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2021/09/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佐倉の浮田 安永以來の「はやり風」

 

   ○佐倉の浮田 安永以來の「はやり風」

[やぶちゃん注:発表者は著作堂馬琴。これは国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記第三輯上編」に載るので、それを底本とした。一部の読みは送り仮名で出した。例の通り、だらだらと長いので、段落を成形した。]

 

 文化五年戊辰[やぶちゃん注:一八〇八年。]の秋八月[やぶちゃん注:この年は閏六月があったため、グレゴリオ暦では当月は九月二十日から十月十九日に相当する。]、下總(しもふさ)佐倉[やぶちゃん注:千葉県佐倉市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後に出る佐倉藩藩庁が置かれた佐倉城の城址をポイントした。印旛沼の南岸一帯に当たる。]の洪水は、風聞、こゝにも聞えしころ、その月、十三日の事なりき。予は、たまたま、

「著述の勞(つか)れを保養せん。」

とて、獨(ひとり)、そゞろに立ち出でゝ、あちこちとなく逍遙しつゝ、「眞菰が淵」[やぶちゃん注:恐らくは北の丸公園の北方にあった堀と思われる。「古地図 with MapFan」で堀が確認出来る。「江戸名所図会」に「菰(まこも)が淵」として「元飯田町の東の堀を、しか號く」とある。現在のこの中央附近であろう。国道五号の下に神田川から分岐した流れが見える。]と呼びなせる、おほん塹端(ホリハタ)[やぶちゃん注:江戸城の堀の分岐であるから「御(おほん)」と添えた。]の出茶屋なる牀几(しやうぎ)に尻をうちかけて、しばし、やすらひたりし折、下總の旅人等(ら)に【その日の同行三人なり。その内に老人、あり、その名を問へば、「與五右衞門」といへり。】、かり初に、ものいはれにけり。よりて、かの水の虛實をとひしに、その人、答へて、聞かせたまふが如く、

「こたみ[やぶちゃん注:「此度」。「こたび」の音変化。]、佐倉の事は、近來(ちかごろ)、稀なる大水なり。つやつや、そら言[やぶちゃん注:「そらごと」。]には候はず。しかるに、かの城下(きのもと)なる田地どもの、或は、十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ばかり、或は、二十間四方づゝに、皆、きれて、水の上に浮(うか)みたり。それを又、並木の松の大きなる、伐らば、臼(うす)にもしつべき幹に、藁(わら)の繩もて、繋(つな)ぎ置きたり。何ものゝ所爲(しわざ)といふことを知らず。天明(よあ)けて、人皆、これを見て、驚き、あやしまぬもの、なし、となん、聞て候ひし。」

と、かたりき。その時、同行(どうぎやう)の老人與五(よご)右衞門とかいふものゝ云、

「田地の水に浮きたるとしを、つらつらと、おもひみるに、むかし、佐倉の城地(じやうち)を築かれしとき、今の城下の邊(ほとり)には、沼・溝(みぞ)の多かりしを、竹木(ちくぼく)・芥坌(あくたもくた)の類ひをのみ、夥しく投げ入れて、やうやくに埋(うづ)めつゝ、さて、田地には、なせしよし、故老の、いひもて傳へたり。大凡(おほよそ)、洪水は、降る雨よりも、土中より涌き出る水の、多きもの也。されば、下樋(したひ)より涌き登る水の勢ひもて、田地のきれて、浮きたるを、『流さじ。』とおぼしめしゝ、神々の『神(かん)わざ』にて、夜の中に、並木の松に繫ぎ留めさせたまひしならん。その浮田(うきた)の體(てい)たらく、畔(くろ)に竹のしばりたる、杉・榛(はに)[やぶちゃん注:ハシバミのこと。]の樹の並び立ちたる、そがまゝに、浮きたるを、尋常(よのつね)なる藁索(わらなは)もて、あちこちに繫がれし。その田地は、少しも動かで、水の上に渺々たり。やつがれ等は、他領の民にて、佐倉より七里ばかり上なる在のものに侍れど、きのふ、目前(まのあたり)に、さる不思議を見て、かくは、いふ也。かの地には、領主より、船四十艘ばかり出ださせて、人を渡し給ふなり【「百姓わたし」。但し、無錢。】。されば、佐倉の人々には、

『田地を流されざりし事、こは、またく、堀田(ほつた)侯の德の致せるものなり。』[やぶちゃん注:当時は佐倉藩四代藩主堀田正愛(ほったまさちか 寛政一一(一七九九)年~文政七(一八二五)年)。但し、彼は生来の病弱で、享年二十六の若さで亡くなっている。]

とて、感嘆、大かたならざりけり。けふ、行德(ぎやうとく)[やぶちゃん注:千葉県市川市の行徳地区。]まで來て、聞きしに、

『この地の水は、きのふより、一尺あまり、退きたり。』

と、いへり。佐倉の水も、さぞ、あらん。和君よ、ゆたかにおはしませ。いざ、まからん。」

と、いひかけて、皆、つと、立ち出でゝゆきけり。

 この事、いとめづらかに覺えしかば、「雜記」中にしるしおきしを、今、又、こゝに抄(せう)し、出だしつ。おもふに、出羽(では)なる「大沼」の「島あそび」は、先輩、既にものにも誌(しる)し、又、同國秋田の「からす沼」、及(また)、龜田(かめだ)の山中「瀧(たき)の股(また)」なる「峰形(みねがた)」といふ沼にも、亦、「島遊び」の奇異あるよしは、拙著「放言」中に收めたれども、「佐倉の浮田」は、これと異なり、亦、一奇談(いつきだん)といふべきのみ【文化五年春より秋まで、霖雨、しばしば、せり。この年、三月より八月上旬に至て、雨天一百零七日なり。九日まで快晴は、なほ、稀なりき。】

[やぶちゃん注:『出羽(では)なる「大沼」の「島あそび」』山形県西村山郡朝日町の浮島で知られる「大沼」。記載に不審な箇所があるが、「諸國里人談卷之四 浮嶋」の本文及び私の注を参照されたい。今回はYouTubeのLocal Topics Japanの『Mysterious moving islands, "Ukishima of Onuma" 不思議な動く島「大沼の浮島」の動画をリンクさせておく。因みに、この現象はどのような機序で動くのかは、科学的には解明されていないそうである。

「からす沼」秋田県秋田市寺内高野にある「空素沼」(からすぬま)であろう。但し、少なくとも現在は浮島現象は起こっていない模様である。

『龜田(かめだ)の山中「瀧(たき)の股(また)」なる「峰形(みねがた)」といふ沼』秋田県由利本荘市岩城亀田大町(亀田は松本清張の「砂の器」犯人が偽装手段として使うあそこである)の衣川上流に由利本荘市岩城滝俣があり、そこに「鷺沼」というのがあるが、そこか。浮島現象はないようである。但し、浮島現象を起こす池沼は、思いの外、各地にあるようである。

『拙著「放言」』瀧澤瑣吉(さきち:曲亭馬琴の別名)名義の考証随筆「玄同放言」(げんどうはうげん(げんどうほうげん))。息子の興継及び渡辺崋山が挿絵を描いている。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三年刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。巻頭に引用書物として二百九十八部を掲げる。表題の「玄同」は「無差別」の意である。私は吉川弘文館随筆大成版で所持しているが、調べたところ、「卷ノ下」にある「秋田嶋沼」であるが、浮島現象を深く掘り下げたものではなく、記載内容の風呂敷を広げ過ぎていて、私は失望したので、国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇三)年博文館編輯局編校訂になる「名家漫筆集」の当該部をリンクさせるに留める。寧ろ、その冒頭で掲げている、医師で旅行好きで紀行家としても知られた橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行「東遊記」の巻之五にある山形の大沼の「浮島」の記載の方が遙かに興味深い。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で大正二(一九一三)年有朋堂文庫刊の「東西遊記」のここから読める。こちらは甚だお薦めである。

 以下、別件なので、一行開けた。]

 

 附けていふ、右の前年【文化四年。】の冬より、五年の春・夏の頃まで、里巷(りこう)の小唄本、「ねんねんころころ節」とかいふものゝ、いたく流行(はや)りしこと、ありけり。そのうたを聞くに、

「わしがわかいときや、おかめといふたが、のん、ころ、今は庄屋どのゝ子守する、ねんねんころころ、ねんころり。」

と、うたへり【此うた、もとは歌舞伎狂言に始まりしを、つひに江戶中に推[やぶちゃん注:「おし」。]うつりて、いたく流行したるなり。又、「みめより」と名づけたる、下品のあん餅を、市中の辻々にて、うりはじめしも、この時のことなり。こは、右のうたの中に、「人はみめより、たゞ、こゝろ」といふことのあればなるべし】。識者、或ひは、いへることあり。

「今玆(ことし)は、秋のころに至りて感冒、必ず、流行せん歟。細人(さいじん)・小兒(こども)、おしなベて、「寢々轉々(ねんねんころころ)」と謠(うた)ふこと、是れ、病臥の兆(てう)ならん。」

と、いへり。果して、八、九月の頃に至りて、風邪(ふうじや)感冒、流行して、良賤(りやうせん)、病臥せざるはなく、輕きは、兩三日にして、おこたる[やぶちゃん注:癒える。]もありしかど、重きは、その症、疫熱(えきねつ)に變じたる。三、四十日に至るもあり。或は庸醫(ようい)[やぶちゃん注:藪医者。]に愆(あやま)られて[やぶちゃん注:処置を間違えられて。]、よみぢに赴くものも、ありけり。このときの「ゑせ狂歌」に、

 はやり風無常の風もまじりけりねんねんころり用心をせよ

かくて、病むとやむ程に、關の八州、いへば、さらなり、京・攝の間まで、脫(のが)るゝもの、なかりし、とぞ。童謠は、いにしへより、和漢の歷史に載せられて、應驗(おうげん)あらずといふもの、稀なり。又、流行病(はやりやまひ)は、なべてみな、年の氣運の順(じゅん)、逆(ぎゃく)にて、せんかたもなきことながら、それよりも、猶ほ、疎(うと)ましきは、市井の風俗の、くだれるなり。この水上(みなかみ)を尋ぬれば、劇場(しばゐ)より、いでぬは、なし。風(ふう)を移し、俗を易(か)ゆるも、三絃(さんげん)にこそ、よるべけれ。その三絃といふものも、雜劇(ざつげき)を師とするのみ。知らず、ひがごとならんかも。

 予が東西をおぼえしころより、大約(およそ)五十年このかた、時々の感冒に、世俗の名を負はせしもの、少からず。まづ安永[やぶちゃん注:一七七二年から一七八一年まで。]の中葉(なかごろ)に、はやりし風邪(ふうじや)を、「お駒風(こまかぜ)」と名づけたり。こは、城木屋(しろきや)お駒とかいふ淫婦(たをやめ)の事を㫖(むね)として、作り設けたる浄瑠理[やぶちゃん注:ママ。]の、いたく行はれたればなり。又、安永の末にはやりし風邪を、「お世話風」と名づけたり。こは、「大きにお世話、お茶でもあがれ。」といふ戯語(たはこと)の流行(はや)りしによりてなり。又、天明[やぶちゃん注:一七八一年から一七八九年まで。]中にはやりし風邪を、「谷風」と名づけたり。こは谷風梶之助は、當時(そのとき)、無雙の最手(ほて)[やぶちゃん注:天皇に召し出された相撲人(すまいびと)中の最高位或いはその人を指す語。]なりければ、これに勝つものあること稀也。谷風、甞て傲言(がうげん)して、

「とてもかくても、土俵の上にて、われを倒さん事は難かり。わが附したるを見まくほりせば、風をひきたる時に來て見よかし。」

と、いひしとぞ。この言(こと)、世上に傳へ聞きて、人々、話柄としたる折、件(くだん)の風邪を、

「谷風が、いちはやく、ひき初めし。」

とて、遂に其名を負せしなり。されば、この時、四方山人(よもさんじん)[やぶちゃん注:四方赤良(よものあから)。文人官僚(勘定所支配勘定)太田南畝の狂名。馬琴と親しかった。]、送風神狂詩あり。錄して、もてこゝに證とす。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。返り点のみを示し、後で訓点に従って訓読した。]

引道此風號谷風。関々啖咳響二西東一。惡寒發熱人無ㇾ色。煎樣如ㇾ常藪有ㇾ功。一片生姜和ㇾ酒飮。半丁豆腐入ㇾ湯空。送ㇾ君四里四方外。千住品川問屋中。

[やぶちゃん訓読:《 》は私の推定読み。

引道(ひくな)らく 此の風 谷風と號す

関々《くわんくわん》たる啖咳《たんがい》 西東《にしひがし》に響く

惡寒《おかん》 發熱 人 色《いろ》無く

煎し樣(やう) 常のごとし 藪に 功 有り

一片の生姜 酒に和して 飮み

半丁の豆腐 湯に入れて 空《むな》し

君を送る 四里四方の外《そと》

千住 品川 問屋(とひや)の中《うち》]

 又、文化元年[やぶちゃん注:一八〇四年。]にはやりし風邪を、「お七風」と名づけたり。こは、「八百屋お七」といふ「ゑせ小うた」の流行せしによりてなり。又、文化五年の秋はやりし風邪を、「ねんころ風」と名づけたり。そのよしは、上にいへるが如し。又、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]の春二月の比、いたく流行せし風邪を、「たんほう風」と名づけたり。こは、このときの「はやり小うた」に、「たんほうさんや、たんほうさんや」と謠ひしことのあればなり。かくて、去年甲申[やぶちゃん注:文政七(一八二四)年]の春、二、三月頃はやりし風邪を、「薩摩風」と名づけたり。こは、西國よりはやり初めて、こゝまで、うつり來つればならん。此うち、「谷風」・「お七風」・「ねんころ風」・「たんほう風」は、はげしかりき。家々每に、五人、三人、枕をならべて、うち臥さぬはなかりけり。西は京・攝に至り、東は安房・上總、西南は甲斐・伊豆の海邊(かいへん)、北は信濃・越後まで、なべて脫(のが)るゝもの、なかりしよし、その折々に友人の郵書(いうしよ)にも聞えたり。「たんほう風」のはやりしとき、何ものか、よみたりけん、

 みやこから乘せてくるまのたんほ風ひくものもありおすものもあり

[やぶちゃん注:この「おす」は車を「押す」に、「隅々にまで行き渡らせる」の意の「壓す」を掛けたものであろう。]

いと、おかしきや。例(れい)の人の癖なるべし。かゝれば、此風は、京よりはやり來つるにこそ。この他、寬政・享和[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇四年まで。]中にも有りけんを、さる名を負せざりける歟。いふがひもなく、忘れたり。抑(そもそも)、この一條は、曩(さき)に北峰子(ほくほうし)[やぶちゃん注:山崎美成の号の一つで、好問堂北峰と名乗った。]のしるしつけたる、「風の神の圖說」[やぶちゃん注:先の「風神圖說」。]の後(のち)につけても、いわ[やぶちゃん注:ママ。]まほしかるまゝに、「伊豆の千わき」の、わけなし言(こと)もて、「科戶(しなと)の風の神やらひ」、しつ。「鋭鎌(とかま)・八重鐮・刈りはらふ」ごと、禿(おひ)たる筆を走らせし。みそぎのやゝの、やく體(たい)もなき、只、是れ、嗚呼(をこ)のすさみになん。

[やぶちゃん注:『「伊豆の千わき」の、わけなし言(こと)』神道の「大祓詞(おほはらへのことば)」の第一章の中に、

   *

天(あめ)の磐座(いはくら)放(はな)ち 天の八重雲(やへぐも)を 伊頭(いづ)の千別(ちわき)に千別(ちわ)きて 天降(あまくだ)し依(よ)さし奉まつりき

   *

という、「何だか、わけのわからない、意味もありそうもない、妖しげな言」葉が出るが、それを掛けた戯言であろう。

『「科戶(しなと)の風の神やらひ」、しつ。「鋭鎌(とかま)・八重鐮・刈りはらふ」ごと』これも同じく「大祓詞」の第三章の一節に、

   *

科戶(しなど)の風(かぜ)の 天(あめ)の八重雲を 吹き放つ事の如く 朝(あした)の御霧(みぎり) 夕(ゆふべ)の御霧を 朝風(あさかぜ)夕風の吹き拂ふ事の如く

大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おおふね)を 舳(へ)解き放ち 艪(とも)解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く

彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を燒鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く 遺(のこ)る罪は在らじと

   *

という部分の太字箇所をパロったものである。「大祓詞」については、静岡県周智郡森町一宮にある小國神社の公式サイト内のこちらに載るものを参考にして、正字正仮名に直して示した。「やらひ」は追儺(ついな)のこと。

「みそぎのやゝの、やく體(たい)もなき」「禊(みそぎ)の稚兒(やや)の、益體(やくたい)も無き」か。前で「大祓詞」を茶化したのに続いて、私の下らないこの雑文は、「稚兒」(ややこ)の「益體も無」い(役に立たず、無益で、つまらぬ、でたらめとして)の「禊」のようなもんさ、と過剰に頑固に卑称化して言っている、一種のアイロニーである。ここまで重ねると、却って厭味である。こういうところが、パラノイア(偏執質)的な馬琴の嫌な一面とも言える。]

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