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2021/09/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木

 

   ○兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木

[やぶちゃん注:発表者は著作堂馬琴。これは前段に続いて、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記第三輯上編」のここから載るので、それを底本とした。一部の読みは送り仮名で出した。例の通り、だらだらと長いので、段落を成形した。

 

 右の風(かぜ)の物語にて、思ひ出せしことあるを、更に又、こゝに書きつく。

 文化十三年丙子の秋、閏八月四日[やぶちゃん注:一八一六年九月二十六日。]の大風雨は、予が日記中にしるし置きたり。

 その前日より、雨、ふりつ。天明(よあ)けて、雨は歇(や)みたりしに、又、巳のころ[やぶちゃん注:午前十時前後。]より、大風雨にて、樹(き)を拔き、屋(や)を破りつゝ、申の比[やぶちゃん注:午後四時前後。]に、雨、霽(は)れて、その夜(よ)、子の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午前零時前後。]に、やうやくに凪(なぎ)てけり。この時、本所・深川は、水出でゝ、床(とこ)の上、一、二尺に及びし、といふ。しかるに、その風は、南よりして、特(こと)に潮氣(しほけ)を含みたり。さればにや、南を受けたる草木(さうもく)は、すべて、その葉を吹き凋(しぼ)まされて、枯れ果つるに至るも、ありけり。

 この年の冬十月[やぶちゃん注:前の通り、閏八月があったため、グレゴリオ暦ではこの年の旧暦十月(小の月)は一八一六年十一月十九日から十一月三十日に当たる。]、予は、榎(ゑ)の島[やぶちゃん注:ママ。]・鎌倉に遊びしに、海邊(うみべ)の松(まつ)每(こと)に、凋落(ちやうらく)せぬは、なかりけり。かゝれば、南表なる漁村[やぶちゃん注:当時の漁村となると、鎌倉ならば「由比ヶ濱」の東の「材木座」、同西の「坂之下」、「江の島」ならば「腰越」であろう。]は、彌(いや)烈しかりけん、風に潮をまぜて吹きしは、こも、めづらしき事になん。

 是よりも、猶ほ、竒(く)しき事あり。この大風烈前(たいふうれつぜん)二ケ月、七月十日[やぶちゃん注:一八一六年八月三日。]の事なりき。侍醫山本宗英法眼(ほふげん)、其の通家(つうか)官醫野間氏の本所なる宿所に赴きての、かへるさに、夜は、はや亥中(ゐなか)[やぶちゃん注:午後十時。]とおぼしき比、兩國橋を渡(わた)す程に、河上(かはか)みに、一團の火焰(くわゑん)、あり。吾妻橋のかたよりして、大橋の方(かた)に邁(ゆ)きけり。おもはず、これを仰ぎ望(み)つるに、その光の、靑く引きたる、青衣(せいい)の官人、騎馬にして、前うしろに從ひつゝ、火焰を守護するものに、似たり。その容(かたち)は、おぼろげなれども、すべては衣冠束帶の如くにぞ、見えてける。橋の上を相い距(さ)ること、凡、一丈ばかりにして、徐々(しづしづ)と、ねりゆくを、立ちとゞまりて、猶、見る程に、漸々(ぜんぜん)に滅(き)えうせし、とぞ。予は、次の月の下旬まで、さる事ありともしらざりしに、風聞、他所(たしよ)より聞えしかば、八月廿四日に、興繼(おきつぐ)[やぶちゃん注:馬琴の息子で松前藩医員。]を遣はして、法眼に問はせしに、

「聊(いさゝ)かも、たがひ、あらず。見し趣は云々(しかじか)なり。」

とて、詳かに語(ご)せられけり。扨も、件(くだん)の法眼は、予と、三十餘年ばかり、交遊の義を辱(かたじけ)なうせられたる、少年よりの友にして、齡(よはひ)は五つの弟[やぶちゃん注:「おとと」と訓じておく。]にておはせし。よりて、そのこゝろざまも、大かたならず、しりたるに、絶えて浮きたる性(さが)ならねば、『實說なりき』と思ひしのみ。何の故とは曉(さと)らざりしに、後(のち)の葉月[やぶちゃん注:長月の誤りであろう。]の四日に至りて、

『法眼の「見き」といはれし兩國河の怪物は、かゝる烈風・洪水の、ありぬべき前象(せんしやう)なりき。』

と、初めて、思ひあはしけり。かゝれば、橘南豁(たちばななんけい)が、「東遊記」に載せたりし「名立崩(なだちくづ)れ」の前月に、「神佛(しんぶつ)の空中を飛び去り給ひし」などいふ事も、一槪には誣(し)ひがたかり。これより、僅か、三とせにして、文政元年五月下旬に、彼の法眼は、身まかり給ひぬ。享年四十八歳なりき。いと、をしかりける齡(よはひ)にこそ【文政庚未[やぶちゃん注:文政六(一八二三)年。]八月十七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦九月二十日。]の夜の大風雨のときは、その大きさ、醬油樽ばかりなる陰火の飛行せしを、まさしく見たる人あり。非常の暴風雨のときには、かならず、そのしるし、あることなるべし。】。

[やぶちゃん注:「橘南豁」ママ。「谿」が正しい。「東遊記」とともに前段で既出既注。

「名立崩(なだちくづ)れ」前段に示した国立国会図書館デジタルコレクションで巻之二の「名立崩(なだちくづれ)」で原文が読める。古文がやや苦手な方は、私の「柴田宵曲 妖異博物館 赤氣」に柴田の抄訳が載り、私が電子化した気持ちの悪い「東洋文庫版」(掟破りも甚だしい新仮名化した原文。買った途端に失望した)もあり、「名立崩れ」の詳細な注も附してある。えぇい! この際だ! 国立国会図書館デジタルコレクションで正字正仮名で示すことにするわい! だって、馬琴は誤って書いてるんだもの!!(読みは一部に限った。一部で記号や読点を打ち、段落を成形した。和歌は句読点を除去し、読点部は一字空けとした。「名立崩れ」はここ。グーグル・マップ・データ航空写真)

    *

      ○名立崩れ

 越後國糸魚川と直江津との間に、「名立」といふ驛あり。「上名立」・「下名立」と二ツに分(わか)れ、家數(いへかず)も多く、家建(やだち)も大(おほい)にして、此邊(このへん)にて繁昌の所なり。「上」・「下」ともに、南に山を負ひて、北海(ほくかい)に臨(のぞみ)たる地なり。

 然るに、今年(こんねん)より三十七年以前に、上名立のうしろの山、二ツにわかれて、海中に崩れ入り、一驛の人馬鷄犬(にんばけいけん)、ことごとく海底に沒入す。其われたる山の跡、今にも草木(そうもく)無く、眞白にして、壁のごとく立(たて)り。

 余も、此度(こんど)、下名立に一宿して、所の人に其(その)有りし事どもを尋(たづぬ)るに、皆々、舌をふるはしていえるは、

「名立の驛は海邊(かいへん)の事なれば、惣じて漁獵(ぎよれふ)を家業とするに、其夜は、風、靜(しづか)にして、天氣、殊によろしくありしかば、一驛の者ども、夕暮より、船を催(もよほ)して、鱈・鰈(かれひ)の類(るゐ)を釣(つり)に出でたり。鰈の類は、沖、遠くて、釣ることなれば、名立を離るゝ事、八里も、十里も、出でて、皆々、釣り居たるに、ふと、地方(ぢかた)[やぶちゃん注:陸の方向。]の空を顧(みかへ)れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷(おびたゞしく)火事と見ゆ。皆々、大に驚き、

『すわや、我家(わがや)の燒(やけ)うせぬらん。一刻も早く、歸るべし。』

と、いふより、各(おのおの)

「我(われ)一(いち)。」

と、舟を早めて、家に歸りたるに、陸(くが)には何のかはりたることも、なし。

『此(この)近きあたりに、火事ありしや。』

と問えど、さらに、

『其事、なし。』

といふ。みなみな、あやしみながら、

『まづまづ、目出たし。』

など、いひつつ、圍爐裏(ゐろり)の側(かたはら)に、茶など、のみて、居たりしに、時刻は、やうやう、夜半過(よはんすぐ)る頃なりしが、いづくともなく、只、一ツ、大なる鐵砲を打ちたるごとく、音、聞こえしに、其跡は、いかなりしや、しるもの、なし。其時、うしろの山、二つにわれて、海に沈みし、とぞ、おもはる。上名立の家は、一軒も殘らず、老少男女(なんにょ)、牛馬鷄犬までも、海中のみくづとなりしに、其中に唯一人、ある家の女房、木の枝にかゝりながら、波の上に浮みて、命、たすかりぬ。ありしこと共、皆、此女の物語にて、鐵砲のごとき音せしまでは覺え居(をり)しが、其跡は、唯、夢中のごとくにて、海に沈(しづみ)し事も、しらざりし、とぞ。誠に不思議なるは、初(はじめ)の火事のごとく赤くみえしことなり。それゆゑに、一驛の者ども、殘らず、歸り集りて、死失(しにう)せし也。もし、此事、無くば、男子たる者は、大かた、釣に出(いで)たりしことなれば、活(いき)殘るべきに、一ツ所に集めて後(のち)、崩れたりしは、誠に、因果とや、いうべき。あわれなること也。」

と、語れり。

 余、其後、人に聞くに、

「大地震すべき地は、遠方より見れば、赤(あかき)氣(き)立(たち)のぼりて、火事のごとくなるもの也。」

と云へり。

 松前の津波の時、雲中に、佛神(ぶつしん)、飛行(ひぎやう)し給ひし、なんどといふことも、此たぐいなるべしや。[やぶちゃん注:馬琴が、全然関係のない記事を、「名立崩れ」の前月に発生した予兆と誤っていることは明白である。而して、恐らく、この「松前の津波」とは寛保元(一七四一)年七月に発生した渡島大島の噴火と、それによって引き起こされた松前へ達した大津波のことであろう。檜山医師会 江差保健所・道立江差高等看護学院の伊東則彦氏の論文「渡島大島噴火・寛保津波」PDF・『北海道医報』第千二百二十三号・二〇二〇年八月発行)によれば、この時の死者は千四百六十七名(その内、江差では死者百二十名)・家屋流出七百二十九戸・家屋損壊三十三戸・船流出及び損壊千五百二十一隻とある。但し、江差での死者数の記録は越前永平寺に残されている文書「松前津波之事」によれば、松前の曹洞宗檀家だけで約二千八百の死者を記し、しかも、それは他の宗派の者はおろか、檀家でも行方不明者を含まず、当然、現地のアイヌの人々も含まないので、松前での死者数は膨大な数に登るものと考えねばならない。]

 此名立の驛は、古人、佐渡へ渡り給ひし時、一宿し給ひし所なりとぞ。神主(しんしゆ)竹内太夫といふ者の家に、古き短册を所持せりといふ。其歌に、

 都をばさすらへ出でて 今宵しもうきに名立の月を見る哉

是は、菊亭大納言爲兼卿、佐渡配流の時、此驛にてよめる和歌なり、といふ。或說に、順德院の御製とも云(いふ)。余は、其短册、みざりしかば、いづれとも、しらず。されど、歌の體(てい)、臣下たる人の作にもや、と思はる。

 又、名立の次に、長濱といふ濱、有り。

 黃昏(たそがれ)に往來(ゆきき)の人の跡絕えて 道はかどらぬ越の長濱

などいえる古歌もありと、聞けり。誠に、此あたりは、都、遠く、よろづ、心細き土地なりき。

   *

「菊亭大納言爲兼卿」京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)。権大納言。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、永仁六(一二九八)年に佐渡国に配流となった。但し、五年後の嘉元元(一三〇三)年に帰京が許されている。

「順德院」順徳天皇。後鳥羽天皇第三皇子。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月発生)後の 七月二十一日に当時上皇であった彼は北条義時によって佐渡へ配流となり、在島二十一年の後、仁治三(一二四二)年九月、佐渡で崩御した。享年四十六。]

 かくて、又、文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋、九月八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十月十四日。]の大風烈に、駒込不動坂[やぶちゃん注:後に略して「動坂」となった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]のほとりなる名主内海(うちみ)權十郞主從二人、巨樹(おほき)に撲(うた)れて身まかりけり。そを、相(あい)識れる商人(あきうど)の、次の日に來て、告ぐるを聞きしに、

「權十郞が宿所のほとりは、昔、春目局の別莊にて、素(もと)より、由緒あることなれば、年々の秋每に、園(その)に生じたる栗を採(とり)て、つぼねの廟(びやう)に備(そなへ)るを、恒例とするもの也。しかれば、この日も採(とり)たる栗を、ひとりの從者(づさ)に齎(もたら)しつゝ、湯島なる天澤山(てんたくざん)に赴きて、役僧にわたしてけり。さて、辭し去(さら)んとする程に、風は、いよいよ烈しくなりぬ。

「猶、しばらく。」

と、留められしを、

「おほやけざまの所務あれば。」

とて、いそがはしくまかる程に、寺門(じもん)を出でゝ、いく程もなく、門内(もんない)なる樅(もみ)の木の十圍(じうゐ)にもあまりつべく見えたるが、只、推揉(おしねじ)りたるやふに、樹(き)は、眞中(まんなか)より、吹折(ふきを)られて、大地を撲(うち)て落(おち)しかば、從者は、大枝(おほえだ)に肚(ひはら)を撲(うた)して、矢庭(やには)に卽死したりける。年、十六になりしもの也とぞ【その名をしらず。】。權十郞も打仆(うちたを)されて、半死半生なりけるを、寺より、駕籠に、たすけ乘して、宿所(しゆくしよ)へ送り遣(つかは)せしに、家路にかへり着く程に、忽(たちまち)に、息絶(いきたえ)にけり。享年四十二歲。」

と、いへり。「大風烈の折などには、鬼魅蛇蝎(きみじやかつ)の、風に乘じて、飛行(ひぎやう)することあり。」としも、いへば、已むことを得ぬ急用ならぬに、犯して出づるは愚に似たり。

[やぶちゃん注:「天澤山」臨済宗妙心寺派の天沢山麟祥院(りんしょういん)。徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺。墓はここ。]

 しかれども、又、風の吹ぬに[やぶちゃん注:「ふかぬに」。]、物の倒(たふ)るゝことも有りけり。近くは文政六年癸未[やぶちゃん注:一八二三年。]の夏六月廿三日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦七月三十日。]の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時。]ばかりに、淺草寺の地内(ちない)なる三社權現[やぶちゃん注:現在の浅草神社の古くからの通称。]の石の鳥居の、忽然と折(をれ)たり。人みな、驚き、怪みて、さまざまにいひしかど、笠木(かさぎ)の三つに折碎(をれくだ)けしは、その續目(つぎめ)の甘(くつろ)ぎ延(のび)、落(おつ)る勢ひにて、折たるならん。折て落ぬるものならずは、さまで、怪しとするに足らず。

[やぶちゃん注:「御城内焰硝庫」は実際には早い時期に、江戸城内から、現在の新国立競技場附近に移っていた。明暦三(一六五七)年一月に発生した「明暦の大火」の際に、城内にあった鉄炮火薬が相次いで爆発したため、危険な焔硝蔵は場外へ移すことと決し、川沿いの水際である千駄ヶ谷に移されたのである。「古地図 with MapFan」を見られたい。従って、この「城内」というのは管轄だけを指すものである。]

 これよりも、いと竒なりと思ひしは、文化四年丁卯[やぶちゃん注:一八〇七年。]の秋八月廿三日の未の時ばかりに、御城内御焰硝庫(ごえんせうくら)のほとりなるふりたる、松の二株まで、自然と、折れしこと、ありけり。その樹(き)は十圍(じうゐ)にもあまりつべし。この日は、しかも、美日(びじつ)にて、そよふく凪もなかりしに、只、是のみにあらず、上野護國寺の巨樹(きよじゆ)、河越侯邸中(ていちう)の大銀杏(おほいてう)など、おなじ時刻に折れたり、といふ。これも亦、一竒事(いつきじ)なり。

 しかれども、この月の十九日に、深川八幡宮の祭見んとて、永代橋を踏落(ふみおと)しつゝ、凡は二、三千人[やぶちゃん注:「兎園小說」の本文では「およそは四百八十餘人」と確認された死者実数に近い過小数を記している。後注参照。]も、水に沒して死(しに)たりける。このことの噂にのみ、世の人、耳を側(そば)だつる最中(もなか)にてありければ、件(くだん)の巨樹(おほき)の折たるを、いふものもなく、知るもの、稀なり。

[やぶちゃん注:「永代橋を踏落(ふみおと)し」隅田川に架かる永代橋の崩落による大惨事は文化四年八月十九日(一八〇七年九月二十日)午前十時頃に発生した。当該ウィキによれば、以下の通り(下線太字は私が附した)。同日、『深川富岡八幡宮』(ここ。左手上に永代橋)で十二『年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた』。『久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。また、一橋家の船が永代橋を通過する間、橋を通行止めにしたのも混乱に拍車をかけたと伝わる。ところが、詰め掛けた群衆の重みに』、致命的に老朽化していた『橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが』、『後ろからの群衆は』、その『崩落に気が付かず』、『続々と押し寄せ』てしまったため、『崩落部分から』、『雪崩をうつように転落し』てしまった。『御船手組や佃島の漁師までが救援に駆けつけ』、『必死に救出作業を行ったが、数日前の雨の影響で』、『水質が良くなかった事もあって』、『救助は難航、溺れた者の中には』、『そのまま』下流に流されて、『行方知れずになった者もいた。事故の翌日の記録として、救助された者』七百八十『名でうち』、四百四十『名が亡くなっていたとされている』。『また、遺体の確認も混乱を極め、家族が誤った遺体を引き取ってしまう例も発生した』。『更に永代橋が渡れなくなったことで上流の両国橋や新大橋にも人が殺到し、急遽』、『通行規制を行った』。『死傷者・行方不明者を合わせると』、『実に』一千四百『人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と』されている。『この事故について大田南畝が下記の狂歌や』「夢の憂橋」を記している。

 永代とかけたる橋は落ちにけりけふは祭禮あすは葬禮

『また、町中に貼られた落書の中に以下の句が記されていたと伝えられている』。

 御祭へ行のの道は近けれどまだだしも見ず橋の落たて

『南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残って』おり、曲亭馬琴の「兎園小說餘錄」(国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種 第四」のここから六ページほどに渡って記されてある。フライング電子化はしない。そこではここで(左下段二行目)、やはり、馬琴は、行方不明者を含めて死者数を「二、三千人」と推定している)の、「○深川八幡宮祭禮の日永代橋を踏落して人多く死せし事」のここ(右ページ下段四行目)に、

「前に進みしものゝ、『橋、おちたり。』と叫ぶをも聞かで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔きて、さしあげつゝ、うち振りしかば、是には、人みな、驚怕(おどろきおそ)れて、やうやく、後へ戾りしとぞ。

『と書いている』。『また、当時の逸話として様々な話が伝えられているが』、『その一つとして、本郷の麹屋の主人が祭礼を見ようと』、『永代橋に向かう途中で』掏摸(すり)に二両二分『入った袋を盗られたのに気づき、「金が無いのに祭りを見ても仕方がない」と思って帰宅したため』、『事故に巻き込まれずに済んだ。ところが』、『翌日』、『奉行所から主人の遺体が上ったので』、『確認に来るように』との『命令があり、主人自らが、奉行所に出向き、『自分は無事に帰宅した旨を申告すると』、『役人は主人の名前が記された』二両二朱が『入った袋を証拠として見せた。主人』が、『その袋を盗られて見物を諦めて帰宅したという話を聞いた役人は「恐らく』は掏摸が『盗みの後に』、『見物に行こうとして永代橋から落ちて溺死したのだろう」と述べて、主人に袋を返』し、『そのまま帰宅させたという』とある。

 なお、この大事件の記載としては、如何にも簡略に過ぎ、不満な御仁も多いと思うが(私もそう思った)、実は後の「兎園小説余禄」の第一巻の中で、馬琴は「深川八幡宮祭禮の日、永代橋踏落衆人溺死 紀事」として、優れたドキュメントを書いている。そこまで行くのには、大分かかると思うが、お待ちあれ。我慢が出来ない方は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから当該部を視認出来るし、例の「曲亭雑記」のここでも、当該話の自身の抜き書きが読めるので、どうぞ。]

 又、去々年癸未[やぶちゃん注:文政六年。一八二三年。]の秋八月十七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦九月二十一日。]の夜の大風烈は、近來(ちかごろ)、未曾有(みそうう)の暴(あれ)なりければ、奇譚・怪說、多かれども、まことしからぬことも、まじれり。これらは童蒙(わらべ)も耳に熟して、今しも、折々、いふことなるを、又、さらにこゝに識さば、冬の透間(すきま)の風に似て、さこそは人に厭(いとは)れもせめ。世の諺に、「大風の吹(ふき)たる跡」といふ如く、「風のはなし」は、是までにして、默して、後(のち)のまとゐを待(まつ)のみ【文政八年皐月朔。】。

[やぶちゃん注:以下は底本の編者依田百川の評註。底本では全体が一字下げ。]

 百川云、余は佐倉の舊藩士なれば、かの地には出生せざれども、久しく住居したれば、かの印波沼[やぶちゃん注:ママ。]をよく知れり。こゝにいふ浮田圃(うきたんぼ)の如きもの、無きにあらね、そは蘆・葦(あし・よし)の根、交錯して、年久しく、その上に、土、自らつきて、草木(さうもく)を生長したるなり。然れども、松の大樹(たいぼく)など、生せしものを見たること、なし。まして、田圃とせしを見ず。大かた、この沼の畔(くろ)は、年々に、水の爲に、沒せらるれば、貢税(こうぜい)、甚た[やぶちゃん注:ママ。]、低く、又、全く税無き所もあり。さるがゆゑに、その害を知れども、萬が一を僥倖(ぎやうかう)[やぶちゃん注:思いがけない幸運への期待。]して、種蒔(しゆじ)するもの、多し。もし、水害なきときは、秋獲(しうくわく)[やぶちゃん注:ママ。]豊(ゆたか)にして、大利あり。されば、これを「浮寶(うきたから)」といふべし。「浮寶」、「浮田」、殆んど似たり。所謂、名詮自稱(みやうせんじしやう)[やぶちゃん注:仏語。名が、その物の性質を表わすということ。名実の相応すること。]なるも、また、知るべからず。

[やぶちゃん注:私も百川の単に田の呼称による誤解或いは虚言で、馬琴の綴ったような田圃がそのままごっそり、何らの損壊も受けずに浮き上がるというような奇体な現象が起こるとは思われないし、未だ実際にそんなことがあったという話も聴いたことがない。]

 又、云、大風雨の時、怪物空中を走るなどといふは、妄誕、いふにしも足らず。されども、空氣、凝結(ぎやうけつ)して、人物・山川を、そのうへに寫す出すことは、また、あることにて、海邊(かいへん)の「蜃氣樓」、また、「山市(さんし)」などといふ類も、少なからねば、兩國の怪物も、それらにや。

[やぶちゃん注:これも同感。この手の話は、私の「怪奇談集」にも枚挙に遑がないが、空中の逆転層による遠くの光や景物の空中発光や投映像、及び、蜃気楼やブロッケン現象で説明出来るものも甚だ多く、そうでなければ、作り物の嘘話である。]

 樅の木の風雨の爲に折られて、人の死せしは、さる大風雨には、必、なしといふべからず。「妖魔のゆゑ」とするは、是、亦、怪を信ずるの過(あやまち)にあらずや。松の大木、風、なくして、折(をる)ることは、常にあることにして、他木(たぼく)には、絶てなし[やぶちゃん注:これは賛同出来ない。他の樹種でも起こり得る。]。こは木の性質にや、又、虫などの入りて、その中、虛になりてあれども、表面には、それと見難(みがた)くて、俄(にはか)に折るゝに至れるなるべし。余が佐倉に在りし時、城の本丸の堀(ほり)きはなる松の大木、三抱(みかゝへ)もありしが、一日、風なくして、俄に「ゆらゆら」と動き出したり。見るもの、これを怪(あやし)みしが、しばらくして、中程より、「ほつき」と折る。その響(ひゞき)、おびたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、數町(すてう)[やぶちゃん注:六掛けで六百五十五メートル前後。]の外(ほか)まで聞えけり。これをみて、「いかなる異變起(おこ)るらん」など、一時は、いと喧(かまびす)かりしが、物識(ものし)るものは、敢て疑はず、「かゝることは、松の木にのみ、限りて、他木には、なし。」とて、例を擧(あげ)ていひしかば、その噂、やみて、その後(のち)、絶(たえ)て、異(こと)なる事も、あらざりき。焰硝庫(えんせうぐら)の松も、その類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:なお、吉川弘文館随筆大成版では、この条の後に、先の著作堂(馬琴)による「五馬 三馬 二馬の竒談」への書き忘れを追加した附記が載るが、「五馬 三馬 二馬の竒談」の最後に追加しておくことにした。但し、そちらでも既に同じ内容の附記がなされてある。]

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