小酒井不木「犯罪文學硏究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (16) ラフカヂオ・ハーンの飜譯
ラフカヂオ・ハーンの飜譯
德川時代の怪異小說は、前にも述べたごとくそれ自身さほどの文藝價値を持たないのに、一たびラフカヂオ・ハーン(小泉八雲)の手に飜譯されて、英米に紹介されると、世界的の名聲を博することが出來た。それはいふまでもなくハーンの天才によつて、飜譯とはいふものの一種獨得の詩味を持たされ、到底原作からは得られないやうな夢幻的な美感を與へられるからである。私は英米の怪異小說を愛好さるゝ讀者に、是非、ハーンの作物を御勸めしたいと思ふので、特にこゝに紹介して置くのである。
怪異小說を取り入れたハーンの物語集にはKwaidan, Kotto, A Japanese Misellany, Shadowing, ln Ghostly Japan などがあるが、この中 Kwaidan が最もポピュラーになつて居る。この中には臥遊奇談から取つた『耳なし保(ほ)一の話』夜窗鬼談から取つた『お貞の話』『鏡と鐘』怪物輿論から取つた『ろくろ首』百物語から取つた『貉』新選百物語から取つた『極祕』玉すだれから取つた『靑柳の話』の外に、ハーンが直接、地方の農夫などから聞いた話が收められている。中にも『貉』は極めて短いけれども、珠玉のような作品である。
[やぶちゃん注:『耳なし保(ほ)一の話』ママ。
以下、底本では引用部は全体が二字下げ。但し、版組みの誤りと思われるが、エンディングに近い、長い一文「かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。」のみ、二行目が行頭から書かれてある。]
『京橋の某商人が、ある夜遲く紀伊國坂をとほりかゝると御堀のそばに一人の女が、頻りに泣いて居た。彼はそれを哀れに思つて、近づいてよく見ると、立派な服裝をした良家の若い娘であつた。
『お女中、どうしたのですか。』と、彼は聲をかけたが、彼女は袖に顏を埋めて、泣き續けた。
『お女中、どうしましたか。お話なさい。』
彼女は立ち上つたけれども、相も變らず彼に背を向け、袖に顏を埋めて泣いた。やがて彼は彼女の肩に手をかけて『お女中、お女中』と頻りに呼ぶと、彼女ははじめて振り向いて袖をおとし、手をもつてその顏をつるりと撫でた。見ると眼も鼻も口もないのつぺら棒の顏であつた。
『ヒヤツ!』と言つて彼は夢中になつて駈け出した。紀伊國坂にはそのとき人一人とほつて居なかつたが、彼は驀地《まつしぐら》に走り走つた。と、前方に提燈の灯が見えたので、ほつと思つてかけつけて見ると、それは蕎麥賣りの灯であつた。
『あゝ、あゝ、あゝ』と彼は叫んだ。
『これ、もし、どうしたんです?』と蕎麥賣りの男はたづねた。
『あゝ、あゝ』
『强盜にでも逢つたのですか。』
『いや、いや、お堀のそばで、若い女に、あゝ、その顏が……』
『えゝ? ではその顏は、こんなでしたか?』
かういつたかと思ふと、蕎麥賣りの男は、その手で顏をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。
はつと思ふと提燈の燈が消えた。』
これはもとより逐字譯ではないが、全篇がみな、かうした鹽梅に引きしめて書かれてある上に、ハーン獨特の詩的な而もわかり易い文章を以て物されてあるから、思はず釣りこまれて讀んでしまふのである。
[やぶちゃん注:私はまず、古くに『柴田宵曲 續妖異博物館 ノツペラポウ 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を電子化注しており、英語原文もそこに載せてある。後に、別底本を用いた電子化「小泉八雲 貉 (戶川明三譯) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」では、小泉八雲が原拠としたものも電子化して示してある。
というより、私は、
私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」に於いて、小泉八雲が来日して以来、亡くなるまでに書かれた全公刊作品を、「小泉八雲全集」を元にして、それを総て、電子化注として既に、昨年の二〇二〇年一月十五日に完遂している
のである。更に言えば、もっと古くには、サイト版で、
及び
も公開している。]
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