只野真葛 むかしばなし (36)
爰にて、ばゞ樣、御不幸。
此御病、誰も、うらやまぬ人、なかりし。二月廿二日、ワかたへ、御自筆にて御文被ㇾ下、野菜ものなど、夫《それ》々に被ㇾ下しに、廿三日夜五頃[やぶちゃん注:不定時法では午後八時頃か。]、御不淨にて、
「お遊、お遊。」
と、よばせられしが【「おしづ」、是までは「お遊」といひし。[やぶちゃん注:一般に真葛の母は「お遊」となっているが、実際に名は実は不明であるから、この記載は不審ではない。]】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とする。]、御聲、少々、常ならぬ樣にきこえし故、かゝ樣、御いで御覽被ㇾ成しに、
「あしが、なへた。」
と被ㇾ仰し。不淨より御出がけなるべし。
不淨のかたをあとに被ㇾ成て、橫におしづまりていらせられしが、一向、御熟睡のてい、少しも、くるしげなること、なし。御床など取て、人々、荷《にな》いて、いれ、寢《ね》かし上(あげ)しまゝにて、夜・晝、こゝろよげに、おしづまり、廿六日、御事切(おんこときれ)と成し。
「このやうにて死ぬものなら、うらやまし。」
と、見る人ごとに申たりし。少しも、毒とあくもなき御生(ごしやう)故[やぶちゃん注:「ご一生の間、少しも、ひどく気の毒なところや、生くるに飽きらるるような悪い後悔ごとも取り立てて御座いませんでしたから、」の意であろう。]、御臨終もおだやかなりしならん。有がたき事なりし。ワは、井伊樣に有しほどに、とまりの御いとま、いでず、日々、三日かよひしが、御目あかせられしことは、なかりし。それも、
「親の外は、ならぬ。」
といふことなれども、
「かねてより、大恩うけし祖母に候へば、病氣の時分、御いとまいたゞきたく。」
と、常のはなしに、しておきし故、年寄衆、母の分に、いひたてゝ、さげられしなり。
[やぶちゃん注:「井伊樣に有しほどに」真葛はて安永七(一七七八)年九月十六歳の時に父の関係で仙台藩上屋敷での奉公を始め、第七代藩主伊達重村の夫人近衛年子に仕えていたが、天明三(一七八三)年には忠勤を評価され、選ばれて、重村の三女詮子(あきこ)の嫁ぎ先となった彦根藩の井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、時の権力者田沼意次であったとされる(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]
御心たしかの時、御そばにてみやづかへ申上ざりしことを、千度、もゝ度[やぶちゃん注:「百度」。]、くひても、かひなし。
つくづく思ひば、
『あのごとく、御息才にてあらせられし祖母樣さへ、あのごとし。まして、よわよわしき母樣、御かんがく[やぶちゃん注:ママ。漢字不詳。「かん」は「看」で、看護の意かと思うが、「かんがく」では当該する意味の熟語が浮かばぬ。]のため、御いとま戴たし。』
と、おもへたりし。
其年七月、玄蕃頭樣、御かくれ、父樣、終に、藥指、上られし。守眞院樣、御十八にて御すがた、かわらせらるゝにつけても、末に御藥上られし人の評判、あしく、
「身をひくべき時、來りぬ。」
と覺悟して、病氣、幸、御いとま戴て有しが、下りて見れば、昔にかはること、おほく、ばゞ樣いらせられねば、いとわびしくおもひし。
[やぶちゃん注:「玄蕃頭樣」前に注した井伊直富(宝暦一三(一七六三)年~天明七年七月十二日(一七八七年八月二十四日)のこと。従四位下・玄蕃頭。ウィキの「井伊直富」にも、『最期に手当をおこなったのは仙台藩の藩医』『工藤平助であった』と明記されてある。数え二十四の若さであったから、以上の風評は判らぬではない。]
母樣は、こゝにいらせられし内が、御一生の御たのしみなりし。子共、のこらず、より合、にぎやかに、花見よ、舟よ、二丁町は近し、兩國は見世物のたいこが聞へして、やかましく、二丁ばかりあゆめば、大川ばたへ、でる。五百羅漢・萩寺などは音にのみ聞て有しも、ひる過から、おもひたちて、ふと、ゆかれるし、龜井戶・妙見・向島、みな、遠からず、遊んで、くらすには江戶一番の所なりし。
おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]、雨森(あめのもり)へ婚禮なり。父樣には、御上やしき、遠く、御めいわくと被ㇾ仰し。ばゞ樣と同じ時に、四郞左衞門樣、御大病にて御死去なり。父樣、御ちから、おとし、申ばかりなかりし。
[やぶちゃん注:「雨森」雨森氏の中に元御所御殿医の雨森良意家(京師)で地下人になった一族がいるが、この後裔か。後で舅の名を出し、それは雨森友心であるが、不詳。但し、後で「おしづ」について、結婚後は津軽藩の屋敷内に迎えられたとあるから、この雨森は津軽藩の江戸藩邸附きの江戸詰藩医であったものと私は推定している。
「四郞左衞門樣」先に出た柔術に秀でた平助の長兄。]
ワ、廿六の三月、下りて、七の五月、すきや町へ行たりし。ワ、廿八のとし、おつね、大田へ行、おしづ、數寄屋町にて死去なり。
[やぶちゃん注:「おつね」三女。加瀬家に嫁した。「大田」は不詳。
妹の「おしづ」は寛政二(一七九〇)年に亡くなっている。以下の叙述から死因は肺結核と思われる。生年は判らぬが、若死にである。
「ワ、廿六」天明八(一七八八)年。
「七の五月」翌年の二十七歳の時の五月の意。次注参照。
「すきや町」寛政元(一七八九)年五月に工藤一家は日本橋数寄屋町(現在の中央区八重洲一丁目及び日本橋二丁目。グーグル・マップ・データ)に転居している。]
此人、雨の森へ行て、苦勞ばかりして、はてしぞ、いとをしき。しうと母は小山の妹なり。
「むづかしいのてつぺん。」
と、はじめから、いうことなりし。病中に、婚禮、有。終りの時は、おしづ、懷姙にてありし【終りは、「かこ作」[やぶちゃん注:不詳。]、死去の時なり。】[やぶちゃん注:『原頭註』とある。]。おしづも病身のうへ、心づかひせし故にや、乳不足なりしを、中やすみにて、乳母おく、力なく、たらぬなりにそだてし故、榮之助、大病と成しに付、やうやう、乳母おきて、さて、この方《かた》へ引とりて、療治被ㇾ成たりし。四、五日ありて、死たり。一向、よわりはてゝも、氣のはりたるばかりにつゞきて有しを、
「やれ、心やすや。」
と、ゆるみいでゝより、へたへたと、よわり、死に成(なり)しなり。四、五日の内、死にいたるほどの大病人を、舅ちゝ友心、あしらいやうのひどきこと、三度のめし、平人とおなじく、膳にすわることなりし、とぞ。
痰けつ[やぶちゃん注:血痰。]、いでゝ、吸をせく力もなきに、背をなでゝもらうこともならぬなどゝいふ樣な事にて、保養、成かねし。
榮之助、乳、ふそくにて、そだてし故、二ッに成ても、知惠付(ちゑづき)なく、頭の鉢、ひろく成て、足、たゝず。此病は、平安樣【せんの隆朝[やぶちゃん注:真葛の母方の祖父仙台藩医桑原隆朝如璋。]。】[やぶちゃん注:『原割註』とある。]、常に父樣におはなし有し病なりと被ㇾ仰し。
「すておけば、鉢ばかり、ひろく成て、大ばかに成ものなり。八味地黃丸、のませ、かたく。はち卷しておけば、よし。」
となり。其通にりやうじ被ㇾ成しが、よく成たり。
[やぶちゃん注:悪い疾患では水頭症だが、このような療治では治らないから、単に乳児の頭頂の顖門(ひよめき)の骨化癒合が遅かっただけかも知れない。「ひよめき」とは、乳児の場合、頭蓋骨の泉門(せんもん)の骨は接合していないため、脈動に合わせてひくひく動く。頭頂のやわらかい部分を指す。]
友心御隱居、名、はじめは權八といひし。此人も一哥人なり。質素儉約の名人、
「世の中、菜《さい》がわるくて、飯がくわれぬ。」
といふを笑て、
「食は人の命をつなぐ爲のものなり。費《つゐ》をかけて、菜をまうけ、無理にくふに、およばず。菜がなくて、くわれずば、くわずにをれば、よし。空腹になれば、素(す)めしも、くわれるものぞ。」
と、いひしとなり。
日々の暮しおもひやるべし。此心では金も持(もた)れそうな[やぶちゃん注:ママ。]所、また、持(もつ)心もなし。たゞ素々として、身を、からく、自(おのづから)もとめて、不自由にくらすが、好(このみ)なり。いやなこと、いやなこと。