曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 金靈幷鰹舟事
[やぶちゃん注:この話、「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」に梗概があったので、私が注で既に電子化している。今回はまた、総て零から、やり直してある。そちらと差別化するために、段落を成形した。但し、「金靈」については、そちらの私の注を参照されたい。なお、文中で述べている通り、この日の会合は文宝堂邸で行われた。]
〇金靈 幷 鰹舟事
今玆、乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]春三月、房州朝夷郡大井村五反目[やぶちゃん注:千葉県南房総市大井のバス停名に「五反目」(NAVITIME)が現存する。最大拡大されたい。]の丈助といふ百姓、朝五時比、
「苗代を見ん。」
とて、立ち出でて、こゝかしこ、見過し居たるをり、靑天に、雷のごとくひゞきて、五、六間[やぶちゃん注:約九メートル強から十一メートル弱。]、後の方へ落ちたる樣なれば、丈助、驚きながらも、はやく、その處に至り見れば、穴、あり。
手拭を出だして、その穴を、ふさぎおさへて、𢌞りを掘りかゝり見れば、五寸程、埋まりて、光明赫奕たる、鷄卵の如き、玉を、得たり。
「これ、所謂、『かね玉』なるべし。」
とて、いそぎ、我家へ持ち歸り、
「けふ、はからずも、かゝる名玉を得たり。」
とて、人々に見せければ、
「是や。まさしく『かね玉』ならん。追々、富貴になられん。」
とて、見る人、これを羨みける。丈助も、よろこびて、いよいよ祕藏しけるとぞ。
「此丈助は、日比、正直なる故、かゝるめぐみも、ありしならん。」
と、きのふ、房州より來て、わが菴を訪ひける堂村の喜兵衞といふ人の物がたりしまゝ、けふの兎園にしるし出だすになん。
[やぶちゃん注:底本では、以下の二文は全体が一字下げ。]
其かね玉の事につきては、いさゝか考もあれど、けふのまとゐのあるじなれば、ことしげくて、もらしつ。猶、後にしるすべし。
[やぶちゃん注:底本では以下行頭に戻る。]
「ことし乙酉の夏ほど、鰹の獵のありしこと、むかしより多くあらざる事なり。」
とて、右の房州の客の語るをきくに、
東房州 小みなと 内浦 あまつ はま荻 磯村 浪太(ナブト) 天面(アマツラ) 大ま崎 よし浦 江見 和田
西房州 白子 千倉(チクラ) 平舘 忽戶 平磯 千田 川口 大川 白有浦 野島 洲崎 館山 那古 多田羅
右は、獵船の出づる所の地名、あらましを、しらす。
「壱ケ處にて『釣溜』【鰹の獵船を「釣りため」といふ。】十五艘、或は廿艘ばかりづゝも出づる中にも、あまつは、二百艘も出づるよし。凡、一艘にて、鰹千五百本・二千本づゝ、六月六日比より、同十四、五日比は、每日、打續き夥敷[やぶちゃん注:「おびただしく」。]獵のありし事、めづらし。」
とて、かたりしまゝ、筆のついでに、しるしおきぬ。
文政八乙酉初秋朔 文 寶 堂 誌
[やぶちゃん注:「小みなと」千葉県鴨川市小湊(グーグル・マップ・データ)。以下、東へと海岸を辿る。「見やしねえよ。面倒なことをせんでいいに。」と言う勿れ。私は高校三年間、社会の主選択として地理を選び、所謂、「世界地誌」(「地理B」)までやった、大の地理や地図好きなので、少しも苦じゃないのさ!
「内浦」鴨川市内浦。所謂、「鯛の浦」を含む内浦湾。小学校三年の時に父母と祖母と四人で行った。また、行きたいな。海の底から舞い踊ってくる鯛の鱗の光ったのを、昨日のことのように覚えている。もう四十五年も前のことなのに……
「あまつ」鴨川市天津。天津小湊港があることで知られる。
「はま荻」鴨川市浜荻。
「磯村」鴨川市磯村。鴨川漁港がある。
「浪太(ナブト)」恐らく鴨川市太海(ふとみ)附近。
「天面(アマツラ)」鴨川市天面。
「大ま崎」思うに、鴨川市江見太夫崎(えみたゆうざき)を指しているものと思われる。
「よし浦」鴨川市江見吉浦。
「江見」江見漁港を中心とした広域。
「和田」千葉県南房総市和田町(わだまち)は広域。
「白子」南房総市白子(しらこ)。
「千倉(チクラ)」南房総市千倉町(ちくらちょう)も広域。
「平舘」千倉町平舘(へだて)。現行表記の漢字「舘」を本文でも用いた。
「忽戶」千倉町忽戸(こっと)。
「平磯」千倉町平磯(ひらいそ)。
「千田」千倉町千田(せんだ)。
「川口」千倉町川口(かわぐち)。
「大川」千倉町大川。
「白有浦」読み不詳。次の「野島」から、現在の千倉町白間津から東の白浜町地区の広域の浦辺を指すものと推定される。
「野島」南房総市白浜町白浜にある野島崎。
「洲崎」館山市洲崎。ここから、初めて、現在の内房に移るのである。
「館山」館山市館山。館山港を擁する。
「那古」館山市那古。ああっ! 漱石の「こゝろ」の最も大切なシークエンスを含むあそこだ! リンク先は私の初出復元版であるが、実は、その(八十二)(探すのが面倒な御仁のためにブログ分割版をリンクさせておく)を見て戴きたいのだが、初出には「那古」の地名は、実は、出ていない。当該箇所は、
*
其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。
*
であった。漱石は、極めて珍しく、単行本に際して、以下のように、大きくここを書き換えているのである。
*
私はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]彼を說き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃海水浴場だつたのです。
*
「多田羅」南房総市富浦町(とみうらちょう)多田良(ただら)。
「六月六日比より、同十四、五日比は」グレゴリオ暦で七月二十一日より七月二十九、三十日である。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第七集) 古墳女鬼 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通 »