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2021/09/06

芥川龍之介書簡抄138 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十月(全) 七通

 

大正一五(一九二六)年十月三日・鵠沼発信・東宮豐達宛(葉書)

 

冠省御申し越しの件、開化の殺人にてよろしく候なほ寫眞は現代小說全集のをお用ひ下され度候。それから集末の年譜中、處女作「芋粥」は「鼻」の誤りにつき左樣御承知下され度候 頓首

   十月三日        芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:例によってエスペラント語訳の話。

「開化の殺人」初出は大正七年七月発行の『中央公論』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の解説では、表紙(か?)では「臨時增刊」とするが、目次は「定期增刊」とあるそうである)。後の新潮社大正八年一月刊の作品集「傀儡師」に収録されたが、その際、冒頭に主人公「予」の記した前書きが新たに添えられた。私の「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」「開化の殺人」を見られたい。別ページ立てで私の注もある。なお、この前書きが、所謂、芥川龍之介の開化物の一部を、確信犯で一種の開化シリーズ物の小説の皮切りとさせる目的が仕込まれていると言える。前掲書の篠崎美生子氏の解説に、『数ある「開化期物」の中で、この「開化の殺人」と「開化の良人」』(大正八年二月『中外』初出)『と「舞踏会」』(大正九年一月『新潮』初出)『には共通して本多子爵夫妻(「舞踏会」では「H老夫人」とある)が登場し、夫妻から某青年が開化期の話を聞くというパターンが一致していることから、中村光夫は「連環小説としての開化物」』(太字は底本では傍点「ヽ」)『(『名著復刻芥川龍之介文学館』日本文学館一九七七・七・一)で、これを一つの「連環小説」として読む可能性を論じている』とあり、この中村氏の見解には、嘗て私が大学時代に底本の旧「芥川龍之介全集」を全通読した際の感じと一致し、非常に賛同出来るものである。

「現代小說全集」この前年の大正十四年四月に新潮社から刊行された当該全集の「芥川龍之介集」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全部見られる。芥川龍之介の写真はここ(劣化もあろうが、補正をかけても非常に暗く、不吉な感じがする肖像である)。誤りを指摘している同年譜は、ここだが、龍之介の指摘するような間違いはない。『處女作の短篇「老年」を發表す』は正しく、そもそもが「鼻」は華々しい文壇デビュー作ではあるが、処女作ではない。旧「芥川龍之介全集」第十二巻にこの年譜が載るが、その「後記」によって、芥川龍之介の言っている意味が分かった。右「二」ページの九行目を見ると、『九月當時「新小說」主観鈴木三重吉の好意により、短篇「鼻」を同誌上に發表す」というのが「芋粥」の誤りなのである。龍之介の『處女作「芋粥」は「鼻」の誤り』自体が誤りで、当該部の――「鼻」は「芋粥」の誤り――と書かねばならなかったのである。東宮も意味が解らず、きっと、困っただろうな。

 なお、この月の朔日には、名品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行『改造』)が発表されており、その「一」で「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。」という書き出しで、母フクの精神疾患や養子となったことを含め、自らの出生の秘密を公にしている。

 

 

大正一五(一九二六)年十月六日・田端発信・大木雄三宛

 

冠省 藤澤衞彥氏の使に立ちしは尊臺なりしよし蒲原君より聞きて大に恐縮致し候失禮の段まつぴら御免下さる可く候 頓首

               芥川龍之介

   大 木 雄 三 樣

 

[やぶちゃん注:「大木雄三」(明治二八(一八九五)年~昭和三八(一九六三)年)は雑誌記者で歌人・児童文学者。これより後のペン・ネームは雄二。群馬県出身。昭和七(一九三二)年から雄二を名乗った。小学校教員を経て、上京し、大正八(一九一九)年に『こども雑誌』の編集者となった。同時に童話を書き始め、『金の星』などに作品を発表した。昭和三(一九二八)年、「新興童話作家連盟」の結成に参加し、「可愛い敵め」を発表、昭和七年には、右翼的な「日本文化連盟」を結成し、戦時中はファシズム作家であった。戦後も童話作家として活動した。筑摩全集類聚版脚注では、数雑誌の編集者をしたが、雑誌『国粋』を最後として、そちらは辞めている旨の記載がある。

「藤澤衞彥」(もりひこ 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は小説家・民俗学者・児童文学研究者。福島県生まれ。当該ウィキによれば、東京・埼玉生まれともする旨の記載がある。明治四〇(一九〇七)年、明治大学卒業。「藤沢紫浪」の名で通俗小説などを刊行した。大正三(一九一四)年に「日本伝説学会」を設立し、大正六年から『日本伝説叢書』(全十三巻)を、大正十年から『日本歌謡叢書』を編纂、十一年には「日本童話学会」を、この大正十五年には「童話作家協会」と「日本風俗史研究会」を設立している。また、この大正一五(一九二六)年から翌昭和二(一九二七)年まで雑誌『伝説』も発行している。昭和七(一九三二)年からは、明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。戦後の昭和二一(一九四六)年には社会科・新聞科の専任となり、昭和三三(一九五八)年に定年退職した。また、昭和二十一年の「日本児童文学者協会」の創立にも参画し、五年ほど会長を務めた。著書・編纂書は多く、江戸時代の絵入り童話本や風俗資料の蒐集家としても著名である。彼の名代として大木雄三が芥川龍之介の家を訪問したが、生憎、彼は留守であったらしい。原稿或いは講演依頼か。よく判らない。以降の芥川龍之介の発表作を見ても、特にそれらしいもの(藤澤と大木に共通する童話や少年少女向けのものを調べてみたが)は見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月八日(年次推定)・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

 

寫樂論わざわざお送りに預り御禮申上げます

おひまの節に御遠慮なくお出で下さい私もその内上ります

御禮かたがた御返事まで

 

[やぶちゃん注:「寫樂論」不詳。岡が書いた東洲斎写楽論か。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月十七日・田端発信・廣津和郞宛

 

冠省。けふ或男が報知新聞を持つて來て君の月評を見せてくれた。近來意氣が振はないだけに感謝した。僕自身もあの作品はそんなに惡くはないと思つてゐる。明日又鵠沼へかへる筈。この手紙は簡單だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが)書かずにゐられぬ氣で書いたものだ。頓首

    十月十七日      芥川龍之介

   廣津和郞樣

 

[やぶちゃん注:「あの作品」この一日発表の「點鬼簿」。前掲の「芥川龍之介全作品事典」の解説によれば、『徳田秋声は読後の感想を「作者が果してどれほどの芸術的興味をもつて筆を執つたものであるか疑はざるを得ない」「大いに飽き足りない作品である」』(『時事新報』[やぶちゃん注:引用本にはそのクレジットを『一九二六・一・九』とするが、この「一」は「一〇」の誤りであろう。])という悪罵に近い酷評を吐いているが(「近代日本文藝讀本」のトラブルの鬱憤が醒めない彼にして当然か)、『それに対して広瀬和郎』は『「文芸雑感」(『報知新聞』一九二六・一〇・一八~二〇)』で、『「小品の底に流れてゐる陰うつさは、芥川君のものとして珍しいもの」とし、「自分はその陰うつさに、ある感動を受けずにゐなかつた」と述べた』とある。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注では、『広津は「点鬼簿」について、「底にひそんでいる作者のさびしさはには、十分な真実が感ぜられ」、「それはわれわれと全然関係のないものではない」と好意的な批評を寄せた』とある(因みに石割氏は記事名を『文芸雑観』とされている。現物が見れないので何とも言えないが、「雑感」の方が正しいのではなかろうか?)。この手紙はその共感的好評への謝辞である。因みに、宇野浩二は「芥川龍之介」の一節(リンク先は私のブログ分割版の当該部分)で、『一と口に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。』という龍之介が生きていたら、涙を流すであろう最高の讃辞をしている。無論、私も宇野の言う通りだと感ずる。私が大学時代、この旧「芥川龍之介全集」を全巻読破した際、深夜、人知れず、涙を流したのは、何を隠そう、この「點鬼簿」だったのだ! 因みに、私が落涙したのは、「三」の龍之介の姉で夭折した「初ちやん」の話と、擱筆の「四」の二箇所であった。

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十日・田端発信・阿部章藏宛

 

冠省高著を頂き難有く存じます。大抵女性にて拜見してをりますが、小閑を得次第改めて拜見したいと思ひます。頓首

    十月二十日      芥川龍之介

   水上瀧太郞樣

 

[やぶちゃん注:「阿部章藏」は作家「水上瀧太郞」(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)の本名。彼は評論家・劇作家であると同時に、実業家でもあった。慶應義塾大学卒。在学中の明治四四(一九一一)年に永井荷風が主宰していた『三田文学』に発表した短編「山の手の子」で小説家としてスタートした。明治生命保険会社専務や大阪毎日新聞社取締役として、永く実業と文学を両立させた人物である。強い道義性と文明批評に特色がある。この大正十五年に、休刊が続いていた第二次『三田文学』復刊後は、同誌の精神的主幹とも呼ばれた。

「高著」この年に出た水上の単行本を調べてみたが、見当たらない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十二日・鵠沼発信・中根駒十郞宛

 

拜啓 校正遲れて申訣がありません 再校は見ても見なくつてもよろしいもう小說を書き上げたから見るなら今度は早く見ます都合でよろしく取計つて下さい 日記の件勿論承知それもよろしく願ひます

    十月廿二日      芥川龍之介

   中根駒十郞樣

 

[やぶちゃん注:「校正」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」(実際の発行日は十二月二十五日)の初校と思われる。この日に社へ送付したものであろう。

「小說」直近のものでは、O君の新秋」(十月十一日脱稿。リンク先は私の古い電子化)である。「梅・馬・鶯」の「小序」は十月十五日に脱稿しているので、十七日以降のそう遠くない時期に初刷のゲラが届いているはずである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十月二十九日・消印三十日・鵠沼・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十月二十九日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

冠省、きのふはじめて中央公論の散步を拜見、何かと君の心づかひを感じ、ありがたく思つてゐる。僕の頭はどうも變だ。朝起きて十分か十五分は當り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が氣がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂欝になつてしまふ。新年號をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない氣がする。ちよつと上京した次手に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の崇りもあるのだらう。この三四日碧童老人が泊りがけに來てゐる。小穴君もあひかはらず。僕は小穴君のフィアンセ(になるかどうかゴタゴタしてゐるが)に讀ませるつもりで「O君の新秋」を書いた。しかし原稿料も必要だつたから、小穴君の俳句を貰つて六枚合計三十圓にした。當分はこちらにゐるつもり。お次手の節はお立ち寄りを乞ふ。德田秋聲がまだ僕に崇つてゐるのには閉口した。以上

    十一月二十九日    芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:末尾のクレジットの「十一月」はママ。「散步」筑摩全集類聚版脚注に、佐佐木茂索の小説で『中央公論』十一月号に発表した旨の記載がある。

「精神鑑定」 俗に「精神の状態を検査すること」の意で用いられることがあるが、これは全くの誤用で、この語は元来、裁判の審理過程に於いて被告の責任能力・行為能力などの有無を判断するために、法廷から依嘱をうけた精神科医が行なう精神状態の診察・検査をのみ指すものである。

「小穴君のフィアンセ」さんざん注してきた哲学者西田幾多郎の姪の同じく哲学者であった高橋文子のこと。

「小穴君の俳句を貰つて六枚」O君の新秋」の末尾には、「O君」=小穴一游亭隆一の俳句七句が載る。この作品、最後のアスタリクスの後の部分は丁度、四百字詰原稿用紙で半枚分程となる。しばしば知られる通り、流行作家は字数ではなく、原稿用紙単位で稿料が決まった。最終原稿が有意に白紙が多いと、稿料に加算されなかったろうから、枚数を稼ぐために手抜きの裏技で原稿を増やしたというわけであった。

「德田秋聲がまだ僕に崇つてゐるのには閉口した」自身作であった「點鬼簿」への九日の徳田の痛罵が、龍之介に精神的にかなり深刻なダメージを与えていることが窺われる(このぼやきは翌月の書簡でも続いている)。但し、この「まだ僕に崇つてゐる」というのは、先に述べた「近代日本文藝讀本」の最強トラブルを受けて「まだ」と言っているのである。考えてみると、具体的に注していなかったので、ここで記しておくと、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「『近代日本文芸読本』事件」の項(関口安義氏執筆)によれば、同読本刊行後、穏やかならぬ風評が龍之介を悩ますこととなった。それは例えば、『「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説』であったり、『「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん」と不平をこぼす作家まで』生んだというのである。そして、『芥川攻撃の急先鋒は、徳田秋声であった。秋声は自然主義系の地味な作家であり、人気作家ではなかった。たまたまどういうわけか、秋声には』同読本の第五集に収録された「感傷的な事」の収録『許諾を求める手紙が届いていなかった。それ』に加えて、『同じ作家でも、日頃』、『陽の当たらない地位に甘んじなければならない不満もあって、発行所の興文社に強く抗議したのである。後年秋声はこの事件を振り返り、「あれは私にわたりがつてゐなかつたので私は抗議を申込んだ」』(『時事新報』昭和二(一九二七)年七月二十七日)『と書いている。芥川は秋声を自分の側にいる文壇人として認めていた。それだけに受けた打撃は大きかった』。龍之介の『人を見る目がやや甘かったと言われても仕方あるまい』とある。なお、金銭に細かく、しかも、潔癖であった龍之介は、最終的に、この秋声を始めとしたトラブルに対し、『興文社に借金までして』、同「讀本」に収録した百十九人の作家或いは著作権継承をした遺族全員に『〈薄謝〉を呈するという形で』、事後『処理』を施したのであった。その最たるボヤキが、先に出した大正一五(一九二六)年五月九日附の鵠沼発信の山本有三宛書簡であったのである。『あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり』。睡眠薬が日増しに増えるその一因としては、この「讀本」事件を除外することは出来ないのである。

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