小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (14) 犯罪文學と怪異小說 / 江戶時代怪異小說
犯罪文學と怪異小說
所謂探偵小說と稱せらるゝ文學の中で『怪異』を取り扱つたものが『謎の解決』を取扱つたものと並んで、數多くあるのは、更めて言ふ迄もないことである。謎の解決を取扱つたものは主として人の好奇心を滿足せしめ、怪異を取り扱つたものは主として人の恐怖心を滿足せしむるために愛好せられるのであつた。恐怖心を滿足せしむるといふ言葉は少しく妥當でないかも知れぬが、人が平靜なる生活を營みつゝあるときには、恐怖によつて非常なる愉快を覺えるものであるから、强ち意味が通じないでもなからうと思ふ。恐怖を感じて滿足する性質は、原始時代から人間にこびりついて離れないものであつて、例へば嬰兒に向つて、突然『バアー』と叫んで之ををどすと、嬰兒は身體を搖ぶり乍ら嬉しがる。而もこの性質はどんなに世の中が進んでも、人間の存する間は決して消えるものではないらしく、從つて怪異小說はその起原が古いと同樣に、將來益々流行するものと見なして差支ないであらう。
怪異小說のうち最も重要な部分を占めて居るものは幽靈小說である。强ち怪異小說に限らず一般文學にも幽靈の出て來るものは甚だ多い。中にもシェークスピヤ、ヂッケンスの作物にあらはれる幽靈は世界的に有名である。而してこの幽靈には、特定の人にのみ見える幽靈と、誰にでも見える幽靈との二種類があつて、例へば沙翁の『ハムレット』の中に出るのは、幾人かの眼に觸れるけれども『マクベス』の中に出るのは、マクベスにしか見えないのである。前者は卽ち客觀的[やぶちゃん注:底本は「觀客的」。誤植と断じて訂した。]に存在する幽靈であつて、後者は卽ち主觀的に存在する幽靈であるが、むかしの文學には、多くの場合、客觀的に存在する幽靈が取扱はれ、主觀的な幽靈を取扱ふ場合にも、作者はやはり幽靈なるものが獨立に存するものと信じて居たらしい。
ところが主觀的に存在する幽靈と客觀的に存在する幽靈とは、心理學的には大きな差異がある。卽ち、主觀的の方は幻覺又は錯覺によつて說明することを得るけれども、客觀的の方は、心靈科學ならば、いざ知らず、心理學的には頗る說明の困難なるものである。卽ち前者は埋知に背かないけれども、後者は理知を超越して居る。理知を超越して居るからといつて、强ちその存在を否定することは出來ず、又文學の内容たり得ないといふ譯はないけれども、理知に背かね幽靈であるならば、その點だけても、それを取扱つた文學に餘計の藝術的價値があるやうに思はれる。
錯覺又は幻覺による幽靈は、通常良心の苛責、思念の迷執の際に見られるものであつて、人を殺した者が、殺された者の亡靈を見て、それに惱まされる例は、文學の上でも、實際の上でも、夥だしい數である。從つて、かやうな幽靈を取扱つた文學は犯罪文學として論ずる價値がある。で、私はこれから、日本の過去の怪異小說のうち、犯罪と關係あるものについて紹介しようと思ふのである。
江戶時代怪異小說
怪異を扱つたに日本文學として、古くは今昔物諧、宇治拾遺などを擧げることが出來るが、怪異小說の最も流行したのは江戶時代である。曩《さき》に私は、樓陰、鎌倉、藤陰の三比事を紹介したとき、これ等の犯罪文學は、支那の棠陰比事が日本に輸入され、棠陰比事物語として飜譯されて大に世に行はれて後、それにならつて作られたことを述べたが、江戶時代の怪異小說も、支那の『剪燈新話』が天文の頃に我國に渡來し、淺井了意によつて飜案され『御伽婢子(おとぎぼうこ)』の中に取り入れて出版され、大に世に歡迎されたのが、その流行の魁《さきがけ》となつて居る。御伽婢子の出版された寬文六年は棠陰比事物語よりも僅かに十五年の後であつて、この點に於て怪異小說は三比事と甚だ緣が深いといつてよい。
[やぶちゃん注:「剪燈新話」明の瞿佑(くゆう)の撰になる伝奇小説集。全四巻。一三七八年頃の成立。華麗な文語体で書かれ、唐代伝奇の流れを汲む夢幻的な物語が多い。後代の通俗小説・戯曲及び本邦の江戸文学に与えた影響が大きく、浅井了意の怪奇小説集「御伽婢子(おとぎぼうこ)」の一部や、三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」はその中の話の一部を翻案したものである。
「天文」一五三二年から一五五五年。
「御伽婢子(おとぎぼうこ)」は「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)。かく「御伽婢子」とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集。全十三巻。現在、ブログでオリジナルな全電子化注を進行中。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(晩年になって書き継いだ「伽婢子」の続編。後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。
「寬文六年」一六六六年。]
さて御伽婢子が出てから、怪異を取り扱つた物語に、棠陰比事物語が出てから三比事が出たごときではなく、實に、雨後の筍といつてよい程澤山あらはれたのである。實に天和以後享和に至るまで約百二十年の間に約四十種の怪異小說があらはれて居る。今そのうち數種の名をあげるならば、洛下寓居の新伽婢子(天和二年)井原西鶴の諸國咄(貞享二年)山岡元隣の古今物語評判(貞享三年)淺井了意(御伽婢子の作者)の狗張子(元祿四年)林文會堂《はやしぶんくわいだう》の玉箒木《たまははき》(元祿九年)靑木鷺水の御伽百物語(寶永三年)北條團水(晝夜用心記の著者)の一夜船《いちやぶね》(正德二年)近路行者《きんろぎやうじや》の古今奇談英草紙《ここんきだんはなぶささうし》(寬延二年)鳥有庵《ういうあん》の當世百物語(寶曆元年)上田秋成の雨月物語(安永五年)速水春曉齋の怪談藻鹽草(享和元年)などであつて、御伽婢子の流れを汲むものと百物語の流れを汲むものとの二大系統にわかつことが出來る。このうち最も人口に膾炙して居るものは、御婢伽子と、英草紙と兩月物語の三つであつて、就中、英草祇と兩月物語とは江戶讀本の父として激賞する人さヘある。
[やぶちゃん注:私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で以下の怪奇談作品をオリジナル電子化注している(作成順。太字は小酒井が挙げたもの)。「佐渡怪談藻鹽草」・「谷の響」・「想山著聞奇集」・「宿直草」・「北越奇談」・「老媼茶話」・「御伽百物語」・「諸國里人談」・「反古のうらがき」・「古今百物語評判」・「太平百物語」・「諸國因果物語」・「三州奇談」・「萬世百物語」・「金玉ねぢぶくさ」・「席上奇觀 垣根草」・「信濃奇談」・「御伽比丘尼」・「怪談登志男」・「怪談老の杖」である。他に、古い仕儀で、根岸鎮衛の「耳囊」の全電子化注・オリジナル現代語訳附きをものしてあり、別に独立カテゴリでオリジナル注附きの「宗祇諸國物語」も終わっている。また、サイト版では、小幡宗左衞門の「定より出てふたゝび世に交はりし事」オリジナル訳注や、上田秋成の「雨月物語」の青頭巾・オリジナル訳・オリジナル高等学校古典用授業ノート、さらに春雨物語 二世の縁 オリジナル訳注も公開している。序でに言っておくと、芥川龍之介の怪奇談蒐集稿「椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の完全版も古くに公開しており、自身が怪奇談蒐集フリークであることから、龍之介のそれに倣って、オリジナル擬古文怪談集「淵藪志異」もある。因みに、その中の第「二」番目の話は、雑誌『ダ・ヴィンチ』の一九九九年十一月号の「怪談之怪」に投稿し、京極夏彦・東雅夫・木原浩勝・中山市朗各氏の好評を頂戴し、自動的に「怪談之怪」の会員となった(現在は発展的に解消されているようである)。それは、メディアファクトリー 二〇〇六年刊の単行本「怪談の学校」にも収録されてある。
[やぶちゃん注:「天和以後享和」天和元(一六八一)年から貞享(小酒井は「貞亨」と誤っているが、訂した)・元禄・宝永・正徳・享保・元文・寛保・延享・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和四(一八〇四)年まで。
「貞享二年」一六八五年。
「元祿四年」一六九一年。
「林文會堂」林義端。
「寶永三年」一七〇七年。
「正德二年」一七一二年。
「近路行者」都賀庭鐘の筆名。
「寬延二年」一七四九。
「寶曆元年」一七五一年。
「安永五年」一七七六年。
「享和元年」一八〇一年。])などてあつて、御伽婢子の流れを汲むものと百物語の流れを汲むものとの二大系統にわかつことが出來る。このうち最も人口に膾炙して居るものは、御婢伽子と、英草紙と兩月物語の三つであつて、就中、英草祇と兩月物語とは江戶讀本の父として激賞する人さヘある。]
御伽婢子は剪燈新話全部二十篇の文章中から、十八篇を拔いて、地名人名悉く日本式に改め、わが國風に向くやうに飜案され少しも譯文らしい臭味がない。それは恰も、明治時代に黑岩淚香が西洋の探偵小說をその獨特の名文によつて飜譯したのに比すべきであつて、淺井了意と黑岩淚香とは、日本の探偵小說界に同じ位置を占めて居るといつても差支ないのである。御伽婢子は、前記の十八篇の外になほ四十九篇の物語が收められて、全部で十三卷となつて居り、雨月物語なども、二三題材をこゝに仰いで居る。(序ながら、剪燈新話の部分的な紹介飜案は御伽婢子以前に奇異雜談集のあることを申添へて置く。)
いづれにしても御伽婢子は江戶時代怪異小說の源泉であつて、その他の小說に收められた物語の題材はこれに似たりよつたりのものである。而してこれ等の怪異小說の描くところの内容は、どれも皆奇怪な、不可思議な幽幻境の中に、空靈[やぶちゃん注:「うつたま」と訓じておく。物質化しない神霊の魂か。]を活躍せしめ、或は因果應報の理を說き、或は訓誡の意を寓せしめて居るから、見やうによつでは一種の宗敎小說であり又敎訓小說であつて、前に紹介した三比事、兩用心記がやはり一種の敎訓小說であると同じやうに、現今私たちの求める探偵小說とは多少その趣を異にして居るのである。然し怪異小說は裁判小說詐欺小說とちがつて、人の恐怖心を刺戟することが主眼となつて居るのであるから、その點に於いて、現今の所謂探偵小說的色彩が、より濃厚であるといふことが出來よう。
然し乍ら、これ等の怪異小說は、幽靈や化物を取り扱ふについても、殆んど皆客觀的實在を是認して、主觀的の怪異を描いたものは曉天の星の如く寥々《れうれう》たる[やぶちゃん注: 数が非常に少ないさま。]ものである。從つて客觀的の化物を家常《かじやう》[やぶちゃん注:日常に同じ。普段、行われているありふれたこと。]茶飯事と心得て居るやうに思はせ、文學として甚だ價値の少ない、比較的低劣な藝術たらしめて居るのである。時として凄味たつぷりな叙述に身の毛をよだたしめても、やがて却つて滑稽な感を抱かしめ、折角の凄味を打ち壞してしまふ場合が少くない。この點に於て比較的多くの效果を收めて居るのは、古今奇談英草紙と雨月物語であつて、ことに雨月物語のうちには、エドガア・アラン・ポオの作品を思ひ起させるものがある。
これから私はこれ等の怪異小說から、主觀的怪異を取り扱つた物語、ことに、犯罪と關係ある物語を選んで、その内容を記術し、特に、英草紙と雨月物語とに就ては比較的委しい紹介を試みたいと思ふのである。
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