小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13ー2) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 二
二
『茂曾七殺害事件』とちがつて、これから述べようとする『鍾馗申介《しようきしんすけ》の事件』には、女性の犯罪性が可なり正しく描かれてゐると思ふ。[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションのここから。幾つかの読みはそれに従った。]
肥後の菊池家の浪人に庶木《しよき》申介[やぶちゃん注:「鍾馗」に掛けた姓。本話では彼の名も犯罪のトリックに関わってくる。]といふものがあつた。文武の道に通達して居たが、若い時から畫を好み、唐宋諸名家の筆意を寫して、自然にその妙要を會得し、中にも黃筌《くわうせん》[やぶちゃん注:五代十国時代の前蜀・後蜀の画家。生年不詳で 九六五年没。]の鍾旭の圖を珍重して、年來《としごろ》模寫すること、數千幅に及び、遂にその皮骨《ひこつ》[やぶちゃん注:「皮肉骨」。諸文芸道に於いて、それぞれの作品等の構造や表現の仕方を、三種に分けて比喩的にいう語。「皮の体(てい)」・「肉(にく)の体」・「骨の体」。]を得たので、人々は彼を鍾旭申介と呼ぶに至つた。ところが、當代の菊池武房は武道一ペんの人で繪畫の賞翫などをしなかつたゝめ、申介は華洛に赴いて繪を以て一家をなさうと、主君に暇を乞つて、女房の年靑(おもこ)、娘の小匙《こさじ》を連れて上洛した。が、申介の畫のかきざまが、あまりに風韻が高いため、却つて賞翫されず、たうとう仕方なしに心あたりの人をたづねて平城《なら》へ來たが、生憎その人も死んで居ないので、根深由八《ねぶかよりはち》といふ客店《はたごや》の二階をかりて親子三人が一時落つくことになつたのである。
ところが、惡い事は續くもので、七歲になる娘の小匙は突然、妙な熱病に罹つた。この子は五六歲の頃から、敎へぬのに畫かくほどの怜悧な性質なので、申介夫婦は一生懸命に看護し、少しばかりの所持金も大かたつかひ果して藥を飮ませたが、少しも治らなかつたので、申介は、かねて、鍾旭の繪が鬼邪を治すといふことうぃきいて居たので、精進潔齋して小匙の衣服の裏に、朱を以て鍾旭を書き、それを着せると、不思議にも奇病は日ならずなほつてしまつた。
娘の病氣は治つても、生活の方法は一かう見つからず、宿錢《やどせん》を拂ふことさへ困難になつて來たので、ある日、夫婦は宿の女房機白(はたしろ)を招いて、何かよい方法はあるまいかと相談した。すると女房は、年靑の容色が美はしいから、いつそ給事でもなさつてはどうだと勸めたが年靑はどうしても氣がすゝまなかつたので、それではといつて、新羅琴を知つて居るのを幸に、琴の師匠を始めることにさせた。で、翌日から、彼女は二階の一室で、宿の女房の借りて來てくれた琴を彈じ、先づ娘小匙に組歌を敎へたが、顏が美しい上に聲も美しいので、聞く人が耳を欹《そばだ》てた。[やぶちゃん注:「新羅琴」(しらぎごと)新羅の音楽の主要楽器として伝来した十二弦の箏(そう)で、長さ約五尺(約一・五メートル)。今日の朝鮮の伽倻琴(かやきん)に相当する。正倉院に奈良時代のものが伝存する。]
ある日宿の主人由八は外からにつこりして歸つて來た。そして女房に言ふには、むかひの客店に逗留して居る、攝津國天王寺の富豪柴米鬼九郞《しこめきくらう》といふ人が、今日自分を招いて言ふには、お前の家で琴を彈いて居る女は一目見てから忘れられず、何とかして手に入れたいと思ふが盡力をしてくれないか、成功の曉は金を山に積んで御禮をするといつて、紬一疋と碎銀《こまがね》一掬《ひとすくひ》を吳れたから、自分は、あの女は人の妻だけれども日數さへ相當に待つてゝくれゝば、計策がないではありませんと答へて來たと告げると、機白は大に喜んで良人に贊成し、それから二人は、その計略について色々談合するのであった。
それから幾日かを經て、由八は申介に向つて、近ごろ興福寺の客殿が修覆されたが、襖や天井に繪をかく適當な人がないから困つて居られる樣子だ、あの寺には私の知つた人がないから手引きも出來ぬが、いつそ直接先方へ當つて見られたらどうでせうと告げた。申介は大に喜んで翌日寺へ行つたが、いひよる術《すべ》がなかつたので、その次の日は辨當持ちて出かけ、食堂《じきだう》へ行つて湯飮所《ゆのみどころ》をのぞくと、無地の屛風が一雙あつたので、法師等のとめるをもきかず、懷から筆を出し、傍の硯の墨をつけて畫うとすると、皆々よつてたかつて引き放したので、詮方なく、左の袖をのばして筆の墨を拭つて懷へ收めた。これを見た殿司《でんす》[やぶちゃん注:仏殿の清掃及び荘厳(しょうごん)・香華・供物などのことを受け持つ役僧。但し、普通は禅宗での呼称である。]の老僧は申介を常人ではないと認め、皆、に話して兎に角屛風にかゝせて見ると、果してみごとな春日野の鹿を畫いた。殿司は愈よ感心して申介の身の上をきゝ、それでは明日までに相談して、天井、襖の繪一切を畫いてもらふやうに取計らはうと言つた。
申介が宿に歸つてこの幸運を物語ると年靑は更なり由八夫婦も別の意味で喜んだ。翌日になつて申介が寺へ出かけようとすると、娘の小匙がついて行き度いと言ひ出したので、まだ平城の名所も見せてないから、序に見せてやらうと思つて興福寺へ行くと、殿司は快く迎へて、相談の結果貴殿に畫いてもらふことになつたから、これからすぐ取りかゝつてくれと言つた。申介は驚いて、まさか今日からとは思はなかつたつて、娘を連れて來ましたといふと、殿司は十歲未滿の女ならば寺に止宿しても差支ない。ことに繪心があるならば、繪具を摺らせなどしではどうだとの事に二人はそのまゝ寺で厄介になることにした。
申介の妻年靑は、その日から良人の歸らぬのを心もとなく思ひ、由八にそのことを話すと、由八はいまに澤山の御金を持つて歸つて來られるから待つて居なさいと慰めたが二三日の後、年靑に向つて言ふには、今日、興福寺へ立寄りましたら、御二人とも恙なく畫くべきものが澤山あるから、この月中は歸れないとのことでしたと告げた。
それから二十日ばかり過ぎても、良人は歸つて來なかつたので年靑は由八に向つて、見て來よがしに謎をかけたが、由八はたゞ冷笑するだけで取り合はぬので、これには何か理由があるかも知れぬと、女房の機白にたづねると、機白は嘆息して、
『いふまいと思ひましたけれど、あまりに御氣の毒ですから御話し致しませう。御主人は寺で畫料を澤山御貰ひになつたゝめ、惡友に誘はれて、きつぢの廓《くるわ》へ足をふみ入れ、何とかといふ遊女と深い仲になられたさうてす。そのため寺から貰つた金もすつかりつかひ果し、娘さんまて人買ひの手に渡されたといふ噂さへ立ちました。私たちも宿錢の貸があるので、内々心配して居たところてす。』[やぶちゃん注:「きつぢの廓」原文ではここの左ページの九行目で、「木衚衕(きつじ)の妓院(くるわ)」とある。「木辻遊廓」で奈良県奈良市の東木辻町(ひがしきつじちょう)・鳴川町・瓦堂町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)一帯に存在した。元々は田園や竹林であったが、慶長・寛永の頃に茶店が二、三軒出来て、遊女を置いたのが始まりで、万治・寛文年間の禁止令で、一度、衰退したが、天和以降、再び栄えたと当該ウィキにある。興福寺の南南西一キロ弱で近いロケーションではあるが、だいたいからして作品内時制の鎌倉時代にはあろうはずはない。]
と、まことしやかに告げるのであつた。これをきいた年靑は、良人に限つて、そんなことをする人ではあるまいと思つても、何となく嫉妬の心も起り、娘の身の上も心配になるので、由八と相談して、あくる日機白と共に興福寺をたづねることにした。
案内役の機白はもとより興福寺へ行かず、年靑の知らぬを幸に元興寺《げんこうじ》へ行つて、鍾旭申介といふ畫師は見えぬかときくと誰も知らぬと答えへたので、機白は、それでは大方、きつぢの廓へ行つて居られるにちがひないといつて、更に二人で廓の方へさがしに行くのであつた。
話變つて申介は、好きな仕事に心奪はれ思はずも二十日ばかりも過《すご》し、もはや大方畫き果てたので、もう一二日過ぎたら久し振りに宿に歸らうと樂しんで居ると、由八の許から使が來て、急用があるから歸つてくれとの事に、小匙を殘して宿へ來ると、由八は右の腕を布で包んで柱にもたれて居がが、年靑も機白も出て來ないのに不審をいだきながら、事の次第をたづねると、由八は仔細があつて妻機白を離別した旨を告げ、それもあなたの奥さんから起つたことだと言つた『……實は奧さんがゆうべ宿を出られたまゝ御歸りになりませんので、興福寺へ御行きになつたかと思つたら、さうでもないので、私の女房が密夫の媒約《なかだち》をしたにちがひないと思つて、奴めを鞭ちましたが、その際右の腕をくぢいて、このとほりの始末です。所詮奧さんの行方がわからぬので、女房を追ひ出して、私も淸白を立てることにして、機白を去りましたが、腕をくぢいたので離緣狀が書けませんですから、私に代つて書いて下さいませんか。』と、言ぴも終らず硯筥《すづりばこ》を引き寄せて賴んだので、申介も、妻はそんな人間でないと思ひ乍ら、由八の言葉をいなみ兼ね、離緣狀を書いて渡し、一先づ、興福寺へ引き返した。
由八は申介が歸るのを見送り乍ら舌を出し、離緣狀を開いて由八の由の一字を申に、八の字を介になほし、宛名を切り取つて、年靑殿と書き、女房たちの歸るのを待つて居ると、二人は廓でも申介を見つけることが出來ず大に落膽して歸つて來た。由八は卽ちかの離緣狀を出して年靑に渡すと、年靑は良人の筆趾を見て、大にうらみ、その場に泣き伏した。
由八夫婦は傍から年靑をいたはると同時に男心の變り易いことを罵り、なほ由八は申介の言ひ置いて行つたことだと言つて、金のなくなつた苦しまぎれに娘を賣つたが、なほそれでも金が出來ぬので、年靑をある人の側室に賣つたから、竹輿《かご》が來たら渡してやつてくれとの事であると告げた。年靑はこれを聞いて、愈よあきれて歎き悲しみ、いつそ殺してくれと泣きわめいたので、由八夫歸が色々なだめすかして居ると、折しも其處へ紫米鬼九郞が一挺の竹輿をつらねて迎ひに來た。年靑が見ると、年の頃四十あまりで色が黑く丈の低い賤しげな男であつたから、まるで鬼にでもとられるやうな心地がしたが、なまじ反抗しては恥の上塗になるから、暫らく心を許させて、又なすべきこともあらうと覺悟を定め、たうとうその竹輿に打乘つたのである。この鬼九郞といふ男は津國荒墓《あれはか》のほとりに住む惡漢で勾引《かどわかし》しや人買《ひとかひ》を業として居たが、ふと年靑の容色を見て、由八を慾で誘ひ、計策を行はせてまんまと手に入れたのである。然し、天は惡漢に與《くみ》せず、平城を出て暗明嶺《くらがりたうげ》にさしかゝると、暗の中から狼が二疋飛び出して、駕籠舁にかみつき、次で他の一疋が鬼九郞をも殺し、年靑だけが、竹輿の中に殘されて生命拾ひすることが出來た。[やぶちゃん注:「荒墓」「あらばか」と読みたかったが、原本に拠った。「荒墓」は大阪市東区元天王寺附近の古い呼称らしい。「暗明嶺」現在の暗峠(くらがりとうげ)で、ここ。]
一方、申介は年靑が密夫と駈落したとばかり思ひ込み、大に悲しんで興福寺へ歸り、母を慕ふ小匙をなだめ、その夜殿司に向つて暇を告げると、殿司は、四天王寺の僧もあなたの畫を見て書いて貰ひたいと言つたから、近いうちにたづねておいでなさいと、紹介狀をくれた。翌日、申介は小匙をつれて寺を辭し、一旦由八の許に身を寄せ、次の日四天王寺をたづねることにした。
由八はその夜、妻に向つて、若し申介が四天王寺へ行つたなら、そのそばの荒墓山に居る年靑に逢ふかもしれない。さうすればこちらの罪がばれるが、どうしたらよからうと相談した。すると女房は、明朝薄ぐらいうちに出立させて、途で殺してしまひなさいと告げた。
かくて由八は申介父娘を暗いうちに出立させ、自分は先𢌞りをして般若坂に待ち受け、首尾よく申介をだまし打にしたが、小匙を殺さうと思ふと、忽ち小匙の背から、一道の赤氣がたちのぼり、身長一丈餘の鍾旭の像が俄然としてあらはれ、小匙をかゝへて逃げる由八を引つかんで大地へどさりと投げつけた。[やぶちゃん注:「近畿地方の坂 (坂プロフィール)」の地図指定の般若坂はここ。]
時に建治元年秋八月二十六日、靑砥藤綱は、大和へ巡歷せんために、きのふ六波羅を發足し棹山《さをやま》に一泊して、朝早く般若坂にさしかゝると、小匙が父の屍に取りついて歎き、傍に由八が氣絕して居たので、從者たちに言ひつけて息を吹きかへさせると、由八は逃げようとしたので引き捕へきぴしく問ひつめると、遂に今迄の惡事を殘らず白狀した。よつて、藤綱は人を走らせて機白を逮捕させ、更に紫米鬼九郞を召捕らせにやると、程なく鬼九郞の死骸と年靑を伴つて歸つて來たので、別に面倒な詮議もいらず、由八と機白を般若坂で死刑に處し、鬼九郞の首と共に斬梟《きりか》けさせ、年靑と小匙は首尾よく對面して、この一件はつひに落着したのである。[やぶちゃん注:「棹山」は「佐保山(さほやま)」のこと。奈良市北部の佐保川の北側にある丘陵で、京都府との境をなす。西部の佐紀 山(さきやま) と合わせて古くは奈良山と呼んだ。この附近。]
さて、この事件に於て、中心となつて居る犯罪は、年靑を鬼九郞に取り持つことである。そしてこの『取り持ち』は性的ではなくて、利慾的である。性的の『取り持ち』はドイツ語で Kuppelei と呼ばれ、中年の女性ことに身體の不具な女性によつて屢ば試みられる所である。本篇に於て、由八の妻機白は、別に醜婦とも不具者とも書かれてはないが、はじめに年靑の美貌を見て、給事を勸めたところなどを見ると、この『取り持ち』には多少性的色彩を認めてもよいであろう。[やぶちゃん注:「Kuppelei」売春斡旋。音写は「クッペライ」。]
女子と男子が共謀して犯罪を行ふとき、男子が發起人であり、女子がその計畫者であることは、實世界に於ても多數の例證があるが、文學にあらはれた最も著しい例はシエークスピアの『マクベス』である。發起人たる男子は計畫を遂行する途中に於て、屢ばその決心がにぶり、動《やや》もすれば、中止しようとするものであるが、かやうな時、女子は、あく迄男の心を鼓舞して、男子を深みへ引きずり込み、計畫を遂げさせるのである。マクベスが國王殺しを幾度か躊躇すると、その都度’マクベス夫人は或は罵り或はすかして、遂に非望を果させたが、本事件に於ても、機白が計畫者であつて、遂に由八にすゝめて申介を殺させるに至つた。
女子が犯罪を計畫する場合、その方法は常に小說的であつて、時には奇を極めることがあり、且つ頗る複雜である。本篇に於ても、讀者は、由八夫歸の計畫、否、主として機白によつて企てられた犯罪の一々の階段が甚だ巧妙で全體として極めて複雜して居ることを知られたであろう。この點に於て馬琴は、前の物語よりも、女性犯罪の描寫に成功したといふことが出來るが、機白や由八の性格がはつきり出て居ないことは前の物語と同樣である。
鬼九郞が狼に嚙み殺されたり、小匙の背より鍾旭があらはれたりするのは、多少不自然な構想といへぱいひ得られるけれど、例の勸善懲惡主義から見れば、讀む人をして痛快がらしめるに十分である。この物語の終りに、作者馬琴は次のやうに書いて居る。
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。原文はここから。]
『玄同陳人[やぶちゃん注:曲亭馬琴の号の一つ。]批して道《いへ》らく、人おのおの嗜慾あり、しかしてその嗜慾同じからず、もしそ の嗜むこと酷《はなはだ》しければ、必ず敗れを取るに至る、庶木申介が如き、絕て惡なし、その嗜む所、中庸ならず、祿を辭し漂泊し、身を殺してはじめて休む、況《まし》て由八、鬼九郞等がごとき、利を嗜みて人を虐げ、遂にその身を戮《りく》せらる。善惡邪正その差あり、輪𢌞應報一定《いちぢやう》ならず、しかれども嗜慾の蔽《やぶ》れ、おのおの亦脫《のが》れがたし、且申介が畫に妙ある、鍾旭を圖して子を救ヘど、わが身を救ふことかなはず、譬《たとへ》ば人一藝ある、妻子を養ふに足るといへども、智を肥すに足らざるが如し、彼《かの》由八等《ら》は虛粍《きよまう》[やぶちゃん注:「ごく潰し」の意か。]の鬼歟、人をたふしておのが家を倒す、庶木は終南憤死の人歟、生涯志《こころざし》を得ずして、名を後に聞ゆ、これを愼めよ、これを愼みて、只ねがはくは道により、さて德により、さて藝に遊ばん。』[やぶちゃん注:「終南憤死」当初、「意味不明。地の涯にて憤死する人」の意かとしたが、何時も情報を下さるT氏より、以下の主旨のメールを頂戴した。――これは、鍾馗をさしています。ウィキの「鍾馗」によれば、鍾馗は道教系の神で、『一説に、唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布して』おり、それには、かの玄宗皇帝が絡んでおり、『ある時』、『玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり』、『床に伏せた』が、『玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう』。『玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間』(六一八年~六二六年)『に官吏になるため』、『科挙を受験したが』、『落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが』、『高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は』、『著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』。事実、『玄宗の時代から』、『臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録がある』とあります。則ち、ここは「庶木=鍾馗」を馬琴一流の言い回しで、念押ししている様です。――いつも乍ら、お読み下さり、御教授、有難く、御礼申し上げる次第である。]
馬琴の物語を作る態度はこの中に十分あらはれて居ると思ふ。『只ねがはくば道により、德により、さて藝に遊ん。』といふ言葉は申介を批評したものであるが、一方から言ヘば、馬琴の藝術觀と見られるでもなく、從つて馬琴は、犯罪を描くに當つても、犯人の罰せらるところに重きを置いたのであるから、馬琴の作物を犯罪學的に論ずるのは或は當を得て居ないかもしれない。とはいへ、馬琴が、可なりに深く人性を硏究して居た人であることは、この『摸稜案』を逍じてもたしかにうかゞふことが出來る。
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