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2021/09/23

譚海 卷之四 同時中山道安中驛領主再興の事

 

○信州[やぶちゃん注:「上州」の誤り。]安中驛泥土にうづみ破滅せしゆゑ、領主板倉伊勢守殿、重代の什器を沽却(こきやく)し、國中(くにうち)を再興せられぬ。その器あたひ二萬兩餘(あまり)也。その内に油屋片付(あぶらやかたつき)と云(いふ)茶入を、松平出羽守殿千五百兩にもとめられけり。此器は太闇秀吉公祕藏のものにて、東照宮へ贈り給ひしを、又板倉伊勢守殿先祖拜領ありし事にて、天下無双の名器といひ傳ふ。尾花といふ茶入も日本橋檜物町(ひものちやう)大橋忠七といふ町人六百兩にもとめたり。其外常住釜の本歌をば柳澤甲斐守殿百兩にてもとめられたり。そのよは伊勢守殿本家板倉氏へも求められたりとぞ。

[やぶちゃん注:前話との強い連関で立項されている。その「信州安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。」という部分を完全に受けているのであり、こうした構成は「譚海」の中では、思いの外、それほどには多くない。

「板倉伊勢守殿」当時の上野国安中藩主板倉勝嶢(かつとし/かつとき 享保一二(一七二七)年或いは翌年~寛政四(一七九二)年)。官位は従四位下・伊勢守・肥前守。板倉家第四代当主。初代藩主板倉勝清(当時は泉藩主)の長男として陸奥国泉にて生まれた。安永九(一七八〇)年、父の死去により、跡を継ぎ、天明三(一七八三)年九月に奏者番(大名・旗本と将軍との連絡役で、大目付・目付と並ぶ要職。譜代大名はここを振り出しにして寺社奉行を経て、若年寄・大坂城代・京都所司代或いは老中などの重職へと上った)となった。天明四(一七八四)年に長男が早世したため、弟勝意(かつおき)を世子として迎えている。

「沽却」売却。

「油屋片付」鶴田純久氏のサイト内の「油屋肩衝」(あぶらやかたつき)として現物画像と解説が載る。それによると、とんでもない名物である。私は興味がないので、抜粋して引用させて戴くと、古来より『大名物茶入中の首位として尊重されたもので、堺の町人油屋常言(浄言)』(孰れも「じょうごん」と読む)『およびその子常祐(浄祐)が所持していたのでこの名があります』。天正一五(一五八七)年の『北野大茶会の際、豊臣秀吉が常言に命じて献上させ、代わりに銭三百貫および北野茄子』(きたのなす:やはり茶入れの大名物の一つ)『を授けました』。『のちに福島正則が拝領し、さらにその子正利になって徳川幕府に献上しました』。寛永三(一六二六)年に『将軍秀忠はこれを土井利勝に与えましたが、土井家では財政困難のため』、『河村瑞軒に売り渡し、程なく』、『冬木喜平次に移りました』。『そして天明年間』(一七八一年~一七八九年)『に次第に家運の傾いてきた冬木家から』、『松平不昧の手に入りました』。『値一万両といわれたこの茶入も、飢饉で冬木家の家運が衰え』、『わずか一千五百両であったといわれます』。『不昧は天下の茶入を歴観して』、『ますますこの茶入の優秀さを知り』、『特に愛蔵しました』。『不昧所持品中』、『最高位の』『墨蹟』等『と共に一つの笈櫃中に納め』、『この笈櫃は現在もこの肩衝を納めて残っています』。『参勤交代の時は』、『士人がこれを担って不昧の前を行き、本陣到着後も』、『これが床に据えられない前には不昧もまた着座しなかった』といい、『家中の士もまた』、『これを見ることができず、家老ですら』、『一生に』、『ただ一度』、『拝覧の栄を得るだけであったといわれます』。『その秘蔵振りがこれでわかりましょう。かつて薩摩侯が』、『将軍がこれを所望したらどうするかと不昧に冗談でいいますと、将軍の命はもとより否むことができないが』、『隠岐一国ほどは貰いたいと答えたということであります』とある。また、ここに書かれた来歴を年表形式でさらに細かく書いた個人サイト「名刀幻想辞典」の「油屋肩衝」があり、そこで、ここでネックになる時制に持っていた冬木喜平次というのは『江戸の豪商』『上田宗五(冬木伯庵)のこと』とされ、『豪商冬木屋は上野出身の上田直次が興した材木問屋で、東京都江東区冬木の町名は、冬木屋三代目冬木屋弥平次が、一族の上田屋重兵衛とともに材木置場として幕府から買い取ったことに由来する』とある。しかし、冬木から買った人物は前と同じく「松平出羽守」不昧=出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年:従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人として知られ、その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる)としており、板倉勝嶢が冬木から買ったという事実はなく、ここに書かれた不昧が買った金額も「千五百兩」と同額であることから、この津村のこの茶入についての話だけは、ガセネタと考えた方がいいように思われる。

「尾花といふ茶入」不詳。

「日本橋檜物町」現在の八重洲一丁目及び日本橋二・三丁目附近の旧称で、花街としてしられた。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「大橋忠七」茶器サイトで掛かってくる。大名連中から茶道具を高価に買い求めていることが判る。

「常住釜」大徳寺常住釜と呼ばれる茶釜の名品群を言うらしい。グーグル画像検索「大徳寺常住釜」をリンクさせておく。

「本歌」「歌」? しかし、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見るに、確かに「哥」の崩し字であった。調べてみたところ、茶道の世界で、古くから名物とされている茶器や伝来の茶碗に於いては、必ず、基本の形があり、その見所(みどころ)の約束の基準のことを「本歌」(ほんか)と言うのだそうで、茶人はこの「本歌」という基準を以って道具の格付けをしてきたのだそうである。納得(福島美香氏の『茶道の「本歌と写し」とはなにか』という記事を参照した)。

「柳澤甲斐守殿」大和国郡山藩第三代藩主で郡山藩柳沢家第四代柳沢保光(宝暦三(一七五三)年~文化一四(一八一七)年)。かの柳沢吉保の曾孫。

「伊勢守殿本家板倉氏」板倉勝嶢は重形(しげかた)系板倉家で傍流。本家は重形の父板倉重宗及びその長子重郷に始まる板倉家宗家。ウィキの「板倉氏」の系図を参照されたい。]

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