曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第六集) 土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音
[やぶちゃん注:本篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」巻第五上のここから。やはりだらだら長いので、段落を成形した。]
○土定の行者不スㇾ死ナ
信濃國(しなのゝくに)伊奈郡(いなこほり)[やぶちゃん注:「伊奈」はママ。]平井手(ひらゐで)[やぶちゃん注:現在の長野県上伊那郡辰野町平出(ひらいで:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]といふ村に、いと大きなる槻(けやき)ありけり【平井手村は、下の諏訪を距ること、三里許に在り。内藤家の封内也。】。
文化十四年丁丑[やぶちゃん注:一八一七年。]の秋のころ、させる風雨もなかりし日に、此木、おのづから倒れけり。かくて、その墳(うごも)ち[やぶちゃん注:土が高く盛り上がってること。]あばけし坎(あな)の中に、ひとつの石櫃(せきひつ)、あらはれたり。
里人等(ら)、いぶかりて、みな、立ちよりて見る程に、この石櫃のうちよりして、鈴鐸(すゞ)の音(おと)、讀經の聲の、洩れて、かすかに聞えしかば、人々、驚き、あやしみて、彼に告げ、これにしらせ、つどひて、評議したりける。
そのとき、里の翁のいはく、
「むかし、天龍海喜法印といふ山伏あり。當時(そのとき)、この人の所願によりて、生きながら、土定(どぢやう)したりと、傳へ聞きたることもぞ、ある。おもふに彼(か)の法印は、今なほ、土中に死なずや、あるらん。是なるべし。」
と、いひしかば、里人等、うべなひて、櫃の上に殘りたる土を搔き拂ひつゝ、よく見るに、果して、歲月・名字などの彫りつけてあるにより、感嘆・敬信せざるものなく、俄かに注連(しめなは)を引き遶(めぐ)らし、蘆垣(あしがき)をさへ結びなどして、妄(みだり)に人を近かづけず。
かゝりし程に、近鄕の老弱男女(ろうにやくなんによ)、傳へ聞きて、參詣・群集したりしかば、更に又、假屋(かりや)やうのものを修理(しつら)ひて、線香・洗米などを備へ、なほ、日にまして、繁昌しけり。
しかれども、石櫃をば、そがまゝにして、戶をひらかず。
鈴鐸の音、讀經の聲は、月を經(ふ)れども、絕ゆることなし。
その石櫃の上のかたに、息ぬきの穴、三つ、四つ、あり。
その入り口は二重戶にて、第一の戶はひらけども、二の戶は内より鎖(とざ)したるが、はじめ、ひらかんとしたれども、得(え)披(ひら)かれざりければ、その後は、里人等も、おそれて、いよいよ、開くこと、なし。
この年、冬のころまでも、參詣、日每に、たえず、とぞ。
抑(そもそも)この一條は、同年の霜月より、予が家に來て仕へたる、初太郞といふ僕(をとこ)の、云々(しかじか)と、かたりしなり。渠(かれ)は信濃ノ國高島郡下(しも)の諏訪(すは)眞字野村[やぶちゃん注:現在の下諏訪町はここだが、「真字野」は見当たらない。]のものなり。その故鄕にありし日より、件(くだん)の事を傳へ聞きつゝ、
「こたみ、江戶へ來つる折、同行(どうぎやう)のもの、もろともに、平井手村へ立ちよりて、かの石櫃を見き。」
と、いへり。しからば、
「その年號は、何とかありし。」
と、たづねしに、
「年號は、おぼへ候はず。大約(おほよそ)今より百五十餘年に及ぶと聞きつ。」
といふ。
「さらば、明曆・萬治の中か、寬文にはあらずや。」[やぶちゃん注:この年号は連続であるので、一六五五年から一六七三年までに相当する。]
と、一、二を推して問ひ質(たゞ)せども、いふがひもなく、
「知らず。」
と答ふ。
かゝるあやしき物語には、そら言も多かれば、疑はしくは、思ふものから、二十(はたち)に足らぬ田舍兒(ゐなかふさ[やぶちゃん注:「ふさ」は意味不明。「さ」ではないかも知れない。ここの左ページの四行目。])の、「正しく見き」といふなれば、作り設けし事には、あらじ。彼地の人に逢ふ事あらば、ふたゝび、問はんと思ひつゝ、「雜記」中に記しおきぬ。扨、その後は、いかにしけん。問ふよしもなくて過ぎにき。
[やぶちゃん注:底本でもここで改行している。]
按ずるに、「見聞集」に云、
『慶長二年[やぶちゃん注:一五九七年。秀吉の晩年。翌年死去。]の比及(ころほひ)、行人(ぎやうにん)、江戶へ來り、いふやう、
「神田の原大塚のもとにて、來る六月十五日、火定(くわぢやう)せん。」[やぶちゃん注:「神田の原大塚」「神田の原」は解せないが、まだ幕府が出来ないころは、広域を神田の原と呼んだのかも知れない。ここは「大塚」で現在の東京都文京区大塚でよかろうか。]
と、ふれて、町を巡(めぐ)る。是を、
「おがまん。」
と、貴賤、群集し、廣き野も、所せき、立ところ、なかりけり。
塚中(つかちう)に棚を結びて、その下に薪をつみ、火を付け、燒き立つる處に、行人、火中に飛びいりたりとも、弟子の行人ども、傍らより、突き落としたり、ともいふ。我、たしかには、見ざりけり。次の日、朋友とうちつれ、とぶらひゆき、大塚のあたりを見るに、人氣(ひとけ)は、ひとりもなく、跡には、骨まじりの灰ばかり、のこりたり。』
と、しるしつけたる事もあれば、およそは、慶長・元和[やぶちゃん注:一五九六年から一六二四年まで。以下の年号までには寛永・正保・慶安・承応・が挟まる。]より明曆・萬治の頃までも、さる名聞(みやうもん)の爲(ため)などに、命を失(うしな)ふ似非行者(ゑせぎやうじや)の、江戶の外にも、ありしならん。火定は、弟子に突き落されても、立どころに死にたらめ。土定して百五、六十年、さすがに死も果てざりしは、猶、この火宅に愛借(あいじやく)したる慾念の凝(こ)れるにこそ。迷ひのうへの迷ひなるをも、よに、理に(り)にあきらかならで、只、竒に走り、信を起こすは、なべての人のこゝろなりけり。今も又、さる人あらば、智識の杖もて、破却せしめて、成佛させたきものにあらずや。
[やぶちゃん注:「見聞集」(けんもんしゅう:現代仮名遣)は仮名草子作家三浦浄心(永禄八(一五六五)年~正保元(一六四四)年)によって著された江戸初期の世相や出来事を主な話題としたもの。全十巻。浄心の子孫の家に秘書として伝えられ、化政期の三浦義和の頃から伝写により流布し、明治以降に翻刻が、多数、刊行された。作中に作品当時が慶長一九(一六一四)年とする記載があるため、「慶長見聞集」とも称され、近年に至るまで、作品内時制の基準を無批判に慶長十九年に置いて解釈したことに起因する混乱が江戸時代研究関係の書物の各所に見受けられるが、これは幕政批判に対する干渉を避けるための擬態であって、実際の作品成立時期は寛永(一六二四年~一六四五年だが、三浦は正保元年三月十二日(一六四四年四月十八日)に没しているから、そこまで。寛永二十一年十二月十六日(一六四五年一月十三日)に正保に改元されている)後期と考えられている(以上は当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」十二巻の「卷の貳」(大正六(千九百十七)年江戸叢書刊行会編刊)のここで当該話「神田大塚にて行人火定の事」が読める。但し、もっと細部がリアルに読めるかと期待しない方がよい。長いが、事件は最初の五分の一だけで、ほぼここにある通り(近くに蟻が異様に群がっていたというものぐらいしか、落ちている部分はない)で、後は辛気臭いペダントリーに過ぎない。
以下は「兎園小説」にはない、底本編者の渥美正幹(馬琴の外孫)の評言。底本では全体が一字下げ。]
正幹云、この土定の行者が得死なずして、鈴鐸(れいたく)・讀經の聲の幽(かす)かに聞えしというは、疑ふべし。こは石櫃の現はれ出たるによりて、例の山師などの言ひふらして、賽錢・施物(せもつ)を貪る計策に出て[やぶちゃん注:ママ。]たるなり。只、翁が奇談珍說、何くれとなく抄錄して、そが小說の材料に用ひしは、今更いふまでもなし。この見聞集に見えたる、慶長の比、江戸大坂の原[やぶちゃん注:ママ。「大塚」の誤り。]にて、火定の行者の事は、「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせしは全くこれより轉化したり。翁の思想の自在なる物として、其小說に入ざるものなし。但し、この似非行者が、猶、火宅に愛惜(あいじやく)せる、煩悩の迷ひを醒ませし評論は、見識、卓(たか)し。予、甞て、「髑髏(どくろう)の圖」に題せる一絶あり。
脫二却シテ人間五慾ノ煩ヲ一
荒凉長ク委ス九原ノ天
世人欲セハㇾ識ント二他ノ情味ヲ一
看取セヨ南華至樂ノ篇
拙劣、まことに愧(は)づべしといへども、因みに、こゝに錄(しる)しぬ。
[やぶちゃん注:『「八犬傳」第三輯に犬山道節が圓塚山にて、火遁(かとん)の術もて火定を示し、愚民の金錢をとりて、軍要の用意にせし』「南総里見八犬伝」第三輯巻之四の「第廿七回」の後半の「寂寞道人(じやくまくだうじん)見(げん)に圓塚(まるつか)に火定(くわじやう)す」を指す。明四二(一九〇九)年金港堂刊の同書の当該二十七回の冒頭をリンクさせておく。後半部の始まりはここの後ろから五行目で、火定幻術の挿絵もここにある。
「脫二却シテ人間五慾ノ煩ヲ一……」訓読しておく。
人間(にんげん) 五慾の煩(わづらひ)を脫却して
荒凉 長く委(まか)す 九原の天
世人(せじん) 他の情味を識らんと欲せば
看取せよ 南華至樂の篇
「南華至樂の篇」というのは、書の「荘子」(そうじ)のこと。「荘子」の完全なテキストとしては最も古い宋本は「南華真経」という異名を持ち、 南宋の刊本は外篇の「至楽篇第十八」までで構成されている。
最後に。私はこの手の入定したはずの僧が、妄執故に生き続けてしまうという話柄が大好きで、枚挙に遑がないほど、電子化注している。その中でも最も古い一つであるサイト版の三坂春編(みさかはるよし)の「入定の執念」をリンクさせておく。そこの冒頭注に私のめぼしいそれらをリンクさせてもある。]
〇土中出現の觀音
文化十三年戊子[やぶちゃん注:一八一六年。]の春、正月廿五日の夜、巢鴨の町醫師大舘微庵(おほたてびあん)[やぶちゃん注:不詳。]が弟松之助といふもの、王子權現[やぶちゃん注:現在の東京都北区王子本町にある王子神社(王子権現)。]の社(やしろ)のほとりにて、黃金佛(わうこんぶつ)なる觀音の小像を掘り出だせしこと、ありけり。かくて、同年の秋閏八月中旬、肝煎・名主等(ら)、市(いち)の尹(かみ)の旨(むね)を得て、事の由(よし)を書きしるしつゝ、町々へ、ふれ傳へしかば、しりたる人も多かめれど、本文のまゝ、抄錄す。其書にいはく、
拾四番組名主政右衞門支配巢鴨町勘兵衞店町醫師
大館微庵弟 松之助
子二十六歳
右松之助義、去亥年中より、王子村金輪寺雇ニ而罷越居候處、當正月二十六日夜、主人用事にて罷出立歸候節、夜四ツ時[やぶちゃん注:不定時法で午後十時頃。]餘、王子權現と稻荷社[やぶちゃん注:王子稲荷神社。王子権現とは二百六十メートルほどしか離れていない。]之間、十條村方へ、拾二、三間[やぶちゃん注:二十二~二十三メートル半強。]も參り候往還端にて、光り候品、見え候間、立寄見候得ば、土中より、光り、出候ニ付、少し、土中を掘候ば、小サキ佛像、出、光り居候間、持歸り洗見候得ば、金佛之觀音に付、能々、改見候處、黃金佛にて、長ケ壹寸八分[やぶちゃん注:五センチメートル半弱。]程有ㇾ之間、卽刻、兄微庵方へ持參り、同二月五日、御用番永田備後守樣御番所へ御訴申上候處、御糺之上、上ケ置候樣被レ二仰渡一、當八月廿六日、微庵・町役人・組合・肝煎・名主一同、右御番所へ被レ二呼ヒ出サ一、月數相立候ニ付、右之品ハ松之助へ被シㇾ下旨、右ニ付、不審成異說等、不二申シ觸レ一義は勿論、猥りに、人々に爲セㇾ見候事不二相成一候間、其旨存候樣、於二御白洲一被レ二仰セ渡一、右佛像、御渡被ㇾ成候。下略子閏八月十八日
かゝる事を、江戸町々なる借屋(しやくや)・店借(たながり)の者迄に、ふれ繼がれしは、いとめづらし。おもふに、黃金佛なれば、後日に、ぬしの出るとも、異論あらせじ、との爲歟。且、靈驗などをさへ、唱へさせじ、との爲なるべし。
[やぶちゃん注:底本でもここで改行。]
按ずるに、「本草」ニ載セテ二地鏡圖ヲ一云ク、「黃金之氣赤シ。夜有二火光及白氣一。」。かゝれば、件の佛像の、夜、その光りをはなちしは、黃金ゆゑ歟。靈ある故歟。この事、極めていひ難し。且、その土中に入りしこと、深からざりしは、雨後などに、人の遺(おと)せしことありしを、知らで、踏み込みたるもの歟。これも亦、しるべからず。是より先にも、夜な夜なに、光をはなちしものならば、見出だす人も有るべかりしを、松之助が目にのみかゝりて、掘り出だされしも亦、竒なり。思ふに、昔時(むかし)、佛像の、水中に光りを放ちて、或は漁者(ぎよしや)の綱[やぶちゃん注:「兎園小説」版では「網」。]にかけられ、或は木の杪(うら)、井の底より出現したもふ故(こと)ゝいへば、靈驗あらぬものもなく、堂塔・伽藍、美を盡くして、今も衆生にをがまれたまふに、いかなれば、この觀音のみ、さるよしもなく、世の人にしられも得せず、をがまるゝことすら許されたまはぬは、佛にも、幸不幸や、ある。もし、猶、時の早し、とて、そこに知識をまたせたまふか、さらずは、國の寶をもて、その軀形(みかたち)としたまふを、耻させ給ふこともやあらむ。此等の靈のある故に、凡夫のめづる靈驗を現はしたまはぬものならば、寵辱利害(ちやうぢよくりがい)を解脫(げだつ)したまふ、それこそ、眞(まこと)の靈佛ならんとまうさんも、猶、かしこかるベし。
[やぶちゃん注:「兎園小説」にはこの最後に『文政八年六月小暑後之朔、識於著作堂南窓合歡花蔭』として、その下方に馬琴の号の一つである『簑笠漁隱』(さりつぎょいん:現代仮名遣)の署名が載る。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子 / 第五集~了 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蛇化して爲ㇾ蛸 »