フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前大福米 | トップページ | 只野真葛 むかしばなし (36) »

2021/09/29

只野真葛 むかしばなし (35)

 

 父樣、俗にならせられしは、相模樣御家中、梶原平兵衞といふ俗のはやり醫有しを、○徹山樣御若ざかり御ぼしめし付にて、梶原工藤と兩家に俗醫をこしらへ、工藤をはやりにかたせる思召にて有しとぞ。是が御運のかたむきそめなりし。あのかたは元より俗躰なれば、はやりに、かはること、なし。こなたは髮のなき人のたてたること故、人才によりて、おもき御用にても被仰付ため、醫を御やめ被ㇾ成しこゝ、もはら、世の人、おもひて、病用たのむを遠慮したる故、新病家、いひ入ること、とゞまりし故、暇にならせられしも、〆《しめ》がのろひのきゝたるならん。

[やぶちゃん注:以上はウィキの「工藤平助」に、安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩第七代藩主伊達重村(当時数え三十五歲で藩主就任後二十年目であった。戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」である)により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになる、とあるのを指すものと思われる。

「相模樣御家中、梶原平兵衞」不詳。主家は旗本池田家か。]

 とかくするうち、御やしきにては、一年ましに御不如意とならせらるゝ上、御國は不作續、大きゝん、ほどなく、火難に逢、丸やけにて、次第にかげうすく成やうにならせられし。袋小路のあばらやにて、長庵に御わかれ、御力、おとし、築地川むかへへ、地面、御かり、堀本樣の隣なりし。普請とりかゝりしも、立てばなしにて、埒《らち》あかず、どちらむきても、ふさぐことばかり有し。

[やぶちゃん注:平助の長男で真葛より二歳年下であった長庵元保は天明六(一七八六)年に二十二の若さで夭折した。]

 築地にて、類燒の時分までは、田沼世界故、人もうわきにて金𢌞りよかりし故、進物の金ばかりも、二百兩ばかりは、よりしなり。鍋島樣の家老松枝善右衞門といひし人より、五十兩、進物なりし。二十三十ヅヽ、權門、つき合被ㇾ成しかたより、御もらひ被ㇾ成しなり。

[やぶちゃん注:「鍋島樣の家老松枝善右衞門」鍋島藩支藩蓮池藩家老に松枝善右衛門を見出せる。]

 醫學館へ珍らしき大部の書、御納被ㇾ成しに、ほどなく火事にて有し間、其挨拶に、疊おもて百枚、來りし、となり。是等は、

「誠によき事被ㇾ成し。」

と御悅にて有し。父樣、おぼしめしにも、

「火事の節、持(もち)のきがたし。やけては、寶をうしなふ。」

とて、納められしとのことなり。此時、かなりに賣据《うりすゑ》[やぶちゃん注:家屋を造作付きで売ること。居抜き。]にて、もとゝの[やぶちゃん注:「元殿」であろう。旧邸宅。]へ、うつらせられなば、後の難、うすかるべきに、日々の食味におごり、又、河津重兵衞がために、金は、消はてしなり。

 此人の事は、火事の少し前に、ふと御懇意になりしが、いかなる人か、心の奧も、所行もしらず、水の出花の懇意ぶり、うまくばかり、かたる人、

「火事の時などは、壱人にて、大はたらき、やけだされの翌朝、仕かたなくて有し時、大鍋に『あんかう汁』と飯を送りしが、此御恩ばかりも、わすれがたし。」

といふ、はなしなりし。いづかたにやわすれしが、よき町の名主にて若き壱人もの【淺草の方の名主とみへたり。つれてきた小僧百助の、「油をかいに行」といへば、「家にかへる心にて、うれしかりし。」、ということ有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。やたらにつかひちらして、あと、つまらず、千兩にてうりかへのなる株故、それを七百兩ばかり【此金高、おぼへず。おし當なり。[やぶちゃん注:推定に過ぎないの意。]】[やぶちゃん注:『原傍註』とある。]にもうりしや、其金、七十兩、

「築地の普請金に。」

とて、かして、大工の手付やりし、となり。此仕うちにはまりしが、あさはかのことなり。大工へのかけ合、壱人にて取切てせしが、後には、皆、渡した顏ばかりして、引込、つかいつぶしに成しなり。それに家内の夜具、壱ツづゝにても、六、七人まへ、是も、かろからぬもの。下女どもへも、小袖にても、おかれねば、もめん布子と帶一筋とても、六、七人まへ、何事も手びろきだけに、人數もおほく、時の間に、二百兩、御つかひつぶしになり、普請はあとへも先へもいかず、淚ながらにたてたまゝにて、すてうりに拂、とかくするうち、白川樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世と變じて、金𢌞り、あしくなり、せんかたなき折ふし、濱町に木村養春といふ公儀衆、二百俵の醫師有しが、壱人者にて、娘子壱人有しが、

「家、ひろ過て、こまる。」

よし、

「御出被ㇾ下。」

といふこと、いでたり。

「わたりに舟。」

と、うれしくて、濱町へ御引こしなり。それより養春樣は、こなたの食をふるまひて、家に同居、娘は親類うちへ預けて有し。わびわびながらも、所のよければ、心やすく、たのしみはなりし。

[やぶちゃん注:「醫學館」江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。明和二(一七六五)年に幕府奥医師の多紀元孝(安元)が開設した私塾躋寿館(せいじゅかん)が起源であるが、多紀氏の私財だけでは四年しか維持出来ず、中断されていた。松平定信が筆頭老中となった際、医官の多数が、遊惰で無能なものが多いという理由から、躋寿館を改め、官学にする方針が定められた。寛政四(一七九一)年正月二十三日から、幕府直轄の医官養成校となり、医学館と改称している。文化三(一八〇六)年、大火で焼け落ちたが、浅草向柳原に移転・再建されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「河津重兵衞」不詳。所謂、悪知恵の働く仕事師であろう。

「木村養春」不詳。ただ、元禄七(一六九四)年の史料に(サイト「香取研究室」の「江戸幕府医療制度研究室」に、公に認定された市医として木村養運の名を見出せるので、この後裔であろうか。

「濱町」現在の中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川河口近くの右岸。]

« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前大福米 | トップページ | 只野真葛 むかしばなし (36) »