曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 靈救水厄の金佛觀世音の事に付 文政二年四月七日 松前家臣佐藤隼治より君公へたてまつりし書狀の寫【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】
○靈救水厄の金佛觀世音の事に付
文政二年四月七日
松前家臣佐藤隼治より
君公へたてまつりし書狀の寫
【「イタヤ・シナ・帶カケ」追考附】
寬文二年壬寅[やぶちゃん注:一六六二年。]九月廿七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十一月七日。]、松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシと申す村にて、和歷代の内、佐藤木工左衞門[やぶちゃん注:「もくざゑもん」。]と申者、川流れいたし、柳の根に止まり候處、蝦夷共、集まり、引き揚げ候節、兩手に土を握み、上り、其節、手に握り候土の内に、觀音の金佛、有之候處、同所へ祠を建て、右之金佛、松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候。寬文二年より今文政二年迄凡百五十年餘に可相成哉と奉存候。右木工左衞門、其町御奉行相勤、御同所出火之砌、立腹仕候由、松前年々記に有之樣覺え罷在候。
卯四月七日 佐 藤 隼 治
[やぶちゃん注:標題はブログ・タイトルの通り、ベタ一行で、小五月蠅い読点附きであるが、ブラウザの不具合を考え、本文では改行し、読点も附さなかった。
「寬文二年壬寅九月廿七日」グレゴリオ暦一六六二年十一月七日。
「松前東蝦夷地シコツ下武川の内、キナオシ」不詳だが、支笏湖の東方五十七キロメートルも離れるが、北海道勇払郡むかわ町がある(グーグル・マップ・データ)。漢字は「鵡川」を当てる。同地区を貫流する川も「鵡川」である。「キナオシ」は見当たらない。当字は「木直」か(同名の地区が北海道函館市木直町としてある)。
「和歷代の内」「和人としてここに官人(後に「町奉行」とする)として勤めていた歴代の中で」であろう。恐らくは、今も同名の末裔の人物がおり、現にその観音を蔵しているのであろう。
「松前へ持郡[やぶちゃん注:右に『(マヽ)』注記有り。]于今所持仕候」「郡」は「歸・皈」の判読の誤りであろう。恐らくは「松前へ持ち歸りて、今も所持仕りて候ふ」であろう。
「文政二年」一八一九年。
「松前年々記」慶長元(一五九六)年から寛保元(一七四一)年までの松前藩の年代記。成立は寛保二(一七四二)年頃。
「佐藤隼治」「北海道大学 北方資料データベース」のこちらに、彼宛の二通の通知状(「松前藩士佐藤家文書」)があり、その「佐藤隼治禄高通知 (二百石)」で彼の名前の読みは「さとうはやじ」であることが判明した。通知状が送られたのは文政六 (一八二三) 年とある。
以下、「奇といふべし。」まで、底本では全体が二字下げ。]
解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事のくだりに、これをも倂せ記すべきを忘れたれば、別に出だせり。按ずるに、白石先生の「琉球事略」に載せたりし、「林太夫が事」と、佐藤木工左衞門が事と、よく相似たり。林太夫が溺れしとき、とり携へしは、「梅の枝」にて、感得せしは「天滿宮の木像」なり。又、木工左衞門が溺れしとき、堰留めたるは「柳」にて、感得せしは「金の觀音」なり。「木」は東方・春の色、「梅」は菅家の遺愛たり。「金」は西方・秋の色、又、「楊」は觀音に、因み、いちじるし。これ彼共に奇といふべし。
附けていふ、曩に予があらはしたる「ひやうし考及圖說」にも、『松前にて、イタヤといふ樹、未詳。木蓮をイタヰといへば、これにはあらぬか。』としるしゝは、猶、ひがことなりき。再、按ずるに、「北海隨筆」に云、『楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なり。』といへり【「下」の卷「夷言」の條下に見えたり。】。これにより、イタヤは楓なるよしをしるものから、猶、心もとなければ、いぬる日、松前家の醫師牧村右門、訪ひ來りし折、この一條を擧げて質問せしに、牧村が云、「イタヤは、卽、幷楓の事なり。その葉は、よのつねなる楓より、大きし。その樹、松前に多くあり、蝦夷地には、いよいよ多かり。よりて、松前にて薪にするは、皆、イタヤなり。凡、『ひやうし』を造るもの、材竃(マキ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]木などをもてすれば、『ひやうし』は、必、イタヤに造ると思ふものもあらん。その木に拘ることにはあらず。」と、こともなげに答へらる。よりて思ふに、松前にてイタヤといへるは、「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】のたぐひなるべし。又、「ひやうし」の綱に、よる、といふシナの事をたづねしに、牧村が云、「シナといへるも、木の皮なり。その皮をもて、索(ナハ)にすれば、麻よりは、なかなかに、つよし。松前にてシナを文字に「极」と書くものもあり。當否はしらず侍り。」と、いひにき。この兩條は、「ひやうし考」の圖說の末に、つけ紙して、しるしおかれんことを、ねがふかし【今、按ずるに、「正字通」、『「极」、音「桀」。驢背上木以負物[やぶちゃん注:「驢(ろば)の背の上に木を以つて負はす物」か。]』なり。『「㭕」、卽、「极」。「极」、或作「笈」。』と見えたり。かゝれば、シナに「极」と書くこと、その義に、かなはず。當に「栲」に作るべし。】。又いふ、今玆五月のはじめにやありけん、倉卒に書きつめたる拙者の「帶かけ考」にも、遣漏ありけり。「伊豆國海島風土記」【下の卷。】に八丈島なる男女の風俗をしるして云、『女の帶は幅壱尺なり。長さ、四、五尺に紬を織り、蘇方木を以て、赤く染め、その儘、單にて用ひ、老若ともに是を前にて結ぶ。男は眞を入れ、くけたる帶を結びたるもあり。』と、いへり。
[やぶちゃん注:以下最後まで底本では全体が一字下げ。]
解云、これも亦、「帶かけ」の遺風なるべし。今、佐渡にては、女の帶の、幅廣きをもて結ぶ故に、帶ひらをば、竪にたゝみて、その帶に、はさむなり。又、八丈島なる女は、いにしへの帶かけをやりて、帶にせしより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕の人をまじへず。こゝをもて、古風の存すること、多かり。此他、五島・平戶などの風俗をも訪求せば、かゝるたぐひ、猶、あるべし。抑、予が「帶かけ考」は、「兎園」にのせぬ「別錄」なれども、遺忘に備へん爲にして、且、寫しとられたる一兩君に告げんとて、いふのみ。
文政八年秋七月朔 玄同 瀧澤 解 識
[やぶちゃん注:「解之前會に披講せし巢鴨の町醫大舘微庵が弟松之助が、王子權現の社頭と十條の村あはひにて土中より掘出せし黃金佛なる觀世音の事」「兎園小説」第六集の「土定の行者不ㇾ死 土中出現の觀音」の後半のそれ。
『白石先生の「琉球事略」』新井白石著「琉球國事畧」。正徳元(一七一一)年。琉球の国情を白石が将軍徳川家宣に報告したもの。原本を確認出来ない。
「ひやうし考及圖說」「第一集」の「ひやうし考幷に圖說」。リンク先のそれは「馬琴雑記」版底本であるため、実はこの附記も既に挿入されてある。しかし、微妙に表記等がことなるので、ここでは吉川弘文館随筆大成版とそれとの違いを示すために、零から電子化した。
「北海隨筆」前記リンク先では注しなかった。幕府江戸金座の後藤庄三郎の手代板倉源次郎なるもの紀行文で、調べた書誌データでは、奥書には「右隨筆者元文二年の春松前より蝦夷へ至り翌年の冬江都へ歸り見聞の事ともを記せし也」とある。「国文学研究資料館」の画像データの一写本(貴重書らしい)のここである。本文ではなく、掉尾の語彙集(「夷言」)の中にある。右丁の七行だが、実は馬琴は致命的に誤読していることが判明した! この行を総て起こす。
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桐(タウヘ)【松前にてはイタヤといふ。日本のより、葉、大なり。】・桜(サツフ)・栗(シケ)・木実(イベ)・楓(タフベニ)
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御覧の通り、馬琴は「桐」を「楓」と誤読した上、しかも「楓」のアイヌ語「タフベニ」を「タラベニ」と誤っている。これは諸本の誤りでないとすれば、要訂正注レベルのひどい誤りである。しかし、以下の牧村は確かに「イタヤ」は「幷楓」と言っている。とすれば、この写本の筆者者が誤ったものか? しかし、最後に「楓」をもってきておいて、この頭に同じ「楓」逆立ちしても配さない。牧村は知ったかぶりしたのではないか? と私は勘繰りたくなる。
「松前家の醫師牧村右門」こちらの「松前藩家臣名簿:ま行」の史料文書によるリストで、牧村右門は寛政一〇(一七九八)年の時点で「御近習列」、文化四(一八〇七)年で「医師」、後の嘉永六 (一八五三) 年には「中書院格医師」とある。
「幷楓」「ならびかえで」か。不詳。
「材竃(マキ)木」「竃(かまど)で燃やす材にする木」で「薪(マキ)」か。
『「大和本草」に、その葉を圖したる大楓【オホカヘデ。】』国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここと、ここ(図はこちら)。植物は全電子化する気がないので、ここで訓読しておく(ひらがなの読みは私の推定)。図もトリミング補正して添えた。
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楓(ヲガツラ) 「江陰縣志」曰、『白楊に似て、葉、厚く、枝、弱し。善く搖(ゆら)ぐ。故、字、風に從ふ。霜後、色、赤し。「合璧事類」に、「楓葉、圓(まどか)にして、岐(マタ)、分れ、三角なり。」』。今、案ずるに、「和名」に「楓」を「オガツラ」と訓ず。その葉、まことに白楊(ハコヤナギ)に似て、兩々、相ひ對す。賀茂の祭に用る「カツラ」、是なり。又、筑紫にても「カツラギ」と云ふ。葉、「カヘデ」より大きなり。花は「サヽゲ」の花のごとく、三、四月、開く。形狀は似たれども、からの書にいへるやうに、「オカツラ」は紅葉せず、香、なし。是、眞に楓なりや、未だ詳かならず。「朝鮮には楓あり。香、あり。」と云ふ。「桂」を順が「和名」に「メガツラ」と訓ず。「オガツラ」に對す。楓を「カヘデ」と訓ずるは、あやまれり。「カヘデ」は機樹なり。
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この葉の図によって、「楓」はカエデ(ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer )ではなく、カツラ(ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )であることが判明した。本篇のそれもそうとることで不審の一部が解消出来る。
「シナ」日本特産種のアオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica 。樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く、古くから主に太い綱の材料とされてきた。
「极」誤字。荷車用の馬につけた鞍。荷鞍(にぐら)。シナノキには本邦では「科」「級」「榀」の漢字が当てられ、現代中国では「椴」の字が当てられている。
『當に「栲」に作るべし』誤り。「栲」は「かじのき(梶木)」(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )、又は「こうぞ(楮)」(バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera )の古名である。孰れも和紙の原料としては知られる。
「倉卒」
『拙者の「帶かけ考」』「馬琴雑記」のここから(リンク先は標題の「帶被考」のみ)読める。これは後に電子化予定の「兎園小説別集」のこちらにも載る。
「伊豆國海島風土記」八丈島・八丈小島・青ヶ島・大島・三宅島・新島・式根島・神津島・御蔵島・利島(としま)の風土・歴史・民俗等を記したもので、幕僚の佐藤行信なる人物が天明元 (一七八一)年に、吉川秀道なる者に伊豆諸島を調査させた結果をもとに書き上げたものとされる(以上は「静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介(8)」(PDF)の本書についての記載に拠った)。
「文政八年」一八二五年。]