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2021/09/12

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (15) 主觀的怪異を取扱つた物語

 

      主觀的怪異を取扱つた物語

 順序としては當然、淺井了意の伽婢子を紹介すべきであるが、江戶時代の怪異小說の元祖とその大成者たる上田秋成を對照せしめて述べた方が面白いと思ふから、後に雨月物語を紹介するときに一しよに述べ、こゝでは先づ、櫻陰比事の作者たる西鶴の諸國咄から二三の物語を讀んで見ようと思ふ。

[やぶちゃん注:「諸國咄」「西鶴諸國ばなし」とも。浮世草子で井原西鶴作画。貞享二(一六八五)年に大坂池田屋三郎右衛門刊。大本五巻五冊。各巻七話で全三十五話から成る。上質な創作怪奇談集として私の好きなものである。これについては、読みは、リンク先ではなく、所持する平成四(一九九二)年明治書院刊「決定版 対訳 西鶴全集」第五巻を使用した。]

 諸國咄は一一名大下馬《おふげば》とも呼び、怪異小說と稱することの出來ぬ物語も澤山はひつて居る。又、怪異を取扱つたものでも曩に櫻陰比事を紹介したときに述べたやうな、西鶴一流の冷やかかな筆づかひがしであるので、怪異小說の要素たる凄味があまり出て居ないのである。例へば『鯉にちらし紋』と第する一篇を見ても、よくその全般を知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:「鯉にちらし紋」昭和一五(一九四〇)年日本古典全集刊行会刊の「西鶴全集第三」の「諸國咄」の巻四のここから。挿絵もある。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

『川魚は淀を名物といへども、河内ノ國の内助《ないすけ》が淵《ぶち》の雜魚までしすぐれて見えける。この池昔よりに今に水かはく事なし。此堤に一つ家をつくりて内助といふ獵師、妻子も持たず只ひとり世を暮しける。つねづね取溜《とりため》めし鯉の中に、女魚《めす》なれども凛々しく、慥に目見じるし[やぶちゃん注:個体識別出来る目印。]あつて、そればかりを賣殘して置くに、いつのまかは鱗《いろこ》に一つ巴《どもへ》出來《でき》て、名をともゑと呼べば、人の如くに聞さわけて、自然となづき後には水を離れて一夜《ひとよ》も家《や》のうちに寢させ、後にはめしをも食ひ習ひ、また手池《ていけ》[やぶちゃん注:自家内に設けた生簀。]に放ち置く。はや年月を重ね、十八年になれば、尾頭《をかしら》[やぶちゃん注:全長。]かけて十四五なる娘のせい程になりぬ。或時、内助にあはせ[やぶちゃん注:縁組み。]の事ありて、同じ里より年がまへなる[やぶちゃん注:年配の。]女房を持ちしに、内助は獵船《りやうせん》に出しに、その夜の留守にうるはしき女の、水色の著物に立浪《たつなみ》のつきしを上に掛け、裏の口よりかけ込み、我は内助殿とは久々の馴染にして、かく腹には子もある中なるに、またぞろや此方を迎へたまふ。この恨やむ事なし、いそいて親里へ歸へりたまへ、さもなくば三日のうちに大浪をうたせ、此家をそのまゝ池に沈めんと申し捨てゝ行方しれず。妻は内助を待ちかね、恐しきはじめを語れば、さらさら身に覺えのない事なり、大かた其方も合點して見よ、この淺ましき内助に、さやうな美人靡き申すべきや、もし在鄕まはりの紅や針賣りかゝには思ひ當る事もあり、それも當座々々に濟ましければ別の事なし、何かまぼろしに見えつらんと、又夕暮より舟さして出るに、俄かにさゞなみ立つてすさまじく、浮藻の中より大鯉舟に飛び乘り、口より子の形なる物を吐き出し失せける。やうやうに遁げに歸りて、生簀を見るに彼の鯉はなし、惣じて生類を深く手馴れる事なかれと、その里人の語りぬ。』

[やぶちゃん注:脅したような大津波によるカタストロフは起らないのは、人の子として生まれた子を託す女型妖怪の不憫というべきか。]

 すなはち、一種の敎訓小說であつて、凄味などは眼中に置かれて居ないかの觀がある。なほ又、この外に、怪異を取扱つた物語でも現實味が頗る多い。『傘の御託宣』では、慶安二年[やぶちゃん注:一六四九年。]の暮、紀州掛作《かけづくり》の觀音の貸傘を、藤代の里人が借りて和歌吹上にかゝると、玉津島の方から、神風がどつと吹いて來て、それがためその傘が吹きとばされ、肥後の國の奥山、穴里《あなざと》といふ所へ落ちた話が書かれてある。さて穴里の人々は、傘を見たことがないので、何だらうかと色々評議をするとその中に小賢しい男があつて、この竹の數は四十本、紙も常のとはちがつて居るから、名に聞いた日の神内宮の御神體だらうというたので、皆々大に怖れ鹽水を打つて、荒笊の上に据ゑ奉り、宮を作つて御まつり申上げた。するとこの傘に性根が入つたと見え、五月雨の頃になつて社壇が頻りに鳴き出したので、御託宣をきいて見ると近頃里人は竃《かまど》の前を汚なくして油蟲をわかしたからいけない、早く一疋も居もいないやうにせよ、なほ、里の美しい娘を二人神宮に奉仕させよ、さもなくば七日が中に車軸を流して人種《ひとだね》のなくなる迄降り殺すぞとの事に、人々は怖氣をふるつて、娘どもを集めて相談すると、誰一人進んで出るものがなかつた。するとその里に一人の美しい後家があつたが、これをきいて、神樣の事だから、私が若い娘の身代りになると申出て、宮所《みやどころ》に夜もすがら待つて居た、ところが一向神樣の御情けがなかつたので、件の後家は大に腹を立て、御殿の中へ驅け入つて、彼の傘を握り上げ、『この身體《からだ》たふし奴《め》が!』と叫んで、引き破つて捨てた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの同前掲書の巻一の「傘(からかさ)の御託宣」でここから。

「紀州掛作の觀音」現在の和歌山県和歌山市嘉家作丁(かけづくりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった真言宗不二山一乗院観音寺であるが、太平洋戦争の戦災で焼け、現在は南直近の和歌山市元寺町東ノ丁に移転している。

「藤代」和歌山県海南市藤白

「和歌吹上」和歌の浦から紀ノ川左岸にあった吹上の浜にかけて。

「玉津島」玉津島神社。古来、玉津島明神と称され、和歌の神として知られる。

「神風」ここは単に玉津島神社への敬意を添えた春一番の風のこと。

「肥後の國の奥山」「穴里」後半の意は所謂「隠れ里」の意か。とすれば、「肥後」からは、隠田集落村で平家落ち武者伝説で知られる五家荘地区が想起される。因みに、ここから和歌山市嘉家作丁までは、直線で四百三十六キロメートル超である。

「日の神内宮」伊勢神宮内宮。原本では「内宮」を「ないく」と読んでいる。

「荒笊」不木の「荒菰(あらこも)」の誤字。初出に従ったとする国書刊行会刊本でも誤ったままであり、ご丁寧に『あらざる』とルビが振られてある。

「この身體たふし奴が!」原本は「おもへば、からだだをし目」で、「お前さんは、よくよく! 見掛け倒しな奴だねえ!!」という罵詈雑言である。これは太くがたいの大きな唐傘をファルスに見立てて、かく痛罵しているのである。明治書院の解説に、『傘を陽物とするのは、広く一般的なもので、道祖神・賽の神などの土俗信仰に関連があり、一部は形の類似から傘地蔵・傘権現などと名付けられている』。『なお、宗政五十緒氏によると、紀州「和歌吹上」付近の雑賀庄は室町時代一向宗門徒の根拠地であり、一方肥後の奥山は相良領で、同領では一向宗門徒が禁教下に』(南九州の薩摩藩や人吉藩では、三百年に亙って浄土真宗が禁教とされた。ウィキの「隠れ念仏」を参照されたいが、それによれば、戦国時代の「加賀一向一揆」や「石山合戦」の実情が伝えられるに従い、一向宗徒が各地の大名によって恐れられたことや、島津忠良などの儒仏に篤い武将にとっては、忠を軽んじ、妻帯肉食する一向宗が嫌悪の対象となっていたことなどが原因と考えられるとある)、『傘仏という、傘の形をした木の内に、名号「南無阿弥陀仏」などを書き、周囲に光背四十八条の線を描いた懸け仏を籠め、この本尊を隠れて信仰していたという。本話の背景として参照すべきあろう』という興味深い附記がある。]

 この短かい物語にも西鶴の人生觀が浮み出て居るやうに思はれる。ちやうど『好色五人女』[やぶちゃん注:貞享三(一六八六)年刊。]の三の卷で、おさんと茂右衞門の駈落ちを叙し、『やうやう日數ふりて丹後路に入て、切戶《きりど》の文殊堂に通夜《つや》してまどろみしに、夜半とおもふ時、あらたに靈夢あり、汝等世になきいたづらして、何國《いづこ》までか其難をのがれ難し、されどもかへらぬ昔なり、向後《きやうこう》浮世の姿をやめて、惜しきと思ふ黑髮を切り、出家となり、二人別々に住みて惡心去つて菩提の道に入らば、人も命を助くべしと、ありがたき心に、すゑずゑは何にならうともかまはしやるな。こちや是れがすきにて身に替へでの脇心《わきごころ》、文殊さまは衆道ばかりの御合點《ごがてん》、女道《によだう》は曾てしろしめさるまじと言ふかと思へばいやな夢覺めて、橋立の松の風ふけば塵の世ぢや物と、なほなほやむ事のなかりし』と同じ筆法である。夢の中で文殊さまにまで盾つかせて居るなどは、隨分徹底して居ると思ふ。

[やぶちゃん注:以上の原文は、巻の三の「小判しらぬ休み茶屋」の掉尾の部分で、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和四(一九二九)年国民図書刊の「近代日本文學大系」第三巻のここの右ページ後ろから三行目から。]

 いや、思はずも話が橫道にそれたが、西鶴の怪異を取り扱ふ態度は、怪異を種に人生を揶揄して居ると認めても差支ないであろう。從つて、怪異小說の本來の目的からは少々遠《よほざ》かつて居ると言つてよい。これに反して御伽婢子の流れを汲んだ『玉箒木』の如きは、少くともそのか體裁に於て、怪異小說の目的にかなつて居る。卽ち、その文章の一例をあげるならば、『果心幻術』と稱する物語に、

[やぶちゃん注:「玉箒木」浮世草子作家で書肆も兼ねていた林義端(はやし ぎたん ?~正徳元(一七一一)年:京都で両替商をしていた貞享二(一六八五)年に伊藤仁斎の古義堂に入門し、元禄二(一六八九)年までには書肆に転業したらしい)が、元禄八(一六九五)年に出した怪談集「玉櫛笥」に続いて翌九年に出した怪談集。

 以下、引用は底本では全体が一字下げ。]

 『居士(果心居士)つと座をたち出、廣緣《ひろえん》をあゆみ、前栽《せんざい》の方へ行くとぞ見へし、俄かに月くらく雨そぼふりて風さらに蕭々たり。蓬《よもぎ》窓の裡にして瀟湘《せうしやう》にたゞよひ、荻花の下にして潯陽《じんやう》に彷徨ふらんも、かくやと思ふばかり、物悲しくあぢきなき事云ふばかりなし。さしも强力武勇の彈正も氣弱く心細うして堪へ難く、如何にしてかくはなりぬるやらんと、遙かに外を見やりたれば。廣緣に佇む人あり、雲透きに誰《たれ》やらんと見出しぬれば、細く瘦せたる女の髮長くゆり下げたるが、よろよろと步み寄り、彈正に向ひ坐しけり。何人《なんぴと》ぞと問へば、女、大息つき、苦しげなる聲して、今夜はいとさびしくやおはすらん、御前に人さえなくてといふを聞けば、疑ふべくもあらぬ、五年以前病死して飽かぬ別れを悲しみぬる妻女なりけり。彈正、餘りに凄まじく堪へ難きに、果心居士、いづくにあるぞや。もはや、止めよ、やめよ、とよばはるに、件の女、たちまち、居士が聲となり、これに侍るなり、といふをみれば、居士なりけり。もとより雨もふらず、月も晴れ渡りて曇らざりけり。』とあつて、きびきびした漢文口調をまじへ、凄味もかなりに出て居ると思ふ。この玉箒木の中には史實を取り入れた物語が甚だ多く、このことは後に說く英草紙にも影響して居るやうである。題材は多く支那小說から取つたものらしく、離魂、幻術、孤妖、因果の理など、別に目新らしいものはないが、中に現實味の豐かなものが數篇加はつて居るので、それを特に紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上は、私は「柴田宵曲 妖異博物館 果心居士」の注で全文を電子化してある。果心居士はこの手の話ではかなりメジャーに有名が幻術師である。

 以下は前と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」の第十三巻の活字本の画像でここから読める。目録では以下の標題だが、本文では「觀音身を現ず」となっている。

 以下、二つの段落の梗概紹介は、底本では全体が一字下げとなっている。]

『東叡山觀音出現利益の事』では、ある老人が孫娘の行末を祈らうとして淸水堂[やぶちゃん注:東叡山寛永寺清水堂。]に參籠すると、ある夜觀音樣から夢の御告げがあつた。それによると、汝の誠心に感じたから來月十七日の拂曉に姿をあらはさう、不忍池のほとりを、靑い衣を着て白い馬に跨つてとほるものがあつたら、わが身だと思へといふことであつた。で、愈よその日になつて近隣の人に語りあひ、百人あまりの者が不忍池に行くと果して、御告げのとほりの若武者が通りかゝつたので、一同はその場に、ひざまづき手を合せて禮拜した。すると伴の武士は大に驚いて、走り過ぎようとすると、一同は彼を幾重にも取り圍んだので、詮方なく刀を拔いて、圍みを切り拔け、一目散に逃げて行つた。群集もびつくりして散々になつて歸つたが實はその武士は比類のない惡人で、その朝偶然そこを通りかゝつたに過ぎないのである[やぶちゃん注:底本は「取りかゝつた」。国書刊行会本で訂した。]。その後彼は不審が晴れずいろいろと聞き探つて見たところ、上記の事情がわかり、扨は觀音さまが自分を救ふための方便にあのやうな方法を御取りになつたにちがひないと、それからは大に改心して別人の如き正直な人間になり、後にはかの老人の孫娘を妻として榮えた。

 次に『山中妖物實驗《ばけものじつけん》の事』では、ある武士が、讃州金比羅山は怖ろしい魔所で登ることが出來ぬときいて、冒險を試みるために、ひとりで出かけてその絕頂に一夜を明さうとした。すると別に、何の怪しいこともなかつたが、明け方になつて歸らうとすると、怪しい物音がして、誰かゞ步み寄つて來るやうであるから、いち早く物蔭にかくれて樣子を覗ふと、何者とも知れず息使ひ荒く登つて來て、不にもつて居たものをポトン[やぶちゃん注:底本「ポント」。国書刊行会本で訂した。]と草蔭に投げすてゝ、また慌しく引き返して行つた。手搜りに拾ひ上げて見ると生々しい人の首だつたので、傍の堂の緣の下に投げこんでそのまゝ山を下つた。それから四十年の歲月が經て、彼は藝州に仕へて居たが、ある日詰所て奇談を話しあふ序に、この話をすると、その座に默つて聞いて居た七十ばかりの侍が、その首を捨てたのは自分だと言ひ出した。事情をきいて見ると、その一時父の仇を打つたのであるが、一旦山に逃れて首を棄て、一里ばかり歸つてから、人に發見されては不利益だと思つて引き返して見ると、首がない。定めし[やぶちゃん注:底本「定めして」。国書刊行会本で訂した。]天狗でもさらつて行つたのだらうと思つたが、今御話で四十年來の疑念が晴れたといふのであつた。

[やぶちゃん注:同前で原拠は第一巻のここから。]

 この後者の物語は現代の探偵小說の構想としても立派に通用するのである。ことに『禪僧船中橫死附(つけたり)白晝幽靈の事』となると、犯罪學の立場から見ても頑る興味がある。

[やぶちゃん注:この原拠は第六巻のここから。本文では「白晝の幽靈」とのみある。

 以下、同前で一段落は底本では全体が一字下げ。]

 篠塚某という武士が、ある禪憎と同道して京に上る途上琵琶湖を渡る船中で、僧の所持金に目がくらみ、闇を利用して金を奪って海に突き落した。その後、彼は仕官して榮えたが殺した僧の怨念に附き纏はれて遂に大病に罹り、露命が旦夕に迫つた。そこで彼の息子は心配して、江州多賀神社[やぶちゃん注:ここ。]に參籠して父の命に代らうと祈つた。するとある日一人の旅僧が瓢然として篠塚の邸をたずねて來たので、取次のものが重病だといつて斷ると、僧は、その病氣のことで逢ひに來たのだと告げて押し通つて病室へはいつた。これを見た篠塚は、あれこそ殺した僧の亡靈だといつていよいよ苦悶し展轉したので、旅僧はにつこり笑つて、實はあの時自分は死ななかつたのだと語り始めた。水練が達者であつたために命が助かり、それから東國を行脚することに決し、貴殿が都に時めいておられることは噂にきいていたけれど何も因緣とあきらめて、少しも怨まず御たずねもしなかつた。ところが先日多賀の神から御告げがあつて委細を知つたので、今日御訪ねした譯であるが、貴殿の病は貴殿の心のために起つたのであるから本心に立ち歸りなさいと忠告するのであつた。それを聞いた篠塚は大に前非を侮い、先年奪つた金に利息をつけて僧に返し、僧は初願のごとくそれで觀音像を作つた。

 この物語の興味は、白晝の幽靈だと思つたものが、實在の人間に過ぎなかつたという點にある。良心の呵責に惱んで居るものが、まのあたりに殺したものを見たときの驚きは如何ばかりであつたであらう。其處がこの物語の中心となつているのである。孝行の志を語り、利慾を誡める敎訓小說である外に探偵小說としても見どころのある作品である。

 御伽婢子の流れを汲むもの、諸國物語の流れを汲むもの、百物語の流れを汲むもののうちこの外には取りたてていうべきものはないやうである。たゞ百物語の形式について一言述べて置くならば、御伽婢子に、『百物語には法式があり、月暗き夜、行燈の火を點じ、その行燈は靑き紙にて張りたて、百筋の燈火を點じ、一つの物語に燈心一筋づつ引取りぬれば、座中、漸々暗くなり、それを語り續くれば、必ず怪しき事、恐ろしき事、現はるゝとかや』とあつて、ビーストンの小說に出て來る『何々クラブ』の談話の模樣と頗る似寄つて居る。探偵小說の形式にも昔も今も變らぬところのあることは頗る興味が深い。

[やぶちゃん注:「ビーストン」イギリスの小説家・放送作家レオナルド・ジョン・ビーストン(Leonard John Beeston 一八七四年~一九六三年)。ロンドン出身。本邦の探偵推理小説雑誌『新靑年』で、創刊された翌年の大正一〇(一九二一)年に発行された増刊号に於いて、邦訳「マイナスの夜光珠」が掲載された(恐らく訳者は西田政治)のを始めとして、『新靑年』に邦訳が多数掲載され、人気を博したという(当該ウィキに拠る)。サイト「翻訳作品集成」(Google提供)の彼のページを見るに、邦訳作品に「決闘家クラブ」「興奮クラブ」というのが見られる。]

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