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2021/09/16

芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・芥川文宛

 

拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首

    三月朔        龍 之 介

   文 子 ど の

二伸 比呂志に西洋象棋を買つてやつた

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜の三月一日の条に、『谷崎潤一郎、佐藤春夫両夫妻とともに弁天座で文楽を観る』。『夜、佐藤夫妻は帰京する』が、『谷崎と二人で南地の茶屋で文学論などをしていると、内儀の紹介で』芥川龍之介のファンであった『根津松子が訪ねてくる。松子は、この時初めて谷崎と会い、二人はのちに結婚することとなった』とある。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム、自死の翌月に出た『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に載った、谷崎潤一郎追悼文「いたましき人」のからの抜粋があるので孫引きさせて貰う(略指示は鷺氏のもの)。『最後に会つたのは此の三月かに改造社の講演で大阪へ来た時であつた。(略)で、講演の夜は久しぶりで佐藤と一緒に私の家へ泊まり、翌々日は君と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で弁天座の人形芝居を見、その夜佐藤が帰つてからも君は大阪の宿に居残つて、『どうです、今夜は僕の宿に泊まつて一と晩話して行かないですか』と、なつかしさうに私を引き止めるのであつた。いつたい此れまで私などに対しては、あたたかい情愛も示さないではなかつたけれど、どちらかと云へば理智的な態度を取つてゐた人で、その晩のやうにひどく感傷的に人なつツこい素振りを見せるのは珍らしいことだつた。然るに君は人生のこと、文学のこと、友達のこと、江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出して、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、『自分は実に弱い人間に生れたのが不幸だ』と云ひ、『僕は此の頃精神上のマゾヒストになつてゐてね、誰か先輩のやうな人からウンと自分の悪い所をコキ卸してもらひたいんですよ』と云ひながら、その眼底には涙をさへ宿してゐた。 (略)君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちやうど根津さんの奥さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと言ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを簸[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「嵌」(は)の誤字或いは誤植。]めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた』とある。鷺氏の年譜では、この三月二日、三人でダンス・ホールへ行ったが、龍之介は『踊らず、二人の踊るのを見ているだけであった』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・葛卷義敏宛

 

冠省一度やつたものをとり上げ、まことにすまぬが、森さんの卽興詩人二册を小包にし谷崎氏へ送つてくれないか。宿所は文藝日記の末にあるべし。右當用のみ。小穴君によろしく。頓首

    三月朔        芥   川

   義 敏 樣

 

[やぶちゃん注:「森さんの卽興詩人」デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)が一八三五年に発表した小説(Improvisatoren )を森鷗外が擬古文訳したもの。「原作以上の翻訳」と評され、鴎外は本作のドイツ語訳を読み、「わが座右を離れざる書」として愛惜しており、ドイツ留学から帰国後、軍務の傍ら、丹精を込めて明治二十五年から三十四年(一八九二年から一九〇一年)の凡そ十年かけてドイツ語版から重訳し、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ここに出るのは初刊版「即興詩人」で、明治三五(一九〇二)年に春陽堂(上・下二巻)で刊行されたものであろう。筑摩全集類聚版脚注に、『文藝春秋』昭和二年九月号からとして、谷崎潤一郎が『死ぬと覚悟をきめて見ればさすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを』と述懐している旨の記載がある。後掲の谷崎書簡も参照されたい。

「文藝日記」昭和二年版「文藝自由日記」(文藝春秋社出版部・大正十五年十一月)というのがあり、ここには近年の流行作家の日記や日録が載っていたコラムとしていようである。今では考えられないプライバシー侵害だ。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月一日・大阪発信・齋藤茂吉宛

 

冠省岡さんより御手紙有之小生にも「庭苔」に就いて何か書けと仰せられ候まゝ二三枚相したゝめ御手もとまでさし上げ候なほ又下阪前短尺二三枚お送り申上候も御落手の事と存候右とりあへず當用のみ 頓首

    三月二日       龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「岡さん」「庭苔」前月分で既出既注

「二三枚相したゝめ」『「庭苔」讀後』。昭和二年四月発行の『アララギ』に発表された。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月六日・田端発信・靑野季吉宛

 

原稿用紙で御竟下さい。「新潮」の合評會の記事を讀み、ちよつとこの手紙を書く氣になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦樂」でも善いと言ひました。しかし「苦樂」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ觸れさせたい氣もちを持つてゐました。(最後の一囘以外が悉く山房内に起つてゐるのはその爲です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り、「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑聲を與へることは出來ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶錄」の中にあるマルクスやエングルスと會つた時の記事の中に多少の嘆聲を洩らしてゐます。わたしはわたしの大學生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企圖は失敗だつたかも知れません。少くとも合評會の諸君には尊臺を除き、何の暗示も與へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊臺にはこれだけのことを申上げたい氣を生じましたから、この手紙を認めることにしました。なほ又わたしはブルヂヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歎喜を除けば、多大の苦痛を與へるものと思つてゐます。これは近頃 Nicolas Ségur の書いた「アナトオル・フランスとの對話」を讀み、一層その感を深くしました。ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに驅りやつたものは「輕侮に近い憐憫」だと言つてゐます。右突然手紙をさし上げた失禮を赦して頂ければ幸甚です。頓首

    昭和二年三月六日   芥川龍之介

   靑 野 季 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「靑野季吉」明治二三(一八九〇)年~昭和三六(一九六三)年]は文芸評論家。新潟県佐渡生まれ。佐渡中学時代、幸徳秋水らの著作を通して社会主義思想に傾いた。早稲田大学英文科卒業後、大正一一(一九二二)年に評論「心霊の滅亡」を書き、本格的に評論活動を展開、後、『種蒔く人』・『文芸戦線』の同人となり、プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。ことに『「調べた」芸術』(大正一四(一九二五)年)と「自然生長と目的意識」(大正一五(一九二六)年)の二論文は、プロレタリア文学とマルクス主義運動との相関や創作上の問題などに指標を与え、初期プロレタリア文学に多大な影響を与えた。昭和一三(一九三八)年の「人民戦線事件」による検挙を機に転向した。戦後は「日本ペンクラブ」の再建や、「日本文芸家協会」会長に就任するなど、幅広い進歩的良識派として活躍した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「「新潮」の合評會の記事」筑摩全集類聚版脚注に、『昭和二年三月号所掲。芥川の「玄鶴山房」が批評された』とある。私は草稿附きの「玄鶴山房」を公開しているが、ここでは、その最終章「六」の末尾に「リイプクネヒト」を出した意図を龍之介自身が語っている重要な書簡である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の橋浦洋志氏の本作の解説によれば、同合評会で、『「六」における「リープクネヒト」の登場の意味が問われ、中村武羅夫は「芥川氏の一種の心境」をそこに認めつつも「作品全体をそのために書いてゐるとはいえない」としたが、青野季吉は「リープクネヒトを持つて来たのは何かある」と述べた』とあり、この好意的な発言に対して以上の書簡が書かれたのである。

「リイプクネヒト」ドイツ社会民主党の指導者ウィルヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht 一八二六年~一九〇〇年)ギーセン生まれで、同地やベルリンなどの大学で哲学・言語学を学んだが、社会主義やポーランド独立に関心を持ったために放校された。 一八四八年の「三月革命」に参加し、スイスを経て、一八六二年までロンドンに亡命した。その間、マルクスやエンゲルスと交際し、影響を受けた。帰国後、反ビスマルク運動でプロシアを追放され(一八六五年)、ライプチヒに移り住み、社会主義運動に尽力、一八六七年から一八七〇年までプロシア下院議員、一八六九年にはアイゼナハで「社会民主労働党」を創立した。「普仏戦争」では軍事予算採択に棄権、「アルザス=ロレーヌ併合」に反対し、投獄された (一八七二年~一八七四年)。 一八七五年には、ゴータで、マルクスの批判を無視してラサール派と合同し、「ドイツ社会主義労働党」を結成、一八七四年より没するまでドイツ帝国議会議員を務めた。その間、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」に対する反対運動を指導し、同法を無効にさせた。同法廃止(一八九〇年)後、合法政党として改名した「ドイツ社会民主党」の中央機関誌『前進』の主筆を務め、修正主義派と対決した。主著に「カール=マルクス追想録」(一八九六年)などがある。後のドイツの左派社会主義運動の指導者で、ポーランド及びドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 一八七〇年~一九一九年)とともにベルリンで虐殺されたカール・リープクネヒト(Karl Liebknecht 一八七一年~一九一九年)は彼の子である。なお、現在の芥川龍之介研究では、このコーダで重要な登場人物重吉が読んでいるのは、上記「追想録」であるとされている。

「苦樂」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『プラトン社から』大正一三(一九二四)『年一一月に創刊された雑誌。中間小説、随筆を主に掲載した』とあり、龍之介の言う「或人」はプロレタリア文学家・劇作家で、後の日本社会党参議院議員となった金子洋文(ようぶん 明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九八五)年)で、『「「リープクネヒト」でも「苦楽」でも同じ」と評した』(出典不詳。龍之介の言い方からは前記合評会ではなく、別な批評と推定される)とある。

『「櫻の園」の中に新時代の大學生を點出し、それを二階から轉げ落ちることにしてゐます』アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Анто́н Па́влович Че́хов/ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)晩年の名作戯曲(Вишнёвый сад :一九〇三年秋決定稿・初演一九〇四年一月モスクワ芸術座)の第三幕の中間部で、「永遠の学生」トロフィーモフが無様に階段から転げ落ちるシーンが、舞台外の落ちる音で示される。

『Nicolas Ségurの書いた「アナトオル・フランスとの對話」』ギリシャ生まれでフランスで活動し、アナトール・フランスと親しかった批評家ニコラ・セギュール(一八七四年~一九四四年)の随想録‘Conversations avec Anatole France ou les melancolies de l'intelligence ’(アナトール・フランスとの対話:知性の愁い)前掲書で石割氏は、この前年の『一九二六年、Lewes May による英訳本が刊行され』ていた、とある。ジェームス・ルイス・メイ(James Lewis May  一八七三年~一九六一年)は作家・翻訳者・出版者。

  なお、子の日の翌日三月七日に、秀作「誘惑――或シナリオ――」を脱稿している。リンク先は私の詳細注附きサイト版。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月十一日・田端発信・谷崎潤一郞宛

 

冠省、先日來いろいろ御厄介に相成りありがたく存じます。どうも御迷惑をかけすぎたやうな氣がして恐縮です。本は御氣に入れば幸甚です。實は善いゴヤを見つけ、さし上げようと思つたのですが、金がなくてあきらめました。Los Caprichos の複製です。唯今大いに筋のあるシナリオを製造中 頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   谷 崎 潤 一 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「本」前掲の森鷗外訳の「即興詩人」。

「Los Caprichos」スペインの巨匠フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 一七四六年~一八二八年)の版画集で「気まぐれ」。一七九九年に第一版が刊行された。私も非常に好きなダークでグロテスクなブラック・ユーモアの作品群であるが、今でこそゴヤの代表作とされるものの、刊行当時は殆んど注目されなかった。英語版ウィキの「Los caprichos で全八十枚の画像が見られる。

「筋のあるシナリオ」日付から、三月十四日脱稿の私の偏愛する「淺草公園――或シナリオ――」。]

 

 

昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に存じ候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故[やぶちゃん注:「餘り」に「傍」(はた)が、「齒痒」(はがゆ)「き故」(ゆゑ)。「余りに先生を取り巻く周囲の人々の反応が鈍くてじれったくてたまらないものですから」の意。何を指して言っているものかは不詳。芥川龍之介が、この直近で直接に茂吉に係わる公開記事を書いた形跡はない。この前に茂吉宛に送られた書簡があったものとすれば、腑には落ちるのだが。]、ペンを及ぼし候次第、高況を得れば[やぶちゃん注:「相応なる御共感をお感じ戴けるものならば」の意。同前。]幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙擊したる和田久太郞君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢ひにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冱え返る枝もふるへて猿すべり

    三月二十八日     龍 之 介

   齋 藤 樣

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では『鵠沼から』とあるが、「今日は午後より鵠沼へ參る筈」という言い方から、田端で書信は認め、藤沢辺りで投函したものかと思われる。されば、標題は以上のようにした。この前後を新全集年譜を参考にして示しておく。

三月十七日 仕事場にしていた帝国ホテルから帰宅した(何時から滞在していたかは不明)。

三月二十日(日曜日) 外出し、そのままこの日は外泊して翌日田端に帰っている(外泊先不詳。怪しい。小町園の可能性は有るだろう)。

三月二十三日 「齒車」(リンク先は私の草稿附きサイト版)の「一 レエン・コオト」脱稿(これのみが昭和二(一九二七)年六月一日発行の雑誌『大調和』に「齒車」の題で「一 レエン・コオト」として掲載された。全章は、芥川龍之介の死後、同年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』にこの「一」も再録して、全六章が改めて「齒車」の題で掲載された)。

三月二十七日(日曜日) 「齒車」の「二 復讐」を脱稿。

三月二十八日(当書簡当日) 借家の整理もあって、鵠沼に出かけ、翌四月二日まで六日まで滞在した。これを以って芥川龍之介は鵠沼を引き上げている。この日、「齒車」の「三 夜」及び「たね子の憂鬱」(こちらは五月一日発行の『新潮』に発表)を脱稿。

三月二十九日 「齒車」の「四 まだ?」を脱稿。

三月三十日 「齒車」の「五 赤光」((しやくくわう(しゃっこう))を脱稿。三月末に宮坂年譜には、『この頃、岡本かの子と』、『偶然』、『列車で同乗になる。近くにいた子供に「オバケ』!」『と言われた』とある。これは、岡本かの子の小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文學界』初出)の最後の方に出現するものだが、私は同小説は相当に創作された部分が多く、一次資料とするには頗る信用性が低いと考えている(青空文庫のこちらで新字新仮名で読める)。但し、確かに、そこに描かれた瘦せ枯れて妖気さえ放っている感じは、この晩年の鵠沼時代の龍之介のそれと酷似しては、いる。

『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』芥川龍之介の書簡の中では、「河童」への強い自信(但し、「この程度のものなら、幾らでも製造出来るぜ!」という芥川龍之介自身がずっと以前に自戒したところの悪しき自動作用的な安易さも大いに私は感じるのである)の見える一つとして、しばしば引かれるものである。しかし、それに反した『みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候』という後の一節が、これまた、真逆の病的なまでの自信喪失の表明とも言える、龍之介の心内のアンビバンンツなものを図らずも表出させてもいるのである。

「一休禪師は朦々三十年と申し候へども」は「一休話」の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の一節を指して言っているものと思われる。

   *

 朦々然而三十年

 淡々然而三十年

 朦々淡々六十年

 末後脫糞捧梵天

  朦々然として三十年

  淡々然として三十年

  朦々淡々 六十年

  末期の脫糞 梵天に捧ぐ

   *

「朦々」とは、この場合、「心がぼんやりとすること」で、「迷いに迷って」の意。「淡々」は悟りの境地を指している。但し、あまりに一休然とした破格の詩句は逆に似非物のようにも感じられる。この部分は、「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)」でも引いている。

「この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に𢌞轉する事あり」「又」とあり、齋藤にこの症状を、一度、話していることが判る。この異様な視覚障害が「齒車」という作品名の由来であり、龍之介自身がこの書簡で述べているように、彼自身、それが重篤な精神疾患(龍之介が最も恐れていた実母から遺伝していると誤認していた「発狂」の素質)の初期症状かと怯え、素人の読者もそこに彼の異常を読む方が甚だ多いのだが、これはとっくの昔に、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状であることが解明されている。龍之介と同様にこの「齒車を誤解していたのが、宇野浩二で「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」にそれが出てくる。そこでも注したが、より詳しくは、『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』の私の『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』の注がよいだろう。にしても、それを、眼科医に相談し、何ら気にすることはないと助言してやるべきであったのは齋藤茂吉であり、精神科医としては当然やるべきことをしていない、という気が私はするのである。脳の中枢神経との関連性や視覚異常の機序は判っていなかったとしても、非常に古くからあったから、知らなかったとは言わせない。寧ろ、重篤な精神疾患の初期症状としてあり得ると思い、茂吉は逆に黙っていたのかも知れない。

「福田大將」福田雅太郎(慶応二(一八六六)年~昭和七(一九三二)年))は日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。大村藩士の二男として現在の長崎県大村市に生まれ、大村中学校・有斐学舎を経て、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉に任官し、歩兵第三連隊付となり明治三一(一八九三)年陸軍大学校を卒業した。「日清戦争」では第一師団副官として出征し、後にドイツに留学、「日露戦争」には第一軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前より田中義一らとともに対露早期開戦派であった。後、歩兵第五十三連隊長などを歴任し、明治四四(一九一一)年、陸軍少将に進級、大正五(一九一六)年、陸軍中将。欧州出張や第五師団長・参謀本部次長・台湾軍司令官などを歴任して陸軍大将に進級した。軍事参議官となり、大正一二(一九二三)年九月の「関東大震災」には、関東戒厳司令官を兼務したが、在職中の「甘粕事件」で、対処不手際を問われ、司令官を更迭された。大正一二(一九二四)年の第二次山本内閣退陣に伴う清浦内閣組閣に際しては、上原勇作から陸軍大臣に推挙されたが、田中義一らの工作により、就任は叶わなかった。同年九月一日、「甘粕事件」での大杉栄殺害を怨んだ無政府主義者和田久太郎(明治二五(一八九三)年昭和三(一九二八)年二月二十日自死:彼については次に注する)によって『狙撃されたが、無事であった。大正一四(一九二五)年五月にも福岡市』でも『再び狙撃されたが、無傷であった。同月、予備役編入(当該ウィキに拠った)。

「和田久太郞」当該ウィキによれば、『温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称』した。『兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず』、十一『歳から大阪北浜の株屋に丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら』、『実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また』、十五『歳のころから俳句をたしなんだ』。『売文社に入社して、堺利彦や大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスム』(フランス語:Syndicalisme:労働組合主義)『を熱心に研究し、久板卯之助』(ひさいたうのすけ)とともに、「日蔭茶屋事件」(複数の女性達から常に経済的援助を受けていた社会運動家大杉栄が、野枝とその子どもに愛情を移したのを嫉妬した、神近市子によって刺された事件)で『人望を失った大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった』。『社会の底辺の人々を愛し』、「無政府主義伝道」と称して、『全国を流浪して体を壊したため』、大正一二(一九二三)年二月頃から五月まで、『栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階の娼婦堀口直江と恋に落ちて、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた』、大正十二年九月一日に起こった『関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では』、『大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤』し、「彼の仇を討つ」『という名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎の暗殺を、ギロチン社』(大正十一年に結成されたテロリスト組織)『の古田大次郎や村木ら』四『名と計画。和田らは』、『福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた』。『初めは爆弾テロを計画して、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験するも不発』であったため、『ピストルでの襲撃に切り替え』、翌年の『震災の一周年忌に、東京本郷三丁目のフランス料理店』『燕楽軒』『で福田大将を待ち伏せした。しかし』、『初弾は安全のために空砲が装填されていたことを和田』が『知らず、至近距離からの発砲であったが』、『失敗』し、『大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ』、殆んど無傷で『逮捕された』。大正一四(一九二五)年、『上記罪状の併合罪』で『無期懲役判決』を受けた。『余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」』『と憤慨した』。但し、『翌年の大正天皇の崩御により』、『恩赦があり、懲役』二十『年に減刑された』。『最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作』「獄窓から」は昭和二(一九二七)年三月に労働者運動社から『出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた』とある。芥川龍之介は『獄中の俳人 「獄窓から」を讀んで』を昭和二(一九二七)年四月四日附『東京日日新聞』に掲載しており、これは、それを指す。ちょっとびっくりしたが、幸いにして、サイト「釜ヶ崎資料センター」内の「趣味のA研資料室」の「獄窓から-増補決定版 和田久太郎著 近藤憲二編 黒色戦線社補 197191日 黒色戦線社」とあるページでPDFで当該書籍のほぼ全てが視認出来、しかも、ここの9コマ目に芥川龍之介の当該書評の切抜が全文載るので読まれたい(但し、新字旧仮名である)。ダウン・ロード必須! 『しかし』、『和田は長く肺病を患っており、古田の刑死』(彼は『福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺してい』たので量刑が重かった)、『村木の病死を知って悲観し』、昭和三(一九二八)年二月二十日午後七時頃、『看守の目を盗んで自殺した』。

 もろもろの惱みも消ゆる雪の風

が秋田刑務所での『 和田久太郎の辞世の句』とされる。『和田の遺骸は、労働社の近藤憲二』『らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた』とあるものの、注で、『現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明』とある。――草の葉の蔭に消えたり久太郎――

「しんかんとしたりや蚤のはねる音」大正一四(一九二五)年八月の句。前掲のリンク先の句集「鐵窓三昧」PDF)の7コマ目上段「八月」の四句目であるが、

   日影の匂ひ

 しんかんとしたりやな蚤のはねる音

で、前書があり、中七も字余りの破調である。破調の方が俄然いい。暑熱の陽の匂いも、より、むんむんしてくるではないか!

「のどの中に藥塗るなり雲の峯」同年六月の句。6コマ目下段四句目。

「麥飯の虫ふえにけり土用雲」同年八月の句。7コマ目下段冒頭であるが、表記は、

 麥飯の蟲殖えにけり土用雲

で断然、「蟲」「殖」の方がいい。この「蟲」はコクゾウであろう。蒸された中に一緒に彼奴らが死んで入っているのだ! 芥川龍之介は「蟲」の字が生理的に嫌いだった可能性が頗る高いので、書き換えたのは腑に落ちる。

「あの霜が刺つてゐるか痔の病」同年一月の句。3コマ目下段五句目。

「何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)」前掲書の石割氏の注に、『菊池寛・芥川龍之介編集『小学生全集』全八八巻(一九二七年五月―一九二九年一〇月、興文社刊)』を指すとある。筑摩全集類聚版脚注も同じ、「全集」ではあるが、小学生の広義の「讀本」の形式であるから、おかしくはない。石割氏は、続けて、『同時にアルスから『日本児童文庫』全七六巻も刊行された』と注してあるが、これは研究者自明の端折り過ぎで、所謂、全く同時に(同日に並んで広告が出た)同様の叢書が別々に刊行され、円本ブームに乗った熾烈な販売合戦が展開された、出版界でも知られた騒動を言っているのである。芥川龍之介も見事に巻き込まれることになってしまう。新全集年譜の四月中旬の箇所に、『アルス『日本児童文庫』(七〇巻)と興文社『小学生全集』(八〇巻)の間で誹謗中傷合戦が起こ』り、『芥川は前者からは執筆を、後者からは編集を依頼されており、大いに神経を痛めた』とあり、龍之介にとっては、やっと終息させた「近代日本文藝讀本」の悪夢が再来する思いがあったに違いないこの告訴にまで発展してしまう事件に興味のある方は、中西靖忠氏の論文菊池寛と児童文学」PDF・『高松短期大学研究紀要』第十二号(昭和五七(一九八二)年三月発行所収)のを読まれるとよい。また、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 アリス物語」という驚きの「不思議の国のアリス」の邦訳を電子化(分割・全十二回)しているが、何を隠そう、これはまさに、その「小学生全集」の一冊(第二十八巻・リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)なのである。発行は芥川龍之介の自死後の昭和二年十一月であるが、研究者によって、前半の一部は間違いなく芥川龍之介が訳しているものと推定されているものなのである。 

「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。」これも、しばしば引かれる芥川龍之介の書簡の一節である。私はこれを眺めていると、私は「河童」の「六」の冒頭、

   *

 實際又河童の戀愛は我々人間の戀愛とは餘程趣を異(こと)にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は氣違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見(み)じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床(とこ)についてしまふのですから。僕は或時僕の家にトツクの詩集を讀んでゐました。するとそこへ駈けこんで來たのはあのラツプと云ふ學生です。ラツプは僕の家へ轉げこむと、床(ゆか)の上へ倒れたなり、息も切れ切れにかう言ふのです。

 「大變だ! とうとう僕は抱きつかれてしまつた!」

 僕は咄嗟に詩集を投げ出し、戶口の錠(ぢやう)をおろしてしまひました。しかし鍵穴から覗いて見ると、硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童が一匹、まだ戶口にうろついてゐるのです。ラツプはその日から何週間か僕の床(とこ)の上に寢てゐました。のみならずいつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしまひました。

   *

というシークエンスを思い出すのを常としている。寧ろ――龍之介よ……君はこれ以前に動物的エネルギイを過剰に使い過ぎたのではなかったか?……

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