只野真葛 むかしばなし (39)
〇父樣、おぢ樣[やぶちゃん注:何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が祟りなす女「〆(しめ)」である。]、得手は、御たがひ被ㇾ成とも、『凡人にては、なし。』とぞ、おもふ心のかたち、こゝろみにいはゞ、此(この)やうなるものならん。「何を以てそれをしる」といはゞ、おてる、おぢ樣のそばに付居(つきをり)し時の、はなし聞く度に、心もしめり、引入(ひきいるる)やうにて有しといひし。
[やぶちゃん注:「おぢ樣」何度も出た母「お遊」の実弟の「純」。その乳母が真葛が盛んに祟りなす凶なる女として示す「〆(しめ)」である。
「おてる」既出既注であるが、長女であった真葛の末の妹(五女)照子。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。]
[やぶちゃん注:以上の図は底本のものではなく、「日本庶民生活史料集成」のものを用いた。底本「江戸文庫」版では、キャプションが活字に直されてしまっているからである。キャプションは、右上に、
「凡をぬけたる
ところ」
右下方に、
「父樣、足本に、何も、なし。
たゞ、廣く、高くのみ、御才(ナンサイ[やぶちゃん注:ママ。])
有り。」
左上に、
「おぢ樣は凡人
の丈(たけ)に上(のぼ)りて
橫ひろがり也。」
左中央に、
「凡人の
たけ。」
とある。これは思うに、左右の父と叔父の二本の系統樹風の、下から見て、最初の、それぞぞれ左右に横に出る枝をかく言っているように私には思われる。
左下右に(右や下方にカタカナと漢字含む不全な読みの添えがある)、
「 カマワヌヤウニテシワク
何もかまわぬ樣にて タメル心
しわく、物をためる 有リ
心有り。」
最も左端下に、
「かごの物に、
つき合(あふ)心。」
である。敢えて人の在り様をこうしたチャートで示す辺り、只野真葛、只者ではないぞ!]
「此世の中のはてはどうなるものだか。何でもおれが出入せぬ大名もないが、どこの若殿を見ても、是が成人したらよい馬鹿だろうと思(おもふ)樣な兒ばかり有(ある)。大納言樣はどんな人かと、旗本衆の所へ行て聞てみれば、御幼少の時は豆蟹をつぶすが御すきで、每日每日、『大納言樣御用』とて、おびたゞしくとりにでるを、おそばにまきちらして、御相手の子と、ひとつにおしつぶす事。それが過て、九ツ十(と)ヲくらいのときから、鷄が御好で、いくらも上る。それも棒を持(もつ)ておひ𢌞して、追つめて、ぶちころすが、おすき。おなぐさみにて、お緣の下には、いくらも腰拔に成(なつ)た鳥が、『ひこひこ』して、かゞんでゐるといふことだ。そんな不仁の人が公方樣になられたら、どんな代になるかしれぬ。」
といふやうなおはなしにて有しとぞ。
父樣は、のめり死するとても、そんな氣のつまる、ふさいだはなしなどは不ㇾ被ㇾ成、おはなしをきけば、心も、のびくのびとなりて有し。
「ゑぞ地【夷地。】[やぶちゃん注:『原頭註』]、ひらけば、おのづから、仙臺は中國となる故、末々、めでたき國とならん。我日本國の都は、暑き所より、寒きところへ、うつるかたち、なり。はじめ、筑紫より、大和、山城と、うつり、後、鎌倉、江戶に、榮(さかえ)、うつり、此後は、さしづめ、仙臺なるべし、是、うたがへなし[やぶちゃん注:ママ。]。」
「世の中といふものは、つまりたりとても、もの極れば、又、どうか、工夫がつくものなり。世の滅するといふ事、有べからず。代の、末に成(なる)といふことも、有(ある)べからず。爰につきれば、かしこにあらはれ、かしこにたゆれば、こゝにあらはれ、天地の間に、わく、人なれば、智者のたへても、亦、わくなり。世の中をなげくは、たわけなり。」
と被ㇾ仰し。
何をうかゞひても、行つまらず、のびのびとしたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なりと、御こたひ[やぶちゃん注:ママ。]被ㇾ遊し。夫故《それゆゑ》に、御心のかたち、空のかたへ、はればれと、ぬけいでしとは申なり。
おぢ樣は、そしらぬ顏にて、人にほめられたい心が一ぱい故、凡人をぬけても、下の方をのぞいてゐる樣な御心ならんと、おもふなり。
父樣、おぢ樣、得手のちがひしといふは、おぢ樣、ある病家へ、はじめて御見舞被ㇾ成しに、座付クといなや、障子の外の緣側にて、鳥の、少し音(ね)をいだせしを聞(きき)て、
「こなたにては、かい鳥を被ㇾ成るや」
「さよふ。」[やぶちゃん注:ママ。]
と、こたふれば、
「それならば、たしかに、今の鳴聲は、餌にしたき物を見て、くわれぬ故、出せし聲なり。明(あけ)て御覽ぜよ。みゝずか、けらの類(たぐゐ)、いでゝ、あらん。」
と被ㇾ仰し故、あけてみしに、みゝずいでゝ、有(あり)しとぞ。
「常に飼いてならせし人だに其心をさとらぬに、はじめて其聲をきゝて、其心をしられしは、神妙なり。」
とて、感じ、信仰せしとぞ。
是、一向、得手、被ㇾ成(なされ)ぬ所なり。
父樣、中年のころ、本田樣[やぶちゃん注:不詳。家内に女ばかりというのは、大々名の家老ではあるまい。]御家老、時疫[やぶちゃん注:流行り病い。]にて、御りやうじ被ㇾ成しが、家内は女ばかりにて、たわひなくまどひて有しに、附子(ブシ)を御付被ㇾ成(なされる)やいなや、
「外(ほか)へ轉藥いたす。」
と斷申來(ことわりまうしきた)りしを、其つかひに、御むかい[やぶちゃん注:ママ。]、被ㇾ仰しは、
「素人は何も御ぞんじなきこと故、尤のことながら、醫をかへるは、時の有(ある)ものなり。たゞ今、轉藥せられては、此病人、必死なり。今、少し、またれよ。只今、周庵、御見舞申。」と被ㇾ仰て、すぐに、御出手づから、藥をせんじて御のませ被ㇾ成しに、病人、かくべつ、ひらけて、正氣付し、となり。
「さらば。轉藥、御勝手次第。」
と被ㇾ仰しが、家内も親類も、いきほひにおそれて、轉藥は、せざりし。大病も、本復せしとぞ。
それより、御一生、本田樣の御出入と成し。
かやうないきほひよきことは、おぢ樣は、なし。此ことは御じきのはなしにはなく、本田樣の家中小林村仙といふ醫、
「其時、見聞せし。」
とて、折々ごとに、
「手づから藥をせんじられし御いきほひのよさ。」
とて、かたり出(いで)、かたり出せし故、しりたり。村仙は殊の外、父樣をしたひて、師のごとくせし人なり。此一事を、天のごとくおもひ、たうとみて有し愚醫なり。
[やぶちゃん注:「附子(ブシ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。ここは「ぶす」と聴いて狂言辺りの知識のみで、猛毒の毒薬とのみ合点して、ビビッてしまい、「轉藥」=医師変えを通知したのである。]