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2021/09/02

伽婢子卷之八 幽靈出て僧にまみゆ

 

[やぶちゃん注:標題は「幽靈、出(いで)て、僧に、まみゆ」と読んでおく。挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して適切と判断した箇所に挿入した。この挿絵は子細に見れば判る通り(二枚目に田圃の様式線が被っている。なお、元禄版では二枚目はない)、見開き左右二幅であるが、思うところあって、分離した。]

 

   ○幽靈出て僧にまみゆ

 隅屋(すみや)藤九郞は、楠が一族として、畠山右衞門佐義就(はたけ《やまうゑもんのすけ》よしなり)が手に屬(しよく)し、「嶽山(だけ《やま》)の合戰」に、比類なき手がらをあらはし、つゐに、うち死して、名を殘しけり。

 其《その》子、藤四郞、おなじく、義就に屬して、應仁元年、御靈(ごりやう)の馬場の軍(いくさ)に、畠山左衞門督政長が陣中より放ちける矢に中(あた)りて、討《うた》れたり。

 父子二代、すでに義就に忠を盡しければ、其のよしみ、深く、河内國門間(かどま)の庄を、藤四郞が舍弟藤次、生年《しやうねん》五歲になりけるに、知行せさせ、父藤九郞が妻と同じく、すみ侍べり。

 

Toukurou1

 

 其比《そのころ》、諸國順禮のひじり、只一人、此のわたりに來り、日、已に暮ければ、宿借(《やど》か)るべき村里をもとめて、門間の鄕(がう)ちかく、田の畔(くろ)に立やすらふ處に、笛の音、かすかに聞え、漸々(ぜんぜん)に、近付くをみれば、年のほど、十四、五とみゆる少年、いふばかりなく美しきが、髮、からわに上げ、薄化粧(うすげさう)に、鐵漿(かね)、黑く、色、白く、眉、細く作りたるが、白き淨衣(じやうえ)に、はかま、きて、只一人、畔を傳ふて來りつゝ、ひじりを見て、いふやう、

「和僧(わそう)は何故に、こゝには、たゝずみ給ふ。」

と問(とふ)に、ひじりは、

「是は、諸國順禮の修行者(しゆぎやうじや)にて侍べる。道に行暮《ゆきく》れて、宿を求めんため、たゝずみ侍べる。」

といふ。

 少年、すこし、打ち笑らひて、

「世の中、靜かならず。如何でか、たやすく、宿かす人、あるべき。たとひ、『出家也』といへ共、『若《もし》は敵のはかりごとか』と、互ひに疑ひを致す時節也。あしく立《たち》めぐりて、人に咎められ、あえなき命を失ひ給ふな。今はゝや、夜も更けがたなり。某(それがし)が部屋に來りて、一夜《ひとよ》を明かし給へ。」

とて、聖と打ち連れて、一つの家に行至《ゆきいた》り、

「表の門は、番の者も臥(ふし)ぬらん、こなたへ、いらせ給へ。」

とて、裏の小門より密(ひそか)に内に入《いり》て見るに、

「こゝぞ、それがしの常にすむ所。」

とて、一間の部屋に入たり。

 内には、持佛堂ありて、阿彌陀の三尊を立(た)て、前なる机には、「淨土の三部經」あり。

 十二行(かう)の供物、燈明、かすかに、花香を供へ、位牌の前には靈供(りやうぐ)そなへて、いと尊(たふと)き有さま也。

 聖、なにとなく殊勝に覺えて、暫く、經讀み、念佛す。

 少年のいふやう、

「まだ宵の事ならば御内(みうち)の者に仰せて、非時(ひじ)の料《れう》、よくしたゝめて參らすべきに、夜更け、人靜まりて、すべき樣、なし。旅の勞れを休め、飢《うゑ》をたすくる御爲に、此(この)靈供を參れせむ。」

といふ。

 聖(ひじり)は、

「何か苦しかるべき。」

とて、靈供の飯(はん)を二つに分《わき》て、少年と、聖と、食ひ侍べり。

 ひじり、問ひけるは、

「こゝは、如何なる人の御家ぞ、和君は、御名を何とかいふ。」

と尋ねしに、少年、答へけるは、

「それがしの父は隅屋藤九郞とて、武勇の譽れありしが、去《いん》ぬる嶽山の軍に討死せり。それがし兄弟二人、其跡を繼ぐといへ共、弟にて侍べるものは、未だ、幼少也。それがしだに、年にも足らねば、唯、まづ、母に育てられて、月日を送る事にて、名をば、藤四郞と云ひ侍べり。今宵、尊きひじりに宿かし參らするも、他生(たしやう)の緣、淺からぬ故なれば、それがし、たとひ、空しくなるとも、後世《ごぜ》をとうて給(たび)たまへ。」

とて、そゞろに淚を流しければ、ひじり、聞て、

「如何に、かくは仰せありける。君は、誠に莟(つぼ)む花の、まだ咲出ぬころほひ、さしも、末久しく榮え給はん老さきある御身ぞかし。ひじりは、年傾(《とし》かたふ)きたる者なれば、しらず、けふもや、浮世の限りなるべき。」

といへば、少年は、

「いやとよ、武士(ものゝふ)の家に生れて、名を惜み、功を顯さむとするには、命は、草の露、夕(ゆふべ)を待たでも、消《きえ》やすく、賴みがたく侍べれば、かく申すぞ。そこに持ち給へる過去帳に、それがしの名を、書きのせ給へ。」

とて、硯を出す。

聖は、

「あら、心得ずや、年にもたり給はねば、何のわかちもなく、かやうに望み給ふか。過去帳には、死に去りたる人の名をこそ記せ、さらば、御望みを背くも、無下(むげ)なり。逆修(ぎやくしゆ)に書きのせて、武運の長久を祈り奉らん。」

と云ければ、兒(ちご)、うち笑ひて、

「それは、兎も角も、御心《みこころ》に任させたまへ。」

といふ程に、此兒(ちご)、まなこざし、俄かに變り、苦しげに、息、つき出し、

「何ぞ、只いまぞや、心得たり。」

とて、傍(そば)にたてかけたる太刀、おつとり、障子を開き、立出《たちづ》るぞ、とみえし、跡もなく、うせにけり。

 ひじりは、きもをけし、立出て見れど、かげもなく、物音も、聞えず。

 不思議の事に思ひながら、暮れて、歸るべき道も知らず、持佛堂の前に坐して、夜を明かす。

 巳に明方になりければ、藤九郞が後家、其外、家にありける一族、皆、起き出て、持佛堂に參りて見れば、色黑く、瘦せかれたる法師一人、佛前に、あり。

「こは、そも、如何なる古(ふる)盜人(ぬす《びと》)の忍び入《いつ》たる歟(か)、古狸(ふるたぬき)の化けて居たる歟、からめ捕りて、子細を問へ。」

と、ひしめきたり。

 ひじりは、少しも懼るゝ色なく、

「まづ、靜まりて、子細を聞給へ。」

とて、初め終りの事ども、語りければ、

「さては。藤四郞殿の亡魂(ぼうこん)、あらはれ出給《いでたま》ひけむ。」

と、今宵、位牌の前なる靈供を二つに分て、半(なかば)は、ひじりの參らせし、半は我が食(くひ)けるに、ひじりの食(しよく)せしは、皆になりつゝ、半は、さながら、位牌の前に殘りて、あり。

 

Toukurou2

 

[やぶちゃん注:持仏堂で回向する僧と、左に亡き藤四郎の霊を求めんとする母が佇立して、手を虚空に差し出している。「新日本古典文学大系」版脚注では、『半分に分けた霊供は定かではないが、仏壇の線香立の左右にある二つの皿がそれか』とする。]

 

 母は餘りの悲しさに、位牌の前に、ひれ伏し、聲を限りに泣き叫び、

「さても、去ぬる正月十九日、京都御靈の馬場にして、流矢にあたりて打れしが、今日、已に百ヶ日に及べり。此世に、殘りて、憂き物思ひする、みずからには、などや、見えこざる。」

とて、引かづきて、歎きしが、あまりの事に、堪へかね、聖を憑(たの)みて、髮を剃り、尼になりつつ、菩堤を深く吊(とふら)ひけると也。

 

[やぶちゃん注:本話は「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『三国伝記十二ノ十五「芸州西条下向僧逢児霊事」や曾呂利物語二ノ五「行の達したる僧にはかならずしるし有事」などに近似する、僧侶の回向譚に発した亡霊説話。これに応仁記に見出した一挿話を付加して、戦場に散った若武者の菩提を弔う物語に仕立てる』とある。実際に同書の注を見て行くと、若者と邂逅するシークエンス以降に、明らかに「曾呂利物語」の叙述が、多数、意図的に組み込まれていることが、判る。ただ、私は寧ろ、行脚僧の美女に見紛う美少年との出逢いから、持仏堂のある一間へ誘われて、仏飯(ぶっぱん)を折半して食し、実はその若者は亡霊であって、自らの後世を弔ってもらわんがために、僧をここへと導いたのであったという展開は、能の複式夢幻能を確信犯で意識しているものと思われ、私にはそこにしみじみとしたものが感じられ、本話に惹かれるのである。

「隅屋(すみや)藤九郞」「新日本古典文学大系」版脚注では、『応仁記・畠山右衛門佐上洛之事にその子とともに登場するが、「隅屋」「隅屋ト申者ノ子」とするのみで』、ここ出る『藤九郎』や、主人公である亡霊の『藤四郎』やその弟『藤次などの名乗りは不詳』とし、以下諸本の名乗りの記載を載せるが、私には必要ないので省略する。

「楠が一族」かの楠木正成の一族。言わずもがな、後裔は殆どが南朝方についたことから、南朝の衰退とともに一族も没落した。

「畠山右衞門佐義就」畠山義就(よしなり/よしひろ 永享九(一四三七)年?~延徳二(一四九一)年)は室町後期の武将。室町幕府管領畠山持国の長男。持国には嫡出の実子がなかったため、妾腹の義就を排し、弟持富、また、その子政長を養子に迎えたため、畠山氏は二流に分裂、細川・山名の両氏に助けられた政長側が優勢であったため、義就は京都を追われて河内・紀伊の各地に転戦した末、山名持豊 (宗全) を頼って文正元 (一四六六) 年に入京し、足利義政に謁した。翌年、持豊と結んで政長を討とうとしたことが、「応仁の乱」の発端を成した。最後は大阪で病死した。

「嶽山(だけ《やま》)の合戰」寛正元(一四六〇)年十二月十九日から寛正四(一四六三)年四月十五日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市龍泉のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し、実に二年以上の長きに亙って行われた幕府追討軍との戦い。

「應仁元年」一四六七年。

「御靈(ごりやう)の馬場の軍(いくさ)」「御霊(ごりょう)合戦」「上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の戦い」。「応仁の乱」に於ける緒戦となったもの。文正(ぶんしょう)二(一四六七)年一月十八日から翌十九日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した戦い(この凡そ一ヶ月余りの後の文正二年三月五日に応仁に改元された)。

「よしみ」「好み・誼み」交誼。縁故。

「河内國門間(かどま)の庄」「新日本古典文学大系」版脚注に、『戦国期に』現在の『大阪府門真市』の『北部に存在した地名』とある。この中央附近。淀川左岸内陸。「今昔マップ」で明治期の地図を見ると、広大な「門真村」があるが、殆んど全域が水田である。

「田の畔(くろ)」田と田の境。畦(あぜ)であるが、挿絵にあるように、通常の同一の持ち主の作業用の狭く細いそれではなく、境であって、農道も併用するようなそれである。

「からわ」日本髪の一種。男女ともに結んだが、ここは男性のそれ。男の唐輪は鎌倉時代に、武家の若者や寺院の稚児などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(ちごまげ)に類似する。髪の元を取り揃えて百会(ひゃくえ:頭頂)に揚げ、そこで一結びしてから、二分し、額の上に丸く輪としたものである。

「鐵漿(かね)」「お歯黒」のこと。鉄屑を焼いたものを濃い茶の中に入れ、これに五倍子(ふし)の粉を加えて、その液で、歯を染めた(その液に酒・飴・粥を加えることもあった。これは口中に入れるものであったため、原液のえぐみの不快さを和らげて使いやすくするためであった)。この風習がいつの時代に始まったかは詳らかでないものの、平安貴族の間で行われていたことは「源氏物語」や「枕草子」にも見え、中世初期の源平時代には男子も鉄漿付けしていた者があったことは、戦記物の中でも窺える。江戸時代に至って一般庶民の婦人の中に日常的な身だしなみとして行われるようになったが、逆に男子のそれは、それ以前に廃れていたらしい。ここは室町後期であるから、特に違和感はない。

「淨土の三部經」浄土三部経は「仏説無量寿経」・「仏説観無量寿経」・「仏説阿弥陀経」の三経典を逢わせた総称。法然を宗祖とする浄土宗・西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう:京都府長岡京市にある光明寺(粟生光明寺(あおうこうみょうじ))を総本山とする浄土宗の一派)、親鸞を宗祖とする浄土真宗では、この浄土三部経を根本経典とする。

「十二行(かう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は、『十二種の菩薩を供養するための供物』とあるが、持仏堂にあるのは阿弥陀三尊(観音・勢至の菩薩を脇侍とする)であり、十二因縁に基づく円覚十二菩薩があるにはあるが、浄土教の主体仏は必ず阿彌陀如来であって菩薩ではないから、これはおかしい。「伽婢子卷之二 狐の妖怪」の「廿四行(がう)の供物」を参照されたいが、そこで述べたように、この数値は阿弥陀如来の絶対他力の濫觴たる四十八誓願の約数である。それに擬えた四十八種の供物は、揃えるのが大変であるから、その最小の約数である十二種の御供物を以って阿弥陀の誓願成就のシンボルとして捧げるという意であると私は思う。

「靈供(りやうぐ)」ここは死者の霊への仏飯。

「非時(ひじ)の料《れう》」「伽婢子卷之三 梅花屛風」の私の「朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ」の注を参照されたい。

「何か苦しかるべき。」「何の不都合が御座いましょう。戴きまする。」。僧侶は亡者と共食することも、回向の大事な一儀であるからである。

「他生(たしやう)の緣」「多生の緣」が正しい(元禄版も「新日本古典文学大系」版も「多生」である)。「他生」とも書くが、これは誤用の汎用である。この世に生まれ出るまで、何度も生死を繰り返している間に結ばれた因縁。前世で結ばれた縁。

「そゞろに」思わずも。突然に。

「ひじりは、年傾(《とし》かたふ)きたる者なれば、しらず、けふもや、浮世の限りなるべき。」「拙僧は、老いよろぼえたる者にて御座ればこそ、知らぬうちに、今日やら、明日にもか、浮世の生(しょう)をば終わらんとぞせんものを。」。

「そこに持ち給へる過去帳に、それがしの名を、書きのせ給へ」「過去帳」は死者の戒名(法号・法名)・俗名・没年月日・享年などを記載した帳簿。本邦の仏具の一つ。「鬼籍」「点鬼簿」とも呼ぶ。寺院用・在家用が知られるが、ここではこの巡礼僧個人が持っているそれである。恐らくは、行脚の途中で出逢った行路死病人や臨終を看取った人物或いは特に供養・回向を依頼された物故者について、それ以降、続けて回向するための記録簿としてのそれであろう。

「年にもたり給はねば」「新日本古典文学大系」版脚注では、『一人前になっていない。まだ年若い』の意とする。

「何のわかちもなく」同前で、『是非善悪の分別』の意とする。

「かやうに望み給ふか。過去帳には、死に去りたる人の名をこそ記せ、さらば、御望みを背くも、無下(むげ)なり」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。

「逆修(ぎやくしゆ)」生きている内に予(あらかじ)め死後の冥福を祈って仏事を先んじて行なうこと。死後に行なう七七日(なななぬか:四十九日)の仏事を、生存しているうちに営んで、冥福を祈ること。死後に何が起こるか判らない場合、後世の安寧の心配をせぬように行うことは古くから多く見られたし、またそれを行うことが供養となって長生きが出来るという認識も広くあった。なお、そうした目的で生前に自分の供養塔(石塔婆)を建てる場合もあり、それは逆修塔(ぎゃくしゅとう)と呼ばれる。現在でも、生前に墓地を作っておき、その墓石に自分の戒名をすでに刻み込み、死んだ人の墓碑銘と区別するためにその戒名を朱書にしておく(死者の戒名を墨書にするのに対するもの)「逆修(ぎゃくしゅ)の朱(しゅ)」の習慣が残っている。

「何ぞ、只いまぞや、心得たり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『何か用か。すぐ行くぞ、わかった。』と訳されてある。討ち死にの瞬間が、ここに繰り返されているものか。いや、或いは、人間道で戦さ死にした少年は、修羅道に堕ちており、常時、戦いに駆り出されて、文字通り、修羅場に生きているのやも知れぬ。ここが、私には非常なリアリズムの映像となって眼前に迫ってくるのである。

「古(ふる)盜人(ぬす《びと》)」年老いた泥棒。

「去ぬる正月十九日、京都御靈の馬場にして、流矢にあたりて打れしが、今日、已に百ヶ日に及べり」ここは本書の中でも驚くべき特異点で、本話柄の時制が、年月日単位で特定されているのである。則ち、少年隅屋藤四郎は『「御靈の馬場の」戦い』で文正二年一月十九日(ユリウス暦二月二十三日・グレゴリオ暦換算三月四日)に討ち死にしたが、命日を入れて数えるので、いつもお世話になる「暦のページ」の旧暦カレンダーを用いて数えてみると、文正二年一月は「小」の月で十一日、二月は「大」の月で三十日、三月が「小」で二十九日、四月も「小」で二十九日、されば、故藤四郎の「百ヶ日」であるこの日は、ズバリ、文正二年五月一日(ユリウス暦六月二日・グレゴリオ暦換算六月十一日)となるのである。創作目的で書かれた怪奇談集で、話柄な時制がここまではっきりするのは、まず以って珍しいものである。なお、「百ヶ日」は故人が新仏(にいぼとけ)となって忌明け後初めての法要となるものである。これは「卒哭忌」(そっこくき)とも呼び、「悲しんで泣くことをやめる忌日」とされ、謂わば、死者を悼む一つの大きな区切りとして古くから認識されてきたものである。「中陰法要」(四十九日追善法要)と「年忌法要」(一周忌法要)の中間を結ぶ法要で、「十王信仰」では十の審判の内の八番目の審判(裁判官は平等王(びょうどうおう)で、本地は観音菩薩)が行われる日とされる。なお、当時、一般的であった土葬では、死後百日目頃に遺体が白骨化することから、この「百ヶ日」の日に、死者の魂が肉体を離れると信じられていたという説もある。

「引かづきて」悲しみのあまり、大泣きするのを人目から避けるために、自らの上着をずらして頭から被って。卒哭忌をも吹き飛ぶ母の慟哭である。]

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