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2021/09/12

芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通

 

昭和二(一九二七)年二月二日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省。御藥並びに御短尺ありがたく存じ奉り候。唯今夜も仕事を致しをり候爲、朝ねを致し、山口樣にはお目にかかる機會を失ひ、殘念にも恐縮にも存じ居り候。お次手の節よろしく御鳳聲願上げ候。先夜來、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea  の數が乏しと仰せらるる筈と存候。(勿論これは小生をも憂ウツならしむるに足るものに候)小生の短尺はどうも氣まり惡き故御免蒙り度候へども、一二枚お送り申上ぐ可く候。(句⅓人前、字⅓人前、短尺⅓人前の割にて御らん下され度候。)唯今「海の秋」と云ふ小品を製造中、同時に又「河童」と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、その間に年三割と云ふ借金(姊の家の)のことも考へなければならず、困憊この事に存じ居り候。餘いづれ拜眉の上。右とりあへず御禮まで。頓首

    二月二日夜      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

二伸唯今でも時々錯覺(?)あり。今夜はヌマアルを用ふべく候。

 

[やぶちゃん注:分数は、例えば「⅓」としたものは、縦に「1」(上)+(横線の分数記号)+「3」(下)である。ユニコードでは表記不能なので、かく、した。本書簡は前月の昭和二(一九二七)年一月二十八日附齋藤茂吉宛書簡を参照のこと。

「山口樣」歌人山口茂吉(明治二九(一九〇二)年~昭和三三(一九五八)年)。兵庫県多可郡杉原谷村清水(現在の同郡多可町)に生まれる。大正一三(一九二四)年に中央大学商学部を卒業、明治生命東京本社に入社した。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったといい、同年に『アララギ』に入会し、島木赤彦に学び、赤彦の没後は斎藤茂吉に師事した。斎藤茂吉・土屋文明の助手として『アララギ』の編輯・校正に携わった。昭和一九(一九四四)年には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社した。昭和二一(一九四六)年には東京歌話会を結成し、昭和二十三年には『アザミ』を創刊して主宰した。師の斎藤茂吉と同名であることから「小茂吉」と呼ばれることがあり、茂吉が没した四年後の昭和三十二年以降は岩波書店の「斎藤茂吉全集」の編集校訂に携わった。歌人では岡麓や中村憲吉と親しかった(以上は当該ウィキに拠る)。この日の午前中に龍之介を訪ねたものらしい。後に当人宛の書簡が出る。

「海の秋」決定稿の標題は「蜃氣樓」(正確には『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』。リンク先は私の古い電子化)。脱稿は二月四日。三月一日『婦人公論』発表。

「河童」三月一日『改造』発表。当方には、

河童(旧全集正字正仮名版)

芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈(同前に基づく)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 ・同縦書版同ブログ版(国立国会図書館デジタルコレクションの画像による)

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)同縦書版(同前)

おまけで、

マツグ著「阿呆の言葉」(抄)(最上部の電子化からの抽出版)

等、多く品揃えしてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月三日・田端発信・河西信三宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。あの詩は唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓と申す仙人の作に有之候。年少の生徒には字義などを御說明に及ばざる乎。なほ又拙作「杜子春」は唐の小說杜子春傳の主人公を用ひをり候へども、話は⅔以上創作に有之候。なほなほ又あの中の鐵冠子と申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號に有之候。三國時代には候へども、何しろ長生不死の仙人故、唐代に出沒致すも差支へなかるべく候。呂洞賓や左玆の事はいろいろの本に有之候へども、現代の本にては東海林辰三郞氏著の支那仙人列傳を御らんになればよろしく候。右御返事まで 頓首

    二月三日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:分数表記は前と同じ。

「河西信三」未詳。芥川龍之介の愛読者で、小学校の教員か。

「あの詩」芥川龍之介が「杜子春」(大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』初出)の「三」の末尾に仙人「鐵冠子」(後注参照)の詠む詩として出した、

 朝(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧。

 袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ)、膽氣(たんき)粗なり。

 三たび嶽陽に入れども、人識らず。

 朗吟して、飛過(ひくわ)す洞庭湖。

を指す。

「唐の蒲州永樂縣の人、呂巖、字は洞賓」代表的な仙人である八仙の一人呂洞賓(りょどうひん 七九六年~?)名は嵒であるが、巖。岩とも書き、本来のの名は煜(いく)で、洞賓は字(あざな)。詳しくは当該ウィキを参照されたい。元曲の馬致遠の「呂洞賓三醉岳陽樓」(呂洞賓、三たび、岳陽樓に醉ふ)に出るもので、原詩は、

 朝游北海暮蒼梧

 袖裏靑蛇膽氣粗

 三醉岳陽人不識

 朗吟飛過洞庭湖

  朝(あした)に北海に遊び 暮れには蒼梧

  袖裏(しうら)の靑蛇(せいだ) 膽氣(たんき) 粗なり

  三たび嶽陽に入れども 人 識らず

  朗吟して 飛過(ひくわ)す 洞庭湖

であるが、一書では起句は「朝遊蓬島暮蒼梧」(朝に蓬島(ほうたう)に遊び 暮れには蒼梧)ともある。因みに、原拠の杜子春 李復言(原典)訓読語註現代語訳)には、当然のこと乍ら、存在しない。龍之介が挿入したもの。以上のリンク先は総て私の電子化物である。

「鐵冠子申すのは三國時代の左玆と申す仙人の道號」「左玆」(さじ)は「左慈」(さじ)が正しい。左慈は後漢(紀元後二五年 ~二二〇年)は、末期の知られた方士で仙人。字は元放で、揚州廬江郡の人。正史では「後漢書」の第八十二巻の「方術列傳下」に伝記が載り、他にも「搜神記」(四世紀の東晋の干宝が著した志怪小説集)や「神仙傳」(東晋の葛洪の著したとされる神仙伝記。但し、相応の原著作を後代に追記増加したものである可能性が高い)にも詳しく出る仙人である。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介の言う「三國時代」(蜀・魏・呉の三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年まで)は微妙に外れており、誤りである。

「東海林辰三郞」ジャーナリストで東洋学者で衆議院議員(立憲国民党)となった白河鯉洋(しらかわりよう 明治七(一八七四)年~大正八(一九一九)年:本名は次郎)のペン・ネームの一つ。彼は福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身。明治三〇(一八九七)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業後、神戸新聞・九州日報の主筆を務めた。明治三六(一九〇三)年に、清に渡って、南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は早稲田大学講師・『関西日報』客員を務め、大正六(一九一七)年の第十三回衆議院議員総選挙に出馬、当選している。大正デモクラシーを牽引した人物であるが、「孔子」・「支那學術史綱」(共著)・「支那文明史」(共著)・「王陽明」・「諸葛孔明」等の中国文化関連の著作も多い。

「支那仙人列傳」国立国会図書館デジタルコレクションにある、これ著者名義「東海林辰三郞」(奥付)。明四四(一九一一)年聚精堂刊。「新體詩抄」で知られる哲学者井上哲次郎が「序を書いている。「呂嚴」がここで、「左慈」はここ。二百十五名を挙げているが、読み易く且つ面白い(私は全コマをダウン・ロードした)。有名どころは網羅しつつ、私の知らぬ仙人もちらほら見える中に、詩仙「李白」や道教所縁の書を多く残している「顏眞卿」、白玉楼中の人となった鬼才「李賀」といった人物も配されてある。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月四日・田端発信・山口茂吉宛

 

原稿用紙にて御免蒙り候。先達はわざわざお使ひにお出で候にも關らず、朝寢坊にてお目にかかる機を失し、申訣無之候。右お禮かたがたおわびまで 頓首

    二月四日       芥川龍之介

   山 口 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭の二月二日附齋藤茂吉宛書簡参照。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・小松芳喬宛

 

冠省お手紙ならびに六神丸ありがたく存じます。いろいろお心にかけられ、恐縮に存じます。多用中親戚に不幸有之、御禮が遲れ申訣ありません。北京はよかつたでせう。僕は東京以外の都會では一番北京へ住みたいと思つてゐるものです。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   小 松 芳 喬 樣

 

[やぶちゃん注:「小松芳喬」(よしたか 明治三九(一九〇六)年~平成一二(二〇〇〇)年)は経済学者・社会経済史学者。東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、昭和三(一九二八)年、早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学院に進学した。昭和八(一九三三)年に早稲田大学助手となり、後に講師。その後、東京外国語学校での語学習得やロンドン大学留学を経て、昭和一四(一九三九)年、早稲田大学助教授、後に同大学教授となった。昭和三五(一九六〇)年、経済学博士となり、同年に「社会経済史学会」代表理事となっている。当時はまだ早稲田大学学生であった。愛読者で、誰かの伝手で知り合ったか。当時、学生で北京に行っているというのは、裕福な家庭であったか。

「六神丸」ここは北京で手に入れた中国の漢方薬のそれと思われる。本邦でよく知られるそれとは処方生剤も対応疾患も異なり、これは腹痛に効能があるとされるものである。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月五日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

お父さんの長逝を悼み奉る。今春匆々親戚に不幸あり。多病又多憂、この手紙おくれて何ともすまぬ。蒲原君によろしく。まだ多忙で弱つてゐる。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

  二伸けふは手紙を七本書いた。これは八本目。

 

 

昭和二(一九二七)年二月七日・田端発信・蒲原春夫宛

 

支那餅をありがたう。比呂志からも禮狀を出す筈。小說は捗どれりや。僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる。庫公によろしく。

     卽興

   春返る支那餅食へやいざ子ども

    御大喪の夜      芥川龍之介

   蒲 原 君

 

[やぶちゃん注:「婦人公論十二枚」既注の「蜃氣樓」。三月号。

「改造六十枚」既注の「河童」。三月号。

「文藝春秋三枚」三月号所収の『軽井澤で――「追憶」の代はりに――』。芥川龍之介の片山廣子への文芸上の秘かな傷心の追想アフォリズムである。リンク先は無論、私のもの。

「演劇新潮五」三月号所収の「芝居漫談」。

「庫公」渡邊庫輔。

「御大喪の夜」前年末の十二月二十五日、肺炎の悪化から心臓麻痺により崩御した天皇嘉仁は、この年の一月二十九日に大正天皇を追号され、御大喪(ごたいそう)の儀は二月七日からこの八日にかけて、新宿御苑を中心に行われた。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計六千人、その列の全長は六キロメートルにも及んだ。沿道には百五十万乃至三百万人の市民が集まったとされ、葬列はラジオで実況放送された。葬場殿の儀は午後九時から午後十一時までで行われ、内外の高官約七千人が参列、その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時に設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、同じく臨時駅の東浅川仮駅まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた(以上はウィキの「大正天皇」に拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十一日・田端発信・神奈川縣鎌倉町坂の下二十 佐佐木茂索樣・東京田端 芥川龍之介

 

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ[やぶちゃん注:ママ。]。「河童」は僕のライネッケフックスだ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品、或は御一讀に堪ふるならん。内田百間曰芥川は病的のある氣違ひ、自分は病的のない氣違ひだから自分が芥川を訪問してわざと氣違ひじみた行動をして歸る。芥川は自分を氣違だと思ふ。自分は得意になつて歸つて來るうちにいつか氣違ひになつてゐる。同時に又芥川も氣違ひになつてゐる。――と云ふ話を書く爲に近々芥川を訪問するつもりだ。しかしどうも自分ながらコハイ」コハイのは寧ろこつちぢやないか。僕は姊の亭主の債務などの事を小說を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出來ないものだよ。十五日頃にはそちらへかへれるつもり。夫人によろしく。以上

    二月十一日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 東京に用向きなきや。今度こちらから栗位送る堀の小說は一度僕や室生が讀んで二度目にフラグマンにしたもの。よろしくお引立てを乞ふ。

 

[やぶちゃん注:「六十枚位」現行の完成稿(国立国会図書館藏。私はそれをサイトで『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』として一括してある)は半ペラ百十枚=五十五枚である。則ち、この日までに、結果としては、最終稿の三十枚(約八十%強)まで書いていたということになる。

「ライネッケフックス」“Reineke Fuchs ”。かの巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で、「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに、封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』とある。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡のこの強力な自信に満ちた言葉は只物ではないという気が私はしている。この現実社会や「生」そのものへの渾身の気迫は、しかし、遂に続かなかった。なお、この辺りのことは、場違いに見えるかも知れぬが、私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の注を参照されたい。芥川龍之介の小澤碧童の彫琢になる「河郞之舍」の印影も掲げてある。

「婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品」既注の「蜃氣樓」。

「堀の小說」『山繭』三月号に発表された堀辰雄の小説「ルウベンスの僞畫」の初稿の断片。新全集年譜によれば、龍之介が『堀の作品に目を通すのは』、結局、『これが最後となった』とある。

「フラグマン」fragment。フランス語で「破片・断章・断片・一節」の意。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十二日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの四号 小穴隆一樣

 

長く留守にして實にすまない。その後姊の家の生計のことや原稿の爲にごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐる上、家は燒けてゐるし、主人はない爲、どうにも始末がつかないのだ。(僕でももつとしつかりしてゐれば善いのだが)「河童」はだんだん長くなる。しかし明日中には脫稿のつもり。その校正を見次第、東京を脫出する。君が近所へ來てくれれば三月後[やぶちゃん注:「以後」の意。]は東京にゐても差支へない。今日は「サンデイ每日」と「婦人公論」と「改造」とへ書いた。婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房も登場させてゐる 以上

    二月十二日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 兎屋さんにも逢ふ間がない。佐藤(春)にはちよつと會つた。齋藤さんにも。僕はヴェロナアル〇・四だが齋藤さんは〇・七乃至八のよし 上には上のあるものだ。

 

 

昭和二(一九二七)年二月十五日・消印十六日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。やつとけふ校了。これから親族會議をすまさなければならん。君には氣の毒で弱る。しかし二十日にはかへる。僕だけでも。河童を106[やぶちゃん注:横書。]枚書いた。それから「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた。每日多忙。ます子女史健在。頓首

    二月十五日      芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:「二十日にはかへる」結局、龍之介は、この月末、鵠沼へ戻るのを断念する。前書簡で「君が近所へ來てくれれば三月」以「後は東京にゐても差支へない」とおいうのは、自分が小穴を鵠沼に誘っておいて、ここにきて、小穴を一人残し、彼が半ば、留守番のようになっていることを気に掛けたものを、龍之介流のプライドで述べたもの。結局、小穴は三月月初めには東京へ転居する。

「僕だけでも」妻子を連れずに龍之介一人でも鵠沼へ戻るの意。

『「三十六歲の小說論」を書いて谷崎潤一郞君の駁論に答へた』昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、離れて八月一日発行の雑誌『改造』第四・五・六・八号に連載された「文藝的な、餘りに文藝的な」の前半部であろう。私は続編もカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」をサイトで一括電子化している。

「ます子女史」平松麻素子。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日(消印)・田端発信(推定)・相州鎌倉坂の下二〇 佐佐木茂索樣・芥川龍之介

 

原稿用紙にて失禮。河童百六枚脫稿。聊か鬱懷を消した。改造牡の招待の芝居へ來ないか。君の顏が見たい。火災保險、生命保險 親族會議、――何や彼やゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ。ヴェロナアル〇・七常用。アロナアルよりもヌマアルの方が眠るのに善い。やはりロツシュ會社製。

               芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛

 

原稿用紙にて失禮。

Legenda Aureaは黃金傳說の意、Jocobus de voragineは十三世紀の初期の人だ。(檢べるのは面倒故これでまけてくれ給へ)本の内容は僕の「きりしとほろ上人傳」の如き話ばかり。但しもつと簡古素朴だよ。英吉利では William Caxton の譯が有名だ。今度獨逸で出た本は近代語に譯されてゐるかどうか。Caxton は十五世紀頃の人だから、この英語は大分古い。のみならず原本にない話――たとへばヨブの話などを加へてゐる。僕は黃金傅說を全部讀んでゐない。(第一全部は浩翰だらう)が、Caxton のセレクションは一册持つてゐる筈だ。御入用の節は探がすべし。しかし黃金傅說は兎に角名高いものだから、ゲスタ・ロマノルムと一しよに買つて置いても善い本だよ。右當用のみ。

    二月十六日      芥川龍之介

   秦 豐 吉 樣

二伸日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑

 

[やぶちゃん注:「Legenda Aureaは黃金傳說の意」ラテン語の「レゲンダ・オウレア」は、当初は同じくラテン語で「レゲンダ・サンクトルム」(Legenda sanctorum :「聖者の物語」の意)とも称し、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第八代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年?~一二九八年)が著したキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成した。但し、タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによって名づつけられたもの。中世ヨーロッパに於いて、聖書に次いで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。イエス・マリア・天使ミカエルのほか、百名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読むことも可能である。各章の冒頭では、聖人の名前の語義を解釈し、それをその聖人の徳や行いと結びつけることがよく行われている。十五世紀頃から「黄金の」(aurea)の美称をつけて呼ばれるようになった。本来は、この「レゲンダ」は「伝説」の意ではなく、ミサの際に「朗読されるべきもの」の意である。従って Legenda aurea を日本語で「黄金伝説」と訳すのは誤訳となるが、前田敬作らによる完訳本(一九七九年から一九八七年人文書院初刊)などでも、この題名が用いられている。他に「黄金聖人伝」と呼ばれることもある(以上は当該ウィキに拠った)。芥川龍之介は同書所収の第七十九章「聖女マリナの物語」の、近代のフランスの神父で来日して布教したミッシェル・A・シュタイシェン(Michael A. Steichen 一八五七年~一九二九年:「パリ外国宣教会」所属。姓は「スタイシエン」「ステシエン」とも書かれる。盛岡・築地・静岡・麻布・横浜で布教活動を行う傍ら、雑誌編集長をも務め、さらにキリシタン研究者として著作を発表した。邦訳文は私の『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」を参照)をもとに「奉教人の死」を書いた。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。

「簡古」簡素で古めかしいこと。

「William Caxton」ウィリアム・キャクストン(William Caxton 一四一五年から一四二二年頃~一四九二年三月頃)はイングランドの商人・外交官・著作家・翻訳家・印刷業者。「カクストン」とも表記する。イングランドで初めて印刷機を導入して印刷業を始めた人物とされ、イングランド人として初めて本を出版して小売りした人物でもある。一四七六年にウェストミンスターで印刷会社を設立し、最初に印刷した本はイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 一三四三年頃~一四〇〇年:当時の教会用語であったラテン語や、当時、イングランドの支配者であったノルマン人貴族の公用語であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中世英語を使って物語を執筆した最初の作家として知られる)の代表作「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales  :一三八七年~一四〇〇年:未完。であるが、一万七千行以上に及ぶ韻文と散文から成る大作)であった(当該ウィキ他に拠る)。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、彼自身の訳になる『「黄金伝説」は、ウィリアム・モリス』(芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった)『が印刷工房ケルムスコット・ブレスで企画した最初の書物で、一八九二年に刊行された』とある。

 「今度獨逸で出た本」不詳。

「ヨブ」「旧約聖書」の私の偏愛する「ヨブ記」の主人公。

「ゲスタ・ロマノルム」前掲書の石割氏の注に、『Gesta Romanorum 一四世紀前半にラテン語で書かれた物語集』とある。作者不詳。

『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね。一笑』大正七(一九一八)年九月一日発行の雑誌『三田文学』初出の、芥川龍之介の「奉教人の死」の最後に作者が挙げた架空の切支丹本のそれ。この龍之介の「騙し」については、さんざん注した。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十七日・田端発信・大熊信行宛

 

原稿用紙で御免下さい。御手紙並びに高著、鵠沼へ參りし爲、遲れて落手、高著は唯今拜讀致し了り候。小生はラスキンには全然手をつけし事無之候へども、モリスに關するものは少々ばかり讀みをり候爲、高著に對し、多少の感慨を催し候。(モリスに關する在來の日本人の著書は出たらめ少からず、それも聊か讀みをり候へば、愈感慨多き次第に有之候)ラスキンよりモリスヘ傳へたる法燈はモリスより更にシヨウに傳はりたる觀あり、その中間に詩人、兼小說家兼畫家兼工藝美衞家兼社會主義者として立てるモリスは前世紀後半の一大橋梁と存候。但し老年のモリスの社會主義運動に加はり、いろいろ不快な目に遇ひし事は如何にも人生落莫の感有之候。(そは勿論高著の問題外に屬し候へども。)小生は詩人モリス、――殊に Love is Enough の詩人モリスの心事を忖度し、同情する所少からず、モリスは便宜上の國家社會主義者たるのみならず、便宜上の共產主義者たりしを思ふこと屢てに御座候。以上

    二月十七日      芥川龍之介

   大 熊 信 行 樣

 

[やぶちゃん注:「大熊信行」(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)は経済学者・評論家・歌人。山形県米沢市生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を経て、大正五(一九一六)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒。中学時代、浜田広介らと同人誌を作っていた。同年、日清製粉に入社。後、米沢商業学校で教鞭をとり、大正八年、東京高等商業学校専攻部に進学し、大正十年に卒業後、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)講師、翌年、同校教授となるが、大正一二(一九二三)年、病気で退職し、南湖院で闘病した(結核か)。昭和六(一九四一)年、東京商科大学にて経済学博士を取得し、当該論文は「經濟理論における配分原理の所在並に適用に關する基礎的研究」であった。この書簡の年の昭和二(一九二七)年には、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)教授となっている。昭和四(一九二九)年から昭和六年まで文部省在外研究員として、イギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、昭和七年、高岡高商を退職し、海軍省大臣官房調査課嘱託となり、昭和十八年には「大日本言論報国会」理事となた。小樽高商では、小林多喜二・伊藤整を教えている。戦後の昭和二一(一九四六)年には山形県地方労働委員会初代会長となったが、戦中の履歴が災いしたのであろう、翌年、公職追放を受けている。公職追放解除後は神奈川大学教授・富山大学経済学部長・神奈川大第二経済学部長・創価大学教授を歴任し、論壇でも活躍した(以上は当該ウィキに拠った)。

「ラスキン」ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)はイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家。同時に芸術家のパトロンでもあり、自らも設計製図や水彩画をよくし、社会思想家にして篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(Modern painters :一八四三年~一八六〇年 )を著している。

「Love is Enough」「愛は十全にある」か。ウィリアム・モリスの詩。月子綴主氏のブログ「月子綴の一日一言」の「時を語る建築3 モリスの詩Love Is Enoughより」に原詩とブログ主による和訳が載る。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月十八日・田端発信・神奈川縣鵠沼町イの二号 小穴隆一樣(書留印)

 

この間は手紙が行きちがひになつた。僕は二十日前後にかへる事前記の通り。その後寄り合ひばかりしてゐる。君もいろいろ入用と思ひ、同封のものを送る。雜用に供してくれ給へ。以上

    二月十八日      芥川龍之介

   小 穴 隆 一 樣

 

 

昭和二(一九二七)年二月二十三日・田端発信・赤井三郞宛

 

原稿用紙で失禮します。玉稿は拜見しました。ああ云ふ有り合せの文句で書いては駄目です。もつとぶつ切ら棒でも善いから、ヂカに迫るやうに書かなければ。玉稿は佐佐木君に讀んで貰つた方が善いと存じます。右當用のみ。

    二月二十三日     芥川龍之介

   赤 井 三 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「赤井三郞」不詳。作家志望の人物らしい。]

 

 

昭和二(一九二七)年二月二六日・田端発信・赤井三郞宛(葉書)

 

南京新唱をありがたう右お禮まで 頓首

   二月二十六日夜     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「南京新唱」歌人会津八一の第一歌集。大正一三(一九二四)年刊行。「南京」は奈良の別称。]

 

 

昭和二(一九二七)年・二月二十七日消印・奈良市上高畑 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。「玄鶴山房」は力作なれども自ら脚力盡くる所廬山を見るの感あり。河童は近年にない速力で書いた。蜃氣樓は一番自信を持つてゐる。僕は來月の改造に谷崎君に答へ、幷せて志賀さんを四五枚論じた。これから大阪へ立つ所。頓首

 

[やぶちゃん注:「志賀さんを四五枚論じた」「文藝的な、餘りに文藝的な」の「五 志賀直哉氏」をメインとした前後。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」の冒頭には、草稿「志賀直哉氏に就いて(覺え書)」も配してある。

「これから大阪へ立つ所」新全集年譜に、この二月二十七日、『改造社の円本全集宣伝講演会のため、佐藤春夫らと大阪に向けて出発』。『義兄一家の経済的窮地を救うため、身体の無理をおして参加したものと思われる』とあり、翌二十八日の条には、午後一時、『大阪中之島公会堂で「舌頭小説」と題して講演をする。約六千人の聴衆が詰めかけ』、他に『佐藤春夫、久米正雄、里見弴らが講演をした』。『夜、谷崎潤一郎、佐藤春夫と遊』び、『深夜、富田砕花と偶然会い、芦屋まで同行』し、『芦屋から車で岡本』(武庫郡本山村岡本好文園(現在の神戸市東灘区岡本))にあった『谷崎宅を訪れ、夜を徹して文学論を戦わせた』とある。なお、この日に、探していた小穴隆一の田端近くの転居先として、『田端の下宿(新昌閣)が見付かり、数日後、小穴は鵠沼を引き上げて転居』したとある。因みに同年の二月は、この二十八日が月末日である。]

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