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2021/09/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子 / 第五集~了

 

   ○奧州平泉毛越廢寺路錄歌唐拍子

ちなみにいふ、みちのくの「田うゑ歌」は、古風なるものなればこそ、芭蕉の發句にも、「風流のはじめや奧の田うゑ歌」といへれ。この「田うゑ歌」の事は、本居氏の「玉勝間」に載せたれば、世の人のしる所なり。しかるに、奧州平泉に、中尊寺・毛越寺といふ寺ありて、各十八箇の子院あり。今、毛越寺は廢して、唯、子院十八箇をのみ殘したり。この毛越寺に、むかしより傳へて「唐拍子」といふ歌あり。「路錄歌」ともいへるよし。今も每年、毛越寺廢墟の阿彌陀堂に、子院の法師、集りて、この「錄樂」を行ふとぞ。そのうた、左のごとし。

    唐拍子歌

○ソヨヤミイユ。ソヨヤミユ。ゼイゼレゼイガ。サンザラ。クンズルロヲヤ

○シモゾロヤア。ヤラズハ。ソンゾロロニ。ソンゾロメニ。コウコロナンズリシニ。ワヨヤミイユ

○ラウゾラユク。ラウゾラユク。カリノハネヲトヲヤ

○シツライ。デイガ。サイドノトノ。サアラサラメニ。ユクヨナ。ザレヲ。ノウトメ(の)[やぶちゃん注:「の」は「メ」の右にルビのように小さくある。]。コソノ。タマメハ。ミヤノウマイ

○ハアチジウ。ヨヨノ。ミヤワカアイ。ハチジウヨヨノ。ミヤワカイ。チヨノタマメハ。ミヤノマイ

○ワラワロニ。タマワロウトサユワイ。クサヲハ。アユノ。チヨインニ。サワケタマイ

○トウリノ。ミヤコニハ。トウリノミヤコニハ。ホトケノ。ミナヲバ。シラヌナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

○ゴダイ。サンニハ。モンジユコソ。ロクジニ。ハナヲバ。チラスナリ。リリヤ。リリヤ。リリヤ。リツ

この一條は、懸川候の儒生松崎慊堂、文化中、ある夏、東游の日、件の舞踏を目擊し、且、その幾曲を寫し來つるよし、同藩の留守居役長鹽氏【平六。】は、家巖[やぶちゃん注:父。馬琴のこと。]と、いさゝか、由緖あり。予も相識れるものなり。文化の末、長鹽氏、家嚴に消息のおくに、この事を、告げおこせたり。さきの日、「反故を、えりわくるとて、これをも、たづね出でたるを、こゝにしるせ。」と、いはれしによりてなむ。

 文政八年五月朔書於神田若壺庵 琴嶺 瀧澤興繼

[やぶちゃん注:「唐拍子歌」の意味はどれも私には殆んど意味が分からない。悪しからず。ただ、橋本裕之氏の論文「論舞考―研究史的素描を通して―」PDF)に、この「唐拍子」についての詳しい論考があり、その中に「路錄歌」ではないが、『毛越寺延年資料「路舞(唐拍子)」に収められた唐拍子歌には四つに分かれている』とされて、ここに記された歌詞と酷似するものが並んで採録されてあるので、読まれたい。さすれば、「路錄歌」は「路舞歌(ろまひうた)」の誤りではないかと私には思われた。

「風流のはじめや奧の田うゑ歌」「奥の細道」で、元禄二年四月二十二日(一六八九年六月九日)に、矢吹を立って、須賀川本町(すかがわもとまち)の相楽(さがら)伊佐衛門等躬(とうきゅう)宅に着き、この日の夜、芭蕉・等躬・曽良の三吟にてこの句を発句とする歌仙が巻かれている。「奥の細道」では、

 風流の初(はじめ)やおくの田植うた

の表記である。「猿蓑」所収のそれには「しら川の關こえて」と前書を持つ。詳しくは、私が二〇一四年に行った「奥の細道」のシンクロ追跡の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅17 風流の初(はじめ)やおくの田植うた』を参照されたい。

「懸川候」遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)にあった掛川藩藩主。

「松崎慊堂」(こうどう 明和八(一七七一)年~天保一五(一八四四)年)。諱は密、又は、復。慊堂は号。「慊」は「飽き足りない・満足しない」の意。肥後国益城(ましき)郡木倉村(現在の熊本県上益城(かみましき)郡御船町(みふねまち))生まれ。実家は農家。十一歳頃、浄土真宗の寺へ、小僧として預けられたが、生まれつき、読書好きで、学問で身を立てるため、十三歳の頃、国元から江戸へ出奔、浅草称念寺の寺主玄門に養われ、寛政二(一七九〇)年には昌平黌に入った。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び、寛政六年には塾生領袖となった。述斎が務めていた朝鮮通信使の応接は、慊堂が代行した。享和二(一八〇二)年、掛川藩の藩校の教授となり、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行、文化十二年に致仕した。文政五(一八二二)年から江戸目黒の羽沢に隠退し、塾生の指導と諸侯への講説を行った。「蛮社の獄」により捕らえられていた門人渡辺崋山(興継や馬琴と親しかった)の身を案じて、天保一〇(一八四〇)年には、病いをおして、建白書を草し、老中水野忠邦に提出した。慊堂は、その建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の「慎機論」が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来、政治誹謗の罪などは聖賢の世に、あるべき道理がない、ということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし、公にしていない反古書きを証拠に罪を問うならば、誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力で、まず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから、慊堂と同等の名声を維持することが出来たに過ぎないとさえ言われた大儒であった。狩谷棭斎らの町人学者らとも交遊し、初めは朱子学に親しんだが、後、その空理性を嫌って、考証学を構築した(以上は当該ウィキに拠った)。

「同藩の留守居役長鹽氏【平六。】」詳細事績は不詳だが、信頼出来る論文等を見るに、文芸その他の考証家であったようである。

【追記】公開した途端にFacebookの知人から、以下のリンクを紹介された。

tenti氏のブログ「因縁果子」の「毛越寺延年の舞」(写真主体の構成)

サイト「文化デジタルライブラリー」の「中世芸能公演」のリスト(第二部に「唐拍子」の一番表紙から六番拍子までの略標題が載る)

併せて見られたい。]

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