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2021/09/04

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 老狸の書畫譚餘

 

[やぶちゃん注:これは著作堂(馬琴)による好問堂山崎美成の前条「古狸の筆蹟」への附記。ベタでだらだら長いので、段落を成形した。]

 

   ○老狸の書畫譚餘

 下總香取の大貫村藤堂家の陣屋隷たる某甲の家に棲めりしといふ、ふる狸の一くだりは、予も、はやく聞きたることあり。當時、「その狸のありさまを見き。」といふ人のかたりしは、

「件の狸は、彼家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて、『しかじか』とこひねがへば、あるじ、そのこゝろを得て、紙筆に火を鑽りかけ[やぶちゃん注:「きりかけ」。時代劇のドラマでよく見る火打石で火花を起こすお祓い代わりの「切り火(び)」のこと。]、墨を筆にふくませて席上におくときは、しばらくしてその紙筆、おのづからに、閃き飛びて、天井の上に至り、又、しばらくして、のぼりて見れば、必、文字あり。或は鶴龜、或は松竹、一、二字づゝを大書して、『田ぬき百八歲』としるしゝが、その翌年に至りては『百九歲』と、かきてけり。是によりて、前年、『百八歲』は、そらごとならず。」

と、人みな、思ひける、となん。

 されば、狸は、天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと、常なり。又、同藩の人は、さらなり、近きわたりの里人の、日ごろ、親みて來るものどもは、そのかたちを見るも、ありけり。

 ある時、あるじ、戲れに、かの狸にうちむかひて、

「なんぢ、既に神通あり。この月の何日には、わが家に客をつどへん。その日に至らば、何事にまれ、おもしろからんわざをして見せよかし。」

といひにけり。かくて、其日になりしかば、あるじ、まらうどらに告げていはく、

「某、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]、戲れに、狸に云々と、いひしことあり。されば、けふのもてなしぐさには、只これのみと思へども、渠よくせんや、今さらに心もとなくこそ。」

といふ。人々、これをうち聞きて、

「そは、めづらしき事になん。とくせよかし。」

と、のゝしりて、盃をめぐらしながら、賓主[やぶちゃん注:「ひんしゆ」。来賓と主人。]、かたらひくらす程に、その日も、中の頃になりぬ。かゝりし程に、座敷の庭、忽、廣き堤になりて、その院のほとりには、くさぐさの商人あり。或は葭簀張[やぶちゃん注:「よしずばり」。]なる店をしつらひ、或は、むしろのうヘなどに、物、あまたならべたる、そを買はんとて、あちこちより、來る人、あり、かへる[やぶちゃん注:「歸る」。]もあり。賣り物のさはなる中に、ゆでだこ(湯蛸[やぶちゃん注:漢字のルビ。])を、いくらともなく簷にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり。人々、おどろき、怪みて、猶、つらつらとながむるに、こは、この時の近きわたりにて、六才にたつ[やぶちゃん注:六年に一度開かれるの意か。]、市にぞありける。珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの[やぶちゃん注:庭の背後が。]、かの市にしも見えたるを、人みな、興じて、のゝしる程に、漸々にきえうせしとぞ。

 是よりして狸の事、をちこちに聞えしかば、その書を求むるものはさらなり、病難利慾、何くれとなく、祈れば、應驗ありけるにや。緣を求めて詣づるものゝ、おびたゞ敷なりしかば、遂に、江戶にも、そのよし聞えて、官府の御沙汰に及びけん、

「有司[やぶちゃん注:役人。]、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]彼地に赴き、をさをさ、あなぐり[やぶちゃん注:「探り」。]糺しゝかども、素より、世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且、大諸候の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよし、なかりけん、いたづらに[やぶちゃん注:成果なく、無駄に。]かへりまゐりき。」

といふものありしが、虛實はしらず。

 是よりして、彼家にては紹介なきものを許さず、まいて狸にあはする事は、いよいよ、せず、と聞えたり。

 これらのよしを傳聞せしは、文化二、三年[やぶちゃん注:一八〇五~一八〇七年。]のころなりしに、このゝちは、いかにかしけん、七十五日と世にいふ如く、噂もきかずなりにけり。【此ころ、「兩國廣巷路にて、狸の見せ物を出だしゝ。」とありしに、彼大貫村なる狸の風聞高きにより、官より、禁ぜられしなり。】

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 抑、北峯子[やぶちゃん注:山崎美成の号の一つ。]の爲に、この一條を追書すること、聊、緣故なきにあらず。本月朔日の小集は、わが庵にてあるじせん[やぶちゃん注:馬琴の家を会場としよう。]とて、かねてより契りしかば、北峯子・乾齋子[やぶちゃん注:兎園会会員中山豊民(事績不詳)の号。]、いちはやく來りつる折、北峯子、予にいふやう、

「さてしも、例の事ながら、けふ、わがかきしるして、もて來つるは、めづらしげなき事なれども、『狸の書きたりき』といふ文字を影寫して來つるのみ。ありしふでもあるものぞ[やぶちゃん注:「こんな奇妙な筆記物もあるものだねえ」。]。披講の折に見給へ。」

と、いはれたり。

 予、これをうち聞きて、

「さればとよ、文化のはじめ、江戸近鄕なる人の家にすめりしといふ狸の、をちこち、人の需[やぶちゃん注:「もとめ」。]に應じて、字を書きて與へしこと、あり。その故は云々なり。」

とて、上にしるせし趣を、詞[やぶちゃん注:「ことば」。]せはしくかたりいづるに、北峯、頻に頷きて、

「わが、けふ影寫して來つといひしも、その狸の筆述なり。さばれ[やぶちゃん注:しかし。]、その事は、わが總角[やぶちゃん注:「あげまき」。少年。伸ばした髪を左右二つに分けて耳の上で両髻(もとどり)を小さく角のように結んだ少年の髪型。]の時なりければ、さるつばらかなる事は得聞かず。ねがふは、わが書篇の末に書きしるしてたびねかし。わが物せんは、かたくもあらねど[やぶちゃん注:確かな事実と断定は出来ぬものの。]、傳聞[やぶちゃん注:ここは怪しげな風聞の意。]にはあらずもあらん。よう、し給へ。」

と、そゝのかされて、まづ北峯子の披講を聞きつ、又、その狸の書を見るに、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]予が聞きたるも、これ彼、暗合したるにより、

「さては。予が聞きたりしも、まことにてありけり。」

と、又、さらにおもひなりて、これらのよしを、しるすのみ。

「世にいふ餘計の仕事に似たれど、心ざまのあへるどちを、『ひとつ穴なるむじな』といへば、狸の事にも、かばかりの事しもあらん。」

と自笑して、諸君の書寫の紙かずをかさぬるは、をこならんかし[やぶちゃん注:「をこ」「烏滸」。「痴」「尾籠」なども当てる。愚かなこと。ばかげていること。なお、以下は底本でも改行がされてある。]。

 因にいふ、北峯子の末篇にしるされし狸庵には、予も、一兩度、たいめんせしなり。渠が當時の本宅は中橋なりしか。よくもしらねど、年來、芝新橋[やぶちゃん注:現在の銀座八丁目に架かっていた。単に新橋とも呼び、現在の新橋の由来。好問堂の中橋とは異なる。転居したか。]つめにさゝやかなる紙店を出だして、賣卜をもて活業にせしものなり。寬政中[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇一年まで。文化の前の前。]、予は伊東蘭洲[やぶちゃん注:馬琴の友人で漢学者・戯作者。生没年未詳。中国の俗文学に詳しかった。江戸地誌「墨水消夏録」(刊行は安政 四(一八五七)年であるが、没後か。)の著者として知られる。]に誓引[やぶちゃん注:「連れて行くという約束」の意か。]せられて、そが店に赴きて畜ひ[やぶちゃん注:「かひ」。]おける狸を見し事ありけり。この時は、狸、二、三頭を、前を竹篇子[やぶちゃん注:竹格子(たけごうし)か。]にせし箱に入れて、その座右に置きたり。毛いろのいさゝか異なるを、

「いかにぞや。」

とたづねしに、

「一頭は玉面狸なり。その餘はよのつねなるものなり。」[やぶちゃん注:「玉面狸」中国語で「白い顔の狸」の意。この意から、この一頭はタヌキではなく、アナグマである。]

とて、ほこりかに、とき示しにき。

 このゝち、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]の初にや有りけん、誰やらが書畫會の席上にて、又、彼狸庵に面をあはせし日、渠が年來祕藏すと聞えたる「狸石」を携へ來て、予にも見せ、人々にも見せけり。その石はまろくして、長さは纔[やぶちゃん注:「わづか」。]二寸に足らず。薄靑白なる石のうちに、黑く、三、四分[やぶちゃん注:〇・九~一・二センチメートル。]ばかりなる、狸のかたち、あり。是、天然のものにして、さながら、畫けるに異ならず。見るもの嘆賞せざるはなし。只、是のみにあらず、そが煙包(タバコイレ)の諸飾、紙囊(カミイレ)のかな物[やぶちゃん注:「金物」。]なんど、すべて、狸にあらぬは、なし。又、好みて狸の寫眞をよくせり。予、その畫きたる狸を見しに、形狀・毛色、分釐をたがへず[やぶちゃん注:微細な部分さえも総て違うところがなかった。]。

「畫は、唯、狸をのみ、よくして、その他のものを畫かず。」

と、いひにき。

「予が爲にも、一ひら、畫きて給はれ。」

と、いひけれども、

「この頃は、著述に、いとまなき身なれば。」

とばかりにして、ふたゝび、もとめず。今さら思へば、後、このかたりぐさ(話柄[やぶちゃん注:漢字のルビ。])にもなるべきに、畫かせざりしを悔ゆるも、甲斐なし。その畫は、今も、もてるものあらん。「狸石」は誰が手に落ちけん、しれるものにたづぬべし。

 人の嗜慾の、くさぐさなるそが中にも、王子猷が竹をこのみしは、秀色淸風をめづるなり。陶弘景が松風を好みしは、閑雅の餘韻をめづるなり。又、劉邕が瘡痂(カサブタ)を嗜【劉邕嗜瘡痂見宋書本傳。】[やぶちゃん注:頭書。]みしは、多くあるべきことならねども、そも口腹の爲ならば、いかゞはせん。ひとり狸庵が一生涯、狸をのみ好みたるすぐせ、いかなる因果にか有りけん。是も一個の畸人ならずや。

[やぶちゃん注:「王子猷」(わうしゆう)は王徽之(きし ?~三八八年)。晉代の文人で、知られた諸家王羲之(おうぎじ)の第五子。竹を愛し、奇行の人として知られる。父と同じく、書をよくした。

「陶弘景」(四五六年~五三六年)明の李時珍の「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。隠棲後は華陽隠居と称し、晩年には華陽真逸と名乗った。当該ウィキによれば、『眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲し』、『フィールド』・『ワークを中心に本草学を研究し』、『今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』。『丹陽郡秣陵県(現在の江蘇省南京市江寧区)の人で、南朝の士大夫の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。幼少より極めて聡明で』、忽ちにして『書法を得、万巻の書を読破し』、十『歳のときに葛洪の』「神仙伝」に『感化され』、『道教に傾倒』、十五『歳にして』「尋山志」を』『著したという』二十『歳の頃、南斉の高帝に招聘され』、『左衛殿中将軍を任じられると』、『諸王の侍講(教育係)となり』、『武帝のときまで仕えた』、三十『歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び』、三十六で『職を辞し』、四九二年、『茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した』。「南史」には『陶弘景が致仕した』際、『皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている』。四九九年には『三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒し』た。『王朝が交替すると』、『梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ』として、『吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため』、『武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり』、『王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった』かの「文選」の『編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである』。『多岐に』亙る『著述を著し』、『その数』、四十四『冊に上った』。『陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して五〇〇年頃に「本草経集注(ほんぞうきょうしっちゅう)」を『著した。この中で薬物の数を』七百三十『種類と従来の』二『倍とした。また』、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。漢方医学における薬学の祖とも呼ばれ、いまなお』、『この分類法は使われている。唐代に蘇敬らが勅命により』「新修本草」を刊行しているが、これも実は「本草経集注」の内容を網羅的に継承して増補した内容のものであった。『道教の一派である上清派を継承し』、『茅山派を開いた。著書』「真誥」(しんこう:霊媒師楊羲に降りた真人が口授した教えを筆写したものを、弘景が後に編纂した上清派の経典)は『上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て』、『多くの門弟を育て』て、『優れた道士を輩出した』。書は、『王羲之や鍾繇』(しょうよう)『に師法し』、『淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」』(えいかくめい:「瘞鶴」とは「鶴を埋める」の意)『の碑文は後世に評価が高く』、『その革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ』、『北宋の黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また』、『梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の』「法書要録」に収められ』て、『王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった』とある。

「劉邕」(りゅうよう 生没年不詳)は後漢末から三国時代の蜀漢の武将。荊州義陽郡出身。二一一年に劉備に付き従って益州に入り、二一四年に益州が平定された後に、江陽太守に任命され、建興年中(二二三年~二三七年)に次第に昇進し、監軍・後将軍・関内侯を加えられ、その後、死去した。蔣琬(しょうえん ?~二四六年)は、諸葛亮(一八一年~二三四年)から、科挙の最難関の茂才(秀才試のこと。後漢では初代皇帝光武帝の諱を避けてかく呼ばれた)に推挙されると、これを固辞し、代わりの者を推挙し、その中の一人に劉邕を挙げている。蜀の名臣を讃える楊戯の「季漢輔臣賛」(きかんほしんさん:二四一年に著された)では劉邕を「篤実」と評し、「軍事の任務に就き、辺境の地で活躍した。」と評価されている(当該ウィキ及びそのリンク先の記載に拠った)

「瘡痂(カサブタ)を嗜みし」「瘡蓋を食べることを好んだ」という意。「劉邕嗜瘡痂見宋書本傳」は「劉邕の瘡痂を嗜みしは、「宋書」の本傳を見よ。」の意。「宋書」の「四十二列傳第二 劉穆之 王弘」(劉邕は劉宋の初代皇帝劉裕(隠棲した陶淵明を仕官させようとして断固として断ったことで知られる)の参謀劉穆之(りゅうぼくし)の子孫であったので、ここに出る)に、

   *

邕、性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔甞見臣、今不能見勸一杯酒乎。」。歆之、因斅孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今與汝比肩。既不勸汝酒、亦不願汝年。」。邕、所至嗜食瘡痂、以「為味似鰒魚。」。嘗詣孟靈休、靈休先患灸瘡、瘡痂落床上、因取食之。靈休大驚、答曰、「性之所嗜。」。靈休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、靈休與何勖書曰、「劉邕向顧見啖、遂舉體流血。」。南康國吏二百許人、不問有罪無罪、遞互與鞭、鞭瘡痂常以給膳。卒。

   *

とある。凄絶な異物食嗜癖で、ちょっと生理的に厭なので、訓読しないが、サイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学」のこちらで、江戸中期に国学者宮川道達(?~元禄14(一七〇一)年:詩学入門書「和語円機活法」で知られる)が書いた教訓書「訓蒙故事要言」巻之十に載る本エピソードが現代語訳されているので、平気な人は見られたい。同書の原文は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。ただ、私はこの異食癖、実際に小学校の同級生にいた。実際に、自分の膝にあった瘡蓋を、私の目の前で美味そうに食べた。確か、しょっぱくて美味しいと言っていたように記憶する。なお、座敷浪人氏は「鰒魚」を『河豚(ふぐ)』と訳しておられるが、確かに中国には唯一の淡水産フグが棲息するものの、漢籍で「鰒魚」は普通、貝のアワビのことを指すので、言い添えておく。

 底本でも、以下は改行している。]

 寬政中、狸の、をんなにばけたるが、夜な夜な、山の宿の、辻に立ちて、人をたぶらかし、そのゝち、堀の船宿西村屋の庭なる靑樹のほとりに穴してをりしを、彼處の船宿ども、うちつどひて、生捕たることの趣は、去歲の冬、海棠庵にて、大かたは、かたりき。さばれ、まさしき事なるに、いまだ聞かざりしとのばらもあなれば、これも亦、のちのちに別にしるして披講すべし。こゝには、只、北峯子のいはざるを補ふのみ。

   乙酉仲夏初三      著 作 堂

[やぶちゃん注:最後の話は去年の冬と言っているので兎園会ではない。また、後の発表するとしているが、本編にはないようだし、続く馬琴の諸々の「兎園小説」集にも今のところ、見当たらぬようである。この話、「山の宿」として場所を特定していないのに、「堀の船宿西村屋」という固有名を出すというのが、今の我々には不親切である。こういう言い方をする以上は、会員は聴いてわかるのであろうから、江戸市中が舞台なんだろうが。]

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