曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前大福米
[やぶちゃん注:だらだら長いので、段落を成形した。本篇は瀧沢興継の発表であるが、かなり父馬琴の手が加わっていると考えるべきものである。]
○松前大福米
いにしへより仁人・義士・貞婦・孝子の天感によりて、或は米穀、或は錢帛[やぶちゃん注:「せんぱく」。金銭と布帛。]の、不慮にその家に涌出せし事、和漢のためし、少からねど、正しく國史に載せられしは、「書紀」「天智紀」云、三年冬十二月[やぶちゃん注:六六三年十二月から六六四年一月にかけて。同年旧暦十二月一日はユリウス暦で十二月十三日(グレゴリオ暦換算で十二月二十三日)。この月は大の月。]、
『淡海(アマミノ)國言、坂田郡(サカタノコホリ)の人、小竹田身(シノダノム)之(ナガ)猪槽(サカヒ)水中、自然稻生。身(ムナ)、取而收日日到ㇾ富。栗太郡人、磐城村主殷(イハキノスクリオホガ)之新婦(ヨメ)床席(トモムシロノ)頭(カシラノ)端(カタニ)、一宿(ヨ)之間、稻生而穗。新婦出ㇾ庭、兩箇鑰匙自ㇾ天落ㇾ前。婦取百與ㇾ殷(オホカニ[やぶちゃん注:清音ママ。])。殷得二始富一。』
[やぶちゃん注:引用原文に不審があり、読み仮名もかなりおかしい。まず、原文を示す。
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是月、淡海國言、「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。」。「栗太郡人磐城村主殷之新婦牀席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」。
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訓読するが、以上の「兎園小説」の読みには、基本、全く従わないことにした。また、私は記紀を御大層な敬語満載のいかにもな奇体な訓で読むやり方が生理的に嫌いであるので、判り安く読む自然流である。上古文学・国語学的なインキ臭い学術的読みではないので、注意されたい。
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是の月、淡海國(あふみのくに)、言(まう)さく、
「坂田郡(さかたのこほり)の人、小竹田史身(しのだの ふびと む)の猪槽(ゐかひふね)の水中に、忽然(たちまち)に、稻、生(お)ふ。身(む)、取りて收むに、日々に、富み、致れり。」
と。
「栗太郡(くるもとのこほり)の人、磐城村主殷(いはきのすぐり おほ)の新婦(にひよめ)の床席(とこむしろ)の頭端(かしらはし)に、一宿(ひとよ)の間(ま)に、稻、生ひて、穗(ほい)でたり。其の旦(あした)、頴(ほさき)を垂らして、熟(な)れり。明日(あくるひ)の夜、更に一つの穗、生ふ。新婦、庭に出づ。両箇(ふたつ)の鑰匙(かぎ)[やぶちゃん注:音「ヤクシ」。鍵。]、天より前に落ちたり。婦、取りて、殷(おほ)に與ふ。殷、始めて富むことを得たり。」
と。
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「淡海」は近江で、「坂田郡」は琵琶湖東岸で伊吹山の西南(米原市・彦根市及び長浜市の一部)に当たる。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「栗太郡」は琵琶湖南岸東部(草津市・栗東市付近)。猪槽(ゐかひふね)は、恐らくは、飼育している豚のための水や餌を入れる槽のことである。「小竹田史身」不詳。「史(ふびと)」とあるから文書・記録・歴史記載を担当する官吏であろう。「床席の頭端」新妻の寝床の枕上の敷物の隙間であろう。私は以下の「大福米」は胡散臭く、考証する気にならないが(麹菌で増殖したものか。何だか少年の日に舞台上で見たインド魔術団の延々と水差しから水が出て尽きない「インドの水」とか、如何にも怪しさ百二十%のサティヤ・サイ・ババのヴィブーティー(聖灰)を尽きせずに瓶から搔き出すあの阿呆臭いものを感ずるからだが、この「日本書紀」の記載は少し面白い気がする。もし、「猪槽」が豚の飼養のそれで間違いないならば――豚の飼料の残滓や豚の糞が「肥料」となって、稲が恐ろしくよく育った事態――本邦に於ける稲作改良の一場面を記載しているのかも知れないと思ったからである。]
これらは、遠く見ぬ世の事にて、いと疑はしく思ひしに、近ごろ、松前の藩中に、よくこれと似たる事、あり。
その由來を傳へ聞くに、寬永十七年春二月廿二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦四月十三日。]、松前の家臣蠣崎主殿[やぶちゃん注:「とのも」。]友廣の家に、米、數升、涌き出でけり。是よりして、或は一升、或は二升、日々に涌出せずといふことなし。かくて、この年の夏四月下旬に至りて、その事、やうやく、やみしかば、友廣、あやしみ、且、祝して、「大福米」と名づけつゝ、主君公廣[やぶちゃん注:「きんひろ」。第二代松前藩主松前公広。]朝臣に進上して、ことのよしをまうしゝかば、人みな、驚嘆せざるは、なし。主君、すなはち、その米數斗を受けとらして、一箇の甁[やぶちゃん注:「かめ」。]にこれを納め、又、その事を略記せしめて、倉廩[やぶちゃん注:「さうりん(そうりん)」。米などの穀物を蓄えておく蔵(くら)。]中に藏め給ひ、その餘の米は、皆、ことごとく、友廣に取らせ給ひぬ。
[やぶちゃん注:「蠣崎主殿友廣」(慶長三(一五九八)年~明暦四(一六五八)年)は蝦夷地松前藩家老で、藩主松前家の傍系親族の守広系蠣崎家二代。初代松前藩主松前(蠣崎)慶広の嫡男蠣崎舜広の十一男蠣崎守広の子である。別名主殿助(とのものすけ)。]
これより後の世に至り、不慮に[やぶちゃん注:たまたま偶然に。後に出る「ゆくりなく」も同義。]その甁をひらかせて、その米を見給ふに、絕えて、蟲ばみ、朽つること、なく、且、遠からず、ゆくりなき吉事ある事もありけり。
かゝりし程に、當主章廣朝巨【公廣朝臣より八世歟。[やぶちゃん注:松前章広は第九代藩主なので正しい。]】、家督の後、文化四年春三月廿二日、ゆくりなく松前の采地を召しはなされて、奧の伊達郡築川へ移され給ひしとき[やぶちゃん注:幕府は寛政一一(一七九九)年に松前藩領であった東蝦夷地を七年の期限付きで上知していたが、期限が来ても返還されず、文化四(一八〇七)年二月二十二日には残っていた西蝦夷地の没収も決定されてしまい、同年三月十二日には所領を陸奥国伊達郡梁川(やながわ)藩九千石に移されている。現在の福島県伊達市梁川町。]、彼大福米をも簗川へ運送せしめ給ひしに、その米は近きころ迄、もとのまゝにてありけるに、このとき見れば、蟲ばみ、朽ちて、米粉の如くなりしもの、既に、なかばに及びしかば、その朽ちたるを篩(ふる)ひ袪(ステ)て、その、またき[やぶちゃん注:「全き」。]米をのみ、ふたゝび甁に納めさせて、築川におかせ給ひき。
かくて、文政元年[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬十一月廿一日、松前家の勘定新役の者、倉廩中なる米穀を展檢することあるにより、大福米の甁を見て、未だその事をしらず、則、これを主公[やぶちゃん注:後に出る通り、同じく章広。]に訴ふ。主君、
「云々。」
と說き示させて、封をきらせて見給ふに、曩に篩ひわけしより十ケ年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさへ、いたく殖えまして、甁七、八分目になりにたるを、章廣朝臣、見そなはして、且、驚き、且、悅び、次の年の春のはじめに、その米を幾合か、簗川より齎して、老父君道廣朝臣[やぶちゃん注:章広の父で前第八代藩主松前道広。]へ「云々」と告げ給へば、老侯、怡々[やぶちゃん注:「いい」。喜ぶさま。]、斜[やぶちゃん注:「なのめ」。]ならず。
「昔よりして、大福米の甁の封皮を、ゆくりなく披く事あるときは、吉事ありとか傳へ聞きたり。しかるに、吾家、舊領にはなれしとき、この米、過半、減少せしに、今、又、殖えしは、故こそあらめ。賀すべし、賀すべし。」
と、宣ひし。
そのよろこびの餘りにや、このごろ、あわたゞしく、使者をもて、己が父に、その米一包を贈り給はり、
「この米は箇樣に。」
と、その來歷を示させて、件の甁に附けおかれし舊記錄、おちもなく寫しとらして給はりければ、家嚴[やぶちゃん注:自身の父。馬琴のこと。]、しきりに嘆賞して、
「かゝれば、今より、遠からず、大吉事、あらせ給はん。いにしへも、さるためしあり。その事どもは云々。」
と、則、上に錄したる「天智紀」をはじめとして、和漢の故事を抄錄しつゝ、をさをさ、ことほぎまゐらせし。
これよりの後、わづかに三稔[やぶちゃん注:「三年」に同じ。]、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家に、ゆくりなく、こよなき大吉事、あり。
松前の舊領を、元のごとくに返させ給ふ臺命を蒙り給ひて、おなじき五年四月十五日に、志州章廣朝臣父子【是より先に、嫡男千之助殿、任官あり、主計頭になられたり。】、もろともに、歸國の御暇を給はりて、同月廿八日に江戶の邸を發駕あり、既にして、五月下旬に、松前の城に着き給へば、君臣上下、おしなべて、みな、とし來の愁眉を開きて、笑坪に入らずといふもの、なし。
[やぶちゃん注:文政四年十二月七日(一八二一年十二月三十日)、幕府の政策転換により、蝦夷地一円の支配が旧松前藩に戻されて旧地に松前藩が復藩した。]
これに依りて、大福米をも、又、松前へ運送せしめて、舊所の倉に藏めらる。この時にして、事每に、公私となく、大小となく、慶祥、すべて、あまりあり。
かの「大福の米」の名の、むなしからぬも、奇といふべし。
件の甁に附けられたる寬永以來の記錄に云ふ。
[やぶちゃん注:以下の文書は底本では全体が一字下げ。]
大福米一甁
此米、公廣尊公御在世寬永十七庚辰年春二月廿二日、沸二出蠣崎主殿友廣之家一。而後至二五月朔日一友廣奉二獻之一。則彼ㇾ納二御穀藏一者也。
寬永十七年五月吉日封之畢【興繼云、「傳に公廣朝臣は、松前家第七世といふ。いまだその詳なるをしらず。】。此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。
明和四年丁亥十一月[やぶちゃん注:一七六一年十二月から翌年一月。]改而納之
御勘定奉行 靑山園右衞門
因藤 與惣治
小林兵左衞門
御 鍵 取 和田 甚八
川村品右衞門
安永元年巳十月五日より太福米御鍵取
川村 左七
工藤庄左衞門
[やぶちゃん注:「安永元年巳」不審。「安永元年」は壬辰である。安永二年癸巳の孰れかの誤り。「太」はママ。]
此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。
文化十三丙子年六月四日改之。
御勘定奉行 近藤 兎毛
和田 文藏
蠣崎 喜惣治
工藤 左太郞
明石 寅次郞
下 代 鹿能 與七
右大福米、於二簗川御役所一。改之。
大福米
此大福米、寬永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。
文政元戊寅年十一月二十一日改之。
御勘定奉行 和田 文藏
蠣崎 喜惣治
工藤 左太郞
明石 寅次郞
下 代 鹿能 與七
澤田 忠五郞
安保佐左衞門
松村銀左衞門
右大福米、於二簗川御役所一收之。
但、入二御覽一候に付取出之、其後又納置候樣仰に付、御藏へ納置之。
家嚴、既にこの福米の感あり。且、老侯の愛願を蒙り奉るも、はや年ごろになるをもて、文政五年の春たつころ、ことほぎのこゝろをよみて、まゐらせし長歌あれば、ちなみに、こゝにしるす折、
「おこ、な、せそ。」
とて、とめられしを、猶、やみがたくて、ものす、といふ。
[やぶちゃん注:以下、長歌は四段組みで、各段は均等配列。ベタにしようかと思ったが、或いは判じ物の可能性もあるので、一応、似せて示した。]
こたび舊領にかへらせ給ふことほぎのこゝろを
よみてたてまつる長歌
瀧澤 馬琴
みちのくの えみしの國は くさのきぬ まゆつらなりし
なめ人の たけきこゝろに けものなす おのがまにまに
おこなひて 親をおやとし したはねば 君をきみとし
いやまはず 家しもあらで をちこちに あさりすなどり
朝なゆふな ふす矢さつ弓 とりほこり そむきまつるを
みかどより いくさのきみを またしつゝ うたしたまへば
したがひつ あとはみだれて としあまた みつぎをたえて
ともすれば 靑人ぐさを ほふりたる 嘉吉のとしに
わかさなる たけ田のとのゝ しらま弓 はるばるみちを
ふみわきて かゆきかくゆき うちをさめ をしへみちびき
まつりごち しりぞしづめて 常磐なす 松まへの城に
百とせを よつかさねつゝ いそのかみ ふりにし事の
いやたかき 御代にきこえて いやちこに 遠つみおやの
うるはしき いさをもつひに なまよみの かひなきまでに
まがつひの そこなひけらし もゝのふの やな川へとて
月も日も うつればかはる しまつ鳥 うかりける世に
よろこびの 時は來にけり ゆくりなく もとのさかひに
もとのごと かへされ給へば 冬ながら 春かとぞ思ふ
春來れば あづまのさたを ことさへぐ えぞに傳へて
えぞ人の うちもあほぎて たのもしく おもはんのみか
おしなべて しるもしらぬも ひな鶴の 千とせの後も
龜の子の よろづよまでも 松竹の さかゆるまゝに
かぎりなき 北のまもりは 君ならで 誰やはあると
かくばかり ことほぎまつる ことの葉に よむともつきじ
さきくさの さきくありける ことのみにして
反歌
みちのくのえぞの高濱あれぬとも立ちかへる浪の花ぞ目出度
曩に老侯より家嚴に賜はりし大福米は、後の「耽奇」に出だすべし。
文政八年七月期 琴嶺 瀧澤興繼謹誌
[やぶちゃん注:ヨイショの(馬琴が興継の代筆をしたり、松前公にこんなサーヴィスをするのは偏に息子興継の出世のためである。残念なことに、興継は若くして病死してしまうのだが)糞言祝歌に興味はない(アイヌを蛮人として描いているのが、殊更に腹が立つ!)から注もつけたくないのだが、私がどうしても言いたいところと、躓いたところだけは附す。
「まゆつらなりし」「眉連なりし」。
「なめ人」「無禮人(なめひと)」。アイヌに対する差別表現。無礼であったのは他ならぬ我々「和人」であった。
「ふす矢さつ弓」「伏(臥)矢獵弓」。アイヌの民は短弓の射撃に優れた狩人であった。その短刀や弓と矢筒のフォルムは素晴らしい。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ)」のモースの描いた挿絵を見られたい。
「嘉吉のとしに わかさなる たけ田のとのゝ……」ウィキの「蠣崎氏」(先に注した通り、松前氏の先祖は蠣崎姓)によれば、「新羅之記録」(しんらのきろく:歴史資料。別称に「松前国記録」「新羅記」。寛永二〇(一六四三)年、幕命によって編纂された「松前家系図」を初代松前藩主松前慶広の六男景広が、正保三(一六四六)年に、記述を補って作成した系図と史書を兼ねたものを、近江国園城寺(三井寺)境内の新羅神社に奉納したもので、寛永一四(一六三七)年の福山館の火災により焼失した元記録を、記憶によって纏めたものと言われているが、他の一次史料記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている。ここは当該ウィキに拠った)に拠れば、松前氏は若狭武田氏の流れを汲む武田信広を祖とする。若狭武田氏当主信賢の子とされる武田信広が宝徳三(一四五一)年に若狭から下北半島の蠣崎(現在のむつ市川内町(かわうちまち))に移り、その後、北海道に移住し、その地を治める豪族となったとある。嘉吉は一四四一年から一四四四年まで、その後、文安・宝徳を挟んで享徳三年までは、十~七年ほど離れるものの、若狭から蠣崎を経て松前に至るまでの時間としては、腑に落ちなくはない。
「しらま弓」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus の木で作った、白木のままの弓であるが、万葉以来、「弓を張る・引く・射る」ことから、同音の「はる」「ひく」「いる」などに掛かる枕詞である。
「なまよみの」枕詞。「甲斐」にかかる。
「しまつ鳥」「島つ鳥」で「鵜」の古名。転じて「う」の枕詞。]
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