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2021/09/03

芥川龍之介書簡抄136 / 大正一五・昭和元(一九二六)年八月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年八月九日・鵠沼発信・信州輕井澤六五八 室生犀星樣・八月九日 鵠沼海岸イの四号 芥川龍之介

 

冠省、こちらは實に暑い。その上又下痢をした。何も書けずいらいらしてゐる。この間の句はかう改めた。奧さんのお體を御大事に。頓首

   花はちす雀をとめてたわわなる

   松風に白犬細うすぎにけり

    八月三日       芥川龍之介

   室 生 犀 星 君

二伸 夏目先生の句のことに僕を引き合ひに出して貰ひ少からず恐縮した。

三伸 君の手紙を拜見、こちらの地震は何ともなかつた。東京よりもずつと輕かつたらしい。

 

[やぶちゃん注:書簡中の「八月三日」はママ。実は地震があったのが(後述)、この七日前の八月三日であった。それに引かれて誤ったものか。

「夏目先生の句のことに僕を引き合ひに出して貰ひ」初出と掲載誌は判らないが(実は判る本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで発掘出来ない)、まず、この大正十五年のこの日以前に、室生犀星が書いた「漱石の發句」を指す。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの単行本「庭を造る人」のここ(昭和二(一九二七)年六月改造社刊)から読めるので見られたいが、その中で、『漱石の發句は後進澄江堂の洗練がなく、詠み捨て書き忘れたるやうのものが多い。あれ程の人物がなぜもつと鍛えなかつたのかと思ふくらゐである。漢詩の方がよほど逸れてゐるが、發句は玉石を雜ぜてゐて甚だしい。そこへゆくと澄江堂の句は、年は若いが一粒づつよりぬいて砧手』(きぬたで)『をゆるめてゐない』と述べていることを指す。この犀星の見解には完全に賛同するもので、私は漱石の漢詩は確かによいものがあると思うが、俳句となると、一句をさえ掲げ得べき名句を想起出来ないからである。

「地震」この大正十五年八月三日十八時二十六分に発生した「羽田沖地震」。こちらと、こちらの地震学の論文によって判明した(孰れもPDF)。前者のデータによれば、鵠沼に比較的近い鎌倉と大磯では『時計止まり』、『棚のもの落ちる』とある。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月九日・相州鎌倉倉屋敷 佐佐木茂索樣

 

何や彼や人ばかり來る爲、御返事が遲れた。國木田君の家へは早速出かけた。月半ばに轉居するよし、少し假住ひには上等すぎるが借りようかと思ひをり候。煙突みたいな赤塗りの洋館、前には岸田劉生がゐたよし、今の所はヴアイオリン、ラヂオ、蓄音器、笛、ラツパ、謠、鼓、の上にこの二日はお祭りにて馬鹿囃しあり、ほとほと閉口した。病體依然、きのふ小穴が來てトランプをしながら、尻へばかり手をやる爲、トランプが臭くなると言はれた。こんなことまで君に訴へたくはないが、その中で僕の弟は袈裟法衣を拵へて出家すると騷いでゐる。神經衰弱癒るの期なし。しかし君が家を敎へてくれたのでちよつと世の中が明るくなつた。多謝。

    八月九日       芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「國木田君」国木田虎雄(明治三五(一九〇二)年~昭和四五(一九七〇)年)は詩人。国木田独歩と二度目の妻(初婚は有島武郎の「或る女」のモデルとなった佐々城信子(ささきのぶこ))治(はる)の長男。東京赤坂に生まれ、京北中学校に進学するも、病気のため、中退し、詩人福士幸次郎が大正十一年に始めた詩誌『楽園』などに作品を発表し、同誌編集発行人の金子光晴はじめ、同人のサトウハチロー・永瀬三吾・今井達夫らと交流した。大正十二年に詩集「鷗」、翌年「独歩随筆集」を出版する。松竹蒲田のエキストラ仲間だった香取幸枝(団鬼六の実母)と結婚して、鵠沼に暮らすが、その後、離婚し、大田区の馬込文士村に移る。その後、横浜出身の道子と再婚し、円本ブームで手にした父親の莫大な著作印税で新妻とホテル暮らしを始め、競馬で散財していたところを、金子光晴に誘われ、昭和二(一九二七)年には、金子の案内で、夫婦で上海に長期滞在し、競馬三昧の日々を送った。戦後は鎌倉に移り、「鎌倉文庫」勤務を経て、藤沢病院精神科の看護長として十年ほど勤務した後、六十八で没した。以上は当該ウィキに拠ったが、そこにもリンクされているが、サイト「湘南の情報発信基地  黒部五郎の部屋」内の「鵠沼文化人百選」の二十話に「國木田虎雄」があり、虎雄が『鵠沼に来たのは震災前で、当初』、『本村の農家の離れに住み、今井達夫と親交を持った。今井達夫の文章に時折書かれているが、住所は点々としたらしい。震災時に自宅が倒壊した著名人の中に岸田劉生と國木田虎雄の名が並んで掲載されている』。『震災後、松本別荘』(現在の鵠沼松が岡四丁目)『の岸田劉生宅が建て直された家屋に住んでいたらしい』。大正十五年に『東屋の貸別荘』イ―4『に住んでいた芥川龍之介が、國木田虎雄が転居する噂を聞きつけ、借り換えようと視察に来たときのことが、後に』悠々莊」(大正一六(一九二七)年一月一日発行の『サンデー毎日』新年特別号に掲載。リンク先は私サイトの非常に古い電子化物である。この小説は書かれている内容は虚実混淆であるが、全体に不定愁訴的心象のモンタージュという暗いが、しかしどこか惹かれてしまう独特の印象を持つ小品である)『という作品になったという話がある』とある。なお、芥川龍之介は頻りに騒音に悩まされているとして、これ以前、これ以降もずっと転居を匂わすが、実際には結局、転居してはいない。

「岸田劉生」既出既注(因みに、岸田は異常なまでに病的な潔癖症にして神経質でよく知られ、私は病跡学的に興味を持っている人物である。当該ウィキを見られたい)。

「僕の弟」異母弟新原得二。得二の母親フユも龍之介の叔母であるから、血縁は濃かったが、激情型で、忍耐に欠け、晩年の龍之介を大いに困らせた一人である。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月九日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛(葉書)

 

○こちらは地震それほどではなし。

○僕の「るしへる」の書後に「蔓頭の葛藤截斷し去る」云々の語あり。蔓頭は巖頭の誤にあらず。僕の家に和譯碧巖錄あり。その中にある筈、ちよつと調べて貰ひたし。○君の杖の頭を折つてしまつた。但しこれは女中の罪也。

○十日以内にもう少し靜かな所へ轉居する筈。

    八月九日           龍

 

[やぶちゃん注:「るしへる」は大正七(一九一八)年十一月発行の『雄弁』初出。大正八(一九一八)年一月十五日に新潮社より刊行した龍之介の第三作品集「傀儡師」に収録された切支丹物。私のサイトのバーチャル・ウェブ復刻版「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版」があり、その「るしへる」には、別立てで、『■芥川龍之介「るしへる」やぶちゃん注』がある。そこで、「るしへる」の末尾に添えた、

   *

 ああ、汝、提宇子(でうす)、すでに惡魔の何たるを知らず、況や又、天地作者の方寸をや。蔓頭(まんとう)の葛藤、截斷(せつだん)し去る。咄(とつ)。

   *

に注して、

   *

蔓頭の葛藤、截斷し去る:蔓の如くびっしりと頭に絡みついた一切の煩悩(この場合、邪宗たる切支丹の教えへの思い)を、ばっさりと断ち切って一切を取り除いた、の意。

   *

としたが、この文章自体は「破提宇子」(はでうす:元和六(一六二〇)年刊。排耶蘇書(キリスト教排撃書)。全七段。デウスの実在性に始まり、旧約・新約の内容をコンパクトに纏めながら、書名通り、キリスト教の神デウスの教えを論破した書。梶田叡一氏の「ハビアン研究序説」によれば、当時のイエズス会のローマへの報告書には、本書はペストの如き壊滅的打撃を信徒に及ぼしたと記されるとある)に基づきながら、龍之介のいじったもので、最後の「蔓頭(まんとう)の葛藤、截斷(せつだん)し去る。」は、同書の第一段の終りに出る(リンク先はウィキソースの同書影印と電子化の部分ページ)。「碧巖錄」(臨済宗で最重要書とされる禅の公案集。宋の圜悟克勤(えんごこくごん)著。全十巻。一一二五年成立。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が百則の公案を選んだものに、著者が「垂示」(序論的批評)・「著語」(じゃくご:部分的短評)・「評唱」(全体的評釈)を加えたもの)の「第五則」の「雪峰盡大地」の一節を指す。但し、「蔓」は「葛」の誤字であった。原漢文は「直下葛藤截斷」である。以下、表記と訓読は、一九九二年岩波文庫刊の入矢ほか訳注のものを参考に、恣意的に正字正仮名に直して示した。

   *

   第五則 雪峰盡大地(せつぱうじんだいち)

 垂示に云く、大凡(およ)そ宗敎を扶竪(おこ)すには、須是(すべか)らく英靈底漢(ひいでたるじんぶつ)にして、人を殺すに、眼眨(まばたき)もせざる底(ほど)の手脚(てなみ)あつて、方(はじ)めて、立地(たちどころ)に成佛すべし。所以(かく)て照用(せうゆう)同時、巻舒(けんじよ)齊(ひと)しく唱へ、理事不二(りじふに)、權實(ごんじつ)並び行はる。一著を放過するは、第二義門を建立す。直下(ずばり)と葛藤を截斷せば、後學初機は、湊泊を爲し難し。昨日、恁麼(いんも)なるは、事(じ)、已(や)むことを得ざるも、今日も又た、恁麼なるは、罪、過天に彌(み)つ。若是(もし)、明眼の漢ならば、一點(いささか)も他を謾(あなど)るを得ず。其れ、或いは未だ然らざるも、虎口の裏(うち)に身を橫たうれば、喪身失命を免れず。試みに擧(こ)し看(み)ん。

   *

禅の公案はそもそもが解説を拒否するものであるからして、私は特に何も言わない。因みに私は暴虎馮河の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を十二年前に手掛けている。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月十二日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・八月十二日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

モサとチヤコと來給へ。お土產は入らぬ故、アロナアルロツシュを二びん買つて來てくれ給へ。

兎角閑居してゐるのは寂然たるものだ。

 

 

大正一五(一九二六)年八月十二日・鵠沼発信・東京市外田端自笑軒前 下島動樣・八月十二日 八月十二日 鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

冠省、御無沙汰致してをりますがお受りない事と存じます。先達は奧樣にお鉢を貸して頂き難有く存じます。二三日前に堀辰雄參り、甥御樣御上京のよしを承りました。こちらへお出かけになりませんか。御馳走は出來ませんが御中食御休み所位の御役には立ちます。唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、莫迦囃し、謠攻めにて閉口、近々もう少し閑靜な所へ引き移らうと思つてをります。しかし海を御らんになつたりなさるのには今ゐる家の方が好都合です。右當用のみ。頓首

    八月十二日      龍 之 介

   

下 島 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、この中旬頃、『思い立って、文と二人で新婚生活を始めた』例の『鎌倉の』大町の辻薬師の近くの『家を訪ね』ている。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、コラム「鎌倉を出たのは一生の誤り」で、『文は「追想芥川龍之介」』(芥川文述・中野妙子記・昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊)『の中で、次のように記している』として、引用されている。芥川龍之介夫人文さんは昭和四三(一九六八)年九月十一日に亡くなっているので、ぎりぎりで著作権延長に入っているが、どうしても、重要な芥川龍之介の台詞が現われるので、鷺氏のそれから孫引きで引用する(実は当該書は購入して持っているのだが、書庫の底に沈んで見出せない)。

   《引用開始》

「或日突然に、鎌倉の前に住んでいた家へ、どうしても行ってみたいと言ってききません。もう午後三時頃になっていました。

 大正七年二月に結婚して、三月から一年間はじめて住んだ家で、鎌倉大町にある離れを借りておりました。

 主人はそこから横須賀の機関学校へ通っておりました。

 八畳二間、六畳一間、四畳半二間で、水蓮の浮く池や、芭蕉があり、松の本のある広々とした庭がありました。

 主人はその頃文壇に出ておりましたので、こんな所にいたら時代におくれるといって、一年住んだだけで、田端へ帰りました。

 私は田端へ帰らず鎌倉にもっといたかったのですが……。

 主人は亡くなる年の前に何となく急に、『鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった』と言ったりしました。

 鎌倉の家へ行きたいという主人の願いで、私達は自動車を呼んで出かけました。

 車をおりて浜の方から歩いて行くと、見覚えのある窓が見えて来ました。

 主人は『あったあった』と小躍りして喜びました。或いはもう改築でもしたのではないかと思ったのでしょう。

 表門から廻って、その離れヘ行きました。大工さんが入っていたのですが、濡縁でしばらく大工さんと話をして、なつかしそうでしたが、車が待たしてあったので、名残り惜しそうにして帰りました」

   《引用終了》

……そうだ……そうなのだ……芥川龍之介よ……あそこにおれば……或いは…………]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十三日・鵠沼発信・蒲原春夫宛

 

冠省この間は失禮、ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。]六百のうまい男が來て敎授を受けた。君の法律とは大分ちがふ。近々に來ないか。一戰したいから。鵠沼ももう大分靜かになつた。渡邊によろしく。以上

 

    二十三日       芥   川

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「六百」六百間(ろっぴゃっけん)。二人又は三人で行う花札遊戯の一つだそうである。龍之介は囲碁将棋に加えて花札が好きだった。私は賭け事系の遊びは悉く全く冥く、向後も興味を持つことはない。当該ウィキをどうぞ。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・鵠沼発信・中根駒十郞宛(葉書)

 

拜啓先達羅生門の印紙500枚、今日將軍の印紙1000枚落手、どちらも田端の方へ廻送しましたから、どうかあちらへとりにお出で下さい。なほ又右印稅はこちらへお送り下されば好都合です。頓首

 八月廿四日  鵠沼イの四號 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:数字は底本では横転しているが、これは実際には横書されているものと思われる。

「中根駒十郞」既出既注。新潮社支配人。

「印紙」奥附に用いる作者が捺印して張られる検印紙のこと。

「羅生門」大正八年六月二十日新潮社刊の再刊本の作品集。

「將軍」大正十一年三月一日新潮社刊の単行本の作品集。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・鵠沼発信・遠田信太郞宛(葉書)

 

冠省、度々御親切にお手紙ありがたう。櫻桃は送つて頂かなくとも御好意だけで結構です。

     卽景

   花はちす雀をとめてたわわなる

    八月廿四日  鵠沼  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「遠田信太郞」不詳(新全集でも不詳とする)。]

 

 

大正一五(一九二六)年八月二十四日・消印二十五日・鵠沼発信・東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣・八月二十四日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

冠省、大分お凉しくなりました。當地も避暑客は大分へりました。しかしまだ少しは避暑地らしい氣もちも殘つてゐます。二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願があります。どうか何とか御都合をおつけ下さい。右御勸誘まで 頓首

    八月二十四日     芥川龍之介

   下 島 先 生

二伸 もうお孃さんと同じ位の令孃は餘りをりませんから、その邊はどうか御心配なく。

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介書簡抄131」の私の最後の注を参照。下島はこの五ヶ月前の三月十六日養女行枝(当時小学校六年)を肺炎で亡くしている。

 新全集年譜によれば、この『月末、睡眠薬を飲み過ぎ、夜中に五〇分もの間、うわ言を言い続ける』とあり、この月末頃に一度、『田端に戻る』が、九月二日頃、この年の東京は猛暑であったため、それを『避け』て、再び『鵠沼に帰』っている。]

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