曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 定吉稻荷 稻荷正一位
[やぶちゃん注:だらだらと長いので、段落を成形し、標題提示のある前は一行空けた。以下の話は「国立公文書館デジタルアーカイブ」で、「定吉稻荷」の発表者である輪池こと屋代弘賢の「弘賢随筆」の当該話が写本で読める。]
○定吉稻荷
ことし【文政八[やぶちゃん注:一八二五年。]。】四月四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦五月二十五日。]、神田明神境内、隨身門[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の外、東の方に小祠を建て、「定吉稻荷大明神」[やぶちゃん注:最後まで読むと判るが、この当時に破却されてしまい、存在しない。]と題せし幟、あまたゝてたり。
其緣起をとへば、
「いと不思議なる事どもなり。
『神主柴崎の家事を、講中の者、より合ひて、經濟せん。』
とて、境内の『伊勢嘉』といふ茶屋に集まる事有りしに、永富町[やぶちゃん注:現在の千代田区内神田二丁目・三丁目附近。]釘屋淸左衞門方に會せり。其つれ來りし年季もの、定吉、年十四歲なるに、供待[やぶちゃん注:「ともまち」。供人が主人の訪問した家の門口などで、その帰りを待つこと。]の内に居眠りしける間に、狐付きて、座敷に出で、主人に向ひ、
『淸左衞門。』
と、よびかく。
『こは、何ごとぞ。』
といへば、
『われは明神の門を守る野狐なり。其方共に云ひきかすべき事ありて、定吉につきたり。其故は其方共、神主の家事を親切に世話いたす段、奇特なり。然るに、その筋の還合[やぶちゃん注:「まはしあひ」か。「仕回し」の意か。]、某[やぶちゃん注:「それがし」。]には、不正なるものなれば、事、行ふまじ。某は正しきものなれば、向後は、その人に應對すべし。此事、「とくより、云ひきかさん。」とおもひしかども、折を得ず、今日に至れり。講中にとりても、淸左衞門は、わけて正直なるゆゑ、かく、告ぐる所なり。』
といふ。事はてゝ、家につれ歸りても、狐、放れず、さまざまの事を、いひける。就中、尤奇たりしは、
『野島屋敷の某は、十年ばかりさきつころ、水に溺れし事、あり。いと危かりしが、明神の仰にて、我、行きて、助けたり。その者、不動尊をも信ずるにより、「不動の加護にて助かりし」と覺えをるなり。さ、おぼえ居たりとて、御咎もなし。神さまは、おほやうなるものなり。』[やぶちゃん注:「野島屋敷」材木御用達蔦屋新左衛門の拝領屋敷。所持する切絵図で確認出来た。現在のJR神田駅附近にあった。]
と、いひしとぞ。この水に溺れしことは、當人、深く祕して、家族にも語らざりし事なり。この類のこと、あまた有りし故、人信ずること、たぐひなし。さて、
『明神の境内に祠を建てくれよ。さあれば、われ位を得るなり。』
と云ふ。
『さらば、門内に建つべし。』
といへば、
『いな。我は外を守る故なり。門外に建てくれよ。』
と云ふによりて、今の地を占めし。」
と、いへり。七日の夜、
『われは、こよひ歸るべし。』
と云ふ。その比、稻葉丹後守醫者河原林春塘、來りて[やぶちゃん注:「慶應義塾大學醫學部富士川文庫122」の「江戸今世医家人名録 初編」(櫟涯・得齋輯/文政二年十二月(一八二〇年)兩塾蔵版・PDF)の18コマ目に内科・産科医として『淀。神田蝋燭丁 河原林春塘』の名を確認出来た。ネットを調べると、結構、文人との交流がある医師である。]、
『わが思ひたつ事、有り。此事、心の如く成就すべしや、問ひ決せん。』
といふ。諸人尊敬する事、神佛のごとし。然るに春塘は、禽獸のあひしらひゆゑ、それをあかぬ事に思ひしにや、答にも及ばず。春塘云、
『其方は神通を得たりときけば、わが心中のことは、いはずともしるべし。さつして成否を、ことわれ。「いな」、いふまじ。その方は、「我身のことにも、あらぬ人のことに勞する馬鹿者なり。」といふ。曰く、人の道に義といふこと、有り。その人の爲に、身をわするゝ事も、有り。しかるに、その一の否を、ことわることも得せざるは、さすがは、禽獸なり。』
と、なじる。狐いふ、
『わがしる人にもあらず。いかでか敎ふる事の有るべき。』
塘云、
『いかさま、犬や猫には、しりたるもあれど、狐には、見しりたるも、なし。たとひ神通を得たりとも、祠をたつるも、人にたのまねばならず、正一位をさづかればとても、人がねがはねば、給はらず。されば、人ほど尊きものはなきに、いかで、人のとふことを、ひとことだにも、こたへざるや。』
など、あらがふほどに、講中、きのどくに思ひて、
『はや、かへり給へ。こよひは、稻荷も、かへらせ給ふ約あり。夜の、更に、ふけゆくは。』
とて、稻荷にも、さまざま、わぶれば、
『さらば、春塘は木村定次郞が方へ行くべし。跡より、告やるべし。』
といふにぞ、定次郞が家に至りて、まつに、時うつれども、何の音信も、なし。
『定次郞に問ひてたべ。』
といふ。下男を遣して問ふに、定次郞自身、來りて、
『願もせよ、下男を遣すこと、無禮なり。』
とて、ますます、いかる。講中、とかくこしらへつゝ、やうやうなだめて、
『さらば、此書を春塘につかはせ。』
とて、判紙をさきて、五言四句を書す。
『是を見ば、自ら會得すべし。』
と云ふ。
「盤中黑白子 一著要先機 天龍降井澤 洗出舊根碁」
すなはち、講中、とりて傳へたり。
『さらば、歸るなり。』
といへば、定吉は臥して、得もしらず、寢たり。翌日、夕七時頃[やぶちゃん注:「ゆふななつどき」。不定時法で午後四時半頃。]、出でゝ、例のごとく、みせに出、釘を直しをるを見れば、何とやらん、疲れたる體なり。
『いかゞせしか。』
とゝヘば、
『かはることもなし。』
と、こたふ。
『ひもじくは、あらずや。』
といへば、
『ひもじくさふらふ。』
といふ。
『さらば。』
とて、食事させければ、
『殊の外に、ねぶたし。』
といふ。
『わが心のまゝに、ねよ。』
とて、ねさせしに、夜中おき出でゝ、
『我は、一たん、歸りたれども、又、來りたり。野島屋敷の某を、よべ。』
といふ。むかへきたれば、
『さきに、言ひもらしゝ事、有り。』
とて、何ごとならん、さゝやきてのち、
『又、かへるなり。』
と、いひけるにぞ。定吉は常の樣になりぬ。このこと、十五日の夜、春塘にしたしく聞きて、その書をも換せしなり。さらに、うきたる事にあらず。かの詩は、觀音籤の「第四十四籤」なり。」。
[やぶちゃん注:「盤中黑白子 一著要先機 天龍降井澤 洗出舊根碁」「おみくじ」の文句。但し、「井」は「甘」の、「碁」は「基」の誤字或いは誤植である。読みたくもないが(私は「おみくじ」なるものを引いたのは、記憶では、小学生の時に、二、三度あるばかりである)、「盤中(はんちゆう)黑白子(こくびやくし)/一著(いつちよ) 機を先んずるを要す/天龍 甘澤(せいたく)を降らし/舊根(きうこん)の基(もとゐ)を洗出(せんしゆつ)せん」(別な読み方もあるようだ)。サイト「おみくじガイド」のこちらには、『碁盤の上の黒石と白石。勝負は一手ごとに先手を打って、相手を制していかなければならない。そうすれば天は恵みの雨を降らせ、草木の古い根を洗い出すように今までの汚れが一掃されて運が開けるだろう。』とあった。「吉」だそうだ。リンク先には現代の本物の当該籖の画像もある。
「觀音籤」番号の書かれた百本乃至は百三十本の籤を、観音の前で引いて吉凶を占うもの。元は中国発祥で、本邦の各所で用いられているものは、元三(がんさん)大師良源が作ったとされる。「観音占い」とも呼ぶ。
以下は底本でも改行されてある。]
美成日、
「予が抱屋敷、小船町[やぶちゃん注:東京都中央区日本橋小舟町。現在の同町内には旧天王社(牛頭天王(古代インドの祇園精舎の守護神。本邦では主に悪疫を防ぐ神とされる)及び素戔嗚命を祭神とする祇園信仰の神社)らしきものは見当たらない。]に在り。その所の家守、勘七、來りて、いひけらく、
『町内にて崇奉する天王の寶物に、去年、戶帳[やぶちゃん注:「とちやう」。神仏の厨子の上などに垂らす小さな帳(とばり)。]を納めしに、日あらずして、
「ぬすまれたり。」
とて、告げ來る。
「ふたゝび、調はすべし。」
など、いひあへるほどに、
「失せぬる戶帳、出でたり。」
といふ。
「いかゞしたるさまにか。」
とゝへば、
「紛失せし後、深夜に本社のほとりを見めぐりければ、隨身門の内に、白き物をまとひて、臥し居る人、有り。あやしさに立ちよりたれば、その人、おどろきて、逃げ出でたり。かのしろきものは、戶帳をうらがへして在りし。」
なり。そのかたはらに、『かな網』もあり。是も、ともに、ぬすみしものなり。」
と、こたへき。
さて、この比、定吉につきし狐の、
「われは、明神の社地に來りて、七十年を、へたり。子、八疋有り。もとは末廣稻荷[やぶちゃん注:神田明神裏にある末広稲荷神社か。]の社の下に住みけり。正一位になられしより、そこを出でゝ、小船町の天王の、みこし藏の下に、うつりたり。されば、かの戶帳・「かなあみ」も、わがてだてにて、もどせしなり。」
といふ。又、曰、
「天王のみこしに、おほひをして、うすくらき内に置く、よからぬことなり。みこしは人の乘物のゝごとし。常に鎭座有るべきやうなし。それゆゑ、常は、こゝには、おはせず。されど、町々をわたらせ給ふ時は御出あるなり。よりて、常に鎭座ある樣に、社を建てよかし。」
又、曰、
「『御膳講』といひて、年中、とり集むる物は、社家の德分のみ。さらに本社のためにならねば、今より後、止めよ。』[やぶちゃん注:「御膳講」不詳。神饌や玉串の供儀のことか。]
といふにより、この月より、廢せしとぞ。
或人、十四日に、かの稻荷に詣でければ、あまたたてならべしのぼり、數、すくなくなりぬ。
「こは、いかに。」
と、かたへの人にとひければ、社家のいはく、
「きのふ、或人、來りて白刄にて、きりさきたり。『富[やぶちゃん注:富籤。]の願をかけしに、あたらざりければなり。恨をはらすなり。』と言ひける。さての夜[やぶちゃん注:底本に編者注で『そ脱カ』とある。]、「俄に、心ち、そこなひて、くるしむこと、たとヘんかた、なし。これ、いなりの罰ならん。わびして給へ。」とて、今日、たのみ來りたり。』
とぞ。
乙酉五朔 翰 池
○定吉稻荷 尾
神田明神の神は、柴崎大隅[やぶちゃん注:前に出た神田明神の神主。大隅守であったのであろう。]、寺社奉行松平伯耆守へ呼び出だされ【乙酉五月三日の事とぞ。】[やぶちゃん注:「松平伯耆守」文政八(一八二五)年当時の寺社奉行で松平姓を名乗る伯耆守は、松平(本庄)宗発(むねあきら 天明二(一七八二)年~天保一一(一八四〇)年))である。丹後国宮津藩第五代藩主で本庄松平家第八代。後に老中となった。]、
「新規勸請の稻荷祠、すみやかに、こぼち候へ。」
と申し渡されたり。柴崎大隅、かしこまり申して、
「さて、かのいなり、はじめは町家にて、家の内に祭りおきしを、『俗家にては、崇敬もとゞかざれば、境内に移したき。』志願にまかせ、建てし所の祠なれば、新規勸請被申にも、あらず、されば、許容を仰ぐ所なり。」
と、こふ。
「いな。その陳狀、うけがたし。すみやかに、こぼつべし。」
と、なり。大隅、又、申さく、
「私の建立にあらず、願主有之、建てし所なれば、せめて、境内に元よりあがめつるいなりにあはせまつらんことは、いかゞ候はん。」
と、こふ。
「それも、許されがたし。大社の神主に似合はざる申事。」
とて、いよいよ、しからせられしうへに、
「今日の内に毀つべし。あすの四時[やぶちゃん注:午前十時頃。]には檢使をつかはす。」
と有りければ、五月四日に、俄に、こぼちけるとぞ。
その日、黃昏に、その跡を見しに、社の所を、土をほりて、こぼちし材を燒きすてけるさまなり。
○稻荷正一位
「定吉稻荷、正一位を願ひ、吉田家の許狀、五月中には下るべし。」
と、いへり。[やぶちゃん注:「吉田家」室町時代の京都吉田神社の神職吉田兼倶(かねとも)によって大成された神道の一流派「吉田神道」は、徳川幕府が寛文五(一六六五)年に制定した「諸社禰宜神主法度」によって「神道本所」に指定され、全国の神社・神職を、その支配下に置いていた。]
それにつきて、思ひ出でしこと、有り。
京師梅宮神主、橋本肥後守橘經亮曰、
「いなりに正一位といふ事、更に跡なき事なり。櫻町院御宇[やぶちゃん注:(在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年まで。]、吉田家ヘ御尋ね有りけるは、
『稻荷山にだに、正一位、授け給ひし事は、あらず。いかなれば、その他の小社に、正一位をゆるすや。』
と。この御こたへに、つまりて、
『其ゆゑよし、俄にしれがたし。搜索の間、日延[やぶちゃん注:「ひのべ」。]をねがふ所なり。』
と申して、今に御こたへ申さず。」
と、いへり。
安永・天明の頃にて有りし。吉田家、參向ありて傳奏屋敷にあられし時、傳奏留守居羽田氏の人、夜每に昵近せしが、ある時、問申しゝは、
「稻荷の正一位、本社になき事を、人の言にまかせて、こゝら、授け給ふは、いかなることにや。」
と申しゝかば、
「左やうのことを、とはれては、迷惑せしむる事なり。何事も、てゝのたねじや。」[やぶちゃん注:「てゝのたね」「父の種」? 意味不明。]
によつて、平田大角曰、
「『稻荷山に、正一位を授けさせ給ふ事、なし。』といふは、こゝろえぬことなり。その故は、いにしへ、三位を授け給ひし後、日本國中の神社、おしなべて、一階を昇せ給ひし事、宇多天皇御時[やぶちゃん注:在位は仁和三(八八七)年から寛平九(八九七)年まで。]より、すべて、四ケ度、有り。されば、とくに正一位にておはすことなり。さるゆゑをば、いかで御答申されざりけん。」。
輪 池
[やぶちゃん注:最後の部分の直接話法の分離は自信がない。
「京師梅宮」、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある梅宮大社(うめのみやたいしゃ)。四姓(源・平・藤・橘)の一つである「橘氏」の氏神として知られる。
「橋本肥後守橘經亮」橋本経亮(はしもとつねすけ/つねあきら 宝暦五(一七五五)年月~文化二(一八〇五)年(生没年には異説あり))は有職故実家。本姓は橘。肥後守。父の後を継いで梅宮大社の神官を勤め、また、宮中に出仕して非蔵人となった。本居宣長の友人で、上田秋成や伴蒿蹊とも親交があった。
「平田大角」(だいかく)は国学者・神道家平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の号。]
文政八年五月四日、定吉稻荷の禿倉[やぶちゃん注:「ほこら」。]を破却せらる。此日、寺社奉行より、役人、來て云々に、はからはせし、といふ。つまびらかなる事は、猶、よく聞きたらん日に、しるすべし。但し、この事、前條に追書せられたれど、なほ、具はらず[やぶちゃん注:「そなはらず」。納得出来るような内容を持っておらず。]、風聞は、さまざまなれども、みな、たしかならぬ事のみにこそ。
著 作 堂 識
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