伽婢子卷之九 人面瘡
[やぶちゃん注:最も左膝膝蓋骨付近に生じた(但し、本文では「腿の上」とする)人面瘡が最もよく視認出来る岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)からトリミング補正した。人面が判るように、大サイズで示した。]
〇人面瘡(じんめんさう)
山城の國小椋(をぐら)といふ所の農人(のうにん)、久しく、心地、惱みけり。
或る時は、惡寒(をかん)・發熱(ほつねつ)して、瘧(おこり)の如く、或る時は、遍身(そうみ)、痛み、疼(ひらゝ)きて、通風(つうふう)[やぶちゃん注:「痛風」。]の如く、さまざま、療治すれ共、しるしなく、半年ばかりの後に、左の股の上に瘡(かさ)出來て、其形、人の貌(かほ)の如く、目・口ありて、鼻・耳は、なし。
是れより餘(よ)の惱みはなくなりて、只、其の瘡の痛む事、いふばかりなし。
まづ、試みに、瘡の口に酒を入るれば、其のまま、瘡のおもて、赤くなれり。
餅(もちひ)・飯(はん)を口に入るれば、人の食ふ如く、口を動かし、呑み、をさむる。
食をあたふれば、其の間(あひだ)は、痛み、とゞまりて、心安く、食(しよく)せさせざれば、又、はなはだ、痛む。
病人、此故に瘦せ勞(つか)れて、しゝむら、いたみ、力、落ちて、骨と皮とになり、死すべき事、近きにあり。
諸方の醫師、聞き傳へ、集まりて、療治を加へ、本道[やぶちゃん注:広義の内科。]・外科、皆、その術を盡くせども、驗(げん)なし。
こゝに、諸國行脚の道人(だうにん)、此所に來りていふやう、
「此瘡、まことに、世に稀れなり。是れを、うれふる人は、必ず、死せずといふ事、なし。され共、一つの手だてを以て、いゆる事、あるべし。」
といふ。
農夫、いふやう、
「此の病《やまひ》だに愈(い)えば、たとひ田地を沽却(こきやく)すとも、何か惜しかるべき。」
とて、すなはち、田地をば賣(うり)しろなし、其の價ひを道人に渡す。
道人、もろもろの藥種を買ひ集め、金(かね)・石(いし)・土(つち)を初めて、草・木に至りて、一種づゝ、瘡の口に入るれば、皆、受けて、是れを呑みにけり。
「貝母(ばいも)」といふものを、さしよせしに、その瘡、すなはち、眉を、しゞめ、口を、ふさぎて、食(くら)はず。
やがて、貝母を粉にして、瘡の口を押し開き、葦(あし)の筒(つゝ)を以つて、吹き入るゝに、一七日《ひとなぬか》の内に、其の瘡、すなはち、痂(ふた)、づくりて、愈《いえ》たり。
世にいふ「人面瘡」とは、此事なり。
[やぶちゃん注:本篇は珍しく時制設定を行っていない。
「人面瘡」妖怪的奇病の一種。体の一部に生じた傷が化膿し、人の顔のようなものが出現し、話をしたり、物を食べたりするとされる架空の病気。江戸の怪奇談や随筆に見られ(私の電子化注では「諸國百物語卷之四 十四 下總の國平六左衞門が親の腫物の事」がある。殺された下女の因果が病根とするものである。また、「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」にも出(十二歳の少年の腹に開口し、人語を話すもの)、私の注で、原拠である「新著聞集」の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」や、「酉陽雜俎」(唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の貝母が特効薬とする原拠らしきものも電子化してあるので見られたい)、三流の近代以降の怪奇小説にもしばしば登場する(私は近代物は概ね濫読したが、谷崎潤一郎の「人面疽」は最も面白くなく、成功しているのは手塚治虫先生の「ブラックジャック」の「人面瘡」ぐらいなものである)。そんな中でも、医師が治療したとする驚くべき詳細な信頼出来る事例記載として、江戸後期の儒者で漢詩人としても知られる菅茶山(かん さざん 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年):諱は晋帥(ときのり)。備後国安那郡川北村(現在の広島県福山市神辺町)の農家の生まれ。当該ウィキによれば、彼が『生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した』。『故郷に帰り』天明元(一七八一)年頃、郷里神辺に『私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした』。『塾は』寛政八(一七九六)年には『福山藩の郷学として認可され』、『廉塾と名が改められた。茶山は』享和元(一八〇一)年から『福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという』詩集「黄葉夕陽村舎詩」が残る。『廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など』の著名人もいる)が晩年に書いた随筆「筆のすさび」の巻之四の「人面瘡の話」に以下のようにある(ともかく臨床例記載として頗る興味深いものである!)ので、挙げておくことにする(「日本古典籍ビューア」のこちらにある原本の当該話を視認して起こした。挿絵は当該画像をトリミング補正した)。頭の「一」は原本では上に飛び抜けているが、代わりに下を一字分空けた。
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一 人面瘡の話 仙臺の人、怪病の圖、並に記事、左に載す【本文、漢語を以てすといへども、今、兒童の見やすからんために和解す。覽者、これを察せよ。】
王父月池先生[やぶちゃん注:蘭学者で幕府奥医師でもあった桂川甫賢(かつらがわほけん 寛政九(一七九七)年~天保一五(一八四四)年)の号。医家桂川家六代目で甫周の孫。名は国寧(くにやす)。オランダ名 Johannes Botanicus。大槻玄沢らに学び、オランダ語に堪能でシーボルトらとも交友があった。絵も上手く、「和漢蘭三州必真像自画小幅」がある。主著「酷烈竦弁」。]嘗て余に語(かたり)て曰、「祖考華君[やぶちゃん注:甫賢の五代前の桂川国華(甫筑)。]の曰く、城東材木町に一商あり、年二十五、六、膝下に一腫を生ず、逐(ひをおふて)漸(やうやく)にして、大に、瘡(かさ)、口、泛(ひろ)く開き、膿口(うみくち)三両處、其の位置、略(ほゞ)、人面に像(かたど)る。瘡口(きづくち)、時ありて、澁痛(いまみ)し、滿(みつ)るに、紫糖(したう)[やぶちゃん注:紫蘇糖(しそとう)か。青紫蘇の精油主成分を原料とした甘味料。近代に精製された製品は蔗糖の約二千倍の甘味がある。]を以てすれば、其痛み、暫く退(しりぞ)く。少選(しばらく)あつて、再び痛むこと、初のごとし。夫、「人面(にんめん)の瘡(さう)」は、固(もと)より妄誕に渉る。然るに、かくのごときの症(せう)、「人面瘡」と做(な)すも、亦、可ならん乎。蓋(けだし)、瘍科(やうか)諸編を歴諬(れきけい)するに、瘡名、極めて、繁(しげ)し。究竟(くつきやう)するに、其の症、一因に係(かゝり)て發する所の部分及び瘡の形状(かたち)を以て、其名を別(わか)つに過ぎざるのみ。「人面瘡」のごときも、亦、是なり。今、茲(こゝ)に己卯[やぶちゃん注:これがずっと国華甫筑の台詞であるなら、彼の存命期から推定して宝暦九(一七五九)年である。もし、話者国寧賢の謂いなら、文政二(一八一九)年となる。どこまでが引用なのか判らないのを恨みとする。]中元[やぶちゃん注:陰暦七月十五日。]仙臺の一商客、門人に介(なかだち)して曰、「或人、遠くより來て、治を請く。年三十五を加ふ。始、十四歳のときにありて、左の脛(はぎ)上に腫(はれ)を生ず、潰(つぶれ)て後、膿をながして、不竭(つきず)、終に朽骨(きうこつ)二、三枚を出す。四年を經て、瘡口、漸く収る。只、全腫(ぜんしゆ)不消(しやうせず)、步(ほ)、頗る難(かた)し。故に、温泉に浴し、或は、委中(いちゆう)[やぶちゃん注:膝の後ろの中央にある経絡のツボの名。]の絡を刺(さし)、血を泻(なが)す、咸(みな)、應、せず。醫者を轉換するも、亦、数人、荏苒(じんぜん)として[やぶちゃん注:治療が滞って、そのままで、病態が好転する兆しがないということ。]、幾歲月、其腫(はれ)、却(かへつ)て、自ら増し、膝を圍み、腿(もゝ)を襲せ[やぶちゃん注:読み不詳。「覆(おほ)ふ」の意味ならある。]、然[やぶちゃん注:「しかして」か。]、再び、膿管(のうかん)、數處(すうしよ)を生じ、彼(かれ)[やぶちゃん注:指示語。それが、]、収まれば、此(こゝ)に發(はつし)、前に比するに、甚(はなはだ)同じからず。只。絶えて疼苦(いたみ)なく、今年に至て、瘡口(きつくち)、一處に止(とま)る。即、先に骨を出すの孔旁(こうぼう)なり。瘡口(さうこう)、脹起哆開(ちやうきたかい)し、あたかも口を開くの状(かたち)のごとし。周圍(めぐり)、淡紅(うすあか)く、唇のごとく、微(すこ)しく其口に觸(ふる)れば、則、血を噴(ほとはし)る。亦、疼痛、なし。口上に、二凹(くぼ)あり、瘡痕(かさのあと)相對し、凹内(くぼきうち)に、各(おのおの)、皺(しはん)紋あり、あたかも目を閉ぢ、笑ひを含むの状(かたち)のごとし。眼の下に、二の小孔あり、鼻の穴の、下に向ふが如し。兩旁に、又、各、痕(あと)あり、痕の辺に、各、堆起(つゐき)し、耳朶(みゝたぶ)のごとく、其面(をもて)、楕圓(だゑん)、根(ね)、膝蓋(ひざふた)に基(もとゐ)して、頭顱(づろ/カシラ[やぶちゃん注:右/左の読み。以下同じ。]の状をなす。且、患(うれ)ふる處、惻々として、動(うごき)あり、呼吸のごとし。衣を掲(かゝげ)て、一たび、見れば、則、言を欲する者に似たり。復(また)、約略(おほやう)、人面を具するにあらず。強ひて、人面をもつてこれを名づくるの類なり。而(しかして)、脛(はぎ)の内、㢛(けん/ハヾキ)[やぶちゃん注:所持する吉川弘文館随筆大成版では『廉』と翻字するが、採らない。この漢字の意味は判らないが、読みの「はばき」は脛(すね)の意と思うし、以下の文字列からも腑に落ちる。]・腿(たい/モヽ)・股(こ/マタ)に連(つらな)り、腫(はれ)、大にして、斗(と)のごとく、靑筋、縦橫(ちゆうわう)遮絡(さらく)[やぶちゃん注:塞ぎ繋がること。]、これを按ずるに、緊(きん)ならず、寛(くわん)ならず、其の脈(みやく)、数(さゝ)にして、力あり、飮食、減ぜず、二便、自可[やぶちゃん注:「おのづからかなり」と訓じておく。]。斯(この)症、固(もと)より、これを「多骨疽(たこつそ)」[やぶちゃん注:私が幼少時に罹患したカリエス。結核性骨髄炎。]に得たり。「多骨疽」の症、多くは遺毒(いどく)[やぶちゃん注:先天性梅毒。]に出づ。而(して)其(その)瘡勢(さうぜい)、斯のごとくに至るものあり。只、口内、汚腐(をふ)、充塡(ぢゆうてん)、縁なく、餌糖(したう)、即(すなはち)、貝母(ばひも)も、眉(まゆ)をあつめ、口をひらくの功を奏すること、あたはず。文政己卯(きぼう)[やぶちゃん注:文政二(一八一九)年。]中元、桂川甫賢國寧(かつらがはほけんこくねい)、記(きす)。
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「山城の國小椋(をぐら)」豊臣秀吉による伏見城築城に伴う築堤事業から昭和初期の完全な農地干拓によって完全に消滅した「巨椋池」の東南岸であった農村「小倉村」。現在の京都府宇治市小倉町の東南部相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。宇治川左岸の川岸内側の緑色の整然とした農地部分が、ほぼ旧巨椋池である。「今昔マップ」のこちらで近代初期の巨椋池が確認出来る。現代までで「池」と名づけたものとしては、日本では最大のものであった。
「瘧(おこり)」長期に間歇的に発熱・振戦を伴う病気。熱性マラリア。
「貝母(ばいも)」中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要である(ここはウィキの「アミガサユリ」に拠った)。]