芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通
大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・室生犀星宛
冠省ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり やつと小說らしいものを一つ書いた 今日は植木屋がはひつて刈りこみをしてゐる 體力稍恢復したれども腎氣乏し 奧さんお大事に
秋の日や疊干したる町のうら
九月二日 龍
犀 君
二伸 唯今也寸志鵠沼にて寢冷發熱中、田端にては多加志腹をこわし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし。
[やぶちゃん注:「やつと小說らしいものを一つ書いた」果してこの表現がしっくりくるかどうかは別として、最も可能性があるのは、新全集の宮坂年譜でこの七日後の九日に『一応脱稿』とし、しかし、後の十五日頃に『再び推敲』したとある、翌十月一日発行の『改造』に載った私の偏愛する自伝的小品「點鬼簿」である(リンク先は私の古層の電子化)。彼が、この作品には推敲に推敲を重ねたことは、その出来上がりの素晴らしさからも確かなことで、日を挟みつつ、半月以上を要したことは腑に落ちるのである(後の書簡を参照)。筑摩全集類聚版脚注も、同作としている。]
大正一五(一九二六)年九月二日・田端発信・中根駒十郞宛
冠省。まだ佐藤君の所へ行かないならば、裝幀をたのむことは見合せて頂きます。どうも餘り勝手がましいし、もう一つは小穴君も今は多少の金でも必要ではないかと思ひますから。どうか佐藤君には西洋封筒の手紙だけ渡して下さい。それから又お次手によろしく言つて下さい。
九月二日 芥川龍之介
中根駒十郞樣
二伸 隨筆集の題は「梅・馬・鶯」とすることにしました。
[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、「佐藤」は佐藤春夫で、当初、次回発刊予定の随筆集(ここで書名を「梅・馬・鶯」に決めたことを新潮社の支配人である中根に知らせた。発行はこの年の十二月二十五日)の装幀は当初、作家仲間の佐藤春夫に依頼して呉れるように中根に頼んでいたものらしい。しかし、この頃、『生活費に窮していた小穴隆一に』援助のため、ここで佐藤のところに依頼に行っていないのであれば、『変更してもらえるよう依頼した』ものである。
「西洋封筒の手紙」内容不詳。]
大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・土屋文明宛
朶雲奉誦。あの大家の婆さんは僕の所へ來て三十分も辯じて行つたよし、君もなやまされたらうと思つて大いに同情した。近々にぜひ來ないか。君が來ると、近々隨筆集を出すにつき、その中に入れる歌の甄別をして貰ふ。僕はあひかはらず元氣なく不愉快に暮らしてゐる。頓首
九月十日 芥川龍之介
土 屋 文 明 樣
[やぶちゃん注:「大家の婆さん」不詳なので、この一文は意味がよく判らない。
「甄別」「けんべつ」と読む。「甄」は「見分けたり、明らかにしたりすること」の意で、「明確に見分けること・よく調べて区別すること」を指す。]
大正一五(一九二六)年九月十日・鵠沼発信・室生犀星宛
冠省、東京へちよつとかへつてゐた爲、返事が遲れて相すまない。桂井さんに御願ひしたのは七もと櫻にあらず、黑猫と云ふのだつた。こちらはまだ中々暑し。この頃は弟の一家も來てゐる。小穴君も來てゐる。避暑客はもう大がい引き上げた。この間の句は二句とも捨てた(松風に、花はちす) 頓首
九月十日 芥川龍之介
室 生 照 道 樣
[やぶちゃん注:「桂井さん」桂井未翁(慶応四・明治元(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)は俳人。これは俳号で、本名は健之助。金沢生まれ。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年五月に金沢に室生犀星を訪ねた際に兼六園に滞在したが、それは桂井の世話によるものであった、と新全集の「人名解説索引」にある。
「七もと櫻」筑摩全集類聚版脚注に、『泉鏡花の小説。明治三十』(一八九七)『年新著月刊所収』とある。怪奇趣向を入れ込んだ変わった世話物である。
「黑猫」筑摩全集類聚版脚注に、『明治二十八年』の七月から八月の『北国新聞』に連載した『鏡花の小説、何れも「鏡花全集」編纂の用事』とある。怪談物歌舞伎のような作品であるが、現在の「鏡花全集」(私は所持している)でも、一部に欠落があり、完本は存在しない。大正十四年から、鏡花存命中の全集となる春陽堂版「鏡花全集」の刊行が始まっており、鏡花を敬愛した芥川龍之介は、その編集委員を務めた。その「鏡花全集」の最終配本は、まさに昭和二年七月で、それを見届けるように、龍之介は自らの命を絶ったのであった。
「弟」異母弟新原得二。母フユとともにこの月の上旬に移住してきた。それでなくても周囲が物理的に騒々しいところに、我儘な得二(この頃は日蓮宗に入れ込んでいた)が来て、またしても龍之介は煩わされることとがさらに加わることとなってしまったのである。
「室生照道」(てるみち)は犀星の本名。]
大正一五(一九二六)年九月十六日・消印十七日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月十六日 鵠沼イの四号 芥川龍之介
尊翰度々ありがたう。その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。點鬼簿に數枚つけ加へて改造に出したれど、その數枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり。目下小穴君例の件もあり、ヴアイオリンの家へ住んでゐる。これは感謝すれど、弟も亦あとから一家をあげて鵠沼へ來た。そこで鎌倉か逗子かへ移らんと思へど、家内ここを離れたがらず、移つては小穴君も困るだらうと思ひ逡巡決せず。多事、多難、多憂、蛇のやうに冬眠したい。御閑暇の節御光來を待つ。さもないと小生も東家へ義理が惡い。
この頃一句
据ゑ風呂に頸(くび)骨さする夜寒かな
九月十六日 澄
芸 先 生 侍史
[やぶちゃん注:「小穴君例の件もあり」縁談話が進展しないために、ちょっとよく判らないが、東京にいて、龍之介とも逢えず、悶々とするのがいやだから、ということか。
「ヴアイオリンの家」芥川龍之介が借りている貸別荘の前の家。先行する書簡でその家から聴こえるヴァイオリンに閉口しているとあった。その借主が帰って、代わりに、小穴が入ったのである。『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』に、小穴の描いた面白い周辺図が載るので、是非、見られたい。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「鵠沼の芥川」に、『佐佐木茂索は芥川の死後「僕の澄江堂」の中で』、『このころのことを次のように記している』として、『「湯河原から一且帰京して又鵠沼へ赴いた。此時はまだ家を借りず、東家旅館に滞在してゐた。僕は東家[やぶちゃん注:引用原本にママ注記がある。「東屋旅館」が正しい。以下同じ。]へは以前から時々行つたので気易く、滞在中にはよく仕事かた』がた『訪ねて行つた。朝起きるのは別々だが、昼と夜とはどちらかの部屋で一緒に食事をし、病気の話と仕事の話を半分半分にして暮した。この頃『点鬼簿』の原稿を見せて『どうだらう、これを発表してもいいかしら』といふ風な事を訊ねた。身近かの者が取扱つてあるので、さういふ事が酷く気に病める様であつた。ずつと以前構想して其儘になつてゐる黒ん坊と織田信長が出て来る戯曲に再び手をつけたのも此処でである。少し書けると僕の部屋へ見せに来て、どうだいと訊いた。どの一枚を見ても、恐ろしく簡潔を極めたものだつたから、僕はもつと贅肉を入れた方がよくはないかと云ふ様な事を答へた。すると次には必ず書き直して来てこれでどうだと云つた。これは到頭仕上がらなかつた。未完成のまゝ『全集別巻』に収まることになつてゐるが」』とある。当時の芥川龍之介、及び名篇「點鬼簿」の逸話として、ここに引用させて貰った。「東家へ義理が惡い」というのも、本館から出て、しかも、普段は、本館へは出向かないから、佐佐木に来てもらって、せいぜい東屋旅館の方に泊まってもらえれば、旅館にとっても好都合ということであろう。]
大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)
冠省御申越しの旨承知しました但「きりしとほろ」上人傳などはエスペラントになつてもなさり榮えがあるまいと存じますが 頓首
九月二十二日 鵠沼にて 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「東宮豐達」既出既注。
『「きりしとほろ」上人傳』既出既注。]
大正一五(一九二六)年九月二十二日・鵠沼発信・土屋文明宛(葉書)
拜復、當日お待ち仕る故遊びに來てくれ給へ。この頃大正十年頃の「アララギ」を見たら、「傾ける麓の原」の歌の原作が出てゐた。大分手を入れたね。匆々。
九月二十二日夜 芥川龍之介
[やぶちゃん注:『「傾ける麓の原」の歌』私は土屋文明の歌集を所持しないので不詳。私は、基本、短歌嫌いである。]
大正一五(一九二六)年九月二十二日・消印二十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・九月二十二日夜 くげぬま 芥川龍之介
冠省、二三日前堀の辰ちやんが來て一晚とまつて行つた。その時君の御光來あるよし承つたが、僕は二十六日か七日かにちよつと上京するつもり。行きちがひになるといけない故、この手紙を差し上げることにした。けふも亦屁をしたら、便が出てしまつて、氣を腐らせてゐる。屁の話のあとにて失禮だが
讀脣難は「亡びる」よりも感服。「女性」中の傑作かも知れない。頓首
九月二十二日 芥川龍之介
佐佐木茂索樣
[やぶちゃん注:「讀脣難」「どくしんなん」か。筑摩全集類聚版脚注に、『佐佐木茂索の小説。「女性」十月号に発表』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。
「亡びる」筑摩全集類聚版脚注に、『同右。「中央公論」九月号に発表』とある。]
大正一五(一九二六)年九月二十三日・鵠沼発信・麻生恒太郞宛(葉書)
冠省、高著頂戴いたしたよし、まだ東京から送つて來ませんが、落手し次第拜見したいと存じます、右とりあへず御禮まで 頓首
鵠沼イの四號 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「麻生恒太郞」(明治三六(一九〇三)年~?)は詩人・小説家。詩集「風の中」( 昭和六(一九三一)年七月十日詩と人生社発行)や(ネット情報)、新全集の「人名解説索引」には、昭和二九(一九五四)年に、『麻生鋭の名前で』、『「世界メシヤ教」の物語である小説「光は大地に」を刊行している』とある。
また、この下旬頃には、「イの四号」から、裏手にある二階家の貸家に転居している。
なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、この九月下旬に鵠沼の芥川龍之介を訪ねた折りの「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)で、龍之介は「肉体の衰へは正視するのもいたはしい」ようだったとし、以下の引用を載せる(恒藤はパブリック・ドメイン)。『芥川の自殺した時から数へて十一ケ月ばかり前の大正十五年九月二十六日に私はサン・フランシスコで乗り組んだ郵船大洋丸から下船して、横浜に上陸した。それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川をたづねたが、三年振りに会つた彼の容貌は、三年まへの其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月がそのあひだに経過したやうな気がした(略)』(「略」は鷺氏によるもの)『元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのもいたはしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向おとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつたやうな調子で文壇のありさまなどを話して呉れた。しかしまた、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた』。『ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣をただよはしてゐて、昼食を共にしたりしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁(とど)め得なかつた』。『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』とある。鷺氏は最後に、『これが恒藤の芥川に会った最後であるが、のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという』と添えられてある。]
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