伽婢子卷之九 下界の仙境
[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング補正(一部で雲形の汚損の激しい部分を恣意的に有意に白く抜いた)して、適切な位置に配した。本文では、「物尽くし」のシークエンスで特異的に「――」を用いた。]
〇下界の仙境
昔、太田道灌、武州江戶の城を築きて、居住せらる。
此地に、水、乏しき事を、苦しみけり。
其比、舟木甚七とて富裕の町人あり。
「掘拔(ほりぬき)の井戶を作らん。」
とて、金掘(かねほり)を雇ひ、人步(にんふ)を入れて掘らするに、凡そ、半町四方[やぶちゃん注:五十四・五五メートル四方。]、深さ百丈[やぶちゃん注:三百三メートル。]ばかりに及べども、水、なし。
金掘、底に坐(ざ)し、休みつゝ、靜かに聞けば、地の中に、犬のほゆる聲、庭鳥《にはとり》のなく音《ね》、かすかに、響きて、聞ゆ。
怪しく思ひて、又、四、五尺、掘りければ、傍らに、切通しの石の門、あり。
門の内に入て見れば、兩方、壁の如く、甚だ、くらくして、見え分かず。
猶、道を、認(とめ)さぐりて、一町ばかり行ければ、俄に、明かになり、切とほしの奧の出口より、空を見上ぐれば、靑天、白日、輝き、下を見おろせば、大なる山の峯に續きたり。
金掘、其の峯におり立《たち》て、四方を見めぐらせば、別(べち)に、天地・日月、明らけき一世界可(《いち》せかい)なり。
其山に續きて、谷に下り、峯に登り、一里ばかりゆきて見れば、石の色は、皆、瑠璃の如く、山間(《やま》あひ)には宮殿樓閣(くうでんろうかく)あり。
玉を飾り、金を鏤(ちりは)め、瑠璃の瓦(かはら)、瑪瑙(めなう)の柱、心も言葉も、及ばれず。
大木、多く生(おひ)ならびて、木の形は竹の如く、色靑くして、節(ふし)あり、葉は芭蕉に似て、紫の花あり、大《おほい》さ、車の輪の如し。
五色の蝶、その翼、大さ、團扇(だんせん)の如くなるが、花に戲れ、又、五色の鳥、その大さ、鴈(かり)[やぶちゃん注:底本は「がん」であるが、私の趣味で元禄本のルビを採った。]の如く、梢に飛び翔けり、その外、もろもろの草木《くさき》、何れも、見なれぬ花、咲き、實(み)のり、岩のはざまより、二道(ふたすぢ)の瀧、ながれ出《いづ》る。
一つの水は、色淸き事、磨(と)ぎ立《たて》たる鏡の如く、一つの水は、色白き事、乳(ち)の如し。
金掘、やうやう、山を下り、麓より、一町ばかりにして、一つの樓門に至る。
上に、
「天桂山宮(てんけいさんきう)」
と云ふ額を懸けたり。
門の兩脇に、番の者、二人あり。
金掘を見て、驚き出たり。
身の長(たけ)、五尺餘り、容(かほ)の美はしき事、玉の如く、唇、赤く、齒、白く、髮は紺靑(こんじやう)の絲の如し。みどりの色なる布衣(ほい)、黑き鳥帽子、着たるが、走り出て、咎めけるは、
「汝、何者なれば、こゝに來れる。」
と。
金掘、ありの儘に語る。
その間に、門の内より、裝束きらびやかに、容(かほ)うつしく、艷(つや)やかなる事、酸漿子(ほゝづき)のやうなる者、二十人ばかり出て、
「けしからず、臭く、穢(けが)らはしき匂いあり。如何なる事ぞ。」
とて、番の者をせむるに、番の者、恐れたる氣色(けしき)にて、
「人間世界の金掘、思ひの外なる事によりて、迷ひ來れり。」
と、いうて、子細を、つぶさに語る。
其時、奧より照り輝くばかり、緋(あか)き裝束に、金(こがね)の冠(かふり)を着たる人、出て、いふやう、
「大仙玉眞君の敕定(ちよくぢやう)には、『其の金掘をつれて遊覽せしめよ』とあり。」
先の廿人の輩(ともがら)、うやまうて、うけ給はり、番の者に仰付たり。
まづ、金掘をつれて、淸き水の瀧に行きて、身を洗はせ、色白き水の瀧に行て、口を嗽(すゝ)がせたるに、其の水、甘き事、蜜の如し。思ふさまに飮みければ、酒に醉(ゑ)ひたるが如くにして、暫くありて、心、すゞやかに覺ゆ。
番の者、引きつれて、山間(あひ)をめぐるに、宮殿樓閣、皆、谷ごとに、立つらなれり。
只、門外より見いれて、内に入《いる》事、かなはず。
斯(か)くて、半日ばかりにして、山の麓に、又、一つの城に至る。
樓門の上には、黃金(わうごん)を以て、
「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」
といふ額を懸けたり。
――水精輪(すゐしやうりん)の所成(しよじやう)[やぶちゃん注:城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。]
――金銀の壁
――玳瑁(たいまい)の垣
――琥珀(こはく)の欄干
――白玉(はくぎよく)の鐺(こじり)[やぶちゃん注:思うに、欄干の上部を保護して飾るそれであろう。]
――𤥭璖(しやこ)の簾(すだれ)[やぶちゃん注:シャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾。]
――眞珠の瓔珞(やうらく)
五色の玉を、庭の「いさご」とし、いろいろの草木、名も知らぬ鳥、まことに、奇麗嚴淨(ごんじやう)なること、いふばかりなし。
され共、門の内には入られず。
『さこそ、内には、善(ぜん)、つくし、美(び)、つくして、言語(ごんご)たえたる[やぶちゃん注:ママ。]事の有らん。』
と思ひ、
「扨。こゝは、何處ぞ。」
と問ふ。
番の者の、いふやう、
「是れ、皆、もろもろの仙人、初めて仙術を得ては、まづ、此所に來りて、七十萬日の間、修行を勤め、其後、天上にのぼり、或は蓬萊宮(ほうらいきう)、或は藐姑射(はこやの)山、或は玉景(ぎよくけい)・崑閬(こんらう)なんどに行て、仙人の職にあづかり、官位を進み、符籙《ふろく》・印咒(いんじゆ)・藥術を究め、飛行自在の通力(つうりき)を悟り侍べる事也。」
といふ。
金掘、問ふやう、
「已に、是れ、仙人の國ならば、人間世界の上にはなくて、下にあるは、如何なる故ぞや。」
番の者、答へけるは、
「こゝは、下界仙人《げかいせんにん》の國也。人間世界の上には、猶、上界仙人の國あり。」
とて。見めぐらせ、
「汝、早く、人間世界に歸れ。」
とて、白き水の瀧につれて來り、又、其の水を飽くまで飮ませ、元の山の頂きに登りて、初めの大門の前にして、奧に奏(さう)し入りければ、玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)を、出されたり。
是を取りて、金掘を打つれ、もとの岩穴の口に出るに、門々、皆、開けたり。
送りける番の者、いふやう、
「汝、こゝに來りては、暫し半日の程と覺ゆるとも、人間《じんかん》にては、數(す)十年を經たり。」
とて、元の穴に入りければ、又、闇(くら)くして、道も見えず、只、風の音のみ聞えて、駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)より出て、大に驚き怪しみ、江戶に歸りて、太田道灌の事を尋ぬれば、
「それは。はや、百年以前也。井を掘らせられし事は、聞傳へたる人もなく、又、其跡も、なし。」
人、改まり、家、立かはりて、本城には、大に榮えたり。
我が家を尋るに、いづくとも知れず、一族の末も聞えず。
つらつら思ふに、長祿元年、江戶の城、始りて、今、弘治二年丙辰《ひのえたつ/ヘイシン》まで、一百年に及べり。
金掘、更に人間《じんかん》を願はず、五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み、足に任せて、修行す。
數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人、行逢(《ゆき》あ)ひたり。
後に、其の住所を、知らず。
[やぶちゃん注:「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)は武蔵守護代で扇谷上杉家家宰。江戸城を築城したことで知られる。彼の事蹟は「三州奇談卷之五 北條の舊地」の私の注を参照されたいが、「享徳の乱」(室町幕府第八代将軍足利義政の時に起こり、二十八年間に亙って関東を中心に断続的に続いた内乱。第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に騒乱が拡大した。現代の歴史研究では、この乱が関東地方に於ける戦国時代の始まりに位置付けられている)に際して、道灌が指揮して康正三(一四五七)年に江戸城を築城し、江戸幕府の公文書「德川實紀」でも、これが江戸城の始めとされている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、築城は前年の更正二年から長禄元(一四五七)年四月八日にかけて行われているとある。最後に金掘りが「長祿元年、江戶の城、始りて」と思うシーンは、齟齬しない。康正三年九月二十八日(ユリウス暦一四五七年十月十六日)に長禄に改元されているからである。従って、この最初のシークエンスは改元以後の九月二十八日から年末までの九十二日間の閉区間設定ということになる。因みに同年の大晦日十二月三十日は既にユリウス暦では一四五八年一月十五日である。
先にラスト・シークエンスの時制を説明しておくと、「弘治二年丙辰」はユリウス暦一五五六年で、室町幕府将軍は足利義輝。前年の弘治元年十月には、毛利元就が陶晴賢を安芸厳島で破っている(「厳島の戦い」。但し、この時点では改元前で、元号は天文二十四年である)。この弘治二年四月には、美濃国の大名斎藤義龍が「長良川の戦い」で父斎藤道三を討ち取っており、翌弘治三年には、信濃国川中島に於いて、かの甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突している(「上野原の戦い」=「第三次川中島の戦い」知られた二人の対面対決は第四次)。九十九年後であるが、数えで数えるから、「一百年」は正しい。
「舟木甚七」不詳。
「掘拔(ほりぬき)の井戶」鑽井 (さんせい) とも呼び、被圧地下水を地表に汲上げるために掘られた深井戸。不透水層の間にある透水層が傾斜していると、地下水は地質構造に従って傾斜の方向に流れ、水圧のために水頭が高く上昇するので、組み上げ機(ポンプ)を使用せずに、有意に水が湧出する井戸のこと。地層が盆地構造を成す場合でよく見られる。
「金掘(かねほり)」山師。広義の鉱山師。
「人步(にんふ)」「人夫」に同じ。
「庭鳥《にはとり》」「鷄」。前掲書の高田氏の注に、『犬の声、鶏』『鳴、石』の『門は、中国のいわゆる「桃源境」の入口の象徴』とされる。
「認(とめ)さぐりて」「新日本古典文学大系」版脚注に、『探し求め』て、とある。
「瑠璃」仏教でインド古代の七宝の一つ。サンスクリット語の「バイドゥールヤ」(或いはその派生語)の漢音写である「毘瑠璃」(びるり)・「吠瑠璃」(べいるり)の略語で、青や青紫色の美しい宝石を指す。実在する金緑石(chrysoberyl:クリソベリル)或いはラピス・ラズリ(lapis lazuli)であるともされる。
「天桂山宮(てんけいさんきう)」「桂」は実際のカツラやゲッケイジュ(月桂樹:ローリエ/フランス語:Laurier)ではなく、中国の伝説に於いて、月世界にあるとされる想像上の神木のことを匂わせていよう。
「布衣(ほい)」本邦では、六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣を指す。
「けしからず」「常識を外れていて」或いは「普通でなく、ひどく」、また、「異様で怪しいまでに」の意で、これは「けし」自体が持っている意味で、それを副詞的に甚だよくない状態を形容するのに用いていると見てもよい。
「大仙玉眞君」前掲の高田氏の注に、『道教風の呼称で仙界の主宰者を暗示する名』とある。後に出る「梯仙皇眞宮(ていせんくわうしんきう)」も如何にもそれらしい。
「水精輪(すゐしやうりん)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『水晶でできた輪。転じて美しい城の意か。また、大地を支える地底の金輪際から姿を現わした、天女の住む水晶の山を「水精輪の山」とも称する(平家物語七・竹生島詣)』とする。私は単なる美称としたのでは、仙界の宮殿の荘厳さが出ないと思うので、実際に城の見た目が壮麗な水晶を素材としているという途方もない意味でダイレクトに採った。
「所成(しよじやう)」高田氏は前掲書の脚注で、『ここでは、宮殿の敷地』とのみされて、「水精輪」に注されていない。しかし、漠然とした敷地では、どうもしょっぱなのガツンとくる映像が浮かばないし、後の細かな「壁」・「垣」・「欄干」・「鐺」・簾・「瓔珞」に加えられる『五色の玉を、庭の「いさご」』(撒き敷いた砂の代わり)『とし』という決定打を読んでしまうと、画像の中にゴタゴタと邪魔なモザイクが挟まってきて、矛盾を感じる。一方、「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏教語。或るものより成る、の意』とある。これは、ごく腑に落ちる。但し、この漢語では、小学館「日本国語大辞典」には出ない。ほぼ同様の意味として「所生」(しよしやう)があり、「日蓮遺文」などを使用例に出す。これを「しじやう」と濁ったとしても違和感は全くない。調べたところ、「WEB版新纂浄土宗大辞典」に「願力所成」(がんりきしょじょう)という語が見出しとしてあり、これは『本願の成就によって正報(しょうぼう)(仏身)と依報(えほう)(浄土)とが実現されたことをいう。法然が』「逆修說法」に『おいて』「かくの如きの依報、皆、彼の佛の願力所成の功德なり」(引用元はここに省略を示す三点リーダがある)「國の中にあらゆる依・正二報は、倂せて法藏菩薩の願力に答へて成就し給へるなり。これはこれ阿彌陀佛の功德と粗意得べきや」』『(昭法全二六二~三)と説かれているのに依る』とあった。この場合、その弥陀の本願の――『実現された』ところのもの――の意が「所成」とすれば、「新日本古典文学大系」の注はしっくりくる。されば、私は本文注で、前の注の太字下線と以上を結合して「城の主要部が美しい水晶を構成素材として出来上がっていること。」と注したのである。
「玳瑁(たいまい)」タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata(玳瑁・瑇瑁。鼈甲細工の原料とされる。因みに「鼈甲」という語については、一説に、寛文八(一六六八)年に幕府が出した、奢侈を禁ずる倹約令で、輸入物の玳瑁の甲羅が禁制となり、しかし、密輸入が行われ、糺された際に、玳瑁のそれではなく、「鼈」(スッポン)の「甲」羅と誤魔化したことに由来するという話もある)。
「瓔珞(やうらく)」(現代仮名遣「ようらく」)仏具の一種で、「纓珞」「纓絡」とも書く。サンスクリット語の「ムクタハーラ」「ハーラ」「ケユーラ」漢音訳。元は古代インドの貴族の装身具として用いられ、特に首や胸を中心として真珠・玉・金属などを紐に通したり、繋いだりして飾ったもの。仏教では仏像、特に菩薩像など荘厳具(しょうごんぐ)として用いられ、また、浄土では、木の上からこれらが垂れ下がっているとされたため、本邦の寺院では、宝華形を繋いで垂下させたそれを本堂の内陣の装飾に用い、これも瓔珞と呼ぶ(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「嚴淨(ごんじやう)」厳(おごそ)かで汚れのない状態であること。また、荘厳(そうごん)で清浄なさま。
「蓬萊宮(ほうらいきう)」「蓬萊山」に同じ。中国で東海の海上の空中に浮かんだ、不老不死の神仙や仙女が住むとされた想像上の島の一つ。
「藐姑射(はこやの)山」本来は、「藐(はるか=「遙」)なる『姑射(こや)の山』」の意であったが、「荘子」の「逍遙遊篇」の用例により、一つの山名のように用いられるようになった。中国で、仙人が住んでいるとされた想像上の山。姑射山(こやさん)。
「玉景(ぎよくけい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道家で天帝の居所』とする。
「崑閬(こんらう)」同前で、『中国の西方に存すると考えられた崑崙山の広々とした』場所の地名で、『仙人が住むとされ』たとある。
「符籙《ふろく》」道教の修行者が身につけていた秘密の文書・咒文・咒言を記した咒符の総称。「符」は、元来は身分を証明する「割り札」を指すが、道教ではそれに呪文を記して霊的な「守り札」とした。「籙」は、本来は天官・冥官・神仙らの名簿であり、それは総て白絹に書かれてあったとする。古くは「隋書」の「經籍志」に「符」・「籙」の重要性が説かれており、天子が即位する度にこれらを授かることを秘儀とした王朝もあった。現在でも「符」や「籙」を身につけていれば、邪気を払って治病の効験があるとされる。
「印咒(いんじゆ)」道家の仙術を施す際の手の印と、口で唱える咒文のこと。
「藥術」「金丹」「金丹術」のこと。金石を砕き、練って調製したものに、咒法によって種々の効果を付与することで完成するとされた仙人になる、則ち、不老不死の薬及びその製法過程を指す。晋の葛洪の「抱朴子」の「金丹篇」、不老長生を得るには金丹を服用することが最も肝要であるとする。金丹の金は、火で焼いても土に埋めても不朽である点が重んじられ、丹の最高のものは「九転の丹」で、略して「九丹」と呼び、焼けば焼くほど、霊妙に変化するとされ、この九丹を服用すると、三日で仙人になれる、とされる。この大薬である金丹をつくる際には、人里離れた名山で斎戒沐浴し、身辺を清潔にしなければならないとされ、丹砂・水銀などを原料にした多くの錬丹法が説かれた。後世では、この金丹を服用する「外丹」法とは別に、「内丹」説も説かれた。その代表的なものが、北宋の張伯端の「悟真眞篇(ごしんへん)で、そこでは、「人間には生来的に丹砂・水銀に代わるものが体内に備わっており、それが『竜虎真陰陽(りゅうこしんいんよう)』という気であって、これを適切に用いることで、体内に『金丹』を作り上げることが出来、そうすれば、危険で高価な『外丹』を用いずに仙人になれる。」と説かれてある。この「内丹」説は南宋の白玉蟾などに継承された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「玉《ぎよく》の簡(ふだ)・金(きん)の印(いん)」「大仙玉眞君」は、金堀りが、地上の人間世界に戻っても、今浦島となることが判っていたから、仙道へのガイドとしての、玉製の守り札としての「簡」=「符籙」及び、真正の地下仙界を訪問した証たる金印(或いは最終的な仙道への通行証ともなるのかも知れない)を与えたと考えるべきであろう。
「駿河(するが)の國、富士の麓の洞(ほら)」知られた「富士の人穴」である。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の本文と私の注を参照されたい。
「人間《じんかん》」どうも「人間界」を言うのに、私は「にんげん」では尻の座りが悪いので、確信犯で「じんかん」と読んでいる。
「五穀を斷ちて、食せず、木の實をくらひ、水を飮み」伯夷・叔斉を想起するも、金掘りは餓えて死んでなんかいない。いや、それどころか、「數年の後《のち》、富士の嶽(だけ)にて、ある人」が、元気に登山し、修行している彼に「行逢(《ゆき》あ)」うたが、それを最後として、「其の住」む「所を、知らず」なのだ。――私は、永遠に、めでたく、この無常な人間世界におさらばして――羽化登仙したのだ――と確信するのである。]
« 小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (14) 犯罪文學と怪異小說 / 江戶時代怪異小說 | トップページ | 最近とても嬉しかったことどもについて »