伽婢子卷之九 狐僞て人に契る
伽婢子卷之九
○狐(きつね)僞(いつはり)て人に契(ちぎ)る
[やぶちゃん注:今回の挿絵は、状態の良い「新日本古典文学大系」版のものをトリミング補正して用いた。]
安達喜平次は、江州坂本に、すみけり。
たまたま、公方に參候(さんこう)して歸る。僕(ぼく)二人に馬の口、取らせ、中間二人を召しつれ、白河より、山中越に、さしかゝる。
日、巳に暮れ方になる。
道より南のかた、神樂岡(かぐらをか)の西にして、年の比、十七、八と見ゆる女性(によしやう)、顏かたち、美くしきが、櫻花に小鳥のいろいろ縫いたる紅梅裏(こうはいうら)の小袖のすそ、かいとり、草むらを、あなたこなたして、荊(いばら)の上を打ち越え、道に踏み迷ひたるが如し。
安達、これを見て、
「如何なる高家(かうけ)の娘なるらん。」
と、怪しみつゝ、近く步ませ寄りたれば、此女性、袖を以て、顏をおほひ、足元は、石に蹉(つまづ)き、しばしば、ころびまろばんとす。
安達、人を遣はして、
「是は如何なる御方なれば、此日の暮方、めしつるゝ者もなく、かゝる所に立めぐり給ふ。」と、いはせけれ共、物云はず。
又、重ねて、人を遣はし、我が乘りたる馬を引《ひか》せ、
「道、行なずみ給ふも、見奉るに、痛はしくこそ覺え侍べれ。此馬に召されて、いづく迄も御すみかに歸り給へ。送りて奉らむ。」
と云はせければ、女性、嬉しげに顧みて、馬にのる。
安達、抱きのせしに、その輕き事、うすものゝ如し。
近く見れば、世にたぐひなく、光り出るばかり麗はしきが、まみ、氣高く、かたち、たをやかに、袖の薰りの香(かう)ばしさ、なにはにつけても、なべてならず。
『白玉(しらたま)か、何ぞ。』
と、あやしまれ、
『此人の爲ならば、露と消ゆるとも、恨みは、あらじ。』
とぞ覺えける。
安達は馬の尻に付き、靜かに步ませ、もとの道を京の方に歸りしに、一町ばかりにして、忽ちに、女(め)の童(わらは)、五、六人、田中《たなか》のかたより、走り出《いで》て、
「あな、淺まし、此暮かた、とりうしなひ參らせしかと、きも、つぶれ、胸、とゞろき、かなたこなた、尋ね參らせしぞや。」
とて、馬に添うて、南をさしてゆく事、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ばかりにして、年ごろ、六十ばかりの男、息もつぎあへず、
「先より、尋ね奉りし。まづ、御心安く侍べり。扨、此御馬かし給ふは、思ひ寄らざる御情けかな。」
といふ。
安達、いふやう、
「此御方、道に踏迷ひ給ふ故に、御いたはしく思ひ奉り、某(それがし)、乘りたる馬、奉り、是迄送り參らせたり。是より又、坂本に下り侍べる也。」
と云へば、かの男、いふやう、
「姬君、今日は田中といふ所に遊び給ふを、座中、酒もり、久しくて、興に乘じて、獨り立いで、道に迷ひ給へり。はや、日も暮たり。坂本までは、中中に、かへりつき給はじ。よき便りなれば、こなたに入て、一夜を明し給へ。」
といふ。
安達、
「それは。誠に御芳志たるべし。」
とて、南のかた、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]ばかり、行ければ、茂りたる一構(かまへ)あり、其内には、家居《いへゐ》、つぎつぎしく奇麗に立て、梅・櫻・桃季(すもゝ)の花、咲きつゞき、藤の棚・山吹の垣、池には、あやめ・かきつばた、もえ出て、庭のおもて、泉水のかゝり、世にある人の住(すみ)かと見えたり。
襖・障子、幾間(いくま)も立切(《たて》きり)たる、書院・廊下を傳うて、小座敷に行至たる。
その奧には、唐(から)の日本(やまと)の花鳥、つくして書きたる繪(ゑ)の間、あり。
安達、すでに玄館(げんくわん)より上りければ、あるじの女房、其の年、四十ばかり、世に、けだかく、見ゆ。召し使ふ女のわらは、七、八人を隨へ、立出て、
「思ひも寄らず、まれ人の客を受け侍べり。姬、たまたま、出《いで》て遊びし侍べり、酒に醉たる事を痛み、座を逃げて、道に迷ひ、君に行逢ひ奉らずば、若(も)しは、狼(おほかみ)・きつねのたぶろかし、若しは、盜人(ぬす《びと》)に脅(をびや)かされなん。よくこそ、送りてたびたまへ。それ、如何にも、もてなし奉れ。」
とて、親しく、もてかしづく。
しばしありて、酒肴(さけさかな)、取りしたゝめて出《いだ》す。
あるじの女房、盃(さかづき)を取り、安達にまゐらせ、
「とても、今宵は遊びあかして、浮世の思ひ出とせむ。姬が姨(おば)も、是れにおはす。出て、酒、すゝめたまへ。」
といふに、廿四、五ばかりの女房、はなやかに出立て、打ち笑ひ、立出《たちいで》しを見るに、又、世に稀なる美人也。
安達、
『是は。そも、仙境に來れるか、天上にのぼれるか、如何なる雲の上といふとも、今宵に勝る時はあらじ。』
と、嬉しくも、ふしぎ也。
酒、已に酣(たけな)はにして、安達は數盃(すはい)を傾けたり。
主の女房、いふやう、
「姨(おば)と、双六《すごろく》うち、賭(かけもの)、定めて、遊び給へ。」
とて、黑檀(こくたん)に紫檀・檳榔(びんらう)まじへ、ちりばめたる、盤のめぐりには、「源氏」の繪、書き、水牛・象牙・黑白の石、蒔繪(まきゑ)の筒(どう)に、賽(さい)とり添へて、出したり。
安達と、姨と、さし向うて打けるに、賽の目を爭ひ、時々、姨の手をとらへ、無理をいふも心ありや。
「遊仙窟(いうせんくつ)」に張文潛(ちやうぶんせん)と十郞娘(《じふらう》じやう)が、双六うちて、かけものせし事を書(しろし)ける筆の跡も、なつかしくて、安達、勝ちければ、沈香(ぢんかう)五兩を出《いだ》し與(あた)ふ。
姨、又、勝ければ、安達、出すべき物なく、かうがいを拔きて、出したり。
已に夜明方になり、東の山のは、しらみ明けて、人の音なふ聲、聞ゆるころ、家の内、俄はに、驚き、あはて、ふためき、
「盜人の入來るぞや。」
といふに、主(あるじ)の女房、安達を、うしろの門より、推し出せば、
『姨も、ゆきかたなく、立隱れたり。』
と、覺ゆるに、安達一人、かたくづれなる、山際(やまぎは)の穴の内より、這ひ出たり。
茅(つばな)、亂れ、菫(すみれ)、咲きて、松の風、高く吹《ふき》、谷の水、遠く聞えたり。
かけものに渡したる笄(かうがい)はなく、取りたる沈香は、さしもなき木の片(きれ)なり。
初め、女性の道を踏み迷ひしを、安達、馬より下りて、後(しり)につきて行《ゆく》かと見えて、影もなく失せにしかば、中間・小者ばら、たづねめぐり、
「只、こゝもとにて見失ひぬ。」
とて、あまりに尋《たづね》わびて、大《だい》なる穴のあるを見つけて、鋤鍬(すきくわ)をかりよせ、掘り崩しけるを、
「盜人、入來る。」
と、驚きける也。
「こゝは、いづくぞ。」
と、人に問へば、
「神樂岡のうしろ也。」
といふ。
狐の、たぶろかしけるにこそ。
[やぶちゃん注:「安達喜平次」不詳。
「江州坂本」現在の滋賀県大津市坂本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「公方」室町時代の足利将軍。珍しく時制が特定されていない。
「白河」京都市左京区のこの中央附近。
「山中越」現在の下鴨大津線。比叡山の南の山越え道で、古くから利用された。
「神樂岡(かぐらをか)の西」現在の京都市左京区吉田神楽岡町の西。今の京都大学キャンパスを貫通する辺り。
「紅梅裏(こうはいうら)」(こうばいうら)は紅梅色(紫がかった紅色)で仕立てた裏地。
「高家(かうけ)」大名に準ずる高い身分の家柄。
「なにはにつけても」「何はに付けても」。あれにつけ、これにつけ。何ごとにも。何かにつけても。
「なべてならず」「並べてならず」。並一通りでない。なみなみでない。特に「立派である・すぐれている」などと評価して言う場合に用いる。
「白玉(しらたま)」宝石の白玉(はくぎょく)。真珠を指す場合もある。
「田中《たなか》」左京区西部の高野川下流の東岸(左岸)一帯。地図を見れば、現在も「田中」を含んだ町名が多数見られる。喜平次は帰途を逆行して送っている。
「つぎつぎしく」推定される身分と家居に極めて「似つかわしい・相応しい・調和がとれている・しっくりしている」の意。
「世にある人」相応に世間に知られた高家にして富裕な御仁。
の住かと見えたり。
「玄館(げんくわん)」玄関の意であるが、この漢字表記にしたのは、それが優れて大きいことを指すか。「新日本古典文学大系」版脚注では、『客人』を迎えるために豪華に仕立てた「まれ人」「まれびと」客人の意があるが、ここは「特に大切なお客人」の意。
「とても」「新日本古典文学大系」版脚注には、『またとない機会なので』と意訳されてある。
「天上」六道の三善道の我々のいる人間道の上にある天上道のこと。
「双六《すごろく》」「新日本古典文学大系」版は国立国会図書館本底本であるが、『すぐろく』とルビし、脚注で、『「すごろく」の古称』とする。
「心ありや」この姨に惹かれて、下心があるからか、で筆者が登場してナレーションしているのである。
「遊仙窟(いうせんくつ)」初唐に官人で名文家の張鷟(ちょうさく 六五八年~七三〇年:字(あざな)は文成)によって書かれたとされる本邦では非常に古くからよく知られ、よ人気の高い伝奇小説である。当該ウィキによれば、『作者と同名の「張文成」なる主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の崔十娘(さいじゅうじょう)、その兄嫁の五嫂(ごそう)らと情を交わし、一夜の歓を尽くすが、明け方』、『外のカラスが騒がしくなり』、『情事が中途半端に終わらせられる、というストーリーである』。『唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚存書となり、存在したという記録すら残っていない』。『後に魯迅によって日本から中国に再紹介され』るという、逆輸入型の珍本である。『文章は当時流行した駢文(四六文)によって書かれている』。『日本では』、『遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが』甚だ『流行した。例えば、奈良時代の山上憶良は』、「万葉集」に、「遊仙窟に曰く、『九泉下の人は一錢にだに直(あたひ)せず』と『記して』おり、また、「万葉集」巻第四の大伴家持による国歌大観番号七四一・七四二・七四四番の相聞歌でも「遊仙窟」の『中の句を踏まえて』詠んでいる。『また、松尾芭蕉の』発句「つね憎き烏も雪の朝哉」や、『高杉晋作の都々逸』の「三千世界の烏を殺し 主(ぬし)と朝寢がしてみたい」、『更にそれを踏まえた落語「三枚起請」も』、本書で『情事を邪魔したカラスを踏まえたものである』とある。
「張文潛」上記の通り、張文成の誤り。
「十郞娘」同前で、正しくは崔十娘。但し、中国では男女を問わず、生まれ順に「郞」を用いるので、決定的な誤りとは言えない。
「なつかしくて」心惹かれて。
「沈香(ぢんかう)」「伽婢子卷之八 長鬚國」の私の同注を参照されたい。
「五兩」百八十七・五グラム。
「かうがい」「笄」。ここは結髪に刺す「髪搔き」のそれではなく、「三所物(みところもの)」と呼ばれた日本刀(大刀)の付属品の一つで、鍔のところを支えとして鞘の両側に挿し込んでおき、手投げの小刀(実際の髪搔きにも用いた)等として用いたものを指す。持ち手のところを螺鈿などで装飾したものもあり、相応に高価な美品物もあった。
「かたくづれなる」「片崩れなる」山の一方が崩れて土がむき出しになっている。
「茅(つばな)」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の異名。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ(当該ウィキに拠る)。
「さしもなき」何というものでもないただの。
『初め、女性の道を踏み迷ひしを、安達、馬より下りて、後(しり)につきて行《ゆく》かと見えて、影もなく失せにしかば、中間・小者ばら、たづねめぐり、「只、こゝもとにて見失ひぬ。」とて、あまりに尋《たづね》わびて』喜平次が、中間や小者が見えなくなったことに全く気づいていないところから、既に完膚なきまでに狐の化かしに遭っていたことが、ここで明白になる。
「神樂岡のうしろ」吉田神楽岡町内にある吉田山(グーグル・マップ・データ航空写真)の麓と思われる。]
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