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2021/09/05

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 神童石河爲藏詠歌の事

 

[やぶちゃん注:段落を成形し、和歌も句で切った。発表者は文宝堂。]

 

   ○神童石河爲藏詠歌の事

 遠江國佐野郡山口莊伊達方村[やぶちゃん注:現在の静岡県掛川市伊達方(だてがた:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]鄕士、石河惣太夫、伜、爲藏、寬政三亥年[やぶちゃん注:一七九一年。]の出生にて、六歲になりける、とら[やぶちゃん注:おかしい。数え六歳なら、寛政八年で丙辰である。寛政六年甲寅と誤ったものだろう。]の九月比、同所掛川連雀町[やぶちゃん注:静岡県掛川市連雀。]溫飩[やぶちゃん注:ママ。「饂飩」の誤字か誤植。]屋金八方へ、父惣太夫同道して行きける時、あるじ金八、かねて聞き及びたる事故、爲藏に歌を望みけるに、折しも、庭の菊、さかりなりければ、

 秋ふかき

   庭のまがきに

        色そへて

     咲きそむるらん

         露の白菊

かく詠じけるを、遠近の人々、聞き傳へ、

「六才の童子の詠歌なり。」

とて、扇などにしるし、もてあそびける。

 掛川城内にきこえて、其冬、父惣太夫に、

「伜、爲藏、召し巡れ罷り出づべし。」

と仰せ下されければ、卽刻、兩人共、罷り出でける時、御城代太田外記殿、河野十郞左衞門殿、その外、家老衆、列座にて、子細御聞糺しの後、題を出だされける。其題、

「霜夜月」

  やまのはの

    柏あらはに

      おく霜の

     影もさえゆく

         冬の夜の月

「浦千鳥」

  ゆきかへりしは

    島つれて

      友ちとり

     聲も高けれ

         すまのうら波

「野 雪」

  空さむみ

    ふりまさるらん

      しら雪の

     つもりうつれる

         冬の夕くれ

「友千鳥」

  風さそふ

    音ぞさみしき

      夕くれに

     友よびつれて

         千鳥なくなり

右の四首を卽詠しければ、則、書寫して、太田備中守資愛殿へ差し上げたるよし。

 其比、家老衆より、戀の歌を望み申されければ、

「戀の歌は、よめ申さず。」

と、爲藏、申し上げたるよし。

 その夜、父に負はれて歸るさ、月の出づるを見て、

 玉ぼこの

   道のひかりを

    さしそへて

      霜にさえゆく

         冬の夜の月

右、「田舍にはめづらしく存候間、寫、御目にかけ申候。」

と、遠州掛川宿匂坂屋彥兵衞といふ者よりの文通に、いひこしたるを、こゝにしるす。

[やぶちゃん注:以下、和歌までは、底本では、全体が一字下げで、「かく詠じければ、速に消滅したり、となん。」は行頭からだが、これは底本編者の字下げ忘れであろう。]

 書名をわすれたり。何やらの中に、南殿の庭中に、夜のまに、「すまひ草」の生ひ出でければ、

「公卿達、いづれも、詠歌有るべし。」

と、ありし時、紫式部、六歲の時、

 けふばかり

   まけてもくれよ

    すまひ草

      とる手もしらぬ

          むつ子なりけり

かく詠じければ、速に消滅したり、となん。

[やぶちゃん注:「すまひ草」辞書にはスミレ・オグルマ・オヒシバなどと出るが、私はこれ、実際に草相撲がとれるシソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica のこととりたい。でなくては、この歌の面白さが生きてこないからである。但し、「紫式部、六歲の時」の詠歌というのは、後で馬琴も言っているが、如何にも語句が近世っぽく、後代の真っ赤な偽物であろう。

 以下は底本では、「天才奇童といふべし。」まで全体が一字下げ。]

 これは雲の上にそだちて、後は、かの物語をもつくれる程の才女といひ、ことに和歌などは、常に耳ばさみがちなれば、かくもあらん。爲藏は、鄙に生れて、誰、敎ふる者もあるまじく、實に天才奇童といふべし。

[やぶちゃん注:以下、馬琴の附記だが、底本では全体が二字下げ。]

 著作堂云、この爲藏が事は、予も、はやく聞きしなり。この兒、人となりては、石川方救と名のりて、和學をせるものながら、其幼かりし時に比ぶれば、才の、やうやく、劣りやしけん、其よめる歌は、さらなり、その名も、都下には聞えずなりぬ。

[やぶちゃん注:「石川方救」石川依平(よりへい 寛政三(一七九一)年~安政六(一八五九)年)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここに、和歌短冊があるぜ! 馬琴よ、彼は決して捨てたもんじゃ、なかったってことよ!

 淸水濱臣が旅の打聞にいはく、「小時了々大未必佳」と、いひおきけんやふに[やぶちゃん注:ママ。]、をさなき程のかしこさは、おとなになりて、さばかり、ならぬものにて、「大かた、幼なき程のかしこさは、痾症のわざなり。」と、あるはかせのいはれしは、さる事なるべし。

[やぶちゃん注:「淸水濱臣(しみずはまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)は江戸後期の医師・歌人・国学者。本姓は藤原。当該ウィキによれば、『武蔵国江戸飯田町の医者清水道円の子として生まれる。早くに父を亡くす。その後』、十七『歳にして江戸の和歌の大家である村田春海の門下生となり、歌を学ぶ。上野に居を構えて』、『家業を継ぎ』、『医者となるも、古学の研究も続けた。多くの著作を手がけ、国学者として著名となる。多くの門人を持ち、幅広く交流を持ったため、人脈も広かった』。四十九『歳で没した』とある。

「小時了々大未二必佳一」「小時(しやうじ)、了々たるも、大きになりては、未だ必ずしも佳(か)ならず。」か。]

 おのれがしれる人にも、荻野某は、八つになりけるとし、つごもりの夜に、月のかたちの、空に見えけるを、人々、あやしがりしに、

「是は、水氣なり。」

といひしが、げに、雨となりしより、人々、

「奇童。」

と、たゝへて、

「おひさき、世のすぐれ人となりなまし。」

と、かたりあひしも、今、猶、「かいなで」の物しりなり。

[やぶちゃん注:「かいなで」「搔い撫で」の「かきなで」の音変化で、「表面を撫でただけで、物の奥深いところを知らないこと」を言う。「通り一遍」に同じ。]

 こたび、東路をのぼるとて、遠江國新坂[やぶちゃん注:恐らく静岡県掛川市日坂(にっさか)の誤記である。伊達方の東北直近である。]の、すく[やぶちゃん注:「すぐ」か。]、つゞき、伊達方村なる石川方救に、はじめて、たいめんしたるに、是は、

「いつゝのよはひより、冷泉中納言爲泰卿の御弟子となりて、歌、よむ。」

とて、「東路の奇童」といへりしも、物がたりして、こゝろむれば、

「栗田土滿にまなび、今は夏目甕滿に、とひきゝて、なべての古書まなびする人なり云々。」

と、いへり。これらみな、經驗の言ぞかし。

[やぶちゃん注:「冷泉中納言爲泰」(享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年) は公卿で歌人。上冷泉家。宝暦一〇(一七六〇)年、従三位となり、後正二位・権大納言兼民部卿。門人に「兎園会」会員の屋代弘賢がいる。

「栗田土滿」(くりたひじまろ 元文二(一七三七)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。遠江国城飼郡平尾村(現在の静岡県菊川市中内田)にて広幡八幡宮(現在の平尾八幡宮)の神主の子として生まれた。明和四(一七六七)年、江戸で賀茂真淵の門下となり、国学を本格的に学び始めた。真淵の死後は、伊勢国を経て、本居宣長の薫陶を受けた。また、寛政二(一七九〇)年、故郷である平尾村に学舎を創設し、「岡廼舎」「岡の屋」と呼称された。ここを拠点に研究を行うとともに、国学や和歌を講じ、ここから多くの優れた歌人を輩出した。栗田は「日本書紀」の解説本など、多くの著書がある。

「夏目甕滿」国学者で歌人の夏目甕麿(みかまろ 安永二(一七七三)年~文政五(一八二二)年)の誤字。遠江国浜名郡白須賀(現在の静岡県湖西(こさい)市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。名は英積。本居宣長の門人。著書に「国懸社考」、家集に「志乃夫集」などがある。司馬江漢とも交友があったという。

「經驗の言」(げん)「ぞかし」「ただ、嘗て、ちょっと教わったことがあるというだけのことなのであるよ。」の意であろう。]

 又、奇童も、あまりにほめ過ぐれば、後にかたはらいたき事、多かり。この條にしるされし紫式部は、小式部内侍を、覺え、ひがめたるにはあらぬか。小式部の、いと、はやくより、奇才ありしよしは、ふるくものにも見えたり。そは、とまれ、かくまれ、「すまひ草」の歌などは、當吟の歌の、くちさきをよくもしらぬものゝ、つくりまうけし小說なるべし。

[やぶちゃん注:冒頭、馬琴は必ずや、若い山崎美成を念頭に置いて嫌味を言っているという気がする。]

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