只野真葛 むかしばなし (35)
父樣、俗にならせられしは、相模樣御家中、梶原平兵衞といふ俗のはやり醫有しを、○徹山樣御若ざかり御ぼしめし付にて、梶原工藤と兩家に俗醫をこしらへ、工藤をはやりにかたせる思召にて有しとぞ。是が御運のかたむきそめなりし。あのかたは元より俗躰なれば、はやりに、かはること、なし。こなたは髮のなき人のたてたること故、人才によりて、おもき御用にても被二仰付一ため、醫を御やめ被ㇾ成しこゝ、もはら、世の人、おもひて、病用たのむを遠慮したる故、新病家、いひ入ること、とゞまりし故、暇にならせられしも、〆《しめ》がのろひのきゝたるならん。
[やぶちゃん注:以上はウィキの「工藤平助」に、安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩第七代藩主伊達重村(当時数え三十五歲で藩主就任後二十年目であった。戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」である)により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになる、とあるのを指すものと思われる。
「相模樣御家中、梶原平兵衞」不詳。主家は旗本池田家か。]
とかくするうち、御やしきにては、一年ましに御不如意とならせらるゝ上、御國は不作續、大きゝん、ほどなく、火難に逢、丸やけにて、次第にかげうすく成やうにならせられし。袋小路のあばらやにて、長庵に御わかれ、御力、おとし、築地川むかへへ、地面、御かり、堀本樣の隣なりし。普請とりかゝりしも、立てばなしにて、埒《らち》あかず、どちらむきても、ふさぐことばかり有し。
[やぶちゃん注:平助の長男で真葛より二歳年下であった長庵元保は天明六(一七八六)年に二十二の若さで夭折した。]
築地にて、類燒の時分までは、田沼世界故、人もうわきにて金𢌞りよかりし故、進物の金ばかりも、二百兩ばかりは、よりしなり。鍋島樣の家老松枝善右衞門といひし人より、五十兩、進物なりし。二十三十ヅヽ、權門、つき合被ㇾ成しかたより、御もらひ被ㇾ成しなり。
[やぶちゃん注:「鍋島樣の家老松枝善右衞門」鍋島藩支藩蓮池藩家老に松枝善右衛門を見出せる。]
醫學館へ珍らしき大部の書、御納被ㇾ成しに、ほどなく火事にて有し間、其挨拶に、疊おもて百枚、來りし、となり。是等は、
「誠によき事被ㇾ成し。」
と御悅にて有し。父樣、おぼしめしにも、
「火事の節、持(もち)のきがたし。やけては、寶をうしなふ。」
とて、納められしとのことなり。此時、かなりに賣据《うりすゑ》[やぶちゃん注:家屋を造作付きで売ること。居抜き。]にて、もとゝの[やぶちゃん注:「元殿」であろう。旧邸宅。]へ、うつらせられなば、後の難、うすかるべきに、日々の食味におごり、又、河津重兵衞がために、金は、消はてしなり。
此人の事は、火事の少し前に、ふと御懇意になりしが、いかなる人か、心の奧も、所行もしらず、水の出花の懇意ぶり、うまくばかり、かたる人、
「火事の時などは、壱人にて、大はたらき、やけだされの翌朝、仕かたなくて有し時、大鍋に『あんかう汁』と飯を送りしが、此御恩ばかりも、わすれがたし。」
といふ、はなしなりし。いづかたにやわすれしが、よき町の名主にて若き壱人もの【淺草の方の名主とみへたり。つれてきた小僧百助の、「油をかいに行」といへば、「家にかへる心にて、うれしかりし。」、ということ有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。やたらにつかひちらして、あと、つまらず、千兩にてうりかへのなる株故、それを七百兩ばかり【此金高、おぼへず。おし當なり。[やぶちゃん注:推定に過ぎないの意。]】[やぶちゃん注:『原傍註』とある。]にもうりしや、其金、七十兩、
「築地の普請金に。」
とて、かして、大工の手付やりし、となり。此仕うちにはまりしが、あさはかのことなり。大工へのかけ合、壱人にて取切てせしが、後には、皆、渡した顏ばかりして、引込、つかいつぶしに成しなり。それに家内の夜具、壱ツづゝにても、六、七人まへ、是も、かろからぬもの。下女どもへも、小袖にても、おかれねば、もめん布子と帶一筋とても、六、七人まへ、何事も手びろきだけに、人數もおほく、時の間に、二百兩、御つかひつぶしになり、普請はあとへも先へもいかず、淚ながらにたてたまゝにて、すてうりに拂、とかくするうち、白川樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世と變じて、金𢌞り、あしくなり、せんかたなき折ふし、濱町に木村養春といふ公儀衆、二百俵の醫師有しが、壱人者にて、娘子壱人有しが、
「家、ひろ過て、こまる。」
よし、
「御出被ㇾ下。」
といふこと、いでたり。
「わたりに舟。」
と、うれしくて、濱町へ御引こしなり。それより養春樣は、こなたの食をふるまひて、家に同居、娘は親類うちへ預けて有し。わびわびながらも、所のよければ、心やすく、たのしみはなりし。
[やぶちゃん注:「醫學館」江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。明和二(一七六五)年に幕府奥医師の多紀元孝(安元)が開設した私塾躋寿館(せいじゅかん)が起源であるが、多紀氏の私財だけでは四年しか維持出来ず、中断されていた。松平定信が筆頭老中となった際、医官の多数が、遊惰で無能なものが多いという理由から、躋寿館を改め、官学にする方針が定められた。寛政四(一七九一)年正月二十三日から、幕府直轄の医官養成校となり、医学館と改称している。文化三(一八〇六)年、大火で焼け落ちたが、浅草向柳原に移転・再建されている(以上は当該ウィキに拠った)。
「河津重兵衞」不詳。所謂、悪知恵の働く仕事師であろう。
「木村養春」不詳。ただ、元禄七(一六九四)年の史料に(サイト「香取研究室」の「江戸幕府医療制度研究室」に、公に認定された市医として木村養運の名を見出せるので、この後裔であろうか。
「濱町」現在の中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川河口近くの右岸。]