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2021/09/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前貞女

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。漢詩は縦に並ぶが、引き上げて、一段組みに変えた。短歌も引き上げた。]

 

   ○松前貞女

 寬政[やぶちゃん注:十三年まで。一七八九年から一八〇一年まで。]の末の比、若狹國の人、

「松前にゆかん。」

とて、敦賀より、船に乘りたり。

 そのふねの内に、さた過ぎたる女[やぶちゃん注:若くないことを言うのであろう。]、一人、あり。

「いづくより、いづくへゆくにか。」

と問ひたれば、

「京より、箱舘のしらとりに歸るなり。」

と、こたふ。

「いかなるゆかりにて、京に在りしか。」

とゝへば、

「ことなるゆかりも、あらず。みづからは、ふるさとに在りし時、人につれそひしかど、ゆゑありて、わかれ、やもめとなりぬ。おやは、『ふたゝび、人にみえよ。』と、いはれしかど、かたくいなみて、のがれたり。みやこの見まくほりせしかば、ひとの、『まうのぼる。』とて、船にて能登國につきぬ。さて、京にいりて、あき人の家より、「つふね」[やぶちゃん注:「奴(つぶね)」。召使い。]となりて、一とせ侍りしかど、おもふほどは、都の手ぶりもしられざりしかば、高倉さま[やぶちゃん注:高倉家か。藤原北家藤原長良の子孫に当たる従二位参議高倉永季を祖とする公家。有職故実・衣文道(えもんどう)の家柄。]に參りて、二とせ、つとめ、さて、故鄕にかへり侍るなり。」

といふ。

「それがつくりし、からうた。」

とて、その人、うつし傳へたり。

 春盡早囘一葉船

 薰風拂浪向胡天

 誰憐去程三千里

 旅恨悠々碧海煙

又、

「その國のことばにて、よめるうた。」、

春くればちようかい心ひるかして霞のうちにちつふみえけり

「ちようかい」は「己」、「ひるかして」は「悅」意、「ちつふ」は小舟をいふ。

あぶらさけやくさけまでもいしやませはひるかてつひもなにゝかはせん

「あふらさけ」[やぶちゃん注:清音はママ。]は「美酒」、「やくさけ」は「えぞのにごりさけ」、「いしやませ」は、「無」といふこと、「ひるか」は「嬉しき」といふこと、「てつひ」は「肴」といふことゝいふ。

[やぶちゃん注:漢詩の訓読を試みる。

   *

 春 盡きて 早や囘(めぐ)る 一葉船(ひとはぶね)

 薰風 浪を拂ひて 胡天に向かふ

 誰(たれ)か憐れみ去らん 程(てい)三千里

 旅恨 悠々 碧海 煙(けぶ)る

   *

「胡天」は「北の空・地方」の意。]

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