只野真葛 むかしばなし (37)
玄良、妹[やぶちゃん注:三女の「つね子」であろう。加瀬家に嫁していた。]をめとりて、十年、子、なし。ある人、すゝめて曰、
「人の子をもらへば、子のできるものなり。其ためし、有事(あること)あり。女子にてももらわれよ。」
とすゝめしを、
「いや、とても。もらはゞ、女は、めんどうなり。男を、もらはん。」
とて、牧野樣御家中より、男子をもらいしに、いまだ引とらざる内、妻、懷姙、男子出生なり、名、庄之助。
「それ。まじないが、きいた。」
と、すゝめし人は、いふべし。
養子の里方にては、
「男子、出生。」
と聞て、
「此うへは、御入用に有まじ。取もどさん。」
といひしを、きかず、
「一旦、約せしこと故、ぜひ、家督、つがせる。」
と、いひて、もらひ受し人、權市なり。
是、わるひおもひ付の一番なるべし。
又、男子出生、友八といひし。庄之助をば、手前より、よほど、高(たか)よろしきかたへ養子にやりしが、心だて、いかつにして、あたり、かたく、おしづ、大きに苦勞せしなり。
「來ては、家の中を、かきまわし、自由自在を、はたらきし。」
となり。湯に行度に、「あかすり切(きれ)」[やぶちゃん注:「垢磨り布」。]をもちひ、一度、つかひて、すてゝくる。
「手ぬぐひを、かせ。」
といふも、夫切《それきり》などゝいふことにて有しとぞ。
「それも、中やすみの不自由の中から、とられる故、めいわくなり。小袖一おもてにては、一年のあかすりきれに、たらぬ。」
とて、なげきたりし。
弟友八は、おしづが行し頃は、十六にて、源四郞に、一ッ、ましなり。是は世に珍らしき善人なり。
「此人の、陰にたすけられし。」
とのことなり。おしづ、守のさきばゞは、度々、出入して、やうすも見しが、
「誠に感じ入(いり)しこゝろざし。」
とて語りし。
さきばゞが逗留の内、權市かたへ、客、有て、ながばなし、夕めし時分に成て、
「膳をいだせ。」
といひしに、權八、外より到來の鮒(ふな)有しを、菜にして出したること有しに、權八は留守なりし。夜《よ》に入りて、權八、かへり、
「酒の看に昨日もらつた鮒が有はづだから、持てこい。」
といひしに、
「ござりません。」
といふ。
「どうした。」
「ひる、お客樣へ上(あげ)ました。」
「誰がきた。」
「だれだれ。」
とか、こたへれば、
「それは權市が所へきた客だ。おれがもらつておいた物を、自由に、わが客へだすはづがない。」
とて、とんだむつかしく成そうな時、友八、とんでいで、
「いや、おとゝ樣、兄樣をおしかり被ㇾ成るな。晝膳をだすに、『何で、上(あげ)やう。』と、女どもが申たから、『是が、よからろふ。』と申て、私が、だしてやりました。兄樣の御存知のことは、ござりません。私が、わるふござります。どこから來たか、存じましなんだ。わるいことをいたしました。どうぞ、御めん被ㇾ成て被ㇾ下まし。」
と、袂にすがり、ひたすら、わびて、小言をやめさせし、となり。
さきは、晝より見て有しが、またく、友八がせしことにては、なかりしを、たゞ其間(あひだ)をとりむすぶためなりし故、感心せしなり。
おしづ、來りし時、其はなしをしたれば、
「そのやうなことは、日に、二、三度、有ことにて、めづらしからず、父親も友八がわびごとゝしりながら、年もゆかぬものゝ、なかぬばかりにわびごとする故、それにめでゝ小言をこらへていはずに仕舞ことなり、といひし。
一躰、小男にて、歲よりはちいさきに、色黑く、しなびだらけな若衆、小家の家中故、人がらも、よろしからず。おさなきより、茶の湯好(ずき)にて有しとぞ。濱町居宅の近所に、其師、有しが、千家なり。けいこ日には、かけず、いでたりし。
又、近所の「野だいこ」に「さりやう」といふ坊主、有し。三十近(ちかく)にて、きいたふうをする人、
「少々、茶をやつて見たし。」
とて、弟子入せしが、末熟なり。けいこ日に、廻座なるべし、だんだん、いでたてるとき、友八出しを、
「この若衆が、何。」
と、見をとしてゐると、手前の見事さ、いひ分、なし。その次が大坊主の番なり。大きに臆して、ふるひふるひ、出てたてると、いかゞしたりけん、茶杓を、
「ぴん」
と、はねかせしが、頭から、茶をかぶり、折ふし、夏にて、汗、たる、故、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、袂から手ぬぐひを出して、一寸、ふいたれば、靑ぼうづに成し。おかしさ、座中一同、ふきいだせし、とて評判なりし。
庄之助には、世の中を、ざと、心得し人にて、養家親は隱居して、其身のうへ、妻子も有しに、前町[やぶちゃん注:不詳。]の「うり女」に入上(いれあげ)、當番下りに相番の人の刀をぬすみ、緣の下にかくしたりしぞ、淺はかなる心なりし。手ぜまき家中のこと故、ほどなく露顯《ろけん》せしかば、仕方なく、身をかくし、日陰ものと成しを、父樣、世話にて、「曾(そう)松けい」に御賴み、一生、かくまひ、もらひたり。
此「松けい」という人[やぶちゃん注:ママ。]、壱ッの、「きりやう人」なりし。父は町醫にて、はやり、よほど大株なものなりしが、十ばかりにては、父に、おくれ、とかくする内、母も死、壱人身(ひとりみ)となり、十三の年、ばくちを打(うち)ならひ、家諸道具を打こんで、かけおちせし人なり。あしきことながらも、十三ぐらいで、そふ[やぶちゃん注:「さう」か。]、物がとりまわされるは[やぶちゃん注:ママ。]、器量のうちなり。
それより、所々をありきて、後、奈須玄□[やぶちゃん注:底本に『(一字欠)』とある。]
樣の弟子と成て有し。其妹子を、つれのきして[やぶちゃん注:意味不明。「連れ合いにして」か。]、かすかに暮して有し時、ばくち、殊の外、御法度きびしく成し。はじめ、公儀衆のうち、ばくち沙汰にてむつかしき事出來し時、一座したる故、牢入(ろういり)となりて有しを、父樣、きやう[やぶちゃん注:「器用」。]をば、おしみ被ㇾ成、其内は、家内を扶持して、いろいろ御手入被ㇾ成、出牢させて被ㇾ遣し。御おん有(ある)故、いのちをすてゝ、庄之肋を、かくまひしなり。其頃は、薩摩へめしかゝへに成て、御國產方(かた)を、もはら、つとめて有し本草家なり。ちいさな、やせ坊主にて有しが、氣のつよきことは、萬人に勝たり。
[やぶちゃん注:「奈須玄□」延宝七(一六七九)年没の医師に「医方聚要」を書いた奈須玄竹がおり、彼か或いはその後裔か。他に幕府医官奈須恒隆の養子で多くの医書を書いた奈須恒徳(通称は玄盅(げんちゅう))がいるが、彼は安永三(一七七四)年生まれで若過ぎるから違う。
「御國產方」以下を見る通り、薩摩藩及び琉球を主特産・主産地とする漢方生剤を扱う江戸での役方の意であろう。]
薩摩の國產を[やぶちゃん注:底本は「を」にママ注記。「日本庶民生活史料集成」版では、ここの「を」を『の』とする。]藥種、江戶へ船𢌞しなれば、利、有ことなれども、いつも、破船して、とゞかぬ故、役人を、「うわのり」に付られしも、水に入(いり)て死(しぬ)ことにて、誰も「うはのり」仕(つままつる)人なくて、船𢌞しのこと、やみて有しをしらず、「松けい」、ぞんじよりを申上しに、
「船𢌞し、尤、利、有ども、かくかくの次第にて、『うわのり』する人、なし。」
と、いはれし時、
「私、船『うわのり』、いたさん。」
と、いひしこと[やぶちゃん注:感触であるが、この「こと」は以下の続きから「こそ」ではあるまいか?]、破船、名付、いたづらする時、役人ぐるみに、海にいれたものとは、誰も察せらるゝを、やせ坊主の望(のぞみ)し氣のつよさ、たゞ人ならず。舟頭もおそれて、かゞまりて、何事なく、江戶、着せし時、すぐに、數寄屋町へきて、
「きのふ、薩摩から、かへりました。」
「それは。早く御ざつた。」
と被ㇾ仰しに、
「いや。とんだことで。早く參りました。かやうかやう。」
とて、はなしたりし。
歸りしあとで、
「たぐひなく、氣のつよひ[やぶちゃん注:ママ。]。」
とて、御ほめ被ㇾ遊し。其時、御はなしに、
「ばくち打といふものは、すてられぬものなり。此うわのりせしは、ばくちにて、下衆をとりひしぐこと、手のうちに有故、のぞみて、せしなり。覺なくては、のぞまれぬわざ。」
と被ㇾ仰し。
[やぶちゃん注:「うわのり」ママ。「上乘(うはの)り」で、近世に於いて、貨物輸送船に乗り込んで荷主に代わって積み荷の管理・監督を司った役を指す。]