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2021/09/01

芥川龍之介書簡抄135 / 大正一五・昭和元(一九二六)年七月(全) 十通

 

大正一五(一九二六)年七月十日・鵠沼発信・小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

僕の神經的颶風は高まるばかりだ。君 今度來る時にあの靑いスパニッシュフライを一匹すりつぶり、オブラアトにつつみ、更に紙につつみ、ここへ持つて來てくれないか? こんな事をたのむのは實にすまない。しかし一生に一度のお願ひだ。友だち甲斐に助けてくれ給へ。是非どうか持つて來てくれ給へ。

   七月十日            龍

   隆 一 樣

二伸 二十日すぎになると子供が來る故、その前に來てくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば(この鷺氏のそれは、恐らく芥川龍之介の生涯を最もリアルに、しかも、一瞬の退屈さもなく、徹底的に面白く読ませる、稀有のものである。二〇一七年に新装版が出ている。芥川龍之介好きにはゼッタイにテツテ的にお薦めの一冊である!)、この七月初旬に、『鵠沼の東屋旅館にもど』ったが、『見舞いに来た斎藤茂吉の勧めもあって、東屋の貸家である』この「イの四号」『に移った。この家は玄関とも三あ間の小家で、彼の望む簡素な生活――西洋皿が三枚、小さな机がお膳になったり勉強机になったり、缶詰の空缶になったり生活をはじめ、何かにつけて気をつかう年寄りたち』(養父芥川道章・養母儔・伯母フキ)『から離れて久しぶりに妻と三男』也寸志『だけの暮しをすることができた。これを芥川は〈二度目の結婚〉と呼んでいる』とある。……しかし……かの忌まわしきファム・ファータルからは……決して……逃れられない……『引っ越した翌日』には、早々に、かの『秀しげ子が子供を連れて見舞いに来』ているのである。なお、「二度目の結婚」とは後の遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の草稿附電子化)の「四十三 夜」に拠るもの。

   *

       四十三 夜

 夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絕えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱(いだ)き、淚をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」

   *

一読、忘れられぬ凄絶なる一章である。私は十五年も前にこれを考証した「二度目の結婚(補正の再補正)」を書いている。そこでも既にして、私は一般の芥川龍之介研究の中での「スパニッシュフライ」=自殺薬説に疑問を呈している。まあ、確かに、以上の書簡の、

「こんな事をたのむのは實にすまない」

「しかし一生に一度のお願ひだ」

「友だち甲斐に助けてくれ給へ」

という切羽詰まった畳みかけに、

「是非どうか持つて來てくれ給へ」

とくる。しかも、これは以下の翌日発信の書簡でも繰り返されている。この鬼気迫るまでの懇請要求を見て、「やっぱり、芥川龍之介は自殺するためにスパニッシュフライを小穴に懇請している証拠じゃないか!」と思う人は確かに多いだろう。確かに、

この時に芥川龍之介は既に自殺念慮にとり憑かれていた

ことは、確かな事実ではある。だが、待ってくれよ、しかし、二伸の、

「二十日すぎになると子供が來る故、その前に來てくれ給ヘ」

というのは、何だか、ちょっと変じゃないか?

子供が来る前に自殺したいというのか?

劇薬を隠しておいて、うっかり、子ども(比呂志と多加志)が来て、うっかり触って、うっかり誤飲したら、大変だからってか?

いやいや! それじゃ、切羽詰まった覚悟の即刻自殺の予定とは、これ、矛盾するのじゃないか?

これはトーン・ダウンというより、寧ろ、信じられないほどの拍子抜けの言葉と言えるのではないか?

無論、自殺志願者は同時に矛盾した自殺回避行動もとるのは百も承知さ。しかし、どうだ?

――赤ん坊(也寸志)じゃない二人の子と一緒に――小さなコテージにいることになったら――どうしたって出来にくいことが――自殺のほかにも――ある――じゃないか?

――「二度目の結婚」とは――再び――妻文と――初夜のように交合する――こと

ではないか?

そのための――媚薬として――スパニッシュフライは必要だった――のではないか?

という目的性を、私は、今も取り下げる気は、さらさら、ない、のである。

 

 

大正一五(一九二六)年七月十一日・消印十二日・鵠沼発信・東京市小石川區丸山町三十小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・七月十一日 鵠沼いノ四號 芥川龍之介

 

君の來る時に是非あれを持つて來てくれ給へ。

    七月十一日      芥川龍之介

   小穴隆一君

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この日、この書簡以外に、『「スクキテクレ」と電報』も打っているとあり、七月十三日の条に、『昼、小穴隆一が鵠沼を訪れ、頼まれていたスパニッシュ・フライを渡す』とある。これは、『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』が出典である。リンク先では私が神経症的に注を挟んでいるので、それを除去して訪問時の様子を示す。但し、スパニッシュ・フライの致死量をとんでもない微量に誤っているので、後で必ず、私の注を確認はして貰いたい。

   *

 スクキテクレ、アクタカワ、の電報が七月の十二日にきて、僕は十三日の晝に、僕にとつてははじめての土地の鵠沼で芥川と會つてゐる。松葉杖を抱へた僕は、電車を降りると葛卷と人力車を連らねて芥川の寓居に(伊四號の、)急いでゐた。僕は必ず數日のうちには金澤から上京してくる者と僕との萬一のためにも持つてゐた、スパァニッシュ・フライで(〇・〇〇1グラムが致死量と聞いてゐた一匹が、綿にくるんで蓄音機の針の箱のなかにいれてあつた。)果して、人が死ねるのかどうか、信じたり、疑つたりしてはゐたが、それをクレープの襯衣の隱しにいれて縫ひつけてしまつて持つてゐた。萬が一芥川が芥川の面目かけてもすぐにも死ななければならぬのならば、僕は手を拱いてゐてその後を追ふ腹であり、さういふ若さであつた。

 門で車を降りて内にはいると、僕はすがすがしい撥釣瓶をみた。その撥釣瓶は僕のこころを多少沈めてはくれたが、芥川の留守は意外であつた。(芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、」云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる、さういつた事情でもう少し閑靜な塚本さん(夫人の里方、)の家に原稿を書きにいつてゐた。)

 間には机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの(酒にあらず、)食べものが並んで、歸つてきた芥川とひとわたりの話がすむと、芥川の「散步をしようや。」で僕は伴れだされた。芥川は何年ぶりの松葉杖でさうは步けもしないものを、人目をさけて、小路へ小路へと引つぱりまはしておいてから、「あれを持つてきたか、」と言つた。僕は「うむ。」と答へたが、それからまた隨分步かせられた。(芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた。)僕らが砂丘のはうにでて海をみながら休んでゐたときには、もう僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは芥川にとりあげられてしまつてゐたが、夕陽を浴びてて話してた芥川の話は、ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐたので、僕の張りつめてゐた氣持も救はれて、死といふ懸念もなくなつてゐたほどの、のびやかさを感じてゐた。

 さうししてその日は、芥川のところに泊り、僕自身のことは七月二十九日を頂上として、あとは終るといふ有樣になつてしまつたので、芥川と彼の夫人とに約束してあつたとほり、引越しの金を改造社から貮百圓前借りして、(「三つの寶」の印税のこと、昭和三年六月二十日發行の金五圓の四六判の二倍よりは大きい本、芥川はこの本の印税を改造社とは壹割五分の約束で、僕にはその半分の七分五厘が僕のとりまへと言つてゐた。)僕も鵠沼に移つて芥川のそばにゐることになつた。

   *]

 

 

大正一五(一九二六)年七月十四日・鵠沼発信・南條勝代宛

 

冠省、この間はお見舞のオレンヂをありがたう。その後又腹をいため、唯今ここにごろごろしてゐます。十月末までには東京へかへれるつもり。憚りながら御心配なく。どうかもう御見舞など御無用になすつて下さい。頓首

   七月十四日       芥川龍之介

   南條勝代樣

 

 

大正一五(一九二六)年七月十四日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

冠省、手紙をありがたう。まだ君は東京にゐることゝ思ふ。僕は腹工合だけ少しよくなつた。その代りに便秘してゐる。こちらは不景氣のせゐかまだ寂しい。二十日過ぎに子供でも來たら、ちよつと海へはひり、砂に腹を暖めてゐようと思ふ。輕井澤へ行つたら、片山さんや何かによろしく。それから奧さんもお大事に。

   七月十四日       芥川龍之介

  室生犀星樣

 

[やぶちゃん注:……芥川龍之介の心は秘かに「越し人」の元へと飛んでいることが判る……この日、芥川龍之介は「三つのなぜ」(リンク先は私の古い電子テクスト)を脱稿している。この作品は実際には、

翌昭和二(一九二七)年四月

発行の雑誌『サンデー毎日』(春季特別号)に掲載されたものである。

九ヶ月も前に脱稿しているというのは、龍之介にして、尋常でない異様な早さである

ことに気づくだろう。そしてそれを読む時、その

「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」

が、

――「シバの女王片山廣子」への切ない恋情と

――それを叶えることの不可能であることを悟ってしまった「ソロモン芥川龍之介」の

哀しい返答であった

ことが判るであろう。具体的には、

凡そ一年足らず前の片山廣子から貰った手紙への「返事」こそが「三つのなぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」だったのだ!

どうあっても、それを作品に仮託して、廣子へ秘かに示さずにはいられなかった龍之介は、この作品を、こんなにも早く、その内的要求の強さ故にこそ、書き上げていたのである。その手紙は、

――私の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」

「□片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅰ】 大正一三(一九二四)年九月五日附(底本書簡番号②)」

として全文を読むことが出来る。言っておくが、この芥川龍之介宛片山廣子書簡は二〇一五年一月十五日に初めて公に刊行されたものであり、公開から僅か六年しか経っておらず、今でも、恐らく一般の人には殆んど知られていないものである(その経緯は上記リンク先の私の冒頭注で詳しく書いてある)。

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十一日・消印七月二十二日・鵠沼発信・東京市外田端四三五芥川龍之介方 葛卷義敏宛(葉書)

 

一、碧童先生の句稿(書齋にある)を出しておき、中央公論の人に渡すやうに。君が留守でもわかるやうに。

一、誰か來る時ビオフエル

   七月二十一日      芥川龍之介

  句稿は或はバスケツトの中にあるかも知れない。

二、バスケツトの中の遠藤君の手紙を送るやうに。

 

[やぶちゃん注:削除は底本の注に従って再現した。この書簡、筑摩全集類聚版にはない。ということは、第一次元版(昭和二年から同四年刊行)・第二次普及版(昭和九年刊)・第三次新初版(昭和二十九年刊)全集にはない、ということを意味する(筑摩全集類聚版は初版が昭和三三(一九五七)年であるが、私のは昭和四六(一九七一)年初版である)。元版全集には葛巻義敏が編集に参加している(編集委員ではない)。ということは、元版より後の版に於いて、葛巻が提供した、ということになる。彼は元版の編集を手伝った一人として誰よりもまず、所持する書簡を速やかに総て提供すべき立場にあったはずである。しかし、彼が現在の旧岩波全集(第四次編年体。昭和五二(一九七七)年から翌年刊行)以降にこの書簡を提供したことは明らかである(葛巻が「芥川龍之介未定稿集」を同じ岩波書店から刊行するのは昭和四三(一九六八)年のことであるが、そこには、この書簡は含まれていないことからの推定である。「芥川龍之介未定稿集」は未だに芥川龍之介全集の亡霊のように、研究者では積極的に向き合う者が今も少ない)。こういうところが、彼が、所有する芥川龍之介の遺稿その他を後に恣意的に小出しに公開するようなことをしたとして、芥川龍之介の研究者らから、批判されることになった。実は、私の家からそう遠くないところにある藤沢市文書館に「葛巻文庫」として、故葛巻義敏氏(昭和六〇(一九八五)年没)の芥川龍之介関連の旧蔵品(蔵書・メモ・来簡など)は纏めて保管されている。しかし、新全集の編集作業では、その保存されてある芥川龍之介関連品の一部は劣化が激しく、読み取ることが出来ないものもあり、原本として存在がそこに確認されていながら、結局、再視認さえ不可能で、岩波旧全集を元にせざるを得なかったものが、実際に、あるのである。葛巻氏は確かに芥川龍之介の資料が散逸しないように守った点では、もっと評価されるべきではあるものの、最早、それが、再検証出来なくなりつつあるという事実を知ってしまうと、まことに暗澹たる思いを持たざるを得ないのである。なお、この前日に脱稿した未定稿「鵠沼雜記」(末尾に大正一五(一九二六)年七月二十日のクレジットがある)があり、私はずっと昔に電子化している(リンク先)ので、是非、読まれたい。アフォリズム風のものだが、孰れも奇怪にして、甚だ病的である。龍之介の意図的創作も含まれてはいようが、ともかく、全部が、超弩級に妖しいのである。一つ、軽井沢も登場するのは廣子に通底するか。この中でも、最も強烈なのは、

   *

 僕は全然人かげのない松の中の路を散步してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り步いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ來ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

   *

であろう。

「碧童先生」小澤碧童。芥川龍之介は彼に依頼されて、彼の句集を出版する世話をしていたようである。後の七月二十七日附高野敬錄宛書簡を参照されたい。

「遠藤君」遠藤古原草。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十四日・消印二十六日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・廿四日 □□□□号 芥川龍之介[やぶちゃん注:判読不能は底本では、長方形。]

 

君の鎌倉の宿所がわからぬ故 多分𢌞送してくれる事と思ひ、中目黑へこの手紙を出す。ここも中々暑い。時々軟便になるので海へもはひれぬ[やぶちゃん注:ママ。]。おまけに無暗にヴアイオリンを引く靑年が近所にゐるのでやり切れない。何も書けず。不快極まりなし。一そ東京へかへらうかとも思つてゐる。

藥を敎へてくれてありがたう。あいつは早速一甁買つたが、鍼分故、胃にこたへて閉口する。僕はこの頃やはり砒素のオプタルソンと云ふものの注射をはじめた。まだ粥しか食へない。頓首

    七月二十四日     芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「砒素のオプタルソンと云ふものの注射」Optaron。サイト「精神科薬広告図像集」の「第1 1920-1949に広告画像(大正一二(一九二三)年の『神經學雜誌』のもの)があり、広告本文には「神經系統並に心臟疾患に對する强壯兼治療砒素注射劑」とあり、サイト主の解説に『砒素注射剤にストリヒニン(ストリキニーネ)を加えたもの』とある。砒素は猛毒であり、ストリキニーネも危険な劇薬であるが、昭和二七(一九五二)年九月一日発行の医学専門雑誌『臨床皮膚泌尿器科』に載る論文「各種皮膚疾患に對する砒素劑の效果」(大阪大學皮膚科泌尿器科學教室馬場正次・橋本 誠一共著。漢字の正字表記はママ)には、『從來』、『砒素製劑は所謂變質劑として各種の皮膚疾患に使用して』、『その效果が認められ』、『戰前』の『注射藥にソラルソン』、(☞)『オプタルソン等があり』、『邦産品として』は『アルソゾンが製造せられていた。然るに戰後暫時は輸入藥は入手不可能となり』、『邦産品も入手困難となつたので』、『止むなく同樣の效果を期待して我々は當時驅梅劑として使用され始めたマフアーゼンの少量を靜脈注射する方法を行つてみた。殊に最近に於ては』、『極めて安定な水溶性砒素劑注射藥が製造されるに至つたので』、『これを同樣』に『少量使用することにより』、『見るべき成績を得たのでこゝに報告する』と緒言されてある。芥川龍之介が打っているといのも、これである。新全集の宮坂年譜には、不審だが、翌月の八月十八日の条に、『富士』医師『の診察を受け、内服以外の方法がないか相談を』し、『そのため、この日から毎日、計一六回』(!)『にわたつて砒素のオプタルソン(神経衰弱に用いられた当時最高の注射液)の注射を受けることになった』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十七日・鵠沼発信・高野敬錄宛(葉書)

 

拜復御手紙拜見しました。大暑の候こちらまで御足勞をかけるのは恐縮ですから組み方その他の事は碧童先生御自身へ御相談下さいませんか。碧童先生の宿所は下谷區上根岸町百十七です。中村不折氏邸のすぐ側です。右とりあへず當用のみ。匆々

              芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:前の書簡に出た小澤碧童の句集の版組みの件である。

「高野敬錄」(けいろく 生没年未詳)は、新全集の「人名解説索引」その他によって、この年に『中央公論』編集長となったが、後の昭和二(一九二七)年一月三十日附宇野宛書簡に「高野さんがやめたのは氣の毒だね」とあるので、翌年早々に退任していることが判る(ウィキの「中央公論」の「歴代編集長」に、このクレジットで出る)。底本の岩波旧全集でも彼宛の書簡は八通あり、芥川龍之介研究論文でも、しばしばその名を見かける。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十九日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

ここにはこんな紙しかない。暑いことは東京と大差ないらしい。海へもはひらずに暑い思ひをしてゐるのは中々つらい。大喜びなのは子供ばかりだ。齒いしやや博士の健在を祈る。

   花はちす雀をとめてたわみけり

   白じろと┐ほそれる犬か┌松の風(コレハ未定稿)

       └犬もほそるか┘

    二十九日       龍 之 介

   犀 星 兄

 

[やぶちゃん注:鉤型の部分は、底本ではなめらな曲線で、行間は繋がっている。この書簡は高い確率で軽井沢にいる室生犀星に宛てて書かれたものと推定出来る。そうして、そこにはまだ廣子がいたかも知れない。彼女のことに触れないことが、逆に龍之介が廣子を強く意識していることを感じさせるものである「齒いしや」と「博士」が、その根拠である。「芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通」の八月二十九日附の輕井澤発信の塚本八洲宛書簡を見られたい。龍之介が、内心、嫌悪していた軽井沢二大馬鹿医者どもである。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月二十九日・消印三十一日・鵠沼発信・鎌倉大町藏屋敷七七九 佐佐木茂索樣・七月二十九日 鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、山本改造かへりて後、黑パンを食ひすぎて又々一日三四囘下痢し、再び富士さんの厄介に相成り候所、僕の胃腸の如きは藥餌療法では駄目なりと言はれ、悲親する事少からず。それでも兎に角藥を貰ひ、やつと下痢だけとまることを得たり。海水浴をする土地にゐながら海へもはひれぬほど悲慘なるはなし。おまけに僕の家の前はヴアイオリン、後はラディオと蓄昔機、左はラツパ、右はハアモニカ、後の又後は謠と鼓、と云ふ始末故、都合がつけば西海岸へ引き越さうかと思つてゐる。兎に角體を恢復するのは一事業だ。鎌倉へもちよつと行つて見たいが、足が寐足になつてゐるので三四町[やぶちゃん注:約三百二十八~四百三十六メートル。]步くとへこたれてしまふ。尻へはもう尾テイ骨が出て來たよ。匆々

               芥川龍之介

   佐佐木茂索君

二伸 この手紙を書き了つた時、西海岸の家ふさがりしことを知る。嘸然たり。そこへ君の本が來る。箱張りは餘り感心せず。見返しはよろし。しかし槪して裝幀は内容よりも落ちるかと思ふ。影などはうまいもんぢや(コレハ室生調)

 

[やぶちゃん注:「鎌倉大町藏屋敷」現在の鎌倉市御成町(グーグル・マップ・データ。地図有り)の旧名。八柳修之氏の「江ノ電の駅跡を訪ねあるく その6 極楽寺・鎌倉小町間」によれば、旧江ノ電には「蔵屋敷停留所」があり、大正十年十二月の『地図を見ると』、『江ノ電は大町停留所から直進して』、『横須賀線高架下を潜り』、『若宮大路へ出ていた。現在の御成は以前』、『鎌倉町蔵屋敷と言う地名であった。蔵屋敷停留所は、高架を潜る手前にあったと思われるが』、『定かではない。現在の人道下を通る電車の古い写真がある』とある。私は鎌倉史を調べているが、不覚にしてこの旧地名を知らなかった。

「山本改造」改造社の社長山本実彦。見舞いであろう。但し、冒頭の書き方で判る通り、山本の来訪はこの日よりも前である。新全集年譜では、二十四日と二十七日の間に『この頃、山本実彦(改造社)が来訪する』と差し込んであり、二十七日に確定して、『夕方、富士』医師『の診察を受ける。薬餌療法で胃腸を正常にするのは無理だと言われ、サルタ(座薬)を処方される』とある。思うのだが、この頃の龍之介の大腸の症状は現在のIBS(過敏性大腸症候群)ではないかと疑っている。何故なら、私もIBSだからである。龍之介の尾籠な表現はよく私の永い体験と一致するからである。私は少年期からずっと悩まされてきた。小学生の時は三度も朝の朝礼で大便を漏らしたし、成人後も緊張する場面に限って止めることの出来ない下痢に襲われた。硬い糞をした経験が殆んどない。一年三百六十五日、軟便か、下痢便であり続けた。私が胃腸科の専門医による内視鏡検査を経た上で正式にIBSと診断されたのは五十三歳の時であった。治療薬を処方された。噓のように全く下痢をしなくなった。しかし、その五ヶ月後に母がALS(筋萎縮性側索硬化症)で神に召され、その前後から服用しなくなり、また、元の木阿弥となった。しかし、五十五で早期退職してからは、そうした症状は殆んど無くなった。何処かへ出かけるとなると、しかし、便意を催す傾向は変わらない。

「西海岸」鵠沼の西直近の神奈川県藤沢市辻堂西海岸(グーグル・マップ・データ)のこと。

「君の本」これは恐らくこの大正十五年文藝春秋社出版部刊の佐佐木茂索「天の魚」かと思われる。松山省三装幀。サイト「日本の古本屋」のここで書影が見られる。

「室生調」室生犀星の口真似。]

 

 

大正一五(一九二六)年七月・鵠沼発信・芥川宛

 

皆樣御變りない事と存じます。多加志こちらへ參つた晚より發熱いたし、こちらの醫者にかかりし所、胃腸惡きよしにて、ずつと床に就きをり候所、昨夜のませしヒマシ油の爲、今朝は床の中にウンコをし、大騷ぎに相成り、それよりおも湯をのませしも、皆吐いてしまひ、唯今又醫者に來て貰ひ候。熱も今は下り大した事は無之とは存候ヘども松ちやんも明日より村のお祭りにて家へかへることに相成り居り候へば、人手足らず、比呂志を四五日そちらへお預り願上げ候。右とりあへず當用のみ。

               龍 之 介

   芥 川 皆 々 樣

 

[やぶちゃん注:「松ちやん」現地で雇った女中の名と推察する。

 なお、新全集年譜に、この月末、『小穴隆一が、一軒おいた隣の貸別荘「イの二号」に移住する(翌年2月まで)。小穴の鵠沼移住を望んでいたこともあり、以後二人で、時には文を交えて三人で、散歩することがしばしばあった』とある。先に示した私の『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』には、『僕が丸山町のアパートから鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない』とある。

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