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2021/09/29

只野真葛 むかしばなし (38)

 

〇津輕藩は小家故、おしづなどに、御家中の人、むかへては、

「こちの旦那のくらいな、たかの朋輩、其御家には、いくらも有らん。」

といはれて、挨拶にこまりし、といひし。しかし、それは居(をる)にも、よきことなり。

 ワなど、酒井家中へ行しに、おもひよらぬこと有しは、そのむかし、御家騷動の時分、酒井家にて、むつかしきこと有しを、今の世までも、家中一統、仙臺にまけぬ氣が有て、茶のみ、酒のみ、寄合(よりあへ)ば、其代の手がらばなしをして、りきむことなり。仙臺家をわるくいひたがる心いき故、一生、此ような聞たくない事[やぶちゃん注:ママ。]を聞(きく)は、くるしきことゝおもひて有し。

 父樣御懇意にて、ワを酒井家へ世話したる磯田藤助といふ人の家のおこりは、そのかみ、騷動の時分、仙臺の家中「またもの」[やぶちゃん注:「又者」陪臣のこと。上級領主の直臣の臣下のこと。]にても有し。三人にて切こみ來りしを、其頃、藤助は次男にて、むそくもの、若黨と壱つに成(なり)居(ゐ)たりしが、かくと見るより、ぬき合、切むすびしに、數ケ所、きずは、おひしかども、死(しに)きらず、相手をば、切とめし、とぞ。

[やぶちゃん注:以上の酒井家での話は、真葛の最初の結婚に係わる。ウィキの「只野真葛」によれば、仙台藩上屋敷五年、彦根藩上屋敷五年の計十年にも及んだ奥勤めを『辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった』が、『寛政元』(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は』、父平助より、「かねて自分が懇意にしている磯田藤助が、藤助の従兄弟に当たる酒井家家臣と、そなたの縁談を世話する、と言っているので、嫁に行け。」と『言われ、あや子は父に従った』。既にこの時、真葛は二十七の大年増になっていたのだが、『この結婚は惨憺たる結果』となった。逢った『相手は』、『かなりの老人であり、夫としてはじめて口にした』言葉が、「俺は高々、五年ばかりも生きるなるべし。頼むは、あとの事なり」だった『という。これが自分の一生を託す夫であり、自分の』残りの『人生かと思うと』、『情けなく、泣いてばかりいたあや子は』、『結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それも』、『あや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の』「先は老年と聞くが、其方も、年取りしこと」という『言葉も彼女を傷つけた』とある。「伊達騒動」は万治三(一六六〇)年、第三代藩主伊達綱宗が不行跡で幕府から隠居を命ぜられ、二歳の亀千代 (後の綱村) が家督を相続、伊達兵部宗勝が後見役となり、藩内の進歩派であった原田甲斐と結んで、実権を掌握したが、それに対し不満をもっていた保守派の有力者伊達安芸と伊達式部宗倫(むねのり)の所領争いが発生、安芸は藩内の実情を幕府に注進した。寛文一一(一六七一)年、上野厩橋藩第四代藩主にして幕府大老であった酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷で裁決が行われたが、安芸は甲斐に殺害され、甲斐は酒井家の家臣に斬られ、宗勝は処罰されて、伊達家は安泰となった。]

 殿m此よしを聞せられ、殊の外、御悅氣(およろこびげ)にて、

「人の肩にかゝてなりとも、御前へ、參れ。」

と被ㇾ仰て、めしよせられ、二百石の墨付を手づから被ㇾ下しより、いでたる家なり。あちらこちらをきられて、埒(らち)もなき「かたわ」にて有しが、命は、またくして、ながらへし、とぞ。

 子、なし。養子せしが、それも、何か「かたわ」にて有し、となり。其養子、代々、「かたわ」、代々、養子の家なりとぞ。

 ワ、おぽぼへし藤助も、六ッになる時、養子にきわまるといなや、普請假小屋へ上りしに、落(おち)て背の骨、折(おり)しを、療治して、やうやう、たすかりしに、若殿、明地(あきち)に、ほうづき、多(おく[やぶちゃん注:ママ。])有(ある)を、花ばさみにて、きらせられ、子どもにとらせられし時、餘りはやまりて、手をいだし、小ゆび一本、切(きり)おとされし、となり。是も、子もなくて、養子とおぼへし。わるい[やぶちゃん注:ママ。]家なり。

 何かわ[やぶちゃん注:ママ。]しらず、こち[やぶちゃん注:「こちらの」。仙台藩の。]御家中の人を切(きつ)たが手柄とて、新地被ㇾ下しといふを聞て、うれしくもなきものなり。

 世の中のさたには、

「酒井家、あしゝ。」

といふを、むりに、よいに仕つけるとて、今も、りきむことなり。此はなしがでると、みな、肩をはり、肘を、りきませて、ほこるが、家中のふうなり。

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