曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賀茂甲斐筆法の辯
[やぶちゃん注:目録では「著作堂客篇 京 靑李庵」で、書信物(次に示す「花」の後の著作堂の識語を参照)。]
乙酉五月隨筆會 平安 角 鹿 桃
雨森東五郞のかける「戲草」といふものに、『この國の筆法といへるは、「壬辰の亂」後、とりことなりて、此國にすめる、「から人」の敎へしを、「賀茂の甲斐」、つたへたるなり。されど、今から、人のものかくを見るに、筆の意、はなはだ違へり。「から人」の筆の意も、「もろこし」とは同じからず。』と【以上「戲草」。】。按ずるに、賀茂甲斐敦敦直は、天文年間、飯河治部少輔秋藝、老後、一雨齋妙佐と號せし人に、上代の書法を傳へうけたるなり。其事實、書博士家の系圖に見えて、いとあきらかなり。かの「から人」に筆法をうけしとは、さらに、意、得がたし。されども、芳洲老人は博雅のひとなり。其頃、かゝる傳へも、ありしにや。
文政八年乙酉隨筆會 平安 角 鹿 桃 窠
[やぶちゃん注:「雨森東五郞」は江戸中期の儒者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう 寛文八(一六六八)年~宝暦五(一七五五)年)の通称。諱は俊良、後、誠清(のぶきよ)。漢名を雨森東と名乗った。中国語・朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて、李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣ともに朱子学者・木下順庵門下の「五先生」や「十哲」の一人に数えられた、かなり知られた人物である。
「戲草」「たはれぐさ」。「多波礼草」とも書く。雨森の随筆。三巻三冊。著者没後三十五年目の寛政元(一七八九)年の刊。平明な雅俗折衷文で、和漢古今の故事や話柄をとりあげ、時にそれらに対する感想・感慨を述べたもの。近世随筆の佳編の一つに数えられる。
「壬辰の亂」「壬辰倭亂」で豊臣秀吉の「朝鮮出兵」に対する朝鮮での呼称。文禄元年から慶長三(一五九二~一五九八)年の間に二度行われた「文禄・慶長の役」。
「賀茂の甲斐」江戸初期の京都賀茂神社神官で書家であった藤木甲斐敦直(あつなお 天正一〇(一五八二)年~慶安二(一六四九)年)。十九になるまで、文字が読めなかったが、発憤して、大師流や三蹟の書を学び、江戸初期に藤木流(賀茂流・甲斐流とも呼ぶ)を創始した。後水尾天皇から書博士に任ぜられた。甲斐は通称。同流は後に廃絶したが、明治期に再興されている。
「天文年間」一五三二年から一五五五年まで。
「飯河治部少輔秋藝、老後、一雨齋妙佐と號せし人」これは底本の誤判読か誤植で、戦国時代の書家飯河秋共(いいかわあきとも 生没年未詳)のことである。永禄(一五五八年~一五七〇年)頃の大坂の人で、前記の賀茂流の書に優れ、中興の祖と称された。豊臣秀吉に仕え、三百石をさずかる。本姓は舟橋。号は一両(或いは「雨」)斎妙佐。以上は講談社「日本人名大辞典」の記載だが、さる学術資料では、飯河秋共は、足利義輝に仕え、後には細川幽斎に仕えて、長岡姓を許され、一両斎とも称したともあった。]
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