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2021/09/11

ブログ1,590,000アクセス突破記念 梅崎春生 仮面

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年五月号『進路』に初出。後に単行本『ルネタの市民兵』(昭和二十四年十月・月曜書房刊)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 文中に注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,590,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年9月11日 藪野直史】]

 

   仮  面

 

 あの男はいつもあの椅子にすわっている。いちばん奥まった卓の、あの棕櫚(しゅろ)の葉がくれだ。珈琲を何杯もかえてすすりながら、ぼんやりした表情で店中を眺め廻している。なにを考えているのか判らない。ときどき暗い皮肉なわらいをふと頰にきざむところを見れば、なにか考えているには違いないのだ。あの笑いかたを見ると、おれは突然被を打殺したい気持になってしまうのである。しかしその笑いは直ぐ頰から消えて、あの男はもとのぽんやりした顔つきにもどってしまう。両掌で珈琲茶碗をあたためるようにはさみながら、卓にひじをついたまま、またゆっくりそれをすすり始める。あの珈琲は白いふわふわしたミルクを浮べた特別製のものである。長いことかかってそれをすすり終えると、長い指を立ててまた新しいやつを注文する。

 天気の日でも、雨の日でも、あの男は青い雨外套(レインコート)を着ている。うすい絹のやつだ。それはぴかぴか光ってあいつの身体に貼りついている。その反射のせいか、彼の顔いろはいつも灰白色に沈んでいる。鼻がおそろしく長い。長くて曲っている。その鼻を鳴らしながら、雨外套のポケットから細巻きの莨(たばこ)をとりだす。じゃらじゃらした鎖のついた古いライターを出して火を点ける。煙をはきだしながら、舌で唇を砥(な)め廻す。あれでは半分も喫わないうちに、莨の端を唾でぐちゃぐちゃに濡らしてしまうだろう。灰白色の顔のなかで、唇だけが妙にあかい。青絹の雨外套におおわれて、女みたいなやさしい撫で肩だ。あの男の名は花巻というのだ。花巻精肉店の主人である。もっとも店は雇人にやらしていて、昼間はたいていこんなところでぼんやり珈琲などを飲んでいるのである。

 おれが何故あの男を知っているのか。それはおれがあの男の店の顧客だからである。店といっても昼間の肉屋のことではない。あんな店で牛肉なんか買うものか。おれが行くのは、夜のあの男のところだ。店の横の露地を入って行き、裏口の扉をこっそりたたく。たたきかたにも秘訣がある。始めコツコツと二度、ちょっと間をおいてまた三度、それからまた二度。暫(しばら)くすると扉の内側で跫音(あしおと)がして、かけがねを外す音がする。ぎいと厚い木扉があくとその隙間から手がでて何かが手渡される。それが仮面なのだ。博多仁輪加(にわか)の面のように、鼻から上を全部おおう形になっている。そいつを手早く顔につける。これをつけなければ、この店には入れないのだ。扉を入るとまたかけがねをかけてしまう。

 仮面などをかぶって、ここでは何をするのかと思うだろう。大したことはありはしないのだ。ただ酒をのむだけに過ぎない。あたりまえの裏口営業に過ぎないのである。大きな卓をかこんで、仁輪加面をつけたお客たちが何人か、莨をすったりしゃべったりしながら強い酒をのんでいる。電燈の光をさけて、わざと洋燈(ランプ)にしてあるから、非常にうすぐらく、秘密結社じみたものものしい雰囲気がないでもない。この効果を出す為だけに、仮面とは大袈裟(おおげさ)すぎる。これが花巻の趣味からだけと言えるのか。酒はいいのを揃えてある。酒を出したり料理をはこんだりするのは女である。女は二人いる。一人はマダムと呼ばれている三十恰好の女だ。も一人は澄ちゃんと呼ばれるわかい女だ。二人ともやはり仮面をつけている。真赤ないろに塗ってあるから、それから食(は)み出た顔の部分は妖(あや)しく白い。この女たちが酒を注いだりそんなことをするのだ。しかしマダムは大てい奥に引きこんでいることが多い。

 この部屋の壁は黄色く塗られていて、床には厚いマットがしいてある。通気がわるいから、莨の煙がこもっている。この部屋で仮面をつけていないのは、主人の花巻だけだ。部屋のすみに据(す)えた小卓に、彼だけ顔をむきだして腰をかけている。卓の上にはいつも酒瓶がのっている。そのときでも彼は青い雨外套を着ているのだ。黄色い壁を背にして、じっさい彼は大きな雨蛙のように見える。昼間喫茶店の奥まった卓で珈琲をすする時と同じように、グラスに強い酒を注いでそれをゆっくり飲みながら、ぼんやりした表情で一座を見廻している。ときどき短い言葉で女たちに洋酒を与えたりする他は、ただ黙って部屋の内を見廻しているだけだ。その彼の眼が、洋燈のひかりの加減か、急にするどく光るように見えることもある。

 ここでは良い酒をのませると言った。そのかわり値段は高い。高いけれどもおれが此処にかようのは、酒が良いということと(それはある事情でおれがよく知っている)客を常連に限っているから手入れの心配がないということなどの理由だが、こいつは花巻の思うつぼにはまるのかも知れないけれども、皆が仮面をかぶっているという情況が、へんにおれの気に入っているせいもあるのだ。実際お面をかぶっているということは、どんなにか気楽なことだろう。そして前にすわって酒を飲んでいる連中も、そろってお面をかぶっていて、みんな人間の表情を失っているのである。フアンシー・ボール(仮面舞踏会)じみた愉快さがそこにはある。[やぶちゃん注:「仮面舞踏会」は丸括弧内で二行割注。fancy ballfancy dress ball。客が仮装し、仮面をつける舞踏会。「fancy」は「装飾的な・派手な・意匠を凝らした」、「ball」は「盛大な舞踏会」の意。]

 おれたちは消を飲み莨をすいながら、いろんな会話や冗談をとりかわす。むろん相手がどこの馬の骨ともわからない。仮面をぬげば案外顔みしりの男かも知れないのだ。そのときどきで相手が変っていることももちろんである。そのお面は猿に似せてあったり、犬や猫に似せてあったりする。昨夜猫の面をかぶっていたやつが、今夜は魚の面をかぶっていることもあり得るのだ。じっさい仮面というものの不思議さは、それをかぶった入間の属性をすっかりそぎおとしてしまうことだ。そこでおれたちはほっと肩を落しているのである。おれたちのかわす会話や冗談はいよいよ快適で、それも個人的な事情や感懐にけっして立ち入らないからである。おれたちは酔っぱらって世相や人間を語りながら、まるでそこらの批評家や月評家のような口を利いていることに気什くのだ。おれたちはその瞬間、あらゆる責任を肩からとりおろしているのである。そんな自分を嫌悪する気持が、ふとおれに起らないではない。しかし流れるような酔いが、おれのそんな気持を直ぐおおいかくしてしまうのだ。おれはますます饒舌(じょうぜつ)になる。部屋のすみの小卓では、花巻が灰白の表情をぼんやりあげて酔っぱらったおれたちの方をしきりに眺め廻しているのである。

 花巻はいくら飲んでも乱れないし、顔色も変らない。ただ声がいくぶん甘ったるくなってくるだけだ。舌が酒のためにもつれるせいだろう。長い鼻を幽(かす)かに鳴らしながら、ぼんやり椅子にかけている。おれたちがよっぱらってどんなに笑ったりしても、彼はほとんどわらうことをしない。騒ぎが烈しくなると掌をひらひらと上げて、表に聞えるといけないから静かにしてくれ、と言うだけである。そんな時にみんなはふと花巻の存在に気がつくのである。それでちょっと部屋の中は静かになるが、しばらくすると濁(だ)み声や笑い声があちこちから高まってくる。みんな酔っているから仕方がないのだ。酔っているといえば、看板ちかくの時刻になると女ふたりも大ていは酔っているようだ。お客たちがダラスや盃をさすからである。酔ってきたとしても、何ということはない。ふざけたり、客の相手をしたりするわけではない。ただ酒をはこぶだけである。

 そんなところは此の酒場は上品な部類に属するのだ。女たちは真赤な仮面をかぶっている。マダムはいつも和服を着ているし、澄子は平凡な洋装だ。ふつうの娘が着ているようなありふれた洋服だ。ただお面をかぶっていることが、それにへんな逆効果をあたえるようである。澄子はきれいな脚をしている。唇には口紅もつけていない。ごく平凡な恰好だが、それだけに赤い面が奇妙なアクセントになっているのである。こんな仮面をつけることも、もともと花巻の命令にちがいないのだから、澄子にしてはあるいはこんなものは取り外したいと、常々考えているのかもしれない。おれたちは言わばしょっちゅう面をかぶっていたいたちなのだが仮面などを必要としない人間も今の世にも間間いる筈だから、あの夜澄子がなにげなく面を顔から取り外(はず)したというのも、あながち酔いに放心したからだけとは言えないだろう。もっとも時刻はかんばん直前で、お客はおれひとりしか居なかった。そしておれもひどく酌っていた。隅の小卓から突然ぱしりと烈しい音がして、まっしろい顔をした花巻が立ち上った。革手袋で卓をひっぱたいたものらしく、掌で顎(あご)を支えてうつらうつらしていたおれもぎょっと眼がさめるほどその音はするどかった。

「なぜ面を外すんだね」

 立ちあがった勢にも似ず、その声はひどく静かで、すこし舌の根がもつれたような口調であった。そう言いながら花巻は床をするような歩きかたで澄子の方に近よってきた。澄子はびっくりしたような表情で花巻の方をふりかえっていたが、酔っているせいか瞳が定まらないらしく、大きな眼をたしかめるようになんどもまたたいた。この夜澄子はおれが見ただけでも、さされたジンのグラスを四五杯のんでいたのだから、何時になく深く酔っていたに違いなかった。おれはこの時始めて澄子の素顔を見たわけだが、きわだった特徴もないが、大柄なわりに良く整った感じの顔であった。その顔を一眼みたとき、ふしぎなようだが、おれは非常に心がなごんで安心したような気分になったことを覚えている。澄子は片手を卓にもたせ、これもごく静かな声でこたえた。

「だって暑くて、息ぐるしいんですもの」

 部屋のすみにはストーヴが燃えていたげれども、暑いというほどではなかった。しかし澄子はそう言いながら暑くるしそうに肩を動かした。

「暑いからといって、面を外していいと言ったかね?」

 花巻はそしておれの方にちらと顔をむけた。その顔は怒っているようではなくて、むしろ憫(あわ)れむようなうすわらいを浮べていたようである。

「まだお客様がいらっしゃるのに、そんなよごれた顔をみせることはないだろう」

「だって、暑くるしいのよ。マスター」

「面をつけるんだ!」

 突然たち切るような甲(かん)高い声で花巻がどなった。

 おれは頰杖をついた姿勢のまま、このやりとりを聞いていたわけだ。澄子は何か言おうとしたが、思いなおしたように手にもっていた仮面を顔にもって行った。もちろんおれはひどく酔っていたから、そして薄暗い部屋のなかのことだから、はっきりとは覚えていないけれども、澄子の顔はその時ほのぼのと紅潮して、大きな眼がきらきらと光ったようだ。そんな澄子の顔が面のしたにかくれてしまうのをおれはひどく惜しいような気がしたことを覚えている。惜しいというより、もっと切ない気持であったかも知れない。この瞬間におれは澄子にある感じをもっていたのだろうとおもう。グラスや酒瓶を下げに行っていたマダムが、次の部屋から姿をあらわしたときは、花巻はもとの卓にもどって無表情な顔でグラスを傾けていたし、おれはもう帰ろうかと立ち上りかげていたところであった。

 此のマダムという女は肉付きのいい女で、おれは素顔は見たことはないが、なかなか美しい顔をしているという話だ。マダムといってもこの女は花巻の妾みたいな地位にある女で、この酒場はおおむね彼女が切りもりしているのである。そんなことを何故おれが知っているかというと、そんな一部始終を澄子がおれに聞かせたからで、澄子がなぜおれにそんな話をする概会があったかというと、これは話せば少し長くなる。

 おれの職行というのは戦後流行のブローカーというやつで、もちろん店舗も事務所ももたないささやかな自宅営業だが、品物だけは相当にうごかしている。どんな品物でもあつかうまでには目が利いていないので、自然取引の範囲も限定されているわけだが、だいたいおれが取扱う品物のひとつに酒類があって、どんな伝手(つて)をもとめてやってきたのか知らないけれども、ある日この澄子がおれのうちを訪ねてきたときは少しおどろいた。玄関にたっている澄子を見た瞬間、おれは思わず、澄ちやん、と叫びかけてあわてて口を押えたくらいである。あの酒場ではお互に仮面をかぶっているわけだし、澄子がおれを知っている筈はないのだ。またあの夜のことがないならば、おれとしても澄子の顔を知っているわけはないのである。だからおれが澄子の名を叫んだりしたら、それこそ不自然な話にきまっている。あわてて口を押えたおれの態度には気がっかなかったらしく、澄子はちょっと頭をさげてあいさつした。

「始めまして」

 いいえ、こちらこそ、などと口ごもりながら、おれは澄子が酒の仕入れにやってきたんだなということにそのとき気がついた。そうすると幾分気がらくになった。そしてヘんになつかしさがこみあげてきた。

「お宅にはいい酒があるそうね。すこし廻してもらいたいと思って参りましたのよ」

 それから上にあがってもらって、いろいろ商談をした。澄子の取引ぶりはまことに大ざっぱであったけれども、仲仲[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]慣れていて場数をふんでいる感じであった。勿論おれも商人だから、元値を切ったりして取引を結んだりはしなかった。ただ仲間うちの相場よりもぐんと安く澄子に約束した傾きはあったかも知れない。そうするとおれの予期した通り澄子は満足そうにうなずいて言った。

「お宅のは安いわね。これからお宅にきめてしまおうかしら」

「そう願えればありがたいな。で、今まではどちらです」

 澄子はためらうことなくある人名をこたえた。それはおれも知っている酒専門のブローカーの名前であった。あいつの酒をあの酒場でおれが飲んでいたのかと思うと、おれは少しおかしく、またにがにがしい気持にもなってきた。

「じや次々入れて貰うかも知れないわね。あら、なぜそんなににやにやしてるの」

「いや。あなたみたいなお嬢さんが、何故そんなに酒が必要なのかと思って」

「あたしが飲むんじゃないわよ」

 そして澄子は怒ったようにちょっと口をつぐんだが、[やぶちゃん注:ここには読点がないが、誤植と断じて挿入した。]

「――うちは酒場なのよ。だからこんなに酒が要るのよ」

「へえ。おれも行きたいな」

「駄目なの。うちは変屈なんだから、ふりの人は入れないのよ」

 それから何か話しそうにしたが、ふと言葉を切って眼を外らした。暗い影がその眼を流れたようで、おれはふと澄子があの酒場では不幸なのではないか、ということを考えた。

 それからも澄子はおれのうちにしばしばやってきた。もちろん酒の仕入れのためである。現物を先方にとどけるのは、本米ならばこちらの仕事なのだが、この場合はいつも澄子の側から取りに来た。酒場のありかを知られたくないせいもあっただろうし、またおれがアゲられた場合に累(るい)が及ばないように、用心をしているせいもあったのだろう。そんな点の周到さは澄子のものではなかった。やはり背後にいる花巻のやりかたに違いなかった。澄子は性格的にそんなに気の廻る女ではないので、むしろ素直で純な女であった。だから少し親しくなるとおれにいろんなことを打明けたりしたのである。もちろん澄子は酒場のありかや花巻の名前などは言わなくて、某地区にある某酒場として、つまりおれにとって架空の酒場として話しているわけなんだが、おれとしては一々現実のものと引合せて聞いていたのだ。ときどきその酒場に通っていることを、おれはおくびにも出さなかった。なぜかというと、酒場にかよってくるお客たちを、澄子は軽蔑すべき対象としておれに話したからである。

「――マスターからいい加減馬鹿にされているのよ。面をかぶって安心したつもりで飲んでるのを、マスターは馬鹿にしながら眺めてるのよ」

 マスターはどんなものでも馬鹿にしているのだ、と澄子はその時ひとりごとのようにつけ加えた。こんな話をしているときの澄子の顔は、ごくありふれた女の感じで、とくべつおれの気特を牽くところもなくなっている。それがおれには不思議なんだ。あの夜澄子の素顔をはじめて見たときの、心が和(なご)むような、また切ないような気分が、白日のもとの澄子には、全然失われているのである。へんに年増くさい生活的な感じすらあるのだ。澄子はそしてあんな仮面をかぶって酒席に出ることを、大へん厭がっているような口ぶりなのだが、なおあそこに踏みとどまっているというのも、収入という点で、あそこはずげ抜けているという理由もあるらしかった。それはおれにも判る。おれが売りつける酒の単価とあの酒場でのませるグラスの単価を引き合せても、毎夜花巻の手におちる金額は相当なものであるにちがいないのだ。だから澄子にも応分の給料がはらえるのだろう。しかし澄子があそこにとどまっていることが、それだけの理由だとはおれには思えないのである。

 澄子は花巻のことを話すとき、いつも何か憎しみの調子を幽かにふくめている。毎夜入ってくる金で、花巻はぜいたくな暮しをしていると言うのである。食事にしても、戦前の一流料亭の食事のようなのを三度三度つくらせる。料理はもっぱらマダムがつくるのだが、マダムは以前どこかの板前の経験があるらしい。その食膳を花巻は無表情なかおで食べる。酒場の切りもりはマダムがやっているものの、実権のすぺては花巻がもっていて、マダムはしんのところでは花巻をこわがっているらしい。夜は別々の部屋に寝る。妾じみた関係だというのも、ただ漠然と澄子が感じているだけで、ほんとの処はどうだか判らないのである。しかし澄子にマダムがときどき口を辷(すべ)らせることを綜合すれば、花巻とマダムと知り合ったのは大陸で、そこで花巻は軍の特務機関の手先みたいなことをやっていたらしい。それを聞いたときおれはすぐ胸に、あの青い雨外套を着た花巻の姿をまざまざとうかべていた。どんなことにも反応をしめさないような花巻のあの灰色の顔も、あるいはそんな暗い過去からの影を引いているにちがいないとおもった。それはなにか嘔(は)きたいような不快なものとして花巻の姿体ぜんたいに何時もただよっているのである。

 あの酒場のやりかたも、きわめて悪趣味であることぱ、おれが始めから感じていることであった。子供だましみたいなチャチなやりかたで、そしてそのくせおそろしく悪どいとも言えるのだ。それが花巻が考えだしたやりかたであることは、澄子の口裏でも想像できるのだが、しかしこんな風な酒場を、以前おれは大陸で体験したことがある。花巻も大陸にいたという話だから、あるいはそんな処からヒントを得たのかも知れない。特務機関の手先などというものは、あちらこちらにもぐり込むような仕事なのだろうから、花巻がそんな種類の酒場を知らない訳はないのだ。あんな仮面をかぶることを、澄子が喜んでいないことは、大体の彼女の口調で判るが、何時か澄子がおれの問いに答えてふと口を辷らしたことがある。

「でも面をつけると、かえって気楽なのよ。わずらわしいことが全部消えてしまうような気がして」

 そのとき澄子の眼に、酔ったような光がちらりと流れたのを、おれははっきり覚えている。それはなにかむしばまれたような脆(もろ)い暗さを聯想(れんそう)させた。澄子がおれのうちでいろいろしゃべっても自分のことについては何も語らないのを、おれは突然その時気がついていた。

 澄子の過去がどういうものか、花巻とはどんな関孫にあるのか、おれはそれまではっきり知りたいとは思っていなかったのである。ただ単純に、澄子はあの酒場の雇人にすぎないのだと、心の底でかんがえていた。しかしこの言葉を聞いたとき、ふと澄子の生活に強力に投影しているらしい花巻をおれはかんじた。おれはあの酒場の黄暗く沈んだ壁を、そしてそれによりかかっている青い雨外套の花巻をその瞬間鮮明に瞼に画いていたのである。あの男の表情は動きがないから、ちょっと見るとぼんやりしているような感じだ。しかし気を付けていると、花巻の瞳はときどき小魚のような早さで左右にうごくのだ。何かを見ようとして動かすのではない。ほとんど無目的なするどい動き方をするのである。こんな眼の動かしかたをする男を二三人、おれは大陸で知っていた。その男たちは皆ある特別の仕事に従事していて、それからの類推でおれは、花巻がスパイのようなことをやっていたということをそのまま信じることが出来るのだ。このような連中はいわば生命を賭けたところに常住するわけで、そのせいか性格の中に、おそろしく冷情でつっぱねたようなところがあって、そのくせ他人を自分の強力な支配下におきたがるようなところがあった。ことに自分より弱い者に対してはそうであった。澄子が花巻のそんな呪縛(じゅばく)の下にあるとは、もちろんおれははっきり考えたわけではない。ただその時影のようにおれの胸をそんな気分がかすめただけである。それがどんな意味があるのか、おれは判っていない。

 さて、おれは澄子がおれの家に出入りするようになってからも、あの酒場には時折でかけて行った。つまりおれが安く売渡した酒を、高い金をはらって買いもどしているような具合であった。無論それを知っているのはおれだけで、澄子はおれが客のひとりであるとは知りはしない。壁際に吊った洋燈(ランプ)がわずか二個だから、卓のあたりはぼんやり闇がしずんでいて、たとえばお互のネククイの柄もさだかでないほどなので、澄子が服装や動作からおれを見抜くわけがないのだ。第一みんなここの常連だから、いくら仮面をつけていても見覚えのある相客ができそうな気もするが、それが仲々できないというのも、ここが極度に薄暗く、莨(たばこ)の煙でいつもいっぱいだからだ。ただ花巻のいつもいる小卓は吊洋燈のすぐそばなので、彼の顔だけは灰白色にぼんやり浮き上って見えるのである。

 いま見覚えのある相客がなかなか出来ないとおれは言ったが、ただ一人だげ、仮面がどんなに変っていようとも、おれが見分けられる常連の男がいる。なぜ見分けることが出来るかと言えば、ひとつには顔の仮面から食(は)み出た部分に、つまり唇のあたりにきわ立った特徴があって、それがおれの記億にとどまる原因になっているのだ。それは少しむくれたような形の唇で、色は赤黒く濡れている。歯科医が歯型をつくるとき用うモデリグコンパウンドみたいな色だ。不快な気味悪さがその唇にはある。おれが此の男を印象にとどめているも一つの理由は、この男は酒もなかなか飲むけれども、あきらかに澄子にたいしてある種の興味をもっているらしく、それを動作や態度ではっきりと示すからである。しかしそれはおれだけに判ることかも知れない。ほんとうに此の部屋の暗さは、相客の動作ですらうっかり見のがす程なので、おれが此の男の動作や態度に注意しはじめたというのも、澄子にたいしておれがある関心を持ってきだしたせいなのかも知れないのである。[やぶちゃん注:「モデリグコンパウンド」modelling compound。カリウム樹脂・硬質ワックスを主成分とする非弾性印象材。天然性の熱可塑性樹脂で、筋形成(概形印象)に適している。歯科で「インショウ」(印象)という言葉をよく耳にするのが、それである。ピンク色のあれである。]

 先にも言ったように、おれは昼間ときどきおれの家にやってくる澄子にたいしては、ほとんど気持が牽(ひ)かれないにもかかわらず此の酒場のなかで見る仮面の澄子には、なにか胸がときめくような牽引を感じてしまうのだ。昼聞会うときのあの平几な、いくぶん事務的な澄子にくらぺて、比処のうすくらがりの酒場では、澄子は俄(にわか)に深海魚のような妖しい魅力をたたえてくるのだ。その時おれはあの赤い仮面の下に、昼間の澄子の顔を想像していない。もっと別の、もっと強烈で切ない、もちろん目鼻立ちとしてはあの澄子の顔と同じだけれど、全然違った印象を与える澄子を想像しているのである。そんな澄子があの仮面の下にいることを予想するだけで、おれは背筋に粟立つような強い刺戟をうけてしまう。澄子はただ奥から酒や料理をはこんでくるだけである。あとはだまって卓の側に立っていたり、壁によりかかっている。客が呼びかけグラスをさせば、簡単に礼を言ってためらわず飲むのである。おれはふと、澄子が自分のそんな挙動が客にあたえる印象をすべて計算しつくしてそしてあんな風(ふう)にやっているのではないかと考えることもあるのだ。しかしそれは昼間見る澄子からは想像できないことだ。そのことがおれに一種の倒錯的な刺戟にすらなっている。おれは酔ってくると仮面の小さな眼穴から、ぼんやりと澄子の動きを追っている。頭のなかでさまざまの想念や嗜慾(しよく)のわき立つのを幽(かす)かに意識しながら。――[やぶちゃん注:底本では行末でダッシュは一字分だが、これは組版上の勝手な節約と断じて、二字分で示した。]

 その男の澄子に対する興味は、しかしおれのとは逆になっているのだろう。何故かというと、その男は澄子の素顔を知らないからだ。ただ澄子の仮面や身体つきに、中年男の興味を湧き立たせているにすぎなくて、そのせいで澄子の仮面の下をいちどのぞぎたくて仕方がないのである。彼は濁ったいやしい口調で、澄子に酒の代りを注文する。酒が注がれる間、面を斜めにむけて澄子の横顔をながめている。何気ない風をよそおって、手を澄子の身体にふれたりする。澄子はそれを別に拒否する風情もみせないが特別の反応も示さないのである。つまり全然の無関心の態度なので、その男はだんだんいらだってくるらしい。そのような隠微な経緯(いきさつ)を、おれはのがさずある感じをもって眺めているのである。他の客は誰も知らない。ただも一人その経緯をするどく注意している男がいるのだ。それは吊洋燈の下でゆっくりゆっくりグラスを傾けている花巻だ。花巻は長い鼻をかすかに鳴らしながら、ぼんやりした表情のなかから眼だけするどくその男の挙動に走らせている。

 その男はよく飲む。強烈なやつを他人の倍ほども飲む。酔ってくるとしだいに饒舌(じょうぜつ)になってきて、あたりかまわず話しかける。もっとも此処ではみんな面をかぶってしるので、特定の個人というものはない。誰に話しかけても同じなのである。答えるにしてもそうである。酔った会話の雰囲気が、そんな具合に進行してゆく。この男を中心にしてちょっとした事件がおこったあの夜も、なんだかそんな自然な具合に進んで行ったようだ。その夜は、誰かの会話で、こんな奇妙な酒場は東京にもあまりないだろう、というところから始まって行ったのだが、それからみんなががやがやと発言したり笑声を立てたりして、おれはその玲の各人の口調から、皆がここの常連であることを誇りにしているらしいことを何となく感じて、なにか変な感じにうたれたことを記憶している。なぜこんなところに出入りするのが誇りとなるのか。その気持をたどってゆけば、興ざめするようなものにつきあたるような気がしたけれども、考えてみるとこのおれにしても、此の酒場の特殊な魅力に引かれて来るのだとはいうものの、ある言い知れぬ秘密のなかに自分がいることを、ひそやかに高ぶる気持がないとはいえないのだ。もちろんその気持が仮面の澄子に牽かれる気持に通じていて、いわばおれは設定されたものの中に自らをひたして意識的に酔っているに過ぎなくて、なにかに甘えたところで安心しているわけのようである。大陸でみた阿片窟や賭場にくらべると、ここにあるのはごく安手な擬似の頽廃だ。そのことがおれにはつねにうしろめたい気持がするのだけれども、またそのせいで酔いの廻りは追っかけられるように早いのだ。その唇の赤黒い男は、濁った声でその会話に参加していたが、よどんだ笑声で会話の進行が乱れかかったとき、ふとグラスをあげて冗談めいた大声で言った。

「こんな酒場をつくった主人のために、乾杯!」

 しかしこの男は、花巻のためにより、澄子のために乾杯したかったのかも知れない。彼はグラスをむしろ壁に立った澄子の方にむかって支えていたのである。声に応じてグラスを上げたものは周囲の二三人にすぎなくて、あとはそれぞれ外の話題にうつっていたり、グラスを傾けたりしていた。おれもグラスをあげなかった一人である。別に理由はない。その男の音頭に合せてグラスを上げることがめんどうだったからにすぎない。その男の声は、しかしかなり大きな声であったので、部屋のなかのものに聞えなかった筈はない。ところがもうもうと立ちこめた莨の煙のむこうで黄色い壁を背にして浮き出るように洋澄(ランプ)に照らされた花巻の顔はまるでその声が聞えなかったかのように、微動すらしないようであった。細巻の莨を口にくわえたまま、れいのぼんやりした表情でなにかを眺めているのである。客たちがつけた仮面の方にかえって表情があって、花巷の灰色に沈んだ顔にはほとんど血の気が通っていないようにおれには見えた。莨は唇の端で垂れていて、火はすでに消えてしまっているらしかった。男はそれを見て、もちあげたグラスをちょっとやり場のないように動かしたが、すこしひるんだような弱い声で再びことばを重ねた。

「この主人のために。万歳!」

 それでも花巻の表情は、いささかの動きも見せなかったのである。ただぼんやりと眼を動かしているだけであった。黙殺というほど、意識的な態度ではなく、ほとんどよそごとを眺めているようなつめたい動作であった。男はそれでぐっといらだったようである。ひっこみがつかなくなったように身体をゆるがせて、急にグラスを唇にもって行って一気にそれをあおった。もはや澄子の姿は眼にないらしく、椅子ごと身体をうごかして花巻の方にむきなおった。

「御主人」気持を押えて、あざけるようなひびきをこめた調子で男は口をきった。「おれのいうことは聞えなかったのかね」

 花巻は雨外套のポケットから、古風なライターを取出してカチリと火を点けた。莨を指にもって、はじめて静かな声で言った。

「あまり大きな声を立てないで下さい。表に聞えるとまずいから」

 舌がもつれるように聞えるのは、やはり花巻も酔っていたのであろう。そう言いながら花巻は、自分の卓の空のグラスを酒瓶からトクトクと注いで満たした。しかしその言葉は静かだったけれども、一座の笑い声や話し声は急におさまってしんとなった。

「君はここの主人だろ?」と男が押しつけるような声で言った。

「私はここの主ですよ。もちろん」

「今おれが君のため乾杯したのが見えたかね?」

「見えましたよ」と花巻は静かな声でこたえた。

「それじや、なんとか――」男はいらだったように頭をふった。「なんとかあいさつがあってもいいだろう」

「まあいいじやないか」と誰かが口をはさんだ。「酒のむとき位はたのしく飲めよ」

「まあ、言わせておきなさい」

 突然おそろしく冷たい口調になって花巻がそれをさえぎった。男はその言葉でふいに怒りがこみ上げてきたらしかった。しかし辛うじて気持を押えたらしく、手を卓の上の方にのばした。彼のグラスは空であった。男の指はぶるぶるふるえていた。

「で、では言わして貰おう」咽喉(のど)から押しだすような声で彼はどもった。

「この酒場はインチキだ。悪趣味だ」

「それで?」

「こんなところは不潔だ。お、おれが、ひとこと警察に言いさえすれば、君などは即座にひっくくられるよ」

 男の声はひどく苦しそうで、むしろあえいでいるようであった。花巻はそれに答えないで、莨を唇にはさみながら、頰にふと暗い皮肉そうな笑いを瞬間うかべた。煙を唇の間からゆらゆらとはきだしながら、暫くして低く呟くように口を開いた。

「――あんたは酔っているんだよ。なにも怒ることはないだろう。悪趣味だと思えば、来なきゃいい。私のところは、まっとうな酒場なんだ」

 そして卓の上のグラスに手を伸ばすと、それにちょっと唇をつけた。つけただけで口に含まず、またグラスを卓に戻した。

「まっとうな酒場であるもんか」

 なにか吹き抜けるような声で男は言いかえしたが、顔を斜めにあげてぐるりと部屋を見廻すような仕草をした。そして強いて気持をあおったような声で、一言一言区切りながら発音した。

「まっとうだって。わらわせやがら。こんな変ちきりんな面なぞかぶせあがって[やぶちゃん注:ママ。]。おれたちはいいさ。いいがだ。こんな娘さんにも厭らしい面をかぶせたりして――」

「だからあんたは来なけりゃいいんだよ」と花巻はじっと男を見据(す)えながら言った。その頰にはかすかにさげすむよな笑いを浮べているようであった。「面がいやだったら、外したらいいだろう。そして出て行ってくれ」

「おれはいいんだ。おれがいってるのはこの娘さんだよ」

 壁によりかかって、ふたつの吊洋燈の光のあいだの谷に、澄子は影のように立っていたのである。男が顎(あご)でしゃくったのはその澄子の姿であった。澄子の姿はそのときかすかにたじろぐらしかった。奥に通じる半扉が音なく開いて、やはり面をつけたマダムの半身がおれの視野の端をかすめた。花巻がその時しずかにたちあがった。莨の煙が洋燈の光茫のなかで、流れるようにうごいた。花巻は足を床のマットにするような歩きかたで、卓のすぐそばに歩みよってきた。そして青絹の雨外套を開いて、上衣の内かくしから何かを取りだした。

「お前さんは、この女が好きらしいな。好きなら好きでいいんだ」

 花巻の声は急にするどく畳みかけるような調子を帯びてきた。

「――そんなに好きならば、賭けで決めよう。丁が出たら、この女をお前さんに呉れてやる。半がでたら、お前さんの生命はわたしがもらう。それでいいか」花巻の掌から卓の上にころがりおちたものを見て、男はふと身体をかたくしたらしかった。椅子がぎいときしんで、男は指をあげてカラーのあたりをしきりに押えた。それは真白な骰子(さいころ)であった。暗い卓のうえで乏しい光を吸って、それは白い点のようにひかった。

「やめて下さい」

 半扉のところから、そんなマダムの烈しい声が飛んだ。声はふいにそこで千切れて、またあたりはしんとした。部屋のすみで燃えおちるストーヴの石炭の音がはっきり聞えた。

「――ひとりの女を、そんな骰子できめるのか?」

 呻(うめ)くようなその男のつぶやきにかぶせて、花巻はそれを断ち切るようにはげしくさえぎった。

「これはおれの女だ!」

 花巻はそして大きく眼を見開いて、男の方に上半身をのりだすような形になった。

「おれの女をどうしようと、おれの勝手だ。だから丁と出たら、黙ってお前さんに呉れてやる。お前さんにそれだけの勇気はないのかね」語尾が急にあざけりの調子を帯びて、花巻の瞳は見開かれたままきらきらと光った。

 おれは卓のいちばんすみっこの椅子にかけていて、黄黒い壁によりかかっている澄子の姿をじっと見詰めていたのである。澄子は花巻の言葉がいわれたとき、ほとんど一歩踏みだしそうに身体を動かしたが、思いかえしたように腕をかるく組むと、そのまま全身を凝らしたらしかった。緊張した沈黙のなかを、暫(しばら)くして男は打ちのめされたように立ち上った。酔いもすっかり醒め果てたらしく、立ち上った瞬間にかすかに身ぶるいした。そして危く床をふみながら扉の方に後すざりをした。扉に背をつきあてると、ゆっくりと重い木扉を開いた。その瞬間男の姿は扉の陰から逃げるように外に消えた。僅かひらいた隙間から、なにかひらひらと舞いおちた。それは男がいままでつけていた犬の仮面であった。壁のところに立っていた澄子が軽く走りよって、それを拾いあげた。そして扉を閉じながら、くるりとこちらに身体ごとふりかえった。

「あの人、密告するわ。きっと」

 澄子のその声はかすれていて、何か呼吸をはずませているような口調であった。誰もそれに答えなかった。さっき木扉がひらいたとき流れ入った冷たい夜気が、部屋の空気の中でうすい層をなして、そのときおれの顔にひやりと触れてきた。

 マツトを踏みながら、背をまっすぐに立てた花巻が跫音(あしおと)もなく吊洋燈のしたの小卓にもどって行った。

 椅子にゆっくりと腰をおろすと、卓上の先刻注(つ)ぎのこしたグラスに手をのぱしながら、もとのぼんやりした灰白色の表情にもどって一座を見廻した。見廻しながら、ふと暗い皮肉なうすわらいを頰に浮べると、あかい唇をひらいて抑揚のない調子で言った。

「どうです。さっきの条件で、わたしと賭けをする人はいませんか」

 おれはこの時、何放だか知らないが、自分が面をつけていることに対して、言いようもない惨(みじ)めさを感じて、思わず卓の下で掌をにぎりしめていた。おれはそして、いましがた露地をかけ抜け出たにちがいないあの赤黒い唇の男より、憎しみの比重がぐっと花巻の方にかかって行くのを、まざまざと胸の中でかんじていたのである。透明なグラスの液体が花巻の濡れたように赤い唇にもってゆかれるのを眺めながら、おれは自分の気持に耐えきれなくなって眼を外らした。

 厚い木扉を背にして、澄子が立っていた。澄子の肩があえぐように大きく動いたのを、おれはその時に見た。あきらかに何か言おうとしたのである。しかしそれは言葉にまでならなかったようであった。そして部屋はもとの沈黙に落ちた。

 この夜の出来ごとは、妙におれの印象にのこっている。もちろん酒場のことだから、客同志の喧嘩や言いあらそいはしばしばあったが、そんなことはあまりおれの記憶にのこっていない。ただ花巻が登場したということだけで、此の夜のことがおれの頭にひっかかってくるのも、おれが花巻に対して、たんに主人と客という関係でなく、もっと深いところで感情をもちはじめたからだろう。そしてそれは、澄子という女がその間にいるからには違いないが、しかし此の頃のおれには、いろんなことが何も判っていなかった。

 自分の気持の屈折すら、はっきり手探りかねていたのである。

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