芥川龍之介書簡抄148 / 岩波旧全集「年月未詳」分より 四通
[やぶちゃん注:或いは、新全集では推定年で参入されてあるものもあるかも知れない。]
年不明・執筆地不明・八日・山本喜譽司宛(封筒欠)
謹啓 小生はかゝる文を御手許に差上ることと相成りしを悲しむものに御坐侯 又大兄の御痛恨の程を慰めまつるには我交のあまりに淺かりしを悔ゆるものに御坐候 小生は伊藤兄を隔てゝまた知人たる伊藤氏を隔てゝ大兄の御家事を伺ひ居り候 而してそは却つて小生をして大兄の御不幸に泣かしめ候ひき
然れども小生は玆に芝居めきたる悼詞に僞りの淚を流すを得ず候 只小生の苦き經驗に比べて大兄の御愁嘆を察し奉るに止め置くべく候
小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき
大兄も今はかくてあらるゝならむと思へばよしなき松長等のうかれ人が名を追悼にかりて尊宅を驚かしまゐらせし事のなかなかに憎くらしく思はれ候
完りに一言申上候 そは申す迄もなく今後の御勵精に御坐候 悲しみは一種の砥石に御坐匹 硬き金はこれによりて光をこそ增せ、軟き金は忽ちに磨り耗り申し侯 小生は平塚兄の如きはこの硬き金の一人にはおはさずやとそゞろ男らしき(敢てこの語を用ひ候)人格の程をゆかしみ居るものに候
大兄も亦願くはその一人たられむ事を庶幾ひ[やぶちゃん注:「こひねがひ」。]居り候
さまざまの思雲の如く湧きて筆のみ徒に澁り候 亂筆不書
八日夜 雨聲をきゝつゝ 龍之介
喜 譽 司 兄 玉案下
[やぶちゃん注:府立三中時代からの親友山本の家内の不幸(実母か)に寄せた誠実なものである。「我交のあまりに淺かりし」とあるから、三中在学中(であれば執筆地は本所)か、下限は一高入学後(執筆地の可能性に新宿の実父新原敏三所有の家が加わる)であろう。内容が内容であるだけに、同性愛感情を持っていた山本宛書簡にしては異様にかたぐるしいが、それだけに印象的には早い時期で、前者の可能性の方が高いように私は感じる。この書簡を採り上げた理由は、その親友の不幸への誠実な語りかけに加えて、「小生は十一歲にして母を失ひ侯 今は只母の姿の折々の夢に入るのみにこそさへ、その時には徒に胸ふさがりて淚の我しらず頰に傳ふを覺え候のみに候ひき」「大兄も今はかくてあらるゝならむと思へば」という一節に惹かれるからである。後に実母の死を文壇には隠し続け、晩年の三十四の大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した「點鬼簿」の「一」で、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。」と、かくもクールに、その事実を告白した彼が、実は、やはり作家としてのポーズに過ぎなったことが、判然とするからである。
「松長」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引にも載らない(落としている)。
「平塚兄」複数回既出既注だが、再掲しておくと、三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。後、岡山の第六高等学校に進学したが、結核のために戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。]
年月日不明・執筆地不明・宛名不明(書きかけの絵葉書)
海近き靑海苔干場に野萄のむらさきの花をみつゝもの思ふ旅人を思へ あたゝかく光れる海はキヤベツ畠の上に瓏銀をのべ眞珠の如き空よりは雲雀の聲雨よりもしげくふり來らむとすされど旅人の心はたのしまず 海つきて路は山の峽に入り雨後の春泥滑なる處落椿紅くして藪中鶯の聲をきくこと頻なりされど旅人の心はたのしまず
起伏せる靑麥の畑をうがち菜の花の間を南に下れば其處に眠れる如き港町ありて靑き潮のにほひはものさびたる白壁になげきたはれたる唄はとほき三絃と共にかはたれの霜をさらへり海にのぞめる石垣に桃は白く花さき金も褪せたる寺院の軒にはつばくらのかたらひしげけれど家と云ふ家街と云ふ街には云ふ可らざる安息と怠惰と悲哀との影ありて旅人の心はこゝに一味の平安を見出し得たり
とほき世ゆ何をか人にかたるらむ琅玕洞の水の音はも
名越川ほのかに靑き蘆の芽にうす月さすとさみしきものか
[やぶちゃん注:短歌(底本では三字下げだが、引き上げた)があり、紀行文としてよく掛けているので採用した。絵葉書のある観光地で、山峡から海浜が近く、港町に「海苔ひび」があり、さらにキャベツ畑というのは、まず東京近辺では三浦半島一円が最もしっくりくるが、ロケーションは不詳である。鎌倉(「名越の切通し」が逗子間にある)・小坪・逗子(「田越川」(手越川とも呼んだ)がある)附近を考えたが、その辺りに、春、龍之介が行った事実は、私の知る限りではない。但し、旅好きの若き日の彼が日帰りで行って帰ってくるに、不自然ではない。私は大学時代、春の一日、廃道の旧原「名越の切通し」を藪漕ぎして踏破し、小坪の「ゲジ穴」も抜け、逗子に下って、中目黒に戻った経験がある。
「瓏銀」鮮やかな銀色。明るい銀色。
「琅玕洞」不詳。「琅玕」は宝石の翡翠のこと。私も入ったことがあるイタリア南部のカプリ島にある海食洞「青の洞窟」(Grotta Azzurra)を、アンデルセンの恋愛小説「即興詩人」では、この洞窟が重要な舞台となっているが、森鷗外の翻訳では「琅玕洞」と訳されているが、短歌との相性はよくない。
「名越川」不詳。但し、冒頭注参照。]
四月十四日・田端発信(推定)・北原白秋宛(封筒欠)
冠省
原稿用紙にて御免蒙り候。咋夜はいろいろ御馳走にあひなり、ありがたく存候。どうか奧樣によろしくおつたヘ下され度候。それから今日室生君參り候所、十五日の俳句の會はパイプの會のよし、パイプをハイクと聞きあやまりし女中、おかしくもかなしく存候 頓首
四月十四日 芥川龍之介
北原白秋樣
[やぶちゃん注:犀星と龍之介の出会いは大正七(一九一八)年一月十三日であるから、それ以降となる。本書簡は岩波旧全集所収の唯一の白秋宛書簡なので採用した。]
大正一一(一九二二)年から翌一二(一九二三)年(推定)・田端発信・小杉未醒宛
ただに見てすぎむ巖ホぞ雲林の弟子とならむは轉生ののち
のみ執るはあなむづかしと麥うるしここだも使ふ指物師われは
天マぎらひふるアメリカにわがあらば牛飼ひぬべしジエルシイの牛を
唐くにに生れましかば李義山の家のやつことならんとするらむ
十六日 龍 之 介
放 庵 先 生 侍史
[やぶちゃん注:全文が三字下げであるが、引き上げた。短歌で採用した。推定年は芥川龍之介満三十~三十二歳。
「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。
「麥うるし」「麥漆」小麦粉と生漆(きうるし)を混ぜ合わせた接着剤。陶磁器・木地の割れた部分などを接着させるのに用いる。
「天マぎらひふる」「天霧らひ降る」か。上代語の動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」は「雲や霧などで空一面が曇る」の意。或いは「ふる」は「振る」で、「あまぎらひ」は枕詞的で「天」から「降る」を引き出して、「偉そうに振る舞う」の意かもしれない。「アメリカ」は「あめ」で「天」「雨」の縁語になるし、偉そうにな態度に相応しい。
「ジエルシイの牛」ジェルシーは乳牛のJersey(ジャージー種)の古い読み方。
「李義山」晩唐の官僚政治家で詩人として知られる李商隠(八一二年或いは翌年~八五八年)の字(あざな)。]
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