伽婢子卷之九 金閣寺の幽靈に契る
[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」のものをトリミング補正して、適切な位置に配した。]
○金閣寺の幽靈に契る
中原主水正(なかはらもんどのかみ)は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。
大永乙酉(きのととり)[やぶちゃん注:一五二五年。将軍は足利義晴であるが、最早、戦国時代前期。]彌生ばかりに、思ひ立《たち》て、霞を分つゝ、北東の山路(《やま》ぢ)にさすらひ、暮ゆく春の名殘を慕ふ。
北白川檜垣(ひがき)の森、櫻井の里氷室(ひむろ)山、岩倉谷(いはくらたに)きつね坂、八鹽岡(やしほのをか)、比叡橫川(よかは)、片岡の森、鬼が城、大原、音無(をとなし)の瀧、志津原、朧淸水(おぼろのしみづ)、市原野邊(《いちはら》のべ)、暗部(くらぶ)山を、打めぐり、鹿苑院(ろくをんいん)に行き至る。
世に金閣寺と號す。征夷大將軍源義滿公、この地に家づくりして移り住み給ひしも、薨去の後、直(すぐ)に寺となし給へり。
庭の築山(つきやま)、泉水の立石《たていし》、まことに、古今絕景の勝地として、たぐひなき所なり。
中原、こゝまで浮かれ來て、日、巳に暮らして、朧月、東のかたに出れば、「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」と、花に移ろふ月の光に、木の本も立ち去りがたくぞ、覺えし。
里の家に宿は借りけれ共、いも寢られず、砌(みぎり)をめぐり、苔路(こけぢ)を踏んで、金閣のもとに至りぬ。
去ぬる應永十五年[やぶちゃん注:一四〇八年。]、義滿公の薨じ給ひしより、既に百十八年、そのかみ、さしも、にぎにぎしかりけるも、君おはしまさずなりけるより、すむ人も、やうやう、稀になり、礎(いしずゑ)、傾(かたふ)き、柱、朽ちて、僅かに、金閣のみ、昔の色を殘したり。
主水は軒に立ち寄り、欄干によりかかりて、昔を思ひ、今を感じて、ふけゆく月に、打うそぶきつゝ、古木(こぼく)の櫻花、少し咲たるを見やりて、
櫻花いざ言問はん春の夜の
月はむかしも朧なりきや
[やぶちゃん注:中原主水正の向こうに既にして、二人の女の墓が描かれてある。]
かゝる所に、ひとりの女、其の齡(よはひ)、十七、八と見ゆるが、半者(はしたもの)一人召し具して、閣のもとに來れり。
桂の眉墨、雲《くも》のびんづら、たをやかなる姿かたち、美しさ心も、詞も及ばれず、いふばかりなくあてやかなるが、
「如何なる事ぞ。」
と、忍びて見ければ、此の女房、いふやう、
「金閣ばかりは故(もと)のごとくにして、庭のおもては、風景、變らず。但、時移り、世變はり、そゞろに昔の戀しきのみ、おもひつゞくるこそ悲しけれ。」
とて、泉水のほとりに休らひて、津守國基(つもりのくにもと)、花山(くわさん)に行きて、僧正遍昭が古跡のさくら、散りけるを見て詠みける古歌を吟詠す。
あるじなき住みかに殘る櫻ばな
あはれむかしの春や戀しき
主水正、此の吟聲を聞くに、胸とゞろき、魂(たましひ)きえて、心も、そぞろにまどひつゝ、うつゝなき中より、
さく花にむかしを思ふ君はたぞ
今宵は我ぞあるじなるもの
と、よみて、立ち向へば、女房、さらに驚く氣色なく、いとさゝやかななる聲にて、
「初より、和君、此所《ここ》に在(おは)する事を知り侍べりて、みづから、こゝに來りて見え參らする也。」
といふ。
大にあやしみて、其名を問へば、女、こたへていふやう、
「みづから、人間(にんげん)に捨てられて、已(すで)に年久し。此の事を語り侍べらば、和君、さだめて驚き怖れ給はん。」
といふに、主水正、此言葉を聞きて、
『扨は。是れ、人間にあらず。山近く木玉(こたま)の現れしか、狐のなれる姿か、然らずば、幽靈ならん。』
と思ふに、形の美くしさに、心、解けて、露、おそろしき事、なし。
「如何でか、驚き怖れ侍べらむ、只、有の儘に語り給へ。」
といふ。
女房いふやう、
「みづから、畠山氏(はたけやまうぢ)の家に生まれ、いにしへ、義滿公、この所に引籠り給ひし時、宮仕へせし者なり。年二十にして、むなしくなり、君の御憐れみ、深くて、この院の傍らに埋(うづ)み給ふ。今宵は追福の御事《おんこと》によりて、從一位(じゆ《いち》ゐ)良子禪尼(よしこぜんに)の御許に參りぬ。是は、義滿公の御母にておはします。その座、久しくて、今、漸く、ここに出來り侍り。」
とて、半者に仰せて、筵(むしろ)・しとねを取り敷かせ、酒・菓(くだもの)をめし寄せ、閣の庇に向ひ坐して、
「今夜の花に今夜の月、如何で空しく送り明さむ。」
とて、酒、のみ、語り、遊ぶ。
半者、哥、うたひ、盃(さかづき)の數(かず)、重なれり。
女房、打ちかたぶきて、
明行かば戀しかるべき名殘りかな
花のかげもるあたら夜の月
と、詠みて、打ち淚ぐみけるを、主水正、心ありげに思ひて、
いづれをか花は嬉しと思ふらむ
さそうあらしとをしむ心と
女房、袖かきをさめて、
「君は、みづからが心を引み給ふと覺ゆる歌ぞかし。世をさり、え久しく埋もれし身の、又、立返り、君に契らば、死すとても、朽果てはせじ。」
と睦まじく語らひける程に、月は、西の嶺にかくれ、星は、北の空に集まる頃、西の庇(ひさし)に移りて、女房、わりなく思ふ色あらはれ、暫し、もろ友に枕を傾けしに、春の夜の習ひ、程なく時の移りて、鳥の聲三たび鳴きつゝ、花より白む橫雲の、嶺に棚びくころになれば、互に淚を拭ひて、起き別れたり。
晝になりて、そこら、見めぐらせば、院の傍に古(ふり)たる卒都婆(そとば)ありて、苔むしたる塚に、朽ち殘り、塚の左に、小さき塚、並べり。
是れ、はしたもの、其ころ、悲しみて、打續き焦がれ死せしを、人々、憐れがりて、同じ所の塚の主(ぬし)になしたる、となり。
主水正、憐れにも悲しくて、家に歸らん事を忘れ、又、其の夕暮れに、閣のほとりに立ちめぐれば、女房も、あらはれ出《いで》て、手を取り組み、淚を流して、語るやう、
「みづから、君が心の情を感じて、只、其夜の契をなし、かづらきの神かけて、晝を厭ふぞ心憂き。」
など言ひければ、男も、
「何かをば厭ふ。」
とて、
「只、うば玉の夜ならで、契をかはす道なしとや。よひよひごとを待《まつ》も苦しきに、誰《たれ》を人目の關守になし、忍ぶなげきを、こりつむべき。」
など、語らひ、是より、夜每に、こゝに出逢ふ。
二十日ばかりの後は、晝も出て、語り遊ぶ。
主水も官に仕ふる身なれば、都に歸りて、日每に行きかよふ。
終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り。
[やぶちゃん注:縁にいる下女は主水主の使い女。]
其身持ち、よろづ愼みて、物言ひ・言葉のしな、才知有り、主水が一族に、まじはりを親しく、内外に召使ふ女童(《めの》わらは)まで、恩を與へ、惠みを厚くし、隣家(りんか)の嫗(うば)までも、隨ひ、いつくしみ、此女房に心をとけずと言ふ事、なし。
衣(きぬ)縫うふわざ・物かき、うとからず、かろがろしく他人にまみえず。
「まことに。主水は淑女のよきたぐひを求めたり。」
と、人皆、羨みけり。
かくて、三とせの後、七月十五日、女房、いふやう、
「半者(はしたもの)は、我が住みける方(かた)の宿守(やどもり)せさせて、殘しおきぬ。さこそ、待ちわぶらめ。今日は、金閣に行きて、こととひ侍らん。」
とて、酒とゝのへて、主水、女房を打ちつれて行く。
日、已に暮れて、月さやかにして、東の山に出れば、池の蓮(はちす)は南の池に開け、柳は枝垂れて露を含み、竹は風にそよぎけるに、半者(はした)出むかうて、いふやう、
「君、已に人間に返り遊ぶ事、已に三とせにして、たのしみを極めながら、御住みかをば、忘れ給ふか。」
と恨めしげに言ひければ、三人つれて、閣の西の庇に行きて、女房、なくなく、主水に語るやう、
「君が情《なさけ》の深きに引れて、三とせの月日は、隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て、猶、飽くことなき契りの中(なか)らひ、今宵を限りに、永く別れ參らせむ。みづから黃泉(よみぢ)の者ながら、此の世の人に馴るゝ事、宿世(すぐせ)の緣淺からぬ故ぞかし。今は、緣、つき侍べれば、別れをとり參らする也。若《も》し又、是れを悲しみて、强ひてこゝに留まりなば、冥府(みやうふ)の咎めも如何ならん、君をさへ、惱まし侍べらん禍(わざはひ)、必ず、遠かるまじ。」
とて、互いに淚を流しつゝ袂も袖も絞りけり。
巳に曉の八聲《やこゑ》の鳥も打ち頻り、鐘の音、響き渡りしかば、女房、立ち上がり、蒔晝の箱に、香爐をいれて、
「これは、此程の形見とも、見給へ。」
とて、なくなく別れて、古塚(ふるつか)の方(かた)に行く。
猶も、名ごり惜しみて、立ち戾り、見かへりて、煙(けふり)の如く、消失せたり。
主水、胸焦がれ、身悶えて、悲しき事、限りなく、血の淚を流して、慕へ共、かなはず。
家に歸りて、僧を請じ、「法華經」よみて、吊(とふら)ひ、一紙(《いつ》し)の願文(ぐわん《もん》)を書《かき》て、供養を遂げ侍べり。其詞に、
[やぶちゃん注:以下の詞章部引用は、底本では全体が一字下げ。「*」で挟んでおいた。]
*
維(これ)、靈(みたま)は、生まれて、よきたぐひ、郡(ともがら)にこえ、妍(かほよき)すがた、仙(やまひと)に似(にれ)り。花の鮮(あざやか)なる玉のうるはしき、みな、この靈(みたま)の形(さま)に、うつせり。住昔(そのかみ)、金(こがね)の扉(とぼそ)に宮仕へ、如今(いま)は荒れたる墳(つか)に埋(うづ)もれり。篠(しの)薄(すゝき)のもとに住み、狐(きつね)兎(うさぎ)のゆくに忍ぶ。花、落ちて、枝に返らず、水、流れて、源に來らず。日かげ傾き、月めぐれ共、精靈(くはしきみたま)は泯(ひた)けず。性(たましひ)、もの識ること、長(とこしなへ)にいます。魂《たましひ》を返す術(たむけ)はなしに、姿をあらはす功(いさをし)あり。玉のさし櫛(くし)、くれなゐの襜(うちぎ)は、色うるはしく、にほひ、殘れり。松の千歲(ちとせ)、常盤(ときは)、かはらず、喜びを、同じく偕(とも)に老なんことを思ひしに、如何に逢(あふ)て、又、別れたる。雲となり雨となりし朝なゆうなのうらみ歎くに、その跡を失へり。しるしの塚(つか)に向へども、聲をだに、まだ、聞かず。後の逢瀨、いつか、繼(つが)ん。雁の聲、わづかに悲しみを助け、螢の光、只、愁へを弔(とふら)ふ。姿、隱れ、なさけ、絕《たえ》て、むなしき空に、霧、ふさがり、星、くらし。心の底は糸のみだれ、淚の色、くれなゐを染めて、悲しみの中に、經、讀み、花を手向く。靈(みたま)、よく、うけ給へ。鳴呼、悲しきかな、痛ましき哉、こひねがはくは、よく、うけ給へ。
ともす火やたむくる水や香花を
魂(たま)のありかにうけて知れ君
主水正、是より、官職を辭退して、獨り淋しき床に起き臥し、只、此人の面影のみ立離れず、歎きに沈み侍べりしが、二たび、妻をも求めず、小原《こはら》[やぶちゃん注:京の「大原」の別称。]の奧に引籠り、終に其終る所をしらず。
[やぶちゃん注:「中原主水正(なかはらもんどのかみ)」不詳。「主水」はウィキの「主水司」によれば、『主水司(しゅすいし/もいとりのつかさ)は、律令制において宮内省に属する機関の一つで』、『主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司(もひとりのつかさ)は水・氷の調達および粥の調理をつかさどった。やがてこれを扱う役人への敬称(殿=おとど)が接尾して転訛し「もんどのつかさ」とも呼ばれる』。『調達のために伴部として水部(もいとりべ)品部として水戸(もいとりこ)が置かれた。また』、『運搬等のために駆使丁が配属された。駆使丁は重労働の現業部門に置かれ、とくに氷は夏場は珍品として貴重だったため』、『運搬に非常に苦労したとみられる。中世以降は明経道清原氏が長官職を世襲し』、『付属の主水司領を相続した』。『氷は冬場に製造するため』、『夏までの間』、『保管しておく場所として氷室が設置された。氷室は畿内周辺に点在し』、『それぞれ預が置かれた』とある。「正」はその長官。
は、美男の譽れありて、色好みの名をとり、生年廿六に及びて、定まれる妻も、なし。春の花に憧れては、風を憎み、秋の月に嘆きては、雲をかこち、官に仕へながら、浮れありきて、心を、物ごとに痛ましむ。
「北白川檜垣(ひがき)の森」「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区。筑紫国白川の遊女檜垣の嫗』(おうな)『の伝承を京都の白川にとりなした地名という』とある。銀閣寺の北の北白川地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のどこか(現在のどこかは特定出来なかった)。「檜垣の嫗」は平安朝の筑前の遊女(あそびめ)で歌人。生没年不詳。「後撰和歌集」に,延喜一一(九一一)年に大宰大弐となった藤原興範(おきのり)が筑前の白川で水を乞うたとき、老いを嘆く「年ふればわが黑髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」の歌を詠みかけたと見えるが。「大和物語」では、興範ではなく、それより三十年後の小野好古(よしふる)とし、家集「檜垣嫗集」では、清原元輔が肥後守となった七十余年後の歌人とする。機智的な即詠を得意とする遊女として伝承され、後人によって家集も編纂されているが、その生涯は明らかではない。
「櫻井の里氷室(ひむろ)山」「桜井の里」は「新日本古典文学大系」版脚注に、『左京区松ケ崎。山州名跡志六・桜井里では古老の言として、岩倉に至る坂の前、山神と号する杜の西にある浅井をその跡と伝える』とし、「氷室山」は『左京区上高野氷室町』(かみたかのひむろちょう)とし、『山腹に禁裏への供御の氷を蓄えた。小野氏の在地で「小野の氷室」とも称される』とある。ここ。主人公の職責と連関する。
「岩倉谷(いはくらたに)同前で、『左京区岩倉。岩倉・長代川』(ちょうだいがわ)『の渓流近辺か』とする。この附近か(特定不能)。
「きつね坂」同前で、『左京区松ケ崎。桜井の西北の坂で岩倉や深泥池』(みどろがいけ)『に至る。木列坂(キツレザカ)、木摺坂とも(山州名跡志六・木列坂)』とある。この中央附近か。ここに出る旧地名が現在の地名と合致しないため、以上と同じく、同定が難しい。
「八鹽岡(やしほのをか)」同前で、『左京区長谷町。岩倉の北、瓢箪崩山』(ここ。西に岩倉長谷町がある)『の西南にある丘で八入(やしお)とも。紅葉の名所』とある。
「比叡橫川(よかは)」滋賀県大津市坂本本町。比叡山横川中堂がある一帯。
「片岡の森」同前で、『京都市北区上賀茂。上賀茂神社本殿東の片岡山(古称賀茂山地)の麓。歌枕』とある。ここ。
「鬼が城」同前で、『左京区。八瀬の西北にある石窟。「むかし酒呑童子ひえの山より追出されて此いはやにこもり、此石のうへに起ふしけりといふ。後に丹後大江山にして源の頼光にころされしとかや」(出来斎京土産五・鬼城)』とある。この辺りか。
「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近。
「音無(をとなし)の瀧」左京区大原勝林院町にある。歌枕。
「志津原」左京区静市静原町。
「朧淸水(おぼろのしみづ)」京都市左京区大原草生町(くさおちょう)の寂光院の東南にある名泉。歌枕。
「市原野邊(《いちはら》のべ)」左京区静市市原町の野辺。
「暗部(くらぶ)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『歌枕。場所に諸説あるが、洛陽名所集八では鞍馬の山続きとし、了意もそれを踏襲』しているとある。この附近ということになる。
「鹿苑院(ろくをんいん)」「いん」はママ。正しくは北山(ほくざん)鹿苑禅寺で、金閣寺の正式名。この地には、鎌倉時代の元仁元(1224)年に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり、以後も、公経の子孫である西園寺家が、代々、領有を続けていた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したため、逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず、荒れていったが、応永四(一三九七)年)に室町幕府第三代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の総てが集約された。応永元(一三九四)年に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、この「北山第」にあって政務を執り続けた(以上は当該ウィキに拠った)。
「春宵(しゆんせう)の一刻、其の價(あたひ)を誰(たれ)か千金とは限りぬらん」蘇軾の七言絶句、
*
春夜
春宵一刻値千金
花有淸香月有陰
歌管樓臺聲細細
鞦韆院落夜沈沈
春夜
春宵一刻 値(あたひ)千金
花に淸香有り 月に陰有り
歌管 樓臺 聲 細細
鞦韆(しうせん) 院落 夜 沈沈(しんしん)
*
起句に基づく。「院落」は「屋敷内の中庭」のこと。
「櫻花いざ言問はん春の夜の月はむかしも朧なりきや」特に原拠歌はないようである。
「津守國基(つもりのくにもと)」(治安三(一〇二三)年~康和四(一一〇二)年)は神職にして歌人。摂津住吉神社神主。「後拾遺和歌集」にとられている名歌「薄墨にかく玉章と見ゆるかな霞める空に歸る雁がね」に因んで「薄墨の神主」の異名がある。
「花山(くわさん)」京都市山科区北花山河原町にある天台宗華頂山元慶寺(がんけいじ/古くは「がんぎょうじ」)。貞観一〇(八六八)年に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により定額寺という寺名で建立され、開山は六歌仙の一人僧正遍昭。元慶元(八七七)年に勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。花山法皇の宸影を安置する寺で「花山寺(かさんじ)」とも呼ばれ、大鏡では「花山寺」と記されてある。但し、「応仁の乱」の戦火によって伽藍が消失し、以来、境内が小さくなってしまったと参照した当該ウィキにあるので、この話柄内時制であれば、荒廃していたか。「新日本古典文学大系」版脚注には『あった』と過去形にもなっている。
「あるじなき住みかに殘る櫻ばなあはれむかしの春や戀しき」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原拠は続古今集・哀傷。出来斎京土産三・花山に同歌を引いて、「津守国基花山にまかりたりけるに僧正遍昭が室の跡の桜ちりけるを見て」とある』とある。
「さく花にむかしを思ふ君はたぞ今宵は我ぞあるじなるもの」どうもぎくしゃくした言葉遣いで気に入らない一首である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『類歌』として「平家物語」巻九の平忠度の、
行きくれて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし
を挙げる。
「みづから」一人称自称代名詞。
「人間(にんげん)に捨てられて」人間道から捨てられて。死者であることをダイレクトに述べた。本邦の怪談では比較的珍しいが、本話の原拠は「剪灯新話」であるが、中国の伝奇・志怪小説では狐であるとか、死者であるとか、初っ端から明かす話は多い。
「畠山氏」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室町幕府で斯波・細川と共に三管領職を勤めた重臣。畠山英国』(正平七/文和元(一三五二)年~応永一三(一四〇六)年)『は、義満が北山第に移住した応永五年(一三九八)』に『管領となり、以後』、『義満を補佐した』とある。
「良子禪尼(よしこぜんに)」足利義満の生母紀良子(建武三/延文元(一三三六)年~応永二〇(一四一三)年)。室町幕府第二代将軍足利義詮の側室。石清水八幡宮検校善法寺通清(みちきよ)の娘。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は五歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも、幸子の方を重んじていた。幸子が従一位を授けられた永徳元(一三八一)年には、良子は従二位とされており、後に従一位に叙された。春屋妙葩に帰依した。法号は「洪恩院殿月海如光禅定尼」(以上は主文を当該ウィキに拠った)。
「明行かば戀しかるべき名殘りかな花のかげもるあたら夜の月」「夫木和歌抄」の巻四の「春四」にある後京極摂政九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)の一首、
明けはてば戀しかるべき名殘かな花のかげもるあたら夜の月
の細工品。
「いづれをか花は嬉しと思ふらむさそうあらしとをしむ心と」同じく「夫木和歌抄」同じ「春四」にある法橋顕昭の一首のそのままの転用。
「心を引み給ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『思惑があるのかと考えてなぞをかける』とある。
「わりなく」この上もないまでに。
「かづらきの神」「葛城の神」。「かつらぎ」が一般的。奈良県葛城山の山神。特に「一言主神(ひとことぬしのかみ)」を指す。また、昔、役行者の命によって、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋を架けようとした一言主神が、自身の容貌の醜いのを恥じて、夜間にだけ、仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、「恋愛や物事が成就しないこと」の喩えや、「醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりする」喩えなどにも用いられ、ここは夜ばかりにしか逢わないのを、主水正に済まなく思う気持ちをちゃんと持っていることを、かのいわく因縁のある神に誓ったのである。後日、その制約も投げ捨てて、主水正とともに普通に住むようになることの伏線である。
「忍ぶなげきを、こりつむべき」「なげき」を「嘆き」と薪として火に投げ込んで積む「投げ木」を掛けたもの。「新日本古典文学大系」版脚注に、『嘆きという名の木を伐って積み上げるの意』とされる。
「終に、或日、雨少し降りけるに、晝、行きて、出あひ、女房を連れて、京の家に歸りて、ひたすら、常に住み侍り」この雨のシークエンスには、何らかの民俗学的な意味が隠されているようだが、今のところ、思いつかない。
「人間」個人的には「じんかん」と読みたい。
「隙《ひま》ゆく駒の陰よりはやく打過て」白い馬が走り過ぎるのを、壁の隙間からちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことを言う喩え。「白駒(はっく)の隙(げき)を過るがごとし」。「荘子」の「知北遊篇」が原拠。
「篠(しの)」稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠の小笹(おざさ)。
「泯(ひた)けず」読みは不詳(「新日本古典文学大系」版脚注でも『読み未詳』とする)。但し、「泯」は「尽きる」の意があるから、意味としては判る。
「魂《たましひ》を返す術(たむけ)」反魂術。死者の姿を見せる魔術。洋の東西なく、存在する。ここはその術「なしに」彼女が私のために「姿をあらは」した既成事実としての「功(いさをし)」=優れた超自然の力を示したことを指す。
「襜(うちぎ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「襜(せん)」は。膝掛け、まえだれ』で、これが「袿(うちき)」を指すのならば、『上流婦人の装束で襲(かさね)の上着』とする。
「ともす火やたむくる水や香花を魂(たま)のありかにうけて知れ君」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「夫木和歌抄」の巻十九の「火」にある、
ともす火も手向る水もまことあらば魂のありかを聞よしもがな
をインスパイアしたものとされておられるようである。]