曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 家相談 小野小町の辯 間違草の事
[やぶちゃん注:標題は「家相談」しかない。当該箇所に目録にある以上を、私が仮に《 》で標題して挟み、前を一行空けた。]
○家相談
近年我邦も亦、家相の學、行はれて、病難を救ひ、火難を免かれ、其術に心服する者、少からず、衆人の歸する所、其功、驗なきにも非ず。余、是を、ある人に聞けるに、日、「甞て、松永宗因、藥硏堀にて家宅を買ひ求めて移らんとす。其日、濱町會田七郞宅にて金蘭に邂逅して、家相の談に及び、其言に服し、其判斷を請ふ。金蘭、一見して、「家に死骨有り。此に住む者、必ず、病死。」之由、申す。宗因、畏愼て、其家に移らず、直に人に讓りけり。女隱居の、其家を買ひて移りたる者、一月餘にして、病死せり。其後、醫生有り、其家を買ひて此に住みけり。程なく、是も亦、病死せり。金蘭、又、久松町河岸へ行きて、其長屋の「病氣長屋」之由を申し、「聞直すべき」由、申す。然處、其言にも從はずして、後、果して如之。
[やぶちゃん注:「松永宗因」不詳。
「藥硏堀」既出既注であるが、再掲しておくと、両国の薬研堀(やげんぼり)。小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋二丁目の両国橋西詰の付近にあった堀。日本橋付近の米・竹・材木などの蔵に物資を運送する水路として利用されたが、御米蔵の築地移転後に一部を残して埋め立てられ、その一帯の地名として残った。踊子と呼ばれた女芸者が多く住んでいた。また、付近には堕胎専門の中条流の女医者も多かった』とある。切絵図を見ると、現在の中央区立日本橋中学校敷地内の同地区と接する部分に「薬研堀」の名残が認められるから、この中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北から南西にかけての位置が狭義の薬研堀のように思われる。
「金蘭」名前ではないだろう。「易経」の「繋辞上」に基づき、「非常に親密な交わり・非常に厚い友情」の意の一般名詞があるから、原拠からも、家相占いに縁があり、松永宗因の「盟友」の家相見の人物を指して言っているようである。
「聞直すべき」「その長屋に住むことを考えなおさねばならない」の意か。
以下は、底本では「其餘略之」まで、全体が二字下げ。]
遠州屋久三郞家内、死絕して、奉公人を養子とす。今の久三郞、是也。妻、勞咳にて、老母、中風に相成、腰拔なり。手代、兩人有り。一人は病死し、一人は脚氣病に苦しむ。
大黑屋彌右衞門老母、手足之指、抅屈して不伸[やぶちゃん注:典型的なリューマチの症状である。]、二十年來、腰拔なり。俗呼、「達摩婆々」と云ふ。五年來之内、妻二人、不幸す。
大黑屋次郞右衞門祖父、二、三年前病死、其孫二人、傴疾[やぶちゃん注:「くしつ」。せむし。]なり。其父、亦、「脊むし」なり。
松阪屋某、其妻、向島にて變死し、手代一人、「かたり刑囚」[やぶちゃん注:詐欺の罪人。]と爲りて、死にけり。其餘略之。
[やぶちゃん注:以下、行頭に戻る。]
余、亦、米山[やぶちゃん注:家相見らしいが、不詳。]の遺書を受け、數々、其術を試みたるに、數々、しるしあり。近き頃、池之端仲町へ行き、南側書物屋某の家相を見、其家の、子なきを辯じ、日々、試に、家並、子なきを、相す。書物家某、曰く、「誠に御敎の如く、俗、呼[やぶちゃん注:「よんで」。]、此長屋を『子なし長屋』と申傳由、是、亦、奇中奇、暫く論じて、後の君子を待つ。」といふ。
《○小野小町の事》
或云、「小野小町の事、『牛馬問』に委しく辯じ置けり。却て、小町を一人と思ふより、紛れたる說、多し。實方朝臣、陸奧へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でゝ、『秋風の吹くにつきてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけり』と有りし歌の小町は、小野の正澄の娘の小野の小町なり。康秀の三河椽[やぶちゃん注:「掾」の誤字か誤植。]と成りて下向の時、『佗びぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ』と詠みしは、髙雄國分の娘の小町なり。『思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを』の歌、又、出羽郡司小野良實が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸國玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異說ある而已。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたれば、ひとり名高く、凡て一人の樣、傳へ來るのみ。かゝる類、萬事に多し。暫く記して疑を存し、亦、以て、博雅君子に問ふ。
[やぶちゃん注:「牛馬問」(ぎうばもん(ぎゅうばもん))は江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年:名は祐登。白蛾は号)が、人からしばしば尋ねられる物事について、時にその問答形式でも記した(本条がそれ)考証随筆。宝暦五(一七七五)年刊。全四巻百十六条。「日本古典籍ビューア」のこちらで画像で当該部が見られる。それを見られると、この条は、それを種本としただけの杜撰な話であることが判る。それほど読み難くはないが、崩し字が苦手な方は、前の記事で紹介したサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学」のこちらで、現代語訳されてあるので、対照して読まれるのがよかろう。但し、高野大師のパートの「衰る日然歎猶深し」とあるのは、「衰(ヲトロウ)る日愁歎(シウタン)猶(ナヲ)深(フカ)し」の誤りである。
「實方朝臣」貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹(もろただ)の孫で、歌人として知られ、中古三十六歌仙の一人。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。なお、ここに出る話は、鴨長明の歌論書「無明抄」では、実方ではなく、在原業平(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)の体験として出る。私の「老媼茶話 事文類聚【後集二十】(小町伝説逍遙)」の本文と私の注を参照されたい。
「小野の正澄」私は不詳。
「康秀」文屋康秀(ふんやのやすひで ?~仁和元(八八五)年?)は、平安前期の官人・歌人。六歌仙の一人。「小倉百人一首」の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」が人口に膾炙する。当該ウィキによれば、『小野小町と親密だったといい、三河掾』(☜:みかわのじょう:国司の第三等官)『として同国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し』、『小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという』。後に「古今著聞集」や「十訓抄」といった『説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった』とある。
「髙雄國分」私は不詳。「たかをのくにわけ」と読むか。
「思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを」「古今和歌集」の巻第十二の「戀歌二」の巻頭に置かれた、知られた正真正銘の小野小町の一首(五五二番)、
題しらず
思ひつつ寢ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覺めざらましを
である。
「出羽郡司小野良實」名は「良眞」(読みは同じ「よしざね」)とも書くようである(以下の引用の(☜)参照)。生没年不詳で、平安時代の公卿ともされ、また、小野篁(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)の子ともされ、正真正銘の小野小町は彼の実子とする説もある。しかし、「尊卑分脈」に名前が載るものの、小野篁の孫にしては、小町の存命期と時代が合わず(小野小町の存命期は資料及び諸説を総合すると、生没年は概ね天長二(八二五)年から昌泰三(九〇〇)年頃と想定されている)、実は小野小町は小野篁自身の子であるという説もあるという。参照したウィキの「小野良真」には、『小野篁の息子である小野良真が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町である』とある。強力な個人サイト「小野小町」の「桐の木田城跡」(きりのきだじょうせき:秋田県湯沢市小野小町のここ。近くに史跡小町塚や寺院マークの小町堂もある。「小町堂」のサイド・パネルの写真群をリンクさせておく)に、『案内板によると』、『「ここは、出羽郡司小野良実』(☜)『の館のあったところで、福富の荘と言われていました。当時としては珍しい桐の木があったことから、桐の木田とも:云われるようになりました。この井戸は、小町が産湯を使った井戸とつたえられ保存されてきました。館跡に残ったこの井戸は、真上から見ると自然石が」五『角形に組まれており、こうした工法はこの地方では全く用いいれてておらず、このようなつくりは小町の年代に、都を中心に多く見られる形をしているとのことから』(昭和四七(一九七二)年に行われた大阪学院大学教授山本博氏の『鑑定によると』、『平安初期に創掘されたと認む)貴重な遺跡となっている』」(湯沢市の記名有り)『とあります』とあり、続けてサイト主により、『桐の木田城跡は井戸跡以外は遺構らしきものが周囲では見当たりませんでした。秋田県内で古代の城と言えば』、『秋田城や払田』(ほった)『の柵などが有名ですが、この地も多賀城(宮城県多賀城市)などの連絡路として街道が整備され、重要視されていたと考えられます。井戸が平安初期に創掘されたと鑑定されているので、ここに何らか』の『施設があった事は間違いないようです。城として分類するならば』、『平城ということになりますが』、『城のような掘りや土塁などを防衛装備した大規模なものではなく、政を司る施設といった規模のような気がします。雄勝郡には雄勝城が羽後町西馬音内(推定地)にある為、その出先機関といった処ではないでしょうか?』と述べられてある。
「高野大師」弘法大師空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)。本当の小野小町と逢ったとしたら、没したその年でも、小町は上記の上限値で見ても、数え十一の少女である。まあ、弘法大師は今も生きているとされるからね、逢っていてもおかしくはないけんどね。次注も必ず読まれたい。
「常陸國玉造義景」後の室町時代に成立した、老いさらばえた小野小町を主人公とした謡曲の老女物「関寺小町」と「卒塔婆小町」は、平安中期から後期に成立した「玉造小町壮衰書」(弘法大師筆とされるが、大師の高弟で師の文章を集めた「性霊集」(しょうりょうしゅう)を編した真済が原「玉造小町壮衰書」を作った可能性はある)に基づいたものであるが、実は「玉造小町壮衰書」の本文には「玉造小町」の名は出現せず、現存最古の奥書を持つ写本である鎌倉時代の承久元(一二一九)年本が標題を「玉造小町壯衰書」と称し、九条家旧蔵の東京大学国文研究室本は「玉造小町形衰記」となっていて、少なくともそれ以降、本書の主人公は「玉造小町」で、それが、ずっと、かの「小野小町」と誤認されて、読み換えられ、別の小野小町の盛衰流謫伝承と絡み合い、他の派生作品に正真正銘の有名な「小野小町」の哀れなる物語として、肥大・増殖されてきた経緯がある(同書の情報は所持する一九九四年岩波文庫刊の杤尾(とちお)武氏校注本の同書の解説を参照した)。しかし、昭和四四(一九六九)年七月発行の雑誌『あきた』の「小野小町物語」(電子化ページ。原雑誌のPDFも有る)によれば、実は、玉造小町は小野小町とは全く別人の常陸国行方郡(なめかたのこおり)のここに出る「玉造義景」(詳細事績不詳)の娘、或いは、青森外ケ浜の娼姉(姓ではなく遊女のことであろう)玉造の娘で、全くの別人であったものが、いつか、混同視されるようになったとある。
が娘の小町なり。かく一人ならざる異說ある而已。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたれば、ひとり名高く、凡て一人の樣、傳へ來るのみ。かゝる類、萬事に多し、暫く記して疑を存し、亦以て博雅君子に問ふ。]
《○間違草の事》
奧州吉野の邊に、「まちがひ草」とて、草、有り。深き山谷に生じて、誤りて食すれば、當時、死を免るとも、一年の内、必ず、死す。此草、本草等にも不見。其味、甘して、根は「かな」の「よ」の字に似て、和草なり。根も實も、甚、似たり。□□□□なり。葉の形、定まらず、種々にて、四角も有り、丸きも有り、尖りたるもあり、三角もあり。細き、廣き花々、今年は、殊の外、美事に咲くといへども、來春は、みにくし。年々歲々不定草なり。可謂異性草。
乙酉五月朔 中井乾齋誌
[やぶちゃん注:「間違草」全く不詳。この名を聴いたことも、古記録中に見たこともない。次の地名とともに識者の御教授を乞うものである。
「奧州吉野」特定不能。現在の町名では、青森県弘前市吉野町と、宮城県石巻市吉野町があり、旧村名では、山形県東置賜(ひがしおきたまぐん)郡吉野村(現在の南陽市の北端の吉野川上流域に相当する)があった。他にも字地名にもあろう。
「□□□□」ママ。底本の判読不能字である。
「年々歲々不定草なり。」「年々歲々、定まざる草なり。」。
「可謂異性草。」「異なる性(しやう)の草と謂ふべし。」。]
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