曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松五郞遺愛馬の考異
[やぶちゃん注:これは馬琴の息子で松前藩医員であった琴嶺舎宗伯滝沢興継の発表であるが、彼の発表物は大概が馬琴の代筆であったことが判っている。これもそれが判るように、例の「曲亭雑記」の巻第二の下に「琴嶺興繼」名義乍ら、載っているので、そちらを底本にする。但し、挿絵は極端にタッチが異なるので、「兎園小説」も載せた。明らかに「兎園小説」版の方が手馴れていて上手い。文章は父に代筆して貰ったものの、絵については興継は渡邊崋山の兄弟子である(崋山の方が五歲年上だが、同じ絵師金子金陵に入門したのが興継の方が早かった。因みに、その息子の縁で馬琴は崋山と親しくなったのである)からして、「兎園小説」版の方は興継の書き直したもので、こちらの絵は、松前藩家臣と思われる櫻井耽齋なる人物から土屋翁平(不詳)へ送った最後の方の書簡に出る現地の主要な配置図と思われる。なお、やはり、だらだら長いので段落を成形した。]
○松五郞遺愛馬(いあいば)の考異 琴 嶺 興 繼
今玆(ことし)暮春朔日の兎園會に、家嚴[やぶちゃん注:「かげん」は他者に対して自分の父を言う時に用いる語。]の書きつめて披講したりし「五馬之一」、陸奧の伊達郡箱崎村農民傳兵衛が子の松五郞か遺愛の馬の事[やぶちゃん注:これ。]、當時松前老侯、その近習に命じ給ひて、圖說をつまびらかに錄(しる)し玉はりしもの、嚮(さき)に家嚴ふかく藏め失ひて、たづね求めたるに、かいくれ、見えざりければ、暗記をもて書(かゝ)れしなり。
しかるに、いぬる日、ゆくりなく、その圖說を、たづね出でたり。
扨、披閱(ひえつ)せられしに、曩(さき)に誌されしと、大かたは違(たが)はねど、暗記の失(あやま)りなきにあらず。家嚴、則、その書畫を興繼にしめしていへらく、
「かゝる實錄に、いさゝかたりとも、錯誤あらんは、遺憾の事なり。そのたがへるところどころを、なほ、書きあらためて、後のまとゐに披露せばやと思へども、おなじすぢなることどもを、ふたゝびせんは、わづらはしく、且、ことふりにて、勞(らう)にしも、得(え)[やぶちゃん注:不可能を示す呼応の副詞「え」の漢字表記。]湛へず。汝、われに代りて、これかれを、よく比較して、足らざるを補ひ、違へるを正せかし。」
と、いはれたり。
おのれ、不似(ふじ)にして、文辭のうへには、その才、露ばかりもあること、なし。
『何と書べきや。』
と、思ひ煩ふものから[やぶちゃん注:中古以前の正しい逆接の接続助詞の用法。]、
『もし、かゝる事なかりせば、いかでか不文(ふふん)の筆ずさみを、晴(はれ)なるむしろにおし出だして、諸先生の、玉をつらね、錦をひるがへせる文場に加はることを得べけんや。いなむも、事によるべきものを。』
と、思ふばかりを心あてに、おちおち、たがへるところどころを、さらに誌(しる)すこと、左のごとし。
[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]
奧州伊達郡箱﨑村は、御領にて、桑折御代官所の支配たり。同村の百姓傳兵衛は、高橋氏にして、文政二己卯[やぶちゃん注:一八一九年。「己」を「巳」に書いてあるのは訂した。]には、年四十七になりぬ。渠(かれ)は元祿年間[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]より、代々、當地に住居して、相應の百姓なりしに、近年、いよいよ、ゆたかになりぬ。男女の子ども、三、四人あり。彼松五郞は家子なり。又、この家に老母あり、傳兵衛、素より、孝心ふかく、よく老母に仕へしかば、松五郞も、その心、親に劣らず。これにより、その二親の志にたがふことなく、祖母に、よく仕へたり。且、その性(さが)、馬を好みしこと、曩編(なうへん)にしるされし如し。かくて、松五郞は、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年]の夏の比より、勞瘵(らうさい)[やぶちゃん注:「勞咳」に同じ。肺結核のこと。]の症にて、病みわづらふこと、二とせに及びつゝ、文政元年戊寅冬十月廿七日[やぶちゃん注:一八一三年十一月二十五日。]に、享年二十歲にて身まかりけり。曩編に文政二年十二月十二日に病死せしよしをしるされしは、暗記の失(あやま)りなるべし。
[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]
かくて、次の日、松五郞が亡骸(なきがら)を棺(ひつぎ)に斂(をさ)めんとせしとき、祖母幷に二親、哀傷に得たへず、松五郞が手道具やうのものを、おちもなく、とりあつめて、棺に納めんとしたりしを、親類たるもの、ひそかに諫めて、
「其事、甚、しかるべからず。當今は、六道錢すら、嚴しく停止(ちやうじ)せられしに、まいて、かゝるしなじなを、むなしく土中に埋めんは、物體(もつたい)なきことどもなり。ゆめゆめ、思ひとゞまり給へ。」
と、まめやかにいさめしかば、祖母・ふた親も、その儀に任(まか)して、さる事は、せず、なりぬ。
しかるに、この宵、同村の貧民、四、五人[やぶちゃん注:「昼の葬儀の折りに」というような言葉が抜けている。]、
「手傳ひの爲に。」
とて、來てをりしに、はじめ、
「松五郞が棺の内へ、手道具やうのものを納めて、つかはさん。」
と、いひし趣を、もれ聞きて、そのゝち、親類なるものゝ諫めによりて、さる事はせずなりしことをしらず、こゝをもて、件(くだん)の四、五人、竊(ひそ)かに示し合しつゝ、同月廿九日の薄暮(はくぼ)より、打ちつどひて、酒、四、五升を求め來つ。これを、飮むと、のむほどに、酒氣(しゆき)に乘じて、松五郞が墓所に赳き、既に、その新墓(にいばか)を發(あば)きし折り、松五郞が遺愛の馬は、厩(むまや)の橫木を推し破り、驀地(まつしぐら)に走り來つ。件の惡者(わるもの)、四、五人を踶仆(けたふ)せし事の趣は、曩編にしるされしがごとし。これを、
「隣村の百姓なりし。」
と、いへりしは、傳兵衛が、聊か、遠慮もていひし事にて、實(まこと)は同村の百姓なりけるよし也。すべてこの箱﨑わたりは、人氣(じんき)よろしからぬ所にやありけん、かゝるまさな事をするもの、折々ありとぞ聞えたる。
[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]
さて。件の馬は靑毛(あをげ)なり。曩編に「栗毛」としるされしは、是、又、暗記の失りなり。この馬は、「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧より出でたるを、二歲のとき、傳兵術が從弟(いとこ)龜次郞といふ者、馬市(むまいち)にて買取來たり、松五郞は馬を好むに、傳兵衛も又、馬を愛する心ある者なりければ、すなはち、
「乘馬にせん。」
とて、乘り立てしかど、
「地道(ぢみち)、よろしからず。」
とて、遂に小荷駄(こにだ)にしたりける。されども、松五郞は、はじめにかはらず、この馬を鍾愛して、みづから、抹(まくさ)を飼ひ、又、ある時は、餅菓子などをも食はせ、田畑(たはた)へ牽きもてゆくときも、決して、家僕・雇人などにあづけずして、みづから牽きて、ゆきかへりせしとぞ。
[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。
『「鞨鼓野(かつこの)」といふ牧』伊達藩内であろうが、不詳。但し、ちょっと厭な名前だ。雅楽で使われる打楽器で鼓の一種で中型の桴で叩く羯鼓(鞨鼓)(かっこ)の鼓面は馬の皮で出来ているからである。]
又、傳兵衛が菩提所は、眞言宗にて、普賢山福嚴寺[やぶちゃん注:今も同じ福島県伊達市箱崎山岸に現存する(グーグル・マップ・データ)。]といふ。住持は覺應法印とて、文政元年、その齡(とし)六十七歲なりとそ聞えし。又、この寺は傳兵衛が居宅よりは三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル強。]許(ばか)り北のかたにあり。又、その墓所は、寺を距(さ)ること、東南のかた、五町許り[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]にあり。傳兵衛が宅より、墓所は、東南の隅にあたりて、相い去ること、二町程[やぶちゃん注:二百十八メートル。]なり、といふ。
[やぶちゃん注:以上の詳細な距離と方向記載から、現在の箱崎地区内として限定出来る、僅か十九歳にして亡くなった、この馬を愛し、孝行者であった高橋松五郎の墓はこの中央附近にあったものと私は推定する。高橋家はその東のこの中央附近か(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真を用いた)。
底本でもここは改行がある。]
松五郞が戒名は「寂光院貞心自了信士」【文政元年戊寅十月廿七日二十歲。】
[やぶちゃん注:底本でもここは改行がある。]
松前家より、件の趣を、よく質(たゝ)し問ひて、家嚴(ちゝ)に示し給ひしは、文政二年六月十三日のことなり。後(のち)の考への爲めに、その筒牘(かんとく/テカミ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を寫し書する事、左のことし。
松前藩長尾氏手簡
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げであるが、活字本として版組みした際、次のページの一行目分を下げるのを忘れている。]
昨夕は罷出御目通、殊に寬々御物語仕、大慶至極奉ㇾ存候。其節申上置候箱﨑馬之巨細書指上候樣被二申付一、則爲ㇾ持指上候間、御落手願上候。早々頓首。
六月十三日 長 尾 友 藏
瀧澤樣尊下 長 尾 友 藏
[やぶちゃん注:既に注したが、来信の相手は松前藩家臣長尾友蔵(所左衛門)である。]
同藩櫻井氏手簡
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。但し、手簡(書簡)の柱のみ行頭から。]
一筆啓上仕候。甚暑之砌御座候得共、上々樣益御機嫌能被ㇾ爲ㇾ遊二御座一、御同意奉二恐悅一候。隨而貴公樣、彌御安泰被ㇾ成二御勤仕一目出度御義奉ㇾ存候。然者蒙ㇾ仰候箱﨑名馬實說巨細書奉二上一候。宜敷御披露奉ㇾ願候。且又右馬之義茂[やぶちゃん注:助詞の「も」。]、箱﨑傳兵衛從弟龜次郞と申、當時瀨之上(セノカミ)驛[やぶちゃん注:箱崎と阿武隈川を挟んだ南西対岸に福島県福島市瀨上町が現存する。]ニ別宅仕、馬喰商賣仕居候間、同人へ懇意仕候出入園吉と申者へ中含承合候得は、龜次郞心易受合候間、伯父傳兵衛へ申含承合候得者、龜次郞心易受合候而伯父傳兵衛へ申込候處【興繼云、伯父傳兵衛といへは、龜次郞は、則、傳兵衛が爲には甥にはべきを傳兵衛が從弟としるせしは、こゝろえがたし從弟は甥の誤りか。猶、たづぬべし。】[やぶちゃん注:「兎園小説」版ではこの附近がゴッソり存在しない。]中々放候樣子無之旨、態々以飛脚申參り候。右紙面貴公樣迄指上候間、可ㇾ然御取繕御沙汰奉ㇾ願上候。乍ㇾ倂此上是非々々被ㇾ爲ㇾ有二思召一候者、又々一手段仕見可ㇾ申候得共、先此段奉申上候。猶又、箱﨑傳兵衛居宅・寺・墓所等踈繪圖認奉二指上一候。彼是可ㇾ然樣御取合奉二願上一候。殊更此間家内ニ病人有ㇾ之、延引仕候段奉二恐入一候。何分宜敷御執成奉ㇾ願候。右之趣可ㇾ得二貴意一、如ㇾ此御座候。恐惶謹言。
六月二日 櫻 井 耽 齋
土屋翁平樣
[やぶちゃん注:上掲のものが、底本のもの。キャプションは、時計回りに、「松五郞墓」、「亀次郞宅」、「セノ上路」、右幅に「ホハラ路」、右幅中央に「ハコサキ村傳兵衞宅」。これだと、亀次郎の家は阿武隈川対岸にはないことになる。不審。]
[やぶちゃん注:後者が「兎園小説」版。キャプションは右から左に、「愛宕山」、「松五郞墓」、「ハコサキ村」。]
別紙奉二申上一候合紙面入二御覽一候。瀨之上(セノカミ)後藤龜次郞者、箱﨑傳兵衞方ヨリ別家仕者之子ニ而傳兵衛ト者從弟ニ御座候。此段御含ミ被ㇾ置御披露可ㇾ被ㇾ下候以上
翁平樣 耽 齋
傳兵衛從弟龜次郞手簡
飛脚ヲ以テ申上候。暑氣甚敷候得共、彌御勇健ニ可ㇾ被ㇾ成御渡一ト奉ㇾ賀候。然者、先日者御目懸大慶奉ㇾ存候。其節御咄被ㇾ成候箱﨑傳兵衞方へ馬之義申聞候處、實[やぶちゃん注:「まことに」、]忠義ニ相當リ候馬之殼ニ御座候得者、傳兵衛方ニテ飼ころしに仕度よしに御座候。尤前々ヨリ忰松五郞氣ニ入、一人ニ而、飼立候馬ニ御座候ば、猶更右樣之義有之候義而ハ、相はなし兼候趣ニ御座候。右之段何分御斷り申上候。早々此御座候以上
五月廿七日
瀨之上
後藤屋龜次郞
新田屋園吉樣 要用
長尾友藏は松前家の臣なり【後、改二所左衞門一。】又、櫻井耽齋も同家臣にて、當時在梁川なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、高橋傳兵衞が從弟なり。櫻井耽齋(さくらゐいうさい)も、同家臣にて、當時、在(ざい)梁川(やなかは)なりし醫官なり。又、龜次郞といふ者は、高橋傳兵兵衛が從弟(いとこ)なり。櫻井耽齋、かねて、園吉が龜次郞と識(しれ)る人なるをもて、則、園吉をもて、彼(か)の馬の事をはからはせしに、傳兵衞、かたく辭して、售(う)らざりし事、筒牘(かんとく)に見えたるが如し。抑(そもそも)この竒談は、
「浮きたることにあらず、忠孝の端(はし)にも、かゝつらへるよしあれば、いさゝかも、違(たが)ふことなく、ありつるまゝに、識(しる)しおくべし。」
と、家嚴(ちゝ)のいはれしによりて、この事に及べるのみ。文政八年五月朔 琴嶺興繼
[やぶちゃん注:以下一字下げで依田百川(既注)の評言がある。昨日は、カットする旨を言い、電子化しなかったが、考えを改め、電子化する。]
百川云、凡そ考證の文字は、古事を引證し、彼を較べ、此を比し、無用の事を爭ひ、不急の話を多くするのみ、益ある事、少し。されば、余は考證の文字を好まず。されども、此琴嶺の考證は、よく近時の事を訂正し、その事を實(じつ)にするの功ある。かゝる考證こそ、大に世には益あれ。曲亭の文章,小說には飾(かざり)多く、もとより作りものにはあれども、さもあらぬ道理と思ふもの、少なからず。獨り事實を記するに至りては、一小事(いつせうじ)といへども、苟(いやしく)もせず。琴嶺もまた、その志(こゝろざし)を繼ぎて、この訂正あり。父子、心を用ゐるの老實(ろうじつ)[やぶちゃん注:物事に慣れていて誠実であること。 ]なるは多く得がたし。
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