芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通
[やぶちゃん注:書簡数が少ないが、今まで通り、新全集の宮坂覺氏の年譜を用いて、七月一日から自死・死亡確認・通夜・出棺・火葬までと、九月二十四日に行われた追悼会及び末尾に配された遺骨埋葬・墓石関連記事までも引いておく。
七月一日 『午後、道章の体調が優れず、下島勲が来診する。軽い脳卒中の症状があった』。
七月二日土曜日 『午後、下島勲が道章を来診するが、病状は良好』であった。
七月三日日曜日 『川口松太郎(「映画時代」記者)が来訪するか。映画論議を展開し、自作の映画化の話などをしているところに、室生犀星が来訪した』。『夜、小穴隆一、神崎清らと談笑しているところに、下島勲が来訪して加わる。午後』十一『時頃まで雑談を』する。
七月五日 『午前、下島勲が道章を来診する』。この日、『室生犀星が来訪』した『か。翌日、犀星は軽井沢に出発しており、これが最後の面会となった』。]
昭和二(一九二七)年七月八日・田端発信・金九經宛
前略、原稿用紙にて御免蒙り候。「書物禮讚」ありがたく存候。訣、譯、ともにあて字たる國に生まれたること我ながら笑止千萬に存じ候。所詮わけと假名にするに若かず。唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候。(「慢性出鱈目」の慢性も言海には慢性とあり、新聞雜誌などには蔓性とあれども、しやれて慢性といふさへしやれと聞え難き世の中に候。)高須氏の著書は拜見不仕、高評によりて大體を窺ひ申し候。右とりあへず御禮まで。頓首
七月八日 曼 靑
金 九 經 先 生
[やぶちゃん注:「金九經」一般的な本邦での読みとして「きむ きゅうけい」と読んでおく。現代韓国語では「キム クーギョン」か。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、『大谷學報』(第九十四巻第二号・二〇一五年三月十八日発行)(PDF・但し、標題・目次他のみで当該論文はない)に載る孫 知慧(Son Ji-Hye)氏の論文『忘れられた近代の知識人「金九経」に関する調査」(ネットで『忘れられた近代の知識人「金九経」』で検索を掛けると、恐らく一番上にPDFでダウン・ロード出来るリンクが現われるはずである)によれば、「金九經」(一八九九年~?)は、『近代における新出敦煌文献の校訂、初期禅宗史の研究に貢猷した学者で』あったが、一九五〇年以降に『行方不明になった』(「北朝鮮に拉致されたか」という趣旨の記載が後に載る)とされる学者である。慶州生まれで、京城第一高等普通学校を卒業後、小学校教師を務めたが、一九二一(大正一〇)年に日本の京都の真宗大谷派の大谷大学に留学し、予科から文学部支那文学科に進学、鈴本大拙・倉石武四郎に師事した。一九二三(大正一二)年一月には「在京都苦学生会」を組織して会長となり、この昭和二年三月に同学科を卒業し、同年中には朝鮮(一九一〇年八月二十九日以降は現地は日本統治時代であった)に帰国している。則ち、卒業から三ヵ月ほど後に、恐らくは金の方から何らかのアプローチがあり、本書簡での龍之介の言葉遣いの印象からは、複数回(但し、金宛書簡はこれ以外にはなく、金の書簡も存在しないようだが)の書簡の遣り取りがあったのではないかと私は推定する。帰国後は高等普通学校教師や京城帝国図書館司書官を務めたりし(一九二七年~一九二八年)、一九二八年下半期に家族を連れて北京に赴き、翌年から一九三一年までは北京大学の朝鮮語及び日本語講師となった。その同時期に、かの周作人や兄の魯迅とも交遊している。一九三〇年には敦煌写本校刊本を発行し、師の鈴木大拙や、北京大学教授であった胡適(こせき)と交わり、初期禅宗史研究と敦煌発見の「校刊本楞伽(りょうが)師資記」の刊行(一九三一年)に協力した。 他にも『満洲滞在期に金九経は、満洲の遣跡調査と歴史研究に尽力し』、「重訂満洲祭神祭天典禮」『なども残している』とあり(引用符を使用していない部分は論文内の年表に拠って私が纏めたためである)、『とりわけ、近代禅宗史学において重要な地位を占める『(敦惶本)楞伽師資記』が、千余年の時間を経て世に知られるようになったのは、金九経という若い韓国人学者を媒介とした日中韓三国学者の協力による産物といえる。金九経自ら「私の願いは日中学者の相互交通であった』『」と述懐したように、近代東アジアの学術交渉に貢献した人物という観点からも考察してみる必要がある』べき重要な人物である、と孫氏は述べておられる。是非、同論文全体に目を通されんことを、強くお薦めする。なお、本書簡もそこに引用されているが、孫氏はその書簡内容については一切触れておられない。
「書物禮讚」芥川龍之介の読書書誌を纏めた学術書誌(PDF)では、金九経の著作として載せているが、そうではない。調べたら、あった! 中身は見られないが、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌データで判った! これは雑誌名である! リンク先の詳細レコード表示を表示されたい。すると、その雑誌(杉田大学堂書店発行。一号から十一号とあり、発行は大一四(一九二五)年六月から昭和五(一九三〇)年七月までで、以降「廃刊」とある。国立国会図書館にあるのは同雑誌の合冊本らしい)記事細目の中に、金九經が投稿したものと思われる記事★「慢性出鱈目」★があった!!!
「訣、譯、ともにあて字たる」以下の龍之介の記載から、「訣」を「譯(訳)」の代用字として国字として「わけ」(「ゆえ」・「いわれ」等の軽い意味)と読む場合を指している。本来の漢字としての「訣」には「解釈する」という正統な意味はあっても、我々が今も使う「そういうわけ」といった「わけ」という軽い意味は全くないからである。
「唯訣字を用ひたるの校正者の誤りならざることを御承知下さらば幸甚に存候」金九經が龍之介のどの作品を指摘したのかは、確定は不可能だが、例えば、この直近の異色作で、金のような日本語に自在で、深い学識を持った人物が読んだものとなら、「玄鶴山房」かも知れない。リンク先の私のページで検索をかけて貰うと判るが、本文内で七ヶ所も使用されてある。但し、他にも龍之介は「訣(わけ)」をよく用いており、それ以前の「河童」でも十ヶ所ある(「訣別」は除く)。或いは「文藝的な、餘りに文藝的な」の可能性もある。この評論では、実に二十八ヶ所も使用されているからである。評論は或いは中国語も自在な朝鮮人である彼にとっては、小説よりも読み易かった可能性があるからである。
「慢性出鱈目」国立国会図書館デジタルコレクションの上記が見られないので内容は不明であるが、当時(そうして現代まで)の日本人が、世正規の国字でない漢字を、和語として、本来の漢字としては、あり得ない誤った使い方をしている「慢性」的な「出鱈目」の状況を述べたものであろうか。
「慢性も言海には慢性とあり」芥川龍之介! 嘘、こくな!! 俺の持ってる明治三七(一九〇四)年縮刷版(ちくま学芸文庫の覆[やぶちゃん注:ママ。]製本)にはな!(【 】は底本では長方形の囲み字)
まん-せい(名)【漫性】醫ノ語、病症ノ永引クモノ。
ってあるぜ!!! 但し、芥川龍之介は蔓(つる)みたいに漫(みだ)りにうじゃうじゃ言ってるけど、ネットを調べるに、現在は中国語も朝鮮語(漢字表記の場合)も日本語の「慢性」を同じく「慢性」と表記していることが確認出来た。
「高須氏」不詳。
以下、年譜より。
七月九日土曜日 『久保田万太郎を訪ね、『湖南の扇』を進呈し、一時間ほど話』した。
七月十日日曜日 『朝』、養母儔(とも)、『文、也寸志の三人が下島勲の楽天堂医院に行く』(まずは、道章の予後の確認であろう。但し、妻文が、直感で龍之介の精神的な異変に気づき、相談もしたものかも知れない)。『夕方、往診帰りの下島が来訪し、四人の来客と一緒に雑談をする。夜、小穴隆一、堀辰雄、下島らが来訪する。堀が帰った後、午前』二『時頃まで小穴、下島と花札を』した。
「西方の人」を脱稿。
七月十三日 『夜、小穴隆一と六百間』(花札の競技の一種の名)『をしているところに下島勲が来訪して加わる。下島は午前』零『時頃、帰宅し、小穴は泊まっ』た。
七月十四日頃『室賀文武が来訪する。来客を帰して、深夜までキリスト教について話し合』った。
七月十五日 『午後』四『時頃、下島勲が来訪する。文に動坂まで『湖南の扇』を買いに行かせ、署名して進呈した』。『電報で永見徳太郎を自宅に呼び、「河童」の原稿を与え』ている永見は作家の原稿を蒐集する癖があったので、何んとも思わずに喜んで受け取ったのだろうが、明らかな「形見分け」である)。『夜、永見、小穴隆一、沖本常吉と四人で、亀戸に遊』んだ。
七月十六日土曜日 『夜、室賀文武が来訪するが、フキが理由を付けて断る。これを後で聞いた芥川は、会いたかったと漏らした。下島勲が来訪し、帰りがけの室賀に会っている』。
七月十七日日曜日 『午後』六『時頃、文を連れて観劇に出かけ、午後』十一『時頃、帰宅。途中、文に金時計を買い与え』ている(太字は私が施した)。結婚後は、苦労ばかりかけてきた文への、最後の思いやりであったのだろう。
七月十八日 『小穴隆一の下宿を訪ね、座布団の下に五〇円を置く』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』を参照されたい)。『帰途、道章の診察を終えて小穴宅に向かっていた下島勲と会い、書斎で午前』零『時頃まで談笑』した。
七月十九日 『早朝、多加志が発熱し、下島勲が来診する。この日、鵠沼を訪れる予定だったが、中止した』。『午後、小穴隆一が来訪』した。]
昭和二(一九二七)年七月二十日 コウヂマチクウチサイワイチヨウサイワイピルデイングナイ」カイソウシヤ宛(電報)
ユク」アクタガ ハ
[やぶちゃん注:電報でドキッとするが、同日の年譜に、この翌八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事を』したのがこれである。
以下、この日の年譜。『フキと諍いを起こし、フキが泣き出したため宥めたが、気持ちはおさまらず』、龍之介は『床の間にあった花瓶を庭石に投げ付け』ている。『内田百間が来訪するが、半醒半睡の状態で、時には』、『来客の前にもかかわらず眠ったり』した。『午後』四『時頃、道章の診察を終えて二階の書斎に顔を出した下島勲を引き留め、内田を送り出した後、二人で六百間をする』。なお、一方で、『この頃、日に一回は卒倒していたのが』、『おさまっている』ともある。
七月二十一日 『睡眠薬を飲んで』、『昼寝をしていたところを』、『雑誌記者の来訪で起こされ、乾嘔して苦しむ』。『午後、内田百間と一緒に自宅を出て、宇野浩二の留守宅に見舞いの品を届ける』。『小穴隆一の下宿に立ち寄り、義足を撫でて帰った』(『小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」』参照)。『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を中し入れていた佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』(ダブりがあり、詳しくもないが、『小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」』の私の「佐多稻子」の注を参照されたい)。]
昭和二(一九二七)年七月・田端・自宅にて・葛卷義敏宛(「西方の人」原稿と共に)
この原稿の番號を打ち直し、改造社の使に渡して下さい。
龍 之 介
義 敏 樣
[やぶちゃん注:太字「番號を打ち直し」は底本では傍点「◦」。
年譜より(以下、凡て私が太字とした)。
七月二十二日 『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏約三五度)を示す猛暑』となった。『午後』三『時半頃、下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方、小穴隆一も来訪し、午前』零『時頃まで死について話をした』。『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成しないため、取止め』たとされる。
七月二十三日土曜日 『午前』九『時頃、起床』し、『口調もはっきりしており、朝食で半熟卵四つと』、『牛乳二合をとる。書斎に閉じこもって「続西方の人」を書き続けた。文と三人の息子と一緒に、談笑しながら昼食をとる。午後』一『時頃と午後』三『時頃、来客』、『それぞれ』、『一人。午後』五『時半頃、二人。この二人と夕食を共にした。午後』十『時半頃、来客は帰った。この日は、小穴隆一も下島勲も訪れていない』。『深夜、絶筆「続西方の人」を脱稿』した。
七月二四日日曜日 『午前』一『時頃、フキに、下島勲に宛てた短冊「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」を預ける』。『午前』二『時頃、書斎から階下に降り、文と三人の息子が眠る部屋で』、『床に入』った。『この時、すでに致死量のベロナール、ジャールなどを飲んでいたものと思われる』(私藪野は山崎光夫氏の「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)の説に賛同して、自殺に用いたのは劇毒の青酸カリであったと考えている)。『二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた』。『午前』六『時頃、文が異常に気付き、すぐに下島勲、小穴隆一に知らせたが、午前』七『時過ぎ、死亡が』医師下島勲によって『確認され』た。『小穴はデスマスクを描いた』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から同デスマスクを含む「二つの繪」の表紙カバーを以下に再掲しておく)。午後』九『時、親族の反対もあったが、久米正雄の説得により』、貸席「竹むら」で、「或旧友へ送る手記」が『久米から発表され、自殺が公表され』た。『この時、一八枚の原稿のうち二枚が紛失してい』たが、四日後の『二十七日に何者かの手で返送されて』きた、とあるが、これはちょっと端折り過ぎであって、公表された時は、ちゃんと全原稿があった。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の同作の項によれば、『読み上げた後、報道陣の強い要望で写真に撮るために遺書』(本作のこと)『原稿が全文』(二百字詰原稿用紙で九枚)が『貼り出されたが、回収してみると』、『二枚不足していた。公表を主張した手前、久米は大いに慌てたが、各社に回状を出すなどした結果、出棺直前の二十七日に、女文字の封書で紛失分が返送されてきて、かろうじて落着したという』とある。
七月二十五日 『午後』四『時頃、夫人や親族によって納棺され、客間に移される。夜、家族や友人などによる通夜が執り行われた』。『前日は日曜日で夕刊が休みだったため、各紙は一斉に大きく芥川の死を報じた。読者への遺言とも言うべき「或旧友へ送る手記」』『に自殺の動機として書かれた「将来に対するぼんやりした不安」は、当時の時代を言い当てた字句として社会を震憾させ、人々に大きな衝撃を与えた』とある。「或舊友へ送る手記」はこれ。
七月二十六日 『文壇関係者による通夜』となった。
七月二十七日 『午後』二『時頃、自宅から出棺。午後』三『時から』四『時少し前まで(三〇分の予定)、谷中斎楊で葬儀が執り行われ』、『導師は慈眼寺住職の篠原智光師』であった。『泉鏡花(先輩総代)、菊池寛(友人総代)、小島政二郎(後輩代表)、里見弾(文芸家協会代表)によって弔辞が読み上げられ』、『文壇関係者百数十名を含め、千五百名余りの弔問客が参集し』、午後』四『時』半『分頃、町井の火葬場の釜に納められ』た。同じく『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』から、「当世文壇番附」の如き芥川龍之介葬儀場の配置図を再掲しておく。
翌二十八日 『午前、日暮里の火葬場で火葬。午後、家族や親戚、さらに恒藤恭ら若干の友人たちによって骨揚げがなされ』ている。
七月三十日土曜日 『初七日』。
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九月二十四日土曜日 『午後』三『時』「竹むら」で『追悼会が行われ、久米正雄、菊池寛ら三十数名が列席する。その席で、改造社『現代日本文学全集』の宜伝用に撮影された、在りし日の芥川が映った活動写真が上映され』ている。YouTube のこれである。
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『遺骨は染井の慈眼寺境内に埋葬』され、『遺志により、墓石は、寸法も含め』、『愛用の座布団が形どられた』。『墓碑銘「芥川龍之介墓」は、小穴隆一の筆によるもの』であったが、十『月下旬の時点でも、宇体候補は決まっていな』かったとある。私は大学卒業の三月、墓参し、墓を洗った。
なお、これで「芥川龍之介書簡抄」を終るつもりは――ない――また――必要となら――幾らでも晒す。芥川龍之介よ、勘弁して呉れよ…………]
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