐる。僕の甥今死にさうなれど動くこともならず。怨、モサとチヤコとにあり。化けて出るぞ。

 

[やぶちゃん注:睡眠薬不使用により睡眠出来ないことで下痢が起こるというのは、腑に落ちるようで、そうでもない。寧ろ、胃腸の蠕動運動が低下し、睡眠剤で便が硬くなることはあるかとも思われるが、下痢がひどくなるのは、睡眠薬を服用しないからだという理屈はやはり納得出来ない。その不審通り、新全集の宮坂年譜に、六月中旬の条に、『下痢が続き、月末まで悩まされる(のち大腸カタル』(現在の大腸炎)『と判明)。痔も併発して苦しみ、塚本鈴』(妻文と八洲の母)『が心配して』、同じ鵠沼で結核療養していた『八洲についていた看護婦を回してくれた』とあって、文末の怨み言は、八洲に迷惑をかけている龍之介自身への鏡返しとなってしまうことが判る(後の書簡参照)。さらに、『藤沢で開業していた医師、富士山(ふじ たかし)の診察を初めて受ける』『(但し、富士の回想では、初診は翌月』二十七『日とされる』とある。但し、以下の小穴宛書簡から、最後のそれは富士医師の記憶違いであることが判る。

「甥」文の実弟塚本八洲。

「モサ」佐佐木茂索であろう。

「チヤコ」やはり佐佐木の妻房子の愛称らしい。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十日・鵠沼発信・神崎淸宛

 

何よりも先に御厚志を難有う

君は好い日に來た。あの翌日以來腹を下し從つて痔を起し、一かたならぬ苦しみをした上、とうとう鵠沼のお醫者にかかつてしまつた。腹の止り次第一刻も早く歸りたい。僕はもう尾籠ながらかき玉のやうな便をするのに心から底から飽きはててしまつた。菅忠雄君曰痔の痛みなんてわかりませんね。僕曰、たとへばくろがねの砦の上に赤い旗の立つてゐるやうな痛みだ。わかる? わからなければ度す可らずだ。

    六月二十日      芥川龍之介

   神 崎 淸 樣

 

[やぶちゃん注:「神崎淸」(かんざききよし 明治三四(一九〇四)年~昭和五四(一九七九)年)は評論家。島本志津夫のペン・ネームも用いた。香川県高松市出身。旧姓は河野。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学し、同在学中の大正一四(一九二五)年に、大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に参加した。東京帝国大学文学部国文科を昭和四(一九二八)年に卒業後、大森高等女学校(現在の三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により、昭和五(一九三〇)年に退職に追い込まれ、以後、文筆業に就いた。島本志津夫名義で映画「女學生と兵隊」の原作も手がけている。敗戦後は、売春の研究や、「幸徳事件」(大逆事件)の究明を手がけ、「日本子どもを守る会」副会長や、「第五福竜丸保存平和協会」理事などの役職も務めた(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十日・消印六月二十一日・鵠沼発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アパートメント内 小穴隆一樣

 

拜啓、度々御手紙ありがたう。僕はここへ來る匆匆下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、とうとうここのお醫者にかかつてしまつた。お醫者の姓は富士、名は山、山は「たかし」と讓むよし、唯今弟についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、下痢のとまり次第歸京したい。一人で茫漠の海景を見ながら 橫になつてゐるのは實に寂しい。以上

    六月二十日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十二日・消印二十三日・鵠沼発信・東京市麹町區下六番町十番地文藝春秋此内 鈴木氏亨樣・六月二十二日 あづまやニテ 芥川龍之介

 

わたくしはけふの講演會へ出るつもりでゐましたが、腹を壞してゐる爲に出られません。元來講演と云ふものは肉體勞働に近いものですから、腹に力のない時には出來ないのです。甚だ尾籠なお話ですが、第一下痢をする時には何だか鮫の卵か何かを生み落してゐるやうに感ずるのです。それだけでもうがつかりします。おまけに胃袋まで鯨のやうに時々潮を吐き出すのです。そこで友人佐佐木茂索君にこの文章を讀んで貰ふことにしました。勿論佐佐木君は讀むだけではなく、佐佐木君自身の講演もされることと信じてゐます。若し万一されなかつたとすれば、どうか足を踏み鳴らして、總立ちになつてお騷ぎ下さい。右とりあへず御挨拶まで。

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜の六月二十二日の条に、『下痢のため、文芸春秋社の講演会の出席を断念する。佐佐木茂索に謝罪文の代読と講演の代演を依頼した』。『朝、佐佐木は芥川を見舞った後、海上の報知講堂に出かけて』以上の『謝罪文を読み、病状を説明した』とある。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラムによれば、この時のことを改装した佐佐木の「心覚えなど」という文章によれば、無論、『佐佐木は』代わりの『講演はしなかった』とあり、龍之介の病態を説明したところ、上記の『「鮫の卵」の条り』などで、『笑ったように』、『聴衆はなぜか時々哄笑をもって酬いてくれたという』と記されてある。而して、の日の午後十時頃、『鵠沼から田端の自宅に戻る』とある。症状がよくなったからではなく、恐らくは八洲の看護婦を横取りした形となったり、逆に八洲が見舞いに来て呉れたりした(次書簡参照)ことが堪えられなかったものとも思われる。年譜には、翌二十三日の条に、『午後、下島が来訪し、診察を受ける。大腸カタルによる衰弱が激しい』とある。

「鈴木氏亨」(しこう 明治一八(一八八五)年~昭和二三(一九四八)年)は小説家。宮城県仙台市出身。早稲田大学卒。雑誌『新小説』記者を経て大正一二(一九二三)年の『文藝春秋』創刊とともに編集同人となり、同時に菊池寛の秘書を務め、同社の経営に参画した。昭和三(一九二八)年には同社専務取締役となった。作家としては大衆小説昭和草双紙 江戶囃男祭(えどばやしとこまつり)(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年春秋社刊の単行本)の他、児童読物や、新国劇の戯曲、「菊池寛伝」などがある。戦時中は軽井沢に疎開した。]

 

 

大正一五(一九二六)年六月二十九日・消印三十日・田端発信・市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・六月二十九日 たぱた 芥川龍之介

 

前略君がかへつた翌日から又腹を下し、少からず難澁した。おまけに一人になつて(尤も甥が來てゐたが)今にも死にさうな氣がしたから、冷たい番茶を藥罐にしこみ、それを飮み飮み東京へかへつた。それから下島さんに見て貰つて少康を得たからきのふちよつと室生を訪問したら、忽ち又冷えたと見えてけふは下痢と軟便との中間位になつてしまつた。五月三日には傍聽にでも參上したいと思つたがどうだかわからん(五月三日と言へば御迷惑を相かけ候段不惡おゆるし下され度)腹の固まり次第鵠沼へ行き何か少しでも仕事をしたいと思つてゐる。下痢ほど身心とも力のぬけるものはない。字までひよろひよろしてゐるのはあしからず。

    六月二十九日     芥川龍之介

   佐 佐 木 詞 兄(コレハ德田流)

二伸 奧さんによろしく。栗のお禮をよろしく。尤もあれは腹下しの種になつたが。

 

 

大正一五(一九二六)年六月三十日・田端発信(推定)・下谷區上根岸百十一 小嶋政二郞樣

 

冠省御手紙ありがたう。僕目下胃のみならず大腸加太兒を起し居り、お醫者に相談した所、痔の手術をするにはもつと營養がよくならねば駄目のよし。する時には岩佐病院へ御紹介を願ふべし。兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。實は君の手紙を見てあの長さに感謝すると同時にあの長さをものともしない君の魄力に敬服してしまつた。何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらヘカラシを貼り、脚湯まで使つてゐるのだから。もうこれでおしまひ。どうか奥さんによろしく。美籠ちやんの顏も見ざること久し。大きくなつたらうなあ。

   六月三十日       芥川龍之介

   小嶋政次郞樣

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、小島政二郎の書簡に、痔の手術の病院(この「岩佐病院」と思われる)を紹介する文面があった旨の記載がある。

「美籠ちやん」「みこ」と読む。小島の娘。諸資料を見ると、当時、数えで、三歳ほどか。調べてみると、昭和三九(一九六四)年光風社刊の小島政二郎の単行本「悪妻二態」の装幀が小島美籠とある。しかし、昭和五四(一九七九)年中央公論社刊の小島の短編集「妻が娘になる時」という作品では、Kent Nishi氏の小島政二郎『妻が娘になる時』の懐かしさ」という記事によれば、当時、美籠は亡くなっているようである。小島は一種、文壇の情報屋的な一面を持っており、当該ウィキによれば、一九五〇『年代以後は、その発言・記述が文壇において物議を醸し、時に軋轢を生じる結果となっている。長く務めた直木賞選考委員も最期は事実上』、『解任されることとなり、長年の盟友であった佐佐木茂索からも遠ざけられた』とある。彼は満百歳で亡くなっているが、長生きし過ぎたという感がある。]

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