伽婢子卷之十 妬婦水神となる
[やぶちゃん注:今回は状態の良い岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。]
〇妬婦(とふ)水神(すいじん)となる
山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり。
世に傅へていふ、
「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし。この故に、つひに配偶(はいぐ)、なし。橋の南に離宮(りくう)明神あり。昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ。その來り給ふ時は、宇治の川水、白波、たかくあがりて、すさまじき事、いふばかりなし。されば、明神の哥に、
夜や寒き衣やうすきかたそぎの
行あひのまに霜やおくらむ
と、よみ給ひし。」
とかや。
然るに、宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也。
このゆゑに、今に到りて、兩郡(《りやう》ぐん)、緣を結ぶには、橋より北の方、「槇(まき)の嶋」より、舟にて川を渡る事也。これは、
「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて、ひとり、やもめなる事を怨み、ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり。」
と、いへり。
それにはあらず。
昔、宇治郡に、岡谷式部(をかのやしきぶ)とて、富裕の者あり。
その妻は、小椋(おぐら)の里の領主村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)といふ人のむすめ也。
物嫉み、極めて深く、召し使ふ女童(《めの》わらは)まで、少し人がましきをば[やぶちゃん注:少しでも女として相応の器量を持っていたりすれば。]、追出《おひいだ》して、たゞ、五體不具の女ばかりを、家の内には集め、使ひけり。
餘所(よそ)の事をも、男女《なんによ》のわりなき物語を聞《きき》ては、そのまゝ、腹立ち、怒りて、食、更に、口に入れず。
まして、わが夫(をつと)の事は、悋氣(りんき)ふかく、せめかこちて、門より外に出《いだ》さず。
岡谷も、もてあつかふて、
「去(さり)もどさん。」
とすれば、
「我に、いとまをくれて、去(さり)たらんには、鬼になりて、とり殺さん。」
など、すさまじく罵しりけり。
年をかさぬれども、子も、なし。
岡谷、つねには、双紙をよむ事を好みて、慰(なぐさみ)とす。
「『源氏物語』の中に、物嫉み深きためしには、六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり、髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり。これ、皆、『物ねたみ、深きためし。』とて、後の世迄も、名を殘せし。是等は、恐ろしながらも、『眉目(みめ)かたち美しかりし』と、いへり。たとひ、悋氣深くとも、和御前(わごぜ)も、みめよくは、ありなむ。さのみに、たけだけしう、嫉み給ふな。」
といふに、女房、大《おほき》に腹立ち、
「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて[やぶちゃん注:死んで転生して。]、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」
とて、髮は、さかさまに立ち、口、廣く、色、あかうなり、まなこ、大《だい》に、血、さし入《いり》たるが、淚を、
「はらはら」
と流し、座を立《たち》て、走り出つゝ、宇治川に飛び入《いり》たり。
水練を入《いれ》て求むれ共、死骸も、見えず。
岡谷、驚き、平等院にして、さまざま、佛事、とり行ひけり。
七日《なぬか》といふ夜《よ》の夢に、妻の女房、來りて、岡谷にいふやう、
「我、死して、此《この》川の神と、なれり。橋を渡りて緣を結ぶものあらば、行末、必ず、遂(とげ)さすまじ。」
とて、夢は、さめたり。
これより、
「橋を渡りて、緣を結べば、必ず、別離する。」
と、いへり。
「船にて川を渡すにも、眉目(みめ)わろき女には、仔細なし。顏かたち、美しき女の渡れば、必ず、風、あらく、波、たちて、舟、危し。」
といふ。
此故に、新婦(よめ)を迎へて、川を渡すに、波風なきときは、
「新婦(よめ)のみめ、惡(わろ)からん。」
と、諸人、これを知るとかや。
[やぶちゃん注:全国に見られる橋姫伝説は数多注してきたので、ここで改めて語る気にならない。手っ取り早く、梗概を知りたければ、ウィキの「橋姫」を見られたいし、民俗学的なそれは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫』(十分割)を読まれたい。なお、これも時制を特定していない。しかし、個人的にはここまでの「伽婢子」の中では珍しく読後がいかにも後味悪い作品である。妬心をいやさかに燃え上がらす妻を病的に描くことに執着した了意に、妙なもやもやしたダークな一面(彼の人生の中の女の影)を見るからであろうか。
「山城の國の郡は、橋より、東にあり。宇治橋より西をば、久世郡(くせのこほり)といふ。宇治橋の西のつめ、北の方に、橋姬(はしひめ)の社(やしろ)あり」宇治橋周辺は宇治川右岸が旧宇治郡、左岸が旧久世郡宇治郷に当たる。橋姫神社をポイントした(グーグル・マップ・データ)。
「橋姬は、顏かたち、いたりて、みにくし」不審。「新日本古典文学大系」版脚注でも、直後の『文にも』「橋姬、わが容貌(かほかたち)の惡しくて」『とするが、宇治の橋姫を醜女』(しこめ)『とする伝承は見当たらない。美女を妬むとする原話』(本篇は五朝小説「諾皐記」の「臨清有妬婦津云々」を原話とすると前注にある)『に即した付加か』とある。
「離宮(りくう)明神」先の地図で宇治川の対岸にある末多武利神社(またふりじんじゃ)。祭神は藤原忠文(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)は天慶二(九四〇)年、「平将門の乱」鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ、東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。忠文は大納言藤原実頼の反対により、恩賞の対象から外されたことから、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫に祟ったとされ、この神社は、その忠文の御霊を慰めるために創建されたもの。
「昔、夜な夜な、橋姬のもとに通ひ給ふ」前掲の岩波文庫の高田氏の注に、『「宇治の橋姫とは姫大明神とて、宇治の橋本に座す神也。其の神の許へ、宇治橋の北に座す離宮の神、夜毎に通ひ給ふとて、暁毎に川波大きに声あり」(『顕注密勘』)』とあり、以下の歌について、『「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行合のまより霜や置くらむ」(『新古今集』巻十九、神祇歌)。「かたそぎ」は、「片削ぎ」で片方を削ぎ落したもの』とある。「片削ぎ」とは神社の神明造りに於いて、破風板の両端が棟でX字型に交差するが(これを「千木(ちぎ)」と呼ぶ)、それが更に上に突き出た部分を指す。その先端部は孰れも片側が削がれてあることに由来する呼称である。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『出来斎京土産七。橋姫宮に「離宮神夜る』夜る『橋姫に通ふあかつきごとに川波大きに声ありといへり。又ある説に住吉明神宇治の橋守の神に通ひ給ふといへり。明神の歌に』として次の「夜や寒き」の歌を引く」とある。
「夜や寒き衣やうすきかたそぎの行あひのまに霜やおくらむ」「新古今和歌集」(一八五五番)のそれは、「住吉御歌となん」という後書を持ち、
夜や寒き衣やうすきかたそぎのゆきあひのまより霜やおくらむ
である。確認した「新日本古典文学大系」(同集・一九九二年刊)で、その赤瀬信吾氏の訳に、『夜が寒いのか、わたしの着ている衣が薄いのか、それとも片そぎの千木のまじわっている隙間から、霜がもれて置いている』からな『のであろうか』とある。
「宇治と久世と、新婦(よめ)をとり、聟をとるに、橋姬の前を通り、橋を渡りて緣をとれば、久しからずして、必ず、離別する也」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「むかしより橋姫の前を新婦(よめ)入する時通らず。久世と宇治との縁を結ぶには橋の下より舟にて渡る事なり。橋姫のまへを通りぬれば神ねたみ給ひて夫婦の中すゑとをらずとかや」(出来斎京土産七・橋姫宮)』とある。花嫁御寮の行列が特定の橋を禁忌とする習俗は各地に見られ(鎌倉の深沢にもある)、これは霊魂がそこを伝って海へ下る霊的なシステムとしての川、及び、それを自然ではなく橋(同時にそれは「端」であり、非日常に繋がる「辺縁」である)というジョイントで繫いでいる場所は、日常と異界との通路に相当するため、川や橋自体が「晴れ」の儀式の禁忌対象となることは極めて腑に落ちるものである。
「槇(まき)の嶋」現在の宇治川左岸の京都府宇治市槇島町(まきしまちょう)。
「ひとの緣邊《えんぺん》を嫉(ねた)み給ふ故なり」「緣邊」は縁が結ばれて両者が結びつくこと。特に婚姻による縁続きの間柄を指す語。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(10) /橋姫~了』に、『傳說の解釋は面白いものだが同時に中々むづかしく、一寸自分等の手の屆かぬ色々の學問が入用である。此場合に先づ考へて見ねばならぬのはネタミと云ふ日木語の古い意味である。中世以後の學者には一箇の日本語に一箇の漢語を堅く結び附けて、漢字で日本文を書く便宜を圖つたが、其宛字の不當であつた例は此ばかりでは無い。ネタミも嫉又は妬の字に定めてしまつてから後は、終に男女の情のみを意味するやうに變化したが、最初は憤り嫌ひ又は不承知などをも意味して居たらしいことは、倭訓栞などを見ても凡そ疑が無い。而して何故に此類の氣質ある神を橋の邊に祭つたかと言ふと、敵であれ鬼であれ外から遣つて來る有害な者に對して、十分に其特色を發揮して貰ひたい爲であつた。街道の中でも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に、人間の武士が切處として爰で防戰をしたと同じく、境を守るべき神をも坂又は橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於ては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍の無いやうに、土地の者は平生の崇敬を怠らたかつたので、そこで橋姬と云ふ神が怒れば人の命を取り、悅べば世に稀なる財寶を與へると云ふやうな、兩面所極端の性質を具へて居るやうに考へられるに至つたのである。又二つの山の高さを爭ふと云ふ類の話は、別に相應の原因があるので逢橋と猿橋と互に競ふと云ふなども、男と女と二人列んで居る處は、最も他人を近寄せたくない處である故に、卽ち古い意味に於ける「人ねたき」境である故に、若し其男女が神靈であつたならぱ、必ず偉い力を以て侵入者を突き飛ばすであらうと信じたからである。東山往來と云ふ古い本を見るに、足利時代に於ても此信仰の痕跡が尙存し、夫婦又は親族の者二人竝び立つ中間を通るのは最も忌むべきことで、人が通るを人別れ、犬が通るを犬別れと謂つて共に凶事とするとある。つまり此思想に基づいて、橋にも男女の二神を祭つたのが橋姬の最初で、男女であるが故に同時に安產と小兒の健康とを禱ることにもなつたのである。ゴンムの『英國土俗起原』やフレヱザーの『黃金の枝』などを見ると、外國には近い頃まで、此神靈を製造する爲に橋や境で若い男女を殺戮した例が少なくない。日本では僅かに古い古い世の風俗の名殘を、かの長柄の橋柱系統の傳說の中に留めて居るが、其は此序を以て話し得るほど手輕な問題では無いから略して置く。近世の風習としては、新たに架けた橋の渡初めに、美しい女を盛裝させて、其夫が是に附添ひ橋姬の社に參詣することが、伊勢の宇治橋などにあつたと、皇大神宮參詣順路圖會には見えて居る。橋姬姫の根源を解說するには、尙進んでこの渡初めの問題に立入つて見ねばならぬのである』とある。さすればこそ、ここで妬心深き妻は自ら命を絶つのであるが、それが他ならぬ橋であってみれば、この話柄の淵源は人身御供にまで遡ることが可能である。美麗な婦人でありながら、病的に妬心の炎(ほむら)を立てる彼女は日常的存在でないことによって、宿命的に既にして神に選ばれし者であったのである。
「それにはあらず」否定表現ではなく、「それは、まず、さておいて」という枕の発語。
「岡谷式部(をかのやしきぶ)」不詳。
「小椋(おぐら)の里」既出既注の豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。
「村瀨兵衞(むらぜのひやうゑ)」不詳。
「六條の御息所(みやすどころ)は死して鬼となり」不審。葵の上に憑依して、結局、彼女をとり殺すのは、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊であり、それも六条御息所自身が殆んど意識していない潜在意識内に於ける憑依である。
「髯黑大臣(ひげくろのおとど)の北の方は、物狂はしくなれり」岩文庫の高田氏の注に、『紫の上の姉』(異母姉)『にあたる。夫が玉鬘に夢中なので物の怪の発作を起こして』、雪の日の朝、性懲りもなく玉鬘のもとに向かおうとする夫に『火取の灰をあびせかける』とある。
「みめわろきを嫌ひて、又、こと女《をんな》に心をうつさんとや。この姿にて、みにくければこそ、男も嫌ひ侍べれ、生《しやう》をかへて、思ふまゝに身をなし、心定まらぬ男を思ひ知らせん。」この言い方を見るに、彼女は妬心が病的に亢進し、自分の美貌に対しても、自信と絶望のアンビバレントな感覚を抱いていることが判る。強い関係妄想を伴う重い統合失調症の様相を呈していることが判る。
「水練」泳ぎの達者な者。
「平等院」ここ。]
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