曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 花
[やぶちゃん注:前と同じく「著作堂客篇 京 靑李庵」の発表。前と合わせて、後に発表者「桃窠」についての著作堂馬琴の識語が載る。]
○花
京師の俗に、小兒生れて初の正月、母かたの親里などより、男子に「ふりふりぎてう」を贈る事は、今も、まれまれにあり。女子に花をおくりしは、漸く、たえたるに似たり。浪華あたりにては、「はま弓」てふものを贈るとか聞きしが、其事は、よくもしらず。花といふは、もと、端午のものにて、童の袖にかけたる藥玉の遺裂なるベし。「かざり花」といふべきを、後には、只、「花」とのみ言ひしよしは、「四民往來」・「年中故事要覽」・「枕草紙春曙抄」などに見えたり。享保の印本、「女用花鳥文章」の「さつきまもり」の圖は、かの、紙に貼したる花に、よく似たれば、其比は、さも、言ひしにや。「かざり花」を、年始または「うぶ子」の方へ贈りて祝儀とせしは、めで度もの故、さは、せしなるべし。藥玉を「うぶ子」のかたへおくりしも、よしなきにあらず。「赤染衞門家集」に、『いかの程なる兒に、藥玉をやるとて、「おひたらんおともゆかしきあやめ草ふた葉よりこそたまと見えけれ」。』。是は五月の事ながら、うぶ子に藥玉をおくりし事ありし、といはゞ、いふべし。「ふりくぎてう」の事は、酲齋老人の「骨董集」に、くはしくしるし、餘が考をも、のせつれば、爰には、いはず。
[やぶちゃん注:「ふりふりぎてう」小学館「日本国語大辞典」を引いてみたら、「振振毬杖」の字を当ててあり、「振振(ぶるぶり)」と同じとあった。そちらには、『江戸時代の子どもの玩具の一種。八角形の槌(つち)に似た形で、鶴と龜、尉(じょう)と姥(うば)などを描き、小さな車をつけたもので子どもが引きずって遊ぶ。また、正月、魔よけとして室内に飾ったりした。ぶりぶりぎっちょ。ぶりぶりぎちょう』とあって、図が載る。幸い、ネットの「精選版 日本国語大辞典」に図が載るので、リンクさせておく(言っておくが、私は同辞典を初版本で所持している(元は独身時代の妻のものだが)。「龜」の字が正字なのはママである)。
「はま弓」「破魔弓」。魔障を払い除くという神事用の弓のこと。元来は「はま」とよぶ神占(かみうら)に起源のあるもので、破魔矢とともに正月の年占(としうら))を行う競技具であった。現在でも、神事として残っている所もあるが、遊戯として分布している地域は広い。直径二十センチメートル、厚さ二~三センチメートルの板、竹や蔓草を輪にしたもの、藁を円座のように円く編んだものなどを、空中に投げ上げ、また、地上を転がしたりして、そこを矢で以って射たり、突いたりするので、その成否が卜占(ぼくせん)ともなり、また、遊戯となった場合には、勝負となるのである。男児の初正月に、細長い板に弓矢を飾り付け、その下に押し絵を貼ったものを祝い品として贈り物とする「はまゆみ」や、初詣でに、開運の縁起を祝って、神社から授けられる「はまや」、また新築の際の上棟式に鬼門の方角に向けて棟の上に立てる弓矢も「はまゆみ」「はまや」と呼ぶようになったことは、もともと当て字であった「破魔」の字が、この傾向を助長したものと考えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「藥玉」「くすだま」。
「遺裂」「のこりぎれ」か。案外、「遺例」の誤字・誤植だったりして。
「かざり花」昔、「端午の節供」に邪気を払うために、衣服などに付けた薬玉の後世の名称。後には新生児が最初に迎えた正月の祝い物ともなった。
「四民往來」往来物(平安後期から明治初頭までの永い間、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用教科書の総称)の一つで、「万海宝藏 四民往來」ならば、中村三近子作書画になる京都での板行になる享保一四(一七二九)年初版本である。
「年中故事要覽」蔀遊燕(しとみゆうえん)編集の大坂での板行なら、享保三(一七一八)年があり、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの第一巻(PDF)の24コマ目に「破魔弓(ハマユミ)」と「球杖(キツチヤウ)」が並んで読める。字が綺麗で読み易い。
「枕草紙春曙抄」北村季吟著になる「枕草子」の注釈書「枕草子春曙抄」(まくらのそうししゅんしょしょう)。全十二巻。跋文のクレジットから、延宝二(一六七四)年以後の出版と考えられる。
「享保」一七一六年から一七三六年まで。
「女用花鳥文章」寺田与右衛門(大津屋与右衛門/正晴)作。享保一四(一七二九)年大坂板行の、花鳥風月の趣を綴った四季の文章を集めた女性用の手紙文模範例文集。「デジタルアーカイブ福井」のこちらで全画像が見られるが、『「さつきまもり」の圖』はこれ。左丁の後ろから五行目に「五月(さつき)まもり」と書かれてある。
「おひたらんおともゆかしきあやめ草ふた葉よりこそたまと見えけれ」「日文研」の「和歌データベース」で「赤染衞門集」のデータを確認したところ、419で、
おひたらむ ほとそゆかしき あやめくさ ふたはよりこそ たまとみえけれ
と確認出来た。
「酲齋老人」(ていさいらうじん)は浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の号の一つか、或いは彼の号では「醒齋老人」(せいさい)が知られるので、その誤字か誤植であろう。
「骨董集」京伝の文化一二(一八一五)年の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(板行年不詳)の上編の「下之卷」の「毬杖(ぎつちやう)」に楽しい挿絵とともに、かなり詳しく書かれてある(読み易い)。その途中のここの左丁の後ろから二行目のところに、「〇京なる青李庵主人云。京師の……」とあるのが、まさに、それだ!
以下の識語は底本では全体が一字下げ。]
右客篇二通
桃窠は京師の人、角鹿淸藏といふ。名は比豆流、桃窠は、その號、又、號、靑李庵。家は一條通千本東に入る町にあり。持明院家の書法を學びて、筆學の蒙師たり。その性、好事にして尙古の癖あり。予、二十年來、文通の遠友にして、老實溫順の人なるを、しれり。よりて、この春つかはしゝ狀に、『予は神田に移住のゝち、をりをり、閉居の慮を推しひらきて、月每に五、六名家とまとゐするをたのしみとすなり。そのあそびはしかじかなり。』とて、「耽奇」・「兎園」の事どもを、いさゝか、ほのめかして聞えしらせしに、きのふ、その囘報、東着したり。披き見るに、「あはれ、ちかきわたりならば、さる、かぐはしきむしろの末にも、おして、つらなるべかめるに、東西山河のはるかなるをいかゞはせん。せめてものこゝろやりに、恥ぢかゞやかしき筆すさびを、ふたひら、三ひら、まゐらする。これ、いとはしく思はれずは、さ月の會におしいだして、披露して、たびねかし。さても貴所のわたりには、輪池翁など、聞え給ふ名家のおはしますよしは、年ごろ、耳なれて侍り。かの翁は、持明院家の筆法を傳へさせ給ふとなん。おのれも、かの御門人をけがし奉れば、仰山景慕のこゝちす。」と、ねもごろに、しめしこしたり。その志の、いと淺からぬを、おしつゝみてをらんには、朋友のみちにあらじと、思ふばかりを、よすがにて、かれが稿本の餘紙になも、ことの趣をしるしつけて、愚稿とゝもに、これをしも、披講せんことを、ねがふのみ。
乙酉仲夏朔 江戶 著 作 堂 識
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