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2021/09/20

芥川龍之介書簡抄146 / 昭和二(一九二七)年六月(全) 六通

 

昭和二(一九二七)年六月十日・田端発信・柳田國男宛

 

冠省、先夜は失禮仕り候。「まひまひつぶろ」のぬき刷り、ありがたく拜受致し候。尙又近頃泉先生より河童の話をいろいろ伺ひ候。

     舊句 金澤にて

   簀(す)むし子や雨にもねまる蝸牛

御一笑下され度候。頓首

    六月十日夜      龍 之 介

   柳 田 國 男 樣

 

[やぶちゃん注:以下、例によって前後を新全集の宮坂覺氏の年譜より引く。上記にある通り、この六月(自死前月)初旬、『泉鏡花に会って河童の話を聞』いている。六月二日、前月末に激しい精神異常を発症した宇野浩二を斎藤茂吉に『診察してもら』い、田端の自宅近くの天然『自笑軒で斎藤と夕食をとり』、その『帰途、午後』十『時頃、下島勲を訪ね、宇野の症状を話した』。六月四日土曜日、『「冬と手紙と」の「一 冬」を脱稿』、同七日、『「冬と手紙と」の「二 手紙」を脱稿』した(「冬と手紙」とは昭和二(一九二七)年七月一日発行の『中央公論』に二パートを合わせて掲載されている。リンク先は私のサイトの電子化)。而して、六月九日の『夜、柳田国男と会って「まひまひつぶろ」の抜き刷りをもら』っており、本書簡はそれへの礼である。また、この日に「三つの窓」を脱稿している。「三つの窓」は昭和二(一九二七)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載されたが、雑誌掲載の作品としては、芥川の意識の中では、「西方の人」「或阿呆の一生」へと直連関してゆく、最晩年の重要な作品の一つである(リンク先は総て私のサイト版電子化。前者は正・続を合わせた完全版で、後者は未定稿(草稿)附き)。また、この龍之介は『編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とあり(これは「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)」に拠る記載である)、厭人癖が見られる。他に、この『上旬』、『斎藤茂吉の紹介で、嫌がる宇野浩二を王子の精神科医院小峰病院に入院させ』てもいる。

「まひまひつぶろ」この三年後に刀江(とうこう)書院から昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を刊行することになる「蝸牛考」の一部(どの部分かは不詳)の抜刷。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同初版を分割でオリジナル注附きで電子化を終わっている。

「簀むし子」(すむしこ)「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照されたいが、前書から、金沢などの旧加賀藩内などの北日本に独特の建築構造物(ここは屋外との仕切りとして装着されたものだが、屋内の部屋と廊下の間に透き障子の代わりとしても使用されることがあるようである)であり、そちらの注で、私は『「簀むし子」については、中田雅敏編著 蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文に拠れば、竹の簀を、道路に面して格子代わりに横に細い桟で打ちつけ、積雪や日差しの直射を避ける日除けとある。一九八六年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」では、『中からは外が見え、外からは中が見えないこの地方独特の仕掛けで、いわゆる格子とは似ているが』、『ちがうものらしい』ともある』とした。茨城県の「益子材木店」公式サイトの富山県『岩瀬大町・新川町通りの「簾虫籠(すむしこ)」』の写真(現地の解説版含む)と解説がある。私はこの写真の通りを、三年前に友人らと歩いた。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月十四日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

原稿用紙で失禮。日本では滅多に吸へぬ煙草をありがたう。不相變たつしやかね。この間大東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した。それから北海道へ行つた。

   雪どけの中にしだるゝ柳かな

これは旭川の吟だ。

    六月十四日      龍 之 介

   齋 藤 貞 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、ごく親しかった友人であった。既出既注

「東京繁昌記と云ふものの中でちよいとお前に言及した」「本所兩國」(リンク先は私の注附サイト版)の「綠町、龜澤町」に出てくる「Sと云ふ友だち」と思われる。

 年譜には、六月十二日日曜日、『午後、下島勲と宇野浩二の病状などを話していると、林房雄。神崎清が来訪』し、『プロレタリア文学について議論を交わした』とあり、この書簡の翌六月十五日には、『佐佐木茂索を鎌倉に訪ね』、『偶然』、『遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼に一泊』(東屋旅館か)し、翌十六日に『鵠沼から田端の自宅に戻』ったとある。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十一日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省度たび頂戴ものを致しありがたく存候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十一日     龍 之 介

   小手川金次郞樣

     旭川

   雪どけの中にしだるゝ柳哉

御一笑下され度候

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は作家野上弥生子の弟。既出既注

 年譜より。この前日、遺作となる問題作「或阿呆の一生」を脱稿している。冒頭にある久米正雄宛の当該原稿を託す内容のそれ(傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

 僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き惡夫、惡子、惡親を持つたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。

 ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と云ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

    昭和二年六月二十日  芥川龍之介

   久米正雄君

   *

のクレジットは御覧の通り、その六月二十日である。則ち――芥川龍之介は《作家としての創作としての完成品としての遺書》である「或阿呆の一生」――を三十四日前に――書き終えていた――のである。なお、小穴隆一は「或阿呆の一生」の原稿が最初に託されていた相手は、自分、小穴自身だった、と証言している(『小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」』を参照)。小穴はエキセントリックなところが多分にあり、その証言は安易に無批判に信用することは危険なのだが(私はブログのこちらで「二つの繪」と「鯨のお詣り」の二作品全文をオリジナル電子化注している)、これは「さもありなん」とは思う。ただ、龍之介が作家としての小説形式の遺書を――芥川龍之介自身が百%公開を確信犯で予知しているそれを――託すに相応しいのは、久米だと――計算して変更した――と私は考えている。そうして、それは正しかったとも考えている。

 なお、この日には、生前最後となる創作集「湖南の扇」が文藝春秋出版部から刊行されてもいる。

 また、翌六月二十一日には、前月分の最後で問題にした「東北・北海道・新潟」(自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載)を脱稿している。]

 

昭和二(一九二七)年六月二十四日・田端発信・大岡龍男宛

 

冠省高著お贈り下されありがたく存候 唯今序文だけ拜見致し候高濱さんの序文は小生などにも藥に相成り候 いづれゆつくり拜見仕る可く候右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十四日     芥川龍之介

   大 岡 龍 男 樣

 

[やぶちゃん注:「大岡龍男」(明治二五(一八九二)年~昭和四七(一九七二)年は俳人で小説家。東京市下谷区出身。慶応義塾大学中退。十二歳で童話作家として知られる巌谷小波に師事して俳句を学んだ。後、三省堂・NHK(後に文芸部プロデューサーとして黒柳徹子を見出した人物らしい)に勤務する傍ら、大正初期に高浜虚子の門下となり、後に『ホトトギス』同人となった。この年に小説集「不孝者」(大阪・天青堂刊・序(高濱虛子・德冨蘇峰))を刊行しているから、「高著」はそれである。ネットを見る限り、俳句は殆んど見当たらず、しかもしょぼい(まあ、虚子の門じゃね)が、写生文や小説は、結構、評価している記事が見られる(私は未見)。

 年譜より。この翌日、六月二十五日土曜日、『小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の』待合『「春日」に行き、馴染みの芸者小亀と会う。この日は、小穴が』芥川家に『泊まってい』ったとある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』に基づく。無論、この「小かめ」とのそれは、鷺氏が年譜で仰るように、秘めて別れを告げるためであったに相違ない。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・遠田信太郞宛(封筒に「遠田一路風樣」とあり)

 

冠省さくらんぼありがたく存候まい度御配慮にあづかり忝く右とりあへず御禮まで 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   遠 田 信 太 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」「遠田一路風」岩波新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、ネット検索で判明した。山形県遊佐町(ゆざまち)の『広報ゆざ』第六百二十八号(平成二五(二〇一三)年六月一日発行)PDF)の「輝ける遊佐(まち)つくりびと㊳」として「遠田信太郎」として最終ページ(裏表紙)に記事が書かれ、それによれば、薬剤師で俳人の遠田信太郎(のぶたろう 明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)である。山形県酒田生まれで、大正二(一九一三)年に『鶴岡の荘内中学を卒業後、金沢医学専門学校に進学して薬学を学び、父の後をついで酒田で薬局を始めます。昭和』二十『年代には遊佐町に薬局が』一『店もなかったことから遊佐町十日町に居を移し、現在の「ユザ薬局」を開業。それまで遊佐町には薬店しかなかったため、調剤は酒田まで求めに行かなければならない状況を改善し、地域医療の発展に貢献しました』。『一方で』、『若い頃から俳句をたしなみ伊藤万寿に入門』し、『俳号を一路風』『とし、庄内で著名だった俳人の竹内唯一郎、伊藤酉水子(ゆうすいし)とともに三羽烏と称されるなど』、『文化人としても名高かった信太郎は』、『俳句仲間とともに町内への俳句の浸透に努めました。また、芥川龍之介と文通する』(☜)『など著名人との幅広い交友関係を持ちました。釣にも没頭し、店を家族にまかせて』、『吹浦や象潟まで出かけることも多く、家には庄内竿が何本もあったといいます』。『明治気質で』、『家庭でも冗談を言うことはほとんどなかったといいますが、孫を叱ることは一度もないなど』、『「やさしいおじいちゃん」であった』とあり、『感性豊かな文化人が築いた健康の一拠点は、今も多くの人の生活を支えています』とあるから、間違いない。岩波新全集の次回の新版では明記されることを望むものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年六月二十九日・田端発信・東宮エルザ宛

 

敬啓 東宮樣御長逝のよし承り候謹みて御悼み申上候 頓首

    六月二十九日     芥川龍之介

   東 宮 エ ル ザ 樣

 

[やぶちゃん注:「東宮エルザ」既出既注のエスペランティスト東宮豐達の長女。]

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